中華民國健行登山會 · 山者由天母中山北路七段190巷走「下竹林山步道」,經南非大使館而登白雲山,可由東山路或 德行東路下山至文化大學走天母古道返家。
『鍾山卽事』 一鳥不啼山更幽 茅簷相對坐終日 竹西花草露春柔...
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丞相病あつかりき
この「蜀相」
の詩を読むと、
まるで自分が丞
相祠堂前に行っ
ているような錯
覚におちいるの
である。
悠久の名作シリーズ(33)
『鍾山卽事』 王 安石
唐宋八大家の一人で政治家でもあった王安石が、晩年隠
棲していた鍾山で高尚な情趣を詠じた名作である。
鍾山即事 王安石
澗水無聲繞竹流 澗水聲無く竹を繞め
ぐ
って流る
竹西花草露春柔 竹西の花草春柔を露あ
らわ
す
茅簷相對坐終日 茅ぼ
う
簷えん
相對して坐すること終日
一鳥不啼山更幽 一鳥啼かず山更さ
ら
に幽ゆ
う
なり
字 解
鍾山即事=単に「鍾山」とのみ題している本もある。「鍾
山」は、今の江蘇省南京の東北郊外にある名山で蒋山とも
北山とも紫金山ともいう。作者は晩年、その山と市街の中
間に隠棲していた。「即事」はその場、その時の眼前の景
色や様子を詩に作ること。この山は低山ながらも非常に広
い裾野を持ち山域いっぱい広がる森林は、大都市南京のオ
アシス的存在になっている。旧称である「南京鍾山」の名
で、中国の国家級
風景区にも指定さ
れている。
澗水=谷川の水
春柔=若草のや
わらかさ
露
=あらわす
別に「弄」
としてい
る本もあ
る
茅簷=草ぶきの家
の軒下
相對=鍾山と相対
する
十三人陵石人 南京郊外山陵は明の太祖の孝陵、ほかに呉の大帝、晉の元帝・明帝・成帝・哀帝・宋の武帝・文帝等の諸陵がある。後方の錘山は、齋の孔稚圭の草堂がある。
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意 解
▽鍾山の見たままを詠う
谷川の水は音もなく、竹林を繞って流れている。その竹
林の西には、花や草が、天の光のもとに如何にも春らしい
気分を表している。
自分は茅か
や
葺ぶき
の軒の下で、一日中鍾山と向き合って座って
居ると、鳥の鳴き声一つなく山は一層静かである。
鑑 賞
▽承句
「春柔」の語は、王安石以前の詩には出てこない。ただ
歴史書の中に用例がある。南北朝の北魏の歴史書に「仰い
で祖業を歌い、俯して春柔を欣よ
ろこ
ぶ」とある。春の穏やかさ、
春の恵み(ここでは天子の恵み、平和な世の有り難さをい
う)に用いられている。この語によって山荘は柔らかく包
まれ閑けさにのんびりした明るさが加わった。
▽転句
「相對して」は作者が、茅葺の家で人と相対すると解す
るか、茅葺の家と相対するかなどの解釈も可能であるが、
鐘山に向かい合っているととる。
▽結句
この詩のポイントは結句にある。
※一つは 六朝梁の王籍の詩に「若じ
ゃく
耶や
渓けい
に入る」というの
がある。(若耶渓は紹興の近くにある名勝)その二句に
蟬噪林逾靜 蟬噪さ
わが
しゅうして林逾
いよいよ
靜に
鳥鳴山更幽 鳥鳴いて山更に幽なり
の句がある。これは蟬や鳥の声を点出する事により、却っ
て林や山の静けさを際立たせたる効果を狙った手法とし
て、よく知られている。王安石はそれを更に捻ひ
ね
って「一
鳥啼かず山更に幽なり」とした。巧妙に逆用した句とし
て古来有名である。ちなみに漢詩通の芭蕉(一六四四〜
一六九四)は王籍の「鳥鳴山更幽」の句を想い、王安石が
捨てた「蟬噪林逾靜」の着想を得て次の俳文及び俳句を残
している。
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山形領に立石寺という山寺あり、(中略)岩上の院扉を
閉ぢて物の音聞こえず(中略)佳景寂寞として心清み行く
のみ覚ゆ
閑かさや
岩にしみいる
蟬の声(奥の細道より)
良寛にも(一七五八〜一八三一)『風定花尚落
鳥鳴山
更幽(風定まりて花尚落ち
鳥鳴きて山更に幽なり)』の
句があり、王籍の詩をまねている。
※二つめは「幽」の解釈として
この鍾山の麓の山荘の有り様を幽ととらえる。それはとり
も直さず自分の生き方、心持ちの有りようを表すものであ
る。奥深く静かな、俗世間の煩わしさとは無縁の世界を品
の良い穏やかな風趣としてを表現している。王安石晩年の
作といえる。
補足①
王安石は、古人の詩句を選んで繋つ
な
ぎ合わせ集句
の詩を作るのが得意であったといわれている。梁の謝貞
が八歳の時の詩に、「花猶舞○
」とあったものを、王安石が
「花猶落○
」に改め、そのため詩が一層巧みになったという
事が、宋の許き
ょ
顗がい
の「彦げ
ん
周しゅう
詩話」に記されている。又、梁
の王籍の「鳥鳴いて山更に幽なり」の句に、謝貞の「風
定って花猶落つ」の句を並べて「風定花尚落・鳥鳴山更幽」
と一聯れ
ん
にまとめ、面白く趣深い作品に仕上げているのは、
甚だ巧妙である。
補足② 鍾山即事に続く、季節の山荘の閑和を詠った詩。
初夏即時 王安石
石梁茅屋有灣碕 石梁茅ぼ
う
屋おく 湾わ
ん
碕き
有り
流水濺濺度兩陂 流水濺せ
ん
濺せん
として 両り
ょう
陂ひ
に度わ
た
る
晴日暖風生麥気 晴日暖風 麦ば
っ
気き
を生じ
緑陰幽草勝花時 緑陰幽草 花か
時じ
に勝る
石の橋、茅葺の家、曲がりくねった堤の岸辺、水はさら
さらと二つの堤の間を流れ、晴れた日差しと暖かい風の中、
麦の香が漂う。
緑の木陰、ひそかに茂った草は花の季節よりも遥かに美
しい。
王安石 一〇二一―一○八六
▽革新政治家であった王安石
北宋の詩人、文章家、政治家。唐宋八大家の一人。撫州
臨川(江西省)の人。字
は介甫、半山と号し、臨
川先生とも呼ばれた。幼
い頃から文章を作る事が
素早く、若い時から好ん
で本を読んだ。記憶力は
抜群で一度目を通したも
王安石肖像
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のは生涯忘れなかったとい
う。仁宗第四代皇帝の慶暦二
年二十二歳で進士に合格。神
宗第六代皇帝から信頼を得て
宰相に任じられ、新法を実施
して財政の建て直し等に実績
をあげたが、保守派の反撃を
受け、元豊八年神宗が崩じ保守派が政権を握り新法はこ
とごとく廃止された。政治家としては「名官僚」と言わ
れた。王安石は元豊二年隠棲していた鍾山で新法廃止の
報に接した。その翌年元祐元年失意の中六十六歳の生涯
を終えた。
▽文章家 唐宋八大家の一人であった王安石
南宋の頃から、韓愈、柳宗元、蘇軾の評価は揺るぎなかっ
たが、明の初めごろから八人に定まり、明代後期、茅ぼ
う
坤こん
が「唐
宋八大家文鈔百六十四巻・文読本三十巻」を編し、和刻本
が何種類も出版されるほどわが国で流布した。
また王安石は杜甫の影響を受け、その詩風は雅麗と評さ
れる。特に絶句においては、北宋第一とされる。叙事詩(古
詩)にも傑作が多い。「王荊公詩」五十巻「王半山詩箋註」
などは天保七年刊の官版もあり日本の内閣文庫に蔵されて
いる。
唐末八大家
中国、散文に於ける唐代・宋代のもっとも優れた作家八
人の総称
唐代 韓愈、柳宗元
宋代 歐陽修、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曾鞏、王安石
参 考
宋 北宋( 九六〇〜一一二七)二六八年間 九代
南宋(一一二七〜一二七九)一五〇年間 七代
神宗
太宗(宋)台北故宮博物館蔵
太祖①
北宋
南宋
太宗②
真宗③
仁宗④ 英宗⑤
神宗⑥
哲宗⑦ 徽宗⑧
高宗(南宋①)
欽宗⑨
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王安石を宰相に起用
して、新法による改革
を行ったが、混乱を引
き起こした「元祐更化」
で王安石の新法を否定
したが「紹聖紹述」で
は復活させた。
悠久の名作シリーズ(34)
『獨不見』 沈 佺期
晩秋 わび住まいの若妻が
遠征中の夫を憶う
獨不見 沈佺期
廬家少婦鬱金堂 廬ろ
家か
の少婦 鬱う
っ
金こん
堂どう
海燕雙棲玳瑁梁 海燕雙そ
う
棲せい
す 玳た
い
瑁まい
の梁り
ょう
九月寒砧催木葉 九月寒か
ん
砧ちん 木葉を催し
十年成戌憶遼陽 十年成せ
い
戌じゅ 遼陽を憶う
白狼河北音書斷 白狼河北 音書斷た
え
丹鳳城南秋夜長 丹た
ん
鳳ほう
城南 秋夜長し
誰爲含愁獨不見 誰が爲に愁いを含む獨不見
更教明月照流黄 更に明月をして流り
ゅう
黄おう
を照らさしむ
作者について
六五六〜七一四?初唐の詩人。相州(河南省安陽)の人。
字は雲卿。六七五年の進士で、則天武后の時代に権勢のあっ
た張易之に取り入って宮廷詩人として活躍した。その後政
府の要職に就いたが、武后政権が倒れ、後ろ盾もいなくな
り、次の中宗に政権が移った七〇五年に収賄の罪で驩か
ん
州(北
ベトナム)に流された。その後都に呼び戻されると、再び
要職に就き、皇太子付の役職を得るまで出世した。律詩の
スタイルを完成した人として名があり、宋之問と並んで「沈
宋」と称される。「唐詩選」にはこの詩のほか五言排律二題・
七言律詩五題・七言絶句一題が収められている。中でも玄
宗皇帝の天下の隆盛を願った七言絶句「龍池篇」は高い評
価がある。
語意と意解
▽歌題
「唐詩選」には「古意」(昔風な趣きを引き合いにし作っ
たという意味)とある。妻が遠征する夫を案じたテーマは
唐以前からくりかえして詠われていたので、先行漢詩も多
い。それらを参考にしているので「古意」としている。「全
唐詩」には「古意、補ほ
闕けつ
の喬き
ょう
知ち
之し
に呈す」(昔風な歌で、
鐘山・王安石の故居(南京)
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