ソ連解体と政党-ペレストロイカ期の政治変動を中心 URL...

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Meiji University Title �-�- Author(s) �,Citation �, 21: 97-115 URL http://hdl.handle.net/10291/8176 Rights Issue Date 2005-02-28 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Titleソ連解体と政党-ペレストロイカ期の政治変動を中心

に-

Author(s) 笹岡,伸矢

Citation 政治学研究論集, 21: 97-115

URL http://hdl.handle.net/10291/8176

Rights

Issue Date 2005-02-28

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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政治学研究論集

第21号 2005.2

ソ連解体と政党

ペレストロイカ期の政治変動を中心に

Political Parties in the Process of the Collapse of the USSR:

Why Didn’t“Opposition Parties”Play an lmportant Role?

博士後期課程 政治学専攻 2002年度入学

    笹  岡  伸  矢

        SASAOKA, Shinya

【論文要旨】

 ソ連の解体過程で重要な役割を担ったのは,他の社会主義諸国や権威主義体制の民主化において

中心的アクターであった「反対政党」ではなく,むしろ政治家個々人だった。

 なぜか?ソ連はペレストロイカ期まで,社会の原子化と,反体制派の孤立によって,ゴルバチョ

フの登場以降,すぐに在野勢力が結集することができなかった。そうした在野勢力が台頭しておら

ず,制度的にもまだその存在が許されていない状況下で,自由選挙がおこなわれた。その結果,議

員の多くが政党よりも政治家個人の力で議席を獲得する傾向にあった。そして,その政治家たちの

うち,著名な人々は共和国や大都市の行政府へと進出し,政党を組織化する動機も余裕も欠いた。

また,議会でも政党が活動する余地は少なく,議会外で離合集散を繰り返し,最終的には,大衆の

離反を促す結果となった。

 よって,ソ連では,政党が組織化される前に自由選挙がおこなわれたところに,その役割が決し

て大きくなりえなかった原因をみることができよう。それに加えて,もちろん,政治家個々人の

「政党離れ」という要因も無視することはできない。

【キーワード】ソ連,体制移行,ペレストロイカ,政党,共産党

はじめに

 2003年12月,ロシア連邦で第4期の下院(ドゥーマ,国家会議)選挙がおこなわれた。圧倒的

勝利を飾り,第1党となったのは,2年前の2001年12月に結成された「統一ロシア」(《《EnHHafi

論文受付日 2004年10月1日  掲載決定日 2004年11月17日

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POCCMfil・)であり,第3党になったのが,選挙のわずか4ヶ月前に結成されたばかりの,愛国左派

ブロック「祖国」(・・PonHHa》》)であった。4年前の選挙で議席を得た政党のうち,再び下院で議席

を持つことのできた会派は,ロシア連邦共産党(KnPΦ:KoMMyHHcTHqecKafi napTHH PoccHncKoB

ΦenepauHH)と,ロシア自由民主党(mnp:JIH6epa∬bHo-neMoKpaTHqecKaH napTHfl PoccHH)だ

けとなった1。

 ロシアは,政党システムが不安定であるといわれる2。それを物語るデータがある。G.ゴロソフ

によれば,ロシアは,ハソガリーとポーランドに比べて,「政党生存率(party survival rate)」が

低いとされる。この「政党生存率」は,自由化後の第1回選挙での得票率が3%以上だった政党を

対象に,その政党の第1回の得票と第2回の得票の比率として表されるとする。その結果は,ハ

ソガリーが90%で,しばしば政党システムの安定化に失敗したとみられるポーランドが72%であ

った。しかし,ロシアはさらに低く,53%という結果であった3。

 では,なぜ,ロシアでは政党システムが安定していないとみられるのだろうか。その原因を探る

鍵は,ソ連社会主義体制が自由化を開始し,議会制度や政党政治を導入し始めたペレストロイカ期

にあるのではないかと考える。このソ連が解体していく過程のなかで,政党はいかなる役割を担っ

たのかという問題関心のもと,以下,分析を試みたい。まず第1章で,ペレストロイカ期の政治

変動過程を分析する。続く第2章で,ペレストロイカ期には,政党よりも実は政治家個々人が重

要なアクターであったことを明らかにしていきたい。そして,なぜ政党が中心的アクターではな

く,政治家が体制移行の主要な動力源となったのかの要因について分析を試みたい。

第1章ペレストロイ力期における政治変動

 本章では,支配政党であったソ連共産党(KnCC:KoMMyHHcT四ecKafl fiapTHH CoBeTcKoro

Coro3a)の分解と,その裏で進行した政治的多元化の過程を追いかけたい。その分析をおこなう

上で,まず,1985年のゴルバチョフの共産党書記長就任から,1991年のソ連解体までを,自由化

・民主化の進展の流れから,5つの時期に分けたいと思う4。そして,共産党の動きと,自由化に

よって徐々に台頭してきた在野勢力,および,ソ連中央に対峙するかたちとなったロシア共和国に

おける多様な政治勢力の展開という2つの視点から,自由化・民主化過程の分析を試みたい。

第1節1985年一1987年中頃(自由化開始期)

1.共産党

 1985年,チェルネンコの死後,ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任した。1986年頃から,

彼は「ペレストロイカ」という言葉を使い始め,経済改革にとどまらず,情報公開(「グラスノス

チ」)や言論の自由を推奨した。しかし,なぜ彼がそのような自由化を開始したのかという問題が

残る。その理由の1つとして,ゴルバチョフ自身が,官僚機構の硬直化に対抗するために,直接

大衆に訴え,彼らの支持を得ることを目指したという見方がある5。彼の視点では,ソ連の社会主

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義システムを再構築するためには,経済分野にとどまらない社会全体の改革が必要であった。ゴル

バチョフは知識人たちに改革の後押しをさせるために,グラスノスチや言論の自由によって,彼ら

の活発な議論を期待したとされる6。

 この頃はまだ,複数政党制がのちに許されるようになるとは考えられていなかったが,1987年

というこの年に,その後の発展の萌芽をみる論者もいる。S.ザスラフスキーは,ソ連における複

数政党制形成の起源は,1987年1月の党中央委員会総会にあると考えている。その総会では,思

想犯への恩赦がおこなわれたのと同時に,政治犯を罰するロシア共和国刑法法典の条文を事実上,

停止する措置が取られた7。

2.在 野

 1987年頃から,徐々に自立的な組織が出現し始めた。この時期,「社会主義的多元主義」という

言葉が使われるようになったが,これは国家の枠外において,小規模な市民の組織の存在は許容す

るという意味で用いられていた8。この時期の自立的集団の活動は,歴史問題や環境問題など非政

治的分野にほぼ限られていた。また,若者の反文化的な行動,民族文化や経済問題を扱うサークル

などの非公式活動も生じつつあった。そのなかで,政治サークルも生まれ始めた。例えば,社会イ

ニシアティヴクラブ,民主ペレストロイカ,全連邦社会政治クラブなどがその代表であるが,彼ら

の目的は決して社会主義や一党制の原則に挑戦するものではなかった9。ただ,これら組織や活動

が,このあと台頭してくる在野の政治指導者たちにとっての「艀化器(HHKy6aTop)」の役割を担

ったとされる10。加えて,この時期に,愛国的結社の「パーミャチ」(naMflTb)11が台頭し,大衆

デモを繰り広げたことも付け加えておかなければならない。

第2節 1987年中頃一1988年末(共産党内分裂・反体制運動生成期)

1.共産党

 この頃から,共産党内での路線対立が顕在化し始めた。1987年10月の共産党中央委員会総会

は,初めて「エリッイソ現象」12が現れた大会であったとされる。来るべき「革命70周年記念式典」

でのゴルバチョフ報告の草案が審議されるなか,当時モスクワ市党委員会第一書記であったエリッ

イソが,ペレストロイカの社会的領域への拡大を呼びかけ,さらには保守派と目されていたイデオ

ロギー担当書記のリガチョフを手厳しく批判した。その際エリッィンは自らの職を辞すことを宣言

し,結局,彼はモスクワ市党委員会第一書記を解任され,さらには政治局からも追放されることと

なった。だが,この出来事によって,エリツィンの政治生命が絶たれることはなく,その事実は,

多元主義がこの国に根付きつつあることの証左だとみなされた13。

 このような党内の路線対立が徐々に明るみになるなか,ゴルバチョフはペレストロイカの過程を

後戻りさせないという意図を持って,1988年6月,第19回党協議会に望んだ14。この会議で旧来の

最高会議を廃止し,新たに国民から直接選ばれる人民代議員大会を創設し,その上部機関として最

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高会議を設置することを決めた。そして,その選挙方法として,複数候補制が取られることが決定

した。この新しい最高会議は,世論集約の場として,また国家機構の監視役としての役割を期待さ

れていた15。党と国家の機能分離と,ソヴィエトへの権力集中が,本格的に議論され始めたという

点で,この会議は画期的であった。

 新たに設けられたソ連人民代議員大会であるが,同年12月に,最高権力機関の変革を含んだ憲

法の改正とならんで,「ソ連人民代議員選挙法」によって,その選挙システムが決定した16。新た

な選挙制度において重要なのは,前述の複数候補者制と,社会団体代表制の導入であった。後者に

ついてであるが,人民代議員大会の総議席2250を,「地域区」,「民族区」,そして「社会団体」に

それぞれ3分の1ずつ割り当てることが決められ,そのうち「社会団体」の枠以外は,国民から

直接選挙で選ばれるというシステムとなっていた。「社会団体」に含まれる組織は,ソ連共産党,

コムソモール,労組などであり,一見したところ,体制側の人間に割り当てられた感がある。だ

が,かつてなら党や国家機構には進出できなかったような人々,例えばサハロフのような異論派と

呼ばれた人たちや,ロシア正教会の聖職者などが,結果として選抜されたという点で,それなりの

意義があったと考えられている17。

2.在 野

 この時期から,非公式集団が激増し,街頭デモが頻発した。それら集団の要求は,公式の枠組を

超えるものを含むようになり,ソ連の政策として,そこに介入する方針がとられた18。また,これ

ら集団のなかに,流刑地から帰還した異論派の流れを汲むものが出現し,人権や道徳という伝統的

なテーマを中心に活動をおこなったが,彼らの目的は社会主義の改革という枠を越え始め,議論中

心から街頭での行動へと活動領域が急進化した19。

 また,非公式集団の統合の試みもおこなわれ,1988年には,人民戦線がバルト諸国やモスクワ

など大都市で結成され始めた。だが,それら人民戦線は,組織的な統一性を維持することができ

ず,また,地域的に分散する傾向にあった20。

 そしてついに,公然と,ソ連共産党のオールタナティヴを叫ぶ政党が出現した。民主同盟

(AeMoKpaTHqecKHta coro3)21という政党がそれであり,ソ連体制の転覆を叫び,デモ活動を頻繁に

おこなった。この政党の活動は,体制からそれほど厳しい弾圧を受けなかった(デモ指導者や参加

者の逮捕はあった)が,かなり急進的であったため,知識人たちからは疎まれた。ただ,この民主

同盟の活動が,非公式集団の台頭を促す役割を担ったことは否定できない22。

第3節 tg88年末一1989年末(共産党動揺・反体制運動台頭期)

1.共産党

 1989年3月,ソ連人民代議員選挙がおこなわれた。この頃はまだ,一党制の枠内であり,非党

員の選挙登録が煩雑であったことや,選挙人集会の候補者選抜が恣意的であったなどの問題も存在

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した。だが,選挙区選挙においては,有力な共産党幹部が,特に大都市で多数落選する結果となっ

た23。この結果はあらかじめ予想されたことであり,ゴルバチョフら改革派が,選挙という手段を

通じて,党官僚の首切りをおこなったという指摘もある24。また,この選挙でも,「エリツィソ現

象」が巻き起こった。彼自身,民族区のモスクワ市選挙区(モスクワ市全体で1つの選挙区)か

ら出馬して,89%の得票率で圧勝したが,モスクワ市地域区の候補老で,エリツィソの支持を得

た人々もまた軒並み当選した25。

 そして5月から,第1回ソ連人民代議員大会が開催された。1991年まで,この議会には大きく

分けて3つの「会派」が存在した。すなわち,「共産主義グループ」,「地域間代議員グループ」

(MAr:Me)KperlloHanbHas{ nenyTaTcKaH rpynna)26,「ソユーズ」(CoK)3)27である28。このうち,最

初に「地域間代議員グループ」が6月末に結成されたのであるが,この会派にはエリツィンやサ

ハロフといった急進改革派が所属し,彼らはゴルバチョフ指導部に対する野党的な反対派として存

在した。

2.在 野

 在野勢力にとって,人民代議員選挙が,そのキャソペーンを通じて組織化を進めたという意味

で,自立的な政治活動の発展の触媒となった29。特に,「地域間代議員グループ」は議会内では少

数派に留まったが,彼らの活動によって,民主派が合法的に形成された反対派に合流することを可

能にし,非公式集団に正統性を与える道筋を開いた30。

 また,この時期に,労働運動が活性化し,ストライキやデモが多発した。特に炭坑労働者の活動

は,大きなインパクトを残した。その後,旧来の官製労組が機能不全に陥ったことを受け,独立労

組が結成されるに至った31。民主派勢力は,労働運動との連携を模索し,一定の同盟関係を築くこ

とができたが32,相変わらず,新たに出現した諸組織の活動に対して,党や官製組織の干渉は強い

ままだった33。この時期に結成された統一労働者戦線(06benHHeHHbltiΦpoHT Tpynfi坦HxcH)とい

う組織は,下から共産主義運動を活性化させるという目標を掲げていたが,共産党保守派の肝いり

で創設されたと言われている34。

第4節1990年初頭一1990年末(共産党衰退・反体制運動高揚期)

1.共産党

 1990年2月,党中央委員会総会が開かれたが,この大会は「ソ連共産党,ひいてはソ連国家消

滅への一里塚」35となった。この大会で,ゴルバチョフは党と国家の機能分離を主張し,党の指導

的役割を規定した憲法第6条を修正し,複数政党制を容認する旨の報告をおこなった。この動き

は,党指導部から選挙によって選ばれた国家指導部への権力の移動を意味し,ゴルバチョフの言葉

を借りれば,「スターラヤ広場(党中央委員会)からクレムリンへ」と表現できるものであった36。

3月には,第3回人民代議員大会において,憲法改正の末,大統領制の導入が決定された。そし

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て,代議員による間接選挙によって,ゴルバチョフがソ連初代大統領に就任した。この時点で,ソ

ヴィエトが議会へと変貌し,大統領制が導入された結果,旧来のソヴィエトシステムはほぼ解体さ

れたといってもよい37。

 そして,7月に,第28回党大会が開催されたが,この大会までに共産党は事実上分裂し,さまさ

まな政治的傾向が露わになり,いくつかの派閥が形成されていた。党内のリベラル派を結集した

「民主政綱」派,正統的マルクス主義者で構成された「マルクス主義政綱」派が誕生し38,さら

には,それまで独自組織を持たなかったロシア共和国で,ロシア共産党(KnpcΦCP:

KoMMyHHcTHgecKaH napTHfl PoccHPtcKoti CoBeTcl(o員Φe以epaTHBHo眞CoHHaπHcTHqecKo眞Pecny6一

皿KH)が結成され,党内で大きな影響力を持った。このロシア共産党には,ソ連共産党員のおよ

そ58%が所属したが,この党は保守派のもう1つの権力基盤としての意味を持った39。

 さらに,この頃から離党者が増大しつつあった。その内訳については必ずしも地域や,政治的立

場によって大きな偏りがあったわけではなかった。ただ離党者の増加という事実は,党の影響力や

権威の低下を明確に示していたといえる40。さらなる流れを決定づけたのは,第28回党大会でのエ

リッイソの離党であったと思われる。彼は当時,ロシア共和国最高会議議長であり,党よりも,国

民に従う,と述べていた41。その後,ポポフやサプチャクといった著名な政治家たちも,彼に追随

するかたちで,離党した。この大会は,保守派が改革の進展に歯止めをかけようと,巻き返しを図

った大会でもあった。ゴルバチョフは保守派との妥協を模索し,その結果として,党中央機関の幹

部は保守派で構成されることとなった42。ただ,この大会で,党は国家機関との分離を決定的に推

進することが決められ,党地方機関の自立化が進んだ43。

 保守派が息を吹き返しつつあったなか,ソ連中央とロシア共和国の対立が顕在化し始めていた。

この頃から,ゴルバチョフは急進的な経済改革案を拒否し,独立運動に弾圧を加えるようになって

いたが,それは彼への批判を強める保守派に歩み寄りを見せた結果であった。そして,かbてゴル

バチョフを支えていた人々も,ついに彼のもとから,去ることになった。保守化の流れのなか,

12月,第4回人民代議員大会では,「新思考外交」の担い手であったシェワルナゼが,「ソユーズ」

所属の議員などからの批判を受けて,「独裁が近づきつつある」と警告を発し,辞任した。さらに

は,改革派のバカーチン内相が解任され,側近のヤコヴレフも政権中枢から外されていくことにな

る。

2.在野(ロシア共和国などの動きも含む)

 1990年3月,ロシア共和薗人民代議員大会やその他の地方ソヴィエトで選挙anがおこなわれ,

民主派,特に「民主ロシア」(几eMoKpaTHqecKaH PoccvaH)ブロック45が台頭した。このブロック

は,共和国レヴェルで反体制諸勢力の活動を調整することを目指し,人民戦線の活動家などが結集

した。この選挙において,「民主ロシア」の候補者は多数当選し,一定の成功が収められたといえ

る46。だが,「民主ロシア」の議員たちはエリツィソのロシア共和国最高会議議長の就任に力を尽

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くしたにもかかわらず,彼は政党から超然とした態度を取ったため,議会内で「民主ロシア」が組

織として強化されることはなかった47。

 また,2月の憲法第6条修正以降,自らを共産党のオールタナティヴと位置付ける政党が多数,

出現し始めた。5月,欧州型の社会民主主義を信奉する諸勢力を糾合して,ロシア社会民主党

(CollHaJI-neMoKpaTHqecKas{ napTHfl PoccHH)が結成された。同時期に,ロシア正教の理念を基

盤に形成されたロシアキリスト教民主運動(PoccHtacKoe xpHcTHaHcKo・neMoKpaTHqecKoe nBH)K-

eHHe),かつての革命前の政党名(「カデット」(KaileT))を使用した立憲民主党(KoHcTHTYUHoH-

Ho-neMoKpaTHqecKas{ fiapTKH)などが創設されたが,どちらも内紛に悩まされた48。そのなかで,

大衆から一定の支持を集めたのが,ロシア民主党(八eMoKpaTHuecKaH napTHfl PoccHH)であった。

指導者のトラフキソは,前述の「民主政綱」派に属したが,のちに離党し,ロシア民主党を結成し

た。そして,彼は本格的に共産党に対抗する政党を作ろうと,徹底した組織化を推し進め,地方支

部を打ち立てるまでに至った49。また,この時期に,のちにジリノフスキーの党として注目される

ソ連自由民主党(”H6epaJlbHo・neMoKpaTllqecKafl napT圏CoBeTcKoro Coro3a)50も結成された。発

足当時,ジリノフスキーは指導者のうちの1人に過ぎなかったが,のちに反対派を追い出し,党

を乗っ取った51。彼は非常事態の導入や,全政党の解散,共産党との連携などを主張し,過激な物

言いのわりには,共産党と反目する要素は少なく,体制にとっては安全な勢力に留まった52。

 こうした代替政党の出現を背景に,それらの結成と活動を保証する「社会団体法」53が,10月に

成立した。この法では,全連邦レヴェルで政党として登録する際,その政党は15の連邦構成共和

国の全部もしくは大部分に組織を持ち,全体として市民5000人をそのメソパーとして抱えていな

ければならないという規定が存在した。ただ,これは全ロシア的政党においては,その限りではな

かった。しかしながら,最初の法案は1987年末頃から準備されており,政治的多元化の急速な流

れに十分対応していたとは言い難い。なぜなら,各共和国や都市で,すでに独自の立法活動がおこ

なわれており,まだソ連で憲法第6条について議論が闘わされているあいだ,モスクワ市では,

いくつかの代替政党がすでに登録を許されていたからである54。

 ちなみに,この法の成立後に,共産党「民主政綱」派の流れを汲む共和党(Pecny6nHKaHcKaH

naPTHfl)などが結成されていたが,もっとも注目された試みが,前述の「民主ロシア」ブロック

の後継である「民主ロシア」運動の結成であった。この運動は,民主派の各政党が参加した緩やか

な連合体であり,それら諸政党の包括組織としての役割を期待された。参加した政党は,共和党,

ロシア社会民主党,ロシアキリスト教民主運動,立憲民主党(人民自由党)(KoHcTHTyuHoHHo・

neMoKpaTHgecKafl napTHH 一 ”apTvaH HapoAHoVa cBo60nbl),ロシア民主党などであった。ただ,ロシ

ア民主党は,党首のトラフキソが参加に消極的であったにもかかわらず,支持者たちが積極的に

「民主ロシア」に結集する道を選んだ55。「民主ロシア」運動は,ゴルバチョフに反対の立場を明確

にし,来るべきロシア共和国大統領選挙で,エリッィンを支持する方針を掲げた56。

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第5節 1991年初頭一1991年末(共産党解体・体制崩壊期)

1.共産党

 党内で保守派の影響力が強まり,ゴルバチョフの辞任を求める声が高まるなか57,1991年6月,

エリツィソが直接選挙によって,ロシア共和国大統領に選ばれた。エリツィソは「民主ロシア」を

含む民主諸党派の支援を受け,共産党の影響力の強いルイシコフとバカーチソ,自由民主党のジリ

ノフスキー,軍人のマカショフなどの対抗馬を退けた。この選挙において明らかになったことは,

共産党の非力ぶりであった58。

 ロシア国民の審判を経て勢いを得たエリッイソは,同月,ロシア共和国内の国家機関や国営企業

内での政党(要するに,共産党)の組織活動を禁止する大統領令を発した。この時期,エリツィン

に歩み寄りを見せていた59ゴルバチョフは,7月の党中央委員会で,新たな党綱領案を提起した

が,その案では共産党の社会民主主義政党への転換が目指されていた60。エリツィンやヤコヴレフ

といった改革派は時期は異なれども,党に見切りをつけたが,ゴルバチョフはあくまで党の改革を

模索し続けたのであった61。だが,このときに党は,新党を作ろうとする民主的改革派,ゴルバチ

ョフらの社会民主主義志向の中道派,現状維持の教条派の3つに分解していた62。このように,組

織的解体が進んでいたことに加え,イデオロギー的側面においても!tソ連共産党は党員に対する統

合原理を失いつつあった63。

 また,連邦構成共和国の一部にみられた独立の動きや民族紛争の激化を背景に,1990年頃か

ら,ソ連中央と各共和国は実質的に,新連邦条約締結へと動き始めていた。この草案は5次にま

で渡っており,中身について細かく触れることはできないが,連邦の権限が縮小され,各共和国に

自主性が与えられる内容となっていた。この草案に反発したのが,保守派勢力であった。

 その保守派が新連邦条約の締結を阻止すべく実行したのが,いわゆる「8月クーデター」であっ

た。この試みは失敗に終わったが,その後,このクーデターに関与していたとみられた共産党は,

党としての息の根を止められることとなった。8月23日,まず,エリツィソがロシア共産党の活動

停止を宣言し,翌24日には,今度はゴルバチョフがヤコヴレフら側近たちの助言を受け入れ,党

書記長を辞任した。さらに彼は,党資産の国有化,軍や警察などでの共産党組織の活動の禁止を宣

言した64。ゴルバチョフは,当初,党がクーデターに関与していたという情報に懐疑的であった

が,のちに,それが誤りであったと認めている65。そして11月,エリッィンはソ連共産党とロシア

共産党双方の活動禁止と,党資産の国有化に着手した。この結果,ソ連共産党は,12月のソ連解

体に何の抵抗もできず,その使命を終えることとなった66。

2.在野(ロシア共和国などの動きも含む)

 1991年の春頃から,ゴルバチョフとエリッイソが接近し始めると,「民主ロシア」の分裂が顕在

化した。エリツィソが同意した新連邦条約の調印に対して,急進派が断固として反対の意思を示し

ていた67。そうした急進的な民主派と距離を置いたのが,ロシア共和国副大統領となったルッコイ

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であり,彼は8月に共産党に留まりながら,ロシア共産主義老民主党(八eMoKpaTHgecKaH napTllsl

KoMMYHMcToB PoccHH)を結成したあと,11月には自由ロシア人民党(HaponHasl napTHA

《(CBo60nHax PoccHfl》》)を旗揚げした68。また,7月,シェワルナゼやヤコヴレフ,シャターリソ,

ポポフ,サプチャクらが呼びかけ人となって,民主改革運動(八BH)KeHHe・AeMoKpaTHqecKHx

peΦOPM)69の創設が宣言された70。彼らの目標はソ連の枠内での改革であり,非ロシア諸共和国に

も支持を拡大する意図があった71。ただ,この運動は,著名な政治家が名を連ねてはいたが,「兵

を欠いた将軍たちの集まり」という弱点を抱えていた72。

 そして,8月クーデターと,それに続くソ連共産党の解体によって,代替政党の再編分裂,結

成も進んだ73。まず,「民主ロシア」内では,11月,ロシア民主党,ロシアキリスト教民主運動,

立憲民主党(人民自由党)がソ連ゐ維持を主張し,この連合体から離脱したが,12月に,CIS(独

立国家共同体)創設をめぐって,この3党間連合(「人民の同意(HaponHoe cornacHe)」グループ)

は分解した74。また,民主改革運動は,連邦維持の前提が崩れた結果,存在意義を失い,強力な運

動体になることはできなかった75。また,愛国派として,ロシア共和国人民代議員だったバブーリ

ン率いるロシア全人民同盟(Pocc”PtcKMti 06meHaponHbln coK)3)などが誕生していた。一方,ソ

連共産党の解体と活動停止は,新たな共産主義諸党派の結成を促した。かつての異論派であったロ

イ・メドヴェージェフらが中心となり,10月に創設された社会主義勤労者党(COIIHaJIHCTHqeCKaSI

naPTH牙 Tpy)KaK)皿HX)は,旧共産党員が多く所属したが,政治的傾向は社会民主主義的であった。

また,共産党保守派の系列に連なるのが,11月に結成されたロシア共産主義労働党(PoccnicKafl

KoMMyHllcTHgecKasl pa60qasl napTHH)である。この党は,共産党の活動停止を受けて,旧党員の受

け皿の1つとなった76。ちなみに,このあと1992年から,愛国派と共産主義勢力のあいだで連携が

進み,反エリッィン同盟が結成されることとなる。

第2章ペレストロイ力期における政治家と政党の役割

 第1章で,ペレストロイカ期の政治変動を振り返ってみたが,強大な共産党体制が瓦解してい

くなか,党が分裂した結果,そこから有力な政治家が議会や行政府に進出し,徐々に代替政党が形

成されていく過程が明らかとなった。ただ,そのなかで重要な役割を担ったのは,政党よりもむし

ろ,政治家個々人だった。その最たる例が,エリッィンであることはいうまでもない。しかし,他

の社会主義諸国では,必ずしもそのような過程をたどらなかった。もちろん,ポーランドのワレサ

やチェコのハベルなど,カリスマ性のある指導者が体制移行において中心的アクターとなっていた

が,それらの国々でも,フォーラム型政党と呼ばれる「対共産党」連合が結成され,共産党支配の

終焉において重要な役割を担った77。

 本章では,なぜソ連(およびロシア)で,体制移行期に,政党よりも政治家個々人が重要なアク

ターとして登場したのかという問題について,考察していきたい。その上でまず,大きく2つ,

すなわち,システムや制度,構造といった「外的要因」と,政治家や政党自体に関する「内的要因」

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に分けて論じることが必要であると考える。

第1節 外的要因

1.選挙の問題

 ソ連最初の本格的自由選挙は,1989年3月のソ連人民代議員選挙であった。ただ,全議席の3

分の1が,選挙民によって直接選ばれない社会団体の代表が占める制度になっていた。この社会

団体にはソ連共産党や,コムソモールなどが含まれており,体制側の勢力が多数を占めることが意

図されていた78。さらに,選挙区選挙においても,複数候補制が取られたものの,在野の政党が選

挙活動をし,候補者を送りこむことはできなかった79。ただ,この当時,在野勢力は未発達であ

り,選挙で戦えるような政党が結成されていなかったという事突はある80。

 それに続き,1990年3月に,ロシア共和国などで人民代議員選挙や地方ソヴィエト選挙がおこ

なわれた。選挙制度は共和国によって異なるが,概して,共産党や官製組織に議席を優遇するよう

な制度は採られなかった81。この選挙に合わせて,選挙ブロックが形成され始めたが,その代表

が,ロシア共和国で民主勢力を包括することを目指し,1990年1月に結成された「民主ロシア」

ブロックであった。このブロックの議員が,ロシア共和国や,モスクワ,レニングラードなどの都

市で勝利を収めたが,このブロックの傘下に入らなかった民主連合,「パーミャチ」といった団体

は敗北した82。

 しかし,この時,憲法第6条が修正され,複数政党制の道は開けつつあったものの,代替政党

の存在はまだ,法的には認められておらず,あいまいなままであった83。一般的に,政党制が未発

達の国では,採用された選挙制度にもよるが,選挙を経ると,政党システムは安定する84。なぜな

ら,1つでも多くの議席を獲得するために,選挙前にあらかじめ政党間で合従連衡がおこなわれ,

また,支持を得られない政党は競争選挙で淘汰されていくからである。しかし,ソ連では,複数政

党制が認められていないなかで選挙がおこなわれたので,政党所属の議員が存在しながら,この政

党が議会で活躍する場が制度的に与えられなかった。要するに,S.フィッシュの言葉を借りれ

ば,当時は,「自由化に先立つ民主化(すなわち,政党を禁止しながらの自由選挙の実施)」という

状況下にあった85。

2. 議会制度の問題

 ペレストロイカ後に,新たに設けられた議会(ソヴィエト)は,かつての制度を残存させたまま,

改革がおこなわれたため,必ずしもうまく機能しなかったと考えられる。その理由として,いくつ

かあげられる。まず,定員の問題があった。ソ連人民代議員大会について言えば,定員が2250名

であり,立法活動をおこなうにはあまりに多すぎた(その上部機関であった最高会議は定員542名

で,立法機関としてはこちらのほうが重要であった86)。25万人規模の都市のソヴィエトでは,だ

いたい200名が定員だったとされる87。次に,ソヴィエトそのものの数の多さもまた,問題であっ

                   一106一

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た。ソ連全体で約3000のソヴィエトがあったといわれているee。

 3番目に,実質的な権力の問題があった。確かに,ソヴィエトは1989年以前よりは,実質的な権

力を持つようになったが,ある時期までは種々の権力は党や国家機構に握られていた。もちろん,

既述の通り,徐々に党の影響力は低下していったことは付け加えておきたい89。

 4番目にあげられるのが,ソヴィエト制度そのものの抱える問題であった。ソヴィエトは元来,

立法権と執行権,さらには司法権も兼ね備えた組織であり,新しいソ連人民代議員大会も「最高国

権権力機関」とされていた。ただ,1990年3月に大統領制が導入されて執行権が分離し,4月には

司法権も独立した結果,三権分立に近い状態が生まれた。ただ,実際とは異なる権限の上でのソヴ

ィエト優位の状況は続いており,各権力間で権限をめぐって衝突が起こる可能性が秘められてい

たgo。

 したがって,本来,政党は議会を活動の中心にすべきであるにもかかわらず,ソ連末期には,そ

のような状況になかったことが浮き彫りとなる。

3.社会的亀裂の欠如

 自由化期以降,ソ連だけでなく,社会主義体制一般において,社会経済的側面における亀裂

(cleavage)が欠けていたため,ある社会集団の利益を代表するような政党は生まれにくかった。

要するに,社会主義体制下では,資本主義体制を採る国々と比較して,社会階層の分化が小さく,

特に資本家,中産階級といった階層は存在しなかったか,微弱な勢力であった。よって,社会経済

的基盤に応じて,政党が発生する動機に欠けた91。例えば,ロシア社会民主党は,「新しい中産階

級」に基礎を置くことを目指す方針を掲げていたが,当時まだ,そのような階級は出現していなか

ったとされる92。

 その結果,ソ連や東欧諸国の政党の多くは,あらゆる階層の利益を代表していると主張し,包括

政党を目指す傾向にあった93。では,それら政党間の差異はどこにあったのだろうか。結局,ソ連

末期の政党の分節点は,政治理念やイシューによる差異(西欧型デモクラシー,ナショナリズム,

ロシア正教,環境主義,フェミニズムなど)か,「将来の」経済政策をめぐる見解の違い(自由主

義・資本主義,社会民主主義,現状維持・反資本主義など)にしかなかったといえる。しかも,各

政党によって,包括化の試みがなされてきたにもかかわらず,必ずしも,さまざまな利益の集約や

各勢力の統合が成功したとは言えない94。

 さらに,地域的亀裂の問題もある。この亀裂は,社会の多元化や民主的な政党間競争にとって不

都合な条件を生み出すという指摘もある95。地域的問題が,結果として体制崩壊を導いたとも考え

られるが,この問題については別稿で改めて論じてみたい。

4.伝統の欠如

 ソ連・ロシアでは,1917年以来,自由選挙がおこなわれてこなかった。当然のことながら,さ

                   一107一

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まざま党派が議会で相争うような,いわゆる「政党政治」の経験もそれ以来,中断された96。同じ

社会主義体制でも,第2次大戦後に社会主義化された東欧諸国では,共産党以外の政党が,およ

そ40年の時を経て,1980年代末に復活した。ソ連では,どこよりも長く社会主義体制が維持され

てきたので,革命前のイメージを想起させるカデットや社会民主党などの諸政党も誕生したが,以

前のものと,まったく継続性はなかったといえる97。さらに,約70年にわたるソ連共産党支配の結

果,大衆のあいだで「党(naPTHfl;party)」という言葉について負のイメージが固定化されたこと

も指摘しておくべきだろう98。

5.法的問題

 1990年の社会団体法では,政党は他の社会団体と区別され,独自の規定が設けられた。特に,

前述の通り,連邦規模の政党には,15共和国のほとんどの地域にわたり組織を抱え,党員が5000

人はいなければならなかった。よって,全連邦的政党を登録することは難しかったが,共和国以下

のレヴェルでは,その規定は当てはまらなかった99。よって,全連邦的政党は生まれにくかった。

そのほか,政党にのみ,団体会員の禁止,外国からの援助の禁止,綱領と予算の公表の義務といっ

た制約も課された。

 さらに,政党と政治運動のあいだにも差異があり,政治運動(例えば,「民主ロシア」や民主改

革運動)には,政党のように,一定数の党員の確保や,外国人メンバーの禁止という事項は当ては

まらず,法的制限はかなり緩やかであった100。政治運動のほうが,登録が容易であったがゆえ

に,政党の結成が遅れたとみることもできる。

6.移行期特有の流動性

 旧体制下で,反対政党の存在が認められてこなかった場合,自由化後の移行期において,安定し

た政党システム形成に対して多くの障害があり,その結果,多党化現象が起こる101。移行期にお

いては,資源の不足(財政,組織,人間)や,移行期に課せられる政治的,社会的業務の煩雑さの

問題も重なり合い,政治家が政党の発展に優先的に取り組む動機を欠く102。これは他国でも見ら

れる一般的現象である103。社会主義体制下,特にソ連では,社会が極度に原子化されていたがゆ

えに,小党分裂という現象はその状況を反映していたとされる104。南欧やラテンアメリカの権威

主義体制諸国では,反対政党が,すでに移行期に体制側と対峙しうる勢力として存在し得たことと

比べると,社会主義諸国の状況は,民主化過程における政党の役割という点で,大きく異なってい

たといえる105。

第2節 内的要因

1.政治家の行政機構への進出

 1991年にロシア共和国大統領に就任したエリッイソを筆頭に,副大統領になったルッコイ,モ

一108一

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スクワ市長になったポポフ,レニソグラード(現サソクトペテルブルグ)市長になったサプチャク

など,当時著名だった政治家たちは次々と行政機構へと進出した。そのため,政党を組織化し,発

展させる余裕は彼らにはなかった。名の売れた政治家が,政党指導者として残存しなかったため,

結果として,政党の発展が阻害された106。

2.政治家の政党軽視

 政治家のなかで,相対的に弱い権力しか持たなかった議会(ソヴィエト)での活動を,自らの政

治的野心を達成するためだけの手段として考えるものが多かった。現実においても,テレビなどを

通じて,彼らの議会の演説や報告が大衆の耳目に触れ,無名な政治家が有名になり,その結果,議

会が彼らの政治的ステップアップにとっての踏み台となった。そうなると,政治家は政党に依拠し

ながら政治活動をおこなうよりも,自らの名前を掲げて政界に進出したほうが得策だと考えるよう

になったと思われる。また,前述のように,選挙も政党の組織化を促さず,議会においても政党が

十分に機能しなかったので,政治家は政党に拘束されることはなかった。結局のところ,政党それ

自体も,野心的な政治家たちにとっては,公職を追求するための道具と考えられていた107。

 政党を軽視した政治家の顕著な例が,エリツィンだろう。彼は1991年6月のロシア共和国大統

領選で「民主ロシア」などから支援を受けたにもかかわらず,その後,政党から超然とした態度を

取り,大統領支持政党の結成を受け入れなかった。J.リンスとA,ステパンは,1991年8月クーデ

ター後,エリツィンが11月に新たに議会と大統領の選挙を呼びかけていたら,議会も,さらには

大衆もそれを受け入れていただろう,と述べている。要するに,この議論は,その時期に選挙がお

こなわれていたら,親エリッイソ政党が形成され,1993年における大統領と議会の衝突のような

混乱は起きなかった,というものである108。

3.政党の構造

 様々な立場の人間を糾合するため,緩やかな規律で運営しようとする政党が多かったが,それが

反対に内部分裂を引き起こす要因となった。議員たちは議会において,政党を組織的に強化するこ

とに関心がなく,それをおこなう責任感をもまた欠いていた109。この原因の1つとしてあげられ

るのが,旧党エリートの態度であったとされる。つまり,共産党の厳しい規律のなかに身を置いて

いたかつての党員が,またそのような規律が導入されることを嫌ったからだという指摘である110。

 また,この時期(さらには現代ロシアにおいても)の政党の多くで,指導者による個人支配およ

び寡頭支配に近い状況がみられた。ロシア民主党のトラフキソや,自由ロシア人民党のルッコイ,

そして,民主改革運動の発起人たちなどが,それにあてはまろう。結局,そのことが災いし,党内

の分裂を招き,各政党はなかなか一枚岩を誇ることができなかった111。

一109一

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4.選挙のための連合

 現在のロシアでもしばしばみられる傾向であるが,選挙前に駆け込み的に政党および政治ブロッ

クが結成されることも多かった。R.サクワは,選挙に勝つ目的のためだけに結成され,次の選挙

までのあいだに消え去ってしまうような政党を「疑似政党(pseudo・party)」と呼んだ112。要する

に,選挙後に政党がそれほど重視されていなかったことが明らかとなる。

5.大衆の関心喪失

 かつて反体制的デモなどに関わった人たちは,ソ連体制崩壊前後に,急激に運動から退却した。

対抗すぺき対象(共産党,ソ連体制)が弱体化し,消え去った時,彼らが活動を続ける意義もまた

消滅した。大衆のなかで,政治に対する関心の急激な低下が起こり,日常的利益と政治的関心のあ

いだで乖離が起こった113。この傾向は,特に東欧諸国で顕著にみられた現象であったが114,ソ連

 ロシアでも同様であった。特に,政党間の分裂や政党内での内紛が,大衆を政治から引き離す要

因となったともいえる115。

おわりに

 以上,ペレストロイカ期の政治的変容を踏まえ,ソ連末期において,なぜ政党がうまく機能しな

かったのか,という問題について考察してきた。他の社会主義諸国の移行期と比較すると,ソ連に

おいて,「反対政党」がそれほど重要な役割を担ってこなかったことが明らかとなる116。特に,中

欧諸国(ポーランド,ハソガリー,チェコスロヴァキア)では,旧体制の崩壊において,政党が一

定の役割を担ったことが確認されている117。

 その差異は,以下のように説明することができるのではないだろうか。まず,ソ連ではペレスト

ロイカ期まで,市民生活が原子化されており,自立的結社の形成はほとんどみられなかった。これ

を「市民社会」の成熟度の問題で考えるなら,社会の多元化がある程度進んでいたポーランドなど

と比べると,ソ連の市民社会は脆弱であったといえる。それに加えて,反体制派も,中欧諸国に比

べて,大衆に根を張って組織化されてはおらず,体制を揺さぶるほどの存在足り得なかった。その

違いは,社会主義体制が維持されてきた長さに比例すると考えられる118。したがって,社会の原

子化と,反対派の孤立によって,ゴルバチョフの登場以降,すぐに在野勢力が結集することができ

なかった119。

 そうした在野勢力,特に政治結社が台頭しておらず,制度的にもまだその存在が許されていない

状況下で,自由選挙がおこなわれた。その結果,議員の多くが政党よりも政治家個人の力で議席を

獲得する傾向にあった。そして,その政治家たちのうち,著名な人々は共和国や大都市の行政府へ

と進出し,政党を組織化する動機も余裕も欠いた。また,議会でも政党が活動する余地は少なく,

議会外で離合集散を繰り返し,最終的には,大衆の離反を促す結果となった。もちろん,政党を組

織化しようという試みもみられたが,共産党という敵の消滅と軌を一にして,「反対政党」として

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の存在意義はなくなった。一方,東欧諸国では,自由選挙の前に,「反対政党」は様々なかたちで

組織化されており,選挙は政党本位で争われた。よって,ソ連では,政党が台頭する前,およびそ

れが認められる前に,自由選挙がおこなわれたところに,その役割が決して大きくなりえなかった

原因をみることができよう。それに加えて,もちろん,政治家個々人の「政党離れ」という要因も

無視することはできない。

以上,移行期におけるソ連の政党の問題を扱ったが,この議論は,現代ロシアの状況に大きな影

響を与えたと考えられる。今後,ソ連末期から,新生ロシアに議論の対象を広げて論じることを目

指したい。

1PoccHticKafi ra3eTa,9neKa6pH 2003 r.

2伊東孝之「東欧諸国の議会と政党 序論的考察」(伊東孝之編『東欧政治ハンドブック 議会と政党を中心

 に』日本国際問題研究所,1995年所収),21頁。

3Grigorii V. Golosov, ‘‘Who Survives? Party Origins, Organizational Development, and Electoral Performance

 in Post-communist Russia,”in Political Studies(Vo1.46, No.3,1998),p.512.

4この時期区分は,S.フィッシュの分類に依拠した。ただ,彼の分析は1991年初頭の段階までで4つの区分

 をおこなっていたが,その後の変動の過程を踏まえて,本稿ではもう1つの段階を付け加えた。Steven

 Fish,‘‘The Emergence of lndependent Associations and the Transformation of Russian Political Society,”in

 /burnal of Communist Stzadies(VoL 7, No.3, Sep.1991),pp.302-308.

5ミハイル・ゴルバチョフ(工藤精一郎,鈴木康雄訳)rゴルバチョフ回想録』上,1995年,405頁。

6Michael McFaul and Sergei Markov, The Troubled Birth ofRussian 1)emocraqy: Parties, Personalities,αnd Pro-

 grams(Stanford, California:Hoover Institution Press,1993),p.2.

7C. E.3acJlaBcK曲, flonHTMgecKHe napTfiH PoccHH:npo611eMbi npaBoBoti HHcTHTYUHoHaJIH3allHH, M.:HH-

 cTHTYT npaBa H ny6JIHqHo貢nonHTHKH,2003, c.53.

8Fish,‘‘Independent Associations,”p.302.

9McFaul and Markov,⑫碗., p.2.

103ac∬aBcKH覚, noJIHTHqecKHe napTvaH PoccHH, c.53.

11この結社の源は1982年に作られた官製組織。1986年ごろから組織化。1987年ころから,分裂を繰り返す。

 反ユダヤ,反西欧を掲げた。以下,各政党・政治結社についての説明については,次の資料を参照した。

 Vladimir Pribylovskii, Dictionary ofPolitical」Pantes and Organizations in Russia(Washington, DC:The Cen-

 ter for Strategic and International Studies,1992);McFaul and Markov, op. cit.;Mary Buckley,‘‘Political

 Groups and Crisis,”in/burnal of Communist’ Studies(Vo1.9, No.1, Mar.1993),pp.173-191;Geoffrey A.

 Hosking, Jonathan Aves alld Peter J. S。 Duncan(eds.),The Road to Post-Communism’ lndePendent Political

 Movements in the Soviet Union 1985-1991(London:Pinter Publishers,1992);ラヂオプレス編『ロシアの現

 況』ラヂオプレス,2000年,194-232頁;塩川伸明「旧ソ連における複数政党制の出発」(木戸蕩,皆川修

 吾編『スラブの政治』「講座・スラブ世界」第5巻,弘文堂,1994年所収),191-223頁;中村裕『ロシアの

 議会と政党』(ユーラシア・ブックレット)東洋書店,2000年。

12C. r. OcbMaqKo, no∫IHT四ecKoe H collHaJlbHo-3KoHoM四ecKoe pa3BHTxe CCCP, PoccHticKotiΦe耳epaUHH

 (1985-1999rr.):MoHorpaΦH兄, flpocnaBnb:H3n-Bo月rry,2003, c.15.

13Ronald J. Hil1,“The CPSU:From Monolith to Pluralist?”in Soviet Studies(Vol.43, No.2,1991),p.223.

14Jb id., p.222.

15Ronald J. Hill and John L6wenhardt,‘‘Nomenklatura and Perestroika,”in Government and Opposition(Vol.

 26,No.2, Spring 1991),p.237.

一111一

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16この選挙法の成立過程と,新選挙システムの問題点を指摘したのが,森下敏男「ソビエト選挙システムの

 改革 1988年新選挙法の成立」『神戸法学雑誌』第39巻第2号,神戸法学会,1989年,337-410頁;Georg

 Brunner,‘‘Elections in the Soviet Union,”in Robert K. Furtak(ed.),Elections in Soct’alist States(London:

 Harvester Wheatsheaf,1990),pp.20--52.

173acHaBcKmb, nonHTHqecKHe napTHH PoccHH, c.54-55.

18Fish,‘‘Independent Associations,”p.303.

19McFaul and Markov, op.磁, p.3.

203acnaBcKmb, noJmTHqecKHe napTHH PoccMH, c.53.

211988年5月に結成。公式に自立的団体が認められていない段階から活動を開始した。急進的な綱領や活動

 を掲げたが,結局広い大衆の支持を得らなかった。

22McFaul and Markov, op. cit., pp.3-4;3acnaBcKHfi, nonnTMgecKHe napTHH PoccHH, c.54,

23Michael E. Urban, More Power to the Soviets: the Democratic Revolution in the USSR(Aldershot, England:E.

 Eager,1990), pp.111-116;森下敏男「1989年ソ連邦人民代議員選挙の分析」『神戸法学雑誌』第39巻第4

 号,神戸法学会,1990年,853-859,863頁。

24McFaul and Markov, op. cit., pp.6-7.

25Brendan Kiernan and Joseph Aistrup,“The 1989 Elections to Congress of People’s Deputies in Moscow,”in

 Soviet Stadies(Vol.43, No.6,1991),p.1052;Urban, op. cit., p.112.

261989年6月,第1回ソ連人民代議員大会で議会会派として,エリツィソ,サハロフら急進改革派が中心と

 なって結成された。のちの民主派の活動に大きな影響を与えた。

27軍人のアルクスニス大佐らを中心に,1990年2月に結成された。ソ連邦の維持を主張し,のちに,新連邦

 条約の締結に対して反対の論陣を張った。

28D.レーソ, C.ロス(溝端佐登史ら訳)『ロシアのエリート 国家社会主義から資本主義へ』窓社,2001年,

 131-132頁。

29Fish,‘‘Independent Associations,”p.304.

30McFaul and Markov,(op. cit., p.8.

31D. M.コッッ, F.ウィア(角田安正訳)r上からの革命 ソ連体制の終焉』新評論,2000年,230-233ペー

 ジ;Fish,‘‘Independent Associations,”p.305.

320ttorino Cappelli,“The Short Parliament 1989-91:Political Elite, Societal Cleavages and the Weakness of

 Party Politics,”inノ’oumol(of Communist Studies(VoL 9, No.1, March 1993),p.122.

33Fish,‘‘Independent Associations,”p.306.

34McFau1 and Markov, op. cit., p.4.

35木村明生『ロシア同時代史 権力のドラマ ゴルパチョフからプーチソへ』朝日選書,2002年,25頁。

36前掲『ゴルバチョフ回想録』上,609頁。

37森下敏男「ソビエト・システムの崩壊と大統領制の誕生」『神戸法学年報』第6号,神戸大学法学部,1991

 年,172頁。

38各政綱の分析については,上野俊彦「ソ連邦共産党第28回大会をめぐる諸問題」『法学研究』第68巻第2号,

 慶応義塾大学法学研究会,1995年,342-346頁。

39Richard Sakwa, Russian Politics and Society(London:Routeledge,1993),p.133.

40上野俊彦「ソ連共産党解体過程の分析」『国際政治』第104号,1993年,16-34頁。

41前掲『ロシア同時代史』37頁。

42Jeffrey Surovell,‘‘Gorbachev’s Last Year:Leftist or Rightist?”in Europe-Asia Studies(Vol.46, No.3,1994),

 p.467;A.ヤコブレフ(月出鮫司訳)『歴史の幻影 ロシアー失われた世紀』日本経済新聞社,1993年,

 217-222頁。

43前掲『ロシア同時代史』31-37頁。

441990年のロシア共和国人民代議員選挙の分析として,Gregory J. Embree,“RSFSR EIection Results and

 Roll Call Votes,”in Soviet Studies(Vol.43, No.6,1991),pp.1065-1084.

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451990年1月結成。同年3月のロシア共和国議会選挙に向けて作られた民主諸派のゆるやかな連合体。共産

 党の代替を目指したが,路線(ソ連維持か解体かなど)を巡って内部対立。ソ連崩壊前後,四分五裂を繰

 り返した。

46McFaul and Markov, op. cit., p.9.

47Golosov, op. oゴ’., p.520.

48McFaul and Markov, op. ct’t., p.11.

491bid., P.11;Golosov, op.α1’., PP.520-521.

501990年3月結成。ジリノフスキーを中心とした政党で,彼の過激な言動が注目を集める。1991年6月には

 ジリノフスキーがロシア大統領選に出馬も落選。現在では,ロシア自由民主党となり,下院に議席を有す

 る政党になっている。

51Pribylovskii, op. Cit., p.45.

52Golosov, op. cit., p。522.

53邦訳は,遠藤克巳「旧ソ連における団体観の変遷(3) 1990年結社法の制定をめぐって」『名古屋大学法政

 論集』第151号,名古屋大学法学部,1993年,355-367頁。

54HHKo月a盈neTpo, nyTb K MHorondpTHtiHocTH H 3aKoHHocTb,く《06mecTBeHHble HayKM H coBpeMeHHocTb》》, No。

 3,1992,c.170-174;3acπaBcKH疏, no∫mT四ecKHe napTHH PoccHH, c.58.

55Pribylovskii, op. oit., p.25.

56Golosov, op, cit., p.523.

57Surovell, op. cit., P.479.

58前掲『ロシア同時代史』74頁。

59Surovell, oP. cit., pp.477-480.

60Sakwa, op. cit。, p.134.

61前掲『ゴルバチョフ回想録』下,624-634頁;前掲『歴史の幻影』209-211,311-313頁。

62下斗米伸夫「ソ連邦崩壊の中の共産党 1990-91」『国際政治』第99号,1992年,30頁。

63Sakwa, Op cit., p。137.

64John B. Dunlop,‘‘The August 1991 Coup and Its Impact on Soviet Politics,”in/burnal of Cold War Studies

 (Vol.5, No.1, Winter 2003),p.121;石郷岡健『ソ連崩壊1991』書苑新社,1998年,336頁。

65前掲『ゴルバチョフ回想録』下,669-673頁。

66Dunlop, op. cit., pp.122-123.

67Sakwa, op. cit., p.148;前掲「旧ソ連における複数政党制の出発」208頁。

68Sakwa, oρ. cit., p.146.

691991年12月結成。ヤコヴレフ,シェワルナゼ,シャターリン,ポポフ,サブチャクといった著名な政治家

 が中心となって7月に結成を呼びかけた。だが,結成前に8月クーデターが起こり,強力な政治運動には

 なれなかった。

70Pribylovskii, op. cit., p.49.

71Sakwa, oρ. cit., p.146.

72前掲「旧ソ連における複数政党制の出発」208頁。

733acnaBcKHti, nonHTHgecKHe napTHH PoccHH, c.60。

74Sakwa, op. cit., p.148.

751bid., p.146;前掲「旧ソ連における複数政党制の出発」215頁。

763acnaBcKHn, ”ormTHqecKlle napTHH PoccHH, c.60;前掲「旧ソ連における複数政党制の出発」218-219頁。

77前掲「東欧諸国の議会と政党 序論的考察」7-9頁;鈴木輝二「一党制から多党制へ 中東欧における民主

 化過程と正統性」(白鳥令,砂田一郎編『現代政党の理論』東海大学出版会,1996年所収),296-309頁。

78ただ,地域的利害を代表しえない中央の指導者や知識人は選挙区では不利なので,複数政党制導入が,彼

 らを救済する意図を含んでいた,という指摘もある。上野俊彦「ロシアの選挙制度」(前掲『スラブの政治』

 所収),135-136頁。

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79McFaul and Markov, op. cit., p.7,

80Michael McFaul,“Party Formation after Revolutionary Transitions:The Russian Case,”in Alexander Dallin

   (ed.),Politiaal」Parties in、Russia.(Berkeley, CA:International and Area Studies,1993),p,23.

81Juan J. Linz and Alfred Stepan, Problems(ofDemocratic Transition and Consolitlation:Southern Europe, South

  、4meriαa, and Post- Commun ist EuroPe(Baltimore:The Johns Hopkins University Press,1996),p.382.

82McFaul and Markov, op. cit., p.9;neTpo, nYTb K MHoronapTHnHocTH H 3aKoHHocTb, c.176.

83Jerry F. Hough, Democratization and 1~evolution in the USSR,1985-1991(Washington, D. C.:Brookings In-

  stitution Press,1997),pp.292-293.

e「Golosov, oP. cit., p.511;前掲「東欧諸国の議会と政党 序論的考察」11頁。

85M. Steven Fish, Democraqy from Scratch:()pposition and Regi’me in the New Russian Revolution(Princeton, N.

  J.:Princeton University Press,1995),p.131.

86森下敏男「立法と司法のメカニズム」(前掲『スラブの政治』所収),69-70頁。

87Fish,1)emocraのy from Scra tch, p.132.

88McFaul and Markov, oρ.α”., p.13.

89Fish, Z)emocracly from Scratch, p.134.

90前掲「立法と司法のメカニズム」71頁;McFaul and Markov, op. cit., p。13.

91Sakwa, op. cit.,P.169;CapPelli, op. cit., PP.112-113;Geoffrey A. Hosking,‘‘The Beginnings of Independent

  Political Activity,”in Hosking, Aves and Duncan(eds.),op. cit., p.1.

92McFaul and Markov, op. cit., p.12.

93前掲「東欧諸国の議会と政党 序論的考察」11-12頁。

94Sakwa, op. cit., p.169.

95 Cappelli, op. cit., pp.112,125-127.

963acJlaBcKH藪, nonHTMqecKHe HapTHH PoccHH, c.49.

97McFaul, op. cit., p,13.

981bid., pp.18-19;Linz and Stepan, op. cit., p。247.

99neTPo, nyTb K MHoronapTHnHocTH H 3aKoHHocTb, c.173-174.

1003acnaBcKHti, nonHTHgecKHe napTHH PoccHH, c.61-62.

101Golosov, op. cit。, p.511,

lo2 Paul Lewis,‘‘Civil Society and the Development of Political Parties in East-Central Europe,「’in/burnal(of

   Communist Studies(Vol.9, No.4, Dec.1993),p.14.

103Alexander Dallin,‘‘Introduction,”in Dallin(ed.),op. cit., p.5.

104McFaul, op. cit., p.19;前掲「東欧諸国の議会と政党 序論的考察」9頁。

105Linz and Stepan,(Op. cit., p.247.同様の見解として, McFaul, op. cit., p. 24.

lo6 Sakwa, op. cit., p.168.

lo7 Fish, Democraqソ〆from Scratch, pp.133-135.

lo8 Linz and Stepan, op. cit., pp。393-394.

109Fish,1)emocraのノ from Scra tch, p.134.

110Robert V. Barylski,‘‘The Russian Case:Elite Self・Emancipat孟on,”in Marco Rimanelli(ed.),Comparative

  Democratization and、Peaceful Change in Sf㎎」θ一」%吻一1)ominant Countries(Basingstoke:Macmillan Press,

   2000),p.227.

lll Sakwa, op. cit., p.166.

1121bid., p.171.

1133acnaBcKHPt, nonHTHMqecKHe napTHH PoccHH, c.62.

114Aleksander Smolar,‘‘From Opposition to Atomization,”in Journal Of Democraay(Vol.7, No.1, Jan.1996),

   pp.28-30.                    .

ll5 Sakwa, op. cit., p。169.

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116M.シュガートは,移行期の制度選択に関する比較研究から同様の結論に達している。 Matthew Soberg

 Shugart,‘‘The Inverse Relationship between Party Strength and Executive Strength:ATheory of Politi-

 cians’ConstitUtional Choices,”in、Bガ’醇ゐノbtcmal of Politiαal Scr’ence,(VoL 28, No.1,1998),pp.1-29.

117Lewis, op.δ∫., pp.14-16.

118塩川伸明『現存した社会主義 リヴァイアサンの素顔』動草書房,1999年,411-412頁。

1!9社会の多元度の高低によって,反対運動の展開が異なるとしたのが,T.レミソトソである。彼は,社会の

 多元度が低いと大衆の暴動が発生しやすく,高いと平和的な交渉が行われる可能性が高いと論じた。Tho-

 mas E Remington,‘‘Regime Transition in Communist Systems:The Soviet Case,”in Frederic J. Fleron Jr.

 and Erik P. Hoffman(eds.),、Post-Communist Studies and Politiaczl SCience: Methodology and EmPiriαal Theo2 y

 in SovietolOgy(Boulder&Oxford:Westview Press,1993),pp.286-287.

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