と毛武游記 - アルテコarteco.jp/kazan/kazanmap02.pdf東武桐生線 東武伊勢崎線...

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赤城駅 上毛電鉄上毛線 東武桐生線 ベイシア 要害山 高津戸峡 利根川 渡良瀬川 338 348 73 78 122 122 122 353 前橋方面 足尾方面 ながめ公園 入口 大間々3 大間々駅入口 大間々6 大間々駅前 大間々図書館 道了権現 ローソン コノドント館 岡直三郎商店 0 200 100 300m N 神明宮 高津戸橋 はねたき橋 ながめ余興場 「山間木葉をふみてくだれば渡しありといふ。川の真中に綱 引き渡し此縄をかじとなして棹を用いず。これまた渡瀬川な り。左ざまより巌聳て上はただ松暗きばかりに生ひしげり、中 に霜葉の打ちまじりたるいとあわれなり」 「又此川にそいて行、神明の古祠あり、 これなん此わたりの生土神といふ。社後 巌をとり木の根につきて渓に下ればは ね滝といふ。又渡瀬川の上流にて水石 せかれて瀑をなす、よりてかく呼なるべ し。夏の程は香魚下流より登りこの滝を 越えんとし飛びあがるを、石に坐て網を さし出せばあやまつて其中に落るを取 る、一時数百尾まことに愉快なることぞ。 道了権現に謁し茶店に飲す」 崋山 歩く要害山 高津戸峡 「今は要害山とて上八幡(金毘羅)社あり、社の後に大きやかなる石半地に入りていとゆ えゆえしく、しめなど打ちかけて名(空字)といふ。山下は渡良瀬川の水上に左右巌競ひ 出て河中に攅立す、いはばものヽふ剣もて戦ふ如く、急流これにせかれて百千の玉となり 瑠璃なせる水と照り合ふさま筆にも詞にも及ぶまじ」 要害山より望む赤城山 高津戸はね滝 高津戸の渡し 「此わたりは大間々とて昔は村なりけるが今は人家稠密に なりて機織りをもはらとす。月六たび絹糸の市をなし、遠き 村よりも人いりつどひて終に上にも村とは称さずして町とは 申せしとぞ。街凡十町あまり家六七百戸にあまりぬらん」 大間々の町図 (これは足利の町図でした。) 手振山と赤城山 (要害山近くより) 桐生滞在の日程要約 崋山 毛武游記 崋山は10月12日の夜遅く桐生新町の岩本家(妹茂登の嫁ぎ 先)に着いています。桐生新町二丁目にあった岩本家を拠点に して活動するのですが、桐生だけでなく精力的にその周辺に足 を伸ばしています。この月の月末までが毛武游記に記録されて いますが、崋山は11月5日まで滞在し、6日に次の調査地・熊谷 付近の三ヶ尻へ旅立っています。 大間々 前小屋 桐生 妻沼 足利 金山 大間々の要害山・高津戸を歩く。 10月16日 四方山話で一日を過ごす。多くの人があいさつに訪れる。 10月13日 岩本家の墓参り、美和神社から雷電山散策する。 10月14日~15日 多くの桐生の人たちと交流する。雨のため根本山登山中止。 10月17日~20日 終日絵画を描いて過ごす。 10月24日 桐生文化人と交流、桐生のまち中を散策、織物の調査など。 10月25日~28日 渡辺崋山の人物像 三河田原藩藩士(1793~1841)。 田原藩は渥美半島付け根に 位置する1万2千石の小藩。 崋山の人物像を要約すると、 ● 江戸詰の藩士として生涯のほとんどを、江戸城近くの 三宅坂藩邸内で過ごす。 ● 高志、清廉、孝養心の厚い武士として生きた。40代よ り藩家老としての手腕を奮う。 ● 学者としても傑出している。儒学に加えやはり40代よ り本腰を入れて蘭学・洋学に傾倒する。 ● 画家としても超一流。特に肖像画に優れ、「鷹見泉石 像」は最高の傑作とされ国宝に指定される。 ● 俳諧、和歌、漢詩にも通じ、「南総里見八犬伝」作者の 滝沢馬琴親子とも親しい。「毛武游記」に見られるようにリ ズム感ある文章にも秀でている。 ● 酒好きで人と議論することも好み、相手の身分にこだ わらず多くの人と交遊した。 ● 内剛外柔型の温和な性格でかつ人間的包容力が大 きい。 ● 海外事情に通じていたために幕府の硬直した鎖国政 策を憂慮した。そのため「蛮社の獄」に連座し、最期は武 士道に殉じて切腹し、49歳の生涯を閉じた。 江戸幕末期における時代に目覚めた先覚者である。 渡良瀬川第一の景勝地である要害山と高津戸 峡を見せたいと、岩本茂兵衛が崋山を案内し た。ついでに、自らの生家(堤村の谷家)と養い 親(天王宿の今泉家)も訪れた。 2泊3日で足利に遊ぶ。 10月21日~23日 足利第一等の知識人である文人代官・岡田東 塢に崋山を引き合わせるために、奥山昌庵と佐 羽蘭渓が案内した。崋山と東塢は学問から絵画 論まで一晩語り明かし、もっとも心を通わせた 友人となった。 1泊2日の日程で利根川を越えて 前小屋の書画会へ出掛ける。 10月29日~30日 足利の代官・岡田東塢が崋山を誘ったものであ る。崋山は桐生の次の旅である深谷・三ケ尻調 査の便宜と斡旋を東塢に依頼していたが、それ に応える目的があった。 大間々の大通りの木戸門や 町中央右手の大きな蔵な どが描かれて興味深い。大 通りに面した商店は、通り に対して少し斜めに店構を しているように見える 大間々の歴史一口メモ 大間々の「間々」とは崖の意である。渡良瀬川が削った崖の上に町が ある。生糸や絹織物の集積地であり、足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ 「銅(あかがね)街道」の要衝でもあった。

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  • 赤城駅

    上毛電鉄上毛線

    東武桐生線

    ベイシア

    要害山

    高津戸峡

    渡良瀬川

    利 根川

    渡良瀬川

    338

    348

    73

    78

    大間々駅

    わたらせ渓谷鉄道

    122

    122

    122

    353

    桐生方面

    前橋方面

    足尾方面

    ながめ公園入口

    大間々3

    大間々駅入口

    大間々6

    大間々駅前

    大間々図書館

    道了権現

    ローソン

    コノドント館

    岡直三郎商店

    0 200100 300m

    N

    神明宮

    高津戸橋

    はねたき橋

    ながめ余興場

    「山間木葉をふみてくだれば渡しありといふ。川の真中に綱引き渡し此縄をかじとなして棹を用いず。これまた渡瀬川なり。左ざまより巌聳て上はただ松暗きばかりに生ひしげり、中に霜葉の打ちまじりたるいとあわれなり」

    「又此川にそいて行、神明の古祠あり、これなん此わたりの生土神といふ。社後巌をとり木の根につきて渓に下ればはね滝といふ。又渡瀬川の上流にて水石せかれて瀑をなす、よりてかく呼なるべし。夏の程は香魚下流より登りこの滝を越えんとし飛びあがるを、石に坐て網をさし出せばあやまつて其中に落るを取る、一時数百尾まことに愉快なることぞ。道了権現に謁し茶店に飲す」

    「葉鹿村に出、民家二戸一は糖果生果をうる。又うるかをひさぐ、一は酒飯あり、この家岩本氏が事を知り、予が其妻の兄ときゝ 妹の貞操を称す、心甚よろこぶ」

    崋山と歩く要害山と高津戸峡

    「今は要害山とて上八幡(金毘羅)社あり、社の後に大きやかなる石半地に入りていとゆえゆえしく、しめなど打ちかけて名(空字)といふ。山下は渡良瀬川の水上に左右巌競ひ出て河中に攅立す、いはばものヽ ふ剣もて戦ふ如く、急流これにせかれて百千の玉となり瑠璃なせる水と照り合ふさま筆にも詞にも及ぶまじ」

    要害山より望む赤城山

    高津戸はね滝

    高津戸の渡し

    「此わたりは大間 と々て昔は村なりけるが今は人家稠密になりて機織りをもはらとす。月六たび絹糸の市をなし、遠き村よりも人いりつどひて終に上にも村とは称さずして町とは申せしとぞ。街凡十町あまり家六七百戸にあまりぬらん」

    大間々の町図(これは足利の町図でした。)

    「この森は生品明神のおはせばかくはいふ。此もり木草きりとれば必病を得るとてたれ手をつくるものなし。秋は茸出る、往来の人もしあやまりてとり喰う事あれば、あしとて此村より札をたてゝ 人にしめすとぞ。此森を通れば田間に牛の塔あり」

    「見かへれば日光足尾赤城浅間の山々手にとるばかり川上にうかび出でし景いはんかたなし」

    手振山と赤城山(要害山近くより)

    桐生滞在の日程要約

    崋山と毛武游記 崋山は10月12日の夜遅く桐生新町の岩本家(妹茂登の嫁ぎ

    先)に着いています。桐生新町二丁目にあった岩本家を拠点に

    して活動するのですが、桐生だけでなく精力的にその周辺に足

    を伸ばしています。この月の月末までが毛武游記に記録されて

    いますが、崋山は11月5日まで滞在し、6日に次の調査地・熊谷

    付近の三ヶ尻へ旅立っています。

    大間々

    前小屋

    桐生

    妻沼

    足利

    金山

    大間々の要害山・高津戸を歩く。

    10月16日

    四方山話で一日を過ごす。多くの人があいさつに訪れる。

    10月13日

    岩本家の墓参り、美和神社から雷電山散策する。

    10月14日~15日

    多くの桐生の人たちと交流する。雨のため根本山登山中止。

    10月17日~20日

    終日絵画を描いて過ごす。

    10月24日

    桐生文化人と交流、桐生のまち中を散策、織物の調査など。

    10月25日~28日

    渡辺崋山の人物像

    三河田原藩藩士(1793~1841)。

    田原藩は渥美半島付け根に

    位置する1万2千石の小藩。

    崋山の人物像を要約すると、

    ● 江戸詰の藩士として生涯のほとんどを、江戸城近くの

    三宅坂藩邸内で過ごす。

    ● 高志、清廉、孝養心の厚い武士として生きた。40代よ

    り藩家老としての手腕を奮う。

    ● 学者としても傑出している。儒学に加えやはり40代よ

    り本腰を入れて蘭学・洋学に傾倒する。

    ● 画家としても超一流。特に肖像画に優れ、「鷹見泉石

    像」は最高の傑作とされ国宝に指定される。

    ● 俳諧、和歌、漢詩にも通じ、「南総里見八犬伝」作者の

    滝沢馬琴親子とも親しい。「毛武游記」に見られるようにリ

    ズム感ある文章にも秀でている。

    ● 酒好きで人と議論することも好み、相手の身分にこだ

    わらず多くの人と交遊した。

    ● 内剛外柔型の温和な性格でかつ人間的包容力が大

    きい。

    ● 海外事情に通じていたために幕府の硬直した鎖国政

    策を憂慮した。そのため「蛮社の獄」に連座し、最期は武

    士道に殉じて切腹し、49歳の生涯を閉じた。

    江戸幕末期における時代に目覚めた先覚者である。

    渡良瀬川第一の景勝地である要害山と高津戸

    峡を見せたいと、岩本茂兵衛が崋山を案内し

    た。ついでに、自らの生家(堤村の谷家)と養い

    親(天王宿の今泉家)も訪れた。

    2泊3日で足利に遊ぶ。

    10月21日~23日

    足利第一等の知識人である文人代官・岡田東

    塢に崋山を引き合わせるために、奥山昌庵と佐

    羽蘭渓が案内した。崋山と東塢は学問から絵画

    論まで一晩語り明かし、もっとも心を通わせた

    友人となった。

    1泊2日の日程で利根川を越えて前小屋の書画会へ出掛ける。

    10月29日~30日

    足利の代官・岡田東塢が崋山を誘ったものであ

    る。崋山は桐生の次の旅である深谷・三ケ尻調

    査の便宜と斡旋を東塢に依頼していたが、それ

    に応える目的があった。

    大間々の大通りの木戸門や

    町中央右手の大きな蔵な

    どが描かれて興味深い。大

    通りに面した商店は、通り

    に対して少し斜めに店構を

    しているように見える

    大間々の歴史一口メモ大間々の「間々」とは崖の意である。渡良瀬川が削った崖の上に町が

    ある。生糸や絹織物の集積地であり、足尾銅山から江戸へ銅を運ぶ

    「銅(あかがね)街道」の要衝でもあった。

  • 東武桐生線

    東武伊勢崎線

    渡良瀬川

    利 根川

    小俣駅

    山前駅

    足利市駅

    館林方面(至浅草)

    JR両毛線

    JR両毛線

    渡 良 瀬 川

    足利駅

    太田駅

    前小屋

    二ツ小屋

    尾島

    丸山宿

    東武小泉線

    東武伊勢崎線

    細谷駅

    木崎駅

    韮川駅

    三枚橋駅

    治良門橋駅

    藪塚駅

    北関東自動車道

    古河街道

    阿左美駅

    足利学校

    上浅間神社

    葉鹿

    小俣

    五十部

    東武伊勢崎線

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    佐野・小山方面

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    桐生方面

    太田桐生IC

    渡良瀬橋

    阿左美下原

    太田桐生IC

    新田小金井町北

    原宿南

    吉沢

    新田村田町

    安良岡北

    追分

    熊本町

    飯塚町

    下田島

    阿久津

    牛沢

    尾島高林

    尾島1

    宝町

    西本町

    新田市野井町

    旭町

    通7

    織姫神社前鹿島橋入口

    葉鹿跨線橋南

    小俣田町

    田中橋北

    足利女子高

    足利総合運動公園

    織姫公園

    足利市役所

    足利図書館

    足利短大

    太田市役所

    足利工大

    足利赤十字病院

    金山城

    鳳凰ゴルフ倶楽部

    西山公園

    東山公園

    富士重工業

    織姫神社

    八雲神社

    北関東自動車道

    刀水橋

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    0 0.5 1km

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    「聖廟にいたる。廟は前に門あり、右左皆ついじうちがこみ(塀囲いされ)、むかひて右の方に小門あり、これより廟に謁す、此日院僧用ありとていで来たらず、岡田立助はちかきわたりの人なればうちたのみて帳を開き礼をあつくなしおしえ乞。立助先立ちて我輩あとにつきて門を入れば聖廟」

    小俣の山木屋 足利学校ボクリツカケ(黒皮茸)

    「この村町あり、瓦茨相ましはり長さ三町もあるべし。街の真中清水流、皆水を車もて家に引糸を繰る。また車に小桶をつけて水をくませなど大に人力にかわる。山木屋という酒店に小酌、肴なし、たヾ かづの子、さんまのみ。ボクリツカケ」

    「葉鹿村に出、民家二戸一は糖果生果をうる。又うるかをひさぐ、一は酒飯あり、この家岩本氏が事を知り、予が其妻の兄ときゝ 妹の貞操を称す、心甚よろこぶ」

    足利町図(上浅間神社より)文人代官岡田東塢「人々はよく寝たれば筆とすゞ りとを持出て観音山にのぼる、此山は桐生のかたよりいたれば宿に入らんとせる処にて、眺望一郷を見わたさる、人家鱗の如くならびてかすむばかりなり、雲静なれば朝のめしたくけむりははたすじにも三十すじも、いはゞ しづの女のさらせし布を梢にわたしたらむやうにて、はた山をいづるのからすの五つ六つむらがりつゝ 行さま筆につくしがたし」

    「それは如此 と々語ひければ、岡田氏大驚き、今夕にして君あるをしり又此大活眼あるをしりたり。さりとては我ための吉人なるかなとてたがひに論議蝶 と々して終に夜明けたり」

    岡田東塢(立助) 丹南藩足利領4ケ村の代官。学問を好み、江戸で学んだ秀才で長崎や京都にも遊学した知識人。絵画にも通じていたため、徹夜で画論を交わし、崋山がもっとも信頼を寄せた人物。東塢は崋山を前小屋の書画会に誘い、武州三ケ尻の調査にもいろいろと便宜をはかってくれた。昌庵、蘭渓、東塢も崋山と会った数年内に亡くなっている。文字通り一期一会の出会いと縁だった。

    崋山は秘文を読み取って記録した。

    崋山と歩く足利

    崋山と歩く新田と太田

    「今は要害山とて上八幡(金毘羅)社あり、社の後に大きやかなる石半地に入りていとゆえゆえしく、しめなど打ちかけて名(空字)といふ。山下は渡良瀬川の水上に左右巌競ひ出て河中に攅立す、いはばものヽ ふ剣もて戦ふ如く、急流これにせかれて百千の玉となり瑠璃なせる水と照り合ふさま筆にも詞にも及ぶまじ」

    「尾島は人屋相連り駅の如し。戸数凡二三百軒瓦づくりも打まじり、そば、酒、もち、めし等をうる家三軒ばかりもありぬらん。又泊りやども三軒ほど見ゆ。これは市場にて夏にいたれば糸ありて近郷よりいり来るとぞ」

    尾島の商家

    葉鹿の酒飯店にて

    「この森は生品明神のおはせばかくはいふ。此もり木草きりとれば必病を得るとてたれ手をつくるものなし。秋は茸出る、往来の人もしあやまりてとり喰う事あれば、あしとて此村より札をたてゝ 人にしめすとぞ。此森を通れば田間に牛の塔あり」

    生品の森 牛の塔

    「この処は前小屋天神とてむかしは川のあなたなる尾島にそひたる地なりしが、洪水の後、川の瀬かはり今は川の南になりていとわびしき処なりき」

    金井烏洲 伊勢崎境島村の画家。崋山とは旧知の間柄である。前小屋の書画会で同席する。崋山は「真に自分の絵を評価できるのは東塢と烏洲だけだ」と言っている。

    前小屋天神

    「見かへれば日光足尾赤城浅間の山々手にとるばかり川上にうかび出でし景いはんかたなし」

    前小屋の渡し

    尾島の豪農

    孔子座像、座像下秘文

    妹のことを店の主人に誉められ

    て、崋山はすっかりいい気分になっ

    てつい酒を飲み過ぎてしまう。足

    許がおぼつかなくなってしまい駕

    籠で足利の蔦屋まで運ばれる。い

    かにも妹思いの崋山らしい。

    一日の労働が終って農民の

    集まる書画会に崋山は興

    を覚え、腕の続く限り絵を

    描いた。崋山は人々の意気

    に感じる人であった。

    足利の歴史一口メモ足利氏の荘園として発展してきた。ばん阿寺は足利将軍ゆかりの氏寺

    である。足利には三つの日本一があると言われる。足利学校・フラワー

    パークの藤・栗田美術館の伊万里焼である。かつては銘仙の織物産地

    でもあった。

    新田・太田の歴史一口メモ「新田荘」を開いた源氏の直系新田義重を祖とし、鎌倉幕府を倒した

    新田義貞を輩出した。この新田家は徳川家康の祖とされ、徳川家との

    縁が深く、尾島の世良田には東照宮がある。江戸時代には、太田金山

    で採れた松茸が毎年江戸の将軍家へ献上されたことで知られる。