遺伝資源・伝統的知識に関連する 知的財産権の保護 …論 文 特許研究...

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特許研究 PATENT STUDIES No.55 20133 5 1.はじめに 資源国(特に発展途上国)への遺伝資源や伝統 的知識へのアクセスが不当であるとして,かかる 遺伝資源や伝統的知識を利用した知的財産権(主 に特許及び商標)が,資源国の利害関係者により, 時にバイオパイラシーとして非難され,異議申立 てや無効審判等の法的措置を取られることがある。 ウェブサイト上で見つかる遺伝資源及び伝統的知 識の無許可アクセスや横領に対するクレームが付 いた事例の最も体系的な情報は,CBD の第 4 ABS 作業部会で 国際保護連合(カナダ)により 2005 年に提出された報告書 1 である。この報告書 に挙げられた法的措置(例えば出願取下げ,特許 取消,無効審判請求等)が取られた事例のうちこ れまで報告がなかった Nap Hal 事件(欧州で異議 申立てにより 2004 年特許取消決定)及び Enola bean 事件(米国で CAFC により 2009 年特許無効 の判決)と,他に多国籍企業の最近の事例を紹介 する。 2.Nap Hal事件 (1)概要 インドのチャパティの原料となる,インドの農 民により育成されてきたインドの伝統的小麦品種 である Nap Hal を用いて製造した新規な小麦につ いて特許出願人米国 Monsanto 社が欧州特許を取 得したところ,異議申立てが提起され,欧州で特 許が取消になったケースである。 遺伝資源・伝統的知識に関連する 知的財産権の保護に関する現状と課題 Current Status and Challenges of Protection of Intellectual Properties pertaining to Genetic Resources or Traditional Knowledge Miho IKEGAMI 抄録 生物多様性条約(CBD)における遺伝資源又は伝統的知識へのアクセスと利益配分との関係で, 資源国の遺伝資源や伝統的知識を利用した知的財産権(主に特許及び商標)が,時にバイオパイラシー として資源国の団体からの標的となることがある。本論文では,過去に話題となった有名な2つの特許の 異議及び無効事件を紹介すると共に,多国籍企業の最近の事例を紹介し,資源国側の事情を踏まえた上 で今後の知的財産権をより適切に保護するための対策を提案する。 特許業務法人三枝国際特許事務所 弁理士 Patent Attorney, Saegusa & Partners

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特許研究 PATENT STUDIES No.55 2013/3 5

1.はじめに 資源国(特に発展途上国)への遺伝資源や伝統

的知識へのアクセスが不当であるとして,かかる遺伝資源や伝統的知識を利用した知的財産権(主に特許及び商標)が,資源国の利害関係者により,時にバイオパイラシーとして非難され,異議申立てや無効審判等の法的措置を取られることがある。ウェブサイト上で見つかる遺伝資源及び伝統的知識の無許可アクセスや横領に対するクレームが付いた事例の最も体系的な情報は,CBD の第 4 回ABS 作業部会で 国際保護連合(カナダ)により2005 年に提出された報告書1である。この報告書に挙げられた法的措置(例えば出願取下げ,特許取消,無効審判請求等)が取られた事例のうちこれまで報告がなかった Nap Hal 事件(欧州で異議申立てにより 2004 年特許取消決定)及び Enola

bean 事件(米国で CAFC により 2009 年特許無効の判決)と,他に多国籍企業の最近の事例を紹介する。

2.Nap Hal事件 (1)概要 インドのチャパティの原料となる,インドの農民により育成されてきたインドの伝統的小麦品種である Nap Hal を用いて製造した新規な小麦について特許出願人米国 Monsanto 社が欧州特許を取得したところ,異議申立てが提起され,欧州で特許が取消になったケースである。

遺伝資源・伝統的知識に関連する 知的財産権の保護に関する現状と課題

Current Status and Challenges of Protection of Intellectual Properties

pertaining to Genetic Resources or Traditional Knowledge

池 上 美 穂* Miho IKEGAMI

抄録 生物多様性条約(CBD)における遺伝資源又は伝統的知識へのアクセスと利益配分との関係で,資源国の遺伝資源や伝統的知識を利用した知的財産権(主に特許及び商標)が,時にバイオパイラシーとして資源国の団体からの標的となることがある。本論文では,過去に話題となった有名な2つの特許の異議及び無効事件を紹介すると共に,多国籍企業の最近の事例を紹介し,資源国側の事情を踏まえた上で今後の知的財産権をより適切に保護するための対策を提案する。

* 特許業務法人三枝国際特許事務所 弁理士

Patent Attorney, Saegusa & Partners

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(2)事件番号 欧州特許第 0445929 号

特許権者 Monsanto Technology LLC(出願時はUnilever PLC 及び Unilever NV)

特許クレーム数 全 15 項

「請求項 1 11%のタンパク質に換算して 30ml

以下の SDS 沈殿体積を有する,HMW グルテニンサブユニットが減少された軟質小麦。」 他 請求項 2-15

(3)発明の特徴 パン小麦の穀粒を製粉し水と混ぜると,固有の粘弾性を有する生地(ドウ)が生成されるが,この粘弾性は 2 つの相対する力である伸展性(extensibility)と弾性(elasticity)のバランスで決まり,弾性/伸展性比は,発酵させるタイプのパン,麺,チャパティのような平たいパン,ウエハースやビスケットの順に高~低となる。粘弾性は,小麦のグルテン含量の約 6-10%を構成するにすぎないグルテニンの高分子量(HMW)サブユニッ

トが生地に弾性及び混合安定性を与える重要な要素であると一般に理解されている。小麦は通常,Glu-A1,Glu-B1,Glu-D1 の x,y 遺伝子座によりコードされる 6 つの異なる HMW グルテニンサブユニットを持つ。

本願発明の小麦は特に,図 1 に示されるように,従来の通常の軟質小麦である Galahad と,インドの伝統的小麦品種である Nap Hal と Sicco とを交配させて生じた Sicco 系統とを交配し,子世代,孫世代を Galahad と戻し交配し,その結果得られた小麦のうち Glu-D1 の x,y 遺伝子座によりコードされるサブユニット 2,12 を欠いた Galahad-7

という品種である。この Galahad-7 は 6 つの異なる HMW グルテニンサブユニットのうちサブユニット 7をコードするGlu-B1の x遺伝子座しか有しておらず,軟質小麦でありながら HMW グルテニンサブユニットが減少しているため,弾性が低く,伸展性が非常に高く,ビスケットやウエハース等の製造に適した特徴を有する。

本発明の小麦の品種の育種方法Galahad

Galahad

Sicco系統

F2のうちサブユニット2,12のうちバンドが薄いもの

Galahad

F1

F2のうちサブユニット2,12のうちバンドが薄いもの

Galahad 7

通常の軟質小麦

交配

戻し交配

戻し交配

自家受粉・・・本願発明の小麦品種

Nap Hal ×Siccoより作製サブユニット2,7,12を有する サブユニット2,12が欠損

サブユニット2,12が欠損,サブユニット7しかない。

図 1:Nap Hal 事件(欧州特許第 0445929 号)の発明に係る小麦の説明図

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本願発明の小麦は従来の育種方法により得られた品種であり,バイオテクノロジー技術は使われていない。

(4)特許登録から取消しまでの経過

本件特許は 5 人の異議申立人により異議申立を請求され,反論せずに,取消し決定が確定した。

1991 年 2 月 18 日 出願

2003 年 5 月 21 日 登録

2004 年 1 月~2 月 第 1~5 の 5 人の異議申立て 申立人は環境保護団体(Greenpeace),フランス及び欧州の利害関係団体,特許制度に反対する個人活動家,及びドイツ企業

2004 年 3 月 29 日 EPO から特許権者へ通知,上記5つの異議申立てがあったので4ヶ月以内(後に 2 ヶ月延長認める)に被請求人に意見書を提出するよう通知

2004 年 8 月 16 日 MONSANTO TECHNOL-

OGY LLC から RAGT2N へ権利移転

2004年 9月 6日 新特許権者RAGT2NがEPO

に,特許取消しを認めるレターを提出

2004 年 9 月 22 日 EPO から 5 人の異議申立人に新特許権者のレターを送付

2004 年 9 月 23 日 取消し決定

2005 年 3 月 2 日 特許取消

(5)異議申立の請求理由 EPO への異議申立の請求理由は,EPO 第 100 条

の規定により限定列挙された理由に限られており,第 1 の異義申立人である環境保護団体 Greenpeace

が異義申立書の中でバイオパイラシーであるとの理由から公序良俗違反(EPC 第 53(a))を挙げていた点以外は,以下の請求理由が挙げられており,論じられている内容も通常の異議申立の場合と変わらなかった。

1. 植物及び動物の品種又は植物又は動物の生産の本質的に生物学的な方法(EPC 第 53(b),第 100 条(a))

2. 実施可能要件違反(EPC 第 83 条,第 100 条(b))

3. 新規性違反(EPC 第 54 条,第 100 条(a))

4. 進歩性違反(EPC 第 56 条,第 100 条(a))

5. 新規事項追加(EPC 第 123(2),第 100 条(c))

(6)考察 まず,遺伝資源へのアクセスの問題については,

本願発明の完成に寄与した Nap Hal のサンプルは,公共の遺伝資源コレクションから自由に入手したものであり,当時の CBD のアクセスについては問題がなかったと思われる。また,本願発明の小麦は Nap Hal そのものではなく,Nap Hal からかなり離れた改良品種であり,日本の実務家にとっては発明者の創意工夫により完成された発明について,通常通りの手続で特許が付与された案件に見える案件である。

第 1 の異義申立人の Greenpeace が公序良俗違反を請求理由に挙げていたが,新特許権者が異議申立てに承服したので,各請求理由につき欧州特許庁は審理をせずに事件は終結した。私見ではあるが,本特許の内容と Greenpeace やインドとの利害関係は存在せず(あるいは証明できず),欧州特許庁の判断がインドで効力を及ぼすことはないので,公序良俗による請求は認められ難いと思われた。

本件は,遺伝資源へのアクセスは適法であり,通常の手続で特許を取得したにもかかわらず,発明の完成に使用された一材料がインドの消費者によく知られている伝統的小麦 Nap Hal であり,かつ出願人が Monsanto 社という多国籍企業の著名な種子会社であったため,インドの伝統的小麦について独占権を得ることを危惧した環境保護団体や関連業界に早くから注目され,森岡一氏の論文2

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にも記載されているように,最初の異議申立の請求時の 2004 年 1 月には Monsanto と環境保護団体の間で交渉がなされ,Monsanto はこの特許を権利行使しないと宣言している。

通常の場合,異議申立ての審理中に,特許権者が発明を減縮補正して特許維持を図ることも可能であるが,本件の場合,特許権者は反論せずに事件を収束させる方がメリットが多いと考えたものと推察された。

資源国のメジャーな遺伝資源や伝統的知識が関与する改良発明の特許を著名企業が取得しようとすると攻撃に会いやすいため,CBD-ABS 遵守や特許手続に問題なく特許が成立したとしても,企業がダメージを受けずに特許を維持することが難しいことを示した事例である。

3.Enola Bean事件 (1)概要

米国コロラド州の種子会社 Pod-Ners の社長である Larry M. Proctor が,1994 年にメキシコで乾燥豆のパックを購入して米国に持ち帰り,栽培及び収穫の後,種子の黄色に特徴がある豆につき,自身の妻の名にちなんで Enola と名付けると共に特許を取得したところ,再審査を請求され,審判を経て,控訴審の巡回連邦控訴裁判所(CAFC)で非白明性欠如の審決を支持する判決が出たケースである。

(2)事件番号 米国特許第 US5,894,079 号

特許権者 Larry M. Proctor,後に POD-NERS,

L.L.C.に譲渡

特許クレーム数 全 15 項

「請求項 1 アメリカンタイプカルチャーコレクションに受託番号 209549 で寄託された Enola

と名付けられた Phaseolus vulgaris 空豆の種子。

請求項 8 黄色の種皮を有する種子を生産するPhaseolus vulgaris の空豆種であって,前記黄色は自然光で見た場合に Munsell Book of Color で約 7.

5Y 8. 5/4 から約 7. 5Y8. 5/6 である Phaseolus

vulgaris。」他 13 項

再審査ではクレーム数が増加し,審判・CAFC

では請求項 1-15,51,52 及び 56-64 のみ審理。

(3)発明の特徴

本願発明の豆は,発明者 Proctor がメキシコから乾燥パック豆を米国に持ち帰り,選抜交配を繰り返し,種子の黄色に特徴がある豆を得たものである(図 2)。本願発明の Enola 豆は従来の育種方法により得られた選抜育種であり,バイオテクノロジー技術は使用されていない。

(4)特許無効から取消しまでの経過 1994 年 Larry M. Proctor がメキシコで乾燥豆

のパックを購入

1996 年 11 月 15 日 出願

1999 年 4 月 13 日 登録 特許付与後, Proctor

がメキシコからの黄色豆の輸入を監視

し始め,Enola 豆と同じ色のすべての豆のメキシコからの出荷を税関差止め。

2000 年 12 月 20 日 国際熱帯農業センターがUS5,894,079 の再審査請求(再審査シリアル番号90/005,892,この再審査請求は FAO が支援)。

2001 年 11 月 30日 Proctorが黄色豆の米国国内での販売も監視し,’079 特許の特許侵害としてコロラド州の 16 の豆種子会社及び農業家を提訴。メキシコの黄色豆産業に大打撃を与え,’079 特許の付与後,メキシコからの黄色豆の輸出販売額が90%超減少し,北メキシコの農業家に深刻な経済的影響を及ぼす。

2001 年 1 月 31 日 ’079 特許の誤記を訂正し請求

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項 16-58 を追加するために特許権者が再発行出願。

2001 年 6 月 13 日 米国特許庁が再発行出願と再審査の手続を合併する決定を下す。

2003 年 12 月 2 日 再審査の Non-final 拒絶

2005 年 4 月 12 日 再審査の Final 拒絶

2005 年 10 月 14 日 Proctor が継続審査請求(RCE)提出

2005 年 12 月 21 日 Final 拒絶

2006 年 10 月 23 日 審判理由書(Appeal Brief)提出

2008 年 4 月 29 日 審判インターフェアレンス部により,すべての請求項の拒絶する審査官の決定を維持。(審判番号 Appeal 2007-3938)

2009 年 7 月 10 日 CAFC が審決を維持。上訴なく,事件は終結。

(5)請求理由 A.審判(Appeal 2007-3938)

審判では(i)35 U.S.C.§112 第 1 段落(記載要件及び実施可能要件),(ii)35 U.S.C.§112 第 2

段落(出願人が自己の発明と考える主題及び特定的に指示され且つ明確に主張されたクレームであることの要件),及び(iii)35 U.S.C. §102(b)(新規性),103(a)(非自明性)の 3 つの理由が挙げられ,新規性及び非自明性を否定する証拠物件として,以下の出願日前の(1)-(10)の文献と,出願日後の文献(11)が挙げられた。

(1)-(6)CIAT Phaseolus vulgaris カタログ(1992)中の 6 つの CIAT 受託番号で寄託された菌株。

(7)Kaplan,(8)Hernandez-Xolocotz,(9)Voysest,(10)Azufrado Peruano 87

(11)Pallotini(Pallottini et al. “PLANT GENETIC

RESOURCES: The Genetic Anatomy of a Patented

Yellow Bean,”Crop Science, Vol.44, pp. 968-977,

2004)

そして,クレーム 1-15,51,52 及び 56-64 の引例(10)の Salinas et al.(Azufrado Peruano 87)による 102(b)条/103(a)条拒絶について,引例(10)に’079 特許の Enola と同様の豆の一次形質が記載されており,’079 特許の有効出願日後に

本発明のEnola beans育種方法メキシコで購入した種々の色のパック入り豆のうち,黄色い豆を選択。

区別できる植物集団のうち,葉が小さく,枝への鞘の接着性がよく,鞘破砕に対する抵抗性が高い植物を選抜し,種子を収穫。

藩種,自家受粉

・・・本願発明の小麦品種 “Enola bean”

特に種子の黄色に特徴。 他,実施例にいくつかの特性が記載されている。

枝への鞘の接着性がよく,鞘破砕に対する抵抗性が高く,収率が平均より高い植物を選抜し,種子を収穫。

藩種,自家受粉

藩種,自家受粉枝への鞘の接着性がよく,鞘破砕に対する抵抗性が高く,収率が平均より高い植物を選抜し,種子を収穫。

ATCCに種子を寄託

図 2:Enola bean 事件(米国特許第 5,894,079 号)の発明に係る豆の説明図

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Pallottini により公表された文献(11)によると,AFLP(増幅型断片長多型)研究により,Enola のDNA フィンガープリントが Peruano 群のメキシコ黄色種子の豆と同一であり,確率的計算に基づくと Enola が公知の Azufrado Peruano 87 の栽培種の直接選抜から得られたことは確実であると結論付けられるところ,上訴人においてこの審査官のprima facie case に反証するに足る十分な証拠が提供されていないとして,審決は 103(a)条拒絶を維持した。

B.CAFC判決(In re POD-NERS, L.L.C., 2008-1492) CAFC では,審決中の 102(b)条/103(a)条

の争点のみ判示し,文献(11)の Pallotti の Enola

のDNAフィンガープリントがPeruano群のメキシコ黄色種子の豆と同一であるという記載に基づくと,引例(10)の Salinas et al.(Azufrado Peruano 87)から本願発明は先行するとまでいえないとしても自明であるとして審決を維持した。

(6)考察 本事件は,そもそも資源国の遺伝資源や伝統的

知識が特許になるのかということでメキシコや米国の農業関係者の間で話題となり,CBD 遵守の点や,USPTO の審査の妥当性について非常に大きな論争を呼んだ事件である。

本件では,特許権者 Proctor が資源国関係者に積極的に権利行使をしており,本願発明の完成にメキシコの豆が関与しているにも係わらずメキシコの農業家や企業が経済的な打撃を受けており,これを阻止したい資源国側の関係者が協力して再審査を請求したというものである。

特許手続の観点からは,Nap Hal 事例の場合と同様,審決や CAFC 判決の内容が特に通常の書面と異なるということはなく,限定列挙されている

請求の理由に基づいて淡々と各クレームの特許性を争っている内容であり,最終的には,公知のメキシコの栽培種 Azufrado Peruano 87 と同一又は実質同一であるというDNA鑑定の文献が提出され,自明であるとしてクレームが無効となり,再審査請求から 10 年の歳月を経て事件は終結した。本件は元々誤った権利付与だったと言え,現在は分子学的・遺伝学的解析データが明細書に記載されているケースが多くなっているので,Enola bean 事件に類似の事件が今後出てくる可能性は低そうである。

4.多国籍企業の最近の事例 ここ数年,異議申し立てや無効審判により,成

立した特許権や商標権が消滅させられる目立った事例は報告されていないが,一方で,資源国のNGO 等の団体が,特定の欧米の大学や多国籍企業の知的財産権を定期的に監視し続けている。遺伝子組換え種子や作物の製造・販売で資源国の経済に直接影響を及ぼしている多国籍メジャーのリスクが,日本の企業にそのまま当てはまるわけではないが,いくつかの事例を紹介する。

遺伝子組換え種子や組み換え作物の製造・販売を業務とする多国籍種子企業は,Greenpiece 等の種子の独占化に反対する団体の標的となっている。例えば Monsanto 社(米国), DuPont 社(米国),及び Syngenta 社(スイス)は世界の三大種子会社であり,この三者のみで世界の種子市場の 53%を占めている3。これらの多国籍企業により製造された組み換え種子や作物が資源国で栽培されることにより,多国籍企業による種子の独占,農場の遺伝子汚染等の問題が生じ,資源国関係者の利害に直接関わってくるため,実際に訴訟も起きており,多国籍企業と種子への独占権付与に反対する資源国の団体との間には深い対立構造が存在する。

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(1)Monsanto社の例 Monsanto 社の EP1651777 B は,2003 年に国際

出願され 2008 年に欧州で許可された,豚肉の生産量を上げるためのレプチン受容体遺伝子のコード領域の一塩基多形を使用した豚の育種方法に関する特許であるが,同年に 18 件の異議申立てを請求された。Monsanto 社は,本件特許を取扱っていた子会社を 2007年に Newsham Genetics LCに売却し,Newsham Genetics LC が異議申し立てに承服し,本件特許は 2010 年 9 月 3 日に取り消された。子会社売却後,モンサントは豚の育種事業に関与していない。

また Monsanto 社は数多くの訴訟の被告となるだけでなく,自社の特許権侵害および技術契約違反に基づき原告として米国の農家や企業に対して訴訟を提起してもいる。Monsanto 社は,除草剤抵抗性植物を作成するためのカリフラワーモザイクウイルス(CaMV)35S プロモータ,二重 CaMV 35S

エンハンサー及び/又はそれらを含む DNA 構築物を発明とする 4 つの米国特許第 5,164,316 号,第 5,196,525 号,第 5,322,938 号及び第 5,352,605

号に基づき,米国の農家に特許侵害訴訟を提起していたところ,特許制度からの公衆の利益を保護する米国の非営利組織 Public Patent Foundation

4から再審査を請求され,一部のクレームが減縮された(拒絶理由は新規性 102(b)及び非自明性 103

(a))。なお Public Patent Foundation は,2011 年には 30 万人の有機農業家等を代表する 83 の原告を代表して5, 6,Monsanto 社の 23 の遺伝子組み換え種子に関する特許の有効性に異議を申し立てる申立もマンハッタンの地裁に請求してもいる(請求棄却)。

(2)Dupont社の例 少し古い事例であるが,オレイン酸含量を増大

させたトウモロコシ穀粒に関する同社の特許

EP07448887は,2000 年 7 月 20 日に許可され,種

子の全重量に対する総オイル含量の割合と総オイル含量に対するオレイン酸含量の割合というパラメータで特定されたクレームが成立していたが,これによりトウモロコシの種に関係なく,かつ遺伝子組み換え技術によるか否かに関わらずトウモロコシ穀粒に関する権利が広く独占されるとの懸念で,翌年 2001 年 5 月にはメキシコ合衆国,Greenpeace,及びドイツの宗教福祉団体 Misereor

により異議申立てが提起され,口頭審理を経て,2003年 7月には欧州特許庁から取消し決定が通知された(理由は全請求項 19 中,請求項 1-15 が進歩性違反(EPC 第 56 条),請求項 16-19 が植物の生産の本質的に生物学的な方法(EPC 第 53(b))。請求項 1-14,6-19 が実施可能要件違反(EPC 第 100

条(b))。)

(3)Syngenta社の例 途上国におけるビタミンA欠乏を克服するため

に,アジア種のイネである Oryza sativa をビタミンA前駆体であるベータカロチンを生産するように遺伝子組み換えしたGolden riceを生産し普及させる Golden Rice Project が,スイスの連邦研究所の開発の下,ロックフェラー財団の支援により2000 年代初めから進められているが8,この組換えイネに関する特許を多数取得した9として途上国の団体から非難されている。Syngenta は途上国の団体に対する対策もあるのか,自社ウェブサイトに Golden Rice には商業的関心はないこと,他にも自社特許を後発発展途上国に行使しないこと等を明記している。10

5.最近の傾向とその理由の分析 上記の特定の多国籍企業の例を除き,成立した

権利が異議申し立てや無効審判により取消し又は

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無効となる最近の事例は減っている。その理由として,①費用と期間がかかる公的手続で権利を取消・無効にするよりも,特許権者を直接攻撃・交渉して出願を取り下げさせるか特許権者に権利を行使させないようにしている,②以前よりも出願人に CBD-ABS と知的財産の関係が周知され出願人が事前にうまく対応できるようになった,③先行技術調査が充実し,誤って特許や商標に登録される例が減っている,ということが推測される。

①は,WIPO の ABS 事例コンテンツでも紹介されているが,無効審決を勝ち取るまでに時間も費用もかかることから,特許権者に直接コンタクトを取って,特許権の行使を阻止したり,企業活動を妨害したりするというものである。例えば米国の場合,無効審判を請求したり CAFC に提訴すれば,代理人費用だけでも数万~数百万ドルは簡単にいくであろうが,このような費用は規模の小さい資源国の団体にはとても負担できる額ではない。また事件の決着がつくまで数年はかかる。それよりも現在は通信技術の発達により特許権者に直接的かつ迅速にコンタクトをとることができる時代であるので,複雑かつ時間も費用もかかる審判や訴訟に寄らなくても,特許権者の企業活動にダメージを与える方が得策であるのかもしれない。

②は,出願人が以前よりもうまく実務的に対応することで,表面化する事例が減少していると考えられることである。これには,資源国関係者と円満に契約を結び出願・権利化する対応だけでなく,風評被害等のリスクが懸念される場合には出願取下げする,権利を行使しないことを約束する等,リスクを未然に防ぐ対応も含まれる。

③は,例えば 2001 年にインドにより設立された伝統的知識デジタル図書館(Traditional Knowledge

Digital Library,TKDL11)の例がある。TKDL は

Ayurveda,Unani,Siddha 等のインドの代表的伝統

的知識のデータを蓄積しており,伝統的知識データベースとしては最も有名なものであるが,2010

年には EPO,UKPTO,USPTO 等の特許庁が調査及び審査目的で審査官に TKDLへアクセスさせて伝統的知識をバイオパイラシーから保護する契約に署名し12,JPO も 2011 年に署名した。今後も,各国の遺伝資源や伝統的知識データベースが各国特許庁での先行技術調査資料として使用されれば新規性や進歩性の看破による誤った特許付与は抑制されるだろう。

6.今後の特許実務上の留意点及び提案 Nap Hal 事件も Enola bean 事件も,公知の作物

を元に改良品を作製して特許を受けたごく普通の内容であり,異議申立てや再審査の内容もバイオパイラシーとして話題になったからといって特別な内容ではなく,限定列挙の請求の理由により通常通り審理されていることも分った。

バイオパイラシーの事例で特許の実務家が注意しなければいけないことは,①発明完成に寄与する遺伝資源が日本以外の資源国のものである場合に,その入手ルートが適法であるかどうか,及び②入手が適法であり,かつ出願が特許要件を満たしたとしても,顧客が資源国の第三者からの攻撃を受けず済むかどうかを予測できるか,という 2

点ではないかと思う。

①については,各国 ABS 法は年々整備されているため,遺伝資源の使用の態様に応じ資源国の法律を正確に調べ,PIC-MAT を遵守しているかユーザは出願人は確認し, 秘密保持契約を含めた ABS

の契約を締結するよう注意する。出願時の実施可能要件にも留意する必要がある。②については,資源国の主要な遺伝資源に基づくと CBD-ABS の文脈で議論の的になりやすいため,遺伝資源の入手や特許手続に問題はなかったとしても,特許を

Page 9: 遺伝資源・伝統的知識に関連する 知的財産権の保護 …論 文 特許研究 PATENT STUDIES No.55 2013/3 5 1.はじめに 資源国(特に発展途上国)への遺伝資源や伝統

論 文

特許研究 PATENT STUDIES No.55 2013/3 13

取得することにより第三者から被る否定的影響(風評被害等の攻撃)を予測した上で,対策を立てること,例えば(i)資源国関係者によく知られている名前(例 Nap Hal)を明細書に記載しない,(ii)資源国関係者に報復に出られるような過度な権利行使をしない(例えば個人農業者には権利行使をしないか又は低額ライセンス交渉をする等),(iii)資源国関係者との円満取引,ABS 遵守を対外的にPRする,等が必要であると思われる。

7.おわりに 以上より,バイオパイラシーとして,特許庁や

裁判所での公式な手続で「従来の」限定列挙された請求理由により特許や商標が取消し・無効にされる目立った事例は今後も少ない傾向にあると言える。

ただし,これは特許や商標が取消し・無効にされることが今後も少ないままという意味ではない。今は落ち着いている状況であるが,今後,資源国の各国が ABS 法や特許出願時の出所開示要件の関連法規をますます整備するにつれ,今は出所開示に関する判例はないものの13,例えば中国専利法第 5 条,インド特許法 25 条,第 64 条,ブラジル国家産業財産庁(INPI)の第 50 条等の「新たに規定された」請求理由により特許や商標が取消し・無効にされる例が出てくる可能性はあり14,引き続き各国が ABS 法や特許出願時の出所開示要件の関連法規の改正に注視する必要があることは勿論である。

今後も,特許・商標等の知的財産権を,各国の法律を遵守すると同時に,いかに資源国関係者に理解される形で権利を維持するかの対策に出願人は注意を払わなければならないと思われ,この点は,CBD と知的財産の両方が拘わる事例の本質的問題として今後も議論がなされるであろう。興味

深い話題があればまた報告させて頂きたく思う。

注) 1

http://www.cbd.int/doc/meetings/abs/abswg-04/information/

abswg-04-inf-06-en.doc(最終訪問日:2012年11月28日) 2

森岡一「薬用植物特許紛争にみる伝統的知識と公共の利益について」,『特許研究』No.40(2005年9月)36~4

7頁 3

http://www.etcgroup.org/sites/www.etcgroup.org/files/publi

cation/pdf_file/ETC_wwctge_4web_Dec2011.pdf, page 28

(最終訪問日:2012年11月28日) 4

http://www.pubpat.org/(最終訪問日:2012年11月28日) 5

http://www.pubpat.org/monsanto-seed-patents.htm(最終訪問日:2012年11月28日)

6

http://www.nationofchange.org/300000-organic-farmers-sue

-monsanto-federal-court-decision-march-31st-go-trial-13290

59467/(最終訪問日:2012年11月28日) 7

https://register.epo.org/espacenet/application?number=EP95

913485(最終訪問日:2012年11月28日) 8

http://www.goldenrice.org/(最終訪問日:2012年11月28日) 9

例えばhttp://www.econexus.info/sites/econexus/files/ENx-

Golden-Rice-HC-2003.pdf, http://www.iphandbook.org/han

dbook/case_studies/cs03/, http://www.laleva.org/eng/2004/

03/gm_patents_and_bio_piracy_rice_is_now_oryza_syngent

a.html(最終訪問日:2012年11月28日) 10

http://www.syngenta.com/global/corporate/en/news-center/P

ages/what-syngenta-thinks-about-full.aspx(最終訪問日:20

12年11月28日) 11

http://www.tkdl.res.in/tkdl/langdefault/common/Home.asp?

GL=Eng(最終訪問日:2012年11月29日) 12

http://pib.nic.in/newsite/erelease.aspx?relid=71713sign(最終訪問日:2012年11月29日)

13

池上美穂ほか「世界の特許出願時の遺伝資源の出所開示に関する法律についての運用の調査報告書」,『パテント』No.64(2011年9月)30~38頁(最終訪問日:2012

年11月29日)

14

http://www.iipta.com/ipr/blog/avesthagen-patent-revoked-1

005(最終訪問日:2012 年 12 月 3 日)最近のインドの事例で,インド政府が,「公共にとって有害である」という理由から,インド特許法第 66 条(公共の利益のためにする特許の取消)の適用により,2012 年 4 月にインド特許庁で許可された jarum,lavanpatti および chandan

からなる糖尿病治療組成物に関する欧州及びインド共同出資の Avesthagen 社の特許が取り消されるという例が報告されている(出願番号 1076/CHE/2007)。jarum

等はインドの伝統的医療であるAyurveda等に不可欠な在来種の植物である。