工Drydenの悲劇について - 福島大学附属図書館 · 工Drydenの悲劇について ......

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J.Drydenの悲劇について 41 工Drydenの悲劇について 1 ドライデンが所謂英雄劇‘・)の最後の作品である 」4麗解㎎・・Zθ加(1676)から次の悲劇ノ1〃ノ扉 Lo泥(1678)に移る際に,その変化に関して彼 が言明している言葉は,まずA蜥8解一Zε加の序 詞の中の“And,to confess the Tnlth,though out of time,/(Our Author)Grows weary of his long40v’d Mistress,Rhyme./Passion’s too fierce to be in Fette蔦bound,/and Na・ ture flie3him like Enchanted Ground.” (そ して,おくればせながら,実を申せば,(作者は)その 久しく愛してきた恋人である韻には飽きました.情熱 は伽で縛るには激しすぎますし,自然が彼を魔法の土 地のように飛ばすのです.)という言葉と」4〃佃 Lo〃8の序文の中の,“In my style,I have professed to imitate the divine Shakespeare, which that I might perform more freely,I have disen㎝mbered myself from rhyme.” (私は文体の点で聖なるシェイクスピャを模倣すると 公言したが,それをさらに自由に行う↑こめに韻を厄介 払いした.).及び同じ序文中の“The fabr玉。 of the play is regular enough,as to the inferior parts of it;and the Unities of Time,Place an(1Action,more exactly observed than perhaps the English theatre require銭”(劇の 構造は細部に関しても十分規則的で,時間,場所,筋 の一致は恐らく英国劇が要求する以上に正確にまもら れている。)という言葉である. これらの言葉で述べていることは押韻の放棄 と,三一致の法則厳守の宣言である.彼の作劇活 動の歴史から言うならば,押韻の放棄は英国劇の 伝統に戻ったことであり(因みに,彼の最初の tragi・comedyである丁加R∫%1Lσ協8s(1664) は独自などを除いては無韻詩で書かれている・), 三一致の法則の厳守の宣言は,フランス劇の特徴 である遵法の態度を固めたことを意味するもので ある.いづれも形式上の変化ではあるが著るしい 変化というべきであろう.当然のことであるが, 」知解㎎一Z功8と」4〃ノケLo〃8の間に画然たる 一線を引いて,所謂英雄劇とそれ以後の悲劇とは 別種の悲劇とみなす研究者は少くない.例えば, C㏄il V.Deaneはこの辺の事情について,“the conventional heroic drama was no in abeyance and ready to reapPear voumble oPPo丘unity.”(!)(因襲的な英雄劇は死ん だのではなく,休息していたのであって,好機到来の 際は,いつでも又姿を現わそうとしていた.)と述べ ている.即ちその世紀末に,再び一連の押韻劇が 出てくることを指摘して休息状態といっているの であって,ノ1〃卿Lo泥以後の悲劇を英雄劇と は別種と考えていることに変りはない.又Mar- garet Sherwood(3)は両者を章を別にして論じて いる.たしかにこのような分類は取扱には便利で あるが,このような事情から,一般には英雄劇と それ以後の悲劇とは本質的に異なるものとの感じ を与えていると思われる.だが果して両者の問に は作者が宣言している形式上の変化以上の,本質 的変化が存在するかどうか.その辺の事情を検討 してみたいと思う. H ドライデンの英雄劇といわれている悲劇は丁勉 1%協σπQμ88η(1665),丁助力2凄απ幼顔併 (1667),乃惚π舵Lo泥(1670),丁加Oo”9撚ま げGれz%α血(Tωoρσ漉)(1672),A麗質8㎎_Z8髭 (1676)の五篇だが,最初の丁加乃1協σ”Q鯉2π はSir Robert Howardとの共作なので,純粋 彼の手になるものは他の四篇である.これらの劇 は一括して英雄劇と呼ばれているが,細部に検討 すると,技法上の進歩を伴う変化がみられ,それ に関する研究もなされているが(o,概括的な特徴 をあげると,まずheroic coupletで書かれてい ること.劇の主題は専制王政の宮廷又はそれに類 似する豪族にまつわる大事件で,主要人物は王, 女王,皇帝,将軍たちであること・そしてテーマ

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J.Drydenの悲劇について 41

工Drydenの悲劇について

君  島 貞 男

          1

 ドライデンが所謂英雄劇‘・)の最後の作品である

」4麗解㎎・・Zθ加(1676)から次の悲劇ノ1〃ノ扉

Lo泥(1678)に移る際に,その変化に関して彼

が言明している言葉は,まずA蜥8解一Zε加の序

詞の中の“And,to confess the Tnlth,though

out of time,/(Our Author)Grows weary of

his long40v’d Mistress,Rhyme./Passion’s

too fierce to be in Fette蔦bound,/and Na・

ture flie3him like Enchanted Ground.” (そ

して,おくればせながら,実を申せば,(作者は)その

久しく愛してきた恋人である韻には飽きました.情熱

は伽で縛るには激しすぎますし,自然が彼を魔法の土

地のように飛ばすのです.)という言葉と」4〃佃

Lo〃8の序文の中の,“In my style,I have

professed to imitate the divine Shakespeare,

which that I might perform more freely,I

have disen㎝mbered myself from rhyme.”

(私は文体の点で聖なるシェイクスピャを模倣すると

公言したが,それをさらに自由に行う↑こめに韻を厄介

払いした.).及び同じ序文中の“The fabr玉。 of

the play is regular enough,as to the inferior

parts of it;and the Unities of Time,Place

an(1Action,more exactly observed than

perhaps the English theatre require銭”(劇の

構造は細部に関しても十分規則的で,時間,場所,筋

の一致は恐らく英国劇が要求する以上に正確にまもら

れている。)という言葉である.

 これらの言葉で述べていることは押韻の放棄

と,三一致の法則厳守の宣言である.彼の作劇活

動の歴史から言うならば,押韻の放棄は英国劇の

伝統に戻ったことであり(因みに,彼の最初の

tragi・comedyである丁加R∫%1Lσ協8s(1664)

は独自などを除いては無韻詩で書かれている・),

三一致の法則の厳守の宣言は,フランス劇の特徴

である遵法の態度を固めたことを意味するもので

ある.いづれも形式上の変化ではあるが著るしい

変化というべきであろう.当然のことであるが,

」知解㎎一Z功8と」4〃ノケLo〃8の間に画然たる

一線を引いて,所謂英雄劇とそれ以後の悲劇とは

別種の悲劇とみなす研究者は少くない.例えば,

C㏄il V.Deaneはこの辺の事情について,“the

conventional heroic drama was not dead but

in abeyance and ready to reapPear at a fa-

voumble oPPo丘unity.”(!)(因襲的な英雄劇は死ん

だのではなく,休息していたのであって,好機到来の

際は,いつでも又姿を現わそうとしていた.)と述べ

ている.即ちその世紀末に,再び一連の押韻劇が

出てくることを指摘して休息状態といっているの

であって,ノ1〃卿Lo泥以後の悲劇を英雄劇と

は別種と考えていることに変りはない.又Mar-

garet Sherwood(3)は両者を章を別にして論じて

いる.たしかにこのような分類は取扱には便利で

あるが,このような事情から,一般には英雄劇と

それ以後の悲劇とは本質的に異なるものとの感じ

を与えていると思われる.だが果して両者の問に

は作者が宣言している形式上の変化以上の,本質

的変化が存在するかどうか.その辺の事情を検討

してみたいと思う.

          H ドライデンの英雄劇といわれている悲劇は丁勉

1%協σπQμ88η(1665),丁助力2凄απ幼顔併

(1667),乃惚π舵Lo泥(1670),丁加Oo”9撚ま

げGれz%α血(Tωoρσ漉)(1672),A麗質8㎎_Z8髭

(1676)の五篇だが,最初の丁加乃1協σ”Q鯉2π

はSir Robert Howardとの共作なので,純粋に

彼の手になるものは他の四篇である.これらの劇

は一括して英雄劇と呼ばれているが,細部に検討

すると,技法上の進歩を伴う変化がみられ,それ

に関する研究もなされているが(o,概括的な特徴

をあげると,まずheroic coupletで書かれてい

ること.劇の主題は専制王政の宮廷又はそれに類

似する豪族にまつわる大事件で,主要人物は王,

女王,皇帝,将軍たちであること・そしてテーマ

42 福島大学教育学部論集第22号

がおしなべて恋と名誉の葛藤となっており,名誉

は様々な形をとり,一定していないが,恋の形は

類型的で,一人の女性(叉は男性)をめぐり,二

人又はそれ以上の男性(又は女性)を争い,人間

的に優れた者が勝利を得ることになっていて,筋

が複雑な場合でも,単にこのような関係を持つ男

女のグループが絡み合っているにすぎない.そし

てここにみられるモラルはp㏄tic justice(勧善

懲悪)であ’る.次に技法上の特徴として,観客の

直接感覚に訴える手法が用いられていること,具

体的にいえば所謂bombast(大言壮語)やvi・

01ent action(乱暴な行為)(のやsentimentalism

 (感傷的な言動)が使用されていることである.

更に幽霊とか・神のお告とか夢などによる事件の

前兆など,improbableな現象が利用されている

こと.そして劇の主人公が判然としない場合が多

いことである.最後の場合は,例えばThε乃躍∫・

4”E物吻併は題目からすればMontezumaが主人公といえるが,活躍状況からすればCortez

が主人公と考えられる.換言すれば,筋がいくつ

かあって,夫々に主筋を主張しているかに見える

ということである.

 以上のような英雄劇の特徴を視点として,ノ1〃

伽Lo泥以後の悲劇を検討することにするが,

まづ,これらの悲劇をH.MacdonaldのBibli・

ography(6)に依って出版順に並べると,08ゆ鴬

(1679), 窃。〃欝 α露4C凱鶴∫44 (1679), Thε

D駕盈ε{ゾG!”寛ε (1683),Doπ鋤㏄ま’8勿 (1690),

α80翅2%εs(1692)で,この中084ゆ郷と丁加

D罐εqブC躍9εはNathaniel L㏄との合作である.

 まず,窟1ノψLo泥はシェイクスピヤの五蛎。理yα”4α8のσケ。と同じ材料を使った悲

劇であるが,Actiumの戦に敗れてからのAnto-

nyが,武将としての名誉とCleopatmに対する

恋情との間を行き来しっっ悲劇的結末を迎える姿

を,前述の如く三一致の法則を守り,blank verse

で書いたもので,悲劇的効果を深める意図からシ

ェイクスピヤにはない変化を与えている.例えば

Antonyの正妻Octaviaが妻として当然の言い

分を申し立てるため,二人の幼い娘をつれてエヂ

プトに来るとか,シェイクスピヤではC㌍sarの

友人であるDolabellaがここではAntonyの友

となり,又そのDolabellaがCleopatraへの愛

情とAntonyへの友情に悩むことなどを取り入れ

1970-11

て筋に複雑さを与えている.

 劇のテーマが,上述の如く,Actiumの敗戦か

ら立ち直って,武将としての名誉を得んとする心

と,それを阻むCleopatraへの恋情の葛藤であ

ることが,英雄劇の中心テーマと同一ならば,そ

の恋の形がAntonyを中心とするCleopatraと

Octaviaの争いの形をとり,更にDolabellaが

Cleopatraに横恋慕するところも,英雄劇のそれ

と類を同じくするものである.特にDolabellaと

Cleopatraの関係は,Tyramic Loveにおいて

PorphyriusがMaximinの妻Ber6niceに思いを寄せる筋と同一である.

 次にAntonyの人物についてみると,敵役の

Alexusですら“A braver Roman neverdrewa sword.”(1,i)(剣を抜いたローマ人でこれ程勇敢な

人はなかっす二。)と称賛している武将であるが,彼

には次のような欠点がある.同じ場面で,Antony

の様子を聞いたVentidiusが連れの紳士にいう

言葉である.“Just,just his nature./Virtue’s

his path;but sometimes7tis too naπow/

For his vast sou1;and then he starts out

wide,/And bounds into a vice,that bears

him far/From his first course,and phmges

him in ills:/But,when h韮s danger makes

him find his faults,/Quick to observe,and

fullofsharpremorse,/Hecensureseagerlyhis own misd㏄ds.”(まさしくあの人はそういう人

だ.徳があの人の道なのだが.その道も時としてその

広い心を通すには狭すぎる.そんな時にあの人は常軌

を逸し悪徳にとびこみ,始の道から遠くそれて悪事を

やらかすのだ.だが,己の危険から誤りに気がつくと,

悟るに早く・ひどい目責の念にかられ・切々と己れの

非を責めるのだ.)即ち彼は本質的にはvirtuousな

のだが,その徳をはみだすほどの広大な心を持っ

ているという欠点がある.正にこの性格が舞台で

の優柔不断な行動となって発揮され,振子のよう

に名誉と恋情の間を動くのである.具体的にいえ

ば,第一幕の終りではCleopatraを捨てるよう

にというVentidiusの訴えに服するが,第二幕

の最後では,Cleopatraが再び彼を取り戻す,そ

して第三幕の終になると,(⊃ctaviaと子供らが,

彼をローマ側に連れ戻し,最後にはDolabellaに

対する嫉妬心に苦しむ.このようなAntonyはシ

ェィクスピや的な偉大な英雄ではなく,Dryden

的な人物で,丁加掘∫o”E吻ぴのMonte・

J.Drydenの悲劇について 43

zumaにその類型を見ることが出来る.メキシコ

の皇帝Montezumaは五幕工場で.インデアン

人の高僧と共に拷問台にかけられ,Pissaroたち

に金の隠し場所を詰問され,叉キリスト教への改

宗を迫られる.高僧は弱音を吐き,ついには息を

引きとるが,彼は“Know I have Gold,which

you shall never find,/No Pains,no Tortures

shall unlock my mind.”(私は金を持っているが,

お前らには絶対在所を教えない. いかなる苦痛拷問を

もってしても秘密は明かさ沿.)といい,又改宗を迫

るキリスト教の高僧に対しては,“Thou artde・

ceiv’d;for whensoe’er I dye,/・The Sm my

Father bears my soul on high.”(お前は哺さ

れているのだ.わしはいつ死んでも.父なる太陽が私

の魂を天高く運んでくれるのだから.)と言い返えし,

インデヤン王としての名誉を守る.そして自殺に

よる最期も過去の行為に対する廉恥心からであ

り,皇帝として立派な死に方をする.即ち彼は本

質的には高潔な人物であるがAlmeriaに対する

恋情のために卑しく哀れな人物になる.Monte-

zumaは以前CorteZに助けられた恩義があるに

も拘らずAlmeriaへの恋情に目が眩み,彼女の

教唆によって,Cortezを殺そうとしている・彼

の恋は理性も抑えきれずこのような信義にもとる

行為にもはしらせる.例えば,

 Cleopatra Oこ“1’11die apace,/as fast as e’er’

I can,and en(i your trouble.”(私は直ち‘こ,出

来るだけ早く死んで,あなたの苦労を終らせましょう.)

などとすねられると,身も世もあらず,“Die!

rather let me perish;100sened Nature/Leap

from its Hinge3,sink the Props of Heaven,

/And fall the Skies,to cnlsh the nether

World!/My E:yes,my Sou1,my AU!”(死

ぬだって,それならいっそわしを死なせてくれ・ゆる

んだ自然を蝶番からはづせ,天の支柱なぞ沈めてしま

え.そして空を倒してこの世の中をつぶしてしまえ.

わしの眼よ,魂よ,わしのすべてよ.)ということにな

って。理性も,名誉もなくなるAntonyは,本質

的にMontezumaと同類である.このように情熱

が理性を圧倒するところは,Miss Harts㏄kに

よる(7⊃とHobbesの影響だそうであるが,その

ようなAntonyの理性の支柱の役割として,彼に

はVentidiusが必要であった点も,己れの義務

を弁えながらも感情に支配され易いMontezuma

を抑制する存在として,Arcasisが登場している

点と同列である.

 登場人物については更にAntonyの正妻Octa-

viaはTyrannic LoveのValeriaにその原型が

見られる.OctaviaはOctavius Cおsarの妹で,

Antonyの妻として貞節な女性で自己犠牲的な面

を持っている.三幕一場のCleopatraとのやり

とりの中で,Cleopatraが“110ve him better。

and deserve him more.”(私の方が彼を愛してい

ますし,彼に相似しいのです.)と言うのに対し,

“You do not;can not:you have been his

nオn./Who made him cheap at Rome,but

Cleopatra?/Who made himscomed abroad.

but Cleopatra~/At Actium,who betrayed

him~Cleopatra./Who made his children

Orphans,and poor me/A wretched widow

?only Cleopat■乱” (あなたは相似しくもないし,

なる筈もない.あなたは彼の破滅の因だ.ローマで彼

の価値をさげたのは誰だ,他ならぬクレオパトラ.外

国で彼を軽蔑される人間にしたのは誰か,他ならぬク

レオパトラ.アクチャムで彼を裏切ったのは誰か.ク

レオパトラだ.彼の子らを孤児に,あわれな私をやも

めにしナこのは,クレオパトラに他ならぬ.)とやり返

す強さを持つと同時に,兄C犯sarと夫Antony

との間に立って実質的妻の座を失っても夫を救お

うとする犠牲的精神をもっている.“m tell my

brother we are r㏄onc∬ed;/He shall draw

back his troops,and you shall march/To

rule the E:ast:I may be dropt at Athens;

/No ma批er where.I never will compla血,

/But only keep the barren name of wife,

/And rid you of the trouble.”(私たちの間は円

満だと兄に告げましょう.彼に軍隊を引きあげさせ,あ

なたに東方を支配しに進軍させましょう.私は途中ア

テネで降ります.どこでも構いませんが,絶対文句を

申さず,ただ妻という中身のない名前だけけもって,あ・

なたの厄介者にならおようにいたします.)一方7ンー

毎””∫σLωεにおけるValeriaは,暴君Maximin

の命令によって自分と結婚することになった

Porphyriusが,彼女よりもMaximinの妻Bere-

ni㏄を愛しているために,結婚を拒まれる.彼

女はそれでもPorphyriusに愛情を持ちつづける.しかしそこで出る言葉は“1’11show that I

deserve him more then she./And if at least

he d㏄s ingrateful prove,/My cons重ancy

itself rew訂ds my Love.”(私は彼女(Berenice〉

44 福島大学教育学部論集第22号

より彼(Porphyrius)に相似しい女であることをみせ

よう.そして, もし最後に彼が恩を弁えぬ男であって

も,私の節操自体が,私の愛に報いることになるのだ.)

である.おかれた情況もOctaviaと同じく,そ

れに対する態度からも類似性が指摘できる.

 次に,打ちひしがれたAntonyが一幕一場で,

音楽を奏でさせながら,次のような独白をする場

面がある.“Give me some music:100k that

it be sad:/1’11soothe my Melancholy,till

I swe皿,/And burst myself with sighing.一

〔Soft music〕/’Tis somewhat to my Hu-

motr;stay,I fancy,1’m now tumed wild,

aCommonerofNature;/0fallforsaken,and forsaking a11;/Live in a shady forest’s

sylvan scene,/ Stretched at my length

beneath some blasted Oak,/11ean my Head

upon the mo3sy Bark,/An{i look just of a

piece as I grew from it;/My uncombed

L㏄ks,mattωlike Mistlet㏄,/Hang o,er

my hoary face;a murm’ring brook/Rms

at my Foot.”(音楽をやってくれ.悲しいようにな.

憂欝な気分を和らげよう.胸がふくらんで,嘆息で.

はちきれるまで,一〔静かな音楽〕,中々おれの気分

にあっている. まて,おれは野性の自然人になった気

がする.すべての者に捨てられ,すべての者を捨て,

木陰多い森の中に住み,白けた柏の木の下に体をのば

し,頭を苔むした樹皮にもたれかけ,1まるでそれから

育った如く,同一に見えるようだ.櫛も入れず,やど

り木の如く乱れた髪が蒼白の顔にかかり,足もとには

せせらぎが流れている.)このような野性の自然人

のような気分が,その時の彼に合っているという

のだ.

 ここで,文明の世界の敗北者の還元するところ

は,原始的自然であることが暗示され,自然肯定

の思想がうかがわれる.Antonyの口から出る言

葉としては,いささか唐突の感じがするが,これ

も英雄劇を探れば,新しい着想ではないことが分

る.先づ丁短刀3凄8”Q耀πの第五幕におい

て,MontezumaがAmexiaの子であることが明らかにされるところがある.

 A翅ε蛎α That sad Rdation longer Time

wi皿crave;/11iv’d obscure,he bred you

inaCave.

 Mb漉2”翅810wehimallthatnowIam,/ He taught me fh・st the noble thirst of

Fame,/Shew’{1me tke baseness of unmanly

1970-11

Fear,/Till th7unlick’d WhelpIpluck’d from

the rough Bear,/And made the Ounce and

Tyger give me way,

 C砂摺σ偲 You spent血shady Forest all

the Day,1And joy’d retuming to shew me

仕[e Pre弘/To tell the Story,to describe

the Place,/With all the Pleasures of the

boas㎏d Chase.

(アメクシャ その悲しい話をするにはもっと時間が

要ります.私は人目をさけて生活し,彼(ガラッカ)

がそなたを洞穴で育てたのです. (後略)

 モンテズマ 私の現在あるはすべて彼のおかげで

す.彼は私にまづ気高い名誉への渇望を教え,女々し

き恐怖心の賎しさを教えました.それでついには私は

猛々しい熊から,ぶかっこうな小熊をひったくり,山

猫や虎を負かしたりするようになりました.(後略)

 ガラッカ あなたは終日木陰の森で過し,戻ってき

ては.得意な狩の喜びを残らず話すと共に,獲物を見

せ,とった時の話をし,その場所を説明してはよろこ

んでいました.)

 ここに山猫や虎のいる原始的自然が高潔な人格

を養成した環境どして登場している.更にTh8

乃3漉σπE鳩ρ即併の始めの所でCortezがメキシ

コについて述べる言葉“On what new happy

Climate are we thrown/So long kept se-

cret,an(1so lately known;/As if our old

World modestly withdrew,/And here,圭n

private,had brought forth a new.”(かくも久

しく人目にふれず,知られたのはかくもごく近頃の,

何と新らしく仕合わせな土地に, うちあげられたこと

だろう.まるでわれわれの古い世界がへりくだって引

退し,ここに新らしい世界を生み出したかのようだ.)

又続いてVasquezが,ここ(メキシコ)のすべ

ての者が無学で野蛮にみえるというのに対し,

Cortezが“Wnd and untaught are Terms

which we alone/Invent,for Fashions diffe

ring from our own:/For all the廿Creatures

are by Nature wrought,/But we,by Art,

unteach what Nature taughし”(未開とか無学と

かは・われわれだけが・自分達のと異るやり方に対し

て作り出した言葉だ.何となれば,すべて彼らの習慣

は自然によって作られているが・われわれは自然が教

えてくれたものを技巧によって忘れさせるのだから.)

と諭すところがある.

 ここではメキシコの土地は原始社会でありなが

ら,一つの理想郷として讃美されている.又同じ

J.Drydenの悲劇について 45

劇の最後の場面で,スペイン人によるメキシコ征

服が終り,Cortezによって縛を解かれ自由の身

になったGuyomarとAlibechがこれからの生

活についてCortezに話す言葉は次の通りであ

る.“Northward,beyond the Mountains we

will go,/Where R㏄ks lye cover’d with E-

temal Snow;/Thin Herbage in the Plains・

and Fruitless Fields,/The Sand no Gold,

the Mine no Silver yields;/There Love

and Freedom we’11in Peace enjoy;/No

Spaniards will that Colony destroy・” (山を越

えて,北の方へ参ります.そこでは岩が永遠の雪に覆

われて,平野には草も乏しく,畑は実りなく,砂は金

をもたず,鉱山は銀を産することもないところ.そこ

で私たちは愛と自由を平和に楽しみます.そのような

土地は,いかなスペイン人も破壊することはあります

まい.)人間らしい生活を送るために,更に未開の

原野がその可能性を約束してくれるのだ.又丁加

Ooπ9耀s∫qブσ7ππσ4σの主人公Almanzorも

幼児はアフリカで育ったという設定になっている

ことを思い合わせると,原始的自然が単に存在を

肯定されているのみでなく,人間を気高く,強く

育成する環境として考えられていることが分る.

この考え方は云うまでもなくprimitivism(原始

主義)(8}であって,Thomas H.Fujimuraはこ

れが,当時のsophisticatedな観客に訴えるとこ

ろが大きかったことを指摘している.(g)このよう

な思想に英雄劇で馴らされていた観客には,An-

tonyの上記の独白が自然に受け入れられたであ

ろうことは想像に難くない.

 次に第一幕でVentidiusが,その諌言にも拘ら

ず,Antonyにいやみを言われて泣き,それに

Antonyが貰い泣きする場面がある.これはsen-

timentaHsmの一例で,さきに英雄劇の特徴とし

てあげた直接感覚に訴える手法の一つである.こ

れと同じ範疇に属するが,少しく異るsentimen・

talismが第三幕一場の中にみらむる・即ち夫An-

tonyをCleopatraから取り戻そうと,幼いAn-

tonyの娘を登場させる場面である.幼稚な感は

まぬかれず,これは当時の観客の低劣さを想像さ

せる場面であるが,引用すると,

 0σ如痴σ    Go,I say and pu11him to

me,1And pull him to yoursdves,from that

bad Woman,1You,AgripPina,hang upon

屈sarms;/Andyou,Antonia,claspabout

his Waist:/1f he will shake you off.ifhe

will dash you!Against the Pavement,you

must bear it,Chil{iren;/For you are mine,

and I was bom to suffer.

 吻短鰯聡Was ever sight so moving?/

E:mper・r!/Do鋤8Zz4Friend!/0・血胸

Husband!/励訪C碗躍κ”Father!/Aπ・云。矧I am vanquishα1:take me,/0ctavia;

take me Children;share me a1L

〔E励πo∫㎎∫加”2.

(オクタヴィヤ 行けというのに.そして父様を私の

ところへ引っぱってきなさい.あの悪い女からお前た

ちのところへ引っぱってきなさい. アクリッピナ,お

前は彼の腕にぶらさがれ.アントニやお前は腰にしが

みつけ.父様がお前たちを振り払って敷石にたたきつ

けても堪えねばならぬぞ.お前らは私の子なのだ,そ

して私は苦しむために生れてた女なのだから.(後略)

 ヴェンチヂャス こんないじらしい光景があったろ

うか. ドラヴェラ 君! オクタヴィヤ あなた!

子供ら 父様! アントニー おれは負けた.つれて

ゆけ.オクタヴィヤよ.子供らよ.皆でおれを分け持

て.〔彼らを抱挫〕)

 このような親子の場面は,丁加Co”9麗s∫ヴ

G■o”α4σ第二部四幕一場の最後で,Abenamar

が娘のBenzaydaの命をかけた訴えに心打たれ突然己れの非を悟る場面を思い出させる.

 伽πσ泌8r Yes,I am vanquished!The

fierce conflict量s past,/And shame itself is

nOW O,erCOme at laSt./

〔R露郷∫o召伽の4凹”4ε傭σoεsみεr./Ben-

zayda,’twas Your virtue vanquished me:/

That could alone surmomt my cruelty.

〔R”郷加SgJ伽σ”4衡”δ肋みみ∫”2./Forgive

me,Selin,my negl㏄t of you;/But men,

just waking,scarce㎞ow what to dα/

Oz拠y” O father!/B2”2の,血 Father!/

A加πσ蜘σ7 Dare I own that name!/Speak,

speak it often,to remove my shame.〔Tみの,

σ〃8”伽π08h∫”2.

 (アベナマール そうだ,私は負けた.激しい心の闘

いが終り,恥しさまで,ついに打ち負かされた.(後

略)

 〔ベンゼイダのところへ駈け寄り,彼女を抱擁〕ベン

ゼイダよ,わしをうち負かしたのはお前の徳だった.

ひとりその徳だけがわしの残酷さを克膿できたのだ.

 〔セリンのところに駈け寄り縛をとく〕セリンよ,お

46 福島大学教育学部論集第22号

前をないがしろにしたことを許してくれ.だが目を覚

 したばかりの人間はどうしてよいか分らぬものだ.オ

ズミン ああ父上/ベンゼイダ お父様/アベナマー

ル その名前をわしが持てるのか.言ってくれその名

前を,何度も,そしてわしの恥を取り除いてくれ.

 〔二人彼を抱擁〕)

 以上の両方の場面において,子供の年齢の差こ

そあれ,親子の情をもって観客に訴える感傷的な

手法は同一である.

 次に劇の始めにSerapionが寺院で起きた不吉

な出来事を説明するところがある.“Last night,

between the Hours of twelve and one,/In

a long Aisle of the Temple while I walked,

/A Wh廿lwind rose,that,with a violent

Blast,/Shook all the Dome;the DDors a-

round me clapt;/The iron Wicket,that

defends the Vault,Wkere the long Race of

Ptolemies is laid,/Burst open,and dis-

closed the mighty Dead./From out each

Momment,in Order,placed,/An armed

Ghost starts up:the Boy-king last/Reared

his inglohous Head.A Peal of Groans/

Then followed,and a lamentable Voice/

Cried,Egypt is no more!”(昨夜十二時と一時の

間に,寺院の長い側廊を歩いていると,旋風がおこり,

激しい突風でドーム全体を揺がした.私のまわりのド

アがばたばた鳴り,長い年代にわたるトレミー王族が

横たわっている納骨堂をまもる鉄の小門が, さっと開

いて,偉大なる死者をあばいた.整然と置かれた一つ

一つの墓からは,武装した幽霊が立ち上り,最後の少

年王が不名誉な頭をあげ,それからうめき声が続き,

悲しそうな声が「エジプトはもはやなし」と叫んだ。)

 幽霊などの超自然存在を舞台に登場させ,将来

を予言させたりする手法が,英雄劇の一つの特徴

であることは前に述べた.ここの場合は実際に舞

台には登場しないで,人物の台詞の中で説明され

ているという差異はあるが,これがこの劇の悲劇

的結末を暗示していることに変りはない.

 以上のように」4〃紐五〇泥は,主題をはじめ

構造も人物も,英雄劇のそれを脱していないし,

細部の手法においても決して異種のものが見られ

るわけでなく,韻や,三一致の法則という形式的

な変化を除いては本質的には変りないと言わざる

をえない.

 同じ視点から更にそれ以後の悲劇を検討してみ

る.次の0躍塑粥はSoph㏄lesの0εd伽3

1970-11

伽8π”鴬の疎案だが,Nathaniel L㏄との合

作で,ドライデンは五幕のうち第一幕と第三幕を

担当した.(・・)合作であるが,その担当部分え原作一

と異ったドライデンの意図が取り入れられている

ので取りあげる.Soph㏄lesの原作は先王Laius

殺害の犯人がOedipus自身であり,後のJocasta

は,実は己れの母親であるという恐ろしい秘密が

一つ一つ暴かれてゆく過程と,それにつれての王

の心理的変化を生々しく描いたものであり,脇筋

は存在しない.そしてこの劇には悪意ある人間は

一人も存在せず,次々になされる善意の行為によ

って王は破滅に追いやられる.この悲劇のそもそ

もの原因が二人の羊飼の赤子に示した憐愍の情な

のである・それだけに救いのない,恐ろしい悲劇

となっている.

 このような悲劇が,ドライデンにとってどうみ

られたか.ここで彼の悲劇観に触れておく.

 それは主としてル。伽s朋4C惚ss毎4の序文

に含まれている丁加α傭π偽qr c7露文奮翅∫π

翫㎎否みに詳しく述べられているが,この中で

悲劇の目的について次のように述べている.

“To ins1Tuct delightfully is the general end

of all poetry. Philosophy instructs,but it

performs its work by precepts;which is not

del量ghtfu1,0r not so delightful as example.

To pロrge the passions by example is there・

fore the particular insセuction which belongs

to廿・agedy.”(楽しく教えることが,あらゆる詩の一

般的目的である.哲学は教えるが,その仕事は教訓に

よってする.だが,それは楽しくないし,或いは実際

例ほど楽しくない.実際例によって感情を浄化するこ

とは・それ故,悲劇独特の教育なのである.)ところで,

人間の悪徳の中で最も支配的なものは,己惚と同

情心の欠如であって,悲劇はこれらを矯正する目

的で恐怖心と憐愍の情を生ぜしめるのである.何

故ならわれわれは不幸の実際例を眼前に見ると恐

怖心を起す.そして不幸に陥った人物が,偶々最

高位階の人物であれば,いかなる条件の人間で

も,運命からは逃れ得ぬものなのだと思い.必然

的に恐怖心が生じ,その結果己惚を減少させる.

又一方最も偉大な人物は勿論,最も高潔な人物で

すら,かかる不幸を免れ得ぬことを見ると,われ

われは同情心を起し,知らず知らずの中に,その

苦悩せる人物を助け,思いやりをかける気持をも

ってくる,この気持こそ最も気高い神の如き美徳:

J。Dryde皿の悲劇について 47

なのである.逆に悪人のごとは悲しまずに忌み嫌

う.従ってその人物の罪が罰せられ,勧善懲悪が

行われるのをみると,われわれは喜ぶのである.

 このような考えを抱いているドライデン忙とっ

て,Soph㏄lesの原作に不足している点が,何で

.あるか大凡の見当がっく.即ち悪人又は欠点を持

つ人物が存在しないことである.これではPoetic

勧善懲悪の行われる余地がない.従ってdelight-

fullyにinstructする力が弱まると考えるのは

当然である. そこで彼は原作には存在しない

EurydiceとAdrastusなる人物を登場させ,

Eurydiceを中心にした, CreonとAdrustus

の三角関係を作り出し脇筋にしている.即ち原作

にはない恋愛のテーマを附加し,原作では善人の

Creonを,せむしという肉体的欠陥を有し,自分の

姪のEurydiceへの異常な恋に執着し,Oedipus

の王位をも窺う劣悪非道な悪漢に仕立て,その悪

行に対する報いを受けさせる筋に改めている.こ

のCreonは目的のためには手段を選ばぬ男で,

08ゆ粥乃惚η勿欝のCreonよりは寧ろ08漉一

,聡OoJoπ郷のCreonに近いが,この型の悪党

の類型は勿論英雄劇に存在する.例えばA蛎2㎎・

ゐ加の主人公Aureng-Zebeの弟Moratがそ.れである.CreonがAdrastusの恋人E肛ydice

に横恋慕する筋書はMoratの,Aureng・Zebeの

恋人Indamoraに対する関係と同一である.又

叔父と姪という近親間の不倫の恋愛も英雄劇的で

ある,例えば丁加1π凄α”E物ウ顔rのMonte-

zumaの恋情の対象は義理の娘のAlmeriaである.

 更に原作では現存する人間の証言によって次々

にLaius王殺害の真相が分ってくる仕組になっ

ているが,ドライデンの場合は,夢や幽霊や,大

空に絵や文字が現われる超自然現象によって自分

がその犯人であり,妻の」㏄astaは自分の母で

あることを暗示され。それによって二人は来るべ

き不幸への覚悟を事前にすることになっている.

このような趣向が英雄劇的なものであることは言

うまでもない.因みに,劇の終末はLeeの書い

た部分だが主要人物は皆殺されるか,自殺するか

して,悲劇的最後を遂げる.即ちOedipus王は

原作では眼を繰り抜きはするが死なない(このた

めにかえって悲愴感が大きいのだが).のに対し,

ドライデンの王は窓から身を投げて死ぬことにな

っている.叉原作では使者の話の中で説明されて

いるJocastaの血生臭い自殺の有様は,舞台で

演じられ,ここでも直接感覚に訴える手法が用い

られている.

 次に丁名曜粥。π4C惚ss∫吻(11)はシェイクスピ

ヤの同名の劇の翻案である.改作者自身の言葉を

借りれば,“new・mode1Hngtheplot,throwing

out mImy um㏄essary Persons;impro血9

those ch㎜cters which wer6begun and left

un行nished,as H㏄tor,TroiIus,Pind肛ns and

Thersites and adding that of Andromache.”

(筋を仕立て直し,ヘクター,トロイラス,ピンダラ

スやサーサイチーズの如き,始められて,未完成のま

まになっている多くの人物を改善し,アンドロマツケ

なる人物を加えて.)思い切った改作がなされてい

る一4”佃Lo泥の場合は序文でシェイクスピヤ

に‘divine’なる形容詞をつけていたが,この場

合には,Wardの言葉を借りれば“with scant-

y piety”(皿)の態度が見られる.

 さて原作は周知の問題作で,ドライデンの用い

た1623年発行のFirst Folioには「悲劇」となっ

ていたが,中心人物のTroilusと Cressidaは

別に悲劇的最期をとげるわけでないし,Hector

が第五幕で戦死するのを除いては,悲劇的要素は

見られない.寧ろ登場人物が,すべて殆ど全篇に

わたって茶化されているのを考えれば,喜劇とも

いえる.いずれにせよ,このままドライデンにと

って悲劇とみるわけにはゆかなかった.予想され

るように彼独自のT■o伽sσ”40郷s毎4に書き

変えている.先づ目につく点は,Troilusと

Cressidaを死なすことによって結末を悲劇的な

ものに変えている.即ち原作の終幕はCressida

がDiomedesに心変りをしている現場をTroilus

が目撃し,仲介人のPandamSに八当したため,

Pandarusが恋の仲介人の損な立場を歎くところ

で終っているが,ドライデンは,Cressidaと

Diomedesの恋は偽りで,彼女の本心は最後まで,

Troilusに忠実なものとし,而もそれがTroilus

に通じないために彼女は自害し,Troilusも又戦

死するという結末に変えた.即ちその三人の関係

を,英雄劇的な三角関係に変えている.

 次に主な人物で著るしい変化を与えられている

のはH㏄torである.シェイクスピヤのHector

はTroilusの言葉を借りれば,“vice of mercy”

(慈悲という悪徳)を持ち,“When many times

the captive Grecian fa皿s,/Even in the fan

48 福島大学教育学部論集第22号

and wind of your fair sword,/You bid them

盛se and live.”(あなたのすばらしい剣のあおりをう

けす二だけで何度も,敗れたギリシャ人が倒れるが,あ

なたは彼らを立たせ助けてやる.)このような典型的

な英雄で,このHectorがギリシャ人に挑戦を申

し込んだのは,惰眠を貪るギリシャの貴族たちの

目を覚ますため,ということになっているのに対

し,ドライデンの方は幼児のAstyanaxがAga-

memnonか,Ajaxか,又はAchillesに挑戦状を送りたがっている,と妻のAndromacheから

聞いて,発奮して挑戦を申し込むことになってい

る.このように英雄H㏄torに人間的弱さを与

え,その非を悟らせ発奮させるのに,子供や妻の

力を借りさせているのは,丁度菰1ノケLo泥の

場合と同じく,sentimentalismの利用であるこ

とは勿論である.上例に出たAndromacheは,

原作では夫H㏄torの出陣を止める時にしか登場

しない人物だが,ドライデンはこれに男まさりの

性格を与え,夫を盛り一 スてる重要な人物に作り変

えている.同じ系譜の女性を英雄劇に探れば先に

あげたノ1〃御し。拶εのOctavia及び,丁舵

取π””∫oLo泥のValehaがこれにあたる・

 以上の二作品08ぜ伽と丁漏。∫肋sσ”4C7召s・

謡ぬの場合は翻案という性質上多分に原作に拘

束されてはいるが,それ故にかえってドライデン

の特色が那辺にあるか,判然と浮き彫りされてい

るといえよう.

 つぎの丁加D召加qヂσぬS8はドライデンの

担当した幕が一幕のみなので省略する.

 そのつぎのD伽Seδσ3が8πは創作で,英雄劇

的色彩が著るしい作品である.この劇は歴史上は

Alcazarの戦で戦死したことになっているポルト

ガル王のSebastian(1554-78)が,実は生きてい

るのだという伝説に基いて書かれたものである.

劇はDon Sebastianが,王女Almeydaと共に

捕虜となり,バーバリの王Muley-Moluchの前

に引き出されるところがら始まる.王はSebas・

tianの貫緑に圧倒されて彼の命を許すが,彼と

Almeydaが結婚することが分ると,再び捕え,

死刑を宣告し,Doraxの手に渡す.このDorax

は,かつてSeba5tianの廷臣であったが,彼の虐

待を受けたことを恨み国を裏初ってMoor人の軍

に投じ,その城砦の指揮官になっている・彼は

Sebastimの刑の執行を命ぜられると,悩むが結

局復讐の念を捨て彼を助けることにする.その頃

1970-11

Moor人の陣中で叛乱が起り,王は戦死し,Se・

bastianが国を支配することになる.しかしDo-

mxの話から指環の一致によって変人Almeydaは実は壱れの実妹と分り,彼は隠者に,Almeyda

は尼になるというのが,大筋である.

 先ず筋についていうならば,王が捕虜のA1-

meydaを一目見て心惹かれこれに執着するとこ

ろ,及び,Benducaなる悪党が皇帝の弟Muley-

Zeydanを指嗾し,叛乱を起し,皇帝を殺す話も

類型的である.更にMuley-MoluchがAlmeydaを恋慕しながらもキリスト教徒との結婚を禁止す

る国是が抑制力となっている点は,Tyramic

bveにおいて暴君Maximinが捕虜のSt.Ca-tharineを一目見て恋するが,キリスト教に対す

る嫌悪の情は衰えないところと,抑制力が外的で

あるのと内的であるのとの相異こそあれ,同じ運

び方である.人物でいえば,Doraxが過去にお

ける二Sebastianの虐待に対する恨みと,友情との

間で悩み,結局名誉ある態度を選ぶところも英雄

劇的である.

 つぎに劇の終末近く,DoraxがSebastianに

隠遁の地を教える台詞がある.“I may i㎡orm

you both:for you must go,/Where Seas,

and Winds,and Deserts will divide you./

Under the Ledge of Adas lies a Cave,/Cut

in the living Rock by Nature’s Hands/The

venerable Seat of holy Hermits;/Who

there,secure in separated Cells,/ Sacred

even to the Moors,enjoy Devotion;/And

from the purling Streams,and savage Fruits,

/Have wholesome Beverage,and mbloody

Feast.”(V,i)(あなすこたち二人に教えよう.あなた

方は海・風・砂漠が二人を隔てる所へゆかねばならぬ

から.アトラスの山の岩だなの下に,自然の手によっ

て,自然のままの岩に穿たれた洞穴がある.そこには

森厳なる聖者ナニちの座があります.そこで彼等はムー

ア人にさえ神聖なる個別の庵に安住し・祈祷をたのし

み,せせらぎと野性の果実から体によい飲物をとり,

血を流さぬ食物を食べている.)これは,前出した

Thθ乃2協4”E吻併で生き残ったGuyomarとAlib㏄hが安住せんとした場所を思船出させ

る台詞で,これもPrimitivismの反映と見てよ

いであろう.

 又この劇の構成についていえば,主筋は一応

Don Sebastianの波瀾に満ちた運命になっている

』L Drydenの悲劇について 49

が,Muley王族の王位纂奪戦や,Doraxの行

動,Don AntonioとMoraymaの恋など充分独立した筋として楽しめるものであり.主筋の力

が薄れている点でも英雄劇の要素が備わっている

といえる.

 ドライデンの最後の悲劇C距。翅ε泥sは,主人

公は題と同名のスパルタの英雄で,マケドニヤと

戦って破れ,母・妻子その他家臣数名とエジプト

に逃れ,エジプト王Ptolemyの援助を待ってい

るところがら劇は始まる.ところが,Ptolemy

は柔弱で,政治は側室Cassandraと宰相鋤si-

biusの言うがままになされている.結局Cleo-

menesたちの処遇についてはSosibiusの言葉通

り国外追放ということになる.然しながら,

CassandraはCleomenesへの恋情のためPto1-

emyをまるめこんで,彼を一時国内に留めて,

彼に愛を打ち明ける.だがCleomenesはこれを

拒んだため,このことを根にもち,家族と共に彼

の牢獄に幽閉し餓死させる手段をとった.一方

Cassandraに哺され,国を出ていたCle2mthes

がこれを聞いて国に戻り,叛乱を起し,宮廷に押

し入りCleomenesたちを救い出そうとするが,

既にその母と子は死に,万策尽きてCleomenes

と共に自害して劇は終る,

 この悲劇の作製について作者が言及している言

葉を抜き書きすると,まず,そのPlotに関して

“After a11,it was a bold Attempt of mine,

to write upon a single Plot,’(結局,単一の筋

で書くことは大胆な試みであった.)三一致の法則に

関しては“Some of the Mechanick Rules of

Unity are observed,and otheτs are neglec惚d

(構造上の一致の法則のあるものは守られ,ある

ものは無視されている.)即ち,時間の一致を除

いては守られていることを説明している.又,

歌舞伎では濡れ場に当る場面の欠如にふれて,

“Some have told me,That many of the fah

Sex comp1樋n for want of tender Scenes,and

soft Exprssions of Love:I will endeavour

to make them some amends,if I write

again.”(女性の多くの人が,愛の場面と甘い愛の言

葉が欠けていることに不満を示していると,私は人に

いわれナニ. もし又書くことがあれば,その埋め合わせ

をするようつとめる積りだ.)

 以上の言葉から察するとこの劇は英雄劇とは違

った劇と想像される.確かにこれらの言葉の指し

ている部分に関しては,そういえるであろう.だ

がその内容からみると,やはり変ってはいない.

 この悲劇の原因は結局CassImdraのCleo-

menesに対する恋情と,それに基くエゴイズム

にあり,彼女が求愛を拒否された復讐として,家

族たちを宰獄に幽閉し,特にCleoraを苦しめる

ところは,丁乃θ乃雇惚”E励㎜rにおける悲劇

の拡大の原因がAlmeriaにあり,Cortezと相

愛のCydariaを塔に閉じ込め,ついには彼女を

刺す話と同一である.又主人公たるCleomenes

は著るしい欠点はないものの丁度前にふれた

丁郵毎Z謝σπ4Cz器s肋の中のH㏄torと同じよ

うに15才になる先妻の息子Cleonidasや母親の

Cratesicleaの激励によって,己れの気持を引き

立たせるという弱い一面を持つところも英雄劇の

主人公と異らない.

 更に細部にわたれば,Cleomenesが死んだ兄

を思い出した時や(H,i),家族を人質に取ら

れる提案に対し,思い悩んでいる時に示された

Cleanthesの友情に涙を流す場面は勿論senti-

mentalismの利用であり,又ドライデン自身“In

ofder to gratify the barbarous part of the

audience,he has given them a 曲σrt rabble

scene.” iPreface) (観客の野蛮な連中を満足させ

るために,彼(作者)は短い騒動の場面を加えた.)と

述べているように,第五幕におけるCleom㎝es

の襲撃の場面には盛んな立回りが演ぜられるとこ

ろも英雄劇的である.又rhetoricについていえば。

第一幕一場でC硬nusの台詞の中に次のような箇・

所がある.“At that a Peal of loud Apμause

rang out,/And th血’d the A辻,ti皿ev㎝the

Bkds feU(10wn/Upon the Shouters Head.”

(それを聞いて,大きな歓呼の声が湧き起り・空気を

稀薄にしす:ナこめに,ついには鳥さえも,叫んでいる人

たちの頭上に落ちてきた.)これは,例えば,丁加

血轟σ”E甥御の中でOdmarとGuyomarの言葉“I kill’d a double Man,the one half

lay/Upon the Ground,the other ran awa弘’「

(おれは,二重人間を殺した・その半身は地面に倒れ・

他の半身は逃げ去った・)という表現などと共に,

英雄劇の特徴をなすbombastの一例である.

          皿

 以上検討してきたことで明らかなように,ドラ

イデンの」奴1伽伽ε以後の悲劇は,その構成

上,又は人物,及び細部にわたる手法においても・

50 福島大学教育学部論集第22号  ,

英雄劇の本質を受けついだもの,換言すれば,形

式的な面を除けば.英雄劇と本質的に変っていな

い.然らばその一貫しているドライデンの悲劇の

本質とは如何なるものであろうか.一言でいうな

らば,それはバロック的であるといえるであろ

う.彼の英雄劇が,バロック的であることは(ン

V.Dαmeが指摘しているところであるが,q3)そ

れは主としてその形式面についてのべたものであ

る.しかしそれは,英雄劇のみならず,悲劇全般

について,.しかも,それらの精神面についても,

当てはまると思われるのである.

 即ちバロック芸術は前後二期に分れ,後期は16-

60年から1715年とされているので,ドライデンの

時代は後期バロック時代に包含される・そしてバ

ロック的特徴の一つは,宇宙中心で,人間を自然的

存在となし,変転生成する世界の中の微少で不

完全なる存在とみる点にある.ドライデンは“As-

for a perf㏄t character of vhr血e, it never

was hl Nature, and therefore.there can be

no imitation of it.”(完全無欠な有徳の人間は自然

には絶対存在したことがない.それ故その模倣はあり

得ない.)と述べ,実際に,見て来た如く,英雄劇

を含む悲劇全般を通じて,その主人公と見られる

人物には,すべて何らかの欠点又は弱点を持たせ

ている.この悲劇に対する基本的考え方は・上記

の人間は本来不完全な存在であるとするバロック

的思想から来ていると,いえるのである.それを

裏付ける、言葉は,0幽s第三幕において」.丁丘esiasによって述べられている.“The(}α齢

are just./But how can Finite measure In-

finite?/Reason!alas,it does not know it・

self!/YetMan,vain Man,wou’d with this

short・1in’d Plummet,/Fathom the vast A-

byss of heaずnly Jusδce./Whatever is,蛤

h i㊦caUse just;/Shce aH th血9S are by

Fate4But purblin’d Man S㏄s but a p航

。,th’Chain;lthe nearest Links.” (神々は正し

い.だが有限なるものが,いかにして無限なるものを

量ることが出来ようか.理性か.あわれ,それは己れ

自身すら知らぬ.だが己惚れ強い人間は,この短い糸

に吊られた錘で・天の正義なる深淵の深さを測ろうと

する.存在するものは・すべて正当なる原因によって

存在する.万物すべて運命によって存在するためであ

る.されど半盲の人間は・その鎮の極くで部・最も近

、・鎮の環しか見えないのだ.)鎖とはChainofbeing

1970-11

(万象の鎖)のことであるが,上の言葉こそドラ

イデンの宇宙観を示したものであり,この中で,

自然の肯定と人間の不完全さが説明されている.

この宇宙観を“Tragedy is the miniature of

human life.”(Dedication of the/Eneis)(悲劇

は人間生活の縮図)なる言葉と結びつければ,彼の

悲劇への根本的態度は大凡見当がっくのである・

 バロックの第二の特徴は自然の積極的肯定であ

る.上のTkesiasの言葉の中にも“Whateveris,is in its cause just.”という表現で,その

思想が表明されているが,これが最も端的に表わ

れているのは,前に説明したprimitivismであ

ろう.原始的社会或いは原始自然が,黄金時代の

イメージが与えられ,又は,平和で自由な生活が

営める環境と見なされ,更には,強く,高潔な人

間形成の場として,悲劇の中に登場しているの

は,この思想の反映であると考えられる.

 自然肯定の考えは,又,悲劇における恋愛観に

も反映されている.即ち丁加配籔σ”E幽07

においてCydariaはCortezに対し“HereL6ve is Nature,but with you,廿s Art.” (こ

こ,メキシコでは恋愛は自然なのに,あなた方スペイ

ン人にとっては,技巧なのですね.)というのに対し,

Cort{迄は,“Love is with us,as natural as

here,/But fetter’d up with Customs more

here.”(恋愛は,われわれにとっても,ここと

同じように自然なものだが,ここよりもきびしい

習慣で縛られているのだ.)と答える.この会話

の中に,ドライデンの恋愛に対する基本的考え方

が窺われるが,更にDon Sebastianの“Loveis not sin,but wh〔江e’tis si㎡ul Love.”(恋は

それが不道徳な場合を除いては決して罪悪ではない.)

という言葉によってもその考え方が裏付けされ

る.即ち,ドライデンは,恋愛を,本来自然なも

の,従って善なる本能として肯定しているが,悲

劇の中で,色々な不倫又は不道徳な形の恋を演出

して,その当事者に罰を加えているのは,やはり

悲劇の持っている“to instruct delightfuny”

という目的を満足させるためであることは言うま

でもない.

 最後に,後期バロックの様式面の特徴は,専制

王政の宮廷文化を背景にして,感覚に直接訴える

装飾性を統一原理としている点とされている.

 ドライデンが悲劇の舞台として,専制王国又は

それに準ずる国を選んでいる点は,上の前半の特

J.Dryde皿の悲劇について、. 51

徴と一致するところである.又直接感覚に訴える

手法として彼が,bombastやviolent action又

はsentimentalismを悲劇‘4多く利用している点

は,その後半の特徴と合致しているといえる.

 以上述べたことを要約すると,ドライデンの英

雄劇とその後の悲劇の間には,質的相違が存在す

る感を与えられているが,内容を検討すると,形

式的相違を除いて,その本質は変っていない.そ

して英雄劇を含めた彼の全悲劇に一貫している本

質的なものを,一言でいえばバロック的であると

いうことである.

(この小論は昭和44年第24回東北英語英文学会に

おいて口頭発表したものに若干筆を加えたもので

ある.)

① 彼の所謂英雄劇のタイトルはすべて悲劇となつ

 ている.

(2)CecH肌Deane:丑【㎜漉7拗副7物珍 聯卿1伽。飴、P物ソ.F鍬止Cass,1967p.182.

〔3)Margaret Sh㎝ood:Dび吻ガ5D拓㎜4他

 71拗4”4Pア彼滋α:. New York,Ru8se11&

 Russe11,1966.

(4) 例言.ば,Ardlur C.K㎞℃h:1万ン⑳ガ5石臨8rojσ

 D猶4”昭.P血㏄ton Unive繭ty Press,1965.

(5)bombastとviolent actionについては上掲

 C.V.Deane:D猶㎜4怠‘丁拗のChap敏 4で詳述されている.

(6)Hugh Macdoロald:ノb加Dワ伽,ノ1βあ万一

 〇劇ψ吻‘ゾEαウ癩露b”σ冠‘ゾD宅y鹿瀬α泌.

 Oxford,Chrendon Press,1939

(7) Mndred E.Ha鰍k,“Dryd㎝’s Plays:A

 S垣dy in Ideas,”iロ58ク召”加8”’雅C初敏y8鰯一

 ま郎,2nd Series,ed.Robert Shafer(P血riceton,

 1937 

(9 P出血tivismを最初に唱えたのはJeanJaques

 Roロsseau(1712-78)で,イギリスでは19世紀に

 入ってWordsworthがとり入れているが,この

 頃既に見られるのは注目すべきことであろう.

(9)Thomas H.Fujimura:“伽丑⑳¢4」‘ゾ

 Dび吻げ3勘αi‘P吻3,”PMLA,LXXVII(19-

 62)

⑩ 当時ドライデンに対し08伽3の評判を独占

 しているとの非難があり,.これに答えて,7物

 γ伽ゐ‘8猷。須ザ莇8D摺物。ヅ0”」詔の中でこの

 ことに触れている.      日      覧

qり シェイクスピヤの原作との比較に関しては,

 村岡勇:ドライデンの「トロイラスとクレシダ」

 文化15巻2号に詳細に論じられている.

02 伽α繭岳纐αワ夢E㎏滋訪L惚【4 醜ed.S奮A.W.Ward&A.R.Wa皿er VoL

 VIII p.29

側 C.V.De肥e:Dr㈱漉7勉ωン。p.222.

 以上の他,次の書物に負うところ大であっ忙.

  ZebounちSdヒna Assk,DりF伽:」48拗’”

 撫【o露C肱罰幽ヒ4癒。凧Baton Rouge:Loui一

 伽Statc Unive画ty Press,1965.

 、丁盛dlomg,ToraαDη鹿島 Tokyq:K㎝一

 kyusha1938.

  尚用いたテキストは

  丁勧D躍卿4漉拒障㎝鮎41b肋Dワ地理, E3σ. Lon40n: P血図for Jacob Ton30且at

 Shakespear,s Heaa over・a画面st ka㎞e-

 StTeet血dle S1訟丘d1717」