飛騨屋久兵衛物語(北海道林業の創成期) - CANPAN1...
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飛騨屋久兵衛物語(北海道林業の創成期)
本稿は、歴史研究家であった地蔵慶護氏(故人。北海道森林管理局出身)が、千歳民報に「北の造材師 飛
騨屋久兵衛」と題して 21 回にわたって連載した記事から要約し、若干の注釈等加えてまとめたものである。
北海道(蝦夷地)において、本格的な林業活動を始めたのは武川久兵衛倍行(まさゆき)とされる。それは、今から 300 年
以上まえの江戸時代、時の江戸幕府将軍徳川綱吉の時代にさかのぼる。
久兵衛倍行は、屋号を出身の飛騨屋国の飛騨と久兵衛倍行の久兵衛を合わせ「飛騨屋久兵衛」とした。名前と屋号が
紛らわしいので、以下、屋号でいう場合は、簡略化して「飛騨屋」として表現して叙述する。
武川久兵衛倍行は、飛騨国益田郡湯の島村(現在の岐阜県益田郡下呂町)の出自である。倍行は、飛騨でヒノキを伐
採し、木材問屋を営んでいたが、元禄 9 年(1696 年)、23 歳のとき、江戸幕府が飛騨を直轄領にし、ヒノキの出荷を厳しく制
限したため、木材業が成り立たなくなり、江戸に出た。江戸で深川の木材商・楢原屋角兵衛に接触するなどして、木材業のノ
ウハウについて研究し、元禄 13 年(1700 年)、北上して、南部藩領である下北半島の大畑で木材商飛騨屋久兵衛(組)を
開業したと云われている。近辺の大畑山、南部山などからアスナロの伐採を請け負い、大畑川などに流送、大畑湊から船積
みして、江戸や北陸方面に輸送する営業を行ったとされる。
「飛騨屋」は大畑で事業を開始して、2年後の元禄 15 年(1702 年)、松前藩に伐採願いを申し出、許可を得て、松前福
山に支店を設け、北海道(蝦夷地)で造材業を開始する。
松前藩は、山を開き、大規模に伐採を許可したのは延宝 6 年(1678)、江差の檜山である。檜山とは、上国天川から厚沢
部川に至る流域に繁茂しているアスナロ林のことである。藩は、檜山を留山とし、一般人が伐採することを禁止、山師と呼ばれ
る特定の造材業者から運上金(税金)をとって伐採させ、材木を輸出、財源に充てていた。この背景には、松前藩の財源は
アイヌとの交易と砂金採取、鷹の捕獲であったが、砂金の採取は寛文(1669 年)の蝦夷シャクシャインの蜂起(注)以来、廃
絶となり、新しい財源として木材資源に求めていたことにある。
福山に拠点を構えた飛騨屋久兵衛(組)は、当時エゾヒノキと呼ばれていた蝦夷松(地蔵氏の注釈はないが、現在の樹
種区分、エゾマツとアカエゾマツの両樹種を併せてエゾマツ(蝦夷松)と称していたものと思われる)の資源に着目し、藩の許
可を得て、1702~1711 年頃まで約 10 年を費やして松前地以外の蝦夷地の森林調査を行った。その調査は後でもふれる
が、全道各地に及んでいる。その調査結果に基づき「飛騨屋」は、初代久兵衛倍行(1702~1728)、2代目久兵衛倍正
(1728~1742)、3代目久兵衛倍安 1742~1781)、4代目久兵衛益郷(1781~1827)と 4 代にわたって、造材事業を展
開していった。
「飛騨屋」が、いつからいつまでどこでどのようにして伐木事業を行ったかの詳細な記録はないが、飛騨屋研究会が史料に
基づいて作成した「飛騨屋松前蝦夷関係地図」があり(図 1 参照)、ある程度、飛騨屋久兵衛(組)の足跡がわかる。なお、
この図面の凡例に・・・文化元(1804)に関所を設く・・・とあり、少なくとも 1804 年以降にも飛騨屋久兵衛(組)が各地で活動
したことを示している。
注1 シャクシャインの蜂起
シャクシャインとは、シベチャリ(現在の新日高町)以南の日高地方以南及びそれ以東のアイヌ集団メナシクルの首長の名であ
る。メナシクルは、1648 年頃から、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域
の領分をめぐって対立していた。メナシクルの先代の首長カモクタインは、1653 年、シュムクルとの抗争により、殺害され、副首長
であったサンシャインが首長となった。サンシャインは、松前藩の仲介によってシュムクルと一旦、講和するが、その後、対立が再
燃、1668 年、今度は、サンシャインがシブチャリ(静内)の北西ハエ(門別地区)を本拠としていたシュムクルの首長オニビシを殺害
する。報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、使者は松前藩に
毒殺されたという風説が広がった。以前からアイヌは和人から不当な交易、砂金採掘の圧迫を受けており、高まっていたアイヌの
和人への不満がこの件により爆発した。これは、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。
シャクシャインは、蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけ、1669 年 6月、アイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。
蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。徳川幕府は東北諸藩へ松前藩に対する
援軍を命じて実行された。戦いは 8 月上旬頃まで続いたが決着がつかず、戦いが長期化することを恐れた松前藩は、シャク
シャインに和睦を申し出た。シャクシャインは一旦これを拒否するが、結局応じることになる。しかしこの申し出は松前藩の罠であ
り、10月 23日、ピポク(現在の新冠町)の松前藩陣営まで出向いた際、和睦の酒宴の際に潜んでいた武士たちによりシャクシャイ
ンは殺害されてしまう。指導者を失った蜂起は次々に松前藩に鎮圧された。これがシャクシャインの蜂起と言われものである。
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従って、森林調査が終了して間もなく、1712 年頃(初代久兵衛倍行)から 1800 年初めの4代目久兵衛益郷の時代まで
約 90 年にわたって造材事業が行われていたことが推測できる。 図面には、各地の請負許可年が記されているが、これはこの図面が作成された時期の許可年であり、史実によれば、この
時期以前も以後も伐木事業が行われていたことが憶測されている。
図1
-各地の伐木事業地-
<勇払川、石狩川上流>
武川家の史料によると初代久兵衛倍行が石狩川上流と勇払川上流の唐檜(蝦夷松)を享保初年(1711~1716)にわ
たって請負ったとの記録があるという。勇払川は、支笏湖から太平洋側の苫小牧港に流れる川であり、上流域の森林は樽前
山麓の大森林地帯である。
又、石狩川上流は、一つは千歳川で支笏湖を源流とし、一つは漁川で漁岳を源流としている。千歳川の上流は、樽前山
麓森林とつながり大森林地帯(旧苫小牧営林署管内)を形成し、漁川流域も大森林地帯(旧恵庭営林署管内)である。
当時の森林がどのような森林を形成していたかは知ることはできない。樽前山は、これまで有史以来度々噴火を繰り返して
おり、中でも、今から 273 年前の元文 4 年(1739 年)の大噴火は大きな被害を及ぼし、樽前山麓の森林は壊滅し、樹齢 270
年以上の樹木は残っていない。これからすると「飛騨屋」が樽前山麓で 1711 年頃に伐採したエゾマツは、樽前山が大噴火
を起こす前の森林であったということになる。大噴火で壊滅した樽前山麓一帯の森林は、270 年以上の年月をかけ天然更新
で自然回復したが、昭和 29 年洞爺丸台風で再び壊滅的打撃を受ける。風害跡地復旧は、50 年後、人々の手による復旧
造林でよみがえったが、平成 16 年の大型台風 18 号により、再び大きな風倒木被害を受けることになった。
史料によれば「飛騨屋」が蝦夷地で最も早く伐木事業を手掛けた伐木地は勇払川上流域つまり樽前山麓や支笏湖周
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辺の森林と推測することが出来るようである。支笏湖周辺において、「飛騨屋」 が伐木事業したと推定される場所は、図2の
とおりであり、千歳川、漁川上流のほか、豊平川上流域、漁川支流ラルマナイ川上流にまで及んでいる。
図2 支笏湖周辺伐木図
<夕張、幾春別>
勇張山(夕張山)については、詳細な記録はないが、北大図書館北方資料室に飛騨屋の古文書を模写したと思われる
「蝦夷地勇張山伊古真別唐檜請負伐出山場所図」なるものが所蔵されており、その年代は、1711年~1720 頃の時代
のものと推測されている。「勇張山」は夕張山で「伊古真別(イコシンベツ)」は幾春別を意味している。シューパロダムがある
夕張川上流、桂沢ダムのある幾春別上流で伐木事業が行われていたことを示している。前者は旧大夕張営林署管内国有
林、後者は旧岩見沢営林署管内国有林の森林地帯である。
なお、このような奥地まで飛騨屋(組)が入ることが出来たのは、砂金採取の山師からの情報(図面)を入手し、それ
をもとに入林したのではないかと憶測されている。
<臼山(有珠山)>
飛騨屋(組)は、享保 3 年(1718)に、臼山(有珠山)の伐採許可願いを出し、翌 1719~1729 年まで 8 年間にわたっ
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て伐木を請け負った。なお、この時の出願は、「飛騨屋」 を含め、3 名の出願であったという。臼山の期限が切れた翌
年の享保 13 年(1728 年)、久兵衛倍行は 55 歳で病死する。
<申山(沙流山)>
図 1 に、伐採箇所、サル山の標示があり、史料から推測すると伐採は 1728 年以前にも行われていた場所である。この流域
は門別町の太平洋に注ぐ、沙流川流域であり、上流域は、旧新冠営林署管内の大森林地帯である。沙流川流域は、戦
前から木材運搬は流送で有名な箇所である。沙流川流域の造材事業は、初代久兵衛倍行から引き継ぎ 2 代目、久兵衛
倍正が徐々に発展させていった。
<くすり山(久寿里、釧路>
史料によると、1728 年以前にも伐採されていたと考えられている。伐採地は図1によると、釧路川上流、屈斜路湖近くにあっ
たものと推測することができる。その他の具体的な史料は今のところ見つかっていない。
<てしほ(天塩)>
史料によると、1728 年以前にも伐採されていたと考えられている。場所は、図 1 によると中川町から音威子府あたりではな
いかと推測されるが確かなことはわかっていない。旭川営林局史に「天塩川周辺において宗谷及び天塩の請負人飛騨屋
久兵衛が安永 4 年(1775 年)から寛政 5 年(1793 年)の 18 年間で 1 万石(約 1000㎥)前後の伐採が実行されたという
記事がある。
<尻別山>
尻別川は、羊蹄山、尻別岳、貫気別岳を水源としている道内で三番目の大河である。飛騨屋の古文書などによると、元
文元年(1736)年に 5 か年の伐採申請をし、翌年から伐採したとあり、予定通り伐採出来なかった年もあるが、1754 年の 18
年間にわたって伐木事業が続いた。
<悪消山(厚岸山)>
古図では、悪消山であるが、悪消しでは、名前のイメージが悪かったせいか、その後、厚岸と名を変え、現在に至っている。
図1で見ると、伐採場所は、現在の標津川上流域であったと推測されている。延喜 5 年(1748 年)に 5 か年の伐採申請をし、
許可を受け、伐採を実行したが、伐採対象木が少なく、かつ、例年にない大雪、寒波のため、病人が多く出て、杣夫が思う
ように働けず、尻別山、石狩山に引っ越しを願い、許可を受けている。厚岸山の伐採は 2 年で引き上げている。
厚岸山の伐採地は、図1にキイタップと印があり、この近くに厚岸があるので伐採現場は厚岸湾上流のベカンベウシか尾幌
川流域で、ベカンベウシ流域には、旧帯広営林局支局管内のパイロットフォレストがある。なお、標津川上流に伐採現場があ
ったかどうかは史料によって確認されていない。
<目名山>
目名山は、上ノ国目名にある。上ノ国付近は昔から豊富な森林があり、松前藩の福山城の修造には、すべて上ノ国のア
スナロが用いられている。福山に拠点を据える飛騨屋が近くの目名山の伐採許可願いを出したのは、延喜 2 年(1745)年で、
他の地域に比べてかなり後年のことである。
<その他の山>
考古学者河野広道氏は、昭和 28 年のある放送の中で、「天然記念物に指定されている野幌の山もすっかり伐ってしま
っている。・・・・先年、野幌の森林に道をつけるとき江戸時代の茶碗や皿が沢山発見された・・・これは、飛騨屋の伐木小屋
の跡と考えられる・・・・」と述べている。長沼町史によると長沼町の馬追山で飛騨屋が伐木に手をつけていたことが十分考え
られるとしている。
-人員や物資の輸送-
以上述べたそれぞれの伐採場所毎に、いつ、どのようにようにして、人員や物資を伐採現場に輸送したのだろうか。詳細な
記録は残されていないようである。簡略した石狩山伐木図という古地図が残されており、その中にシコツ潟(今の支笏湖)の付
近に「此地点舟渡シ也」の書き込みがある。これは、杣夫や食糧、伐採道具等の物資を、調達先から石狩(湊)まで海上輸
送し、石狩(湊)から、石狩川を舟でここまで運搬したものではないかと推測出来る書き込みである。
一方、当時書かれた飛騨屋の「蝦夷国私記」がある。これによると下北半島の大畑から何百人の杣夫、持子(運搬人
夫)を寄せ集め、白米を人数より多く、船に積み込み、順風を待って出港、渡島半島の内浦湾の長流川河口に船をつける。
その後、道案内としてアイヌを 5~7 人を雇い、陸路長流川に沿ってさかのぼり、喜茂別町から今の中山峠を越えて、豊平川
に沿って石狩に入ったということである。漁川流域には、もう一つのルートを通った。長流川に沿って陸路をとり、今の大滝村を
通過、美笛峠を越えて支笏湖に下り、アイヌの丸木舟で支笏湖を渡り、ポロピナイに上陸、ここから漁川上流の伐採現場に
たどり着いたという。以上のように石狩山伐採地には、大畑と石狩からの二つのルートがあったことになる。最初のころは、大畑
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ルートで、後、石狩ルートになったのかも知れないと憶測もできるが確たることは言えない。
-伐木事業-
◇造材~搬出~輸送
飛騨屋の「蝦夷国私記」によると、「蝦夷地より、伐りだす材木は、遠国のため、長木では出せないので、みな轉木(転が
せるようにした木)なり。伐採にかかる前に山の神を祭り、安全を祈願した。夏から冬にかけて造材したものは、徐々に谷近くに
集め、春 3 月、雪解け水を利用して流送した。・・・水揚げする場所に置き、江戸より大船を請負積込む・・(現代に訳す)」と
ある。造材はあらかじめ帆柱などの注文材は長材にしたが、それ以外はもっぱら寸甫材(巾や長さが決った規格の材)とした。
伐倒作業
①
流送 堤出しの準備
④
造材(寸甫材)
②
堤板を抜いて一気に流す
⑤
そり運搬
③
途中で止まった材を再び川に戻す
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(注)出典:モクネット(mokunet.or.jp › top(秋田地方の造材作業)。
-作業環境-
当時の伐木事業は、夏から春先の融雪時期に流送するまで、粗末な小屋で寝泊まりしながら約半年間のきびしい労働で
あった。北海道山林史によると「・・・・あっけしという山には、材木沢山にて、3~40 年前、大阪飛騨屋久兵衛という人、松前御
城主へ、運上銀を差し上げ、この国の山を引き受け、材木を伐出させしに、甚だ寒国にて、10 月より末は、日本より渡りし人
夫百人にして、6~70 人は寒気に閉じられて病死せしめ、・・・・・。その後、他の杣夫は、工夫して寒気をしのぐのに大根よしと
して、秋田、津軽より、大根多く取り寄せ、これを人夫に食させ、働かせしに、案のごとく寒気あたりもなし、・・・・」とある。この文
によれば、6 割以上の人が死んだようである。病死の原因は寒気あたりとなっているが今でいう悪性のインフルエンザではなかっ
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たのではないかと思われる。大根が効いたとあるので野菜不足で栄養状態が悪く、体力が弱っていたのかもしれない。今なら、
大事件である(本稿筆者の想像)。
厚岸山の伐木事業は過酷な状況にあったようであるが、その他の伐木事業地の記録はないが、栄養のある十分な食糧も
なく、医師のいない労働環境にあったことは容易に想像できる。半年もの伐木事業の中で死亡事故を含む、大小の労働災
害やその他病人も出たことと思われる。それらの記録
は残されていない。酷寒北海道での作業時の服装は
どのようなものであったのかはよくわからないが、前頁の
秋田地方の冬山事業の図のようなものであったに違い
ない。寝泊まりする山小屋生活は、食事の世話や着
衣の繕いをする賄婦もいたのではないかと考えられる。
冬山における主な食材は、白米、味噌、醤油、梅
漬け、大根や山菜の漬物、鮭や鱈の干物、日本酒な
どであったと推定される。山小屋のイメージは、右の写
真のようなものであったのであろう。
戦前の山泊小屋(留辺蘂)
-エゾマツの用途-
エゾマツ(エゾマツ、アカエゾマツ)の流送された木材は大阪、京都、江戸などに輸送された。
元文 4 年(1739)板倉源次郎著「北海随筆」の中に「蝦夷地にエゾ松という材があり、桧に類している。この材がある山は
ところどころにあり、これ又他国に類はない。飛騨屋久兵衛という山師、蝦夷地の松山を請負して、今、盛んに切出し、江戸、
大阪へ積み廻し、檜の代わりにしている。江戸で献上物の台、障子あるいは曲げ物等に用いると木目が甚だ美しいため、
人々賞玩(良さを楽しむ)した。・・・・(本稿筆者要約)」とあるという。
又、河野常吉氏は、北海道林業会報に「・・・・その材木は主に東京、大阪に輸送販売したが、常に需要供給の関係に
注意して多額(量)の伐採をしなかった。かつ、松前領内蝦夷松惣山一円の許可を得て、他人に伐採させず、後には類木と
しての椴松(トドマツ)の輸出を、予防し、エゾマツの声価の維持に努めた。これによって生産数量は多額にならなかったが相
応の利益を得て持続し、藩主へ少なからず運上金を納め、その他外藩の用金を調達したり、松前の細民を救済するなどの
貢献をした・・・・」とある。飛騨屋は経営戦略にも優れていたのである。
飛騨屋家
飛騨屋家は現在、第 14 代目で、武川久兵衛
を名乗っている。
飛騨屋家
代々の墓
(下呂市)
岐阜県下呂市