『大乗起信論義記』..., bhumi), P., No.5536 , 43, Dsi I , Yi 82a6, D., No.4035 , 42, Tshi...

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はしがき 『大乗起信論 神秘主義研究班では、研究員は「大乗起信論」について各自 分担課題を定めて研究を行なってきた。その研究を通して、『 を理解するためには、唐・法蔵の『大乗起信論義記』を精読する必 改めて痛感した。特にこれまでの研究には、ややもすると『義記」の 釈をそのまま『起信論』の思想とする傾向が見られるからである。『起 信論』を真に理解するためには、むしろ『起信論』の思想と『義記」の解 釈との異同を明確にすることが必須である。そこで、毎月研究会を開 いて「義記」の会読を続けてきた。会読し終えた部分はかなりの量にな るが、『義記』の重要な語句・術語や引用経文についていまだ調査、解 明を済ませていない事項が若干あり、全体をまとめるまでに至ってい ない。しかし、その中で最初の一部分だけは、ほぽ作業を終えたの で、いまだ充分解明できていない項目もないではないが、ここに試訳 注として公表することにした。 『大乗起信論義記』研究 研究 【億】 】【 版 】 【 龍 】【 本稿は研究者が検討しやすいように、テキスト、書き下 見開き二頁の中に納めた。右頁の上段に頭注を掲げ、中段 スト、下段にその書き下し文を、左頁に補注を割りふった。 右頁中段に掲げた漢文テキストは大正新修大蔵経所収のもの (No- 八四六、大正四四、二四0下ーニ八七中)を底本【底】として用 下の諸本と対校した。【】内は略号。 『卍続蔵経』第七一冊、新文豊出版公司、 院『大日本続蔵経」第七一套の repr.) 法蔵『大乗起信論義記』沢田文栄堂、一六九九年(元禄―二) 笠間龍跳『冠註起信論義記』森江書店、一八八九年(明治二 佐伯旭雅『冠註増補大乗起信論義記』法蔵館、一八九三年(明 治二六) 山本慨識『冠導傍註大乗起信論義記』沢田文栄堂、 主義研 (幹事)井上克人 丹治昭義 吾薗 妻田 一九八三年(蔵経書 香融 重二 一八九四 川崎幸夫 木村宣彰

Transcript of 『大乗起信論義記』..., bhumi), P., No.5536 , 43, Dsi I , Yi 82a6, D., No.4035 , 42, Tshi...

  • 『大乗起信論義記』

    神秘主義研究班では、研究員は「大乗起信論」について各自が各々の

    分担課題を定めて研究を行なってきた。その研究を通して、『起信論』

    を理解するためには、唐・法蔵の『大乗起信論義記』を精読する必要を

    改めて痛感した。特にこれまでの研究には、ややもすると『義記」の解

    釈をそのまま『起信論』の思想とする傾向が見られるからである。『起

    信論』を真に理解するためには、むしろ『起信論』の思想と『義記」の解

    釈との異同を明確にすることが必須である。そこで、毎月研究会を開

    いて「義記」の会読を続けてきた。会読し終えた部分はかなりの量にな

    るが、『義記』の重要な語句・術語や引用経文についていまだ調査、解

    明を済ませていない事項が若干あり、全体をまとめるまでに至ってい

    ない。しかし、その中で最初の一部分だけは、ほぽ作業を終えたの

    で、いまだ充分解明できていない項目もないではないが、ここに試訳

    注として公表することにした。

    『大乗起信論義記』研究

    研究

    【億】【旭】

    【版】【龍】

    【続】本稿は研究者が検討しやすいように、テキスト、書き下し文、注を

    見開き二頁の中に納めた。右頁の上段に頭注を掲げ、中段に漢文テキ

    スト、下段にその書き下し文を、左頁に補注を割りふった。

    右頁中段に掲げた漢文テキストは大正新修大蔵経所収のもの

    (No-

    八四六、大正四四、二四0下ーニ八七中)を底本【底】として用い、以

    下の諸本と対校した。【】内は略号。

    『卍続蔵経』第七一冊、新文豊出版公司、

    院『大日本続蔵経」第七一套のrepr.)

    法蔵『大乗起信論義記』沢田文栄堂、一六九九年(元禄―二)

    笠間龍跳『冠註起信論義記』森江書店、一八八九年(明治二

    二)佐伯旭雅『冠註増補大乗起信論義記』法蔵館、一八九三年(明

    治二六)

    山本慨識『冠導傍註大乗起信論義記』沢田文栄堂、

    (幹事)井上克人

    吾薗究

    妻田

    一九八三年(蔵経書

    班香融

    重二

    一八九四

  • 底本とこれら諸本における字句の異同はすべて頭注に注記した。な

    お敦煽出土の「大乗起信論義記」及び『大乗起信論義略述』は前半部を欠

    くので、今回は参照できなかった。句読点も諸本と対校して改めたと

    ころがあるが、その場合は一々の注記は省略した。ただそれら以外に

    意味内容によって改めた場合もあるので、その場合だけは頭注に記載

    した。また、主題に応じて適宜改行した。

    テキストの漢字は正字体を用いたが、書き下し文では常用漢字に

    し、現代仮名遣いを用いた。読者のために、なるべく漢字にはルビを

    振ったが、原文を忠実に書き下すことに努めたので、書き下し文中に

    は補訳を加えなかった。そのために若干の箇所では文意の解説を頭注

    ないし補注に加えた。ただし内容と構成を明確にするために、原文に

    ない見出しを加え、引用文は括弧に入れた。また最初に科文をあげ、

    頁を与え目次にかえた。

    頭注では主として語句の意味を簡単に説明したが、上記のように字

    句の異同、簡単な文意の解説をも取りあげた。頭註で取りあげた項目

    にはテキストの文字の右肩にアステリスク(*)を付して示した。

    検討を加え解説を要すると思われる事項、あるいは引用経論には、

    【聴】【大】

    【日】【宗】

    【筆】

    年(明治二七)

    宗密『大乗起信論疏』一六四二年(寛永一九)の版本

    子瑞『起信論疏筆削記』大正四四(注釈中に引用している場合

    は、同義語と思われるものを含み、明らかに省略と思われ

    る箇所もあって、必ずしも忠実な引用ではないが、参考の

    ためにそれらを注記したところもある)

    順高『起信論本疏聴集記』仏全九二

    1九三

    湛容「起信論義記教理抄』仏全九三

    DBh

    MS

    番号を付し、補註で取り扱った。引用経論は原典のそれを載せ、サン

    スクリット本やチベット訳本のあるものは、引用箇所の漢文と対比さ

    せて和訳を付した。正確に理解するために必要と思われる場合にの

    み、サンスクリット原語を付し、また時に引用経論のチベット訳の対

    応語やチベット訳から推定されるサンスクリット語を併記した。また

    引用経論や補注などで参照した書名には略称を用いた。一回しか引用

    されていない文献などにも略称を用いたのは、研究者が略称表を見る

    ことによって、法蔵が引用した経論や依拠したであろう経論の全体を

    把握するのに便利と考えたからである。

    中国関係の項目については吾妻が、仏教関係の項目については丹治

    が注の原案を作成し、研究会で検討した。しかし最終的には丹治がさ

    らに改めた項目もないではない。なお本稿の作成には、旧版『国訳一

    切経』所収の玉城康四郎氏の訳を参照させていただいた。

    また本学で法蔵の研究を行なってきた大井和也君の協力を得た。同

    君は研究会に最初から積極的に参加し、書き下し文の下訳から訂正原

    稿の入力作業や法蔵の文献の調査といった労をとってくれた。また、

    大学院生の川口輝夫君にも引用文献の調査や訂正原稿の清書を分担し

    てもらった。記して謝意を表する。

    AKBh : P.Pradhan, ed., Abhidharmako,vabhii,vya o/Vasubandhu•

    K.P. Jayaswal Re ,

    search Institute, Patna, 1967.

    :R•

    Kondo, ed••D

    ほabhumisvaro

    niima Mahiiyiinasutra,r,.

    s.lなくi,Asanga, Mahiiyiina , Sutriila,r,kiira, Expose de la Doctrine du Grand

    Vehicule selon le Systeme Yogiiciira, Tome I, repr・" Tokyo, Rinsen Book

    Co., 1983.

    引用経論・参照経論及び略称表 五

  • ~:-0 YBh

    TG

    RGV "E•

    H.Johnston, ed., Ratnagotravibhiiga Mahiiyiinottaratantrtasiiatra, Patna,

    195 0.

    : Jfpha努'pade,hshin, g.fogs ,

    pa~isiiili

    , poshes ,bya, batheg , pa chen ,

    po~imdo

    (ぶa,tath

    咽ta,garbha , niima , mahiiy息'忌ra),P., Z o.924, Shu 259b4 ,

    274a1.

    : Rna/ ,

    ~byorspyod

    ,

    pa~i

    sa (Yogaciira , bhumi), P., No.5536 , 43, Dsi I ,

    Yi

    82a6, D., No.4035 , 42, Tshi lb1 , l,fi6 00 b1

    西蔵大蔵経研究会編『影印北京版西蔵大蔵経ー大谷大学図書館蔵ー』

    東京大学文学部印度哲学印度文学研究室編『デルゲ版チベット大蔵経

    論疏部ー東京大学文学部所蔵—』

    十地経

    涅槃経

    摩耶経

    三昧経

    如来蔵経

    毘尼母経

    功徳論

    毘婆沙論

    十地経論

    仏地経論

    発智論

    大毘婆沙論

    琺伽論

    摂論

    顕揚論

    荘厳経論

    雑集論

    宝性論

    入大乗論

    大正

    NOニ八七

    大般涅槃経大正

    NO三七四

    摩詞摩耶経大正

    NO三八三

    文殊支利普超三昧経大正

    NO六二七

    大方等如来蔵経大正

    NO六六六

    大正

    NO―四六三

    分別功徳論大正

    NO一五0七

    十住毘婆沙論大正

    NO一五ニ―

    大正

    NO一五ニニ

    大正

    NO一五三〇

    阿毘達磨発智論大正

    No一五四四

    阿毘達磨大毘婆沙論大正

    No一五四五

    瑠伽師地論大正

    NO―五七九

    摂大乗論釈大正

    NO一五九五

    顕揚聖教論大正

    NO一六0ニ

    大乗荘厳経論大正

    No一六0四

    大乗阿毘達磨雑集論大正

    Na一六0六

    究党一乗宝性論大正

    No―六――

    大正

    Na一六三四

    『大乗起信論義記』研究

    肇論研究

    惹遠研究

    倶舎論の研究

    仏教語大辞典

    冠導本

    日仏統大蔵全蔵正

    大正新修大蔵経

    卍続蔵経

    大日本仏教全書

    増補改訂日本大蔵経

    起信論

    釈論

    捜玄記

    探玄記

    義記

    筆削記

    大乗義章

    大乗大義章

    肇論

    五教章

    六妙法門

    法師伝

    因縁伝

    ニ教論

    続疏

    会閲

    聴集記

    教理抄

    五一

    大乗起信論大正

    NO一六六六

    釈摩詞術論大正No一六六八

    大方広仏華厳経捜玄分斉通智方軌

    華厳経探玄記大正No―七三三

    大乗起信論義記大正

    NO一八四六

    起信論疏筆削記大正No一八四八

    大正

    No―八五一

    大正

    No一八五六

    大正

    NO一八五八

    華厳一乗教義分斉章大正

    No一八六六

    大正

    NO一九一七

    婆薮槃豆法師伝大正

    NOニ0四九

    付法蔵因縁伝大正

    NOニ0五八

    弁顕密二教論大正

    NOニ四二七

    大乗起信論続疏続蔵七二

    大乗起信論疏筆削記会閲続蔵七二

    順高『起信論本疏聴集記』仏全九二1九三

    湛容『起信論義記教理抄』仏全九三、日蔵四二

    大正

    No一七三二

    山本懺識著『冠導傍註大乗起信論義記』沢田文栄堂、

    年。塚本善隆絹『肇論研究』法蔵館、一九五五年。

    木村英一絹『慧遠研究遺文篇』創文社、一九六0年。

    桜部建著『倶舎論の研究界・根品』法蔵館、一九六九年。

    中村元著『仏教語大辞典』東京書籍、一九七五年

    一八九四

  • 本文ー十門

    『義記』の科文

    ・幸予文••………………………………………………………………………………………………………………

    •2

    一教起所因(教起の所因)ー』ー一因

    l六藉何力(何の力をか藉る)…………………………ク

    三顕教分齊

    四教所被機

    七繹論題目

    八造論時節

    九翻謁年代

    十随文解繹

    1

    一依何智(何の智にか依る)…………………………6頁

    9三云何示(云何が示す)………………………………ク

    1四以何顕(何を以てか顕らかにす)…………………ク

    9五依何本(何の本にか依る)…………………………ク

    9七為何義(何の義をか為す)…………………………ヶ

    r

    八以何縁(何の縁をか以てす)……••………………•10頁

    T九由何起(何に由りてか起こる)……………………ヶ

    1十幾何益(幾何の益かある)…………………………ク

    '上ハ天一………………………………………………………………ヶ

    一修多羅蔵……••14頁

    初約所詮三(所詮の三に約す)

    1いい:・・・

    16頁

    後約所為二(所為の二に約す)………••………………•20頁

    二諸蔵所描(諸蔵の所摂)ー

    六所詮宗趣

    T二示何法(何の法をか示す)

    8頁

    五四

  • 国訳及び注

  • 蓼廓がらんとして広々としたさま。

    笙蹄茎は魚を捕らえる道具、蹄は兎を捕

    らえる罠゜

    沖漠希夷空漢でとらえがたく(沖漠)、見

    たり聞いたりできないこと(希夷)。「沖漠、

    沖虚括漠也」(張協「七命」の句「沖漠公子」の

    李善注、「文選」巻三五)。「視之不見、名日

    夷、聴之不聞、名日希」(『老子」第一四章)。

    四相生住異滅の有為法の四相。生滅は存

    在の様相。

    三際過去世(前際)、現在世(中際)、未来

    世(後際)の三世。去来は時の様相。

    心源衆生心の本源。「以覺心源、故名究党

    幾、不覺心源、故非究覚覺」(「起信論」大正

    三二、五七六中)。

    静謡虚凝寂静で空性が不変であること。

    津津潤。湿っている状態のことで、水の

    本性をいう。

    真俗真諦と俗諦゜

    夷斉夷は平らか、斉は等しい。

    上11-

    【続】

    (唐)+京【続】

    蹄11欝【宗、筆】

    亡11忘【宗、筆】

    〔非〕【筆】

    〔無〕【筆】

    升11昇【聴】

    雖11往【大】

    水11温【宗、筆】

    津11温【宗、筆】

    則11以【宗、筆】

    同11-

    【筆】

    在11狂(オと土からなる在の誤記)【底、版、

    龍、億】

    但以如来在世。根熟易調。

    ととの

    一稟但だ如来の在世、根熟し調い易きを以て、

    静交徹0

    g

    県俗雙融。生死涅槃。夷

    齊同貫。

    滅。雖復繁興鼓躍。未始動於心

    夫慎心蓼廓。絶言象於茎蹄。沖

    漠希夷。亡境智於能所。非生非

    滅。四相之所不遷。無去無来。三

    際莫之能易。但以無住為性。随派

    分岐。逐迷悟而升沈。任因縁而起

    源。静謡虚凝。未嘗乖於業果。故

    使不髪性而縁起。染浮恒殊。不捨

    縁而即慎。凡聖致一。其猶波無異

    * 水

    之動故。即水以緋於波。水無異

    動之津故。即波以明於水。是則動

    *

    *

    京兆府魏國西寺沙門繹法蔵撰

    大乗起信論義記巻上

    京兆府・魏国西寺の沙門、釈法蔵撰す。

    大乗起信論義記

    序文

    (-)*

    夫れ真心は蓼廓として言象を茎蹄に絶し、沖漠希夷に

    して境智を能所に亡ず。生に非ず滅に非ず、四相の遷ら

    ざる所にして、去る無く来る無く、三際も之を能<易う

    る莫し。但だ無住を性と為し、派に随いて岐を分かつを

    以て、迷悟を逐いて升沈し、因縁に任りて起滅す。復た)2

    繁興鼓躍すと雖も、未だ始めより心源を動ぜず。静謡虚(

    凝なるも、未だ嘗て業果に乖かず。故に性を変えずして

    縁起すれば、染浮恒に殊なるも、縁を捨てずして即ち真

    むね

    なれば、凡聖の致一ならしむ。其れ猶お波は水に異なる

    の動無きが故に水に即きて以て波を弁じ、水は動に異

    なるの津無きが故に波に即きて以て水を明らかにする

    (三)

    がごとし。是れ則ち動静交徹し、真俗双融し、生死涅槃

    も夷斉同貫す。

    巻の上

    五六

    一たび尊言

  • (一)『起信論』では、「真心」はあらゆる妄念から離れた無分別な衆生心の法

    体(11真如)である。「所言不空者、已顕法罷空無妄故、即是慎心」(『起信

    論』大正三二、五七六中)。したがって「真心」は、妄念がないという点で

    空であり、無漏の性功徳を備えているという点で不空である。「唯一奨

    心、無所不遍、此謂如来廣大性智究党之義」(同、五八0上)、「又是菩薩

    登心相者。有三種心微細之相。云何為三。一者慎心。無分別故」(同、五

    八一中)。ちなみに「真」の概念は中国の道家系文献で多用されるが、「真

    心」の用例は『老子』及び王弼注、『荘子』及び郭象注、『列子』及び張湛注に

    なく、また『呂氏春秋』『淮南子』にも見当たらない。仏教文献では、鷹山

    の慧遠は『大乗大義章』巻中に、「慎心徹於神骨」(大正四五、二ニ三上、

    『慧遠研究』「遺文篇」、三一頁)と述べ、『肇論』で僧蓋は真心を三回、「乗

    莫二之慎心」(大正四五、一五一下、『肇論研究』――頁)、「是以聖人乗慎

    心而理順」(同、一五二上、『蓋論研究』一四頁)、「夫聖人慎心独朗」(同、

    一五三中、『藍論研究』二六頁)用いている。これらによれば、「真心」は聖

    人、如来の無二の心であり、如来はその「真心」に乗じて理に従って法を

    説くということになる。鷹山の慧遠も僧肇も自性清浄心や法界を説く唯

    識・如来蔵思想に親しむ機会がなかったからであろうが、「真心」は彼等

    の思想体系の中心概念になってはいない。浄影寺慧遠は、『大乗義章』の

    「仏性義」や「八識義」において「真心」を妄心と相対的な概念として用いて

    いる(次注参照)。『起信論』では「解釈分」の始めに、心真如が一法界であ

    るという根本的な立場を説いているが、法蔵はこの一法界に「即無二i

    県心

    為一法界」(大正四四、二五二上)と注釈し、法界を「真心」とする。彼がこ

    こ、『義記』の冒頭で真心を論じていることも、中心概念が衆生心でも法

    界でもなく真心であることを示すであろう。法蔵の著作のなかでこの冒

    頭の一節ほど詳しく真心を論じたものは他になく、『探玄記』や『五教章』

    などに関説される真心も、この節の真心観に基づくものと言える。ただ

    この一節は理解しにくい部分を含むので、以下この一節に限り、試みに

    訳を与えてみた。

    「そもそも真心は空寂で限りなく広がって(蓼廓)いるので、(中観派が

    主張するように)単なる手段(答蹄)にすぎない言葉やかたち(言象)から隔

    絶している。また茫漠として見ることも聞くこともできない(沖漠希夷)

    ので、(唯識派が否定するように)執着された主客(能取所取)にすぎない

    智の対象(境)や智自体はありはしない。不生不滅であるから有為の存在

    (法)のそなえる生住異滅という四相の遷移はなく、不去不来であるから

    過去現在未来(三際)という時の推移によって変わることがない。真心は

    ただ、執着のないこと(無住)を本性としているので、様々な様相に分か

    『大乗起信論義記』研究

    五七

    れ、迷いから悟りへと(逐迷悟)浮き沈みし、縁起のままに現れたり隠れ

    たりする。さらに、真心は盛んに活躍するけれども、いまだ始めから心

    の本源を揺るがせたことはないし、寂静で虚凝であるけれども、いまだ

    かつて業の因果の道理に反したことはない。それ故に本性を変えること

    なく縁起するから、染と浄の区別は常に成り立っているものの、縁起し

    たままで直ちに真(如)であるから、凡夫も聖人も実相として同一なので

    ある。それはあたかも波といっても水の(波)動に他ならないから、水の

    動きに即して波を論じるようなものであり、他方、水といっても波動す

    る水とは別に、水の本性があるのではないから、波(動く水)に即して水

    を明らかにするようなものである。こういうわけで、動と静が互いに通

    じ合い、真諦と俗諦がともにとけあい、生死と涅槃が―つに貫かれてい

    るのである」

    (二)「凝」は真如が随縁しつつ、しかもその性を保つこと。ちなみに『五教

    章』(大正四五、四八五上)では、

    問慎如既言常法。云何得説随薫起滅。既許起滅。如何復説為凝然

    常。答既言真如常故。非如言所謂常也。何者聖説真如為凝然者。此

    是随縁作諸法時。不失自罷。故説為常。是即不異無常之常名不思議

    常。非謂不作諸法如情所謂之凝然也。

    という。また、大正四五、五00上にも同様の議論がある。

    (-―-)「水波の喩え」は『起信論』に説かれ、中国や日本などではしばしば真如

    や仏性の比喩として用いられている。『起信論』では二箇所で述べられて

    いる(大正三二、五七六下、五七八上)。風(無明)によって水(真如)に波

    (生滅)が生ずるが、その波動は水にとって本具の性でなく客塵に過ぎな

    い。風がやめば、波もしずまる。したがって水、即ち真如は、波のごと

    き生滅のなかにあっても本性清浄であり、風、即ち無明がやめば、波

    動、即ち生滅という垢はない。これが離垢清浄である。『大乗義章』で、

    浄影寺惹遠はこの喩えを真心と妄心の場合に分けて用いている。例えば

    「凡夫五陰0~県妄所集。唯慎不生。雖妄不成。

    i

    県妄和合。方有陰生。措陰

    従妄。唯妄心作。(中略)如波風作。措陰従慎。皆箕心作。(中略)如波水

    作」(大正四四、四七三中)と言っているからである。法蔵はここでは「波

    ば水の作」という真心の比喩の面だけを採用して、波(生滅)は水(真心)の

    動(縁起)に他ならないことを示し、さらに縁起する真心以外に、別に真

    心があるのではないことを強調して、水(真心)は動(縁起)の津(真心の本

    性)以外にないことを例示している。

    (3)

  • 大師ここでは釈尊を指す。

    異執誤った見解への執着。

    邪途仏教以外の諸宗教を指す。

    小径小乗のこと。

    貝葉椋棚の葉に文字を刻んだもの。ここ

    では仏典の意味。貝は貝多羅(patra)の略で

    葉を意味する。

    群有諸々の生存、境遇、七有、二十五有

    などを広く指す。

    昏衝暗い路。

    当時馬鳴の時代を指す。時期についての

    法蔵の見解は、以下の「八造論の時節」を参

    照。ちなみに「法師伝」によれば仏滅後五〇

    0年頃か。

    群品衆生と同義。

    末葉の迷倫末世の迷える人々。

    中下の流「広論」を理解できない、宗教的

    資質が中位と低位の者のこと。

    境所信の境で、「大乗」を指す。

    往復折徴問答体で正しい理法を解明する

    こと。ちなみに「蓋論序」で慧達は、「問答析

    微、所以稲論」(大正四五、一五0上、「肇論

    研究」四頁)という。

    匝11匿【続、宗、筆、聴、大、日】

    傭11庸【聴】

    返11愛【宗】

    11反【筆】

    返11愛【宗】

    翅11這【版、聴】

    闊ー闊【宗、聴】

    〔則〕【聴】

    躾11辮【聴】

    定。往復折徴。故稲為論。故云大

    乗起信論。餘義下嘗別辮゜

    悟入者突。

    紛綸。或趣邪途。或奔小径。遂使

    宅中賓蔵匝済乏於孤窮。衣内明珠

    弗解貧於傭作。加以大乗深旨。沈

    妥有大士。厭眺馬鳴。慨此類

    網。悼斯淮溺。将欲啓深経之妙

    迷倫。又造斯論。可謂義豊文

    約。解行倶兼。中下之流。因荘

    然則大以包含為義。乗以運載為

    功。起乃封境興心。信則於縁決

    造廣論於嘗時。返益群品。既文

    多義逮。非浅識所閾。悲末葉之

    旨。再曜昏術斥邪見之顛眸令婦

    正趣。使還源者可即返本非遥゜

    貝葉而不尋。群有盲徒。馳異路而

    莫返゜

    尊言。無不懸契。大師没後。異執

    して貧しきを傭作に解かざらしむ。加えて以て大乗の深

    旨は、貝葉に沈みて而も尋ねず。群有の盲徒は、異路に

    馳せて而も返る莫し。

    妥に大士有り、蕨れ馬鳴と号す。

    の滴溺を悼む。

    なげ

    此の類綱を慨き、斯

    将に深経の妙旨を啓き、再び昏術を曜か

    正趣に帰せしめんと欲し、

    源者をして即ち本に返るべきこと遥かなるに非ざらし

    4

    む。広論を当時に造りて、返かに群品を益す。既に文多

    く義逮かなれば、浅識の閾う所に非ず。末葉の迷倫を悲

    しみて、又た斯の論を造る。謂いつべし、義豊かにして

    文約なり、解行倶に兼ね、中下の流も、荘に因りて悟入

    する者あらんと。

    然らば則ち大は包含を以て義と為し、乗は運載を以て功

    と為し、起は乃ち境に対して心を興し、信は則ち縁に於て

    決定し、往復折徴するが故に称して論と為す。故に大乗起

    (七)

    信論と云う。余の義は下に当に別に弁ずべし。

    (

    -

    )

    を稟くれば懸かに契わざる無し。大師の没後、異執紛綸

    し、或いは邪途に趣き、或いは小径に奔り、遂に宅中の

    宝蔵をして乏しきを孤窮に済うべからず、衣内の明珠を

    五八

  • (一)「懸契」について『筆削記』は二通りの解釈を提示している。「一稟下明根

    行勝相不須再聞。故言一承順聖旨。故云稟尊言者。八音四排金口親宣゜

    聞而獲益逮無生忍。故云懸契。又懸者。遠也。不必親従金口。但展転偲

    聞。如身子聞馬勝因縁。目健連承舎利偲教。此之根性尚不籍結集之経」

    (大正四四‘-―

    10一上)と註しているからである。第一の解釈は、釈尊在

    世当時の人々は機根が勝れているので、一度仏から教えを拝聴するだけ

    で、悟りに到るというものである。第二は、直接教えを聞くまでもな

    く、間接的に教えを聞くことで仏に帰依するようになるという解釈。例

    えば舎利弗は馬勝から因縁偶を聞くだけで仏法への眼が開かれ、さらに

    目健連は舎利弗から聞き、同様に眼が開かれたという。

    (二)『如来蔵経』一巻(大正一六、四五八中、

    TG.,P., Shu 242a , b)

    に説かれる

    如来蔵の九喩のなかの第五喩。なお同様の喩例は、『涅槃経』にも見られ

    る(大正十二、五二三頁下)。貧しい人の家の地下に大きな宝蔵があるの

    に、その人はその宝蔵について何も知らずにその宝蔵の上で貧乏暮しを

    している。この比喩は、衆生の身(チベット訳では

    manaskiira•

    作意)の中

    に徳(法)の宝蔵があるのに、それがあることを聞いておらず知らないの

    で、五欲に耽って生死の苦しみのなかで生を送っている。如来が出現す

    るのは、この宝蔵があることを教示するためである。『宝性論』(RGV.,

    pp.59 , 73, chap.9)でbこの九喩を採用し、解釈を加えている。

    (三)『法華経』の七喩の―つで、「衣裏の宝珠の喩」、「繋珠の喩」などと呼

    ぶ。「五百弟子受記品」第八(大正九、二九上)。ある男がいて、親友がひ

    そかに無価の宝珠を衣服の裏に縫いつけていることを知らずに他国へ行

    き、人に雇われて働き貧しい生活を送っていたが、その暮しに満足して

    いた。そんな彼に親友は衣服の裏の宝珠を売って豊かな暮しをせよと告

    げる。ここでは、声聞たちにも本来宝珠(仏性)が備わっているのに、彼

    等はそのことを知らずに、仏でない阿羅漢になることで満足している。

    『法華経』とはそのような声聞たちに仏になれる者であることをしらせる

    仏の教えである。このことを比喩で示したものが「衣裏の宝珠の喩」であ

    る。

    『大乗起信論義記』研究

    五九

    (四)大士は菩薩の意味。法蔵はこの論の中でしばしば『起信論』の著者の意

    味で馬嗚を菩薩と呼んでいる。ただし大士という訳語は、

    mahiisattva(摩

    討薩埋)の異訳。ここで大士を用いたのは、「一大士有り、名づけて馬嗚と

    日う」(『因縁伝』大正五0、三一四下)に依るのであろう。

    (五)天台智頗は「返本還源」という一句を止観のなかの証還を示す術語として

    用いている。「心恵開発して効力を加えず、任運に自ら能く破析して反本

    還源する、是れを証還と名づく」(『六妙法門』大正四六、五五0中)。法蔵

    はこの『義記』で、「還源」という語を二回用いている。「相続心の体を滅せ

    ざるが故に随染本覚の心をして遂に即ち源に還り、淳浄の円智を成ぜし

    む」(大正四四、二六0上)。「本覚の智体の不滅と還源とは無二無別なり」

    (同、二七0上)。このように彼は「源に還る」ことを『起信論』の説く心源や

    本覚に還ることと考えていたようである。還源者とは要するに、随染本覚

    が本覚に還ること、覚りの智を実現する者のことであり、そのことが本に

    返ることであろう。ちなみに「返本還源」は十牛図の第九図の題名として広

    く知られている。

    (六)『筆削記』では「広論」を『甘庶論』とする。「初廣論。謂甘庶論。繹中本榜

    伽経義味豊美。故立斯稲」(大正四四‘――10二中)。この『甘庶論』がどのよ

    うなものであったかは明らかでない。『筆削記』では「又造一心遍満論。融

    俗蹄慎論。奨如三昧論等一百餘部」(同上)というが、これは『釈論』巻第一

    (大正三二、五九―一下)によるものと思われる。『法師伝』では迦旅延子

    (Kiityiiyaniputra)の請いに応じて馬嗚が百万偽からなる『毘婆沙』を造った

    という(大正五0、一八九上)が、『大毘婆沙論』が大乗思想を説く「広論」と

    は思えない。明代の『続疏』巻頭の「大乗起信論主馬嗚菩薩略伝」や、清代の

    『会閲』巻首の「論主馬嗚菩薩略録」においても「広論」についての言及が見ら

    れるが、これらは後代の絹募に過ぎない。

    (七)ここで論じている包含、運載などを含めて、「大乗起信論」という題名に

    ついては、後の「七釈論題名」に詳しい。詳細はそこにゆずる。

    (5)

  • 教起の所因十門の第一。「起信論』の教え

    を著述する広義の意味での原因として十因

    を説く。

    心源に洞契するの智心源は心の本源。洞

    契は奥深く心源に契うこと。心源について

    は二頁の頭注参照。

    無漏智煩悩のない智゜

    字義成就言葉も意味も完全であること。

    果としての弁オを讃える。

    滑利勝上字義の形容詞。言葉はなめらか

    で鋭く、意味は最高の真実を示すというこ

    と。根本智根本無分別智(miiliivikalpajiiana)の

    こと。

    後得智後得清浄世間智(tatpnthalabdha,

    laukikajiiina)

    のこと。サンスクリットを直

    訳すれば、「それの後で得られた世間的

    智」。繹11解【宗、筆】

    所因11因縁【筆】

    諸11明【筆】

    教+(義)【筆】

    節11代【筆】

    代11月【筆】

    初11-【宗、筆】

    (躾)+教【宗、日】

    因+(縁)【宗、大、日】

    〔者〕【宗】

    辮11辮【宗、筆、聴】

    辮11辮【聴】

    辮11辮【聴、大、日】

    〔者〕【聴】

    牌繹此論。略開十門。一辮教起

    所因。二諸蔵所撮。三顕教分齊゜

    四教所被機。五能詮教罷。六所詮

    宗趣。七繹論題目。八造論時節。

    九翻謁年代。十随文解繹゜

    *

    *

    初教起因者。略有十因。

    智。二示何法。三云何示。四以何

    義。八以何縁。九由何起。十幾何

    益゚*

    初依何智者。謂依論主洞契心源

    之智。随機巧妙之辮。十地論云゜

    歎辮才有三種。

    こ県賓智。謂無漏

    智故。二罷性。成就無量義辮才

    故。三者果。字義成就。復是滑利

    勝上字義成就故。解云。此初是根

    本智為依。二是後得智為因。三是

    顕。五依何本。六藉何力。七為何

    教起の所因

    教起の所因を弁じ、二には諸蔵の所摂、三には教の分斉を

    顕らかにし、四には教の所被の機、五には能詮の教体、六

    には所詮の宗趣、七には論の題目を釈し、八には造論の時

    節、九には翻訳の年代、十には文に随いて解釈す。

    初めに教起の因とは、略ぽ十因有り。一には何の智にか依

    る。二には何の法をか示す。三には云何が示す。四には何を

    九には何に由りてか起こる。十には幾何の益かある。

    初めに何の智にか依るとは、論主の、心源に洞契する

    の智、随機巧妙の弁に依るを謂う。十地論に云く、「弁

    一には真実智、無漏智を謂うが

    故に。二には体性、無量の義の弁オを成就するが故に。

    三には果にして字義成就なり。復た是れ滑利勝上の字義

    成就するが故に」と。解して云く、此れ初めは是れ根本

    智を依と為し、二は是れ後得智を因と為し、三は是れ言

    オを歎ずるに三種有り。

    以てか顕らかにす。五には何の本にか依る。六には何の力を.

    か藉る。七には何の義をか為す。八には何の縁をか以てす。(

    一依何

    将に此の論を釈せんとするに、略ぽ十門を開く。

    六〇

    t

    ]

    -|i

  • (

    -

    『大乗起信論義記』研究

    『十地経論』巻第一(大正二六、一三0上)、

    歎排オ有三種。一慎賓智二骰性三者果。慎貰智者是無漏智。勝整聞

    縁覺智等。偶言妙無垢智故。罷性者成就無量義辮オ。偶言堪無量義

    辮故。果者字義成就。復是滑利勝上字義成就。褐言演説美妙言慎賓

    義相應故。

    の取意。『十地経論』のこの文は、『十地経』の「因縁品」のなかにある偽

    上妙無垢智固堪無量義緋伽

    演説美妙言囮慎賓義相應は

    pravaravaravimalabuddhe svabhidhananantagha¥itapratibha /

    pravyahara madhuravarlil!l vacal!l paramiirthasal!lyuktlil!l // I

    /

    /

    (DBh・7

    p

    .

    1

    1

    )

    「国すぐれた上にもすぐれた無垢の悟りを具えた方よ、佃よき言葉の

    限りなくおこる弁オを具えた方よ、は勝義にかなった囮甘美ですぐ

    れた言葉を、お説き下さい」

    に対する注釈である。

    この偽は金剛蔵菩薩を讃え、彼に説法を懇請する偶である。天親

    (Vasubandhu•

    世親)はこの偶を、真実智、体性、果という弁オの三様相

    を説くと解釈し、順に偶の固「無垢のさとり」を真実智、すなわち無漏智

    とし、伽「限りなく起る説法へのひらめき(pratibhii)」を弁才そのもの、す

    なわち体性ととり、無量の義の弁オを成就することとし、囮は「勝義にか

    なった言葉」を弁オの果としている。法蔵は真実智と弁オの体性を、ここ

    で根本無分別智と後得清浄世間智という智の法相によって捉え直してい

    る。この教起の所因の第一に智の問題を取りあげているのは、このよう

    に彼が智を重視し、弁オを智に置き換えているからであろう。要するに

    法蔵は、「起信論」の字義が成就しているのは無分別智を拠り所とした後

    得智から生じた結果であるからだ、と主張していることになる。

    ...... ノ‘

    (7)

  • _心・・・五行等の法大乗における起信のあ

    り方を説く「起信論」の教理。一心、心真如

    と心生滅の二門、体相用の三大は「立義分」

    (大正三二、五七五下)、四信、五行は「修

    行信心分」(同、五八一下)に説かれる。

    示す所この論が開示するところの教理。

    巧便善巧方便のこと。

    妙音善字妙音は法を説くのにかなった音

    声をいう。善字は方言や外国語にかない、

    道理にかなった字句。

    誓喩宗因適切な喩例や正しい論証。宗は

    論証式の命題、因はその理由。

    力威神力。神力、勝力ともいう。

    adhi,

    ~\hiina

    の訳。

    加加持のこと。加持も

    adhi~\hana

    の訳。

    能く論を造る馬鳴が論を著述できるのは

    仏の力によるということ。

    義目的。

    化教化。

    【宗、策】

    〔者〕【宗】

    .... :以下の「者」については皆同

    乗11乖【旭】

    析11折【宗】

    四11日【大】

    方11能【宗】

    謂+(依)【宗】

    〔命〕【筆】

    承力請加11請加承力

    佛11如来【宗、筆】

    〔故〕【宗】

    七為何義者。謂助佛揚化。推邪

    顕正。護持遺法。令久住世。報佛

    恩故。

    造論。

    請加。頼彼勝力。有所分別。故能

    理。定量為本。

    六藉何力者。謂蹄命三賓。承力

    大乗。作法義二種。分一心法。復

    作二門。析一義理。復為三大。由

    此善巧而得開示。

    四以何顕者。謂妙音善字。警喩

    宗因。方令義理明了顕現。

    五依何本者。謂佛聖言。及正道

    之中起信之法。是所示也。

    三云何示者。謂以巧便開。

    一味

    言説教為果。是故教起内依智也。

    二示何法者。謂一心。二門。三*

    大。四信。五行等法。此即是大乗

    しむるを謂う。仏恩に報ずるが故なり。

    きて正を顕らかにし、遺法を護持して、久しく世に住せ

    説教を果と為す。是の故に教起は、内、智に依るなり。

    ニに何の法をか示すとは、一心、二門、三大、四信、

    五行等の法を謂う。此れ即ち是れ大乗の中の起信の法に

    して、是れ示す所なり。

    て、法と義の二種と作し、一心の法を分かちて復た二門

    一義理を析ちて復た三大と為すを謂う。此の善

    四に何を以てか顕らかにすとは、妙音善字、警喩宗)

    (二)

    8

    因を謂う。方に義理をして明了に顕現せしむればなり。(

    五に何の本にか依るとは、仏の聖言及び正道理の定

    (三)量を本と為すを謂う。

    六に何の力をか藉るとは、三宝に帰命して力を承け加を

    請い、彼の勝力を頼みて分別する所有るを謂う。故に能

    く論を造る。

    七に何の義をか為すとは、仏を助けて化を揚げ、邪を推

    巧に由りて開示することを得。

    と作し、

    三に云何が示すとは、巧便を以て一味の大乗を開き

  • (二)

    (

    -

    法(一心法)[、心生滅門

    心真如門

    [:ふ(『冠導本』巻上三丁左の傍註参昭)

    摩詞術(一味大乗)

    『十地経』では金剛蔵菩薩が、仏の神力をうけて仏の勝れた教えを、

    udirayi~ye

    varadharmagho~aqi

    dr~tantayuktaqi

    sahitaqi samak~araqi

    /

    (DBh., p.15)

    「私はすばらしい法を言うにふさわしい妙音で、比喩を用い、筋道の

    通った論理にしたがい、ぴったり適合した字句によって述べることに

    しよう」

    という。これを漢訳本では、「我承佛力説勝法微妙音醤諭字相應」(大

    正一0、一八一上)と訳しているが、『十地経論』ではその詩頌を「説上法

    妙音、喩相應善字」(大正一

    0、一七六頁)と訳している。法蔵がここで

    「妙音善字、比喩宗因」と言ったのは、恐らくこの『十地経論』によったも

    のと思われる。相應はyuktaの訳であるが、この場合百ktaはyukti即ち

    「道理」の意味で用いられていると思われる。その「相應」を法蔵は、やや

    論理学的に「宗因」と言い替えたのであろう。ちなみに『十地経論』では善

    字に、「善字とは二種の相あり。一には方に随って言音善<随順するが故

    に、二に字句圃満にして、増ぜず減ぜず、理と相應するが故に善字と云

    う」と注釈している。

    (三)聖言は聖言籠盆gama)、正道理は論証(yukti)、定量は正しい認識手段

    (pramiil).a)を意味する。これはyuktyiigamaqipramiil).amという慣用句の漢

    訳であろう。ちなみに『筆削記』は二説をあげている。まず第一に仏聖言

    を聖言量、正道理を推理

    (anumiina

    比量)、定量を知覚(pratyak~a

    現量)と

    『大乗起信論義記』研究

    六一

    する(大正四四、三0四下)。第二説は正道理を現比二量とし、定量を聖

    言量及び現量比量の三量とするので、ここにあげたものと同じことになー_

    る。

    (9)

  • 縁所縁の意味。論は、衆生を対象として

    著述される。

    菩薩「起信論」の著者、馬嗚を指す。

    大悲内融仏の大悲が馬嗚の内に融け満ち

    ること。

    物衆生のこと。

    聞慧以下、聞、思、修の三慧゜

    有情衆生。

    sattvaの異訳語。

    随_「各々に」という意味。補注(一)参

    照。〔者〕【宗】·…••以下の「者」については皆同

    〔縁於衆生欲〕【宗、筆】

    令+(衆生)【宗、筆】

    〔内融〕【宗、筆】

    長迷11迷謬【宗、筆】

    幾11機【筆】

    〔生〕【大、日】

    慧11恵【聴】…以下の「慧」については皆同

    回11因【筆】

    更11交【大】

    義嘗廣流布故。二欲令種種信解

    有情。由此因縁。随一常能入正

    欲造論者。要具六因。

    一欲令法

    興。更有六因。如増伽六十四云゜

    満故。 *

    十幾何益者。略有六種。

    者。令生信故。二已信者。令得聞

    隷故。三已聞者。令得思慧故。四

    已思解者。令得修慧故。五已修行

    者。令證入故。六已證入者。令園

    ロ。ロロ

    九由何起者。謂由菩薩大悲内

    融。慇物長迷。由此造論。法施群

    論。

    一未信

    八以何縁者。謂縁於衆生。欲

    * 令

    離一切苦。得究覚築。故造斯

    論を造る。

    *

    *

    九に何に由りてか起こるとは、菩薩、大悲内融して物

    あわ

    の長迷を慇れむに由るを謂う。此れに由りて論を造りて

    ぜざる者に信を生ぜしむるが故なり。二には已に信ずる者

    に聞惹を得しむるが故なり。三には已に聞く者に思慧を得)

    ゜ー(

    しむるが故なり。四には已に思解する者に修慧を得しむる

    が故なり。五には已に修行する者に証入せしむるが故な

    り。六には已に證入する者に円満せしむるが故なり。

    (

    -

    更に六因有り。喩伽六十四に云うが如し、

    かなら

    と欲する者は、要ず六因を具う。

    「論を造らん

    一には法義をして当に広*

    く流布せしめんと欲するが故なり。二には種種の信解の有

    情をして、此の因縁に由りて、随一に当に能く正法に入ら

    む。

    略有如是十因縁故。令此教略ぼ是の如き十因縁有るが故に、此の教をして興らし

    十に幾何の益かあるとは、略ぽ六種有り。

    群品に法施す。

    一には未だ信

    を離れて究党の楽を得しめんと欲するを謂う。故に斯の

    八に何の縁をか以てすとは、衆生を縁じて、

    六四

    一切の苦

  • 『大乗起信論義記』研究

    『瑠伽論』巻第六十四(大正三0、六五八上)

    欲造論者。要具六因乃應造論。一欲令法義営廣流布。二欲令種種信

    解有情。由此因縁随一嘗能入正法故。三為令失没種種義門重開顕

    故。四為欲略揖廣散義故。五為欲顕登甚深義故。六欲以種種美妙言

    辞荘厳法義生浮信故。

    bstan bcos fie bar sbyor bar J:idod pas rgyu rnam pa drug gis bstan bcos fie

    bar sbyar bar hos pa yin te / chos kyi don mail du byas par l).gyur ro sfiam pa

    daft / sems can rnams la mos pa sna tshogs yod pal).i phyir de dag kha cig

    l).dis l).jug par l).gyur ro sfiam pa daft / don fiams pa daft r

    ab tu fiams pa r

    ab tu

    rnam par dbye bar bya bahi phyir ro sfiam pa daft / don l).thor ba rnams bsdu

    bar bya bal).i phyir ro sfiam pa daft / don zab mo rnams gsal bar bya bal).i

    phyir ro sfiam pa daft / tshig l).bru mdses pas mdses pa bskyed par bya bal).i

    phyir ro sfiam pal).o // (YBh••

    P., N i 205b1)

    「論書(siistra)を論述(upasaiphiira)しようと欲する者は六種の理由に

    よって論書を論述すべきである。①法の義(dharm翌ha)が流布するた

    めに、②衆生たちには種々異なる信解(n習翌himukti)があるので、彼

    らの一部(dedag kha cig, tadekatya?)がこの[論書]にょつて[正法に]

    入るために、③亡び滅した義(na~taprana~tiirtha)

    を探求する(pravi

    ,

    cinoti)ために、の苗き散らされている義(praviki11}翌ha)を集めるため

    に、⑤甚深の義を明らかにするために、⑥美妙な語句によって美妙

    さを生ずるために、という六種の理由から論を造るのである」

    チベット訳と漢訳では第二の理由が異なっているように思われる。漢

    訳の「随こにあたるチベット訳はdedag kha cigであるから、ここでは「彼

    らのある人」を意味する。漢訳の「随こにも「多くのうちのいずれか一っ」

    という意味はある。法蔵も『五教章』では「多くのうちのいずれか一っ」と

    いう意味(大正四五、四八六中)と「各々に」という意味(同、五0二下)で

    「随こを用いている。『瑠伽論』でも巻第三の(大正三0、二八八上)の「随

    こは明らかに「いずれか一っ」という意味である。しかしこの箇所では

    「種種の信解の有情をして」であるから、語法上、「種種の信解の有情に」

    という意味で「各々に」ではないかと考えられる。『瑠伽論』は声聞道も菩

    薩道も網羅して説いているようであるし、唯識派の論書は三乗の解脱を

    六五

    すべて含むから、すべての機根のものを正法に入れるということを造論

    の理由としてあげたとも考えられないではない。しかし、論は経や他の

    論では救えない機根のものを救うために著述される、という一般の解釈

    からすれば、ここは「彼らの一部に」が正しいとも思われる。法蔵は、た

    しかに馬鳴が『起信論』を著したのは「末葉の迷倫」(本稿4頁)を救うため

    だというが、その場合、経や他の「広論」などで救える衆生も『起信論』で

    救えることは言うまでもないであろうから、そうであれば、「各々に」と

    いう意味で理解すべきとなる。

    (11)

  • 〔沙〕【大】

    井11蚊【大】

    沙11娑【大】

    知11智【聴】

    美妙言辟。荘厳法義。生浮信

    故。此論下八因縁等。及十住毘

    婆沙論。井大毘婆沙等。各有因

    縁。可尋彼知之。

    せしめんが為の故なり。六には種種の美妙の言辞を以て法

    義を荘厳し、浄信を生ぜしめんと欲するが故なり」と。此

    の論の下の八因縁等、及び十住毘婆沙論、井びに大毘婆

    (三)おのお

    沙等、各の因縁有り。彼を尋ねて之を知るべし。

    五為令顕甚深義故。六欲以種種摂せんと欲するが為の故なり。五には甚深の義を顕らかに

    開顕故。四為欲略播廣散義故。

    て重ねて開顕せしめんが為の故なり。四には広散の義を略

    法故。三為令失没種種義門。重しめんと欲するが故なり。三には失没せる種種の義門をし

    六六

    (12)

  • 二)(一)

    『起信論』「因縁分」(大正三二、五七五中)の八因緑。

    初説因縁分。問日。有何因縁而造此論。答曰。是因縁有八種。云何

    為八。一者因縁継相。所謂為令衆生離一切苦。得究党築。非求世間

    名利恭敬故。二者為欲解繹如来根本之義。令諸衆生正解不謬故。三

    者為令善根成熟衆生。於摩詞術法堪任不退信故。四者為令善根微少

    衆生。修習信心故。五者為示方便消悪業障。善護其心。遠離擬慢゜

    出邪網故。六者為示修習止観。封治凡夫二乗心過故。七者為示専念

    方便。生於佛前必定不退信心故。八者為示利観修行故。有如是等因

    縁。所以造論。

    『毘婆沙論』巻第一(大正二六、ニニ上)

    問日。若不爾者。何以造此論。

    答曰。我為欲慈悲。饒益於衆生。不以餘因縁。而造於此論。見衆生

    於六道受苦無有救護。為欲度此等故。以智慧力而造此論。

    『大毘婆沙論』巻第一(大正二七、二上)

    問何故尊者造此論耶。答為饒益他故。謂彼尊者作是思惟。云何営令

    諸有情類於佛聖教無倒受持。精進思惟舞量観察。由此無量煩悩悪行

    不現在前。便得悟入甚深法性。故造此論。

    以下、尊者迦多術尼子(Kiityay習iputra)が『発智論』を著した理由を、い

    くつか挙げているが、実際に「因縁」という語を用いているものだけを次

    に挙げる。

    復次尊者以三因縁制造此論。一為増益智。二為開覺意故。三為遮計

    我故。増益智者。謂於内外諸経論中。令智増益無有能如阿毘達磨゜

    開覺意者。謂諸有情無明所昏。如睡未覺不能了知。何者是遍行。何

    者非遍行。何者自界縁。何者他界縁。何者有漏縁。何者無漏緑。何

    者有津為縁。何者無為縁。云何為掻。云何相應。云何因。云何縁。

    誰成就。誰不成就。何者順前句。何者順後句。何者四句。何者如是

    句。何者不如是句。於如是等所知境中。令諸有情開登覺意。無有能

    如阿毘達磨。遮計我者。尊者所造阿毘達磨。未曽説有補特伽羅。恒

    頸諸行空無有我有。以如是等種々因縁。故彼尊者制造此論。

    『大乗起信論義記』研究

    六七

    (13)

  • 蔵摂の分斉諸蔵各々の所摂の区分。ここ

    でいう諸蔵とは、三蔵(経・律・論)及ぴ二

    蔵(声聞・菩薩)を指す。

    所詮の三戒・定・惹の三学。所詮とは言

    詮によって表される内容をいう。三蔵が

    各々三学を詮すという見解は「大毘婆沙論」

    巻一(大正二七、一下)のもの。

    所為の二根の利鈍。補注(-)参照。

    修多羅蔵三蔵のうちの経蔵。修多羅は

    「経」の原語siitra

    の音写。

    曲委曲・委細。

    siitra

    の音写語では、その

    意味が詳らかにならないということ。

    所応説の義言詮せらるべき事柄。

    (abhi,

    dheyarthaであろう)

    定三学の一、定学。

    毘奈耶蔵三蔵のうちの律蔵。毘奈耶は

    「律」の原語vinayaの音写。

    身語意身・ロ・意の三業のこと。

    明載囁11約諸蔵所掘【宗】

    11諸競所揖【筆】

    〔分齊〕【宗、筆】

    但藍11咀績【筆】

    並11置【大】

    揮持11持緬【筆】

    機11樹【筆】

    即11則【聴】

    者11人【筆】

    二名毘奈耶蔵。或云毘那耶。或

    故。名素但藍。即詮定之教。契経

    * 即

    蔵。持業繹゜

    耳゚

    のみ。

    修妬路等。拉以應語梵名。難得曲等と云う。

    並びに応語の梵名なるを以て、

    * 曲

    を得難き

    前中為詮三學。故立三蔵。

    一修多羅蔵。或云素恒藍。或云

    此翻名契経。謂契理合機。故名

    為契。貫穿縫綴。目以為経。佛地

    論云。貫穿播持所應説義及所被機

    云毘尼。古翻名滅。謂身語意悪゜

    焚燒行者。義同火然。戒能止滅。

    、J4

    此に翻じて契経と名づく。謂く、理に契い機に合す、故

    e

    (三)

    に名づけて契と為す。貫穿縫綴するを、目して以て経と為

    す。仏地論に云く、「所応説の義及び所被の機を貫穿し摂

    持するが故に、素但藍と名づく」と。即ち定を詮わすの教

    (五)

    なり。契経、即ち蔵なれば持業釈なり。

    ニに毘奈耶蔵と名づく。或いは毘那耶と云い、或いは

    ぴ毘尼と云う。古翻じて滅と名づく。謂うこころは、身語

    意の悪、行者を焚焼するは、義、火の然ゆるに同じ。

    *しゅたら

    一に修多羅蔵。

    或いは素但藍と云い、

    或いは修妬路

    あら

    前の中に三学を詮わさんが為に、

    ミ)

    故に三蔵を立つ。

    教則為二。

    三故。教則為三。後約所為二故。

    の三に約するが故に、教を則ち三と為す。

    (ニ

    に約するが故に、教を則ち二と為す。

    後に所為の

    二明蔵播分齊者有二。初約所詮

    ニに蔵摂の分斉を明らかにするに二有り。

    諸蔵の所摂

    六八

    初めに所詮

  • (二)経・律・論の三蔵に関して、法蔵は『探玄記』巻第一(大正三五、

    で、より詳細な解説を加えている。

    (三)「貫穿縫綴」という用語は『琉伽論』巻第二十五(大正三0、四一八下)に見

    える。

    以諸美妙名句文身。如其所應次第安布次第結集。謂能貫穿縫綴種種能

    引義利。能引梵行。i

    県善妙義。是名契経。

    J:idi lta ste / dge ba don dail ldan pa / tshails par sbyod pa dail l

    dan pa d

    e dail de

    dag bstan par bya baJ:ii phir / min gi tshogs dail / tshig gi tchogs dail / yi geJ:ii

    巨hogsmthun pa dag gis ci rigs par r

    im gyis gcod ciil / rim gyis sbyar ba gail yin

    pa d

    e ni mdoJ:ii ste~es

    byaJ:io // (YBh., P., Wi 66a5・')

    「即ちあれこれの善い義を具え、清浄行を具えたものが教示されるた

    めに、適切な名身(n1imak1iya)句身(pada')文身(vyafijana,)によって道

    理の通りに順に裁断し(chid)、順に結合された(苔j)もの、それが経で

    ある」

    この一節は「契経」の解説の一部であるが、「貫穿縫綴」が見える後半の一

    節に相当するチベット訳には「貫穿縫綴」と「i

    県善妙義」を欠いている。「貫

    穿」は『漢書』「司馬遷伝」などで「貫穿経偉」というように熟語として用いら

    れているが、「経」の語源を解釈するものではない。中国で「経」は「縦糸」を

    意味するし、サンスクリットでもs目・a(経)は「縫う」を意味する語根siくに

    手段を表す接尾辞目がついて「縫う手段・糸」を表す。そこで玄芙は「縫綴」

    を「経」の語源解釈として用いたのではなかろうか(綴はチベット訳中の

    bstan par bya ba (s1isana, prakasya etc.)§-. ち「紬が奈℃される」を示すとも考えら

    れる)。同じく玄笑の翻訳とされる『顕揚論』巻第六(大正三一、五0八下)

    には、こことほとんど同じ「以諸善(美)妙名句字(文)身。如其所應次第結

    集。次第安置。以能綴絹引諸義理引諸梵行種種善義。故名契経」という一

    節が見られる。そこには「貫穿」はなく「縫綴」にあたる「綴紺」だけである。

    しかし、サンスクリットのsiv(縫う)や次にくるchid(裁断)には「貫穿」の意

    味がないわけではない。そもそも玄哭は「貫穿」と「縫綴」の相違をあまり意

    識しないで恣意的に用いていたのではないかと考えられる。

    「契経者。謂貫穿義長行直説。多分措受意趣罷性」(『堆伽論』巻第八一、

    大正七五、七五三上)

    「契経者。謂縫綴義多分長行直説掻諸法罷」(『顕揚論』巻第―二、大正三

    一、五二八中)

    『大乗起信論義記』研究

    10九

    (-)法蔵は三蔵と二蔵を各々所詮と所為によって分けられると解釈している

    が、彼はこの分類を智慨に負っている(『捜玄記』大正三五、一四上参照)。

    所為はこの『義記』の「序分」や「修行信心分」の注釈で「所為の人」と言ってい

    るから、「所為の二」とは「所為の二種の人」即ち利根と鈍根の二種の人を指

    す。所為は実質上は教化の対象を意味する所化や所被と同義語であろう。

    要するに、声聞蔵と菩薩蔵は声聞のための蔵、菩薩のための蔵という意味

    になる。

    六九

    前者のチベット訳はmdoste ni smos pal:ii don gyis te rkyad par b

    sad pa yin pal:io //

    de yail phal cher dgoils pa gzuil b

    ar bya ba yin no// (YBh, P••

    Yi 64a2)で本マる。

    「貫穿」はsmospa・

    説示(『瑠伽論』の「貫穿」は多vsmospar byed pa・

    説示

    する)である。玄芙は『瑠伽論』でsmospaとチベット訳されたサンスクリッ

    ト原語を、『顕揚論』では「縫綴」と訳したのではなかろうか。なお『大毘婆沙

    論』巻第―二六(大正二七、六五九下)では「契経」には一結集、二刊定の

    二義があるというが、一は『逢伽論』の安布・裁断、二は結集・結合に相当

    するので、このことも「貫穿縫綴」がインドの解釈ではないことを示すとい

    えよう。『探玄記』巻第一で法蔵は、「貫穿」と「縫綴」とを分けて解釈し、「貫

    穿は是れ契入の義にして、縫綴は是れ契合の義なり。謂く、聖言を以て義

    理を貫穿して、散失せざらしめ隠没せざらしめ、縫綴連合して、詮表を成

    ぜしめ久住することを得せしむるなり」(大正三五‘10九上)という。

    ちなみにこの一節の前半は『大毘婆沙論』巻第一で阿毘達磨を説明する中

    の「以名身句身文身次第結集安布分別故。名阿毘達磨」(大正二七、四中)と

    同じものである。この点では経も論も変わらないのであろうか。

    『仏地経論』巻第一(大正二六、二九一中)

    能貫能播故名為経。以佛聖教貫穿播持。所應説義所化生故。

    法蔵の引用文では、『仏地経論』の「所化生」が十門(科文参照)の第四「所

    被機」となっている。『探玄記』巻第一(大正三五‘10九上)で法蔵は、「経

    に亦た二義あり。謂く法相を貫穿するが故に。所化を摂持するが故なり」

    と敷術している。

    (五)持業釈はサンスクリット文法学で複合詞の一部類を示す用語である

    karmadhiirayaの訳。近代の文法では同格限定複合詞などと意訳する。複合

    詞の前分と後分が同じ対象を指し、前分が後分を限定するか、同格関係に

    あるものをいう。「修多羅・蔵」という複合詞は、法蔵の解釈によると、前

    分の「修多羅」は所詮の定学を指すのではなく、定学を説示する能詮の言教

    である契経やそれを記録した経典を意味し、後分の「蔵」も言教や経典を包

    摂する蔵を意味する。そこで「契経即ち蔵」というように、前分と後分は同

    じ対象を指し、前分の契経が後分の蔵を限定する。こう解釈することに

    よって、この複合詞は特定の契経という言教やその部類の経典だけの蔵を

    意味する。

    (四

    vinayaを「滅」と翻訳した例には『毘尼母経』(大正二四、八0

    一上)

    毘尼者。名滅滅諸悪法。故名毘尼゜

    また巻七(同、八四二上)では、

    毘尼者。凡有五義。一懺悔二随順三滅四断五捨。……云何名滅。能滅

    七諄。名滅毘尼゜

    と「律」に「滅」を含めて五義を挙げる。ちなみに法蔵は『探玄記』(大正三

    五‘10九上)において、ここに論ずる「滅」や「調伏」を含む、

    vinayaの意訳

    語である調伏、滅、

    P羅、性善、守信、波羅提木叉などを挙げて、各々に

    説明を加えている。

    (15)

  • 意訳語ということ。

    sila

    の訳語。

    sila

    には「滅」の意味はない

    が、ここで法蔵は戒と律(<

    i

    目ya)を混用して

    いる。

    15頁の補注(六)を参照。

    今翻じて玄契の新訳を指すのであろう。

    10行目の「今訳して」も同じ。

    阿毘達磨蔵三蔵の内の論蔵。阿毘達磨は

    「論」の原語、

    abhidharmaの音写。旧訳では

    無比法、新訳では対法と意訳される。

    阿毘

    abhidharmaの接頭辞、

    abhi(阿毘)は

    「上方」「優越性」の意味を付加することがあ

    る。対法の蔵昆奈耶が律の経典の所詮である

    調伏.戒学を意味するので、「昆奈耶・蔵」

    は「調伏の蔵」と解釈された(次頁補注一参

    照)ように、阿毘達磨も所詮である対法・

    慧学を意味するので、「阿毘達磨・蔵」も

    「阿毘達磨(対法・慧)の蔵」という依主釈で

    解釈される。

    義に従うの名

    稲11翻【箪】

    今11古【筆】

    和11錬【筆】……次の「和」も同

    或11故【聴】

    妙11妙【版、龍、儡】

    法11理【筆】

    源11原【聴】

    簡11棟【筆】

    面見11目前【策】

    故云11名為【筆】

    〔亦〕【筆】

    大法等。拉随義之名。如餘説。

    有法能比於此故。云無比法。

    ぞ法。

    即無分別智分別法相。

    更無

    謁為無比法。謂阿毘云無比。達磨

    熾相故。

    今翻為調伏。謂調是調和。伏是

    折伏。則調和控御身語意業。制伏

    戒行。調伏之蔵。依主繹。以従所

    詮為名故。

    三阿毘達磨蔵。或云阿毘曇。古

    今諄為封法。謂阿毘是能封智゜

    達磨是所封境法。謂以正智。妙盛

    *

    法源。簡揺法相。分明指掌。如封

    面見。故云封法。封法是所詮之

    慧。即封法之蔵。亦依主繹。従所

    詮為目。又或名伏法揺法敷法通法

    除滅諸悪行故。調伏是行。即所詮

    故稲為滅。或云清涼。以能息悪炎

    くし、法相を簡択し、分明に掌を指して、面に対して見る

    戒、能<止滅す。故に称して滅と為し、或いは清涼と云

    う。能く悪の炎熾の相を息むを以ての故なり。

    * 今

    翻じて調伏と為す。謂うこころは、調は是れ調和、

    伏は是れ折伏なれば、則ち身語意の業を調和控御し、

    もろもろ

    諸の悪行を制伏除滅するが故に。調伏は是れ行、即ち

    (二)

    所詮の戒行なり。調伏の蔵なれば、依主釈なり。所詮に

    従いて名と為すを以ての故に。

    三に阿毘達磨蔵。或いは阿毘曇と云い、古訳して無比

    (-―-) 法と為す。謂うこころは、阿毘を無比と云い、達磨を法

    と云う。即ち無分別智もて法相を分別し、更に法の能<

    此に比するもの有ること無きが故に、無比法と云う。

    今訳して対法と為す。謂うこころは、阿毘は是れ能対の

    (四)

    智、達磨は是れ所対の境法なり。正智を以て妙に法源を尽

    が如きを謂う。故に対法と云う。対法は是れ所詮の慧、即

    ち対法の蔵も亦た依主釈なり。所詮に従いて目と為す。又

    た或いは伏法、択法、数法、通法、大法等と名づく。並び

    に義に随うの名にして、余に説くが如し。

    七〇

    (16)

  • (-)清涼はvinayaではなく、

    silaの訳であり、『大毘婆沙論』巻第四十四(大正

    二七、ニニ九下1二三0上)には次のようにある。

    言戸羅者是清涼義。謂悪能令身心熱悩。戒能安適故曰清涼。

    (二)依主釈もサンスクリット文法用語のtatpuru~a

    の訳語。複合詞の前分と後

    分が格関係にあると理解されるもので、格限定複合詞などと意訳されてい

    る。「毘奈耶・蔵」という複合詞の場合、前分の毘奈耶は修多羅のように能

    詮の言教ではなく、所詮の戒学(戒行・調伏)を意味するので、「毘奈耶.

    調伏の蔵」というように前分と後分が格関係で理解される。こうしてこの

    複合詞は「所詮である毘奈耶(即ち戒学・調伏)を説示する能詮の言教やそ

    れを記録した経典を包摂した蔵」を意味することになる。

    『功徳論』巻第一(大正二五、三二上)

    阿毘曇者。大法也。……亦名無比法。八智十慧無漏正見。越三界凝無

    輿等者。故日無比法也。

    (四)「対法」はabhidhannaの接頭辞abhiを、「に対して、に関して」という前置

    詞の意味にとった訳語である。このように語義を解釈する世親は『倶舎論』

    (AKBh. ` p.2)で、

    abhidhannaを涅槃という勝義の法や法相「に対向(対面)す

    るもの(pratyabhimukha)」、即ち慧と解釈する。彼は慧を第一義的には「無

    垢の惹(amalaprajfia)」とするが、世俗としてはその無垢の慧を得るための

    聞思修の三慧や論書をも含めるという。法蔵もこの立場に立つが、彼はこ

    の智を三蔵の所詮である三学の中の慧学とし、阿毘達磨の達磨・法を惹学

    の智によって対向(対面)される所対とし、法を知る智を法に対する能対と

    する。おそらく法蔵も『倶舎論』が説くように、対法の智に無垢・無漏の慧

    と世俗的な三慧を含め、「法源を尽くし、法相を簡択す」というように、勝

    義の法と法相を対象とする智と考えていたものと思われる。その点、

    abhidhannaを「無比法」と解釈する立場では、無分別智と無比法だけとな

    り、世俗の智、後得智と法相を含むことができなくなろう。この点で法蔵

    は阿毘達磨を無比法と訳す古訳を適当ではないと考えていたのではなかろ

    うか。なお「無比法」と「対法」という語義に関しては『倶舎論の研究』一三頁

    以下参照。

    『大乗起信論義記』研究

    五)

    『探玄記』巻第一(大正三五‘10九中)参照。

    三名阿毘達磨蔵。達磨名法。阿毘有七義。一名封法。此有二義。一封

    向。謂因智趣向涅槃果故。二封観。謂果智観證涅槃滅故。雖因智亦有

    封観。然以仰進修故但名封向。……二名敷法。……三名伏法者。……

    四名通法。此能通繹契経義故。契経稲法。此法能通彼。即法之通。

    ……五名無比法。六名大法。七名揺法。此三唯約所詮。……或云摩得

    勒伽。此云本母。以教興義。為本為母。亦名分別解脱。或云優波提

    舎。此云論義。雑集中名解繹也。此契経等上三種。皆含掻所詮出生義

    理。倶名為蔵。

    (17)

  • 此の論「起信論」のこと。

    循喋研骰空海の「二教論」をあげて「仏教

    語大辞典」では、「問答を繰り返して研究す

    ること」の意味とするが、チベット訳では

    iles par drails pal)i ma mo (決定に導かれた

    マートリカー)である。

    iles

    pa (niyata,

    ni~caya)

    は決定を意味するが、了義の了

    (nila)の訳でもあり、

    d

    gspaは未了義の未

    了neya,drail paと同じ語根であろうから、

    「了(義)に導かれた」という意味ではないか

    とも考えられる。

    摩但理迦

    miitrkaの音写、母を意味する。

    インド選述の論書ではmiitrkiiは所々でアピ

    ダルマと同義語とされている。中国ではそ

    れが定説となっており、摩但理迦は理や智

    や行を生ずるもととなるので「母」というと

    理解されている。法蔵も摩恒理迦をアビダ

    ルマの同義語とするが、「本母」という意訳

    を採用して、「教と義とを本となし、母とな

    す」という。この法蔵の語義解釈では、阿毘

    達磨の摩世理迦が智や行を生ずる原因(母)

    ではなく、むしろ逆に教や義が阿毘達磨を

    生ずる原因(本母)となる。前注で触れたチ

    ベット訳「経から決定・了義に導かれたマー

    トリカー」は教や義を本母とするという法蔵

    の解釈を支持しよう。

    了義未了義・不了義の対。

    菩薩馬嗚を指す。

    達磨蔵阿毘達磨蔵・対法蔵のこと。

    (又)+答【大】

    問11同【筆】

    如11同【大】

    諸+(一切了義)【筆】

    殿11薮【版、龍、旭`像、聴】

    但理11胆哩【筆】

    〔且如〕【続】

    且11旦【旭】

    縦11則【箪】

    作11造【筆】

    達磨11封法【筆】

    牧11耶【筆】

    也。問。若此三蔵於彼三學各詮一

    學。何故雑集論第十一云。復次開

    此論於彼三蔵之中。封法蔵描。

    問。如増伽八十一云。謂諸経

    *

    *

    典。循環研蕨。摩但理迦。且如一

    切了義経。皆名摩但理迦。謂於是

    虞世尊自廣分別法相。准此文證。

    * 縦

    封法蔵。亦是佛説。此論既是如

    来滅後菩薩所作。何得亦入達摩蔵

    * 収。

    答。有二義。

    一准瑠伽。是彼

    故具三。律次具二。論狭唯一。亦

    (匹)

    一に諭伽に准ず。是れ彼の種類な

    尊自ら広く法相を分別す」と。此の文証に准ずるに、縦

    の如きは皆な摩但理迦と名づく。謂く、是の処に於て世

    是本末門。謂経是本。餘二次第末唯だ一なり。亦た是れ本末門なり。経は是れ本、余の

    若依兼正門。則如集論説。以経寛若し兼正門に依らば、則ち集論の説の如し。経は寛きを

    耶。開示慧學名阿毘達磨゜

    * 答

    。若依剋性門。如前各詮一。

    示三學立素恒藍。開示戒定名毘奈て素但藍を立て、戒定を開示して毘奈耶と名づけ、慧学

    おのお

    問う。若し此の三蔵、彼の三学に於て各の一学を詮せ

    (一)

    ば、何の故に雑集論第十一に、

    を開示して阿毘達磨と名づく」と云うや。

    .答う。若し剋性門に依らば、前の如く各の一を詮し、

    以ての故に三を具え、律は次に二を具え、論は狭くして

    は次第の末なるを謂う。

    此の論は、彼の三蔵の中に於ては対法蔵の摂なり。

    問う。堆伽の八十一に云うが如し。「謂く、諸の経

    典の循環研蕨せるは摩但理迦なり。且らく一切の了義経

    い対法蔵なるも亦た是れ仏説なり。此の論は、既に是れ

    如来滅後の菩薩の作る所なり。何ぞ亦た達摩蔵に入りて

    収むるを得んや。

    答う。二義有り。

    「復た次に三学を開示し

    (18)

  • 『雑集論』巻第十一(大正三一、七四四中)

    復次為欲開示三種學故。建立素但攪蔵。所以者何。要依此蔵所化有情

    解了三學。由此蔵中廣開三種所修學故。

    為欲成立増上戒學増上心學故。建立毘奈耶蔵。要依此蔵二増上學方得

    成立。所以者何。廣繹別解脱律儀學道聖教為所依止。方能修治浮戸羅

    故。依浮戸羅生無悔等。漸次修學`心得定故。

    為欲成立増上慧學故。建立阿毘達磨蔵。要依此蔵増上慧學方得成立。

    所以者何。由此蔵中能廣開示簡掲諸法巧方便故。

    (二)「剋性門」とは三蔵を各々の固有の「性」である定・戒・慧という所詮の学

    に限定して取り扱うことであろう。剋性門や次にくる兼正門などの分類は

    智慨の『捜玄記』(大正三五、一四上)に見える。

    有二義。一剋性門。二兼正門。剋性如前説。兼正門有二義。一本末

    義。経為本教。余二次第末也。二者兼正門。経中定為正。戒慧兼也。

    「兼正」は智懺の言うように、修多羅蔵の場合でいえば、「正」である定学と

    は別の「正」である戒学や慧学をも兼ねそなえていることを意味する。智慨

    は兼正門に本末義と兼正門の二義あるというが、法蔵はそれによりながら

    も、実際は『雑集論』の説くような蔵摂の分斉が「寛狭」と「本末」によって成

    立することをここで説いている。

    『瑠伽論』巻第八十一(大正三0、七五三中)

    論議者。謂諸経典循環研霰摩咀理迦。且如一切了義経皆名摩咀理迦゜

    謂於是虞世尊自廣分別諸法骰相。

    de la gtan la bah par bstan pa dag ni mdo sde las fies par drafts pai).i ma mo

    gaft dag yin ste / de la iles par ri don gyi mdo ste thams cad ni ma mo● es

    byai).o // gaft du bcom ldan l).das kyis chos kyi mtshan iiid bstan pa dail gait du

    iian thos g● i mthoil ba s(D.b器)コogspa la gnas pas chos kyi mtshan iiid ma

    nor bar bstan pa de yail ma mo yin te chos milon pa yail yin no/ (YBh••

    P.,

    Yi 64bs-7, D., I:Ii 54b4.)

    「そのうち論議(upadesa)とは経(s曰品nta)から決定に導かれたマートリ

    カーなるものであって、そこですべての了義経(nitiirthasii.tra)はマート

    『大乗起信論義記』研究

    リカー(matrka)といわれる。あるところにおいて世尊が法の相

    dharmalak~ai:ia

    を説かれ、またあるところにおいて根源を見て証悟し

    た境地にいる声聞が法の相を不顛倒に説く(ところ)、それら(のとこ

    ろ)はm翌店であり、

    abhidharmaである」

    『堆伽論』では十二部教の中の論議(upadesa)について説いている。法蔵は

    「論議者」を省いている。かれは『探玄記』の「論議」を述べる項(大正三五、

    ―10下)でもここと全く同じく「論議者」を省いているので、この省略は

    意図的なものではないだろうが、この箇所では「論議」の教証として引用し

    ているのではないから「論議者」は不要である。ここでは対論者が経蔵や律

    蔵だけでなく、対法蔵も仏説であることの文証としているのであるから、

    この一節を引用した意図は仏自身が法相を分別するすべての了義経が、ア

    ビダルマ即ちマートリカーであると説いている点にある。問いの中でチ

    ベット訳の後半に見える声聞に関する最後の一節(次注参照)を引用してい

    ないのは、対論者にとって都合が悪いからであろう。なおマートリカーに

    ついては『倶舎論の研究』二三ーニ八頁参照。

    (四)『瑠伽論』では前注で取りあげたチベット訳で明らかなように、仏が説か

    れたもの(法相)も、仏弟子が説かれたものも同じくマートリカーであり、

    アビダルマだという。漢訳でも「又於是虞諸聖弟子已見諦遊依自所證無倒

    分別諸法罷相此亦名為摩旦理迦。即此摩且理迦亦名阿毘達磨」と続く。法

    蔵が「瑠伽に準ず。是れ彼の種類なり」と答えているのは、むしろこの一節

    を念頭に置いていたからではなかろうか。馬鳴は菩薩であって、聖弟子

    (盆vaka・

    声聞)ではないし、『起信論』は大乗の論書であって、声聞の著述

    である、いわゆる三蔵の中の阿毘達磨(論)ではないが、『起信論』も循環研

    霰せる論書であり、法の体相の不顕倒な分別である点で、仏や聖弟子の分

    別(チベット訳ではbstanpa・ 教示)と実質的には同じだというのであろ

    う。要するに法蔵はここでは大乗経典はもとより、『起信論』などの大乗の

    論書も仏説であると主張していることになる。

    (19)

  • 印す

    る印可すること。ここでは仏が懸かに予

    言の形で馬嗚の所説を認めること。

    智教起の十因の第一にあげられた智。本

    稿6頁及び7頁補注(-)参照。

    理行位果菩薩の場合に理行果の他に「位」

    が加えられているのは、菩薩乗では階位が

    重要な意味をもっているからであろう。

    説11記【筆】

    (然正法矩滅邪見憧)+善【筆】

    如来11佛所【筆】

    〔其〕【聴】

    許11記【筆】

    掻11抄【聴】

    聾聞11小乗【筆】

    等11故【筆】

    菩薩11大乗【筆】

    位果11果故【葦】

    為盤聞蔵及菩薩蔵。問。彼三及

    二云何名蔵。答。由描故。謂播

    一切所應知義。解云。是故為彼整

    聞鈍根下乗。依法執分別。施設三

    蔵。詮示磐聞理行果等。名磐聞蔵。

    為諸菩薩利根上乗。依三無性二無

    我智。施設一二蔵。詮示菩薩理行位

    巧此蔵由上下乗差別故。復説

    但根有利鈍。法有浅深。故合

    二約所為二故。教即為二者。

    也。 種類。故入彼播。二准摩詞摩耶

    経。佛説馬鳴善説法要。既言善

    説。即是如束懸印所説。故知亦

    得入此蔵収。因此通論。如来説

    法有其三種。一佛自説。二加他

    説。三懸許説。此論即営懸許説

    蔵。分為二種。故荘厳論第四

    (

    -

    り、故に彼に入りて摂む。二に摩詞摩耶経に准ず。仏、

    「馬鳴は善く法要を説く」と説けり。既に善く説くと言

    えば、即ち是れ如来、懸かに所説を印するなり。故に亦

    ニに他に加して説く。三に懸かに説くを許す。此の論は

    ニに、所為の二に約するが故に教を即ち二と為すと

    は、但だ根に利鈍有りて、法に浅深有り。故に三蔵を合)

    ゜2

    (二)

    し、分かちて二種と為す。故に荘厳論第四に云く、「此(

    の蔵は上下乗の差別に由るが故に、復た説きて声聞蔵及

    び菩薩蔵と為す。問う。彼の三及び二は云何が蔵と名づ

    く。答う。摂むるに由るが故なり。謂うこころは、

    聞の鈍根下乗の為に法執の分別に依りて、三蔵を施設

    し、声聞の理行果等を詮示するを声聞蔵と名づけ、諸

    (三)*

    の菩薩の利根上乗の為に三無性、二無我の智に依りて、

    三蔵を施設し、菩薩の理行位果を詮示するを菩薩蔵と名

    の所応知の義を摂む」と。解して云く、是の故に彼の声

    即ち懸かに説くを許すに当るなり。

    するに、如来の説法に其れ三種有り。

    た此の蔵に入れて収むるを得るを知る。此に因りて通論

    七四

    一切

    一に仏自ら説く。

  • (

    -

    『大乗起信論義記』研究

    『摩耶経』巻下(大正―二‘10一三下)

    六百歳已。九十六種諸外道等。邪見競興破滅佛法。有一比丘名曰馬

    鳴。善説法要降伏一切諸外道輩。

    七百歳已。有一比丘名曰龍樹。善説法要滅邪見瞳然正法矩゜

    『荘厳経論』巻第四(大正三一、六0九下)

    三蔵或二摘成三有九因

    黛覺寂通故解脱生死事

    繹曰。三蔵或二掻者。三蔵謂修多羅蔵毘尼蔵阿毘曇蔵。或二謂此三由

    下上乗差別故。復次為整聞蔵及菩薩蔵。問彼三及二。云何名蔵。答由