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愚鋤睦毒…

,。人 ヒント

AIbeけEinsiei”Lev7blsioi●5分間人物伝

He/enKe"erRobeけSCO廿高牧俊之介訳

;賊餅c期'苧

繍撒毛雲憩

鼠……

D・カーネギー人生のヒント

デール・カーネギー

高牧俊之介訳

三笠書房

Selectedfifom

lWEjMI]VU7茜BIOGRAPHZES,

BIOGRAPHrCALROU7VDURand

LIT江EK]VOW7VEAC応ABOUT

WELLK]VOVWVPEOjqLE

byDaleCamegie

ひろく世間を見わたすと、人生といっても実にざまざまだ、たとえばl

紙きれ-枚拾ったのがキッカケで第一流の文豪にのし上った男、がある。

石屋へ年季小僧にやられたが、石の粉末を吸いこむのは危険だ。そこで商売を変えてアメ

リカ空軍第一のエースになった男、がある。

雇ってはもらったが、間抜けだから給金はもらえない。だが後には世界に前例のない高層

ビルを建てた男、がある。

貧乏人の娘とさげすまれて発奮し、食う物も食わずに頑張ってノーベル賞を二回も取った

女、がある。

貴族に生まれて文豪となったが、みずから財産を捨て家出してのたれ死にした男、がある。

きりがないからこれで止すが、とにかく人生といっても実にさまざまだ。

どうです、ひとつ、その驚くべき人生の種々相を、一人あたりわずか五分間で、ひと息に、

手っ取り早く、読んでみたくはありませんか?それがこの本である。

訳者の序

読む気がなければ、この本は君に縁がないのだ。もしくは、君はこの本に縁がないのだ。

縁がなくてよかったか悪かったか、それは今後の二、三十年間がきめるだろう。

「人物伝」と銘打ってはあるが、履歴書の抜き書きみたいな退屈な本ではない。各方面に大

きな足跡を残した人物の生涯から、いわばハイライトと見られる特徴的な面を採り上げて、

わずか五分間で明確なイメージをつかめるように簡潔かつ躍動的にまとめてある。出てくる

人物も企業家・学者・思想家・ジャーナリスト・スポーツマン・冒険家・探検家・社会運動

家・作家・作曲家と、実に多彩をきわめる。どれもこれも理想の人間像とはいえないが、生

きた人間の息吹がまざまざと伝わってくる話ばかりだ。

そうした傑出した人物を扱うから、自然「不携の意志」だの「不屈の決意」だの、そんな

言葉が出るときもあるが、著者はけっしてそれを人に押し

生もあるのきIと描き出すばかりだ。説教臭のまるで喉

る。

著者デ‐ル舟‐ネギー(一八八八’一九五五)は、

メリカ人だが、カーネギー言語能率・人間関係研究所を主

各地に三百カ所余りの分教室を経営したので特に有名だ。

動かす法」及び『取越し苦労をやめてキビキビ生きて行く

著述・講演・放送などで有名なァ

宰し、南北アメリカ・ヨーロッパ

日本ではその著書「人を友として

法」が知られている。二冊とも何

つけない。どうだね、こうした人

いところ、まことに爽快な本であ

訳者の序

百万部売れたか見当もつかないベスト・セラーだ。何十年となく売れつづけているから記録

的なロング・セラーでもある。訳本はタイトルがそれぞれ「人を動かす」と「道は開ける」

となっている。

この本はデール・カーネギーの『五分間人物伝』、『伝記集成』、「有名人の秘話』の三冊か

ら、日本の読者を頭において選択した。なぜこれまで翻訳が出なかったか、実に不思議だと

田やつ。

なお、本書はもと創樹社から上下二巻の形で発行されたものである。文庫化するにあたり、

若干の取捨を加えて一冊本に編集した。

高牧俊之介

訳者の序

目次

アービング・バーリンーーく9mの三コ

オタマジャクシも読めないのに、アメリカ第一のヒット・ソングを書いた男

HJ2283338

オーヴィル・ライト○皇の葦曾↓

世界の歴史の流れをガラリと変えながら、大事業を果したとは思わなかった男

ルイザ・メイ・オールコットF○房。三Qベン-8ヰ

世界一の少女小説を書きながら実はその作品にうんざりしていた女性

シンクレア・ルイスmヨn-Q-「Fの重い

新聞社を首になること前後四回lノーベル賞を受けても本当にしなかった男

ウォルト・ディズニーくさ一ろぎのベ

ハッカネズミを利用して途方もない巨富を築いた男

73 3

マーク・トウエーン量Q寿尋Qヨ

往来で拾った紙きれ-枚に感動して、遂に世界的大文豪になった男

エンリコ・カルーソー、コュ8nQ景○

靴も買えない貧農の息子に生れて、世界第一の歌手になった男

ジョージ・バーナード・ショウOの○固の、のョQa望Qそ

友達の家へも行けないハニカミ屋から、現代第一の雄弁家になった男

424954606672

マーチン・ジョンソン宝Qユョ」○言い○コ

「炊事ができるか?」といわれたのがキッカケで、地の果てまで飛ぶことになった男

ジャック・デムプシー」Qngの暑いのべ

金がないため母親が人前で涙を流したlそれで発奮してヘビ‐級チャンピオンになった男

アンドルー・カーネギーぎq『の冬(叩。ョの廻の

貧乏のどん底から億万長者にのし上り、無数の百万長者を生み出した男

93 83

エディ・リッケンバッカ-m&『の詞昇のコケ。異の『

墓石に彫刻する仕事は危険だからやめて、アメリカ空軍のエースになった男

マルカム・キャンベル卿等量。-8-ョ(ピョgの一一

レーサーとしては世界第一、趣味として宝探しに熱中する男

F・W・ウルワース、妄冬doごO芽

間抜けだから給金はやらんといわれたが、後に世界一の高層ビルを建てた男

ウィリアム・ランドルフ・ハースト三ミQヨヵQaOきず工①Q旦

親の過重は三千万ドルlだが毎日十五時間五十年間ぶつ通しに仕事した男

103

アルバート・アインシュタインエーケの1,コ里のョ

もとは学校一のバカだったが、後に世界一の大科学者になった男

119124129135140

エドワード・ボック里一ぐQamo禿

わずか十四歳でアメリカ一流の有名人と知り合いになった子供

》ンヤック・ロンドン」Q鼻Foa○コ

三カ月でハイ・スクールを卒業し、十八年間に作品五十一篇を書いたダフ・ガイ

ウッドロー・ウィルソン二.09.ミニデ○コ

歴史に前例のない世界平和の好機会を手にしながら彼は見事に失敗した。その原因は?

ZO9113

セオドア・ドライサーヨのOqO耐○耐雨『

『アメリカの悲劇」の大作家も、実はまったくの偶然でチャンスをつかんだことがある

レフ・トルストイト①く『○一忽○一

世界文学最高の作品を一一篇も書きながら、それを恥辱として後悔した男

オリバー・ウェンデル・ホームズ○一一くの「冬のコュの一王○一ョの“

こんな老いぼれにならなってみたい、と思うだろうが、さて君にできるか?

ヘレン・ケラーエの一の。奇一一の『

目も耳も口も不自由な身で、ナポレオンに比された十五歳の少女

195 158169177r84

ボブ・ホープm8工obの

最もアメリカ的な笑いを配達しに赤道を一一一回廻ったイギリス人

790

H・躯牝ゥエルズェ.Q孟丙

銀難汝を玉にす、とは古い一一一一巨葉だが、それが今も生きている証拠の人物

クラレンス・ダロウQQ詞。8oQ3冬

高給をくれる会社をやめて会社と闘った聖戦の騎士Iそのキッカケは五歳の時だ

口パート・スコット大尉詞8の1m8ヰ

極地の秘密を求めて神の秘密を発見した男

152 Z46

ドリス・デュークロ○房ロ鼻①

ロックフェラーが石油でやったくらいのことは、おれにも煙草でやれるはずだ、といった男

ローエル・ジャクソン・トマストoそのミQn所○コ二○ョQの

金こそないが成功の条件をことごとく備えて、四百万人に講演を聴かせた冒険家

キュリー夫人三QQQョの、目の

貧乏のどん底から世界一流の科学者になり、しかも富豪になる道を捨てた女性

,ワィンストン・チャーチル三コ里0.9胃三

大学入試に三回も落ちながら、世界の運命を左右する大政治家になった男

248 2単3 220228237

サマセット・モームの○ョの跡の↓宝QcgQョ

自分でも問題にしなかった劇が『ハムレット」以来の大傑作になった話

セオドア・ルーズヴエルトニの&o『のヵ○○mのくの一一

胸板を撃たれても、最後まで演説をやめなかった男

ジョン。D・ロックフェラー」O言ロ.力on表の迂一の「

将来性がないと見られて初恋の女性に逃げられた男その名はI

クラーク・ゲーブルQQ完①Q重の

もとは女の子の前ではいつもビクビクしていた彼だが、今ではI

ビング・クロスビー四コ@00ぃg

ノドの奥の突き出したところに十万ドルの保険をかけている男

20Z2]2

ハロルド・ロイドエgO-qF-O豆

火事と占星術師とツノブチ眼鏡のおかげで世界一金持の名優になった男

207

人生のヒント

一九二九年の大恐慌は有名だが、あのパニックで破産しながら、破産してよかったよ、と

いっている男が少なくとも一人はある。その男はパニックで無一文になった。昨日は百万長

者、今日は無一文というわけで、新作のショーを上演するのに二千ドル借金する有様だ。こ

の頃その男の奥さんから聞いた話だが当人はこういっているそうだI「一九二九年の

パニックで破産してよかったよ、おかげで否応なしに好きな仕事へもどることになった」と。

好きな仕事というのは流行歌の作曲である。その男の名はアービング・バーリン。一九二九

年のパニックのあと、最初に書いたショーがあの「アズ・サウザンヅ・チーア(歓呼に答え

て)」と題するミュージカルだ。

一九二九年、彼はもはやどう使っても使い切れないほどの金持だったから、のらくら遊ん

オタマジャクシも読めないのに、アメリカ第一のヒット・ソングを書いた男

アービング・バーリンミ呂画の三コ

Z3

14

だり旅行して廻ったり、そんなことで暇をつぶしていた。実に楽しい毎日である。ずっとこ

のまま続けていこう、と思っていた。だが今では金にあかして遊び暮すより作曲の方が遥か

に楽しい、と思っている。

翌一九三○年には、うまく立ち直れるかな、とまだ苦労していた。何しろ作曲をはじめて

からもう十八年、ヒットまたヒットと続けてきたから、もう種ぎれであとが続かないかもし

れない。

だが破産した以上はまた作曲するより仕方がない。そこで書いたのが「アズ・サウザン

ヅチ‐Zlこれが素晴らしい大ヒットになった.自信がわいてきた.ハリウッドから

の依頼でミュージカルの新作「トップ・ハット」のため五曲の歌を書いた。原作料は買切制

で即金払いにしたいlハリウッドはそう望んでいたが、彼は印税方式でもらうと頑張った。

そのミュージカル映画に使った五曲の印税が、何と、およそ百万ドルの三分の一に近い。中

には例の「チーク・トゥー・チーク(頬すりよせて)」も入っている。

それから「イースター・パレード」だの「ホワイト・クリスマス」だの、つぎつぎとヒッ

トをとばした。一九四二年には生涯第一の傑作「これが軍隊だ」を書いて演出もした。だが

書きはしたが報酬は全く受け取らない。書いた時間も労力もすべて政府へ寄付してしまった。

「これが軍隊だ」で上った金は一千二百万ドル、すべて陸軍緊急救援基金の収入となった。

r5 アーピング・バーリン

今やアービング・バーリンはポピュラー・ソングの作曲家として世界で最も有名だが、驚

いたことに音楽の技術的方面はあまり知らない。頭にわき出すメロディーも、自分で五線譜

に書けない程度である。メロディが浮かぶと鼻唄で歌う。それを音楽のできる秘書が楽譜に

直すのだ。

彼は生れてから音楽のレッスンを一度も受けたことがない。そのくせ、アメリカのポピュ

ラー音楽に彼ほど大きな影響をあたえた者はないだろう。これはぼく一人の意見ではない。

ジョン・オールデン・カーペンターといえば現代アメリカ一流の本格派の作曲家だが、その

カーペンタ‐がこう断言しているl「きっと紀元二○○○年になるとアメリカ音楽の誕生

日とアービング・バーリンの誕生日は同じ日だった、と音楽批評家がいうだろう。どうもそ

んな気がする」

アービング・バーリンは楽譜もろくに読めないくせに、作曲した歌の数は現存する誰にも

劣らず多い。合計八百曲は越すだろう。ぼくはさかんに作曲したから失敗作も誰よりも多い

よ、と当人もいっている。

学校へは二カ年しか行かなかった。読んだ本といっては、ちゃんと最後まで読み通したの

は自分の伝記ぐらいだろう。大体、有名人の伝記というものはその当人が晩年になってから

書かれるか、もしくは死んだあとで書かれるものだ。ところがバーリンの伝記を有名なアレ

グザンダー・ウルコットが書いたのは、何と、バーリン三十五歳の時である。

アービングバ‐リンの処女作は「うららか彦イタリア生れのマリ‐」lあの「マ

リー・フロム・サニー・イタリー」だが、それがかっきり三十五セントで売れた。だがその

三年後には一曲二十万ドルの曲を書く。それがアメリカ音楽に新時代を画し、アービング・

バーリンの名を一夜にして有名にしたl例の「アレグザンダーズ皇フグタィ今バンド」

がそれだ。今では古今第一の名曲のひとつだが、有名なブロードウェーのレビュー座「フォ

リ・ベルジェール」へ持ちこんだ時は支配人に突っ返された。これじゃ人気は取れませんよ、

というわけだ。ところがこれも有名な演出家ジョージ.M・コーハンは、これは当るぞ、と

見て取ってさっそく契約すると一九二年の「フラィァズラロリック」lつまり「坊き

んどもの浮かれ騒ぎ」の中で使う。それが大当りでたちまちアメリカ全土に愛唱された。何

しろあのメロディを聴くと、誰もすぐさま引きこまれてしまう。

一九四○年には全米音楽鑑賞委員会からその年度の最優秀作曲賞を受けた。あの「ゴッ

ド・ブレス・アメリカ」が賞の対象である。これはたちまち普及して、ほとんど第二のアメ

リカ国歌に近い。

この曲を書いたのは実は第一次大戦中だったが、発表されたのは一九三九年、例のミュン

ヘン条約前後の危機に当って発表された。またぞろ世界大戦になったらたいへんだぞ、まさ

r6

アービング・バーリン

に全アメリカが一致団結して立つべき時だIバーリンはそう思って発表したのだ.だがこ

の曲が大当りとなると、奴め、愛国心を利用してひともうけしたな、と見られる危険もある。

そこで印税をのこらず、アメリカのボーイ・スカウトとガール・スカウトに寄付した。「ゴ

ッド・ブレス・アメリカ」(神よ、アメリカを守らせたまえ)という言葉を彼が初めて聞い

たのは母親の口からである。ただし、母はそれを英語でいったのではない。もとユダヤ人で

アメリカへ移住しても英語は使わなかった。ロシア語で「神よ、アメリカを守りたまえ」と

いったのだ。何気なくいったのでもない、ほとんど歓喜に近い情熱をこめていった。何しろ

ロシアでは自分も夫も六人の子供も、さんざん迫害されて、命からがらアメリカへ逃げてき

た。このアメリカは安全で自由な国だ。だから当然アメリカをありがたく思うはずである。

アービング・バーリンはロシアの思い出としては、闇の中で自分の家が燃え上るところしか

覚えていない。

バーリン一家は一八九二年、アメリカへ渡航してきた。悪臭が鼻を刺し明りもろくにない

船鎗へ詰めこまれてきた。今でもバーリンの額には傷あとがある。それは船鎗の中で上段の

寝棚に眠っていた男の手からナイフが落ちた時の傷あとである。

もん文

なし一家がアメリカへ着くと、四人の娘は編物の内職をするし、長男は工場へ勤めて安

賃金でこき使われた。父親は時たまユダヤ人相手の肉屋へアルバイトに出て、ユダヤ教の指

17

定通り処理した肉の証明係を勤めたり、時にはユダヤ教の教会の合唱隊で歌って小銭をかせ

いだりした。一家八人、最初は暗い地下室に住んだが、やがてニューヨーク市のスラム街の

二間きりの狭いアパートへ移る。そんなみじめな暮し向きだが、あの恐ろしいロシアでの暮

しにくらべたら、新世界での生活はまるで天国だ。だから母親は感謝の祈りとともに、「神

よ、アメリカを守らせたまえ」と幾度もつぶやいたものだ。

アービングバ‐リン自身もこういっているl「何もないところから歌は生れてきはし

ない。まず何か感じたもの、何か心に浮かぶものがなくては歌は書けない」。彼の書いた

「ゴッド・ブレス・アメリカ」にはちゃんと素材があった。歌の心は母親の口から聞いた

数々の物語だ。歌の言葉は自分の胸の奥底から浮かんできた。

アービング・バーリンの歌曲には自分の生活そのものから生れたものがいくらもある。一

九二年、結婚後わずか六カ月で最初の妻に死なれた時は「ホエン・アイ・ロースト・ユー

(君に死なれて)」を書いた。一九一七年、第一次大戦の最中は兵隊だった。だから毎朝六

時には起きなくてはならない。それが辛さに書いたのが「オゥ・ハウ・アイ・へイト・ト

ウー・ゲッタップ・イン・ザ・モーーーング(朝起きするのは大嫌い)」だ。やがて大資産家

のむすめで美人のエリン・マッケイがアービングに恋をするが、父親が怒ってエリンをヨー

ロッパへやってしまった。こうしたらアービングのことも忘れるだろう、というわけだ。そ

Z8

のとき書いたのが「オール・アローン(ひとりぼっち)」と「リメムバー(思い起こせよ)」

の二曲である。やがて結婚の間ぎわになると、熱い心を一曲の歌にこめて「アイル・ビー・

ラヴィング・ユー・オールウェイズ(とこしえに君を愛す)」を書いた。

ぼくは一度、バーリン夫人から純金のシガレット・ケースを見せてもらったことがある。

誕生日のお祝いに夫から贈られたものだ。蓋にはただ一語「オールウェイズ」と彫り、その

下に歌詞のうち「アイル・ビー・ラヴィング・ユー・オールウェイズ」のところのメロディ

の楽譜が彫ってある。一九二○年代に初めて知り合ってから、二人はずっと今でも相愛の仲

だ。夫は妻を誇りとし、妻はアービング・バーリンの妻たることを誇っている。話しぶりで

ちゃんとそれがわかった。

アービング・バーリンとエリン・マッケイの結婚は社交界に一大センセーションを巻き起

した.こん溌不鈎合な結婚そのうち悲劇に蕨るぞl知ったかぶりの連中ばそう予言した

ものだ。何しろ花嫁と花婿は社交界の両極端である。花嫁の父はニューヨーク社交界のリー

ダーだから、彼女はずっと大邸宅で育ってきた。一方、アービングはもと、あのあまり品の

よくないバワリー通りの酒場で歌っていた。客が投げてくれる小銭を床のオガクズの中から

拾っては安宿の払いにしたこともある。

ところがである。そうした悲観的観測がさかんに流れたにもかかわらず、二人の結婚はま

19アービ ン グ ・ バ ー リ ン

2C

さに幸福そのものとなった。身分の上下などどこかへ消し飛んだ。二人の問に女の子が三人

生れて、夏はキャッキル連山の奥にある面積五十二エーカーの静かな農場ですごす。夫妻と

も社交界やナイト・クラブなどに興味はない。生活そのものが仕事なのだ。

これは前にもいったが、アービング・バーリンは生涯に一度も音楽のレッスンを受けたこ

とがない。しかし、どれほど優秀な音楽大学でも学べず、また学ぼうともしなかった尊いも

のを、彼はごく若いうちにちゃんと学んでいた。ひろく大衆にアピールする歌詞を書き曲を

作る道を学んでいた。どこでそれを学んだか?バワリー通りを流して廻る盲目の音楽師が

ひとりあった。アービングはその盲人の手を取って街角から街角へわたしてやりながら、そ

の音楽師の演奏するメロディを口ずさんだのである。バワリー通りの酒場やレストランで歌

ったのも勉強になった。曲はもとのままで歌詞だけ自作の新しいのを歌う11そんなことも

した。そして聴衆の反応を観察したのである。

やがて自作の曲を歌ってレストランやビア・ホールの客に聴かせてみた。彼は曲も歌詞も

アメリカのテンポに合わせて作る。彼の歌曲はヨーロッパの階級世界の影響は受けていない。

新世界アメリカの鼓動から影響を受けている。

アービング・バーリンほど充実した生涯を送った人はあまりなかろう。彼ほど胸の奥底か

らあんな美しいメロディを発見した者もあまりなかろう。

〔補注lエリン寺ツヶイとの結婚は一九二六年。身分の相違の瞳か花嫁の家は熱心なカトリッ

ク教徒だから、信仰の問題もからんでいた。二人の結婚はアメリカ一九二○年代最大のトピックだ

った。いまの日本では歌曲「ホワイト・クリスマス」がいちばん広く愛唱されているだろう。昭和

六十一年七月現在九十八歳、音楽史上最長寿の作曲家として健在である。罫肩国の『]旨(葛麗l)〕

21アービング・バーリン

ぼくが初めてシンクレァ・ルイスと会ったのは何十年も前のことだ。その頃、彼とぼくと

ほかに五、六人の仲間は、ニューョーク州ロング・アイランド島のフリーポートでモー

ター・ボートを借り、二、三マイル沖合へ出てはマグロなど釣ったものだ。その頃も、ぼく

はルイスに頭が上らなかった。彼は絶対に船に酔わないからである。海が荒れて波が高まる

と、ぼくはたちまち参ってボートの底へへたばる。ところがルイスはどんなに荒れても平気

でちゃんと釣りをしている。コールリッジの詩「老水夫の唄」にある通り、「描きし海に浮

かべるがごと」という格好なのだ。

シンクレア・ルイスが初めて大ヒットを飛ばしたのは一九二○年のことである。それまで

に小説を六冊出したが一向に人気が出ない。ところが第七作『メーン・ストリート』、つま

新聞社を首になること前後四回lノ‐ベル賞を受けても本当にしなかった男

シンクレア・ルイスmョn-Qミの一房

I聖

り「本町通り」が出たとたん、たちまち全国にわたって大旋風を巻き起した。各地の女性団

体からは非難の声が上るし、牧師連中にはこき下されるし、新聞からはこれはアメリカ社会

を侮辱するものだと書き立てられた。アメリカ全土に猛烈な論戦が起って、三千マイル離れ

たヨーロッパまでその反響がとどろいたものである。

この一作で彼はたちまちアメリカ文壇第一級のスターにのし上った。

批評家の中には、「うん、なかなか出来のいい小説だが、あいつめ、これ一発でおしまい

だろうよ」といった者もある。

ところが、である。

ミネソタ州ソーク・センター生れの赤毛のルイスは、それを機会にバリバリ書き出した。

それ以来、何と、ベスト・セラーを五、六冊も書きとばしたのである。今うっかり「書きと

ばした」と書いたが、彼はけっして「書きとばし」はしない。彼は慎重に書く。何べんも倦

まずに手を入れて書き直す作家である。

長篇『アロウスミス』は良心的な医師の苦闘を描いて、アメリカ医学界を批判した作だが、

この小説の下書きは約六万語に及ぶ。つまり、下書きだけで普通の長篇小説の半分もあるの

だ。一度などは資本と労働の対立を素材にした長篇に十二カ月没頭しながら、結局その原稿

を屑篭へ放りこんでしまった。

23シンクレア・ルイス

で自給自足でやっている。町へ出るのは理髪店へ行くときだけだ。

24

説を書くどころか寝る暇もなかろう。だからきた手紙はたいがい暖炉へ放りこんで燃えるの

を眺めている。

彼は人に署名をせがまれるのが大嫌いだ。格式ばった晩餐会もめったに出ない。文学好き

出世作『メーン・ストリート』も前後三回にわたって書き直し、最初に手をつけてから十

七年後にようやく完成した有様だ。つづいて『バビット』、「アロウスミス』、「エルマー・ギ

ャントリ』、「ドヅウォース』と、ベスト・セラーを連発した。

ぼくは一度シンクレ了ルイスに聞いてみたことがあるI「君自身のことで最も驚くべ

きことは何だと思うね?」すると彼はしばし考えてから、もし作家にならなかったらオクス

フォード大学でギリシャ語か哲学の教授でもするか、さもなければ山奥へ引っこんで人足ど

も相手に木材の伐出しでもしていたいlそう考えている点かね、と返事した。

彼は一年の半分はマンハッタン区の高級住宅街パーク・アベニューで暮す。あとの半年は

バーモント州のバーリントンの西南八十マイルの山奥に住む。そこに面積三百四十エーカー

の農地があってサトウカエデが植えてある。自家用のメーフル・シロップも作るし、野菜ま

国うん、うるさいもんだね」と返事した。受け取った手紙に残らず返事を書くとしたら、小

ぼくは彼に聞いてみたl「おい.ルイス、有名人になってどんな気持だ?」すると、

な連中のティー・パーティも逃げている。

君もむかしは苦労したね、とぼくがいいだすと彼はこういった’「名を成すまでの苦心

談をしゃべりたがる作家が大勢あるが、あんなの、ぼくは大嫌いだな。一体、アメリカの作

家は苦労の足りない奴が多いんだ。ろくな苦労もしないでたちまち有名になる。まるで医者

や歯医者や弁護士などと同じことさ。そのくせ、これほど苦労して努力を続けました、など

とぬかしやがる」

そこでぼくはいったl「君はむかし朝食より二、三時間早く起き出して、台所へ行って

コーヒーを火にかけては台所のテーブルでせっせと書いていたじゃないか。百五十ドルも借

金をしよって炊事も洗濯も自分でやりながら六ヵ月間せっせと原稿を書き、しかもその六カ

月間にジョークがひとつ、たった二ドルで売れたきり、ということもあったぞ」

すると彼はこういった’「あんなの、苦労じゃないよ。一生懸命に習作をやってたんだ。

思い出すとあの頃が一ばん楽しかったなあ」

君の作品、これまでに全部でどのくらい売れた?と聞いてみた。すると彼はまるで知ら

ない。「でも大体の数字ぐらい知ってるだろう」というと、雨いや知らない。まるで見当も

つかないね」と彼は答えた。

そこで今度は、あの『メーン・ストリート』でどのくらい金が入ったね、と聞いてみた。

25シンクレア・ルイス

26

やはり知らない。そんなことはてんで頭にないのである。そんなことはすべて弁護士と会計

士に任せてあるから、いくら金が入るか考えたこともない、という。

シンクレア・ルイスの過去は、実にさまざまな経験に満ちている。父親はミネソタ州の平

野で田舎医者をしていたから、手術のとき患者にクロロホルムを施す手伝いもした。家畜船

の水夫になって大西洋を横断したこともあれば、船の三等に乗ってはるばるパナマくんだり

まで仕事口を探しに行ったこともある。童謡の原稿を売っていたこともあれば、短篇小説の

プロットをジャック・ロンドンに売っていたこともある。耳の不自由な人を読者とする雑誌

の編集助手を勤めたこともある。

運動は全然やら旗い。都会に住んでいれば、タクシ‐のドアをあけて這いこむlそれだ

けで運動は十分だ、というわけだ。

スポーツにもまるきり興味がない。野球選手ならベーブ・ルース、フットボール選手なら

レッドグレ‐ンジー有名なスポーツ選手の名で知っているのはこの二名だけである。

「君は最初勤めた新聞社三社で首になったんじゃなかったか?」と聞いてみた。

「いや、ちがう。四社だったよ」と返事があった。

「これから作家を志す若い連中に、何かいい助言はないかね」と聞くと、「全然ないね」と

返事した。何事にしろ、他人の助言が何のたしになるものかIこれが彼の信念なのだ。

シンクレア・ルイス

ある日、シンクレァ・ルイスのところへ電話がかかってきた。スウェーデンなまりの英語

で、ノーベル賞があなたにあたえられることになりました、と相手がいう。ミネソタ州にい

たころスウェーデン人には知り合いが大勢あったから、この話、少しおかしいぞ、とルイス

は思った。誰かがイタズラに電話をかけてきたんだろう。そこでこっちも相手をからかいは

じめた。

二、三分して電話が本物だとわかると、シンクレァ・ルイスは腰がぬけるほど驚いた。世

界の文学界で最高の名誉であるノーベル賞が突然ころがりこんだからである。

〔補注lルイスの小説を日本へ紹介したのは初期プロレタリヤ作家前田河広一郎である。彼の訳

した「本町通り」はそのころの日本の左翼文学に大きな刺激をあたえた。m言。]豊『斥乱“

(葛観1s望)〕

27

むエスキモー人まで、アラスカ州ジュノーで見たミッキー・マウスの映画に熱を上げて、

82

ウオルト・ディズニーニさ一↓ロ厨。の『

二十四年前、そのウォルト・ディズニーは暮しにも困ってい

の茶畑から西はアラスカの漁村にいたるまで、ひろく全世界の人気者だ。北極圏の近くに住

最新版の『イギリス名士録』には、ウォルト・ディズニーの名が世界一流の人物に交って

ちゃんと出ていてしかも、有名な大政治家などより紙面をたっぷり使っている。

「ミッキー・マウス」と「三匹の子ブタ」の生みの親ウォルト・ディズニーは、今から二十

三年前、まったく無名の人だった。今ではアメリカ第一級の有名人のひとりである。

シキー・マウス・クラブを設立した。クラブの集会はもちろん

屋の中で開催する。

た。今では、東はセイロン島

、、、

ハッカネズミを利用して途方もない巨富を築いた男

イグル

雪や氷を固めて作った丸太小

29

も人

一一十四年前は文なしだった。今では大資産家であぃソ大事業家である。もうけた金は一切ま

た事業につぎこむ。何百万ドル貯めこむよりも、いい映画を作る方が面白いんでね、とディ

ズニーはいっている。

もとはミズーリ州のカンザス・シティーに住んでいた。画家になるつもりだった。そこで

ある日、カンザス・シティー・スター新聞社へ仕事口を探しに出かけて、編集長に自分の描

いた絵を見せた。編集長はそれを見て、だめだな、これは、君はてんで画才がないじゃない

か、といった。ガッカリして一戻る。

やがて仕事にありついた。教会へ飾る絵をかく仕事だが、給金はひどくわるい。とても事

務所など借りられないから、父親のガレージをアトリエに使う。もちろんその時は辛い思い

をしたわけだが、あとから考えると、ガソリンとグリースの匂うガレージで仕事をしたおか

げで、百万ドルもの値打があるアイディアを授かったことになる。

事の起りはこんないきさつだ。ある日、ハツカネズミが一匹、ガレージの床の土をチョロ

チョロしている。絵を描く手をやすめてディズーーーはそれを見ていたが、やがてパン屑を取

ってきてネズミにまいてやった。

日一日と経つうちに、だんだんハツカネズミが馴れてきて、とうとう画板の上へはい登る

ようになった。

ウォルト・ディズニ

そのうちハリウッドへ移って、「オズウォルドとウサギ」という一連の漫画映画を製作し

もん

はじめたが、これは完全な失敗だった。またもや仕事にあぶれて文なしになる。

ある日、下宿の一間で何か名案はないかと首をひねっていると、ふと頭へ浮んだのがカン

ザス・シティーのガレージで画板の上へはい上ったあのハッカネズミである。

そこですぐさまハツカネズミの絵を描きはじめたlこれがミッキー・マウス誕生のいき

さつである。カンザス・シティーのそのハッカネズミは、もちろんとうの昔に死んだろうが、

それが全世界で最も有名な映画スター「ミッキー・マウス」のご先祖にあたるわけだ。今や

全映画界でファン・レターの最も多いのはミッキー・マウスである。ミッキー・マウスがス

クリーンを跳ね廻った国は、映画スターの誰よりも遥かに多い。

ウォルト・ディズニーは毎週必ず動物園へ出かける。動物どもの動きを研究し、動物ども

の鳴き声を研究するのだ。ミッキー・マウスの映画でミッキーの声を出す係りもしているし、

ほかの動物の鳴き声も多くは自分で引き受ける。

漫画映画の製作には無数の原画が必要だが、それを一枚一枚自分で描くわけではない。せ

りふも書かなければ画面の構成も自分ではやらない。そんな仕事はすべて大勢の助手に任せ

てある。

ディズニー自身はもっぱら映画のアイディアに没頭している。何かアイディアが浮ぶと脚

30

ウォルト・ディズニ

メですな、というばかりだ。

とうとう、あまりたびたび話を持ち出されるので、ひとつ、やってみましょう、というこ

とにはなったが、誰もあまり期待はしていなかった。

ミッキー・マウス映画を一本作るには九十日かかる。だが「三匹の子ブタ」なんぞに九十

日かけてはもったいない。そこで手早く六十日でまとめることにした。スタジオのスタッフ

の誰ひとり、これが当ろうとは思いもしなかったのだが、何と、それが一挙に全国の人気を

さらうことになる。

実に空前の大ヒットだった。ジョージア州の棉花畑からオレゴン州のリンゴ園にいたるま

で、ミッキ!マウスのテ‐了ソングはたちまち全国にひろまったl「大きな悪オオカ

ミなんぞ、誰がこわがるもんか、誰がこわがるもんか?」

ディズニー氏自身の話によると、この映画を繰り返し七回も上映した映画館があるそうだ。

本部の助手たちを集めて討議する。もう何年も前のことだが、ある日、子供の頃母に読んで

聞かせてもらった童話をカラー映画にしようと話を持ち出した。三匹の子ブタと大きな悪オ

オカミの話である。

助手たちは首を横に振って賛成しない。仕方がないから取り止めにしたが、ディズニーは

どうにもそのアイディアが忘れられない。しかし何べん話を持ち出しても、一同、それはダ

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32

漫画映画の歴史上、前例のない最大のヒットである。

今この瞬間も、世界のどこかでミッキー・マウスを見ている人があるかもしれない。

すべて成功の秘訣は仕事にほれこむことだIこれがウォルト・ディズニ‐の信念である。

ただの金もうけはさっぱり面白くない、と彼はいう。仕事こそは彼の生活の感激であり冒険

であるのだ。遊びよりも仕事に、彼は感激を発見している。

「大きな悪オオカミなんぞ、誰がこわがるもんか?」の歌は、漫画映画から生れた最初のヒ

ット曲である。この曲はディズニーの部下のひとりフランク・チャーチルがわずか五分間で

封筒の裏へ書いたものだ。これがヒットするとたちまち、チャーチルのところへ他の映画会

社五社から作曲の依頼が舞いこんだ。

〔補注lミッキ!マウスのヒットをとばしてウォルト・ディズニ!プロダクションを創立し

たのが一九二八年。以来、ヒットにヒットを続けて幾度かアカデミー賞を受けた。映画のほか、有

名なディズニーランドを創案、経営し、一九六六年に死んだ。雪画一目黒勝ロ冒喝(忌日I忌承)〕

キリスト降誕の五百年前、古代ギリシャの劇作家エスキラスはその不滅の悲劇をアテネで

上演した。その遠いむかしからアン.一一コルズ作の喜劇「エイビイのアイルランドのバラ」

がレコード破りの成功を収めた一九二四年にいたるまで、ニューヨークのラジオ・シティー

劇場における映画『若草物語』の三週間のレコードに匹敵する大ヒットはほかにない。

映画『若草物語」は上映十七日目には入場券の売行きが特に目ざましく、数ブロックに及

ぶ長い行列ができた。クリスマスの買物にきた人びとはその行列に目を丸くした。こんな光

景はニューヨークの歴史にかつてなかった。

ところで、その『若草物語」の原作がどんないきさつで書かれたか、これまた驚くべき話

がある。 世

界一の少女小説を書きながら実はその作品にうんざりしていた女性

ルイザ・メイ・オールコットトo鳥。量。宝-8ヰ

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原作は「小さな女たち』という長篇小説だが、それを書いた女性ルイザ・メイ・オールコ

ットは若い頃とんでもないおてんば娘だった。大人になっても女の子には何の興味も関心も

なくて、小説を書くにも女の子のことはあまり書かない。ところが出版社がしつこくせがん

だ。どうぞ、ぜひとも女の子のことを小説に書いてください。そこで仕方なしに承知はした

が、心の中では絶対にいやだった。

作家が心から打ちこんで書くので倉ければ読者がよろこんで読む作品はできないlこれ

は作家の間では当然の公理になっている。ところがルイザ・オールコットは「小さな女た

ち』を書くのが一向に楽しくなかった。それどころか、いやでいやでたまらない。途中でペ

ンと原稿紙を投げ出したことも何度かある。投げ出すと口笛を吹いて飼イヌを呼び、森の中

へかけ出して行く。さもなければ急いで友達のところへ議論を吹っかけに行く。その友達と

いうのは、何と、あの大思想家ラルフ・ウォルド・エマーソンなのだ。

「小さな女たち」を書き上げると、これは失敗作だな、と作者は思った。ところが、それが

たちまちベスト。セラーになって、それ以来百年以上、今でもベスト・セラーである。アメ

リカだけでも読者が二千万人。何年か前の全アメリカ図書館司書大会では、投票の結果、

「小さな女たち」が世界一人気の高い少女小説になった。

ルイザ・メイ・オールコットはマサチューセッツ州コンコードの人だが、若い頃は元気い

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っぱいの活溌な娘で、町の人からは「変り者」と見られていた。よく口笛を吹くlちゃん

とした娘なら絶対そんなことはしない。男の子を相手に競走もするし、スカートを短くして

足のくる蕊しを出していたlこれもちゃんとした娘のやらないことだ。リンゴの木に登っ

て太い枝に腰かけて本を読んだりする。あの娘はろく鞍者になら恋いぞlそれが町での定

評だった。

ルイザ・メイ・オールコットがどうして物を書くようになったかというと、母親は病気が

ちだし妹は何人もいるし、暮し向きの助けにペンを取ったのがはじめだ。父親はお人よしだ

が現実離れの空想家で、時たま誰も聞きたくもない説教をしては五ドルか十ドルかせぐだけ

である。たいがいは何をするでもなく自宅にこもって、生活は簡素なのに限るなどといって

いる。ところが一家はひどい貧乏で、今夜の夕食をどう算段するか、まるで当てもない有様

なのだ。

たいへんに気前のいい父親で、一度など、いくらも残っていない薪を、そっくり貧しい一

家にやってしまった。「うちでも困るんですよ」と妻や娘たちにいわれると、「なあに、心配

するな。いまに神さまが薪をお授けくださる」と、すましたものだ。仕方がないから一同ベ

ッドへ這いこんで寒さを我慢した。

その晩、物凄い大吹雪がニュー・イングランド一帯をおそった。翌朝、起き出してみると、

35ルイザ・メイ・オールコット

あるとき、文学志望の一青年がルイザメイ牙1ルコットに質問したI

36

どこかの百姓が薪をしよったまま雪で動きがとれなくなり、オールコット家の前へ薪を捨て

て行ったらしい。父親はそれを見て、「そら、神さまのお恵みだぞ」と、出かけて行って薪

を家の中へ持ちこんだ。

ルイザ・メイ・オールコットが原稿を書いては出版社へ送りはじめた頃は、まるでボール

がはね返ってくるように原稿がボンボン戻ってきた。ある編集者などは、あなたには一般向

きのものは絶対書けませんぞ、とハッキリいってきた。物を書く野心などは今のうちに捨て

て裁縫でもする方がいいlと戒めてよこしたものだ.

オールコット一家の住んでいた白ペンキ塗りの古い木造家屋は、今でもマサチューセッツ

州コンコードに残っている。毎年その家を訪れるファンの数は二万三千人。その大部分にと

ってこの家は聖地なのだ。一度ぼくが行ったときは、ひとりの女

部屋から部屋へ廻っていた。『小さな女たち』の中へ出てくるメ

家に住んで愛したり泣いたりしていたのか、というわけである。

にはどうすればいいんでしょう?教えてくださいませんか」

すると「若草物語』の原作者はこう返事したI「およし春さ

るなら、およしなさい、どぶ掘り人足でも何でもいいから」

「作家になる

性が文字通り涙をこぼして

グもジョウもベスも、この

い。何かほかの仕事ができ

37ルイザ・メイ・オールコット

〔補注l『小さな女たち」がヒットして有名作家になったのは一八六八年。その後も引きつづき

作品を出したが、やはり『小さな女たち』がいちばんの名作とされる。子供の頃父親の教えを受け

たばかりで、ろくに学校教育を受けなかった。そんな小むすめが大思想家エマーソンと親しかった

とは意外だが、同じ村に住んで父の友人だったのである。Pop冨冨蔓垂8胃(岳樹l屋路)〕

五十年前のことだ。オハイオ州の田舎でごく小さな事件があった。少なくともその当時は

ごく些細なことだったが、今になってみると、それが全人類の生活をガラリと変えている。

これからも永く未来の人類に大きな影響を及ぼすだろう。

その運命の一日、オハイオ州ディトンの図書館へオーヴィル・ライトが入ってきて、一冊

の本を取り上げた。ドイツ人リリエンタールがグライダーで飛んだことが書いてある。リリ

エンタールのグライダーはエンジン付きではない。しかし飛ぶことは飛んだ。オーヴィル・

ライトはその話を読んで夜中すぎまで眠れなかった。人間が空を飛ぶ、何と素晴らしいこと

ではないかl彼はその話に夢中になった。さっそく兄ウィルバ‐にも話すと、ウィルバー

も夢中になった。そこで兄弟力を合わせて研究に取りかかる。その結果がやがてライト式飛

世界の歴史の流れをガラリと変えながら、大事業を果したとは思わなかった男

オーヴィル・ライト○ミーの三号↓

38

オーヴィル・ライト

行機の発明となり、ライト兄弟の名を永く後世に残すことになる。

兄も弟も教育はあまりない。ハイ・スクールを中退している。だがふたりとも大学の卒業

証書より遥かに重要なものを持っていた。それは何か?豊かなアイディアと大きな志だ。

たとえば、何年も前には郊外へ出かけてウマやウシの骨を拾い集め肥料会社へ売ったことが

ある。鉄屑を拾い集めて屑鉄屋へ売ったこともある。そのあと印刷所を開いて日刊新聞を出

そうとして失敗に終った。そこで今度は小さな自転車屋を出して修理と販売をした。

だが、どんな商売をしている時も、兄も弟も空を飛ぶ夢が忘れられない。日曜日の午後に

なると、丘の斜面の日なたに何時間も仰向きに寝ころんで、ムクドリが頭の上に輪をかいて

いるのや、ノスリが上昇気流に乗って高く高く昇るところを眺めていた。

やがて自転車屋の店に風洞を作って、翼が受ける風力の実験をはじめた。一方、いつもタ

コを上げては研究も続けた。とうとう、タコをすごく大きくしたもの、つまりグライダーを製

作し、ノース・カロライナ州キティ・ホークスのキル・デビル丘へ運搬した。その土地をえ

らんだ理由は、絶えず沖から潮風が吹いているし、地面は起伏のある軟らかい砂地だからだ。

グライダーの実験を何年も続けたあと、手製のエンジンをグライダーに取り付けて飛行機

にした。一九○三年十二月十七日、この日が人類の歴史に永久に忘れられない日となる。兄

弟は五十セント銀貨をはじいて、どちらが先に乗るか順番をきめた。すると、銀貨の表が出

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40

てオーヴィルが勝った。ひどく寒い曇り日で、キティ・ホークの海岸一帯、身を切る風が流

氷を吹きつけてくる。半マイル向うの波打ち際には怒涛がとどろく。五人がかりで飛行の準

備をしていたが、何しろ寒くてやりきれない。両手を叩いて打ち合せたり飛んだり跳ねたり

して寒さを防いだ。だが、いくら寒くてもオーヴィル・ライトはオーバーコートを着ずに飛

行機に乗りこんだ。着ればそれだけ目方が重くなるからだ。

かっきり午前十時三十五分、オーヴィルは既に爆音を立てている飛行機に乗りこみ、両足

を伸ばしてうつ伏せになるとレバーを引いた。するとライト式飛行機はガボガボ音を立てな

がら開け放しの排気管から炎を吐きつつ、ふわりと空中に浮かんだ。上ったり下ったり、フ

ラフラと飛ぶこと二十秒間、やがてわずか百フィート向うの砂地に着陸した。これが人類最

初の飛行である。

まさに大事件だ!文明史上の一大転機だ!人類太古からの夢がついに実現した!こ

のとき初めて人類は足を大地から引き離して星に向って飛んだのだ。

だがオーヴィルニフイトばいっているlみごとに飛びはしましたが、別に感激も興奮も

しませんでしたよ.これなら飛ぶだろうと思っていたらその通り飛んだlそれだけの話を

んです。ぼくは飛ぶのがあまり好きではないんです、ともいっている。子供の頃、ベッドの

中で目を覚ましたまま確かに飛べるはずだ、と考えたものだが、興奮したのはそのときだけ

だったそうだc

ライト兄弟はふたりとも温厚で控え目な人物である。ある日、兄のウィルバーがポケット

からハンケチを取り出そうとすると、赤いリボンが上ラヒラ床へ落ちた。それ、なあに?

と妹が聞くと、「ああ、これか。話すのを忘れたよ。今日フランス政府からもらったレジョ

ン・ドヌール勲章のリボンさ」といった。

ライト兄弟はキリスト教の教えに従って厳格に育てられたから、日曜日には絶対に飛行し

なかった。安息日を守るわけだ。一度、スペイン国王が日曜日なのに飛行機へ乗せてくれと

頼んだことがある。せっかくのご下命ながら兄弟はお断り申した。スペイン国王のご下命と

いえども良心に背くことはできない。

兄弟とも一生独身を通した。兄にしる弟にしろ、女房と飛行機と、とても両方は持ちきれ

ますまいよIとは父親の話である.結局、兄弟とも女房はやめにして飛行機をえらんだわ

けだ。

〔補注Iライト兄弟は、一九o九年、アメリカ政府との契約にもとづき最初の軍用機を製作し、

アメリカン・ライト会社を設立した。初めての飛行に成功した実験機は、現在、首府ワシントンの

国立博物館に保存きれている。兄は一九一二年に、弟は一九四八年に死んだ。○コ崖①ご卦、茸

富国1sお)〕

叙オーヴィル・ライト

「炊事ができるか?」といわれたのがキッカケで、地の果てまで飛ぶことになった男

マーチン・ジョンソン宝。三コ」oテコい。.

マーチン・ジョンソンはアフリカの奥地を踏破してライオンの生態を何千枚となく撮影し

た男である。直接その本人から聞いた話だが、最後にアフリカへ行ったときは、滞在二十ヵ

月の間にそれまで見たこともないほど多数のライオンを目撃した。それでいて銃は一発も撃

ったことがない。実は、てんで銃など持って行かないのだ。

アフリカ探検に行ってきた人には、血も凍る大冒険に遭った話を得意になってしゃべる者

が多い。ところがマーチン・ジョンソンにいわせると、アフリカの猛獣をよく知っている者

なら誰でも、タケのステッキ一本を武器としてカイロからケープタウンまで徒歩で賊渉して

も何の危険もないそうだ。

これも本人から聞いた話だが、最後にアフリカへ行ったときはアメリカの放送を聴こうと

単2

上等のラジオを持って行った。最初の一、二カ月は熱心に聴いたが、やがてどぎついコマー

シャルにうんざりして、それきり何カ月もラジオはかけなかったそうだ。

マーチン・ジョンソンが世界各地をめぐり出したのは十四歳の時である。父親がカンザス

州インデペンデンスで宝石商をしていたから、子供の頃から遠い世界の隅々からくる荷をほ

どく手伝いをした.パリ、ジェノバ、バルセロナ、ブダペストー荷札についているこれら

の異国情緒ゆたかな多彩な地名に魂を奪われた。そこである日、フラリと家出をするとテク

テク合衆国を横断して、とうとうヨーロッパ行きの家畜船に乗りこんだ。ヨーロッパへ着く

と、手当り次第どんな仕事でもしたが、いつも仕事にありつけるとは限らない。ブラッセル

では食べる物にも困ったし、フランス西北部のブレストの港では遠く大西洋の彼方を眺めて

途方に暮れた。絶望のどん底に沈んでホーム・シックになったのだ。ロンドンでは荷箱へも

ぐりこんで夜を明かした。とうとうニューヨーク行きの汽船の救命ボートに忍びこんだ。ど

うにも仕方がないから生れ故郷のカンザス州へ戻ろう、というわけだ。

ところがその船に乗っているうち、ふとしたことから一生の進路を変えて、壮大きわまる

大冒険を追求することになる。船の航海技士から見せてもらった雑誌に、あの「野生の呼び

一こで有名なジャック・ロンドンの書いた記事が出ていた。艇身わずか三十フィートのボー

ト「スナーク号」で世界一周の航海に出る計画が書いてある。

43マーチン・ジョンソン

4h4

ジョンソンは故郷インデペンデンスヘ帰ると、すぐさまジャック・ロンドンに手紙を出し

た.八ぺ‐ジに及蕊熱心巻手紙を書いて情熱をぶちまけたのだI「私は外国へ行ったこと

もあります。ポケットに三ドル五十セント持ってシカゴを発ちましたが、帰ってきたときは

まだ二十五セント残っていました」

それから二週間たった。やきもきしながら待っているところへ、ようやくジャック・ロン

ドンから返事がきた.「スイジガデキルヵ」l実に簡単な電報だ.だがこのブッキラポゥ

な電報一本で、マーチン・ジョンソンの一生はガラリと変った。

実は炊事どころかライスを煮ることさえできない。だが、やはりブッキラボウな電報で返

事したl「タメシテミテクと.その電報を打つなり、町へ出かけてレストランの炊事係

の勤め口を見つけたのである。

やがて「スナーク号」はサン・フランシスコ湾の波を蹴って太平洋へ乗り出した。もちろ

んマーチン・ジョンソンは炊事長兼瓶洗い係として乗組んでいた。習いたての腕を振るって

グレとi

パンも焼けば、オムレツでもスープでも肉汁でもプディングでも、何でもこしらえた。出帆

する前には食糧品の買入れもやった。食塩でもコショウでも何でも、これだけあれば普通の

乗員数なら二百年はもつだろう、というほど買いこんだ。

航海しながら航法を習って、どうやら一人前の腕になったような気になった。そこである

日、ひとつ腕のほどを見せてやろうと、船の位置を測定して海図に書きこんだ。そのとき船

は追風に乗って太平洋のまん中をホノルルへ向け進んでいたのだが、彼の測定した結果によ

ると、何と、船はピッタリ大西洋のどまん中にいることになる!

途方もない大失敗だが彼はてんで気にしなかった。とにかく、あらゆる少年の夢である冒

険旅行へ出てきたわけだ。どんなことがあっても彼の情熱はひるまない。一度は二週間も飲

料水が切れて、焼けつく太陽に全貝あぶなく参りかけた。何しろ照りつけがひどくて、甲板

の継ぎ目に詰めたピッチが溶け出し、糖蜜みたいに流れ出す有様である。

そのとき以来かれこれ三十年になる。実に目まぐるしい三十年だった。その間にマーチ

ン・ジョンソンは南洋のサンゴ島からアフリカ奥地のジャングルに至るまで、七つの大洋を

わたって世界各地を放浪した。深く暗黒アフリカの奥地に入ってアメリカ最初の人喰人種の

映画を撮影したのは彼である。小人そっくりのピグミー族やら見上げるような巨人族、ゾウ

もジラフもアフリカの野獣はすべて映画に撮った。まるでノアの箱船をぶちまけたように

種々さまざまな珍奇な動物を、数百巻のフィルムに収めて帰国した。それが全米各地の映画

館で上映されたわけだ。今やアフリカの野獣は急速に絶滅しつつあるが、今から数世代のあ

と、それらの野獣がことごとく死に絶えた後も、ぼくらの子孫はマーチン・ジョンソンの残

した映画でちゃんと見られるだろう。

45マーチン・ジョンソン

ところを助かった。初めて

46

これは直接マーチン・ジョンソンの口から聞いた話だが、ライオンでも人間から危害を受

けたことがなく食い物に飢えていない奴は、たとえ人間の匂いがしてもまるで気にしないそ

うだ。ライオンが十五頭集まっている中へ自動車を乗り入れたが、ライオンどもは寝ころん

だまま子ネコのように目をパチクリさせていたそうだ。中にはのそのそ車へ寄ってきて、前

輪のタイヤを咳んだ奴もある。また一度は、メスのライオンが一頭いるところへ、前脚を伸

ばされたら届きそうな近くまで車を寄せたが、ヒゲ一本動かしもしなかったという。

「するとライオンはおとなしい動物というわけかね?」と、ぼくは質問した。

「とんでもない!大ちがいだ」と彼は答えた、「まずいちばん上手に自殺しようと思った

らライオンを信用するに限る。いつ何時、急に様子が変って向ってくるかわからないからな。

それに、まつしぐらに襲ってくるライオンほど危険なものはない、まるで百ポンドのダイナ

らいだ」

危ないところをようやく逃れたことはないか、と聞いてみた。

たことなら何べんもあるよ。だが、みんな愉快だったな」

彼は南海諸島で一度、危なく鍋へ放りこまれてスープにされる

だしたとなると、一流の競馬ウマがゴール前の最後の直線コースへ差しかかつ

マイトが飛んでくるようなものさ。それにひと足はねると四十フ

すると「危なく命びるいし

イートは跳ぶし、いざ駆け

たより速いく

人喰人種の映画を撮ろうとした時のことだ。

それまでに白人の交易商人が何べんでもその島を襲って、原住民を生捕っては奴隷に売り

とばしていた。だから当然、警戒もしていれば、怨みも抱いている。その上、食う物に困っ

て白人を何人か殺して持ち物を奪ったあとだった。そこでジョンソンを生捕ると、今度の日

曜日はこのカンザス産のニンゲンをスキ焼にして舌鼓を打ってやろう、と考えたわけだ。そ

してジョンソンが酋長と話しながら用意してきたプレゼントを並べていると、人喰人種が十

数名、あたりのジャングルからゾクゾク現われてジョンソンを取り巻いた。助けを呼ぼうに

47

ている。故郷カンザス州インデペンデンスを離れてからこの時はじめて、こりや親爺の跡を

ついで宝石屋をしていた方がよかったかな、とマーチン・ジョンソンは思った。

すると、今にも人喰人種どもが詰め寄るか、というきわどい瞬間、奇蹟が起った。はるか

向うの入江にイギリスの巡視艇が姿を見せたのである。人喰人種どもは目を丸くした。あれ

がきたな、と、ちゃんと心得ているのだ。ジョンソンの方も目を丸くした。ほとんど目を疑

うほどである。そこで彼は酋長に向って頭を下げていったl「あの通り、ぼくの船が迎え

方がない。その間、腹を空かした人喰人種が十何人、

マーチン・ジョンソン

も白人仲間は何マイルも離れている。連発ピストルは持つ

だ。冷汗が額に浮かぶ。胸はドキドキする。しかし平気な

舌なめずりしながらぐるりを取り巻い

ていたが何しろ敵の頭数は一対百

顔をして酋長と話しているより仕

バッカーはそのロス・スミス卿に人柄が実によく似ている。ふたりとも優秀な飛行家で勇敢

な軍人だが、実に物静かで言葉も態度も謙遜だ。これが機関銃の前に陣取って空から死をま

き散らした人とは、とても思えない。

エディ・リッケンバッカーは十二歳になるまでは乱暴で短気で手のつけられない子供だっ

た。地もとのガキ大将になって街灯をたたき致したり、悪いことならたいがいやってのける。

そこへ悲劇が訪れた。父親に死なれたのである。とたんに少年エディは一晩で老人になった。

「老人になった」とは本人の言葉である。

父親に死なれたからには、よし、おれが一家を支えてやろう、と彼は決心した。そこで学

校を退学してガラスエ場へ勤める。時給五セントで毎日十二時間労働した。朝は七マイル歩

いて工場へ行き、夜も七マイル歩いてわが家へ戻った。これで電車賃十セント倹約するわけ

50

彼はどこまでも頑張り抜く決意だった。何事にも負けず頑張った。しかし工場での仕事は

どうにも退屈でうんざりする。こんなケチくさい仕事か、と彼は軽蔑した。おれは芸術家に

なりたいんだ。創造したいんだ、線と色彩を使って空想を形に表現したいんだ。そこで夜学

へ通って絵を習い、石屋に雇われて大理石の天使など彫りはじめた。いま父親の墓に彫って

ある文字も、実はエディが自分で彫ったものである。ところが人から聞くと石工というのは

だ。

47

人喰人種の映画を撮ろうとした時のことだ。

それまでに白人の交易商人が何べんでもその島を襲って、原住民を生捕っては奴隷に売り

とばしていた。だから当然、警戒もしていれば、怨みも抱いている。その上、食う物に困っ

て白人を何人か殺して持ち物を奪ったあとだった。そこでジョンソンを生捕ると、今度の日

曜日はこのカンザス産のニンゲンをスキ焼にして舌鼓を打ってやろう、と考えたわけだ。そ

してジョンソンが酋長と話しながら用意してきたプレゼントを並べていると、人喰人種が十

数名、あたりのジャングルからゾクゾク現われてジョンソンを取り巻いた。助けを呼ぼうに

も白人仲間は何マイルも離れている。連発ピストルは持っていたが何しろ敵の頭数は一対百

だ。冷汗が額に浮かぶ。胸はドキドキする。しかし平気な顔をして酋長と話しているより仕

方がない。その間、腹を空かした人喰人種が十何人、舌なめずりしながらぐるりを取り巻い

ている。故郷カンザス州インデペンデンスを離れてからこの時はじめて、こりや親爺の跡を

ついで宝石屋をしていた方がよかったかな、とマーチン・ジョンソンは思った。

すると、今にも人喰人種どもが詰め寄るか、というきわどい瞬間、奇蹟が起った。はるか

向うの入江にイギリスの巡視艇が姿を見せたのである。人喰人種どもは目を丸くした。あれ

がきたな、と、ちゃんと心得ているのだ。ジョンソンの方も目を丸くした。ほとんど目を疑

うほどである。そこで彼は酋長に向って頭を下げていったl「あの通り、ぼくの船が迎え

マーチン・ジョンソン

48

にきた。またお目にかかろう。さよなら」

そして誰ひとり引き留める気も起さない問に、ジョンソンはまつしぐらに波打ち際へ駆け

出した。〔

補注l彼が残したアフリカの野獣のフィルムその他の記録は、ニュ‐ヨーク自然科学博物館に

保存されている。妻のオーサも有名な冒険家で、夫妻共著で『人喰人種の国」その他の著作を出し

た。一九三七年、飛行機事故で死んだ。冨肖旨]o言い。ロ(冨巽1s旨)〕

叩き殺しても絶対死にそうもない男、二十五年にわたり死に挑戦しどんな危険にもひるま

ない男llこれはそうした人物の話である。身の毛もよだっ猛スピードでレーシング・カー

を飛ばすこと二百回以上、第一次世界大戦中の一九一八年にはドイツ軍の戦闘機を二十六機

も嬢墜した’しかも敵の咋裂弾をまともに受けながら掠り傷ひとつ受けずに撃墜したのだ。

つまり、第一次大戦に勇名をとどろかせたあの「無敵飛行隊」の指揮官、アメリカ空軍

エース中のエース、エディ・リッケンバッカーの話である。

第一次大戦直後のことだ。ぼくはオーストラリア空軍のエースであるロス・スミス卿の秘

書をしていた。スミス卿といえば聖地エルサレムの上空を最初に飛行したり、誰よりも早く

地球の空を半周した人物だが、あれほど感じのいい男はまずほかにない。エディ・リッケン

墓石に彫刻する仕事は危険だからやめて、アメリカ空軍のエースになった男

エディ・リッケンバッカ-m&一の雪、天のコヶon奇『

49

50

彼はどこまでも頑張り抜く決意だった。何事にも負けず頑張った。しかし工場での仕事は

どうにも退屈でうんざりする。こんなケチくさい仕事か、と彼は軽蔑した。おれは芸術家に

なりたいんだ。創造したいんだ、線と色彩を使って空想を形に表現したいんだ。そこで夜学

へ通って絵を習い、石屋に雇われて大理石の天使など彫りはじめた。いま父親の墓に彫って

ある文字も、実はエディが自分で彫ったものである。ところが人から聞くと石工というのは

だ0

バッカーはそのロス・スミス卿に人柄が実によく似ている。ふたりとも優秀な飛行家で勇敢

な軍人だが、実に物静かで言葉も態度も謙遜だ。これが機関銃の前に陣取って空から死をま

き散らした人とは、とても思えない。

エディ・リッケンバッカーは十二歳になるまでは乱暴で短気で手のつけられない子供だっ

た。地もとのガキ大将になって街灯をたたき段したり、悪いことならたいがいやってのける。

そこへ悲劇が訪れた。父親に死なれたのである。とたんに少年エディは一晩で老人になった。

「老人になった」とは本人の言葉である。

父親に死なれたからには、よし、おれが一家を支えてやろう、と彼は決心した。そこで学

校を退学してガラスエ場へ勤める。時給五セントで毎日十二時間労働した。朝は七マイル歩

いて工場へ行き、夜も七マイル歩いてわが家へ戻った。これで電車賃十セント倹約するわけ

エディ・リッケンバッカー

危険葱仕事らしいl大理石の粉を吸って肺病になるという話だ。「若死するのはいやだか

ら、もっと安全な仕事はないかと探したのさ」と、エディはいう。

十四歳の時だった。ある朝lこれが運命の朝というわけだが歩道に立っていると目

の前を自動車が通る。彼は目を丸くしてじっと見つめた。オハイオ州コロンバス市の往来を

変な形のしろものがゴトゴト走っていく。それが彼にとっては「車に乗った運命の神」だっ

た。これをキッカケに彼の人生は一変することになる。

十五歳の時はもうガレージに勤めていた。ガレージとはいっても、もと貸馬車屋だったの

を改造した場所だ。そこへ車を入れたり出したりしながら、彼は自動車の操縦をおぼえた。

やがて、わが家の裏庭へ仕事場を建てて、手作りの道具で自己流の自動車製作をはじめた。

やがてコロンバス市に自動車工場ができると、日曜ごとにそこへ通いつめて雇ってくれと頼

みこんだが、日曜ごとに断られた。十八回通って十八回断られたあげく、とうとう工場主に

じか談判をした。「ご主人、ご存知ないはずだが今日から人手がひとりふえましたよ。明日

の朝までぼくがここで働きます。床が汚いからその掃除もします。使い走りもやれば道具の

手入れもやりますよ」。工場主は当然びっくりしたわけだ。

給金などは頭になかった。ただスタートを切るチャンスをつかむだけが目的で、とにかく

何とか仕事口を物にした。そして通信教育で一心に機械工学を勉強しながら、機会のくるの

51

を待っていた。

そのあとトントン拍子に階段を上ったlまず職工に獲る、係長に葱る、技士補になる、

故障係になる、セールスマンになる、とうとう支店長にのし上る。

やがてスピードへの情熱と冒険への渇望にとりつかれた。レーサー生活の刺激と興奮、観

衆の歓呼と喝采lIlそれがどうにも忘れられない。こうなると今までの自分ではだめだ。人

間を変える必要がある。そこで彼は生れつき短気な性分を直しにかかった。努めて自制心を

養ったのである。どんな時でも微笑を絶やさぬように心がけた。いつも微笑を絶やさずにい

た結果、ついに彼の微笑は有名になる。

レーサーの生活には胆力が必要だ。鉄の胆力が必要である。それは百も承知の上だから、

煙草をやめ酒をやめ、毎晩十時にはベッドに入った。やがて二十五歳になった。彼は世界第

一の名レーサーになっていた。

ところで妙な話がある。過去三十年間、何千万マイルも車を飛ばしながら、彼は運転免許

証を受けたことはなし、現在でもまだ受けていない。

いつも交通安全のお守りを放さない人が多いが、彼はそんな物をまるきり信じない。ウサ

ギの手だの、馬蹄の模型だの、災難よけになるというゾウだの、そんなものをよく人からも

らうが、ある日、アメリカ横断の汽車の窓から交通安全のお守り一切、カンザス州の平野へ

52

エディ・リツケンバツカ

投げ捨ててしまった。

アメリカが第一次大戦に参戦した頃、エディ・リッケンバッカーは自動車界のアイドルだ

った。そこで彼はフランスへわたってパーシング将軍づきの運転手になった。しかし将軍閣

下の御乗用車の運転は冒険好きな彼の性分にどうも合わない。ぜひとも戦闘に参加したいの

だ。そこで戦闘機のパイロットを志し、十八カ月間にアメリカ空軍第一の功績をあげて、ア

メリカ、イギリス、フランスの三国から勲章をしこたま授かった。

彼はそのときの経験をテンポの早い三百七十ページの本に書いている。血を湧かせる空中

戦だの、間一髪の命びるいだの、ギッシリ詰った叙事詩的な物語だ。読みたいと思ったら図

書館でエディ・リッケンバッカー著『サーカス航空隊との戦闘』を探したまえ。アメリカ空

軍の歴史に、これほど血を湧かせる本はない。

〔補注lリッヶンバッカiは第一次世界大戦の後、自動車製造会社を起し、のち航空機製作会社

に移り、一九三五年以後はイースタン航空に入って、会社をアメリカ一流の航空運輸会社に育成し

て社長になった。毘島”国。宍呂冨。弄臼(房91sご)〕

53

45

マルカム・キャンベル卿の一『量。-8二コnqョgの一一

レーサーとしては世界第一、趣味として宝探しに熱中する男

アメリカ空軍第一のエース、エディ・リッケンバッカーの話で思い出したが、マルカム・

キャンベル卿という人物がある。ぼくはある晩餐会で、このふたりの間に席を占めた。ふた

りとも物静かな、言葉も実におだやかな人物だが、ふたりともスピードの魅力に取りつかれ

ている。

そもそもリッケンバッカーが命知らずのレーサーになったのは、金もうけが目的だった。

その点、キャンベルの方はどうだったろう?キャンベルは最初からひとかどの資産家だっ

た。金などはビタ一文かせぐ必要もない資産家だったのである。

それが、なぜ危険きわまるレーサーになったか?名誉が欲しかったのだろうか、栄光に

あこがれたのだろうか.聞いてみると彼はこう答えたl「ちがうな、それは.楽しいから

やっただけさ」

そこでぼく催エディリッヶンバッカーの方へふり向いて聞いてみたl「君、このマル

カム・キャンベル卿が誉星には少し劣るスピードでレース・トラックをぶつ飛ばすのを見た

ことがあるかね?」。ところが驚いたことに、リッケンバッカーはこう返事した、自分も

オート・レースには二百回以上も出場しているのに、である。

「実は一度も見たことがないんだ。これからも見に行くつもりはないね。あのスピードで飛

ばすと死亡率五分の四だからな」

その晩餐会の当時、マルカム・キャンベル卿以上のスピードで大地を飛ばした人間はほか

になかった。実に時速三百マイル、毎分五マイルに当るから、ニューヨークからサン・フラ

ンシスコまでわずか十時間というわけだ。もっとも時速二百マイル以上出した記録はそれま

でに四名あった.セグレーブ、ロックハ‐卜、キ‐チ、それにバイブルーしかし四人とも

事故で死んだ。生きて残っているのはキャンベルひとりきりなのだ。

マルヵム・キャンベル卿は宿命を信じている。だから気に病んだり神経を起したりは絶対

にしない。レースがすんで車を下りるときも落着いたものだ。まるでいま会社から帰ったと

ころという顔つきである。

十六歳の時キャンベルは自転車競走の選手になるといいだした。父親はびっくり、両手を

55マルカム・キャンベル卿

高く上げて呆れ返ると、すぐさまロンドンの有名なロイド保険会社へ勤めさせた。

これは本人の口から聞いたが、二年勤めて給料は一ペニーももらわない。三年目からよう

やく少し給料が出たそうだ。それが今日、世界的に有名なロイド社の役員をしている。

新聞社を相手に名誉穀損保険を売り出すlこのアイディアは彼が十九歳の時思いついた

ものだ。イギリスでは名誉穀損に関する法律はアメリカよりはるかに厳しい。だから、たち

まちイギリス全国のほとんどあらゆる新聞から契約が取れた。二十一歳の時は、もうひとか

どの資産家だった。たちまち幾台となくオートバイを買いこみ自動車を買いこみ、スピー

ドレ‐スに出場した。それに使った金が五万ポンド以上1ドルにして約二十五万ドルに

当る。すべてスピード記録を破りたい一心からである。

最高スピードで飛ばせる完全なスピード・ウェイを探しに幾千マイルも各地を廻った。デ

ンマークへも行った、サハラ砂漠へも行った、南アフリカへも行きフロリダ州へも行った。

だが結局、地上最優秀のレース・トラックはアメリカのユタ州にあると発見する。ユタ州に

は何万年も前に乾上った太古の湖水の跡がある。湖底は塩分が平らに固まって氷のようだ。

彼は一度デンマークでレースに出場して、時速百四十マイルで飛ばしていた。すると、猛

烈な音がして前輪のタイヤがひとつ外れてふっ飛んだ。道ばたに詰めている群集を直撃して

男の子をひとり死なせた上、人込みの頭の上をピューンときれいに飛び越すと、一マイル向

56

うでようやく止まった。

マルカム・キャンベル卿がこれまでいちばんスリルを感じたのは、第一次大戦当時の空中

戦だった、という。彼は戦闘機のパイロットとして、英仏海峡を越え西部戦線の空を飛んだ。

時には一度も乗ったことのない機種に乗って、一度も飛んだこともない土地へ飛ぶこともあ

る。地面が全然見えない上に西も東もわからない場所へ着陸しなければならないこともあっ

た。雲の中から不意に現われたドイツ軍の戦闘機に機銃をあびせられたこともある。それを

四カ年つづけて掠り傷ひとつ受けなかった。

しかしマルヵム・キャンベル最大の冒険は、インド洋にあるココス島の宝探しだった。そ

の時の経験は彼自身、本に書いているが、何と、海賊どもが隠したという財宝を探しに行っ

たのだ。およそ地球上にココス島ほど淋しいところはあるまい。人家は一軒もなし、人間ら

しい人間の影ひとつなくて、住んでいるのはかつては文化も富も誇っていたインカ族の成れ

の果ての原住民だけである。それが昼は山奥にひそみ、日が暮れるとこっそり浜辺へ忍び出

る。波打ち際に立ち並ぶヤシの木の影よりも静かにやってくるから、白人の目にはなかなか

見つからない。岩場も砂地もクモ、カニ、ムカデ、アリなど折り重なってゾョゾョうごめい

ている。あたり一面ハエだらけ力だらけで、島を取り巻く海にはサメが暴れ廻っている有様

だ。

57マルカム・キャンベル卿

宝を探すには小さな流れをさかのぼって、大きく岩石に割れ目の入ったところを探す。割

れ目にカナテコを突っこんで岩の表面をこじりあけると、海賊どもが隠した幾百万ドル相当

の黄金と燦然たる宝石類がゾクゾク見つかるというわけだ。まさに『アラビァン・ナイト物

語』のアラジンが発見した宝ものにそっくりである。

キャンベルは手当り次第、どんな細い流れでもさかのぼって宝を探した。水の乾上った流

れの跡まで探した。茂りに茂ったジャングルをくまなく探し廻って、岩石という岩石を割っ

てみたが宝ものは見つからない。全然から振りである。

ある日、トゲだらけの草をわけ、茂り合った下生えを切り開いて進んでいた。ふと気がつ

くと風は北風だ。ちょうど北に向って進んでいるところだから、いっそジャングルに火をつ

けて燃えた跡をたどって行こう、ということになった。そこでマッチをすると、たちまちジ

ャングルが猛烈な勢いでパチパチ燃え出した。五分問するとあたり一面の火になって、まる

で赤熱した溶鉱炉のように燃えさかる。

ふと気がつくと火が八方にひろがって行く。さあ、たいへんだ!炎が八方からめらめら

攻めてくる。生きたまま火あぶりになりそうだ。そこで一同ジャングルの中を無我夢中で必

死になって逃げた。死神に追い立てられた格好である。

ようやく浜辺へたどり着くと、火には焦がされ煙にはいぶされ、息も絶え絶えでバッタリ

58

倒れた。ふり返って見ると、真赤な炎が高く天に沖している。熱くて熱くてやりきれない。

海へ飛びこもうとすると、人喰いザメがウョウョしている。しかし、浜辺のヤシの木だけは

緑したたる湿気を含んでなかなか火がつかない。それでようやく命びるいした。

見つかりそうで見つからない宝探しに三週間の苦闘を続けたその果てに、見つかったのは

血みどろになった足と、皮の剥けた指先と、一面に火ぶくれの背中だけ、ということになっ

た。イギリス人の金持というより、まるで牢の中の囚人という格好である。疲れきったし、

希望は消えるし熱病にはかかるし、彼はさっさと国へ帰った。しかし、いつかまたココス島

へ出かけるよ、ありきえすればきっと探し当ててみせる、と彼はいっている。

「何しろちよいとした冒険のチャンスがあれば、地球を半分まわっても出かけたい性分なん

でね」と、彼は例の通り物静かにいった。

〔補注lハッキリ書いてはないが、マルヵムキャンベルはイギリスで生れてイギリスで死んだ

イギリス人である。一九二三年、レーサーとして時速一三七マイルの記録を出したのを手はじめに、

一九三五年にはユタ州で時速三○○マイルを出す。その二年後に視力障害のためレーシングをやめ

た。m胃冨幽{8-日。営吾の』(葛謡l己も)〕

59マルカ ム ・ キ ャ ン ベ ル 卿

60

靴も買えない貧農の息子に生れて、世界第一の歌手になった男

エンリコ・カルーソー9189『こいo

エンリコ・カルーソーが一九二一年、四十八歳で死んだ時、全世界の各国は深い悲しみに

言葉を忘れた。これ以上の美しい声は誰も聞いたことがないlその美しい声の持主が永久

に沈黙したからだ。彼は世界最高の歌手として名声の絶頂にある時、突然、死の手に襲われ

たのである。過労つづきで疲労の重なったところを、ちよいとした風邪に見舞われ軽くみて

いたのが原因で、六カ月間というもの、死と取り組んで勇敢に戦ったあげく遂に敗れた。そ

ミサ

の間、全世界のオペラ・ファンは何万回となく熱烈な祈りを捧げ聖ざん式を行ない、測りし

れぬ運命の扉に向って彼の全快を願ったのである。

まるで魔術のようなカルーソーの美声は、単に神の賜物だっただけでなく、永年にわたる

猛烈な訓練の成果でもあった。不屈の決意と不断の練習の成果なのだ。

最初はごく弱々しい細い声をしていたので、音楽教師からこう宣告されたl署は歌え

ないよ、てんで声が出ないからな。まるで風が窓の鎧戸でも吹いているような声だ」

何年たっても高い声を出すと声が割れた。その上、オペラに出ても演技がまるきり下手く

そで、見物に弥次り倒されたことさえある。やがて名を成してからは古今無類の大歌手とな

るが、その名声の絶頂にある時でも、修業時代の苦労を思い出すと彼は涙を落したものだ。

彼は十五のとき母に死なれた。それ以後、どこへ行くにも母の写真を肌身はなさず持ち歩

いた。何しろ、実に二十一人子を生んだ母親である。そのうち十八人は幼くして死に、三人

だけがようやく生き残る。苦労と貧乏のほか何も知らない貧農の妻だったが、どうして感づ

いたか、この息子エンリコだけは天才の後光がさしていると信じていて、エンリコのためな

らどんな犠牲も惜しまなかった。「ぼくの母はね」と、カルーソーはよくいっていた、「ぼく

を歌手に仕立てようとして靴も買わずに裸足で暮したのさ」そういっては涙をこぼしたもの

だ。

十歳になると学校をやめさせられて工場へ働きに出される。一日の仕事を終えると毎晩、

歌の勉強をした。工場勤めをやめて歌で食えるようになったのは、ようやく二十一歳の時で

ある。そ

の頃は機会あるごとにとびついて、近所のカフェーで歌っては夕食代をかせいだり、人

6Zエンリコ・カルーソー

に雇われて女の家の窓下でセレナーデを歌ったりした。カルーソーを金で雇った音痴の男が

月あかりで図々しく恋の悩みを演じているうち、カルーソー自身は戸口にひそんで、詩歌音

楽の神アポロにも劣らぬ美しい声を張り上げ、甘美なメロディで女の心を誘ったわけである。

ようやく機会をつかんでオペラに出演することになった。リハーサルをしたが緊張のあま

り固くなってどうにもうまく歌えない。ガラスでも割るように声が割れてしまう。何べんや

ってもだめだ。とうとう涙をこぼしながら劇場から逃げ出してしまった。

いよいよ本式にオペラへデビューしたときは一ぱい機嫌で舞台へ出た。さかんに弥次が飛

ぶ。折角の歌もてんで聞こえない有様だった。これはまだ代役をしていた頃の話である。や

がてある晩、主役のテナー歌手が急病になった。しかし代役をするはずのカルーソーはその

場にきていない。八方に人を出して探させると、ある酒場に酔いつぶれていた。息せき切っ

て劇場へかけつけはしたが、酔ってはいるし仕度部屋は暑くて息もつまるようだし、たちまち

あたりがぐるぐる廻り出した。そのまま舞台へ出たから見物一同、腹を立てて大騒ぎになっ

た。

幕が下りると彼は首になづた。一夜明けると絶望のどん底だ。どうにもやりきれない。い

っそ自殺しようと決心した。

ポケットの有り金はたった一リラ-それでもワイン一本ば飲める.何しろまる一日何も

62

食べていないから、とりあえずワインを飲みながら、さて、どの手で自殺しようかと考えて

いると、バツとドアが開いて使いの者がかけこんだI劇場からの使いである。

「おい、カルーソー、早くきてくれ!」と、その男がどなる。「今日出したテナーじゃ見物

が承知しないんだ。弥次り倒されたよ。カルーソーを出せ、と皆どなってる。君を出せとい

って聞かないんだ!」

「ぼくを出せ、だって?」と、カルーソーは大きな声を出した。「そんな馬鹿な話あるもの

か?第一、ぼくの名前を知らないはずだぞ」

「もちろん知りやしないさ」と、使いの者が声を弾ませた、「だが君を出せというんだ。あ

の『酔っぱらい』を出せ、と、どなってる」

カルーソーが死んだ時、その財産は百万長者何人前かに当る。レコードの売上げだけで二

百万ドル以上だった。それでいて彼は若い頃の貧乏暮しを忘れなかった。最後の日まで金銭

の支出は細かく手帳につけていた。すごく値の張る象牙彫だの時代物の貴重なレースだの、

いろいろ骨董品のコレクションが好きだったが、その代金だろうがボーイにやったチップだ

ろうが、ひとつ残らず正確につけていた。

彼はイタリア農民独特の迷信をいろいろ信じこんで、最後の日まで例の「悪魔の目」とい

う奴を信じていた。その目をもつ人に晩まれると災難がくる、というあれである。船に乗っ

63エンリ コ・カルーソー

て大洋をわたるときは、必ずあらかじめ星占師に見てもらった。立てかけた梯子の下を通る

と縁起がわるいという。彼は梯子の下を絶対に通らなかった。新調の服を金曜日に下して着

るlそれもやらない.旅に出るにしる新しい仕事にかかるにしろ、火曜日と金曜日は頑と

して避けた。

身の廻りはいつも清潔にしているlこの癖がまるで気違いじみたほどで、外出から帰る

と必ず服を着替えたl肌着からゲiトルまで取替えるのだ.

世界一といわれる貴重な声をもちながら、煙草だけは平気ですった。楽屋で扮装する問も

煙草を放さない。声にさわりはしませんか、といわれると笑いとばすだけである。食べるも

のや飲むものにも、てんで気を使わない。オペラに出るたびごと、登場する直前にゥイス

キー・ソーダーを一ぱい引っかけて咽喉を清めた。

学校は十歳でやめたから、ほとんど本は一冊も読まなかった。「本を読むなんて必要ない

よ。おれは人生そのものから学ぶんだ」と、妻にいったこともある。

本を読まない代り、郵便切手や珍しい貨幣のコレクションには金も暇も惜しまなかった。

人の顔を漫画にかく才能は天才的で、毎週イタリアの週刊誌に漫画を出していた。

彼は猛烈な頭痛が永年の持病で、あまりの痛さに悲鳴を立てることさえあった。精力旺盛

なこと驚くべき人物だったが、年をとるにつれやがて衰えを見せ、次第にひとり静かに書斎

64

にこもっているようになる。聴衆の喝采など、どうでもよくなった。とうとう憂鯵症になっ

た。何時間もひとりふさぎこんで、新聞を切抜いては丁寧にへりを切り揃え、それを備忘録

に張りこんでいた。

生れ故郷はナポリである。だが初めてナポリで出演したとき、新聞には悪口を書かれるし

見物の反応も冷たかった。カルーソーはその時の怨みを永く忘れなかった。名声の絶頂にあ

る頃幾度もナポリへ帰省したが、頑としてナポリではオペラに出なかった。

おそらく彼の生涯でもっとも幸福だったのは、初めて孫娘グロリアを抱いた時だったろう。

いまにこの子が廊下をかけてきて、ぼくの書斎へ入ってくるl早くそう恋るといい魚と

幾度となくいっていたものだ。ところがイタリアにいる時、ある日その夢が実現してグロリ

ァがかけこんできた。彼はグロリアを抱き上げると、目に涙をいっぱい浮かべて妻にいった

l「覚えているかい?ぼくはいつもこの瞬間を待っていたんだよ」

そのあと一週間とたたず、不世出の大歌手エンリコ・カルーソーはこの世を去った。

〔補注lイタリア国内はもちろん、ヨーロッパおよび南アメリカで名声をとどろかし、ついにニ

ューヨーク市のメトロポリタン・オペラ・ハウスで「リゴレット」に出演して「世紀2Eと称讃

されたのが一九○三年。以後、世界一のテナー歌手として活躍した。両目89§。(岳ごl忌昌)〕

65エンリコ・カルーソー

貧乏のどん底から億万長者にのし上り、無数の百万長者を生み出した男

アンドルー・カーネギーは医者の手も借りず、助産婦の世話にもならずに生れた。そんな

ものの頼めないほどの貧乏世帯だったのだ。初めて働きに出たときの賃金は一時間一一セント

Iそれが後に四億ドルの資産を築き上げる。

ぼくは一度、スコットランドはダンファームリンにある、彼の生家へ行ってみたことがあ

るが、二間きりの狭い農家だった。父親は織物工、それが階下で仕事をし、狭くて暗い屋根

裏部屋で一家が寝起きもすれば炊事までした。

カーネギー一家はアメリカへ移住すると、父親は自分で織った布地を行商して廻った。母

親は洗濯物を引き受けたり、靴屋の下仕事をしたりした。アンドルーはシャシが一枚しかな

い。だから毎晩アンドルーが寝たあとで、母親はアンドルーのシャツを洗ってアイロンをか

66

アンドルー・カーネギーヱa一価雲、nqョの、一の

けた。毎日十六時間から十八時間も働く母をアンドルーは熱愛して、二十二歳の時、お母さ

んがいる限り、ぼくはいつまでも結婚はしませんよ、と約束したほどだ。しかも、彼はその

約束をちゃんと守った。結婚したのはその三十年後、母に死なれてからである。時に彼は五

十二歳、ひとりきりの子が生れたのは六十二歳の時だ。

彼は子供の頃から母親に何べんもいっていたl『お母さん、ぼく、いつかは金持になっ

て絹のドレスを買ってあげるよ。雇人を使ったり自分用の馬車を飛ばしたり、そんな身分に

してあげるよ」事実、彼は自分の頭は母親ゆずりだ、これだけ成功した原動力も、母を思う

気持があったれぱこそだ、と度々いっていた。その母親に死なれると、彼は悲しみのあまり

十五年間というもの、母親の名を口にすることができなかった。一度、スコットランドのあ

る婆さんのため、借金を払って抵当権を解除してやったことがある。その動機はただ、この

婆さん、死んだ母親によく似ている、というだけだった。

スティール・キング

ァンドルー・カーネギーは鋼鉄王で通っているが、鋼鉄の製造など全く知らなかった。

だが、そんなことをよく知っている人間を何百、いや何千と雇って、しかもその大勢をうま

く使いこなす道はよく知っていた。それが巨万の富を築き上げた秘訣である。若い頃から組

織力が抜群で指導力にすぐれ、人をうまく使いこなす才能にすぐれていた。

まだスコットランドにいた少年時代の話である。アンドルーは腹に子を宿しているウサギ

67アンドルー・カーネギー

68

を一頭つかまえた。たちまち子ウサギが何匹も生れたが、それを育てる餌がない。これは困

ったなIと思うとたんに名案が浮かんで、彼は近所”遊び仲間に宣一一一宣したl「クロー

バーの葉だのタンポポの葉だの摘んできてくれないか。この子ウサギを育てるんだ。その代

り、摘んできてくれたお礼に、君たちの名をこの子ウサギの名につけてやるよ」この計画が

魔法のように効を奏したという。

後年、アンドルーは企業家としてもこの心理学を利用した。たとえば、ペンシルベニア鉄

道に鋼鉄製のレールを売りこみたい。その頃、ペンシルベニア鉄道の社長はJ・エドガー・

トムソン氏だった。するとアンドルー・カーネギーはぜツッバーグ市へ大工場を建設して、

J・エドガー・トムソン製鉄所と名をつける。当然、トムソン氏は大よろこびだ。自分の名

のついた製鉄所から売りこみにくると、レールを買いこむのにあまり手間はかけないわけで

ある。カ

ーネギーは若い頃、ピッツバーグ市で電報配達夫をしたことがある。日給わずか五十セ

ント、それが当人には大金だったのだ。何しろ知らない土地のことだから、土地不案内の一者

は不適当とされて、いつ首になるかわからない。そこで市の商業地域にある会社の名と所在

地を片端から暗記した。その上、何とかして電信技手になりたい。そこで毎晩おそくまで電

信の勉強をしながら、朝は早く電信局へかけつけてキーを叩いて練習した。

ある朝のことだ。フィラデルフィアからピッッバーグヘ引っきりなしにじゃんじゃん電信

がかかってきた。しかし当直の技手はまだきていない。そこでアンドルー・カーネギーがと

びついて受信すると、自分でそれを配達して廻った。たちまち電信技手に取り立てられて、

給金が二倍にはね上った。

とにかくいつも胸に大志を燃やして精いっぱい頑張るから、たちまち目をつけられるわけ

である。やがてペンシルベニア鉄道が独自に電信線を設置することになり、カーネギーは電

信技手に採用される。次いで電信課主任づきの私設秘書に抜擢された。

ある日突然、ちよいとしたことからカーネギーは億万長者への道を歩み出すことになる。

汽車の中で隣り合わせた乗合客が発明家で、これがぼくの発明した新式寝台車の模型です、

と見せてくれたのだ。その頃の寝台車というのは貨車の両側に粗末な寝棚を釘づけにした程

度だったが、見せてくれた模型は現代の寝台車にかなり近い。カーネギーはスコットランド

人の血を引いて鋭い先見の明があった.この発明は当るぞI物凄く当るぞ、と彼は見てと

った。そこで借金して新式寝台車を製造する会社の株を買ったところ、配当がすばらしく高

い。カーネギーが二十五歳の時、この投資からの配当だけで年収五千ドルに達した。

ある時、鉄道の通る木橋が焼けて、数日にわたり鉄道が不通になった。その時カーネギー

は電信課の総主任だったが、木造の橋瞳もうだめだ、これからは鉄橋の時代だぞIと彼は

69アンドルー・カーネギー

将来を見通した。そこで借金して会社を起し鉄橋の製造をはじめたところ、たちまち目が廻

るほど利益がぞくぞく舞いこんだ。

神話のミダス王は触れるもの何でも黄金に変える力を神から授かったというが、アンド

ルー・カーネギーもまさにそれで、することなすこと、当り通しだった。すばらしき幸運が

ついて廻るのだ。友達数人と共同でペンシルベニア州西部の油田の真中の農場を四万ドルで

買いこむと、一年間にそれが百万ドルになった。二十七歳の時は一週間当り一千ドルの収入

があったという。それがつい十五年前は日給二十セントで働いていた男である。

やがて一八六二年になった。大統領はリンカーン、南北戦争の真最中である。物価はどん

どん上る。大事件が続々と起る。西部開拓が進行してミシシッピ川の彼方まで開発されだし

た。こうなると大陸横断鉄道が絶対に必要だ。各地につぎつぎと都市が勃興する。驚くべき

新時代の敷居を踏んでアメリカ全土は興奮していた。

そしてアンドルー・カーネギーはその製鋼炉からさかんに炎と煙を立てながら、どこまで

も繁栄の波に乗って進み、遂に人類の歴史に前例のない巨大な富を蓄積した。

それでいて彼は不断の努力を継続するタイプではなく、半分はのらくらして過ごす方だっ

た。ぼくの廻りにはぼくよりずっと頭のいい助手どもが大勢いるんでね、とよくいったもの

である。その有能な助手連中を叱吃し激励して、それぞれ巨大な財産を築かせたのだ。ただ

彼が一生の間に各方面へ寄付した金額は合計三億六千五百万ドル、つまり、毎日百万ドル

ずつ満一カ年間、寄付し続けたことになる。カーネギーはその巨万の富をどう使うのが最も

賢明であるか、賞金を出して名案コンテストを催した新聞社さえ一社に止まらない。カーネ

ギー自身、金を残して死ぬのは恥辱だからね、と公言していたからだ。

〔補注lアメリカの製鋼業を世界のトップにのし上げるのに最大の貢献をしたのはカーネギー、

というのが定説。一九一九年マサチューセッツ州で死んだ。昏昏2。肖口の四の(葛韻l曽迫)〕

刀ア ンFルー・カーネギー

し、スコットランド人らしくケチな面もあるにはあったが、けっして度を越すことはない。

協力者にもどんどん儲けさせた。彼ほど多数の百万長者を生み出した人物はほかになかろう。

彼は生涯に合計四年間しか学校へ行かなかったが、旅行記・伝記・随筆・経済など著作は

八冊もある。公共図書館へ寄付した金は計六千万ドル、教育制度改善のための寄付も計七千

八百万ドルに及ぶ。

彼はスコットランドの民衆詩人ロバート・バーンズの詩はすべて暗謂していたし、シェイ

クスピアの「マクベス』や『ハムレット』、それに『リヤ王』も『ロメオとジュリエット』

も『ベニスの商人』も、全篇そらんじていた。

どの教会の信徒でもなかったが、各地の教会へ寄贈したパイプ・オルガンは総数七千台に

なる。

十三巻1口には忘れられかけたのもあるが、『ハックルベリ・フィンの冒険」と『トム・

ソーャーの冒険』の二冊はおそらく不朽の名作といえるだろう。今後何百年にわたり、この

世に子供というものがある限り、いつまでも愛読されるだろう。この二冊とも、彼自身の経

験をもとにして書かれた。いや、書かれたというより、彼自身の経験から飛び出してきたの

である。

マーク・トゥェーンはミズーリ州フロリダの、わずか二間きりの狭い小屋で生れた。子供

の頃住んでいたのは、現代の百姓ならウシ小屋やトリ小屋にさえ使いそうもないしろものだ。

そこに一家七人、奴隷ひとりを使って暮したのである。生れた頃はひどく病弱で、とてもこ

の冬は越せまい、といわれた。それがだんだん育つにつれて問題児となる。この子はあとの

この作家の本名はサミュエル・クレメンズという。世界にとどろく彼のペン・ネームは

マーク・トウェーンである。

彼の生涯はそのままひとつの大冒険だった。第一に、彼はアメリカ史上もっとも光彩ある

時代に生きた。生れたのは一八三五年、ミズーリ州の草に埋もれた田舎町で、ミシシッピ川

に近いところだ。アメリカ最初の鉄道が開通してまだ七年たったばかりで、後に大統領にな

るリンカーンもまだ裸足でウシを相手に野良仕事をしていた頃だ。

マーク・トゥェーンは七十五年の溌刺たる生活を送って一九一○年に死んだ。作品は計二

鰯 マーク・トウェーン

74

72

アメリカの生んだ第一流の人物のひとりとして、彼の生涯はハリウッドで映画化された。

その経費が何と二百万ドル、何しろ当代随一の大作家で、しかも古来もっともひろく読まれ

たユーモリストでもある。

彼が通った学校は丸太小屋だった。しかも学校へ行ったのは十二歳まで、ちゃんとした教

育はあとにも先にもそれだけだ。それでいてオックスフォード大学とエール大学からは名誉

博士の称号をうけ、世界各国一流の学者と交際があった。著作からの収入は実に数百万ドル。

事実、ペン一本でこれだけかせぎ出した作家はまずほかにあるまい。死んでからもう数十年

になるが、印税やら映画化権やらラジオ放送権やら、彼の遺産へは今なお黄金の洪水が流れ

こむ。

往来で拾った紙きれ-枚に感動して、遂に世界的大文豪になった男

子供六人分より手がかかる、と母親はいっていた。何しろいつもいたずらばかりしている上

に、学校が嫌いでよく逃げてきた。逃げてくると必ずミシシッピ川へ行く。あちこち神秘な

小島はあるし、筏はゆっくり下っていくし、雄大な流れは大洋を目ざして大きくうねってい

くlその雄揮なミシシッピ川に彼は魂を奪われた。川岸に腰を下しては何時間でも川を眺

めて空想にふける。危なく溺れかけたことも九回あった。だがインディアンごっこや海賊ご

っこをしたり、洞穴を探検したりカメの肉を食べたり、筏に乗って川下りをしたり、遊び暮

しているうちに彼は貴重な経験を積んだ。後年、その時の経験から不朽の名作二篇が生れる

ことになる。

マーク・トウエーンの天才的なユーモアは母親ゆずりだった。父親の方は一度も笑顔を見

せたことがない、といっているが母親については、「ぼくの母はね、ユーモラスなことをい

いながら、そのユーモアにさっぱり気がつかないような顔をしていたものだ。これは男にも

ごく少ないが女には絶対ない一種の才能だ」といっている。その母ゆずりのユーモアの才能

で、マーク・トウェーンの講演はほかに例のないほどユーモラスだった。おかげで彼は講演

料からも莫大な収入があった。話はそれるが、その母親は非常に気のやさしい人で、ハエ一

匹殺したことがなく、ネコがネズミを咳み殺すとそのネコを罰したものだ。一度、子ネコが

何匹も生れて始末に困り、仕方なしに水に沈めて溺死させたことがある。その時、楽に死ね

マーク。トウェーン三。寿尋9コ

るようにと水をぬるめてから沈めたそうだ。

少年マーク・トゥェーンはいつも学校を軽蔑していた。学校はぼくの自由を奪うところだ、

森の中を歩きまわりたい、ミシシッピ川の川辺を探検したいlそんな希望に燃えているの

に、丸太小屋の中へぼくを閉じこめておく-1学校とはそんなものだ、というわけである。

十二歳の時父親に死なれて、同時に窮屈な学校から逃げ出す機会がやってきた。

父がもう永久に戻ってこないと悟ると、彼はこれまでのワガママを深く後悔した。ぼくは

いつも父親に反抗していうことをきいたことがない。そう思うと今になって後悔の涙がポロ

ボロこぼれた。ああ、わるかった!

母親はそれを見るとこういって慰めた、「過ぎたことはもう仕方がないさ、今さらどうし

たってお父さんにわかるもんじゃなし。それよりもハッキリ約束しなさい、これからはけっ

して・・…・」

「ぼく、どんな約束でもするよ、お母さん」とマークはすすり泣いた、「また学校へ行けと

いいさえしなけりや、ぼく、何でも約束する」

その二、三日あと、マーク・トウェーンは印刷屋へ年季奉公に出された。印刷屋の仕事を

覚えれば行く行く暮しも立つだろうし学校の代りにもなるだろう11母親はそう思ったのだ。

最初の一一年間は食わせてもらい着せてもらうだけ、給金は一セントももらえなかった。

って、マーク・トウェーンは歴史に対する興味と情熱に燃え立ったことになるが、この情熱

こそ彼の知性の最も大きな特徴で、最後の日まで消えることがなかった。風に吹かれて飛ん

でいくその紙きれを手にした瞬間、優秀な知性人としての彼の前途は確立した」

だが実務の才となるとマーク・トウェーンはカンザス州の野ウサギほども目がきかなくて、

途方もない事業によく引っかかった。たとえばある時、『本を読んで得た知識から、アマゾン

川上流のジャングルでココアを買い集めて売り出したらもうかる、という考えにとりつかれ

た。ココアのことは何も知らないし、はるばる南アメリカへ出かける旅費もなし、うまくア

マゾン川上流まで行けたところで、土地の住民と話もできない・裁幽病で死ぬぐらいが精々の

ところだ。ところがある日、まるで嘘のようだが、往来で五十ドル紙幣を一枚拾った。その

五十ドルを持ってアマゾン川へ出かけるが、結局はシンシナティまで行ったところで、あき

らめて帰ってきた。金がなくなったからだ。

後年、彼は作品の印税や講演料で莫大な収入があるようになったが、それを何かに投資す

ると必ずしくじった。具体的な例をあげると、特許を取った蒸気式発電機に投資するとさっ

ぱり発電しない。時計会社に投資すれば一度も配当がこないうち、会社そのものが停ってし

まう。蒸気式滑車にも投資して失敗した。出版社をはじめるとたちまち潰れて負債が十六万

ドル。活字を機械で植字するという会社にも巨額の投資をしたが、それでも約二十万ドルの

77マーク・トウェーン

坊マーク・トウェーン

損害をうけた。

そのうちに、ある日、青年発明家アレグザンダー・グレィァム・ベルという男に会うと、

電話という最新式の発明品がありますが、どうです、これに投資なさいませんか、と熱心に

説きつけられた。その話が本当だとすると、自宅にいながら針金一本で五ブロック離れた人

と話ができるという。マーク・トウェーンは笑いとばした。ぼくはバカかもしれないが大バ

カではないんだ。ヘン、針金一本で五ブロック離れた人間と話ができるだって?とんでも

ない話だ!

もしその時、五百ドル出して電話会社の株を買っておいたら、現在は何千万ドルになって

いたかわからない。ところが彼は電話会社に投資はしないで、ある友人に五百ドル貸してや

った。三日たつとその友人は破産してしまった。

印刷屋へ勤めて二年たったある日の午後、マーク・トウェーンがミズーリ州ハンニバルの

往来を歩いていると紙きれが一枚、風に吹かれて道ばたを飛んでいる。拾ってみると本から

ちぎった紙きれだった。

何でもないことだが、この拾った紙きれ-枚がおそらくマーク・トウェーン生涯の最大事

件だったろう。紙きれはあの有名なオルレアンの少女ジャンヌ・ダルク伝の一枚で、ジャン

ヌ・ダルクが捕えられてルーアンの城に幽閉されたところが書いてある。こんなひどい話が

あるものかI十四歳のマ‐クは憤慨し興奮した.だがジャンヌヶルクって何だろう?

彼は何も知らなかった。名前さえ知らなかったのだ。だがその時から彼はジャンヌ・ダルク

のことを書いた本を手当り次第に読みあさって、ジャンヌ・ダルクの一生に対する彼の関心

は燃えつづけて半生を越す。四十六年後、彼はとうとう「ジャンヌ・ダルクの思い出』を書

いた。批評家どもはこれは彼の最大の作ではないといったが、自分では最大の傑作と信じて

いた。そのころ彼はユーモア作家で通っていたから、もしマーク・トウェーンの名で出版す

ると、この本もユーモア文学と勘ちがいされそうだ。だがこの本はぜひまじめに読んでもら

いたい。そこでマーク・トウェーン著とは書かずに出版したのである。

作家アルバート・ビゲロウ・ペインは四巻に及ぶマーク・トウェーン伝を書いているが、

その中でこう書いているl「偶然ジャンヌヶルク伝の一ページを手にしたのが契機とな

マーク・トウェーンは巨額の負債に首も廻らない状態になっ

八九三年、五十八歳の時、

た。しかも、アメリカ

破産という手を使えば

ない。よし、借金は一

返すか?どんどん書

演は大嫌いな方だが、

全国不況にあえいでいる情勢だし、彼自身も病気に悩んでいる時だ。

何とか負債を肩から外す手もあった。しかし彼は断じてその手は使わ

セント残らずちゃんと返済してやろう、と決心する。どうして借金を

く一方、世界各地を講演して廻るのだ。病気がちな上に、もともと講

まる五カ年というもの、借金返済のため講演旅行をして廻った。結果

マーク・トウェーン

はすぱらしい大成功である。どんなに広い会場を使っても聴衆があまり、こぼれる有様だ。

とうとう最後の一セントまできれいに返済し終ったとき、マーク・トウェーンはこう書いて

いるl「これで重荷は全部片がついたぞI何の苦労もなくなって実にいい気持だ。第一、

仕事をするのが楽しみになったlもう仕事が仕事でなく葱ってしまった」

しかし、そうした実務の面より家庭生活の面では彼は遥かに幸運だった。やがて妻とした

女性にめぐり会うより前に、彼はその女性の写真を見て一目で恋に落ちたのである。.それは

イノセント・アプロード

聖地パレスチナへ船旅をしたときのことだ。この旅行が後に『赤毛布海外紀行』になる。

まさに運命の日といえるだろう。ある日、同じ船客チャールズ・ヲングドンの船室へ行く

と、ラングドンの妹の肖像がある。美人オリヴィァ・ラングドンの小さな肖像だ。一目見た

とたんにピンときたlこれこそぼくにピッタリの女性だぞ.そこで航海屯何べんと漆く

ラングドンの船室へ行っては、オリヴィァの肖像に敬けんな目をそそいだが、見るたびごと

にこの人に限るという気持はますます募るばかりだ。

二、三ヵ月後、ニューヨークへ戻ってから、マーク・トウェーンは晩餐に呼ばれて初めて

オリヴィァに会った。彼はその晩年にこう書いているl「初めて会った日からこの今まで

オリヴィァのことが頭を離れたことは一度もない」

やがて別れて帰る時になったが、彼はどうしても帰りたくない。そこでラングドン家の者

8,

に手をまわして、馬車の腰かけがひつくり返るように、ぼくが地面に投げ出されるように仕

かけてくれ、と頼みこんだ。やがて鞄を積みこみ、握手を交し、馬車に乗りこんで別れの手

を握る。駁者がピシリとひと鞭くれるとウマは駆け出した。とたんにうしろの座席がひつく

り返って、アッという間にマーク・トウェーンは計画通り地面へ放り出された。目は両方と

もつぶっている。どうやら半死半生と見えた。さあたいへん、一家総出で彼を抱き上げる。

また家の中へ運びこんでベッドへ寝かした、それから二週間、彼はベッドに寝たまま起き出

さない。実はどこも何ともないのだ。馬車から落ちたのは、子供のとき故郷ミズーリ州ハン

ニバルで覚えたテクニックを使っただけである。だが、とにかくベッドに寝たきりで、おと

なしく恋人オリヴィアの手厚い看護を受けていた。オリヴィァは彼を「ねえ、あなた」と呼

ぶ。彼はオリヴィアを「ねえ、リヴィ」と呼ぶ。三十四年たってオリヴィァが亡くなるまで、

ふたりはいつも「ねえ、あなた」であり、「ねえ、リヴィ」であった。オリヴィァは彼から

のラブ・レターを箱に入れていつも大切にしていた。毎年、保養に出かけるときは必ずその

箱を銀行へ預けて保管させたのである。

オリヴィアは夫の書く原稿にすべて目を通して手を入れた。その日書いた原稿を寝る前に

妻の枕もとへ置いておく。それをオリヴィアが眠る前に読むわけだ。彼女は夫の書いた原稿

から下品な言葉は残らずカットして、いかがわしいところの全然ない文章にした。どう手直

82

暖かき夏の光よ、やさしくこの墓を照らせ、

暖かき南の風よ、やさしくこの墓を吹け、

さ緑の芝生よ、軽く、軽やかに茂れ、

さらば、いとし我が子よ、さらば、さらば。

〔補注1大ュ‐モリストだけにマーク・トゥェ‐ンは愉快蕨名言をいくつも残した.たとえば

「死んだとき葬儀屋まで悲しむような生き方をしようではないか」、「世間のバカに感謝して生きよ

う、ぼくらが何とか食っていけるのは奴らのおかげだ」など。言鳥目ざ§(】田切l目。)〕

81 マ ーク・トウェーン

しされようと、彼はいつも文句なしにそれに従った。

マーク・トウェーンは原稿を失くしたり置き忘れたりするのを極度に恐れた。だからデス

クの上はけっしてメードに掃除させない。床にはチョークで白線を引いて、メードがその線

の中へ入るのを禁止した。

彼は七十歳になると、もうこの歳だから何でもやりたいようにやってよかろう、という気

になった。白地のスーツを十数着あつらえ、白のネクタイも百本作らせた。それから最後の

ドレス・スーツ

日まで、頭のてつぺんから足の先まで、白ずくめの身なりをしていた。礼服まで白地の

を一着持っていた。

マーク・トウェーンが生れた一八三五年には、有名なハレー茸星が姿を見せた。ハレー琴

星は七十六年ごとに姿を見せる。そこで彼は、もう一度ハレー琴星が見えるまでぜひ生きて

いたい、と願っていたが、その願いはちゃんと実現した。一九一○年、彼が死んだ夜、ハ.

レー琴星はふたたび空にきらめいていた。ぼくが死ぬときには、大好きな古いスコットラン

ドの民謡をむすめのス‐ジィに歌ってもらいたいlそれを彼の最後の望みにしていた.

しかし、不幸にしてこの願いは実現せず、彼はスージィに先立たれた。マーク・トウエー

ンはスージィの墓につぎの四行の詩句を彫らせた。彼を愛するアメリカ国民がマーク・トウ

ェーン自身の墓に彫らせてもいい四行ではなかろうか。

わずか一秒間に二千ドル余りllそれを二百三十七秒つづけたから、結局、四分間たらず

で五十万ドル金をもうけた男lぼくは一度その男と夕食を共にしたことがある。その名

はジャック・デムプシーという。ジャック・デムプシーといえばもう唯の一個人ではない。

ひとつのアメリカ伝説だ。

ぼくがデムプシーと食事した場所は、ニューョーク市ブルックリン区はマンハッタン・

ビーチにある合衆国沿岸警備隊の訓練本部である。当時デムプシーは沿岸警備隊付きの海軍

少佐で、数千の部下にボクシングとレスリングと柔術とを教えていた。

第二次大戦の初期の頃の話だが、アメリカ中西部の一新聞にデムプシーが沿岸警備隊でこ

んな任務に当っていると記事が出たところ、たちまち彼の人気の高さを証明する事件が起っ

金がないため母親が人前で涙を流したlそれで発奮してヘビ‐級チャンピオンになった男

ジャック・デムプシー」。、舌のョでいのべ

83

84

た。土曜日の午後、土地の徴兵事務所がドアを締めてからその新聞が町へ出た。ところが翌

る朝、日曜日だから締めてある徴兵事務所へ、青年壮年合わせて二百五十人以上も押しよせ

た。自宅でくつろいでいた新聞の編集長のところへ電話が入る。編集長はすぐ事務所の当局

へ電話で知らせた。さっそく事務所のドアをあけると、押しよせた大群がぞろぞろ入ってき

て沿岸警備隊へ志願した。ぜひともジャック・デムプシーのもとで訓練を受けたい、という

わけである。

これは当人の口から聞いた話だが、彼の一生で最も苦しい絶望の時は、ジェス・ウィラー

ドを破ってヘビー・ウェイトの世界選手権を取った直後だったという。

つまり、目的を目ざして頑張っている時の方が成功したとき盤り楽しい’彼はその事実

を発見したのだ。この事実を発見した者はほかにいくらもある。

世界選手権保持者になったとたん、彼の生活はガラリと変った。アッという間に全く予想

もしない世界へ巻きこまれたのである。新聞記者に追い廻される、カメラマンに追い廻され

る、セールスマンにも付け廻されるし、どうかサインをくださいという連中も寄ってくるし、

金を貸してくれという古い友達まで集まってくる。新聞社からも雑誌社からも原稿依頼がじ

ゃんじゃん舞いこむし、舞台へ出てくださいの講演を願いますの、売薬の宣伝に名前を貸し

てくれの、慈善事業の募金を後援してくれの、それこそたいへんな騒ぎである。ハリウッド

ジャック・デムプシー

から話があって映画出演の契約もした。英米二カ国の上流社会から招待された。招待されて

出かけると歓迎の辞が彼にはちんぷんかんでわからない。いろいろ途方もない質問をされて

面くらうばかりだ。

そんな話をしながらデムブシーはこういった’「何しろぼくは子供のころ、田舎の学校

へラバに乗って通ってたんですよ。勉強がさっぱり面白くないから、ろくな教育も受けませ

んでした。だからそんな教育のある連中のいうことがてんでわからないんです」

そんな具合で年中人につけ廻されて、ゆっくり食事する暇もないくらいだ。ホテルへ泊る

と食堂へ出かけずに、自分の室へ食事を運ばせる。するとボーイが一人でなく六人もやって

きて、食べるところを六人並んでじっと見つめている始末だ。

イギリスへ行くと王妃メアリ陛下からバッキンガム宮殿へ出頭せよとご下命があった。こ

れは困ったと、病気のため参上できませんと返事をした。およそバッキンガム宮殿へ呼ばれ

て断ったのは古来デムプシーひとりだけだろう。もっとも身体の調子も事実よくなかった

Iまごつき通し、苦労のし通し、いろいろ重荷ばかりしょいこんで頭が変に漆っていた.

デムプシーがジェス・ウィラードを破ってヘビー級の世界選手権を取ったのは一九一九年

七月四日だった。試合がすんだその晩、祝賀さわぎに疲れきってベッドにつくと、彼は恐ろ

しい悪夢におそわれた。ウィラードに敗けた夢を見たのである。まざまざと敗けたところを

85

師夢に見ると、彼は起き出して身仕度をし、夜中の三時というのに新聞を買いに往来へかけ出

デムプシーはいったI「ぼくはね新聞売子をひとりつかまえてどっちが勝った?と

聞きましたよ。すると『デムプシーの勝ですよ」と答えがあって、『何だ、あんた、デムプ

シーじゃないですか?」といわれて問のわるい顔でニタリと笑うと、仕方がないからそうだ

と返事しました。すると、『なあんだ!そんならちゃんと知ってるはずじゃないか』とや

られましたよ」

事の真相を聞いたら新聞売子はきっと目を丸くしてびっくりしたろう。何しろ本人のデム

プシーが敗けたところを夢に見て、果して本当に世界選手権を取ったのかどうか確かめにき

たのだ。

これもデムプシ‐自身の口から聞いたl彼がプロ・ボクサ‐になったのは、そもそもわ

が家の貧乏がどうにも恥ずかしかったからだそうだ。父親は呑気な性分でヴァイオリンを弾

くのが好き、いつもあちこち歩き廻っては何か金もうけのチャンスがころがりこみはしない

か、と待っている男だった。

あるとき、父親は妻と十一人の子供と、それに大事なヴァイオリンを幌馬車にのせて、コ

ロラド州の山地を登って行った。やがて海抜一千フィート以上もある渓谷まで行くと、空気

した。

ジャック・デムプシー87

が稀薄になってウマが参りかけ、とうとう一頭死んでしまった。その上に妻も危なくなりか

けて、何べんも気を失ったり猛烈に苦しんだりする。すぐさま低いところへ移してやらなけ

れば危ないぞ、と父親は見てとった。そこでデンバー行きの鉄道乗車券を買って妹のところ

へ行かせたところが、母親は子供はただで乗せてくれるだろうとジャックを連れて乗りこん

だ。別に改札口があるのでなく途中で車掌が廻ってきて乗車券をしらべる。ところがそのと

きジャックはもう八歳だった。車掌は半額払わなければ子供は下す、といって聞かない。母

親はしつこく頼んだlわたしはこの通り病気の身体だし、お金はもっておりません。だが

乗車賃を出さなければ乗せるわけにはいかんと車掌は承知しない。途方に暮れて母親はさめ

ざめと泣きだした。

すると逼路の向う側の席にいたカウポ‐イがジャックを呼びよせて小声でさ誉やいたl

「坊や、いざとなったらおれが払ってやる。心配するなとママにいえ」

「金がないと実に恥ずかしい目にあうもんだ、とぼくはつくづく思いました」とデムプシー

はそういった、「そこでぼくは固く決心したんですlおとなになったらけっして汽車から

下りるなんていわせないぞ、絶対に恥をかかせはしないぞ、とね。母親に人の前で泣かれた

のが実に恥ずかしかったんです。ぼくはその時その場で決心しましたlえらいボクサ‐に

なって金をもうけよう、いつかはあのカウボーイのような金持になろう、と」

型Ⅱ■]

90

もよくあります。事実、レフェリーがカウント・アウトしてから初めて、やっつけたなと気

がつくことさえありますよ。こっちがノック・ダウンされたときでも、どこをどうやられた

のかわからないことがあるもんです」

デムプシーがボクシングを習い出したのは十二歳の時だ。使い古した鶏舎に手を入れてジ

おがくず

ムに直し、床にはマットレスの古物を敷いた。パンチング・バッグは砂と鋸屑を詰めて自分

ロージン

でこしらえた。いつも松脂入りのガムを噛んで顎の筋肉を鍛えた。こうすれば猛烈なパンチ

をくらっても怪我せずにすむ。

一九一○年七月四日、ジム・ジェフリズとジャック・ジョンソンがヘビー級世界選手権を

争って戦うと発表されたとき、ジャック・デムプシーはまだ十五歳だったが、「どっちが勝

つかな。戦った方をいまにおれが片付けてやるぞ」と、つぶやいた。そして手製のパンチン

グ・バッグの片側にチョークでジム・ジェフリズの絵をかき、反対の側には黒人ボクサー、

ジャック・ジョンソンの絵をかいた。そして毎日このふたりの絵を相手にして戦った。試合

がジャック・ジョンソンの勝利に終ると、今度は両側ともジョンソンの絵にかき直してガン

ガンなぐり続けた。

それからカッキリ九年あとの七月四日、鶏舎を改造したジムの中で手製のパンチング・バ

ッグ相手に練習していた少年ジャック・デムプシーは、ジム・ジェフリズをノック・アゥト弓

87

が稀薄になってウマが参りかけ、とうとう一頭死んでしまった。その上に妻も危なくなりか

けて、何べんも気を失ったり猛烈に苦しんだりする。すぐさま低いところへ移してやらなけ

れば危ないぞ、と父親は見てとった。そこでデンバー行きの鉄道乗車券を買って妹のところ

へ行かせたところが、母親は子供はただで乗せてくれるだろうとジャックを連れて乗りこん

だ。別に改札口があるのでなく途中で車掌が廻ってきて乗車券をしらべる。ところがそのと

きジャックはもう八歳だった。車掌は半額払わなければ子供は下す、といって聞かない。母

親はしつこく頼んだlわたしはこの通り病気の身体だし、お金はもっておりません.だが

乗車賃を出さなければ乗せるわけにはいかんと車掌は承知しない。途方に暮れて母親はさめ

ざめと泣きだした。

すると通路の向う側の席にいたカウボーイがジャックを呼びよせて小声でさきやいたl

「坊や、いざとなったらおれが払ってやる。心配するなとママにいえ」

「金がないと実に恥ずかしい目にあうもんだ、とぼくはつくづく思いました」とデムプシー

はそういった、「そこでぼくは固く決心したんですlおとなになったらけっして汽車から

下りるなんていわせないぞ、絶対に恥をかかせはしないぞ、とね。母親に人の前で泣かれた

のが実に恥ずかしかったんです.ぼくはその時その場で決心しましたlえらいボクサ‐に

なって金をもうけよう、いつかはあのカウボーイのような金持になろう、と」

ジャック・デムプシー

デムプシーが決心したことがもうひとつある。彼は自分の飼っているイヌに劣らず闘志さ

かんなボクサーになろう、と決心した。デンバーという名のプチのブルドッグで、喧嘩する

と絶対に守勢にまわらない。横腹の皮を剥がれてもひるまない奴だ。「実に頑強に戦う奴で

した。ぼくはいつもその頑張りを手本にしたんです」と、ジャックはいった。「ぼくはくち

びるを潰されたことも目を切られたことも、肋骨を割られたこともありますlだが本当に

痛いと思ったのは唯の一度だけ、ジョン・レスター・ジョンソンに肋骨を三本へし折られた

時だけです。あとはいくらやられても平気で、全く気にもとめませんでした。リングへ上っ

たときはいつも心の中でこう繰り返していました、『誰にも負けるもんか。誰にもやられな

いぞ。どんなことがあってもなぐり続けるぞ」」

パンパス

ルイス・フィルポといえば「草原の野牛」といわれたアルゼンチンの名ボクサーだが、そ

のフィルポと戦った時のことも、驚くべき事実をいろいろ聞かせてくれた。

おそらく全アメリカのスポーツ史上、あれほど血を湧かせ興奮を巻き起した試合はあるま

い。満場の大観衆が狂ったような怒号を立てて躍り出す。その数はおよそ七万人、それが百

万ドル以上の金を払って見物にきたのだが、試合時間はわずか二百三十七秒、しかもこれほ

ど荒れに荒れた二百三十七秒は前代未聞である。第一ラウンドだけでノック・ダウンが実に

七回、リングサイドに詰めていたスポーツ記者連中でさえ、どっちが何回ノック・ダウンさ

88

Kfj

れたか正確にわからなかったくらいだ。

デムプシー自身もその試合の実態はまるきり知らないそうだ。フィルポを何回ノック・ダ

ウンしたか知らないし、自分がリングの外へ叩き飛ばされたのも知らない。叩き飛ばされて

リングの外へ落ちてタイプライター一台ぶち穀したのも、スポーツ記者二名を半殺しにした

のも知らなかった。

試合は第二ラウンドでデムプシーの勝に終ったが、仕度部屋へ戻ってからも、一体、二ラ

ウンドだったか十ラウンドだったか、それとも十二ラウンドだったか、わからなかった。

その試合で彼の手に入った金が一秒当り二千ドル余り、しかも、二百三十七秒つづいたの

だ。

およそ偉大な選手というのは次の二点が驚くほど発達しているものだ。第一に集中力、第

二にほとんど器械のよう蔭戦闘力である.デムプシ‐自身こういっているl「試合中は夢

中で戦っているから見物の声など全く聞こえません。アッという間に反射的に動くから自分

の行動が自分にもわからないんです。これからどう出てやろうと考えていたんでは間に合い

ませんよ」

さらに言葉をつづけて彼はこういった’「試合がどんな状況だったのか、それはあとで

新聞を読んでわかりました。相手をノック・ダウンしてもどの手で倒したかわからないこと

ジャック・デムプシー

90

もよくあります。事実、レフェリーがカウント・アウトしてから初めて、やっつけたなと気

がつくことさえありますよ。こっちがノック・ダウンされたときでも、どこをどうやられた

のかわからないことがあるもんです」

デムプシーがボクシングを習い出したのは十二歳の時だ。使い古した鶏舎に手を入れてジ

おがくず

ムに直し、床にはマットレスの古物を敷いた。パンチング・バッグは砂と鋸屑を詰めて自分

ロージン

でこしらえた。いつも松脂入りのガムを噛んで顎の筋肉を鍛えた。こうすれば猛烈なパンチ

をくらっても怪我せずにすむ。

一九一○年七月四日、ジム・ジェフリズとジャック・ジョンソンがヘビー級世界選手権を

争って戦うと発表されたとき、ジャック・デムプシーはまだ十五歳だったが、「どっちが勝

つかな。戦った方をいまにおれが片付けてやるぞ」と、つぶやいた。そして手製のパンチン

グ・バッグの片側にチョークでジム・ジェフリズの絵をかき、反対の側には黒人ボクサー、

ジャック・ジョンソンの絵をかいた。そして毎日このふたりの絵を相手にして戦った。試合

がジャック・ジョンソンの勝利に終ると、今度は両側ともジョンソンの絵にかき直してガン

ガンなぐり続けた。

それからカッキリ九年あとの七月四日、鶏舎を改造したジムの中で手製のパンチング・バ

ッグ相手に練習していた少年ジャック・デムプシーは、ジム・ジェフリズをノック・アゥト

したジャック・ジョンソンをノック・アウトして、ヘビー級の世界選手権保持者になった。

それは一九一九年七月四日のことだ。その頃父親はユタ州のソールト・レーク・シティー

に住んでいた。土地の一新聞社が父親を本社に招いて、電話で直接自分で試合の経過を聞か

せた。本社の外には大群集が集まって発表を待っており、デムプシーの父親に出てきて何か

ひと言いってくれ、ということになった。父親はバルコニーへ姿を現わすと群集に向ってこ

ういった’「うちのジャックはせいぜい持っても第四ラウンドまでです参.何しろ相手が

でかすぎまさあ、てんで見込みなしです」

やがてジャックが勝ったと電話が入ると、父親はバルコニーへかけ出してどなったl

「そら、さっきジャックの勝だといったでしょう。わしのいった通りでさあ」

試合に備えてトレーニングしているとき、デムプシーは一日に五、六回、必ず神に祈りを

捧げる。試合開始のベルが鳴る直前にも必ずお祈りをした。祈りをささげると自信がつき勇

気がわいて試合に乗り出せるのだ。

「ぼくは寝る前と食事の前に、一度もお祈りをかかしたことがありません」と、デムプシー

はいった、「祈りがかなったことが何千回もありますし、祈りをささげて何もご利益のなか

ったことは生れてから一度もありません」

蒲注lデムブシーは一九一九年から一九二六年まで、ボクシングのヘビー級世界選手権を保持

91ジャック・デムプシー

九二八年に引退した。]鯉。戸口§で“皇(房暖lご題)〕

2した。一九二六年、ジーン・タニーに破れてタイトルを失い、その後またターーーに挑戦して破れ一

いる。ひとりはアメリカ人F・,.Rつまり第三十二代の大統領フランクリン.D・ルーズ

ヴェルト、あとのひとりばアイルランド人。…slこのふたりである。GB§、

といったらまず世界第一の大作家だろう。この人物の驚くべき生涯がちゃんと本になってい

るが、その本のタイトルにさえ本名は出ていない。ただ、G・B.Sと頭文字だけしか出て

いない。つまりジョージ・バーナード・ショウその人である。

バーナード・ショウの生涯は実に著しいコントラストだらけだ。たとえば、彼は五年間し

か学校へ行かなかった。学校教育はろくに受けていないくせに、当代第一流の大作家のひと

りになったうえ、最高の名誉であるノーベル文学賞まで受けている。その時のノーベル賞に

友達の家へも行けないハニカミ屋から、現代第一の雄弁家になった男

図抜けた有名人になると頭文字だけで世間に通用する。ぼくはそんな人物をふたり知って

93

ジョージ・バーナード・ショウQのo固の、のョ。a望。一貢

やアレクサンドル・デューマの小説を読み、シェリーの詩集を読んだ。十八歳になると、有

名な登山家ジョン・ティンダルもすでに読み、哲学・経済学のジョン・ステュァート・ミル

94

は三万五千ドルの賞金がついた。しかしそんな名誉も賞金も別にほしくない。そこで賞金の

方は辞退した。結局は止むを得ず現金三万五千ドルを受け取りはしたが、その場で「イギリ

ス・スウェーデン文学連盟」へそっくり寄付してしまった。賞金を手にしたのは一秒の何分

の一かだったという。

父親はアイルランドの名家の生れだが金はなく、母親は金持の伯母のお気に召さない結婚

をしたため、伯母の財産の相続権を取り上げられた。一家の暮しはだんだん苦しくなって、

バーナードは十五歳で勤めに出る。最初の一カ年は月給四十ドル五十セントで事務員をした。

十六歳から二十歳までは急場しのぎに頼まれて、出納係兼雑用係という責任重大な仕事を

引き受け、週給八ドルでしばらく勤めるが、事務的な仕事はどうも性分に合わない。もとも

と美術と文学と音楽とを何より大事にする家庭に育ったからだ。

を読み、哲学・社会学のほか進化論でも有名なハーバード・スペンサーまで読んでいた。こ

れらの名著大作に接して彼の空想は走り出し、人生というものに思いを走らせるようになる。

イクスピアはもちろん、「天路歴程」の作家ジョン・バンヤン、『アラビァン・ナイト物語』、

バイブルなど読んでいるし、十二歳の時はバイロンの詩に夢中だった。つづいてディヶンズ

何しろ七歳の時、もうシェ

鱗聯駕驚驚徽駕瀞蕊輿獅爵騨溌繍1

.蕊幾許難繰講柔に誉f層く’八選雌蔭意‘だ.|

そこで一八七六年、決意を固めて背水の陣を張り、母が声楽を教えて暮しを立てているロ

学討F酔い拙》》耗排砕函唖心》科

枠だ.荷しるあの頃は生徒根性と事務員かたぎが脱けきれなくてね、五ページ書いてちよう

韮韮膨諺スの途中に蜜ると、残りは翌日に童わしたものさ」と彼はその頃達思い出してい

等こうして長篇小説が五篇できた。中には卸の壷云術家仲間の亦些もある。その原稿をイギ

勤達薄蕊灘蕊雪黛蕊蕊綴騨熱扉

96

匡零琴雫=写戸

い。ただし、彼の文章が問題だったのではない。思想が問題だったのだ。

その頃ショウは貧乏のどん底で、原稿を出版社へ送る送料に苔え困ることがあった。何し

ろ筆で立つと決心してから九年間、文筆による収入は合計わずか三十ドル、一日当りわずか

着ている服もすり切れてきた。ズボンの尻の切れたところも靴底の穴も、念入りに隠して

譲溌蓬雛誹議湾潔蝶畠瀞な隷謬:鍵添う

一ペニーである。

塗蕊闘鳴饗蕊鯛賊趣灘瀦蘭羅蝋霊

そんな状態でどうして暮して行けたのか、それがまずもって問題になるが、彼は正直雁こ

とき投票数の計算係をして五ドルかせいだこともある。

画犠隣削減蕊畷漂薩驚議“謝簾蕊蕊

釧溌奉輿舗蓬溌騒鮒濡雛駐淵譜灘鼎撒篭初め

てヒットをとばして金銭的にも成功したのは小説ではなく創作だ。しかし、その創作もそれ

111

一一一一一一一一

までは失敗作つづきで、事実、金持の女性と結婚しても財産めあての政略結婚とは見られな

くなるまで二十一年かかっている。

バーナード・ショウはこれまで多数の聴衆を前にして現代の結婚制度をこき下し、教会組

織をこき下し、民主主義のお題目をこき下し、社会一般が古くから大事にしてきた伝統を片

端からこき下してきた。これほど大胆不敵な人物はない。ところが、まるで嘘のような話だ

インフエリオリテイ

が、この大胆不敵なバーナード・ショウが実はもともと内気で臆病で劣勢コンプレク

スに悩んだ人物なのだ。まったく嘘のようだが事実である。たとえばまだ若い頃、ときどき

テムズ河沿いに住んでいる友人を訪ねて行ったものだが、そのころどんな具合だったか、彼

はみずから次のように語っている。

「ぼくは恥ずかしくて恥ずかしくて、思いきって友達の家のドアをノックするまで、二十分

あまりも河畔を行ったり来たりしだものだ。事実、こんな思いをするくらいならさっさとや

めて逃げ帰ろう、と思ったものだ。しかし、かりにもこの人生で何か為そうとするからには、

自分を甘やかしていてはだめだI本能的にそんな気持がして、逃げ戻るのをようやく思い

止まったわけだ。およそ若い頃のぼくほど内気な者はないだろうし、内気なのをそれほど恥

ずかしがった者もないだろう」

その一面、ショウは人前での行動や態度には深く注意を払って、有名な大英博物館の図書

97ジョージ・バーナード・ショウ

98

室にあるエティケットに関する本は全部目を通した。役に立ったのは「上流社会の慣習と風

俗』、ただこの一冊きりだという。

やがて彼は、内気と臆病を征服する最善かつ最確実でもっとも手っ取り早い名案を思いつ

いた。これは人前へ出て演説するに限る、と考えて弁論会へ入会した。ところが二、三回演

説すると、態度まことに堂々として極めて沈着になって、つぎの会にはぜひ座長をおねがい

したい、と頼まれた。実は内心ビクビクもので議事録にサインする手がブルブル震える有様

なのだ。第一、演説するにも何か手控えを持たないということを忘れてしまうし、控えを持

っていても文字がろくろく目に入らない始末である。だが誰ひとり、その惨惜たる内幕には

気がつかない。彼の演説はいつも必ず謹聴された。しかも生れつきの内気と臆病を是が非で

も退治しようと固く決意して、ロンドンで公開の討論会があれば必ず出席して発言した。そ

して二十六歳の時、アメリカの経済学者で『進歩と貧困』の著者ヘンリ・ジョージの単一課

税論の講演を聞いた。

それを聞いたのが契機となって彼は経済学の研究に乗り出し、たちまち土地国有論をとな

えはじめる。試みにそれを社会民主党の集会で講演したところ、ヘンリ・ジョージだけでは

だめだ、カール・マルクスも読まなくては単一課税主義を論じる資格はない、といわれた。

そこでショウはマルクスの『資本論」を読んだ。これは正式のタイトルは「資本、経済学批

99

判」という。実に全世界を根底からゆり動かし、ロシア革命にも大きく影響した本だ。これ

を読んでシ雪ウの人生はどう変ったか、彼みずからこういっているI弓資本論』を読ん

だのがぼくの生涯の一転機となった。ぼくには実に天の啓示そのものだった。あとでわかっ

たが、マルクスの抽象的な経済論は誤りもあったが、とにかく垂れ幕を引き裂いて実相を明

らかにしてくれた。マルクスのおかげで、ぼくは歴史と文明との実態を知り、まったく新し

い目で歴史と文明を見ることができ、自分の人生に目的と使命をもつようになった。つまり、

マルクスのおかげでぼくは人間になったのさ」

こうしてバナ‐ドシ雪ウは燃え立ったl信念と確信に燃え立ったのである.もう臆病

でも内気でも鞍い。そんなものはどこかへ消し飛んだ.一冊の本を手にしたおかげでlい

や、もっと正確にいえば一冊の本に取りつかれたおかげで、彼は革新の情熱に燃え立ち自分

一個のことは全く忘れた。今や重要なのは自己の主義と信念だけである。それからまる十二

カ年近く、ほとんど一晩おきにイングランド及びスコットランド各地で、時には街頭に立ち、

時には公会堂や教会堂の演壇に立って社会主義を宣伝した。弥次が入れば論破する。反駁す

る者ははね返す。とうとう当代第一の雄弁家となり論客となった。遂には講演の依頼があと

を絶たず、ショウの演説を聞こうにも、金廻りのいい聴衆に押し出されてプロレタリアは入

場できないほどになった。講演料は一文も取らないのに、自分はどうやら金もうけの道具に

ジョージ・バーナード・ショウ

使われていたことに気がついた。会場では帽子を廻して社会主義運動のために募金するが、

ショウ自身は一ペニーも受け取っていないのだ。

一八九六年、ショウはミス・シャーロット・ペインタウンゼントという女性を知った。こ

のときショウは四十歳の独り者、相手は三十九歳のオールド・ミスである。彼女はかなりの

資産家だったし、ショウ自身も劇が一本アメリカで大当りして、一年間に十万ドルの収入が

あった。彼女は社交界にあいそを尽かし、ショウの唱えるブェビアン派社会主義に熱を上げ

ていた。そこで彼女はショウが好きになって心の中を打ち明けたが、たちまち、このケダモ

ノ、あなたみたいに自分勝手な人は見たことがないわ、と怒鳴りつけた。

それから二年たったがショウはやはり結婚する気がない。やがて一八九八年二月、彼女は

市政調査のためローマへ向けて出発する。到着と同時に電報がきて、バーナード・ショウが

重態に陥ったと知る。急いでロンドンに戻ってみると、ショウは過労の結果、衰弱しきって

まさに危篤の状態だ。寝ていたところはふだんの事務所、せまくるしい上にも手もつけられ

ない不潔な部屋だ。彼女は.それを見てびっくり仰天した。

ショウ自身もいっているl「ダイナマイト一本ぶつ放しでもしなければ、とてもきれい

に片付かない部屋だった。メード七人それぞれモップを持って五十年間掃除させても、さっ

ぱり変り栄えしなかったろうよ」

、0

緑いるの目をしたミス・ペインタウンゼントは資産家である。さあ、こんな不潔な場所は

立ち退いて、わたしの田舎の邸へまいりましょう。全快するまで大事にお世話しますよ、と

いったところ、ショウはそんなら結婚指輪を買って結婚許可証をもらってこよう、と使いを

出した。

ショウはいっているl「ぼくはとんでもない理由で結婚したのさ・つまり、自分のこと

より相手のことが心配だったんだ」

幸福な結婚生活が四十五年間つづいて、ショウ夫人は一九四三年九月十二日に亡くなった。

夫よりも二十歳は年下だからショウの方が先に死ぬだろう、と誰も思いこんでいたが、実は

年齢のちがいはわずか四カ月だった。

ショウの生れは一八五六年だが、今なお仕事が忙しく死を考える暇などはない。彼いわく

l「ぼくは生きているだけで人生が楽しいんだ。シェイクスピアはマクベス将軍に『人生

たいまつ

は短いろうそくだ』といわせているが、ぼくの場合はちがう。人生は壮大な矩火みたいなも

のさ。今のところはぼくが手に持っているが、できるだけ盛んに燃え立たせてから次の時代

の手にわたしたい」

滑注1G.B§は一九五○年に死んだ.残した劇作およそ五十篇.しかし社会主義の宣伝を

目的とする劇は一篇もない。人生の虚偽と偽善の暴露を中心とする劇が多い。有名なミュージカル

I O Z ジ ョージ・バーナード・ショウ

「マイ・フェア・レディ」は、彼の劇「ピグマリオン」にもとづく。有名人になってからはずっと

世界一の皮肉屋で通っていた。皮肉な名言をたくさん残している。たとえば、「おのれの欲するこ

とを他人に施すなかれ、彼らの好みは君とちがうかも知れないから」、「愛国心とは何ぞや11自分

が偶然そこに生れたというだけの理由で、自分の国はどこの国にもまさると思いこんでいること」、

「できる者はする、できない奴は教える」など。⑦8品島§”a、言弓(岳段lsg)〕

102

703

わずか十四歳でアメリカ一流の有名人と知り合いになった子供

エドワード・ボック囚言己、具

ある日、腹をすかした学校帰りの一少年がベーカリーの前に立ち止って、ショウ・ウィン

ドゥに飾ってある焼き立てのパンやカスタード・パイに見とれていた。

そこへベーカリーの主人が出てきて声をかけた。

「どうだね、おいしそうだろう?」

「おいしそうだね」と子供が返事をした。オランダ系の少年だ。「でもウィンドゥが汚いね」

「うん、なるほどよごれてるな。どうだい、坊や、ひとつ掃除してくれるか?」

こうしてエドワード・ボックは生れて初めての仕事にありついた。週給わずか五十セント、

しかしボックにとってはたいへんな収入である。何しろ毎日龍をかかえて往来を歩きまわり、

石炭配達の車が通ったあとの道端で石炭のかけらを拾うllこれほど一家が貧乏だったから

ZO4

だ。

エドワード・ボックの一家はオランダからアメリカへ移住してきた。だから英語が全然わ

からない。先生から何かいわれても返事ひとつできなかった。しかも学校へは一生に六年間

しか行っていない。それが後年、アメリカ出版界の歴史に残る第一流のジャーナリストにな

った。

彼は自分でもいっているが、アメリカの女性がどんなものを好んで読むか、てんで何も知

らなかった。それでいて、発行部数世界最高の婦人雑誌を築き上げ、しかも部数はどこまで

も伸びつづけて、彼が引退するときには売上部数は二百万、広告料収入が毎号百万ドルに達

した。彼

は『レディーズ・ホーム・ジャーナル」、つまり「家庭婦人雑誌」の主筆を前後三十年

間つとめ、引退してから自伝を書いた。書名を宝ドワード・ボック、アメリカ人となる』

という。

ベーカリーのショウ・ウィンドウ掃除を手始めに、ボックはつぎつぎといろいろな仕事を

したが、何をするにも一心に打ちこんでかかった。たいがいの子供が郵便切手の蒐集に夢中

になる頃、それと同じ打ちこみ方で仕事に取り組む。土曜日の朝は新聞を配達してまわった。

土曜日の午後と日曜日には、その頃あった鉄道馬車の乗客を相手にアイス・ウォータとレモ

、 5エドワー ド ・ ポ ッ ク

ネードを売る。そのうち夜は土地の新聞に誕生日パーティや女性中心のティー・パーティの

記事を書き出した。とうとう平均して毎週十六ドルから二十ドルはかせぐようになった。そ

れがすべて学校がすんだあとの余暇の仕事ばかりだ。時に彼はわずか十二歳、アメリカへき

てからまだ六年にもなっていない。

十三歳になると学校をやめて、ウェスタン・ユニオン電信会社の給仕になった。だが勉強

には相変らず精を出した。独学自習で勉強したのである。電車賃を倹約しランチはぬきにし、

貯めた金でデメリヵ名流人士伝記集塵を買いこんだlそしてちよいと前例のないこと

をやり始めた。まずその本で有名人の伝記を読むと、直接その本人に手紙を出して本には出

ていない幼年時代のことをいろいろ問い合わせた。たとえば、ちょうどその頃大統領に立候

補していたジェイムズ.A・ガーフィールド将軍に手紙を出す。あなたがむかし運河の曳き

船の曳き子をしたという話は本当ですか、と質問する。グラント将軍のところへも手紙を出

して南北戦争当時のことを問い合わせた。グランド将軍は地図まで書いて教えてくれた上、

ある晩、この十四歳の少年を自邸に呼んでご馳走し、ひと晩ゆっくり相手をしてくれた。

週給わずか六ドル二十五セントで電信会社に勤めているボックは、この手を使って一流ど

ころの各界の有名人と近づきになった。大思想家エマーソン、有名な宗教家フィリップ・ブ

ルックス、詩人で随筆家で生理学者でもあるオリバー・ウェンデル.、ホームズ、大詩人ロン

グフェロウ、リンカーン大統領の未亡人、「若草物語』の作家ルイザ・メイ・オールコット

女史、シャーマン将軍、名優ジョウゼフ・ジェファソン、等々。

こうした有名人と知り合って、ボック少年は自信をもった。理想を描いた。大志を抱いた。

およそ自信と理想と大志と、この三つほど重要なものはない。

ある日、彼は往来でふと目についたものがあった。ひとりの男が巻煙草を一箱買って箱を

あけた。その頃の流行で箱の中には煙草のほかにオマケの写真が一枚入っている。男はその

写真をポイと投げ捨てた。エドワード・ボックはいつも目を皿にして、誰か手紙を出せる有

名人はないかとさがしていたので、すぐその写真を拾ってみた。それはある有名な政治家の

写真だったが、カードの裏は白紙で何も書いてない。「もしカードの裏にこの人物の経歴で

も簡単に書いてあったら、すぐポイと棄てられることもなかろう」とボックは考えた。

たちまち妙案が頭に浮かんだ。その翌日の昼休みに、彼はその写真入りのカードを発行し

ている会社を調べ出した。そして直接その経営者に面会して話をもちかけた。どうです、こ

の写真の裏へ簡単な伝記を書きませんか。なるほど、と思われる相談であるし、第一、ボッ

クの熱意が相手を動かした。たちまち有名人百名の略伝の原稿を一名あたり十ドルで引き受

ける話がまとまったIつまり一語十セント相当の仕事を取ったわけだ.まも麓く、とても

ひとりでは始末できないほど注文が舞いこむ。そこで助手を五、六人使ってせっせと略伝を

106

IZO7エドワード・ポック

書かせた.支払う原稿料は一篇五ドルI何と、五十パ‐セント頭を張ったわけだ。

やがて電信会社をやめて、もっぱら出版業に乗り出した。

フィラデルフィアへ移って雑誌『レディーズ・ホーム・ジャーナとの主筆を引き受けた

のは、彼がまだ二十六歳の時だった。これで終り、と主筆をやめたのがちょうど五十六歳

lまだまだ働きざかりの年配である.

その三十年間に、彼はアメリカ出版界に独自の地位を確立した。もちろん大きな資産もで

きていた。しかし人間の価値は資産の大小だけできまるものではない。ひとつ、エドワー

ド・ボックがその資産を社会のためにどう使ったか、それを調べてみよう。

まず第一に、今日われわれの口に入る食糧品が大体において衛生的であり健康的であるの

は、エドワード・ボックが清浄食品法の制定を求めて努力したおかげである。われわれの住

む都市が清潔であり衛生的であるのは、エドワード・ボックが各都市の不潔で醜悪なごみ捨

て場に目をつけて、反対運動を果敢に容赦なく展開したからである。われわれの住む家屋が

おそらく昔より建築も美しく家具や設備も上品になったのは、ヴィクトリア時代末期の悪趣

味に反対して、エドワード・ボックが不断の攻撃を加えたからである。その頃の家屋の設計

は装飾過剰でゴテゴテしている上に、おそろしく金がかかった。そこでエドワード・ボック

はアメリカ一流の建築家を多数動員して、誰にも手の届く程度の経費で建つ家屋の設計書を

108

安い値段で売り出した。ところがそれが大成功である。大統領セオドァ・ルーズヴェルトは

かってこういったものだI「アメリカ全国の建築改善に貢献した人物といったら、エド

ワード・ボック以外に聞いたことがない」

出版界を引退してから死ぬまでの十年間に、彼は環境緑化運動にも手をつけた。生れ故郷

のオランダから球根を何万と輸入して道ばたに植えては公共の目を楽しませたり、田舎の小

さな駅にバラを植えこんで構内を文字通りバラの花壇に変えたこともある。

しかし、彼の残したもっとも有名かつ不朽な記念物は、フロリダ州に建設した「歌ごえの

塔」lいわゆる「スィンギング・タワ‐」だろう。フロリダ州第一の高地でもとは一面の

不毛の砂原だったところが、今は大小の立木が茂る緑の林となり、いつも烏のさえずりが絶

えない聖所となっている。その林からピンク色の大理石造りの高さ二百フィートに及ぶ鐘塔

がそびえ立つlそれが鏡のような湖に涼しく影を落しているのだ。

蒲注lボックが建設した「スィンギングタワー」は大西洋とメキシコ湾を仕切るフロリダ半

島のほぼ中央にある。重量十一ポンドから二万三千ポンドにおよぶ大小七十一個のベルから成る

カリョン

合鳴鐘が設置されて、烏と植物との大サンクチュアリに一一百フィートの高空から音楽を流す仕組で

ある。毘爵己国O丙(房a‐sg)〕

間抜けだから給金はやらんといわれたが、後に世界一の高層ビルを建てた男

rO9

数十年前のことである。ニューヨーク州ウォータートンの近くに、ひどく貧乏な作男がい

た。一年の半分は裸足ですごすほど貧乏で、寒中でもオーバーコートがない。そんなものを

買う金がないのだ。

だがその貧乏が結局は非常に役に立った。貧乏のおかげで、よし今に見ろ、という大望が

湧き、激しい意欲が燃え立つことになる。畑仕事が嫌いで何か店を出したいと思っていた。

そこで二十一歳の時、老いぼれウマにソリを引かせてニューヨーク州カーゼの町へ出た。店

屋を一軒一軒当っては職を探したが、雇ってくれる店は一軒もない。何しろ山出しの間抜け

な青二才である。ちゃんと髪を刈りこみ、白いカラ‐をつけネクタイをして出かけるIそ

れだけの知恵もなかった。

F・W・ウルワース逗蚕さo一冬o1コ

こき使われる上、

ようやくのことで、ある鉄道の駅員にめぐり合った。この男は副業に名ばかりの店を出し

ていて、貨物倉庫に食料品を仕入れておく、そこへ雇ってもらったが給料はくれないl経

験のため、ただで働かされたわけである。

やがて生地屋に勤め口を見つけたが、客の相手はさせてくれない。二十一歳にもなっては

いるが安心して客の前へ出せるだけの頚は漆いな’雇主はそう思ったらしい.朝は早く店

へきて火をおこせ。それから店を掃除したり窓を洗ったり品物を届けたりしろ。客が立てこ

む時だけ客の相手もさせてやる。だが最初の六カ月は給金は出さないぞ、といわれた。そこ

でこう返事したIわたしは作男を十年間してやっと五十ドル貯めました.あともに先にも

金はそれきりですが、最初の三カ月は何とかそれで食べてゆきます。せめて四カ月目からは

一日五十セント頂かせて下さい。よかろう、ということで話はまとまったか、いよいよ一日

なければならない。泥棒の用心である。住みこんでみると実に恐ろしい所で、年中ガミガミ

五十セントもらう段になると、何と一日十五時間もこき使われた。計算すると時給三セント

に当る。

そのうち週給十ドルで別の店へ鞍がえしたが、夜は枕の下へピストルを置いて地下室へ寝

で奴隷扱いだ。とてもだめだと悟って

ZIO

この能なしめ、給金を下げるぞ、首にするぞ、と怒鳴りつけられる。まる

元の農場へ戻ったが、

まる一年というもの、ノイロー

〃I F,.W・ウルワース

ガイモの袋に腰かけて、ニューヨーク州ウォータートンへ乗りこんだ。フランク・ウルワー

スはこれをスタートに、夢にも思わなかった財産と権力の座めがけて歩み出すことになる。

彼が成功した秘訣は何か?ひとつのアイディアをつかんだ、独創的なアイディアをつか

んだlただそれだけである.彼は三百ドルの金を借りて全店五セント均一の店を出した.

最初はニューヨーク州ユーティカヘ店を出したが完全に失敗した。何しろ売上げが二ドル五

十セントにもならない日もある。初めの頃は四カ所出した店のうち三カ所までは失敗だった。

だが借金をふやすのは困る。そこで急がず慌てず、徐々に拡張していく方針で、開業して

から十年間にわずか十二店しか出さなかった。

とうとうアメリカ一流の大資産家にのし上って、その頃世界一の最高層ビルを建設した。

それが有名なニューヨーク市のウルワース・ビルディングだ。建築費一千四百万ドルは現金

ゼで何の仕事もできなかった。

これがフランク・ウルワースの青年時代だ!思ってもみたまえ、やがては地上最大の小

売業者になる男が、おれはとても商売に不向きだぞと絶望して、何と、養鶏をはじめたのだ。

やがてある日、意外なことに元の雇主から呼び出しがあって、仕事口があるからこないか、

といわれた。それが今から七十五年前の三月、ひどく寒い日で、地面には一面三フィートも

雪が積っている。ちょうど父親がジャガイモを市場へ出す日だったから、ソリヘ積んだジャ

で支払った。自分の邸には時価十万ドルのパイプ・オルガンを設置した。ナポレオンの遺品

のコレクションをはじめた。

そのむかし、彼がまだ貧乏な青年で何べんも失敗を重ねて全く自信を失くした時、母親が

やってきては彼を抱きしめていったものだI「絶望してはだめだょ、いつかはお金持にな

るからね」

蒲注’五セント均一の店はウルワ‐スの独創では葱い,そん旗店がニュ‐ヨーク市にあると聞

いて、スポンサーを動かしたのである。全店をフランク・ウルワース会社に統合したのが一九一二

年、合衆国及びカナダにわたり店舗数一千店を数えた。ウルワース・ビルは六十階、高さ八百フ

ィート。彼はピルの完成した一九一九年に死んだ。津目丙君冒痔屋署。。罫。島(岳紹l岳忌)〕

皿2

四十何年かの昔、宿なしの浮浪人がひとり貨物列車へ只乗りして、ニューョーク州バッフ

ァロウ市へやってきた。腹がすいているからさっそく乞食をして一軒一軒当って行く。たち

まち放浪罪で警官にふんづかまり、三十日間重労働ときまって刑務所へ放りこまれた。三十

日間というもの、パンと水だけ当てがわれて石割り仕事の労働をあてがわされた。

ところがその六年後lわずか六年後にこの乞食あがりの宿癒しはアメリカ西海岸第一

の人気者にのし上る。カリフォルニア州の社交界の花形になり、作家でも批評家でも新聞や

出版社の編集長でも、文壇に巨星現わると大騒ぎである。

この男、ようやくハイ・スクールへ入学したのが十九歳の時だ。しかも四十歳で若死した

が、その短い問に書いた作品が、何と、五十一篇もある。

ジャ ッ ク ・ ロ ン ド ン

》ンヤック・ロンドン」。n震CaO.

三カ月でハイ・スクールを卒業し、十八年間に作品五十一篇を書いたダフ・ガイ

7Z3

有名な小説『野性の呼び一旦の作家、ジャック・ロンドンがその人だ。

この作を書いたのは一九○三年、発表と同時に一晩で名声をとどろかせた。たいへんな評

判をとりはしたが、この大ヒットで転がりこんだ金は大したものではない。何百万ドルの大

儲けをしたのは出版社とハリウッドの映画会社だけ11実は『野性の呼び一旦の版権も映像

権も、一切まとめて僅か二千ドルで売りとばしていたからである。

もし何か本でも書くとしたら、まず第一に必要なのは書くべき素材だろう。その素材をし

こたまためこんでいたのが、ジャック・ロンドンの大成功の秘訣のひとつだった。彼は短く

はあるが猛烈な生涯のうちに、多彩な経験をそれこそ山ほど積んでいた。下級船員もしたり

波止場人足もした。カキの密輸もやれば金鉱掘りもやり、遠く北部へ出かけてアザラシ猟も

した。地球の半分は放浪して廻った。宿なしとしてのその経験も一冊の本になっている。も

ちろん食い物に困ったことはたびたびある。公園のベンチで寝たこともあれば、積んだ乾草

の中で寝たり貨車に泊りこんだこともある。何度となく大地にごろ寝もした’目をさまし

たら水たまりの中だったこともある。貨車の車軸の間へもぐりこんだまま、疲れきって眠っ

てしまったことさえある。

ふんづかまって刑務所入りしたことはアメリカ国内だけでも数百回、その上、メキシコ、

満洲・日本・朝鮮でも刑務所へ放りこまれた。

IZ4

波止場に巣食う不良どもの一味になって暴れ廻った。学校なぞは問題にしない。

ジャック・ロンドン”5

名探偵ニック・カーターだろうがシェイクスピアだろうが、スペンサーの哲学だろうがマル

クスの「資本論』だろうが、手当り次第に何でも読んだ。やがて十九歳になると、筋肉労働

はやめにして頭脳を売って暮そうと決心した。放浪生活に倦きたのである。警棒でなぐられ

ブレークマン

るのに倦きたのである。鉄道の制動手のカンテラで頭をコッンとやられるのに倦きたのであ

る。

そこでカリフォルニア州のオークランドのハイ・スクールへ十九歳で入学した。ほとんど

が寝るのも忘れて夜も日も頑張ったところが、途方もない結果になった。普通なら四年かか

る学科を何と三カ月でちゃんと修得して試験にパスし、カリフォルニア大学へ入学したのだ。

何としてでも大作家になりたい一心で、彼はスティーブンスンの「宝島』を研究し、デ

る休みばかりしていた。ところがある日、ぶらりと町の図書館へ入って言ビンソン・ク

ルーソー』を読みだしたとたん、すっかりその本に夢中になって、腹がすいても夕食に戻ら

ず、とうとう一気に読み通してしまった。次の日はまた図書館へ出かけて別の本を読む。未

知の世界が突如として目の前に展開したわけだ。まるで「アラビアン・ナイト』のバグダッ

ド市のように、珍奇で多彩な新世界である。それ以来、彼は本に対する渇望にとりつかれた。

li

ジャック・ロンドンは幼年時代を貧乏と苦労のどん底ですごした。

サン・フランシスコの

ほとんどず

1‐マの『モン一丁クリスト伯」を研究し、ディヶンズの「二都物語」を研究したl何べ

んも繰り返して読んでは、必死になって原稿を書いた。一日平均五千語のスピードで書いた

というが、これは長篇小説一篇を二十日間で仕上げたことになる。時には長篇やら短篇やら

合計三十点の原稿が同時に出版社の手にわたっていたこともある。しかし全部、突き返され

て戻ってきた。これが彼の習作時代に当る。

そのうちある日、『日本沿岸の台風』という短篇小説がサン・フランシスコ・コール新聞

主催のコンテストにトップで入選した。もらった賞金はわずか二十ドル、しかし当時の彼は

一セントの金もなく部屋代も払えない状態にあった。

それが一八九六年のことだ。一八九六年といえば劇的な事件が相次いで起った年である。

アラスカのクロンダイクで金鉱が発見される。そのニュースがたちまち電信で全国へ伝わっ

116

放棄し商人は店を閉めた。ゴールド・ラッシュがはじまったのである。イナゴの大群のよう

に誰も彼もが飛び出して、空にはオーロラのかかる黄金の土地へ向った。

ジャック・ロンドンもそのひとりだった。まる一年というもの、彼はクロンダイク川のほ

とりで必死に金鉱を探した。そのときの苦労も嘘のようだ。何しろ鶏卵一個が二十五セント、

バターは一ポンド三ドルもする。零下七十四度の大地にごろ寝までしたが、結局は一文なし

て一大センセーションを起す。職工は職場を捨てた。兵士は営舎から脱走した。

農夫は畑を

ジャック・ロンドン117

でアメリカ本土へ戻った。

そのあと手当り次第にどんな仕事でもやった。レストランで皿洗いもしたし床掃除もした。

波止場で人足もしたし工場勤めもした。

ある日、有り金わずか二ドルばかり、これを使ったらあとは飢え死にするほかない、とい

うところまで追いつめられて彼は決心したlよし、筋肉労働は永久にやめた、これからは

文学で行くぞ。それが一八九八年のことだ。それから五年後の一九○三年には、長篇小説六

篇に短篇百二十五篇を世に出して、アメリカ文壇第一の人気作家にのし上っていた。

ジャック・ロンドンが死んだのは一九一六年である。真剣に書き出してからわずか十八年

にしかならない。その十八年間に、平均して長篇を毎年三篇書いたほか、ほとんど無数の短

篇を書きあげた。

彼の年収は当時の大統領の俸給の二倍に当る。作品は今も人気が高いが、ヨーロッパでも

アメリカ作家のうち最も読者が多い。

『野性の呼び一こで入った金はわずか二千ドル、しかし、実に十カ国語に翻訳されて百五十

万部以上も売れ、アメリカ文学史上もっとも読者の多い作品とされている。

蒲注l野性の呼び童は忠実かつ緯猛潅イヌが飼主の死んだあと野性にもどる話だが、人間

社会における野性の追求と描写が多くの作品における彼のテーマであった。人間社会の野獣性を描

いて社会にショックをあたえ、同時にスリルをあたえた作家といえる。いくたびかの翻訳を通じて

『野性の呼び一こなどは日本でも有名になったが、日本では主として社会批判の文学として受け取

られた傾向がある。一九一六年に死んだ。胃弄伊。且。ロ(房誤l旨か)〕

〃8

I〃9

アルバート・アインシュタイン害の1四コ“童.

つい二、三年前のことだ。友人とふたり、南ドイツのある田舎町の往来を歩いていると、

連れの男がふと立ち止って、食料品屋の二階にある窓を指さした。

「あそこに小さな窓があるだろう?」連れの男がいう、「あれがアインシュタインの生れた

ところき」

その日、ぼくはあとでアインシュタインの叔父にあたる人に面会して話をした。この叔父

さん、別に非凡な人物とも見えなかったが、それも不思議ではない。何しろアインシュタイ

ン自身も、子供の頃はこれが偉い人になろうと誰ひとり思いもしなかったのだ。それが今で

は現代随一の知性となり、古来最高の思想家のひとりになっている。しかも五十年前は、の

ろまで内気で、発育のおくれた子供だったのだ。言葉をおぼえるにも苦労するほどで、あま

もとは学校一のバカだったが、後に世界一の大科学者になった男

r20

り頭が悪いから、先生たちからは困った奴だといわれるし、両親までがこの子は普通以下か

もしれないと心配した。

それがつい二、三年前、ある朝目をさますと、俄然、世界第一の有名人になっていた。た

かが数学の一教授が五大陸にわたり新聞のトップニュースになったlまるで信じられ塗

い話である。

一科学者にすぎないアインシュタインが、ヘビー級ボクシングの世界チャンピオンのジャ

ック・デムプシーに劣らず有名になったのである。アインシュタイン自身も、なぜこんなこ

とになったかわかりません、といっている。事実、人類の歴史に前例のないことだ。

このアインシュタインという人物は、その発見した相対性理論に劣らず、実に不可解な人

物である。名声だの財産だの、誰もが欲しがるものを彼はいっこうに欲しない。たとえば一

度、大西洋を船で横断したとき、船長がどうか特別室をお使いください、と申し出た。一ば

ん値段の高い船室である。ところが即座に断った。特別扱いされるより三等で行く方がいい、

というわけである。

五十回目の誕生日にはドイツ政府からさまざまな栄誉を授けられた。ポツダム市には胸像

が建つし、全ドイツ国民の敬意のシンボルとして住居とョツトまで贈られた。

ところが、わずか二、三年すると彼は全財産を没収され、どんな目に合うか恐ろしくて祖

I2Zアルバート・アインシュタイン

国へ帰れない立場になる。ベルギーに留まってドアには厳重なかんぬきを下した室にこもり、

警官一名、毎晩ベッドのそばに寝て警戒に当る有様だ。

やがてアメリカへ渡ってプリンストン大学付属高等学術研究所の教授になる。初めてニ

ューヨークに着いたときは、新聞記者だのインタビューだの、そんな騒ぎを何とかして避け

たい。そこで船が岸壁に着かないうちにこっそりと下船させてもらい、車でどこかへ姿を消

した。ア

インシュタインはいっているlぼくの相対性理論を理解できる者は世界に十二名しか

いない。そのくせ、相対性理論を説明した本は山ほどに出版されている。

彼自身は相対性理論をつぎのように、ごく簡単に説明しているl美人のそばにいると一

時間いてもわずか一分間のような気がするが、熱いストーブにかけていると一分間が一時間

にも思えるlこれがつまり相対性原理なんです.

さあ、それが相対性原理だそうだ。ぼくにはなるほどよくわかるが、もし怪しいと思うな

らテストしてみるのもよかろう。ぼくは美人のそばにいることにする。君は熱いストーブに

かけたまえ。

美人で思い出したがアインシュタインは二度結婚している。最初の結婚で生れた二人の男

の子はどちらも優秀で、天才的素質を備えている。

L1

11111

亡くなったアインシュタイン夫人は、相対性理論はわたくしにもわかりません、といって

いた。しかし彼女は、妻としては相対性理論よりも遥かに重要なものがよくわかっていた。

つまり、夫の人柄をよく理解していたのだ。

夫人はときたま友達をお茶に呼ぶことがある。そして、先生も下へきて仲間入りをしませ

んか、とアインシュタインを呼ぶ。すると「だめだ」と怒鳴り返される。「ぼくは行かん。

絶対に行かんぞ!ぼくはもうこんな家にはいないぞ。てんで勉強ができやしない。こうた

びたび邪魔が入っては、とてもたまらん!」

夫人は、しばらく黙って放っておく。少ししてから上手に水を向けると、アインシュタイ

ンは二階から下りてお茶の仲間に入る。それがぜひとも必要な休養になるわけだ。

夫人の話によると、彼は物を考えるには秩序を尊ぶが、生活には何の秩序もないそうだ。

やりたいことはいつだろうがやりたい時にやる。日常生活の原則はふたつしかない。第一は、

規則は絶対に作るな。第二は、他人の意見に左右されるな、である。

毎日の生活は実に簡素である。プレスのきいていない服を着て歩く。帽子はめったにかぶ

らない。バスの中で口笛を吹いたり歌ったりする。顔を剃るにも別にひげ剃り用の石けんは

使わない。不可解猿宇宙の謎に挑戦している人物が、石けんを二種類使いわけるlそんな

ことをしたら人生、複雑すぎてやりきれないぞ、というのだ。彼はどうも非常に幸福な人ら

122

Z23アルバート・アインシュタイン

しい。ぼくには相対性理論よりも彼の幸福哲学の方が遥かに意義ぶかい。すばらしい人生哲

学だと思う.「ぼくは誰にも全く期待しないlだから幸福なのさ」と、彼はいっている。

彼は金銭も求めず名誉を欲しがらず、人に賞められたいとも思わない。研究するのとヴァ

イオリンを弾くのとヨットに乗るのと、そんな単純なことから幸福を生み出す。

アインシュタインは何よりも一ばんヴァイオリンを弾くのが好きだ。ぼくはよい音楽に浸

って考えたり、ヴァイオリンを弾きながら空想を体験したりするのだ、といっている。

一度、ベルリンで電車に乗った時、受け取った釣銭がおかしいぞと車掌に文句をつけた。

車掌が釣銭を勘定し直してみると全然まちがっていない。車掌は釣銭をわたしてこういった

’「数の勘定のできない人には函りますなあ!」

〔補注l彼は一九一二年、ノーベル物理学賞を受けたが、一九三四年にドイツ国籍を剥奪誉れ財

産も没収され、一九四○年にアメリカに帰化した。個人の自由を尊重する平和主義者で、のちには

核兵器にも反対した。窪序『箇旨“風ロ(岳忍1s観)〕

型‐レフ。トルストイFのく『d近○一

世界文学最高の作品を一一篇も書きながら、それを恥辱として後悔した男

これから話す人物の生涯は、あの『アラビァン・ナイト』にも劣らず途方もない話である。

その男は一九一○年まさに現代の予言者と崇められつつ死んだが、死ぬまでの二十年間とい

うもの、世界各国から崇拝者が続々と彼の邸を訪れた。せめて顔だけでもひと目見たい、声

だけでも聞きたい。着ている服の裾にでも誉わりたいlそうした人びとである.

彼の邸へ何年間も泊りこんだ友人が何人もあった。そして彼の言葉をひと言残らず、どん

な些細な言葉でも速記した。毎日の生活のごく些細なことでも、彼のすることなすこといち

いち詳しく書きとめた。やがてそんな記録が印刷されて、ぼう大な本がたくさん出版された。

その数およそ二万三千点Iまちがえて憾困る、二千三百点ではない、何と二万三千点

である。そのほか、彼とその思想に関する新聞や雑誌の記事が五万六千点もあるし、彼自身

r25 レフ5トルストイ

の著作も計百巻に及ぶlこれだけ書いた人物はほかにあまりい蔵いばずである。

彼の生涯は変幻多彩なること、彼の書いた小説にも劣らない。生れた邸は部屋数が四十二

室という大邸宅、帝政ロシアの貴族社会の栄華を揺藍として育った。それが晩年になって土

地はすべて他人にわけ与え、一切の全財産もかなぐり捨て、一文なしの身になって淋しい片

田舎の駅舎で農民に囲まれて死んで行く。

若い頃はしゃれ者だった。歩くのにも気取って歩く。着るものには惜し気もなく金をかけ

て、わざわざ首都モスクワの服屋へ注文した。それが晩年になると農民と同じ粗末な身なり

で手作りの靴をはき、ベッドの始末も部屋の掃除も自分でやり、テーブル・クロスもない

テーブルで、木作りの椀に木作りのスプーンを使って粗末な食事をした。

若い頃の生活は「汚れた邪悪な暮し」だった、と自分でいっている。大酒を飲んだり決闘

したり、ありとあらゆる罪悪を犯し、殺人までやっている。それが後年、キリストの教えを

文字通り実践しようと努め、聖なるロシアの全土にわたって徳もっとも高き聖者となった。

結婚した当初は非常に幸福な家庭で、神よ、この聖なる至福を永く続けさせ給え、と夫婦

して神に祈りを捧げたほどだ。その円満な夫婦仲が後には極端な不幸になる。とうとう彼は

妻の姿を見るのさえいやになった。どうかあの女を自分の前へよこさないでくれlこれが

いまはの際の願いだったという。

726

若い頃は大学では落第するし、家庭教師にも見放された。どう骨折っても詰めこもうとし

ても、頭がにぶくててんで受付けない。それが三十年後には世界最高の傑作小説、永く後世

に残る名作を二篇まで書いた。『戦争と平和」と「アンナ・カレーニナ』がそれだ。

ツアー

帝政時代のロシアは幾代にわたって皇帝が君臨していたが、今日トルストィの名はどのツ

ァーよりも全世界に有名である。それほどの大作家が後世に残る名作を何篇も書いて、それ

で満足し喜んだか、というと、一時はまさにその通りだった。だがやがて彼はそれらの名作

巨篇を書いたのを恥辱とするようになる。晩年にはもっぱらパンフレット程度の短いものば

かり書いて、愛と平和をたたえ貧困の撲滅に精魂を傾けた。それを廉価版のパンフレットに

して荷車や手押車に積み、一軒一軒まわって売り歩いたのだ。そうして広めたパンフレット

の部数は、わずか四年間に一千二百万部に及ぶ。

つい二、三年前、ぼくは運よくパリでトルストイの末娘に面会した。彼の晩年の秘書をつ

とめ、死ぬときも枕もとにいた人である。現在はペンシルベニア州ニュートン・スクェアの

農場に住んでいるが、ぼくは直接その人の口からトルストイについてさまざまな事実を聞い

た。その後、彼女は『トルストイの悲劇』を書いている。

事実、トルストイの生涯は一篇の悲劇だった。その原因は結婚生活にある。妻が豪著な生

活をしたがるのに対し、彼はそんな生活をさげすんだ。妻が名声を愛し社会の賞讃を求める

Z27 レフ・トルストイ

彼女は永年のあいだ夫を叱りののしり、どなりつけ罵倒した。トルストイ自身、妻のおか

げでわが家は全くの地獄になった、といっている。彼が著作の出版権をすべて放棄して誰に

でも勝手に出版させよう、としたからである。

彼が妻の意見に反対すると、彼女は猛烈なヒステリーを起す。アヘンの瓶を口に当てて床

をころげ廻る。自殺しますといって井戸へ飛びこみかけさえした。

結婚以来もう半世紀に近かった。時には妻がトルストイの膝にもたれて、四十八年のむか

しふたりが烈しい恋仲だった頃の彼の日記から痛烈な恋の思いを書いたところを読んで聞か

せて、と頼んだこともある。その楽しい美しい日々はもう永遠に消え去った!読みながら

聞きながら、ふたりはさめざめと涙を流した。

ついに彼は八十二歳になった。悲劇のわが家にとても辛抱できなくなった。そこで一九一

』え坐の》わ0

のに対し、彼はそんなものに全く関心がなかった。妻が金銭を愛し富を求めるのに対し、彼

は資産をたくわえ私有財産をもつのは罪悪とした。妻が権力を握って人を支配する主義であ

るのに対し、彼は愛によって人を支配するのが正しいと考えた。

その上、妻は猛烈に嫉妬心の強い女で、夫に近づく友人たちを憎み嫌った。自分の生んだ

娘にさえ嫉妬して家から追い出し、夫の書斎へかけこんで娘の写真を空気銃で撃つたことさ

○年十月二十一日の夜トルストイばわが家を捨てて家出したlどこへ行く当てもなく

寒い暗闇の中を逃げ出した。

その十一日あと、彼はある田舎町の駅舎で肺炎のため、「すべては神がいいように計らっ

て下ぎるだろう」といい潅がら死んだ。「求めることlどこまでも求めることだ」lこ

れが最後の言葉である。

〔補注l外国の作家で日本の思想と文学にトルストィ膳ど大きな影響をあたえた作家臓腫かにあ

るまい。古く明治十九年にはじめて日本へ紹介され、そののち、田山花袋や尾崎紅葉などもトルス

トイの小説の翻訳に手をそめたが、特に白樺派の文学には著しい影響をあたえた。大正の中期には

月刊雑誌「トルストイ研究』が刊行されていた。外国人作家を専門に研究する月刊雑誌が刊行され

たことは他に例がないだろうと思う。ぼくZ時。胃ぐ罫Ho-胃。』(岳隠l曽。)〕

Z28

もし百万ドルあったらどうするか、君は考えたことがあるだろうか?ウィリァム・ラン

ドル7ハーストの月収は百万ドル--日あたり三万ドルになる。君がこの章を読んでい

る五分間に、彼はざっと百ドルかせいでいるわけだ。

ウィリァム・ランドルフ・ハーストをウィリアムと呼ぶ人はひとりもない。ごく親しい人

でも頭文字でW・Rと呼ぶ。彼が使っている人数は総計七万人、その七万人は彼をチーフ

(親分)と呼んでいる。

経営する新聞が総計二十四種出版する雑誌は総計九種lその読者数は実に幾百万人に

昇る。出版業者として世界一の富豪であり実力者だ。ハーストの名を知らぬ者はアメリカ全

土にひとりもいない。だがそのハースト自身はまさに神秘の人物だ。一般の人は誰も個人と

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ウィリアム・ランドルフ・ハーストニミQヨヵQao尊工のQ且

親の遺産は三千万ドルIだが毎日十五時間五十年間ぶつ通しに仕事した男

してのハーストを知らない。まるであのインドの聖者マハトマ・ガンジーも同様なのだ。

アメリカ第一に気のつよい出版王だが、驚いたことにハーストはごく内気で口数の少ない

人物だ。約半世紀にわたりひろく一流の人士と友だち付き合いをしてきながら、初対面の人

に会うのは大嫌いである。

カリフォルニア州にあるハーストの大邸宅には、ほとんどいつも、少なくとも十名、多い

ときは六十名の客が泊りこんでいる。そのくせ、何よりの楽しみはひとりきりでトランプの

独り占いをすることだ.ニューヨークへ出ているときは、ウィンド?ショッピングーつ

まり、ショー・ウィンドウの覗き歩きが一ばんの楽しみだという。

カリフォルニア州に大牧場をもっているが、この敷地は西半球第一に広大なものだ。面積

は実に二十五万エーカー、太平洋に臨む岸壁に沿って全長およそ五十マイルに及ぶ。

はるかに太平洋の波涛を見下し絶えず風の吹きすさぶ高度二千フィートの山上に、彼は一

群の堂々たるムーア風の城を建て、それを「魔法の丘」と呼んだ。内部の装飾に使った金は

幾百万ドルにも達するか、ちよいと見当もつかない。壁を飾るゴブラン織の壁掛は、もとフ

ランス中世の古城にあったものだ。広間に並ぶ絵画はレンブラントやルーベンス、ラファエ

ルなどの作品、不朽の名作ばかりである。来客をもてなす大宴会場にも貴重な美術品がずら

り、だがランチのとき出るナプキンは、何と、紙製品だ。

Z30

Z3Zウィリアム・ランドルフ・ハースト

ハーストは動物が好きでものすごいコレクションをもっている。サーカス王バーナムでも

羨しがるほどのものだ。シマウマ、水牛、ジラフ、カンガルーlそんな動物が丘から丘を

うろつき廻り、木の間には異国情緒ゆたかな烏が何千羽飛び交っている。その上、動物館に

はライオンが稔りトラがいがみあってる有様だ。

ぼくの友人にフランク・メースンという男がいる。ハーストの代理でフランス各地を廻っ

て、時代物の美術品を買いあさっていた。時には船に何隻とまとめて買う。古い城をまるご

と買ったこともある。そんな物を買入れると、さっそく分解して材木でも石材でも煉瓦でも、

ひとつ残らず番号をつけてレッテルを貼り、箱詰にしてアメリカへ送る。こうしておけば完

全に復元できるわけだ。

ざんざん美術品を買いこんだ結果、とうとう置き場所に困ってニューョークヘ広大な倉庫

を買入れ、差当り用のない品はそこへ保管した。その倉庫の管理係が合計二十名、経費が年

間六万ドル-収納品は時刻を打つたびカッコウの飛び出す時計からエジプト出土のミイラ

にいたるまで、それこそない物はない。

ウィリァム・ランドルフ・ハーストの父親は、もとミズーリ州で農業をしていたが、一八

四九年のゴールド・ラッシュのとき、やはり西部へ旅立って二千マイルの荒野を踏破した。

幌馬車をウシに引かせ、そのウシと並んでてくてく歩き、時にはインディアンと戦いもした。

132

苦労の末、うまく金鉱を探り当てて巨万の富をつかむ。やがてだんだん年をとると、屋敷の

すみの立木の木蔭へよく腰を下していた。それから幾年、やがて息子のウィリァムが気がつ

くIlこの木が邪魔になって窓からの景色がよく見え鞍いぞ。しかし父親が大好きだった木

だから伐り倒すことはできない。結局、手間をかけてその木を三十フィート移動させた。そ

の経費が五万ドル。

彼は動物が大好きだ。たとえばある日、ハリウッドから映画会社の重役連中が訪ねてきた。

はるばる相談にきたのだがハーストは平気で待たせておいた。実は、ペットにしているトカ

ゲの奴が尾の先を怪我した。その看護に当っていたのだ。またある時は、夜中の十二時に自

家用のヨットを出して医師を迎えにやったこともある。医療費の支払いが五百ドル。実はモ

ルモットが足を一本折ったのだ。

現在、ウィリアム・ランドルフ・ハーストは七十何歳かだが、テニスをすると実にスピー

ディだ。何しろテニスは四十年来つづけているし、今でもちゃんと指導も受けて上達に余念

なしだ。カメラにかけては玄人はだしの腕前で、毎年何千枚も撮りまくる。射撃も名人だ。

一度、ヨットで出かけたとき拳銃を腰に構えてカモメをねらった。飛んでいる奴をみごとに

仕留めたから誰もびっくりしたものだ。

クロッグ

彼は木靴で躍るタップ・ダンスも名人、物真似も名人、それに座談も名人だ。記憶のいい

133ウィリアム・ランドルフ・ハースト

こと百科全書のごとく、たとえば、イギリス中世のヘンリー八世に王妃が何人あったか知っ

てるかね、とか、アメリカ合衆国歴代の大統領の名を順にいってみたまえ、とか、そんなこ

とを質問すると、スラスラ返事が出ること、まず百発百中である。

あるとき、ジミー・ウォルターとチャーリー・チャップリンがハーストの牧場へ泊りこん

でいた。話がふと、聖書の文句の言葉遣いのことになり、これが本当だの、いやそれは違う

のと押し問答がはじまった。結局、それはこうなんだ、とハーストがいいだして議論が収ま

ったが、ハーストは一語一語正確に記憶していたのだ。

ハーストは好んで若い男女を相手にする。しかし、自分のいる前では絶対に「死」という

ことを持ち出させない。

彼は父親から遺産として三千万ドル受けついだ。だから当然のらくら遊び暮して差支えな

いわけだ。ところが彼は毎朝八時から仕事にかかって毎日十五時間、しかもそれを五十年間

つづけたのである.おれはけっして引退しないよ、神さまが引退言せて下きるまではねl

彼はこう公言している。

〔補注lハ‐ストの父は鉱山業の重鎮であり上院議員だった.ウィリァム・ランドル?ハース

トは二十四歳でサン・フランシスコの新聞「デーリー・エグザミナー」の経営を引き受け、一年間

に発行部数を倍にしたのを手始めに、たちまちアメリカ・ジャーナリズムの王者となり、政界にも

大きく活躍した。誘拐されたり銀行強盗の仲間に入ったりで、世界的に話題に登ったパトリシァ・

ハーストは孫にあたる。言冒日嗣目号一吾国閏駕(葛SIS望)〕

734

Z35

大統領ウッドロー・ウィルソンとは、本当のところどんな人物だったのだろう?

傑出した天才ともいわれたし、壮大なる失敗者ともいわれた。

彼は世界平和を理想とし、国際連盟の建設を理想とした。その理想の祭壇に全力を傾け一

身をささげ、遂にその理想の重さに打ち砕かれて死んだ。

第一次世界大戦直後の一九一九年、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンがベルサイユ

条約締結のためヨーローッパヘ乗りこむとき、彼は永遠の救世主と呼ばれた。満身創痩の

ヨーロッパは歓呼の声をあげて彼を神として迎えた。各国の飢えたる民は彼の肖像にろうそ

くを供え祈りをささげた。まったくの聖者あつかいである。

まさに全世界が彼の足もとにひれ伏したわけだ。ところが三カ月たってアメリカへ帰ると

ウッドロー・ウィルソン二.CSO冬く言0コ

歴史に前例のない世界平和の好機会を手にしながら彼は見事に失敗した。その原因は?

136

き、彼は絶望に沈む敗残の身であった。何とか国際連盟だけは形をつけたものの、ヨーロッ

パ諸国の反対によって彼の理想とは程遠いものになった。その上、アメリカ国内の形勢も楽

観はできない。すでに幾多の味方を失い幾千の敵をもつ身だったのだ。

歴史を読むとウッドロー・ウィルソンは理想主義的な学校教師と書いてある。冷たい、高

く構えた、人間的な暖か味のまるでない人物とされている。ところが事実はその正反対なの

だ。彼はきわめて人間味ゆたかな人物で、常に暖かな人間関係を求めていた。しかし、あま

りにも内気すぎて超然と高く構えた感じがある。それが彼の生涯の悲劇なのだった。「この

性格が直せたらどんな犠牲でも払うんだが…:自分の性格だけはどうにもならない」lと、

彼は慨歎したものだ。

ときにはタガを外すこともあった。ウェスレーァン大学の教授だった頃は、外野のスタン

ドから飛び下りてフットボールの応援団の先頭に立ったこともある。バーミューダヘ出かけ

たときは、黒人の舟子と何時間も話しこんだこともある。

アメリカ歴代の大統領のうち、およそウィルソンほど学者肌の人物はなかろう。それでい

て読み書きを覚えたのは七歳になってからだ。大好きな本は探偵小説である。

美術には興味がなかった。大画家ホイスラーのエッチングよりも、一枚十セントの色刷り

石版画の方が好きだ、とよくいっていた。

ウッドロ ウィルソン

大学という象牙の塔にこもって暮してきた知識人のくせに、ぼくはシェイクスピアよりミ

ュージカルの方が面白くてね、と正直なことをいった。芝居へ行くのは教育を受けに行くい

んじゃない、楽しみに行くんだ、ともいっていた。大統領としてホワイト・ハウスに住んだ

頃は、毎週毎週ボードビル見物に行ったものである。

暮し向きは不自由なときが多かった。何しろ教員勤めで俸給が安い。奥きんが絵をかいて

売っては暮しの足しにした。

かけ出しの青年教授の頃は、貧乏のためちゃんとした服も買えなかった。後になっても、

リンカーンと同じく、風采なんぞは気にしなかった。たとえば、大統領在任中のときのこと

だ。礼服が古くなって襟の折り返しが傷んできた。そこで係りのボーイが、仕立屋へ出して

シュスを貼り直させましょう、といったところ、「いや構わん。まだ一年はもつ」といった

ことがある。

これもリンカーンに似ているが、食べる物にも無頓着だった。出てきたものは何でも食べ

る。第一何を食べているのか、てんで頭にないことが多かった。

煙草は生涯に葉巻を一本しか吸わなかった。いや、その一本さえ全部は吸わなかった。途

中で気持がわるくなって止めたのである。

装釘の立派を本を買いこむlそれだけが唯一のぜいたくなのだ.

137

かん

見かけは冷静そのものだが、実は短気で気性が烈しかった。浦のつよいこし」セォドァ・

ルーズヴエルト以上でしょう、とは、彼をよく知る人びとの話である。最初の妻を心の底か

ら熱愛したこと、見ているといじらしいことばかり。大統領に就任して最初に起した行動と

いうのが、まず奥さんに黒テンの毛皮一式買ってやったのだ。一年たってその奥さんに死な

れると、七十二時間というもの、つまりまる三日間は遺骸をホワイト・ハウスから動かさせ

なかった。ちゃんとソファーに寝かせたまま、三日三晩つき切りでその場を離れなかった。

学問にかけては傑物で通っていたが、外国語には弱い方で、世界文学の名作もろくろく知

らず、科学には無関心、哲学には目もくれなかった。

最初は弁護士を開業したがこれは大失敗l何しろ自分ひとりで事件に当ったことはなし、

財産を管理してやった相手はあとにも先にもただ一名lその依頼人というのが実は自分の

母親である。

おそらくウィルソンの性格で最大の欠陥は、気転がきかないというか臨機応変の才がない

というか、とにかく、そうした機動性の不足であった。幼い頃から政治家になる志を抱いて、

自分の部屋で何時間も演説の練習をしたこともある。演説の腕をみがこうとして、たとえば

壁に張った手本を見ながら身振り手振りを練習するなど、いろいろむだな骨も折ったが、ひ

とつ、最も重要なものを見逃していた。人を扱う道を学ぼうとしなかったのである。晩年は

Z38

Z39 ウッドロ ウィルソン

惨惜たる悲劇の連続で、つぎつぎと味方を失い友人に逃げられた。上院の実力者とは衝突す

る。腹心の親友エドワード・マンデル・ハウス大佐と仲たがいする。とうとう多くの国民に

もそつぼを向かれた。民主党からばかり役人を出そうとしたからである。

大骨折ってまとめかけた国際連盟への加入を上院から拒否されると、ウィルソンは直接全

国民に訴えようとして全国遊説の旅に出た。もともと虚弱な体質だったし、これ以上の無理

をしてはいけませんと医者からも注意されながら、彼はまったく取り合わなかった。

ホワイト・ハゥス最後の一年間、かつてはその片言隻句が世界をゆるがしたこの傑出した

大知識人は、今や満身創演、衰弱の極に達し、署名ひとつするにも人の助けを借りる始末と

なった。

引退してからは首都ワシントンのSストリートに住む。世界中から人が集まってきた。ま

るで巡礼が参拝にくるような有様である。臨終のときには往来の歩道に脆いて祈る者数知れ

ず、その祈りのうちに彼の魂は安らかに昇天した。

〔補注lアメリカ第二十八代の大統領ウッドロ!ウィルソンは(‐ジニァ州の生れ.早くから

法学者として秀才の名が高く、プリンストン大学総長の職を経て大統領となる(一九一三’一九二

一)・在職中、婦人参政権の実現その他、偉大な成果をあげたが、国際連盟加入問題に手を焼き、

地方遊説の出先で過労のため倒れた。著書が多い。雪oo18弓景-8口(旨獣1s里)〕

'’

140

ラメリカの悲劇」の大作家も、実はまったくの偶然でチャンスをつかんだことがある

セオドア・ドライサーニの&。『のロ『の耐の『

セオド了ドライサ‐といえばアメリカ現代の作家中もっとも驚くべき人物lしかも一

流中の一流のひとりである。今日まで一世紀のおよそ三分の一にわたり、アメリカ文壇を暴

れ廻ってきた。大声をあげて吠え立てる、無遠慮に鼻を鳴らす、前足でガリガリ地面を引っ

かき廻すIまるでウシが暴れ出したようだ。

アメリカ文学に及ぼした影響はちよいと見当もつかない。もしセオドァ・ドライサーが出

現しなかったら、アメリカの文学は現在と少し変ったものになっていたろう。

彼は一九○○年に問題小説『シスター・キャリー』を発表した。それがたちまち騒々たる

世論の的となる。張せつきわまる不道徳な小説だ、と批評家にはこき下された。各教会では

牧師が説教壇を叩いて非難するし、各婦人団体はいっせいに公憤を発して禁止本にしろと要

セオドア・ドライサ141

年のことだから事情がまるでちがっていた。もし今日、『シスター・キャリー」の初版本を

買おうとしたら、まず三百五十ドルはするだろう。ぼくは一度、この半白の、どら声の、つ

っけんどんな大作家を訪ねたことがある。実にあけすけな口をきくのに呆れ返った。

パーティへ出てもとかく問題を起す。何しろ思う通り何でもズバズバロに出すのだ。たと

えば、あるパーティの席上、ニューヨークでも有名な銀行家とロシアのことで議論になった。

相手をつかまえてバカ呼ばわり、悪党呼ばわりする有様だ。馬鹿げたことをいわれると黙っ

ていられなくてね、といっている。

アメリカ生活を題材に迫力十分な悲劇的小説を何冊も書いているが、最大の傑作はあの

「アメリカの悲劇」だろう。これは一九二五年に出た。ドライサー自身は部屋代にも困るほ

ど貧乏していた時である。出版と同時に全アメリカにセンセーションが巻き起り、印税四十

万ドルがなだれこんできた。その上、ハリウッドからも映画化権だけで二十万ドル近く舞い

こんだ。その大金、どう使ったね、と聞いてみると、株やら債券やら不動産やらいろいろ買

いこんで、結局三十万ドル損をしたそうだ。

求した。その騒ぎ

りした。この小説

いたつもりなのだ

に出版社もびっくり仰天し販売を停止する有様だ。これには本人もぴつく

、どこが不道徳だかさっぱりわからない。自分では、人生をありのままに書

。今日だったら文句をつける奴はひとりもいないだろうが、何しろ一九○○

ドライサーは赤裸々な人生をありのままに書く。インディアナ州はテラ・ホート、サリバ

ン、エバンズビル、ワーソーの町々で貧しい暮しをしてきたからだ。母親は洗濯物を引き受

けたりして、十三人の子供を何とか養おうと苦労した。子供の頃は寒い思いもひもじい思い

もしている。第一、ベッドがセオドアの分まではないから、床にわらぶとんを敷いてイヌみ

たいに丸くなって寝た。鉄道線路から石炭屑を拾ってきて暖を取ったこともある。靴がなく

て学校へ行けないことさえあった。

その学校ではバカも同然だった。何しろ教わる学科をてんで習う気がなかった。数学は大

嫌いだ。文法はまるきり覚えませんでしたよ、覚える気もありませんでしたしlと、いっ

ている。ぼくの自由になるんだったら、文法だの国文学だの、そんな科目は全廃する。短篇

作法コースだのジャーナリズム講座だの、それも全廃だ、と公言している。そんなことで作

家になれるもんじゃない、というのが彼の主張だ。

ドライサーは若い頃、ある日突然、新聞の通信員になろうと思い立った。そこでシカゴ市

のシカゴ・グローブ社へ運動しに行くと、人手がそろっているからと拒絶された。ところが

彼は椅子にどっかと陣取ったきり動かない。採用になるまで動きません、というわけだ。一

カ月あまりその椅子で頑張った。ちょうど一八九一年のことで、六月になると民主党が全国

大会をシカゴで開催した。そこで新聞社も人手をふやすことになり、ようやく採用にこぎつ

142

743 セオドア・ドライサ

ける。ところが、まるでウソのような事件が起った。何しろ新聞記事など生れてから一行も

書いたことがない。その駈出し記者がある晩、オーデトリウム・ホテルのバーで仲間と一ぱ

いゃっていると、仲間の連中がこぼしている。指名候補はいったい誰になるのか、まるで見

当もつかないのだ。ドライサーは少し酒が廻っていた。少し見得を切りたくなっていた。そ

こでいったものだ、「指名候補か?わかってるぞ。ダーク・ホースが出る。上院議員マッ

クエンティさ、サウス・カロライナ州の」。そこへぶらりとその当人が入ってきた。「光栄の

至りだな、それは。ところで君は誰だ?」

そこでドライサーは、実は、と本当のところを白状した。「よし、よし。どうだ。一ぱい

飲もう」ということになった。

五分後には、ドラィサーは上院議員マックエンティとランチを食べジン・リッキーを飲ん

でいた。もちろん議員閣下の招待である。いい気持に酒が廻ったせいもあったろう、こんな

話になった、「どうだ君、ぼくと首府ワシントンへ行かないか、吾輩の私設秘書になって」

食事がすむと、マックエンティがこういった、「おい、ひとつ、大事な秘密を話してやろ

うか。大統領候補に指名されるのはグローバー・マッキンレーだぞ。真先にかぎつけたのは

君、というわけだな」

ドラィサーは面くらった。新聞記者になってまだ二日間ザそれが今年第一の特ダネをっか

74L4

んだのだ。

それから二、三カ月するとセント・ルイス市のグローブ・デモクラット社からの電報で社

員に採用された。また三カ月すると演劇欄の主任が辞職して、ドラィサーがその後釜に抜擢

された。なぜそんなことになったかわからんね、芝居のことなどまったく知らないんだから

な、といっている。

ある晩、セント・ルイスの劇場四カ所が同時に開演した。とても四ヵ所は見物できない。

そこで一カ所だけは見物したが、あとの三カ所は見もしないで劇評を書いた。ずっと最前列

の席で見物したように書いたのだ。芝居がへ.たでとても見ていられない、と、こき下しまで

書いたのである。

ところが翌朝に蔭って判明したi線路の土砂が流出して鉄道不通になり、三劇団はてん

でセント・ルイスへ入れなかった。

彼はすっかり降参して社をやめた。

ぼくは聞いてみた、「君が成功した秘密は何だと思うね?」

答はこうだ「神の恵み苔lそれきりだな」

蒲注lドーフイサーの作品十数点はいずれも社会派小説といえる.アメリカ社会の表裏を容赦な

くえぐり出しているが、こんな社会だからガッガッ金儲けに糖出すより仕方がない、と思わせるタ

弓】i岳命)〕

セ オドア・ドライサー必5

イブのものから、社会主義的なものや鑑

たない傾きがある。且〕8号門口風閏(芦

社会主義的なものや精神主義的なものまで書いた。思想的な作家としては筋の立

露蕊

ドリス・デュークロo詩口臭の

146

ロックフエラーが石油でやったくらいのことは、おれにも煙草でやれるはずだ、といった男

世界一の金持むすめドリス皇アュークー残念ながらもう結婚してしまったが、彼女個人

の財産が何と五千三百万ドル。それでいて「あの可哀そうな金持むすめ」といわれたものだ。

どこへ行ってもひとりきりになれないからである。いつも新聞記者やカメラマンがしつこく

跡をつけ廻す。帽子ひとつ買うにも私服が二、三人は必ずついてくる。ちゃんとピストルを

携帯して警戒に当るのだ。

すごく広大な地所を五カ所もっている。アメリカに四カ所、フランス領リビエラに一カ所

だ。ニュー・ジャージー州サマビルにある面積五千エーカーの地所には広々した芝生が何カ

所もあり、きらめく湖水があり、見わたす限りのシャクナゲの花の中に緑の建物がちらばっ

ている。アメリカ東部での名所のひとつだ。

、、

11

747 ドリス・デューク

その金持むすめが結婚式のつい一週間前、フロリダ州の盛り場パーム・ビーチへ姿を現わ

したとき着ていた水着は、何と、三年前から着古したしろものだった。ありあまる財産をも

ちながら、結婚式の舞台には赤々と燃えさかる暖炉の前が一ばんです、といった。

ドリス・デュークにこれだけの財産を残した親は、いったいどうしてその巨富を積んだの

だろう?実は、すべて煙から生れてきた。煙草の煙がもとなのである。

煙草王といわれるデューク家の話になると、あの南北戦争終結の頃にさかのぼることにな

る。戦いに敗れた南部には惨惜たる時代だった。いたるところ軍隊に躍脳されて、畑は荒れ

果てて作物はなし、それこそ塗炭の苦しみである。クリの実とワタの種を煮つめてコーヒー

代りに飲んだ。キイチゴの葉とササフラスの根を煎じて紅茶に代用した。ベーコンの油がし

みこんだ懐製小屋の土を掘り出し煮立てて食塩を取るlそん種状態である.ドリス皇ア

ュークの祖父ワシントン・デュークも南軍の名将リー将軍に従ってリッチモンドに戦い、捕

虜となってはあの悪名高いリビー牢獄で苦労もしてきた。遂にリー将軍も敵に降伏して戦争

は終り、祖父はノース・カロライナ州グラムの故郷へ戻った。

南軍政府から下賜されたラバ二頭は、老いぼれの上に目が見えなかった。南軍政府発行の

五ドル紙幣も一枚あったが、これは北軍兵士に頼んで半ドル銀貨と交換した。南部の貨幣は

それほど下落したのだ。銀貨で五十セント、盲目のラバが二頭、馬具が少し、それに母のな

い子供がふたりIlあとにも先にもそれきりの手持で、何とか前途を開拓しなければならな

い。

どこもかしこも南北両軍に躍剛された。兵士も腹を空かしているから畑のもの何でも根こ

そぎかっさらう。食べられる物はどこにもない。畑に青々と残っているのは煙草だけである。

そこでバック(ブキャナン)とベンと、ふたりの息子を相手に煙草の葉を刈り入れて乾燥し、

ヒッコリーの棒でよく叩いて袋に詰め、その袋を幌馬車に積みこんだ。それを二頭のラバ

ーしかも目の見え潅いラバに引かせて、いざひと合難とばかり出かけて行った。愉快な

ことに、結局それでちゃんと合戦に勝って煙草界を征服する。遂には全世界にまたがる一大

煙草帝国を建設した。

二頭のラバに幌馬車を引かせて乗りこんだのは、ノース・カロライナ州の北部、煙草のほ

とんどない土地である。そこで持って行った煙草をベーコンと棉花に交換した。日が暮れる

と道ばたに野宿した。ベーコンとサツマイモをフライにして食べた。星空の下で寝た。しか

し、煙草の栽培よりはこの方がずっと面白い。そこでもっぱら煙草の販売を仕事にしようと

決心する。

しかし、時がたつにつれ競争がだんだん激化して、パイプ煙草を製造する会社が何百とで

きてきた。資本のたっぷりある有力な会社だ。こうなっては今のうちに何か変った手を打た

Z48

ドリス・デュークZ49

なくてはだめだIそう考えたのがドリネデュ‐クの父親ジェイムズピュキャナン皇ア

ュークである。頭をひねって考えた結果、生み出したアイディアで幾千万ドルも儲けること

になる。巻煙草の製造に踏み切ったのだ。ヘン、巻煙草か。別にアイディアでも何でもない、

と今の人なら思うだろう。何しろ現在は誰も彼も巻煙草を吸う。ところが、その巻煙草なる

ものが一八八一年には革命的新製品だったのだ。ロシア人やトルコ人はその幾世代も以前か

ら巻煙草をのんでいたし、イギリスでもクリミヤ戦争から引き揚げてくる軍隊が巻煙草を導

入した。だがアメリカでは、全世界に煙草を供給するこのアメリカでは、巻煙草が伝わって

きたのは一八六七年が最初なのだ。

ジェイムズ・ビュキャナン・デュークが巻煙草の製造に乗り出した頃は、もちろん手巻き

で仕事をした。やがて煙草巻きの機械を工夫して、能率が一日二千五百本から一日百万本に

目ざましく向上した。巻煙草を紙箱に詰める機械を発明したのも彼である。むかしあった

「メッカ」だの「ザイラ」だの、「スイート・キャポラル」だの「ターキッシュ・トロフィ」

だの、そんな巻煙草を覚えている人もあるだろうが、押出し式のあの紙箱をデザインしたの

もジェイムズ・デュークである。

商売は大繁昌だった。やがて政府が煙草の税金を下げると、彼は値段を半額に下げて、一

箱五セントの巻煙草を大々的に売り出したから、競争相手は度ぎもを抜かれた。

次には征服すべき新世界を探しにかかった。弱冠二十五歳の若さでニューヨークへ出て新

工場の建設にかかる。その頃心の底でよく誓ったものだ、「ジョン.D・ロックフェラーは

石油であれだけのことをした。おれも煙草でそのくらいはできるはずだぞ」

あげた利益は全部また事業に投入した。年収五万ドルになってもバワリー通りの安い部屋

に住んで、車を押して売りにくる安弁当で食事をすませた。一度の食事に五十セントはとて

も出せない、といいながら広く世界各地に代理店を出していた。

なま

朝は早くから夜遅くまで工場でせっせと働く。生の原料から製品がちゃんと箱に詰まるま

で、あらゆる段階を厳重に監督する。

死んだときの遺産が、何と一億と一百万ドル。「おれほど世間に百万長者をこしらえた男

は、アメリカ中ほかにはあるまい」というのが自慢だった。その彼はわずか四年か五年しか

学校へ出ていない.一度こういったことがあるl「牧緬や弁護士になるんなら大学教育も

結構だが、おれには何の足しにもならない。商売するのに切れる頭なんぞいらないからな」

彼が成功した秘訣は何か?その答えに彼の言葉をそのまま引用しよう11「おれが事業

に成功したのは生れつき普通の人より腕があったからじゃないんだ。人より頑張りぬいたか

らなんだ。おれより頭のいい奴で何やっても失敗したのがいくらもいる。みんな頑張りが足

りないのさ」

150

小さな大学を大きく改組した。だからその大学には今も彼の名がついている。ノース・カロ

おそらく大学の理事として世界一に若いだろう。

ジェイムズ・ビュキャナン・デュークは世間に目立つことが嫌いだった。だからインタビ

ューなども生涯に一度しかしていない。そのインタビューのとき記者が質問した、「これだ

け大きな財産をおもちだと、もうそれだけでもご満足でしょうな?」

’ドリス・デュークr51

おれには教育なんぞいらないといったこの男が、四千万ドル投げ出して

ライナ州のデューク大学がそれだ。ドリス・デュークはデューク大学の理事のひとりである。

彼は首を横に振った、「いいや、ちっとも満足なんぞしないもんだな」

〔補注14ジェイムズ・ビュキャナン・デュークは業績進展と共に着々と同業者を吸収して大トラ

ストを作り上げた。一九二年、最高裁の命令で分割されるまで工場数百五十、総資本五億ドルの

煙草産業を支配した。病院・孤児院・教会などにも大きく貢献している。]“日のの胃o宮口目ロロ再

(冨駅I忌蹟)〕

不思議なことに、

152

かんなん

銀難汝を玉にす、とは古い一一一一自葉だが、それが今も生きている証拠の人物

H・G・ウェルズエ.Q烹弄

六十年前のことだ。ロンドン郊外の往来で子供たちが遊んでいると事故が起った。パーテ

ィ・ウェルズという小さい男の子を年上のが抱き上げて放り上げたが、落ちてくるのを受け

そこなって落したから、パーティが片足折ってしまったのだ。

何カ月というもの、パーティは足に重しをつけられてベッドで苦しんだが、結局うまく接

合しない。また手術をやり直した。こわいやら痛いやら、悲鳴を上げる有様で、実に恐ろし

い経験をした。

全くひどい目に遭ったわけだが、あとになってみるとそれが実は幸運だった。そのきっか

けで少年パーティが世界的大文豪にのし上るからだ。H・G・ウェルズその人である。読ん

だ人も多いだろうが、著作はおよそ八十何巻。本人も、あのとき足を折ったのがもつけの幸

r 53H・G

いだったと、いっている。怪我したおかげでまる一年は外へ出られず、ほかにすることがな

いから手当り次第に本ばかり読んだ。その結果、本を読むことを覚え文学が好きになった。

大きな刺激を受けた。新しい生命を吹きこまれた。平凡な環境を脱出して向上しようと決心

した。片足折ったのがまさに生涯の転機となったのである。

世界一流の大作家となって、ペン一本でおそらく何百万ドルの収入をあげたが、幼い頃は

赤貧のどん底で育った。父親というのがクリケットのプロ選手。かたわら小さな陶器店を開

いていたが、今にも潰れそうな有様だ。その二階の狭い部屋で生れる。地下に陰気な狭い部

屋があって台所になっていた。頭の上の歩道から鉄格子ごしに光がさす。それきりである。

その暗い台所にいると鉄格子の上を通る人の足が見えた。それがごく幼い頃の思い出のひと

つである。後年、ある作品の中でそのとき見た道行く人の足のことに触れて、はいている靴

でその人の人柄がわかるようになった話を書いている。.

やがて父のやっていた陶器店がとうとう潰れた。一家は絶体絶命となる。そこで母親はサ

セックス州のある大きな邸へ家政婦として住みこむことにした。当然、ほかの雇人どもと同

じところで寝起きするわけだ。ウェルズは何べんもその邸へ母に会いに行っている。

彼が初めてイギリス上流の生活をかいま見たのもその場所だ。つまり、使用人部屋からの

ぞいたのである。

ウェルズ

十三歳になると服地屋の店員として働き出した。やがては『世界文化史大系」の著者とな

る人物が、毎朝五時に起きて店の掃除をして暖炉に火をおこし、一日十四時間こき使われた

のだ。仕事は辛いし面白くもない。一カ月すると首になった。だらしがなくて、いいかげん

で、手におえない奴だ、という理由である。

そこで今度は薬屋の店員になったが、これもまた一カ月で首にされた。

ようやく、また別な服地屋へ勤め口をみつけた。とにかく何としても食って行かなければ

ならないから、今度は辛抱して少し長くつづけた。しかし、売場監督の目が光っていないと、

こっそり地下室へ行ってハーバート・スペンサーの哲学を読んだ。

二年たつと、どうにも辛抱ができなくなる。そこである日曜日の朝、起きぬけに逃げ出す。

朝食も食べずに空き腹をかかえて十五マイル歩いて母のところへ行く。もう半狂乱だった。

涙をこぼして母に頼んだ。これ以上あの店へ置かれたら自殺します、とまでいいだした。

そんな中からむかし教わった学校の先生へ手紙を書く。長い長い、世にも哀れな手紙を出

した。ぼくはもう絶望です。とてもやりきれません、生きている気もなくなりました……

びっくりしたことにその先生から返事がきた。教師の口があるからやってみないか?こ

れがまた生涯第二の転機となる。

だがね、と99ウェルズはいっているl「あの服地屋でこき使われた長の歳月、ぁ

754

H、G・ウェルズ

れは不幸と見えて実は幸福だったな」。生れつき物ぐさな無精者が、服地屋へ勤めたおかげ

で努力して働く癖がついたからだ。

教員になって二、三年すると、またもや不意に災難にあう。こんないきさつだ。ある日、

フットボールに熱中して押し合いへし合い夢中でやっているとき、突き飛ばされて踏んづけ

られ、危なく命を落す目にあった。腎臓が片方つぶれるし右の肺は破裂した。出血多量で血

の気がなくなった。医者にも見放された。いま死ぬかいま死ぬかという状態が何カ月もつづ

いて、どうにか命は取りとめたものの、それから十二カ年というもの、半病人の有様で命に

しがみつくことになる。だがその十二カ年に彼は才能を伸ばした。その腕をふるってやがて

文明社会のすみずみまで名をとどろかせることになる。

まず五年間は必死になって書きに書いた。小説を書き、論説を書き、著書まで出したが、

どれもこれも平凡でしろうと臭い。しかし、自分でもそれを自覚するセンスはあった。そこ

で書いたものほとんど残らず焼き捨てた。

遂にようやく、まだ半病人の身でいながら、また教師の口をみつけた。すると生理学を教

えるクラスに美人の生徒がひとりいて、その名をキャザリン・ロビンズという。気がついて

みると、どうも生理学よりもキャザリンの方が気にかかる。キャザリンは虚弱で病身だった。

自分もその通りだ。よし、せめて今のうち、つかめるだけの幸福をつかんでやろうl’そう

155

話がまとまってふたりは結婚した。

それがちょうど今から六十年前に当る。その間にH・G・ウェルズは死にもしないで健康

を取りもどした。人間ダイナモそっくりの精力家になった。毎年二冊は分厚な本を書いた。

それがみな全世界に反響を呼ぶ名著である。

ウエルズの頭にはいつもアイディアがつぎつぎと燃えていた。真夜中に目をさましては頭

にふと浮かんだ思想を書きとめることもある。かつては無能といわれて服地屋を首になった

無精者が、ぼくのノートにはね、これから百五十年間書いても書き切れない材料があるんだ、

というまでになった。

ウエルズはどんな場所でもどんどん書ける男だ。ロンドンの書斎だろうが列車の中だろう

が、紺碧の地中海の浜辺のビーチ・パラソルの下だろうが、平気でペンを走らせる。フラン

ス領リビエラに別荘を二軒借りた。一方は仕事に使う。一方にはお客を泊める。一日中せっ

せと物を書いて、夕方からお客と話しこむ。停車場まで自分で出迎えに行けないときは、高

級車を迎えに差し向ける。車といっしょに、たっぷりワインの仕入れてある地下室の鍵まで

届けてやる。

お客が一ぱい機嫌でニコニコしているところへ、やがて文豪H・G・ウェルズ先生が姿を

見せる、というわけである。

756

〔補注199ウェルズは奨学金を受けてロンドン大学を卒業し生理学の教師と悲る.三十歳

近くなって作家に転向。はじめは『タイム・マシン』その他、先駆的なSF小説を書いたが、のち

現実社会に目を転じ思想小説を書き、世界的な大作家としての名声を確立した。のち『世界文化史

大系」など啓蒙的な大著を出し、晩年は作家よりもむしろ思想家・文明史家として重きをなした。

四角冒庁の8侭の雪の房(届段l己よ)〕

Z57H、G・ウェルズ

こんな老いぼれにならなってみたい、と思うだろうが、さて君にできるか?

この話はアメリカ思想界全般に偉大な影響を及ぼした人物の話だ。法学方面には特に影響

が大きい。何しろアメリカはじまって以来の傑出した学者だった。それでいて実に人間味ゅ

バーレスク

たかで、火事があると駆け出して見物に行くし、ちょいちょい茶番劇なども見物するし、特

に探偵小説が大好きでとうとう一週間に一冊か一一冊と自分で限度をきめたほどだ。最高裁判

事オリバー・ウエンデル・ホームズとはそんな人物である。生れは一八四一年、まだ合衆国

が二十七州しかなかった頃だ。一九一一一五年に亡くなる。九十四歳だった。

彼は過去一世紀間のアメリカ一流の人物はたいがい知っていた。まだ少年の頃大思想家ラ

ルフ・ウオルド・エマーソンを相手に、何時間も本の話をしたこともある。父親は同じ名の

オリバー・ウエンデル・ホームズ博士。これはアメリカ随筆文学の古典『朝食のテーブルの

581オリバー。ウェンデル・ホームズ○一一くの「一言.qの一一ェ◎すの“

独裁者』の作家で、有名な詩「無敵の甲鉄艦」や「小さな二輪馬車」もこの本の中に出てい

る。

その父親が子供たちにこういったI食事のときいちばん気のきいたことをいった着には

ジャムかママレードをたっぷりおまけにあげるよ。ウェンデル少年はママレードが大好きだ

から、おかげでたちまち言葉がすごく鋭くなったものだ。七十年後、アメリカ合衆国最高裁

判所判事としていかめしい会議の席に出たときも、ときどきピリッとした警句を飛ばす。あ

とで記録から削除したものだ。学者だからといって冗談ひとついわずにもったいぶっている

必要はないさ、といつもいっていた。髪が真白になってからのことだが、ある晩、ワシント

パーレスク

ン市で茶番劇を見物に行った.その晩のショーはlぎあ、何といっていいかlまず、か

なり手きびしいものだった。ホームズ判事が大笑いに笑う。十列前まで聞こえる大声だ。そ

のうちふと、隣りにいる男に声をかけた。まるきりの他人である。「わしはね、いつも神に

感謝してるんだ、趣味が下等でよかったよ」

忘れては困る。そういったのは名声噴々たる大法学者、つい近ごろ、イギリス人でないの

にイギリス法学協会会員に推された最初の人物なのだ。どえらい学者でありながら一面ごく

普通な人lアメリカ社会ひろしといえども、こんな人物はまず少ないだろう.

一八五七年のことだ。彼が法律を勉強しはじめたのを見て父親はゾッとした。何しろ弁護

159オリバー・ウェンデル・ホームズ

士というととかく見下げられた時代である。「それはやめてくれ、ウェンディ」と父親はい

った、「法律なんぞやったら偉いものになれないぞ!」

ところがウエンディは法律をやっても偉くなれると思っていた。そこで一所懸命、あの有

名なブラックストーンの「イギリス法注解』を勉強しだ。まるで小説でも読むように読みふ

けった。どのページも面白くてたまらない。

一八六一年、ハーバード大学卒業の直前に南北戦争がはじまった。さっそく法律の本は戸

棚へ投げこみ一兵卒として出征する.ダブダブのパンタロン、空色の胴着真赤な帽子I

ズワーブ兵を真似たといわれる例のヤンキー軍の軍服である。今ならとても戦争に不向きな

仕度だろうが、オリバー・ウェンデル・ホトムズはその格好でちゃんと戦った。戦傷を受け

ること前後一一一回、一度は敵弾に心臓のすぐそばをやられた。担架で運ばれるところを見て、

通りかかった軍医がこういった’「そいっは見てやっても暇つぶしだ.どうせ死んで

る!」果

して死んだか?ところが大違いで、このボストン育ちのヤンキー兵は死ぬどころかど

んどん成長していた。結局は身長六フィート一一一インチとなるが、それまであと一インチか一一

インチ足りなかった頃、国家のため最初の偉勲を樹立した。というのは、その一一、三年あと

の一八六四年、大統領リンカーンの命を危うく救ったのは彼らしいからである。

160

Z6Zオリ パー ・ウ ェン デル ・ホームズ

北軍の司令官グラント将軍がリッチモンドの攻撃に手を焼いているとき、ジュバル・アー

リーの指揮する南軍の一隊が遠く北上してバージニア州アレクサンドリアへ迫った。ワシン

トンまでもうわずか二十マイルである。

北軍の部隊はスティーブンズ要塞へ集結した。必死に敵を食い止めようとした。大統領リ

ンカーンはまだ前線へ出たことがなかったが、この形勢にスティーブンズ要塞へかけつけた。

そして胸壁に近い屋根の上に立っていると戦闘の火蓋が切って落された。リンカーン大統領

はヒョロリと痩せた背の高い人物だ。誰でもひと目でそれとわかる。その大統領が敵からま

ともに見えるところに立っていたのだ。

そこへひとりの将官が近づいてこういった、「大統領閣下、そこはおどきになる方がよろ

しいかと存じますが」。だがリンカーンは取り合わない。そのうち、五フィート向うで胸壁

から首を出した兵士がヨロョロするとバッタリ倒れて死んだ。三フィート先でもまた一名や

られた。

その時突然、リンカーンのすぐ後ろから大声でどなりつけた奴がある。「バカ、すぐ下り

ろ!戦列を離れるんだ!」びっくりしたリンカーンが振り向くと若いホームズ大尉だった。

燃えるような目でハッタと晩みつけている。「やあ、ホームズ大尉か」とリンカーンはニッ

コリしていった、「民間人にいうときは言葉遣いがちがうんだね」そしてリンカーンはよし、

よし、と首をたてに振りながら敵弾の届かないところへ出た。

この話がひろまると当然オリバー・ウェンデル・ホームズは英雄あつかいされたが、本人

はすぐ打ち消した。「英雄だなんてやめてくれ。ただ軍人の義務を果しただけの話さ。別に

大したことじゃない」

果して大したことではなかったろうか?さあ、そうかも知れない。だが、それよりもつ

と大したことに、この青年士官、戦争がすむとさっさと手を洗って、まるで何もなかったよ

うに母校へもどった.法律をマスタ‐したところであまり金は儲からないlそれをちゃん

と承知の上で母校へもどった。何しろ、.年やって看板代が出たら弁護士は大成功」と諺

があった時代である。

ところがオリバー・ウェンデル・ホームズはその看板代もかせげなかった。事実、三十歳

になっても食って行けない有様である。三十一歳で幼馴染のファニー・ディクスウェルと結

婚するが、花嫁も花婿も金は一セントしかなかった。やむを得ず父ホームズ博士と同居して

三階の寝室に住む。まる一年間、花嫁が暮しを切りつめ切りつめしてようやく移転にこぎつ

けた。移転した新居というのが、何と、薬屋の二階の二間か三問、炊事するにも火口一個の

ガス台しかない。

天才といわれたホームズ博士の息子だが、まだスタート・ラインを踏み切っていなかった

]62

763

のだ。

手のあいている暇をみつけて、彼は法学の偉大な古典、ジェイムズ・ケントの「アメリカ

法注解』全四巻の改訂と現代化にかかった。大へんな大仕事である。判例は幾万とあるし裁

判所の意見も無数である。それをことごとく研究して注釈を加えなければならない。一年、

また一年とつづけたが、いつになっても完成の見通しが立たない。とうとう自分でも不安に

なってきた。いやしくも男子たる者は四十歳までに名を成すべしIこれが彼の信念だ.し

かも、もう三十九歳である。

「どうだろう。ファニー、四十までにまとまるかな?」と、よく妻にいったものだ。時計が

真夜中の十二時を打つと、デスクから目を上げてきくのである。すると編物を膝においてフ

ァニーが必ずこう返事した、『大丈夫よ、ウェンデル、きっとまとまるわ」

結局、仕事はようやく完成した℃四十回目の誕生日のかっきり五日前、アメリカ法制史に

そびえ立つ金字塔といわれる彼の大著は出版になったのだ。ホームズ夫妻はシャンパンを抜

いてお祝いした。

それで動き出したのがハーバード大学である。さっそく年俸四千五百ドルの教授になって

教えにこないか、と話があった。うわあ、法学教授か、こりやすてきだぞ、と彼は思った。

目もくらむ光栄である。しかし、そこは抜け目ないヤンキーかたぎのボストンっ子だ。さっ

オリバー・ウェンデル・ホームズ

762#

そく友人のジョージ・シャタックに相談をかけた。

「その話、逃がすなよ」シャタックはいった、「ただし、条件を一ひとつ付けるんだ。もしこ

のマサチューセッツ州の最高裁判事になるチャンスが出てきた場合は辞任する権利を保留す

る、とね」。こいつ、とんだことをいう1.最高裁判事がきいてあきれる!ホームズは大

声を立てて笑い出したが、結局シャタックの意見に従った。

それが生涯第一の幸運になる。三カ月するとシャタックがハーバード大学へかけこんで、

講義中のホームズ教授を引きずり出した。「おい、ビッグ・ニュースだぞ!オーティス・

ロードが辞任したんだ。マサチューセッツの最高裁に判事の席がひとつ空く。知事は君を任

命する気なんだが、それには正午までに諮問委員会へ名前を提出しなけりやならん。もう十

一時だぞ!」

あとたった一時間しかない。ホームズは帽子をひっつかんだ。ふたりで往来をかけ出した。

知事官邸へかけつけたのである。その一週間あと、彼はマサチューセッツ州最高裁判所判事

に就任した。あの電光石火の一撃でぼくの一生は変ったね、と彼は述懐している。まさに生

涯の転機になったのだ。

ホームズが「大反対屋」と異名を取ったのはマサチューセッツ州最高裁判事として在任中

である。とかくほかの判事の意見に遠慮なく反対することが多かったからだ。たとえば一八

オリバー・ウェンデル・ホームズ

八六年、労働組合は商店にピケットを張る権利があるか、の問題が起った。ホームズ自身は

生涯に一度も筋肉労働の経験がないのだが、断然、その権利を擁護して一歩もあとへ退かな

い。そして意見書を提出すると、「これでもう法律畑で昇進する見こみはなくなったな」と

友人にいった。将来の見こみがなくなると承知しながら、断然、自説をまげないのだ。何し

ろ一身の利害で意見を曲げたことは生涯に一度も蕨い。彼にとっては信念に徹するlそ

れが唯一の問題だった。

ところが妙なもので、そんなことを何度も繰り返してみずから昇進の道を絶ったにもかか

わらず、結果としてさらに大きく昇進することになる。大統領セオドア・ルーズヴエルトが

独占事業を禁止するため、各界のトラスト相手に獅子奮迅の勢いで闘っていた頃だ。ルーズ

ヴェルトはホームズ判事のことを聞きつけると、「それでこそ●判事だ!その男がいい!」

と、わめき立てた。

そこで大急ぎで任命の手続きを取る。ホームズはアメリカ合衆国最高裁判事に納まった。

アメリカ司法界最高の栄誉である。

この男、こうしておけば自分のいう通りになるだろう11ルーズヴェルトはそう思ってい

た。ところが大まちがい。重大な事件にぶつかると、たちまちホームズは大統領と反対の立

場をとった。ルーズウェルトは憤然としてののしった、「何だ、そんな骨なし野郎か!(

Z65

ナナよりも骨なしな奴だ!」

ルーズヴェルトはカンカンに腹を立てたが、世間の人は大喜びだ。これが本当の判事とい

うものだ。何ぴとにも従わず、ただ自分の良心にのみ従う人物lこれこそ国民の求める人

物だIというわけである.その後三十年間良心に従って反対すべきはどこまでも反対し

て、遂に全アメリカの伝説的存在になる。この国の歴史にホームズほど尊敬された最高裁判

事はない。

首府ワシントン随一の多彩な人物だったが、ホームズは一度もインタビューを許可したこ

とがない。世間に目立つことは大嫌いなのだ。だがそれでも私的生活が多少は世間に伝わる

もので、たとえばホームズ夫妻は大の動物好きだった。烏をたくさん飼っている上に、サル

を二匹とムササビを三匹飼っていた。寝室の中をそのムササビが飛び廻る。夜うまく眠れな

くて開廷中に居眠りしたこともあったlムササビ三匹lそれが急降下爆撃機みたいにベ

ッドをおそって何べんも目を覚ましたからである。

八十歳を越して何年かたっても、彼はエレベーターを使わず二段一度にボンボン階段をか

八十歳を越して何年かたっても、彼はエレベーターを使わず

け上った。火災警報を聞きつけるとふたり連れでわが家を飛び

廷外で使う言葉を聞くと、ボストン市名家の出身というよりむ

いる秘書を呼ぶのに、「おい、坊や」とか「こら、若いの」と

かつ」のバカ息子」とか呼ん

しる海賊上りらしい。何人も

出して現場へかけつけた。法

Z66

だ。

一九二八年のことだ。首府ワシントンで一新聞記者が、オーバロールを着た職工にきいて

みたことがある。「君、オリバー・ウェンデル・ホームズというのはどんな人だと思うね?」

職工は一一タリと歯を見せた。「そりゃ最高裁のあの若い判事よ。年寄ども相手に年中反対

してらあね」

その話を聞いてホームズは腹を抱えて大笑いした。おかしいはずである。そのとき彼は八

十七歳。老人ぞろいの最高裁でも最年長だったのだ。

ホームズはいつもいっていた、「おれはいつまでも辞任しないぞ、神さまがやめろという

まではね」だが九十一歳になるとそろそろ弱りかけた。同僚二名に支えられて判事席を下り

るようになった。ある日、書記にいった、「明日はこないぞ……もう明日はこないぞ」果し

てその通り、法廷に出たのはその日が最後となった。

そのあと二年たってホームズは九十三回目の誕生日を迎えた。大統領に就任したばかりの

フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトが表敬訪問にきてみると、ホームズは書斎でプラト

ンを読んでいた。そこで大統領が質問した「ホームズ判事、なぜプラトンをお読みになるん

ですか?」

「修養のためさ」とホームズは答えた。

167オ リバ ー・ ウェ ンデ ル・ ホームズ

768

考えてもみたまえ!九十三歳の高齢だ!それが修養のためプラトンを読んでいた!

アメリカ広しといえども、ホームズ以上の人物は出なかったろう。アメリカの法律にホーム

ズ以上の影響をあたえた人物もなかったろう。君ににしろぼくにしる誰にしろ、今後何十年

にわたって彼の判例に左右されるわけだ。

最後にひとつ、ご参考に話しておくことがあるl

ホームズ判事は遺産の全額、約二十五万ドルをアメリカ政府に寄贈した。蔵書はすべて国

会図書館に寄付した。一生を捧げて奉仕したアメリカ国民に読ませるためである。

〔補注lホームズ判事は四十歳代で法の起源と性格に関する新しい観念を導入し、法学着として

国際的な名声を得た。言論の自由を擁護して闘ったのが特に有名。著書多数。○一胃『ごg侍屋

国。言のい(葛全I岳韻)〕

一九一六年の春のことだ。プリンストン大学で法律を教えているという男から電話があっ

て、ぼくに会いたいという。アラスカのことをスライド付きで講演するのに、準備やら何や

ら助手をつとめる人がほしい、という用件だ。翌日その男に面会すると、ぼくは即座にすっ

かり惚れこんだ。人好きのする性格、人まで引きずりこむ情熱、驚くばかりの精力、限りな

い大望lおよそ人生に成功する必要条件のこらず、全部そろえてもっている青年である.

財産だの名声だの、君はそんなものはいずれ手に入れる人物だ、とぼくは予言した。

ぼくの予言はよく外れるが、このときばかりは見事に的中した。結局この男はアメリカ名

物にのし上ったのである.どれだけ財産ができたかというとlさあ、それは個人の秘密だ

が、いつか雑誌『タイとの記事に、年収およそ二十万ドルか、と出たことがある。

金こそないが成功の条件ことごとく備えて、四百万人に講演を聴かせた冒険家

ローエル・》ンヤクソン・トマスFOぐくの三on房○コ二○ョ。い

Z69

その名はローエル・ジャクソン・トマス。奥さんや親しい仲間はトミーと呼んでいる。ト

ミーは一九三○年このかた毎週五日、合衆国の東半分にわたって、一度も休まずラジオでニ

ュースを放送してきた。スポンサー付きのラジオ番組でこれだけ続いたのは前例がない。そ

の上、一九三四年からはフォックス・ムービートーン・ニュース映画で、全国相手に毎週ニ

ュースを流してもいる。

前後十数年にわたる放送で、「ではさようなら、また明日」を何千回もやってきた。しゃ

べった言葉は無慮幾百万語になるだろう。もし本に書いたらまず百冊に近い。

ぼくが初めてローエル・トマスに会ったとき、彼はひと晩二ドルか三ドルでアラスカ旅行・

談を講演して廻っていた。プリンストン大学の先生をしながらのアルバイト、というわけだ。

その無名の時代から梯子のてつぺんまで登りつめるまで、ぼくはずっと目を離さずに見てき

たが、謙遜で、誠実で、気取りがなく、思いやりが深いこと、今も初めて会った時そのまま

である。その間、どんな面にせよローエル・トマスを批判する人間は聞いたことがない。広

い世間のことだ。ひとりくらいは敵もあるだろうが、誰が敵だかぼくは知らない。

ローエル・トマスの一生は深く両親の影響を受けている。父も母も教師、だが父親はやが

て医師に転向する。もう七十代になる現在もニュー・ジャージー州アズベリーで開業してい

る。最近、海軍の大がかりな計画に関係して内科と外科を担当した。

170

ローエル・ジャクソン・トマス

何頭も貸してくれた。おかげで珍しい風物や習慣を見てカメラに収めてきた。

これまで出した著作は四十巻あまり、そのタイトルを見ただけで血が湧き肉が躍る。たと

えば、百1レンスと共にアラビアを行く」、『カイバル峠を越えて』、「冒険オン・パレード』、

「殺しても死なぬ人びと』、等々。

彼は子供の頃からただ旅行だけでなく、旅行の講演をするのが望みだった。それには教育

がなくてはだめだと知っていた。そこで盛大に教育をうけた。インディアナ州のバルパライ

ソ大学デンバー大学シカゴ市のケント法科大学、プリンストン大学l合計四大学を卒

業している。

トミーは子供の頃から旅行記や冒険談に血を湧かした。マルコ・ポーロやマジェランや有

パイオニア

名な開拓者ダニエル・ブーンなどの伝記だの、『ロビンソン・クルーソー』などに読みふけ

入国して写真を撮ってきたのは、アメリカ人では彼が最初である。インド政庁、ビルマ政府、

マレー連邦州Iみな特別列車と河川用舟艇を提供して、どうかお使いくださいとゾウまで

った。自分もいつかは地の果まで踏破して冒険談を本にまとめよう、と決意した。その夢を

そっくり実現した点、ローエル・トマスほど成功した人物はあまりないだろう。

彼は幾年となくヨーロッパ。アジア・アラスカ・オーストラリアの各地を旅して廻った。

イギリス皇太子に従ってインドも廻ったし、未知の国アフガニスタンへちゃんと招待されて

171

だがもともとは四大学はおろか一大学を出る金もなかった。そこで夏休みにはコロラド州

リザベーション

のユート・インディアン指定保留地でウシ飼いをしたりウマゴヤシを刈ったりした。コロラ

ド州クリプル・クリークで金鉱夫をしたこともある。のちにはデンバーやシカゴで新聞社の

見習記者もやった。

冬になると食費と部屋代と差引きで、レストランの暖房係もやればボーイもつとめ、イン

スタント料理のコックまでやった。教わっている教授のところへウシの世話や乳しぼりに行

ったこともある。不動産の販売もやった。少しは教員もしたし、かたわら講演にも出た。

やがて一九一五年、第一次世界大戦でヨーロッパへ行く旅行客の足がパッタリ止まった。

ローエルトマスはそれで思いつくl今こそアメリカ各地の風物を写真付きで講演するの

に絶好の機会だ。これは名案にちがいないが旅費やらホテル代やら写真代やら、いろいろ経

費がかかる。そんな金はもちろんないが人を巻き込む情熱があり、アメリカ随一のセールス

マン的手腕がある。そこで鉄道会社や汽船会社に話をもちこんで、西部各地から遠くぼくも

アラスカまで経費一切会社もちでデラックス旅行をやらせてくれ、と説きつけた。ぼくもア

ラスカ旅行の講演だけは聴いたことがあるが、話は元気いっぱいだしスピードもあるし、そ

れに写真がとびきりよかった。

ウィルソン内閣の内務長官フランクリン.L・レーンがその講演を聴いて即座に惚れこん

1浬

だ。一九一七年、いよいよアメリカが参戦に踏み切ってドイツに宣戦を布告すると、レーン

はウィルソン大統領を説きつけたIどうです、ひとつロ‐エルトマスを海外へ派遣して

戦線の写真を撮らせませんか?それを持ち帰って写真付きの講演をして廻れぱ、全国民の

戦意向上うたがいなしですぞ。

結局、その任務を引きうけたが、たったひとつ、しかも重大な支障があった。俸給もなけ

れば経費も出ないのだ。

ローエル・トマスはシカゴ市十八名の富豪を説得して計十万ドルの資金を借りた。これで

海外各地を廻って第一次大戦の前線各地の写真を撮るわけである。そして十八カ月後にアメ

リヵヘ戻った。天然色写真やら映画やら、フランス、ベルギー、イタリア、バルカン諸国ば

かりか、アレンビー将軍のパレスチナにおける戦線の現場まで写してきた。これはトルコ軍

をエルサレム、ジェリコ、ベツレヘム、ナザレから一掃して戦争から手を引かせた大戦役で

ある。その上、さらに驚いたことに、有名な「アラビアのローレンス」の活躍ぶりまでをア

メリカへ伝えた。「アラビアのローレンス」といえばあの無口で内気な青年考古学者だ。そ

シーク

れがアラビア砂漠の酋長どもを動かしてゲリラ戦を展開し、トルコの鉄道を爆破して交通網

を寸断した。第一次大戦の生んだ最も多彩なロマンチックな英雄である。

ローエル・トマスの写真入りの講演はニューヨーク市第一の劇場で数カ月もつづいた。そ

rだローエル・ジャクソン・トマス

の後、ロンドンへ招かれて、アメリカ人の目で見たイギリス軍が近東各地でいかに壮烈に戦

っているかを講演した。

その頃、ぼくは光栄にもローエル・トマスと仕事の上で接触があった。だから彼の講演に

集まるロンドン市民の大群衆が入場券売場に何時間も列を作っている現場も見ている。毎晩

毎晩、今月も来月もその有様だ。講演会場はコベント・ガーデン・オペラ・ハウス。幾日や

っても聴衆があとを絶たない。そこでグランド・オペラの開演を一カ月先に延ばして講演会

をつづけた。そのあと会場をロイヤル・アルバート・ホールへ移して、毎日一万五千から二

万五千の聴衆を集めた。イギリス国民は彼の講演で初めて、「アラビアのローレンス」の活

躍ぶりを知ったのである。

前後十年間、ローエル・トマスは世界各地を廻って講演した。直接その講演を聴いた人数

は延べ四百万人余り、地球上のあらゆる英語国で講演会を実に四千回以上開いている。

やがて一九三○年、ローエル・トマスは生涯第一の好機をつかむ。リーダーズ・ダイジェ

スト社がスポンサーのラジオ・ニュースを毎日担当することになったのだ。これがきっかけ

で社会にメキメキ頭角を現わすことになる。毎週十回もニュースを放送した上、毎週一一晩は

夜おそくまで頑張ってフォックス・ムービートーン・ニューズ映画に出た。その上、無数の

ファン・レターに返事も出せば、年に一、二冊は著書を出版している。

1脚

ナイト・クラブのパーティだの社交だの、そんなものにはまるきり興味がない。趣味は乗

馬とフットボールとスキーだが、中でもスキーは好きを通りこして病みつきに近い。冬にな

ると一週間のスキーにはるばる五千マイルも出かけることさえある。

ローエル・トマスの奥さんはもとフランセス・ライアンといった。デンバー大学在学中に

知り合った美人である。息子がひとりあってローエル・トマス・ジューニアという。もう一

人前の旅行家・探検家だが、スキーの腕はもはや父親以上である。

ローエル・トマスに一度こんなことがあった。マイクに向って放送中、ふと気がつくとニ

ュース原稿が五ページ足りない。放送時間が五分間残ることになって、臨時に音楽を流して

その五分間をどうにか埋めた。とんだ失敗だが、その原因は秘書のうっかりだった。ところ

がローエル・トマスは秘書を叱らない。秘書が頭を下げて詫びを並べ出すと、君は平均打率

が優秀なんだ、それでいいじゃないか、文句はいわないよ、といったものだ。彼は絶対に大

どうしてそんな大仕事ができるかといえば、まず優秀なスタッフをそろえた上に、自分自

身は時間を一分間もむだにしない。一度、彼がロンドンからオーストラリアへ出発するとき

船まで見送ったことがある。彼は波止場へ飛ばす車の中でも口述して筆記させたばかりか、

岸壁の上でもフェンス越しに手紙を口述した。あと二分で舷梯が上るときまでつづけたもの

だ。

175ローエル・ジャクソン・トマス

きい声をだしたり病痛を起したりしない。人間関係の腕にかけてはまさに達人である。

もう十年あまり前のことだが、彼がある日ボストンで連続講演に出ているとき、一度終っ

て演壇に下りたところへ、債権者が数名、腹を立てて乗りこんできた。ちょうど彼が行き詰

ってとても直ぐには払えないほど借金をしよっていた時だ。何しろ二十歳代で何百万ドルか

せぎはしたが、不運つづきで大損をしたこともある。そのどん底だったのだ。債権者や弁護

士どもは、カメラでもフィルムでも映写機でも分捕って行こうという勢いだ。ところが彼は

大事なお客でも迎えるように丁重に楽屋へ通してお茶を出した。ごもつともです、と話を聞

いた.きてそれから誠意をこめて丁寧に事情を話したlこの講演をつづけるほかに早く返

済する方法はございません。カンカンにいきり立って押しかけた債権者ども、帰って行くと

きはローエル・トマスの友達気分になっていた。

この話の本当の急所は実はそのあとだ。ローエル・トマスはやがて一セント残らずちゃん

と返済を果した。トミーはそんな人物なのである。

〔補注l生れは一八九二年.おびただしい著作があるが、日本では「艦長ルックネル」(一九二

七)の翻訳が特に有名。自叙伝「皆さん今晩は」(一九七六)もある。「これがシネラマだ」以下、

数篇のいわゆる「シネラマ」は日本でも評判になったが、その製作者だったことは存外知られてい

ない。得。:一一]四号。口且5§蝿(畠褐l)〕

Z妬

最もアメリカ的な笑いを配達しに赤道を三回廻ったイギリス人

属ボブ・ホープ、g工。bの

八万マイルを飛んで行って人を笑わせた男‐llそんな人物はボブ・ホープのほかにない。

八万マイルといえば赤道を三べん廻るより遠いが、出征中のアメリカ軍将兵を笑わせるため、

それだけの距離を飛行したのである。

アルジェリアでは敵の爆撃をくった。イタリアでは爆撃下の空港と弾薬集積所の問で立往

生した。トラックで揺られタンクで揺られジープで揺られて前線の将兵を慰問して廻り、ノ

スタルジアに悩んでいるアメリカ軍将兵に、彼一流のジョークを機関銃のように浴せた。

一度イギリスでこんなことがあった。兵士六百名が十マイルの荒野をテクテク歩いてボ

ブ・ホープの開演初日を見物にきたが、どうにも歩き切れなくガッカリして途中から戻った。

それを聞くと最後の拍手の静まるのも待たず、団員一同ジープに乗せてあとから追いかけ、

r77

六百名の兵士のため、降りしきる荒野の真中で演し物そつくhソ上演した。

およそアメリカの舞台人でボブ・ホープのレコードに迫る者はいない。芸能人の中で、

ユーモアを戦争必需品として前線へ急送してきたのは彼が最初である。ヨーロッパ各地の戦

線だけではない.国内の各演習地のこらずl遠くアラスカまで巡回して廻った.

アラスカ方面の司令官はサイモン.B・バックナー中将だった。ある日そのバックナー中

将のところへ妙な電報が舞いこんだ。「ウタトダンストハナシ。タキシードデュク。ジ

ョーエンスルカ」との電文だ。発信人の名はボブ・ホープ。

「イエス」と返事がくると、ボブ・ホープの一行はアラスカ各地の兵舎と前哨部隊を飛び廻

って、ニューヨークのパレス劇場へトップ・スターで出たときと同じく、天井も抜けるほど

熱演した。その上、アリューシャン列島もくまなく廻って、賜暇も取れない将兵のため、ト

タン張りの掘立小屋へ笑いの旋風を巻き起こした。

ボブ・ホープはもっともアメリカ的なコメディアンで通っているが、実はもともとイギリ

スの生れだ。両親と共にアメリカへ渡りクリーブランドへ移ってきたのが、まだ奥歯が一本

生えただけの頃である。七歳の時にはもう舞台へ出るつもりでいた。

土地の教会堂でイチゴ祭りか何かあって、そのころまでレズリーと名乗っていた彼は舞台

へ立って詩を吟調した。たちまち発音はまちがえるし文句はしどろもどろ、見物は腹を抱え

Z78

ボブ・ホープr79

て大笑いだ。たいがいの子供なら真赤になって逃げ出すところだが、ボブはニッコリ笑うと

トンボ返りをして上雪コリとおじぎしたlその瞬間人を笑わせるぼど楽しいことはこの

世にない、と発見したのである。

十二年たってもまだそのときのことが忘れられず、仕事しながら舞台の誘惑にムズムズし

デイクタフオーン

ていた。どうやら自動車倉庫の夜勤をしていたらしいが、支配人の事務所に口述蓄立臼器があ

カルテット

るのを見つけると矢も楯もたまらず、仲間をあつめて四重唱団を組み、毎晩毎晩デイクタフ

ォーンヘ「いとしのアデリーン」を吹きこんでばかりいた。たのしきかな人生、というわけ

だ。ある朝、支配人がデイクタフォーンをかける。とたんに「今夜の町は、底ぬけ騒ぎ」と

歌が流れ出す。その文句の通り、果して大騒ぎになった。首になったからである。

つくづくと考えた果て、こうなったら破れかぶれと芸人になる。ふたり一組で歌ったり踊

ったりする役である。それから二、三年、しがない暮しに煮豆とドーナツばかり食っていた。

だから煮豆とドーナツを思い出すと、今も胃ぶくろがスコットランド・ダンスを踊り出す。

やがて運命の別れ路へきた。実はまぐれ当りなのだ。出演していた小さな芝居小屋の支配

人が、舞台へ出て来週の演し物の口上をいってくれ、という。ボブは見物の前へ出ていった。

「実はね、支配人に頼まれたんだがね。来週はね、すごくすてきな芝居を出すそうだな。題

は何でも……」ところが見物は終りまでいわせない。笑い出して口笛を吹く、床を踏みなら

す。十分間というものボブのおかしなおしゃべりに見物は腹を抱えて笑いこけた。舞台を下

りると支配人がいった、「ボブ、きさま歌ったり踊ったりはもう止めろ。そんなの暇つぶし

モノローグ

だぞ。独り芝居に切り替えるんだな」

なるほど、とボブは芸を切り替えて、独自のモノローグを開拓した。それからずっと登り

坂、というわけである。

現在、彼は年収四十万ドル、しかもハリウッドの噂では財産の管理に妙を得ているらしい。

二、三年前のことだ。ハリウッドの一投資コンサルタントが、ボブが預金者ナンバー・ワン

になっている銀行の社長に頼みこんだことがある。『社長、ぼくをボブ・ホープに推薦して

くれませんか。ぼくに任せればうんと財産をふやしてやりますよ」

「へえ、そうかね?」と社長が返事した。「この三年間、じっとボブ・ホープに目をつけて

きたがね、むしろ君の財産をボブ・ホープに任せたほうがうまくいくぞ!」

鼻はスキーの先みたいに反り返っているが、ボブ・ホープはこの通り抜目のない男だ。だ

がたった一度、チャンスを取り逃がしたことがある。一九三○年のことだ。ラジオに出ない

かと声がかかった。「せっかくだがご免だね」と彼はせせら笑った、「ぼくはむだはしちゃい

られないんだ。ラジオなんぞに出たって、とても一塁へは出られないからな」

五年たってラジオが大したものになると、またもや機会が舞いこんだ。今度はどうでもラ

1』

180

181

ジォで活躍したい。そこでひと晩寝ずに台本を練り上げて準備した。放送局へ行ってみると、

誰もいない場所でしゃべる仕掛と判明した.見物席がらあきlこれほど場おくれを取るも

のはない、とボブ・ホープはいっている。

ふと気がつくと、隣室で腹話術のチャーリー・マッカーシーとエドガー・バーゲンが放送

の最中だ。ギッシリ満員の有様である。そこで案内人にいくらか握らせて、バーゲンのスタ

ジオから自分のスタジオへ、ビロードのロープを張って通路をこしらえた。やがて大勢ぞろ

ぞろ出てくる。そこでどなった、「さあ皆さん、こちらです。こちらです!お出口はこち

らですよ!」一同まんまとだまされてボブ・ホープのスタジオへ入ってきた。これが最初の

ラジオ放送だ。誘拐してきた見物相手にやってのけたわけである。

実生活におけるボブ・ホープは精力絶倫、ほんとにじっとしていない。一度にいろいろな

ことをやるから、「大急ぎを絵にかいたようだ」といわれたこともある。事実、電話のコー

ドは特別に長くさせて六、七ヤードはあるから、室内あちこち歩きながら話ができる。一カ

所にじっとしていることはほとんどない。本に読みふけることも少ない。しかし漫画を読む

のは大好きだ。

当意即妙のギャグをあざやかに飛ばすが、実はあれが汗水垂らして大骨折って考えたもの

なのだ。ジョークのコレクションが山ほどあって、何よりも大切にしている。寝室の隣りに

ボブ・ホープ

Z82

厳重にかんぬきを下した部屋がある。その中へしまいこんで鍵は誰にもわたさない。その上

さらに、ギャグの作家を六人使っている。それが年がら年中頭を絞って、警句でも軽口でも

ことごとく、まるでティファニー商会のダイヤモンドのように懇切丁寧に磨きあげる。

ボブ・ホープがジョークを飛ばすと一億三千万人が腹を抱えて笑うというが、実はさっぱ

り笑わない人物がひとりある。それはボブ・ホープの奥きんドロレスだ。「わたしも映画で

見ればおかしいしラジオで聞けば笑います。でも、うちでやられるとクスリとも笑えません

の」とドロレスはいう、「わたし、どうかしてるんでしょうか。うちではまるでピンとこな

いんですよ」

名優にはとかく多いものだが、ボブ・ホープも迷信家だ。いつぞやパラマウント社が別に

楽屋を新築しましょう、といいだした。ところが、この楽屋を使って最初の映画に出たんだ

から、と前からの楽屋の取りこわしを許さない。狭くて窮屈でまるで戸棚みたいな場所なの

だ。結局、そのイヌ小屋みたいな楽屋を真中に、凝った部屋をいくつも増築した。だから昔

ながらの鏡を使って仕度ができる。別に縁起をわるくする心配はない。

ボブ・ホープは、いずれそのうちオスカー賞をとってやるぞ、と覗っている。アカデミー

賞ともいう例のブロンズ像である。だがオスカー賞をとろうがとるまいが、ボブ・ホープは

前線にあるアメリカ軍将兵の心に第一位を占め、銃後を守るアメリカの全家庭に無限の楽し

183 ボブ・ホープ

みを提供している.「ぼくは真面目に考えることが人生にひとつしか旗い。それはねl笑

いだ」という彼だが、これだけやれたら大出来というものだろう。

〔補注本名はレズリー・タウンズ・ホープ。初めて主役で舞台に出たのは一九三二年。ラジオ

には一九三五年から、映画には三八年から出た。日本では映画「腰抜け二挺拳銃』などで特に有名

である。国。ず函oR(SE‐J〕

高給をくれる会社をやめて会社と闘った聖戦の騎士Iそのキッヵヶは五歳の時だ

かれこれ七十五年前のことだ。ある小学校の女教師が小さな男子生徒の横面を張りとばし

た。授業中そわそわもじもじして、さっぱり落着きがない。そこでほかの生徒の目の前でこ

つぴどく張りとばして、さんざん叱りつけた。子供はワーワー泣きながらわが家へ戻った。

まだわずか五歳である。だが、子供どころにもこれはひどい、残酷だ、と身にしみて思った。

それが最初のきっかけである。その子供は不正と残酷を憎むことを身をもって覚えた。結局、

不正と残酷を向うに廻して終生闘いつづけることになる。

その子供の名はクラレンス・ダロウという。今では恐らくアメリカ第一の有名な弁護士だ。

特に刑事問題については当代随一と定評がある。クラレンス・ダロウの名はアメリカ全土の

新聞に幾度となく大きな見出しとなった。彼は反逆児であり、闘争家であり、聖戦の騎士で

“‐クラレンス。ダロウQQ-⑯.8口。。。冬

クラレ ン ス ・ ダ ロ ウ

あり、弱者の味方である。

クラレンス・ダロウが最初に手がけた事件は、オハイオ州アシユタビューラでは今でも古

老の話の種だ。価格わずか五ドルの、しかも古手の馬具一式llそれが裁判の焦点だった。

しろもの

何だ、そんな代物か、と思えるだろうが、クラレンス・ダロウにとっては根本的な主義の問

題だった。不正が高く頭をもたげていどみかかる。彼は敢然とそれに立ち向って、ベンガル

のトラと戦うごとく勇敢に闘った。事件を引き受けるとき受け取った報酬はわずか五ドルき

り、しかし彼は闘った。自腹を切ってあくまで闘った。前後七年間にわたり裁判を重ねるこ

と七回11とうとう勝訴にもちこんだ。

ダロゥはいっているl「自分は名誉や金銭が欲しくて頑張ったことは一度もない、おれ

はどうも物臭なたちでね」もとは田舎の小学校教師だったが、ある日、ちよいとした事件が

あって生涯の進路を変えることになった。町には鍛冶屋がひとりいて、仕事の合間に、法律

を勉強していた。ある日、ブリキ屋の店でその鍛冶屋が何か訴訟事件をほかの者と議論して

いた。無学な田舎者ばかりだがなかなか鋭く、雄弁だ。聞いているうちダロウはすっかり感

心した。もともとこうした議論は好きなたちだったから、その鍛冶屋から法律の本を借りて

勉強しはじめた。小学校の先生だから月曜の朝になるとその本をもって登校する。生徒には地

理や算術の勉強をあてがって、自分はブラックストーン著『イギリス法注釈」に目を通した。

785

「もしあの一件にぶつかって腰を上げなかったら、一生田舎弁護士で終ったかもしれない

な」と当人もいっているが、その一件はこうである。

オハイオ州アシユタビューラに小さな家屋が一軒あった。若い弁護士ダロウ夫妻は持主の

歯科医からその家を買い取ることにした。値段は三千五百ドル。五百ドルは銀行から借りた

(あとにも先にもそれしかない)。残金三千ドルは年賦で支払うという条件で相談がまとま

りかけると、歯科医の奥さんが出てきて、ズバリ、この契約に署名はできません、といいだ

した。

「だってそうでしょう」と見下げた顔でいう、「三千五百ドルは大金ですよ。一生かけても

あなたにそれだけ稼げるもんですか」

クラレンス・ダロウはカツとしていきり立った。よし、もうこんな町に住んでやるもんか。

そこで憤然としてアシユタビューラを後にシカゴへ移った。

シカゴで弁護士をした最初の一年間収入はわずか三百ドル-部屋代にも足りない.し

かし翌年はその十倍、三千ドルになった。シカゴ市の顧問弁護士になったのだ。

彼はいっているl「ぼくはね、いったん運が向いてくると何もかも向うからどんどんこ

ろがりこむ」。やがてシカゴ.アンド・ノースウェスタン鉄道の最高法律顧問となる。いよ

いよ巨富にいたる軌道に乗ったわけだ。そこへ歴史に有名な一八九四年の鉄道大ストライキ

186

187 クラレンス・ダロウ

が勃発した。賃金カットに端を発したストライキが全アメリカ鉄道員組合のボイコットに発

展し、ついに組合委員長ユージン.V・デブズの収監となった。暴動がつづく。流血の惨事

が展開される。まさにアメリカ労働運動史上最大の事件である。

ダロウは最初から労働者側に同情していたが、ついに組合委員長デブズが裁判にかかるこ

とになると、職をなげうって労働者側の弁護に立ち上った。これを彼一流の激烈な法廷活動

の最初として、彼はつぎつぎと幾多の華々しい闘争に乗り出して行く。たとえば例のレオポ

ルドとレイプの殺人事件がある。この両人は少年ポビー・フランクス殺しの下手人ですでに

自白までしていた。だからこの残虐な殺人犯二名の弁護にダロウが乗り出すと知って世間は

呆れ返った。たちまち非難の声が高まり迫害の手は伸びた。残虐きわまる殺人犯を弁護する

とは何事だ!そんな奴は犯人以上の悪人だぞ!

なぜダロウはこの件に乗り出したか。彼自身の言葉を聞こう11「ぼくは憎悪と悪意の大

波を鎮めようと全力をあげたんだ。何しろ新聞に死刑執行の記事が出ると、じっと読んでは

いられないんだ。絞首刑のある日はいつも何とか都合して町を離れたものだ。ぼくは死刑に

は絶対に反対する。ぼくが弁護した被告で死刑になったのはひとりもないが、もし万一あっ

たらならぼくはとても生きていられまい」

犯罪者を生むのは社会そのものである。人間、誰にしるいつどんな罪を犯すかわからない

んだIこれが彼の信念である.

ダロウ自身も法廷で裁判される立場を経験している。あるとき、陪審員を買収した嫌疑で

告発され、雄弁をふるって自分の立場を弁護したことがある。その裁判のとき、こんなこと

があった。前に弁護してやったことのある男にひょっこり会ったところ、その男からこうい

われたのであるl「いつか私が裁判で危うく絞首台行きになるときに、先生に助けてもら

いましたな。今度は先生がお困りだ。ひとつ私がひと肌ぬぎますよ。向う側の証人なんぞ、

いつでも片付けてあげまさあ、もちろん一セントも頂きやしません」

人から感謝きれたことは度々あるが、こんな身にしみる挨拶は初めてだったlとダロゥ

はいっている。

二、三年前、クラレンス・ダロウは自叙伝を出した。その本の中に彼の人生哲学を説いた

章がある.覚えているがぼくはその章に読みふけって深更に及んだ.こう書いてあるI。

「ぼくの為しとげたことが果して大きかったか小さかったか、それは自分にはわからない。

ぼくはこれまで失敗したこともあるし、けちな運命の手からもぎ取るように少しは楽しい思

いもしてきた。自分の進路と行きつく果と、それから目を離しさえしなければ、人間、その

日その日やりとげたことで満足するべきだろう。ぼくはもう老人だが、どうにも老人になっ

た実感がわかない。ぼくがこの人生に旅立ったとき、前途には無限の世界がひろがり、歩い

188

クラレンス・ダロウ

て行く時間も無限だと思った。今にして思うと、まるで長い長い一日のようだ。その長い一

日はどこへ行ってしまったんだろう?いまや旅路は終りに近づき、もう日も暮れかけた。

むかし、この旅路のスタートに立って望み見た行路は果てしなく遠かったのに、今ふり返っ

てみるとぼくの踏んできた道は何と短いのだろう」

〔補注lクラレンス・ダロゥはオハイオ州の生れ.鉄道大ストライキのとき、高給取りの職を捨

てて弱者の味方として立つ。死刑廃止論者として活耀し、殺人犯を死刑から救ったこと百名以上に

及ぶ。有名なテネシー州のマンキー裁判(州法を無視して進化論を教えた教師スコープスの裁判)

で敗れはしたが、彼の主張は聖書を文字通り信じる正統派に大打撃をあたえた。Q月go①ロ肖○君

(葛司1s器)〕

r89

目も耳も口も不自由な身で、ナポレオンに比された十五歳の少女

名作『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いたマーク・トウェーンがいったことがある

l「十九世紀で最も興味ある人物はナポレオンとヘレン・ケラ‐だ」マーク・トゥェーン

がこういった当時、ヘレン・ケラーはまだ十五歳の少女だった。今では二十世紀で最も興味

ある人物のひとりになっている。

ヘレン・ケラーは全盲である。そのくせ、彼女は大概の目の見える人より遥かに本を読ん

でいる。おそらく一般人の百倍は本を読んでいるだろう。その上、著書も七冊まである。そ

の生涯が映画化された時は出演までした。耳も全く聴こえないが、ちゃんと耳の聴こえる大

概の人より遥かによく音楽を鑑賞できる。

九年間というもの、彼女はまるきり物がいえなかった。それが今では全アメリカ各州で誰

09‐ヘレン・ケラーェの一の.六の二の『

791 ヘレン・ケラ

演している。四年間にわたってボードビルにスターとして出演もしたし、全ヨーロッパを巡

って旅行もしている。

生れたときは正常な赤ん坊だった。生れてから一年半は普通に目も見えるし耳も聴こえ、

そろそろ物もいいだしかけていた。そこへ突然、とんでもない災難におそわれる。病気のた

め生後十九ヵ月で目も見えず耳も聴こえず物もいえなくなった。不幸のどん底に落ちたわけ

である。

そのまま成長してまるでジャングルの野獣のようになった。気に入らないことがあると何

でもたたきこわす。食べる物は両手でつかんで口に詰めこむ。それを直そうとすると、床に

大の字になって暴れまわり、出ない声でどなり立てようとした。

両親は絶望してヘレンをボストン市のパーキンズ盲人学校へやり、特に別に教師をひとり

世話してくれと依頼した。そうした悲劇の中へ光明の天使のように出現したのが、アン・マ

ンスフィールド・サリバンだった。サリバン先生はパーキンズ盲人学校をやめて、ヘレン・

ケラーの教育を引き受けることになる。時にサリバン先生はまだ二十歳、それが見えず聴こ

えず物もいえない少女の教育という、まず不可能な大仕事を引き受けたのだ。サリバン先生

自身も、涙なしには語れない貧困のどん底で育ってきた人である。

アン・サリバンは十歳の時、弟とふたり、マサチューセッツ州テュークスペリーの救貧院

へ収容されている。部屋が足りないので幼い姉と弟は俗に「死人部屋」といわれるところへ

入れられた。埋葬するまで死体を安置する部屋である。弟は病弱で六ヵ月後に亡くなった。

その上、アン自身もまだ十四歳、ほとんど失明寸前で、パーキンズ盲人病院へ廻されて点字

を習うことになる。幸いに失明はしなかった。その当時は、である。しかし、よくなりかけ

た視力も、半世紀のち死ぬ直前に失われた。

サリバン先生がヘレン・ケラーに対してどんな奇蹟を果したか、暗黒と沈黙の世界に住む

ヘレンとわずか一カ月の間にどうして意志が通じ合うようになったかlこれはとても簡単

には語れない。その事情はヘレン・ケラーの著書『わが生涯の記』に忘れ難い文章で書かれ

ている。見えず聴こえず物もいえぬ少女が、言語というものの存在を初めて悟った日の喜び

lその感動的な情景はこの本を読んだ者はきっと忘れまい。「言葉というものがあるのを

初めて悟った日の晩、ベッドの中でわたしは嬉しくて嬉しくて、このときはじめて早く明日

になればいいと思いました。わたくしのその時ほどの喜びを経験した子供はほかにないでし

ょう」とヘレン・・ケラーは書いている。

ヘレン・ケラーの教育はどんどん進んで、二十歳になるとラドクリフ大学へ入学した。サ

リバン先生もついて行ったのである。この頃はもう一般の学生並みに読み書きはもちろん、

物もいえるようになっていた。最初に教えられて口から出した言葉は、「わたくしはもう唖

192

ヘレン・ケラ

ではありません」だった。ヘレンはその奇蹟に興奮のあまり胸をわくわくさせて、「わたく

しはもう唖ではありません」と何べんとなく繰り返した。

今日へレン・ケラーはちゃんと物がいえる。わずか外国人めいたなまりがあるだけだ。点

字用のタイプライターを使って著作をしたり雑誌の原稿を書いたりする。修正したいところ

があると、ヘア・ピンを使って紙の余白に小さい孔をあけるのである。

ヘレンの住所はニューヨーク市のフォレスト・ヒルで、ぼくの住所からわずか数ブロック

しか離れていない。ぼくがボストン・ブル種の子イヌを連れて散歩に出ると、ときどき彼女

がシェパードを相手に庭を歩いているのを見かけることがある。

彼女が歩きながらよく独り言をいう癖に気がついた。ただし普通の人のように口を動かし

ていうのでは巻いI手の指を動かすのだ.つまり手話法で独り言をいうのだ.これは彼女

の秘書から聴いた話だが、ヘレン・ケラーはあまり方角の勘がないらしい。自宅にいてさえ

時たま迷子になるそうだ。家具の位置を変えたりすると途方に暮れる。目が見えないのだか

ら何か神秘的な第六感でもあるんだろう、という人が多いが、科学的にテストした結果、触

覚も味覚も喚覚もまず普通と判明した。

ただし触覚だけは極めて鋭敏で、相手のくちびるに軽く指先を当てるとそれでちゃんと相

手の言葉がわかるらしい。ピアノでもヴァイオリンでも、木製の部分に手をかけてちゃんと

Z93

音楽を鑑賞する。ラジオもキャビネットの振動でちゃんと聞き取るし、誰かが歌えばその咽

喉に軽く指先を当てて歌に聞きほれる。しかし彼女自身はメロディを歌うことはできない。

もし君が今日ヘレン・ケラーに面会して握手し、五年たってからまた面会して握手すれば、

その握手だけで彼女は君のことを思い出すだろうIlこれは腹を立てている人だったとか喜

んでいる人だったとか、陽気な人だったとか不平顔の人だったとか。

ヘレン・ケラーはボートを漕ぐのが好き、泳ぐのが好き、森の中をウマで飛ばすのが好き

だ。チェスでもチェッカーでも特製の品を使ってやる。文字を浮出しにした特製のトランプ

で独り占いまでする。雨の降る日は編物をしたりクローセ編みをしたりする。

目が見えなくなるlこれがまず人生最大の不幸だと思っている人が多いが、ヘレぞ

ケラーによると、目が見えないよりも耳の聴こえない方が辛いそうだ。彼女は全くの暗黒と

静寂によって社会から隔離されている。最も恋い焦れているのは友情ある人の声なのである。

〔補注l学校を卒業した後は必ずしも金銭的に不安の旗ぃ生活ではなかった.講演・著作その他

の活動により生活する一方、身体障害者の援護に献身した。第二次大戦の後、ヨーロッパ・アジ

ア・アフリカの各地を廻って講演し、身体障害者に対する社会の注意を喚起した功績は大きい。

函の-9臣営め【の}]胃(葛曽lご$)〕

194

極地の秘密を求めて神の秘密を発見した男

ロバート・スコット大尉詞呂の1の8ヰ

およそロバート・フォルコン・スコット大尉の生涯ほど壮絶悲痛な話はあるまい。それを

読めば誰でも胸が躍る。スコット大尉は史上第二番目に南極を踏んだ人物だ。彼が隊員二名

を率いて、南極に近いロス氷壁で悲惨な最期をとげた物語は、いつになっても深い感動をあ

たえる。

スコット大尉遭難のニュースがイギリスに伝わったのは、一九一三年二月の晴れた日の午

後で、リジェント公園にはクロッカスの花が咲いていた。彼の死を聞いてイギリス全土は思

わず息を飲んだ。実にネルソン提督がトラファルガー海戦で戦死して以来のことである。.

それから二十一年後、スコット大尉の名を永久に記念する記念碑が建設された。つまり、

世界最初の極地博物館である。開館式には全世界の極地探検家が集まった。館の正面にはう

Z95

96]

テン語が彫ってある.その文句はl「彼は極地の秘密を求めて神の秘密を発見した」

スコット大尉は死を賭して探検船テラクi(号llこれは薪しき大地」の意味だ’

で南極へ向ったが、南極圏へ入るや否や不運がつづいた。

船腹には絶えず山のような大波が打ちつける。積荷は甲板から押し流される。船底へは海

水が何十トンも侵入して、エンジンの火は消えるしポンプは故障して動かない。それでも荒

れ狂う海の波間をわけてテラ・ノーバ号は勇敢に前進をつづけた。

しかし、それはまだ災難の第一歩にすぎない。

彼はたくましいコウマを何頭も連れていだ。あらかじめシベリアの氷点下のツンドラで寒

気に耐える訓練はして行ったのだが、降りしきる粉雪でコウマが動けなくなる。思いがけな

いクレバスに落ちて脚を折る。結局、射殺するより仕方がなくなった。

イヌもそうだった。アラスカのユーコン地方からえりに選んだ頑丈なベテランだが、それ

が狂い出して向うみずに駆け廻り、氷河のへりから無鉄砲に飛びこんでしまう。

とうとう最後にスコット大尉と隊員四名は、コウマも連れずイヌも連れず、南極へ向って

突進した。しかも目方一千ポンドの装備を積んだソリを引いている。くる日もくる日もでこ

ぼこの氷原を進んだ。海抜九千フィートの稀薄な空気の中を、息をきらし、全力をしぼって

引いて行った。

だが誰ひとり愚痴をいう者はない。この人類初めての苦難の果には勝利があり南極がある

のだ。天地創造の日このかた人類の踏んだことのない神秘の極地lここには何ひとつ生物

は住まず動くものも全くないlカモメ一羽見え葱い極地があるのだ.

十四日目になって一行はようやく南極を踏んだ。だがそこに待っていたのは驚きと悲しみ

ばかりだった。見ると一本の棒を立てたその先に、ちぎれちぎれの布きれが一枚、肌も切る

寒風にひるがえっている。国旗だ!ノルウェーの国旗だ。ノルウェーの探検家アムンゼン

がひと足さきに極地を踏んでいたのである。幾年にわたって準備を重ね、幾カ月にわたる困

苦を乗りきり、今ようやく到達した南極は、わずか五週間の差でアムンゼンに先を越された

のだ。ス

コット大尉の一行はガッカリして帰途についた。

ふたたび文明の世界に戻るlその間の苦闘はまた文字通り死闘の連続だった。まともに

吹きつける寒風で目にも鼻にも氷が張り、ひげまでが凍りついた。ころびもするし倒れもす

る。その度ごとに一歩一歩死へ近づくわけだ。最初に下士官のエバンズが足をすべらせて倒

れ、頭蓋骨を割って死んだ。一行の中でもいちばん頑強な男だったが。

つぎにはオーッ大尉が病気になった。凍傷に足をやられて歩こうにも歩けない。自分が一

行の足を引っ張ってるわけだな、と彼は悟った。そこである晩、彼は人間ぱなれした行動を

r97ロバート・スコット大尉

してのけた。降りしきる大吹雪の中へひとり出て行ってしまったのだ。自分の命を捨てて仲

間の命を生かすlそれをやってのけたのである。

しかも芝居がかった大げきなことは何もしない.落着きはらってこういった’「ちよぃ

と外へ出るよ。すぐ戻ってくる」彼はそれきり戻らなかった。凍えた死体も見つからなかっ

た.だがその失除した地点にはいま記念碑が立っている.その碑文はこうだI剛勇の士

ひとり、このあたりに眠る」

そのあとスコット大尉と隊員二名はなおもおぼつかない足どりで道を急いだ。もう人間ら

しい格好ではない。鼻も指先も脚もカチカチに凍って、今にも危なく折れそうだ。遂に一九

一二年二月十九日、南極をあとにしてから五十日目に、一行は最後のテントを張った。一名

あたりお茶二杯入れるだけの燃料はあるし、食糧もあと二日分は残っている。しめた、助か

ったぞ、三人は思った。食糧や何かを埋めておいた場所まで、もうわずか十一マイルIあ

と、ひとふんばりで行き着けるぞ。

そこへ突然、悲劇が襲ってきた。

凍りついた大地の果から猛烈な吹雪が物凄い音を立てて吹きつけてきた。風は氷をつんざ

いて氷原にうねができるさわぎ、こんな烈風の中に生きていられる生物はない。スコット大

尉の一行は十一日間テントに閉じこめられた。しかも猛吹雪は絶えずたけり狂っている。や

Z98

がて食糧は尽きた。もう死を待つばかりである。

しかし、ただひとつだけ逃げ道があった。しかも、ごく簡単な方法である。アヘンだ。そ

れを多量に、こんな場合に備えて用意していたのだ。それをたっぷり吸えばよい気持で眠り

こんで、二度とふたたび目を覚まさずにすむ。

しかし三人ともアヘンをやろうとはしなかった。よし、まともに死に直面してやろう。イ

ギリス人特有のスポーツ精神とはまさにこれである。

スコット大尉は死ぬ直前、有名な作家ジェイムズ・バリー卿あてに手紙を書いて、いまは

の際の状況を記録に残した。食糧はもう尽きたp死は目前に迫る。だが、「どうかご安心く

ださい、このテントには元気な歌声がとどろいています」

八カ月あと、一面にきらめく氷原を南極の太陽がおだやかに照らしているとき、スコット

大尉の探検隊一行三名の凍死体が発見された。

死体はその場に葬られた。スキー二本を交叉して結びつけた急ごしらえの十字架の下に葬

られたのだ。そして三人の勇士の墓には、桂冠詩人テニスンの長詩「ユリシーズ」から引用

したこの美しい詩句が書かれたl

ひとしく豪胆なる彼らの心は

時と運命とにさいなまれつつも、

Z99ロバート・スコット大尉

あくまでも戦い、求め、見出さんと、

不屈の意志は最後まで強固なりき

〔補注lスコットはスコットランド系のイギリス人.幼い頃は虚弱だったが生涯を海軍士官とし

てすごし、一八九九年、イギリス学士院と王位地理学協会とが南極探検隊を組織するとき選ばれて

隊長となった。二回の探検航海で大きな成果を得たのち海軍に復帰したが、一九一○年、最後の探

検に出て悲劇的な最後をとげた。”・ず胃圏8pm8R(房昆l量い)〕

200

胸板を撃たれても、最後まで演説をやめなかった男

セオドア・ルーズヴェルトョのCQ。『晃。oいのく①一↓

一九一九年の一月、ぼくは死ぬまで忘れられない事件にあった。その頃ぼくは軍隊に入っ

て、ニューヨーク州ロング・アイランド島のキャムプ・アプトンに配置されていた。ある日

の午後、一隊の兵士が丘の上へ行進し、銃を大空に向けて一せい射撃をした。礼砲である。

ルーズヴェルトが死んだのだ、あのセオドァ・ルーズヴェルトが。彼はアメリカ歴代の大統

領の中でも、もっとも異彩を放った大統領だった。六十歳で死んだから比較的に若死だった

わけである。

愛称をテディといったが、テディ・ルーズヴェルトはほとんどあらゆる点で非凡な人物だ

った。たとえば、彼はひどい近眼である。眼鏡をかけても十フィート離れると親友の顔の見

わけがつかない。それでいて射撃の名人だ。アフリカでまつしぐらに襲ってくるライオンを

201

撃ち倒したこともある。

猛獣狩にかけては古今無双だが、釣りはいっさいやらず烏は一羽も撃たなかった。

子供の頃は病弱で蒼白く、瑞息でひどく苦しんだ。そこで保養のためアメリカ西部へ行っ

てカウボーイになり、夜は星空の下で寝たりした。その結果、物凄い体格になり、その頃有

名だった水泳の名選手マイク・ドノバンを相手にボクシングきえやってのけた。南アメリヵ

の荒野を探検したり、アルプス連峰のユングフラウとマッターホルンに登ったり、キューバ

戦争の時は一隊の指揮官として雨と降る砲火を物ともせず、サン・ホァン・ヒルに突撃を敢

行した。

ルーズヴエルトは自叙伝の中で自分は子供の頃気が弱くて臆病で、怪我するのが恐ろしく

てならなかった、と書いている。それでいて、手首を折ったり腕を折ったり、鼻をつぶした

り肋骨や肩をへし折ったりしても、どこまでも冒険をやめなかった。ダコタ州でカウボーイ

をしていた時は、ウマの背から投げ出されて骨を一本折りながら、すぐまた鞍に飛び乗って

ウシを狩り集めたものだ。

こわくてできないことに敢えて立ち向』?llぼくが勇気を鍛えた秘訣はこれだょ、と彼は

いっている。つまり、心の中では死ぬほどこわくても大胆な顔でぶつかって行くのだ。その

結果、吠え狂うライオンだろうが、火を吐く巨砲だろうが、何ものも恐れない胆力がついた

202

のである。

相手の強打をまともに左眼に受けて血管が破れ、結局その目はあとで視力を失うことになる。

しかしルーズヴェルトはその真相を相手に知らせなかった。しばらくして、その士官大尉が、

どうです、また一試合やりましようか、といってきた時、ぼくももう歳だからボクシングは

無理だね、と断った。何年もあと、彼の左眼は完全に失明したが、それでもあの時の怪我が

もとだとは全く相手に知らせなかった。

ロング・アイランド島オイスター・ベイの自邸にいる時は、炉に焚く薪を自分で割ったり、

作男の仲間に入って乾草の刈入れもした。そして、おれにも作男並みの手間賃を払え、と人

夫頭に要求したものである。

煙草はいっさいのまず乱暴な言葉はけっして口にしない。酒のたぐいは稀に就寝前、ブラ

大統領在任中はちゃんと装填した連発ピストルを

ときも必ず小型のピストルを放さなかった。

これも大統領在任中のことだが、ある時、ある若

途中で頭の狂った男に狙撃されたが、弾を受けたそぶりは全く見せずに登壇して演説をはじ

め、出血多量で危なく倒れるまで演説をやめず、とうとう病院に急送された。

203セオドア・ルーズヴェルト

一九一二年、大統領選挙で進歩党の運動をしているとき、ルーズヴェルトは演説会へ向う

ある若い陸軍士官を相手にボク

いつも枕もとに置いて寝た。散歩に出る

シングをやった。

音楽も好きだったが、

“ンデーをスプーンに一杯、ミルク・シェイクに入れたのを飲むだけである。それも、身の廻

りの世話をするボーイに教えられて、そうだったかと初めて気がついたのだ。それでいて大

酒呑みだと度々噂が飛び、とうとう最後に噂をまいた当人を名誉設損で法廷に訴えた。

大統領在任中は極めて多忙な毎日なのに、幾百幾千となく本を読んだ。昼すぎは一人あた

絶えず「主よ、みもとに近づかん」を口の中で歌っていた。

彼は趣味の広い人物だった。ある時、ワシントン市のある有名な新聞記者に電話をかけて、

時は、よく讃美歌の「主よ、みも

町の往来をウマで通ると、住民が

州でカウボーイをしていた時、焚火明りで貢ムレット』全篇を仲間に読んで聞かせたこと

り五分間と限つぞ

も手もとに本を一

読むのである。

読んでいた。

がある。ブラジルのジャングルの中を旅行した時は、ギボンの『ローマ帝国興亡史」を毎晩

旅行に出るときはいつも小型のシェイクスピアかバーンズ詩集を携帯した。一度、ダコタ

て面会する面会人でスケジュールがギッシリ詰っている。そうした中でいつ

冊は必ず置いておく。

ちやんし」メと

に近づかん」を歌おうとしたものだ。一度、ある西部の

駆け出して歓声を上げる。それに答えて帽子を取りながら、

ロディを歌うことはできなかった。ひとりで仕事をする

来客が入れ替る問の僅かな時間もすかさず利用して

大急ぎでホワイト・ハウスへこい、と呼びつけたことがある。大統領から呼ばれたので新聞

記者は興奮した。こりや何か政治問題で特別おれひとりにインタビューしてくれるわけか。

そこですぐ社へ電信を打ったl重大ニュースが入るぞ.すぐ号外を出せるように準備して

おけ。と

ころがホワイト・ハウスへ行くと、大統領は政治の話はひと言もしない。こっちへきた

まえ、と新聞記者を庭へ連れ出し、大木のうろにあるフクロウの巣を見せた。このヒナドリ、

ぼくが見つけたんだ、というわけである。

ある時、西部の大平原を行く大統領特別列車で、政府の高官数名と話をしていた。ふと線

路わきのトウモロコシの畑に百姓がひとり、帽子を取って立っているのが見えた。おれに敬

意を表して脱帽しているな、と見てとるとルーズヴェルトはバツと立ち上って最後尾の車輪

の後部デッキへ駆けつけて、猛烈な勢いで帽子を振った。人気取りが目的ではない。心の底

から民衆を愛するからなのだ。

亡くなる年になると健康が急に衰え出した。まだ六十歳だったのに、ぼくもふけこんだな、

と度々いったことがある.やはり年をとった旧友にあててこんな手紙を書いたl吾もぼ

くも今や射撃壕のすぐそばにいるわけだ。いつ何時ズドンとやられて暗いところへごろげこ

むかしれないぞ」

205セオドア・ルーズヴェルト

一九一九年一月四日、ルーズヴェルトは眠っている間に安らかな死を迎えた。「どうか明

りを消してくれ」lこれが儀後の言葉であった.

〔補注lニューヨークに十七世紀中葉から住んだオランダ系の旧家に生れた。蒙系にはイングラ

ンド、ウエールズ、スコットランド、アイルランド、フランス、ドイツ、オランダの血が流れてい

る典型的な合衆国人であった。歴代の大統領の中で一般アメリカ人が偉人と感じる人物といえば、

まず彼であるとの説もある。個人としても最も高潔な人物であった。里81o『①弱○○恩ぐ骨

(葛禽lこら)〕

206

自分でも問題にしなかった劇が「ハムレット」以来の大傑作になった話

サマセット・モーム、。ョの厨のミQcgQョ

演劇の世界で古今最高の傑作は何?と聞かれたら、君は何と答えるだろうか。いつか、

ニューョーク一流の劇評家が集まって無記名投票で、古今最高の演劇十篇をえらんだとき、

第一の傑作は三百数十年前に書かれた「ハムレット』だったが、第二席を占めたのは『リャ

王』でもなく弓クベス』でもなく『ベニスの商人』でもなくて、何と、「雨」だった。あ

のセックスと信仰との血みどろの闘争を描いた凄まじいドラマ『画lサマセットモー

ムの短篇小説「サディ・トムソこを劇化したものである。

モームはこの傑作『雨」で二十万ドルの収益をあげたが、脚本を書くために五分間もかけ

てはいない。

そのぃききっはこうであるlモiムは短篇「サディトムソン」を書きはしたが、あま

207

り重くは見ていなかった。ところが、ある晩、劇作家のジョン・コルトンがモームの邸へ泊

って、何か寝ながら読むものはないかね、といった。そこで・モームは「サディ・トムソン」

の校正刷をわたした。

コルトンはこの短篇を読んで夢中になった。興奮して寝るどころの騒ぎじゃない。ベッド

から起き出して寝室の中を行ったり来たり歩きながら考えた。これをドラマに仕立てたら、

と、いろいろ空想を走らせたのだ.その結果が傑作斎」i不朽の名作ということに鞍る。

翌朝コルトンはモームのところへ駆けつけた。「君、この短篇素晴らしいドラマになるぞ。

ぼくは一晩考えたんだ。よく寝たかだって?とんでもない!まんじりともするもんか」

だがモームはさっぱり乗り気でない。「ドラマになるって?」と、イギリス人らしく歯切

れのいい声を出した、「そうきな1階い芝居には厳るかもしれない.叢ず六週間は上演で

きるだろうが、大したもんじゃないさ、全くのところ」ところが、大したもんじゃない、と

いったその劇で二十万ドルころがりこんだ。

やがて脚本はまとまったが、五、六名の演出家にみな断られた。これは物になりません、

とハッキリいわれたのだ。そのうち演出家サム・ハリスが上演してみようと引き受けた。新

エージェント

顔の女優ジーン・イーグルズに主演させるつもりなのだ。ところが脚本を売りこんだ仲介人

が文句をつけたlそれは困る。誰かもっと有名旗女優を使ってくだ言い。

208

サマセット・モーム

結局そのジーン・イーグルズの主演ということに落着して、イーグルズが情熱をそそいで

迫力あるサディ・トムソンを演じた。たちまちブロードウェイに一大センセーションを起こ

す。上演を続けること実に四百十五回、しかも満員つづきだった。

きずな

サマセット・モームは『人間の緋』だの『月と六ペンス』だの「多彩なベール」だの、長

篇小説の名作をいくつも書いているし、当りを取った劇作も二十篇ちかくある。しかし、も

っと有名な劇「雨」そのものは、自分で脚本を書いたのではない。

今ではサマセット・モームを天才と呼ぶ人もあるが、作家になってから最初の十一年間、

物質的には失敗者だった。思ってもみたまえ、前後十一年間というもの、長篇やら短篇やら

つぎつぎと書いて、それで得た収入はわずか五百ドルIそれが後に百万ドルの大作家にの

し上った。その間、時には食べる物に困ったことさえある。せめて定収のある雑誌の主筆の

口でも、と努力したがそんな口にはありつけなかった。「とにかく、せっせと書いているよ

り仕方ないのさ。何しろぼくは、ひとつの仕事に尻を落着けていられない性分なんでね」

lぼくは直接モ‐ムの口からこう聞いている。しかし、何としてもイギリス文学史に名を

残そうllその決意はどんなことがあっても断然ゆるがなかった。

ロバ‐トリブレ‐といえば、あの「絶対たしかな話」I原語で「ビリ‐7イット

ォ7ノット」のシリーズで有名だが、そのリプレーが一度ぼくにいったことがあるI

2C9

「十カ年間、身を粉にして働いていてもいっこうに認められなかったのが、わずか十分間で

有名人にのし上るl人間にはそんなこともあるものなんだな」リブレーにしるモ‐ムにし

ろ、まさしくその実例だ。

サマセット・モームが初めてチャンスをつかんだいきさつは次の通りである。ロンドンの

ある劇場が誰かの劇を上演したら失敗に終った。そこで急いで何か別な演し物を探さねばな

らない。別にヒットしそうな脚本を探したわけではなかった。これならという脚本がきまっ

てリハーサルにかかるまでの合のつなぎに、古くてもいいから何か舞台にかけていなければ

lというわけだった.そこでデスクの引出しをかき廻してみると、サマセットモーム作

の劇がひとつ出てきた。タイトルは『フレデリク夫人』、実は一年間もデスクに放りこんで

あった脚本で、一度読んで大したもんじゃないと思っていたしろものだ。だが、これでも二

週間や三週間は打てるだろうlそこで舞台にのせたら、何と、奇蹟が起った。『フレデリ

ク夫人』は大ヒットでロンドン全市の評判になる。あのサビのきいた台詞で有名なオス

カー・ワイルドの劇以来、これほど人気を取った劇はほかにない。

たちまちロンドン全市のあらゆる劇場支配人から脚本の注文が舞いこんだ。そこでモーム

はデスクの引き出しをかき廻して、何年も前に書いておいた脚本を捜し出す。二、三週間と

たたない問に、ロンドン劇場三カ所でモームの劇があれこれ同時に上演され、しかもみな満

210

2Zr

貝の盛況である。

印税が洪水のように流れこむ。出版社は先を争ってどうか先生の原稿を、と依頼にくる。

社交界からも雨のように招待状が舞いこんだ。前後十一カ年の無名時代が夢のように去って

サマセット・モームはイギリス劇壇第一の人気作家にのし上った。

これは直接モームの口から聞いたが、彼は午後一時をすぎると絶対にペンを取らない。昼

すぎは頭の回転がわるくなるのだという。現在はフランス領リビエラにあるムーア風の別荘

の屋上の一間で書いている。パイプは口から放さない。書きだす前はきまって哲学の本を一

時間ばかり読む。

イーヴル・アイ

ぼくは迷信は信じないよ、と口ではいうが、著書の装釘には必ず例の「悪魔の目」のデザ

インを使う。食器の類も全部そのデザインつきだし、原稿用紙からトランプ札までその通り

だ。暖炉の上のマントルピースにも彫ってあるし、別荘の玄関口にも彫りこんである。こん

なもの、本気で信じているのかねlと、ぼくが聞いたら、モームば黙ってニッコリ微笑し

た。

〔補注l『雨」は劇化きれたぽか何回も映画化誉れて有名だが、その原作「サディ・トムスン」

は短篇集『ひと葉のそよぎ』(一九一二年)に含まれている。ドラマとしての初演は一九一一二年。

一九六五年、南フランスのニースで死んだ。君臣冒吻。日の3冨呂警自(】塁lsS)〕

サ マセット・モーム

女性であり葱がら不朽の名を残すlそんな人物はそう多くは鞍いが、おそらくキュリ‐

夫人はそのひとりだろう。彼女はもとポーランド人で内気な、はにかみ屋のむすめだったが、

学界で不可能とみられていた大発見をした。これまで存在する元素とは大きく異なる新元素

lつまり、絶えずエネルギーを放射している一元素を発見して、それをラジウムと名づけ

たのである。

今日でも人類はガンに対し不断の戦いを挑んでいるが、ラジウムはその戦いに最も大きく

貢献した。ラジウムのおかげでガンが根治した人は幾万とあるし、恐るべきガンの苦しみが

ぐっと軽くなった人も多数ある。多くの人びとはラジウムのおかげで命が何年も延びている

のだ。

貧乏のどん底から世界一流の科学者になり、しかも富豪になる道を捨てた女性

キュリー夫人宝&Qョの、皇の

2r2

パリ大学で物理学と数学を専攻していた頃、彼女は貧乏のどん底で、空腹のため文字通り

失神したことさえあった。もちろん、あと五十二年後には映画会社が百万ドル以上を投じて

自分の生涯を映画化するなどとは、その頃夢にも思わなかったろう。また、科学上の業績で

ノーベル賞を二度までも受けることになろうとも、夢にも思わなかったにちがいない。最初

は一九○三年、ノーベル物理学賞を受け、二回目は一九一一年、ノーベル化学賞を受けてい

る。

そうした偉大な女性だが、生れ故郷のポーランドで金持の家の家庭教師をしていたまだ若

い頃、もしその金持一家から侮辱を加えられなかったら、おそらく科学者にもならなかった

ろうしラジウムの発見もしなかったろう。

それには実はこんな話がある。

彼女がまだ故国ポーランドにいた十九歳の時、金持の一家に雇われて十歳になる少女の家

庭教師をしていた。やがてクリスマスになって、大学へ行っているこの家の長男が休暇で帰

ってきた。住みこみの家庭教師とダンスしたりスケートしたりするうち、彼女の美しさと機

智あふれる詩的な人柄にほれこんで彼女にプロポーズした。ところがそれを聞くと母親はび

っくり仰天して危うく気絶しそうになるし、父親の方はカンカンに怒って腹を立てた。

なに、うちの息子が一文なしの小むすめにプロポーズをした!とんでもない話だ!他

2Z3キュリー夫人

2Z4

人のうちに住みこんでいる雇人の身分のくせに!

彼女にとってはまさにピシャリと横面を張られ

物もいえなかった。そこで結婚の望みは一切捨て

とになる。

一八九一年、ポーランド生れのこのむすめI

大学へ入学して科学コースに進んだ。ひどく内気

第一、学問一心にこり固まって友達づき合いをす

した。四年間というもの、家庭教師のとき貯金し

、、、

る父親が時たま工面してよ}」すはした金だけで暮

六十セントIこれで部屋代を払い食費を払い着

だから住んでいた部屋は窓がたったひとつ。しか

ぱ電灯もなし、何より辛いことに暖炉もない。ひ

有様だった。

その貴重な石炭を倹約するため、冬の夜でもス

さに指はかじかむし肩はブルブル震える。そうし

はトランクをあけてタオルやらシーツやら枕カバ

たような侮辱である。彼女はがっくりして

た。パリへ留学して一生を科学に捧げるこ

その頃のマーニャ・スクロブスカヤはパリ

で臆病な性格だからろくに友達もできない。

る暇もない。それこそ寸暇を惜しんで勉強

た僅かな金と、故郷で数学の教師をしてい

すことになった。生活費が何と一日あたり

る物も買った上、授業料まで納めるわけだ。

もそれが明りとりの天窓だ。ガスもなけれ

と冬に石炭二袋買うのがようやく、という

トーブなしですませたことが度々ある。寒

た中で数学に取り組んだ。そして寝るとき

-やら、よそ行きのドレスまで持ち出して

215

上からかけた。それでも寒くて震えが止まらない。時にはその上へ椅子までのせたこともあ

る。椅子をのせたら震えがせめて少しは静まるだろうllまさに必死の戦いだ。

食べる物にも苦労した。炊事をする材料がろくに買えないだけではない。材料がろくにな

い上に、炊事する間に貴重な時間がどんどん経つ。それが惜しいのだ。そこで何週間もぶつ

通し、パンとバターと薄い紅茶だけですませたこともある。ときどき気が遠くなってはヨロ

ョロとベッドへ倒れて意識を失った。やがて正気を取りもどすと、「どうして気が遠くなっ

たんだろう?」と考えた。実は、徐々に迫ってくる飢餓が原因なのだが、そう認めるのがい

やだったのだ.一度は大学の教室で気を失った.そして正気にもどると医師に白状したl

「実は幾日も〈サクランボ少しとダイコン一束しか食べておりません」

しかし、この屋根裏暮しの貧乏学生をあまり気の毒がるには及ぶまい。十年後には世界第

一に有名な女性となる運命だったのだ。彼女はまったく研究に没頭した。知識の探究にとり

つかれていた。その情熱は飢餓にも妨げられず、寒さにも消されなかった。

パリへきて三年後、マーニャ・スクロブスカヤは結婚した。相手は彼女にまったくピッタ

リな男性l彼女と同じく全身全霊を科学に捧げている人物だ.その名はピエール牛ユ

リー、まだ三十五歳だがすでにフランス科学界一流の学者だった。

ふたりが結婚したとき、財産といっても二人合わせて自転車が二台IIそれきりだった。

キュリー夫人

2Z6

うして放射線を出すかlそれが彼女のテ‐マである.

これがキッカケで彼女は偉大な科学的冒険にスタートすることになる。化学の世界の不可

解な神秘をさぐる船出である。

彼女はあらゆる化学的物質をテストし、数百種に及ぶ金属をテストして、何かこの不思議

な放射線を出すものはないかと研究した。その結果ようやく、その強力な放射線は何か未知

の元素から空間へ放射される、と結論が出た。

とうとうピエール・キュリーは自分の実験をやめ、妻と協力してこの未知の元素の探求に

従事することになる。

夫妻力を合わせて実験を重ねること数カ月、キュリー夫妻は学界に一大爆弾を投じた。ウ

ラニウムの二百万倍も強力な放射能をもつ金属を発見した、と発表したのだ。この金属の出

そこで新夫婦は新婚旅行に自転車をつらねてフランスの田舎を廻った。昼食はパンとチーズ

と果物ですませる。夜は村の宿屋へ泊った。ろうそくの光が色あせた壁紙に怪し気な影を投

げるIそんなわびしい宿へ泊った.

三年たつと、キュリー夫人は博士論文を提出する準備にかかっていた。博士論文を出すた

めには、まず何か独創的な研究をまとめてリポートを書かなくてはならない。そこで、つい

最近に発見されたばかりの不可解な問題に取り組むことにした。ウラニウムという金属はど

す放射線は、木材を通過し、石材を通過し、鋼鉄も銅も通過する。通過をさえぎるものはた

だひとつl鉛の厚板だけという奇蹟の金属だ.もしこの発見が事実としたら、何世紀のむ

かしから科学界が信じてきた基礎的理論が底からひつくり返るわけである。

この奇蹟の物質をキュリー夫人はラジウムと命名した。

しかしラジウムに少しでも似た物質はまだ全然知られていなかった。あらゆる金属と根本

的に性質が違うから、当然、そんな金属が存在するはずはない。そこで学界から異論が出て

証拠を示せ、と要求された。純粋ラジウムをここへ持ってこい、よく調査しテストして原子

量を測定しようlというわけだ。

それからの丸四年間、一八九八年から一九○二年まで、キュリー夫妻はラジウムの存在を

証明するため努力を続けた。四年間の苦心の成果は、何とラジウム十分の一グラムを得ただ

けである。小さなマメ粒の半分でしかない。

しやふつ

ふたりがどうしてその生産に成功したか、というと鉱石八トンを煮沸し精製したのである。

実験室は医学部で解剖室に使っていたが、もはやそれにも使えなくなった古い倉庫だ。床板

は張ってないし屋根から雨が漏る。古いストーブがひとつあることはあるが全く役に立たな

いから、冬の寒さは戸外の吹きさらしも同じことだ。煮え立つ鉱石や薬品から物凄い煙が立

って、目にはしみるし咽喉も痛くなる。この惨惜たる倉庫の中でキュリー夫妻は四年間も実

217キュリー夫人

験をつづけた。とうとう夫は絶望して機の熟するまで研究を一時やめようといいだしたが、

妻は頑として実験をやめない。そうして頑張りに頑張った果て、ようやくラジウム一デシグ

ラムの生産に成功した。

その結果、キュリー夫人はたちまち全世界に最も傑出した有名な女性になった。だが、そ

うして到達した栄光の日々が、彼女の生涯のもっとも幸福な時代だったろうか?雨や、そ

れはちがいます」と彼女はいっているl「あのあばら家の床板もないところで貧乏に追わ

れながら必死に研究をつづけた頃lあの頃が一ばん幸福でした」寒言に震えながら疲労に

倒れながら、全身全霊を打ちこんで好き鞍研究に没頭するlそれが一生にもっとも楽しい

時だった、といっているのだ。

一九○二年、キュリー夫妻は重大な岐路に立った。研究の成果を利用して巨万の富を求め

るか、それとも私欲を捨ててあくまで学問の理想に従うか、ふたつにひとつの岐路である。

この頃、ラジウムはガンの治療に絶対欠かせないことももうわかっていた。ラジウムの需要

はどんどん伸びる一方だし、その製法を知っているのはキュリー夫妻だけである。だからラ

ジウム抽出法の特許を取れば、世界中どこで生産するラジウムからも権利金が取れるわけだ。

そうしておいてラジウムを生産して売り出せば当然金がもうかる。もし営利会社に製造さ

せて権利金を取り立てても、誰ひとりキュリー夫妻を非難する者はなかったろう。権利金が

218

入れば一家は経済的に安定するし、自分で苦労して働く必要もなくなる。立派な研究所を建

てて更に研究を進めることもできるわけだ。ところがキュリー夫人はその道をとらなかった。

ラジウム発見の大功績から一ペニーの金も受けなかった。「そんなこと、できるもんですか」

と彼女はいった、「そんなことをしたら科学的精神に反します。それに病気の治療に使うの

でしょう、病人の足もとにつけこむなんて、できやしません」

その事実を知ると、人間性に対する信頼を改めて思い知らされ深められずにはいられない。

いかにもクリスチャンらしい無私無欲の精神で、キュリi夫人は道をえらんだのだI巨

万の富よりも簡素な生活を、無為安楽な生活よりも奉仕の生涯を。

〔補注1キュリー夫人は晩年、死んだ夫のあとをついでパリ大学ラジウム研究所キュリー実験室

長となり、同大学最初の女性教授となった。一九一一年、ふたたびノーベル化学賞をうける。最初

にノーベル賞をうけたのは一九○三年、夫およびほか一名との共同受賞であった。放射能の単位

「キュリー」はその名を取ったものである。冒昌no目⑦富31s望)〕

219キュリー夫人

022ウィンストン・チャーチル三コい↓oコgc-耐三

大学入試に三回も落ちながら、世界の運命を左右する大政治家になった男

その時は別に重大な事件とも思わないことが、あとから振り返ってみると歴史の一大転機

だったl人生にはそんなことがよくあるものだ。たとえばアメリカで南北戦争が起る四

年前、ちょうど一八五七年の大不況の時、レナード・ジェロームという男がニューヨーク市

の株式市場で六百万ドルもうけたことがある。本人にはもちろん大事件だったが、これが歴

史の一大転機になろうとは誰ひとり思いもしなかった。ところが、今から振り返ってみると、

これが現代の歴史に物凄く影響している。なぜなら、もしレナード・ジェロームが株で大も

うけしなかったなら、ウィンストン・チャーチルは生れなかったろう。チャーチルはこのジ

エロームの孫だからである。

レナード・ジエロームはもうけた六百万ドルの金でニューヨーク・タイムズ新聞の株を買

ウィンストン・チャーチル

い、アメリカ最初の大競馬場を二カ所も創設し、全世界を旅行して廻り、イギリスでは貴族

社会に出入りした。その結果、彼のむすめジェニー・ジェロームという魅力ゆたかなアメリ

カ人女性がイギリスの貴族ランドルフ・チャーチル卿と知り合って結婚する。ふたりの間に

生れたのがウィンストン・チャーチルだ。それが一八七四年十一月三十日、場所は全イング

ランドでもっとも有名な由緒ある城のひとつ、ブレニム.、カスルである。

だからウィンストン・チャーチルはアメリカ人の血を半分は引いているわけだ。おそらく

現在のイギリス人の中でも最も行動的な、驚くべき人物のひとりだろう。

何しろこれまでの経歴だけでも素晴らしい。

血湧き肉躍る冒険だらけの生活を、彼ほどまでに喜び勇んで生きぬいてきた人物は、全地

球上にほかにあるまい。彼はすでに一世紀の三分の一以上にわたり、偉大な権力をふるって

世界を動かしてきた。一九一一年に海軍大臣になった。文官としてイギリス海軍のトップに

のし上ったわけだ。それから一世紀の三分の一以上にわたって権力の首座につき国家の運命

を左右した。しかも物凄く打ちこんで縦横に腕をふるってである。

チャーチルは子供の頃から軍人を志望していた。玩具の兵隊をたくさん並べて、まる一日

戦争ごっこで遊ぶこともよくあった。後年、イングランドのサンドハーストにある有名な海

ランサーズ

軍大学を卒業し、数年の間は職業軍人としてイギリス陸軍に勤務する。ベンガル槍騎兵連に

22]

所属してインドで戦ったこともあり、キッチェナー将軍に従ってスーダン砂漠で土民軍と戦

ったこともある。

猛勇果敢な行動で初めて名をとどろかせたのは一九○○年のことだ。その結果、弱冠二十

六歳で国会議員に選出きれる。そのいきさつは次の通りだ。

一八九九年、南アフリカでボーア戦争が勃発すると、彼はロンドンの新聞モーニング・ポ

スト社の戦時通信員として派遣された。月給は一二五○ドルだから一日当り四十ドル、大へ

んな高給だったが、ちゃんとそれだけの真価を発揮して、たちまちイギリス史上に前例のな

いもっとも有名な通信員になった。何しろニュースを報道するだけでなく、自分がニュース

の種になる。たとえば装甲列車で弾雨をくぐって敵地を突破すると、それがすぐニュースに

なる。ボーア軍の捕虜になって投獄されると、それもすぐニュースになる。捕虜収容所をみ

ごとに脱走すると、それもすぐニュースになる。脱走されたポーァ軍はカンカンに腹を立て

た。イギリス貴族の息子ウィンストン・チャーチルという、もっとも有名な捕虜をとり逃が

したからだ。

脱走した捕虜ウィンストン・チャーチルを捕えたる者には、その生死を問わず、巨額の賞

金を与うべしlということになった。一方、みごとに脱出したチャ‐チルは、鉄道にも橋

梁にもすべて警備兵が配置された敵地を何百マイルも逃亡した。歩いて逃げたこともあり貨

222

物列車を利用したこともある。森の中で寝たり野原で寝たり炭坑で寝たり、沼地へ飛びこん

だり川を泳いだり、アフリカの原野をみごとに踏破した。頭の上にはいつもハゲタカが腹を

空かして輪を描いていた。疲れきって参るのを待っているのだ。

この経験がそのままモーニング・ポスト紙の記事になる。何しろ事件そのものがとびきり

壮絶な上に、チャーチルの文が生気躍動する名文だから、ドラマとサスペンスあふれる名記

事というわけで、一九○○年の新聞界における一大センセーションとなった。イギリス全国

民は争って熟読し興奮した。やがてチャーチルが帰国する。国民的英雄の凱旋だ。彼の功績

をたたえる歌ができた。演説会には聴衆がわんさと集まった。とうとう国会議員に選出され

た。すべて彼の光栄ある活躍に感激した一般国民の情熱による。

チャーチルはずっと前から「危険からは絶対に逃げるな」を標語にしている。一九二一年

にアメリヵヘ渡った。一晩一千百ドルの講演料で四十五回講演して廻ったが、そのときロン

ドン警視庁は彼がアメリカへ行けば暗殺される危険があると喚ぎつけた。イギリス帝国内の

一一、三の地域でイギリスに対する不平分子が「暗殺協会」なるものを組織したのだ。「暗殺

協会」とはロンドン警視庁がつけた名である。チャーチルはイギリス帝国主義のシンボルだ

から、講演旅行でアメリカ各地を廻るうちいつどこで狙撃きれるかもしれをいIチャーチ

ルはロンドン警視庁からこの警告を受けたが、平気で講演に出かけた。西部のある都市へ着

223ウィンストン・チャーチル

くと、市内にいる「暗殺協会」のメンバー数名がその晩の講演会の入場券を買いこんでいる

と判明した。市の警察署長はこれは大へんとばかり、さっそく講演会の中止を命じてきたが、

チャーチルのマネージャーをしていたルイス.J・アルバーは頑として中止を拒絶した。そ

れを聞いてチャーチルはこういった’「それが本当き。危険が迫ったら絶対うしろを向け

て逃げるもんじゃない。そんなことをすると危険が二倍になる。反対に、即座に断乎として

立ち向えば危険は半分になるものだ。断じて逃げるもんじゃない。絶対にいけなど

チャーチル自身は危険から逃げるどころか、むしろ危険へ向って突進したことが度々ある。

彼が海軍大臣になったとき、イギリス海軍には飛行機がわずか五、六機、パイロットもわず

か数名しかなかった。何しろ一九一一年のことで、飛行機ができてからまだ八年しかならな

い頃だ。だが、その当時でさえ、飛び上ったが最後いつ落ちて死ぬかわからないその頃でさ

え、チャーチルは自分も飛行機を操縦して飛ぶ、といってきかなかった。事実、みずから飛

行機を飛ばして何回も墜落し、危なく命拾いをしている。政府はチャーチルに飛行はやめろ

と勧告した。しかし彼は頑として従わない。空を飛ぶスリルと危険が大好きで、どうしても

航空を体験しておく決意なのだ。その頃すでに、飛行機は今後の戦争を一変する、と見通し

ていたのだ。イギリス海軍航空隊は、ほとんどチャーチルひとりの手で築かれたといえる。

チャーチルには特に傑出した点がもうひとつある。それは鉄よりも固い不屈の意志だ。そ

224

のいい実例は、彼が学問に取り組んだ姿勢である。若い頃はひどく成績の悪い学生だった。

何しろラテン語もギリシャ語も、数学もフランス語も軽くみて勉強しない。外国語なぞ習う

よりまず英語をものにするのが本当だIと確信しているのだ。もちろん、そうにちがいな

い。ところが、外国語と数学は軽蔑して勉強しないから、予備校の成績はいつもクラスのビ

リだった。世の中には妙な話があるもので、この数学ぎらいの青年がやがては大蔵大臣とし

て四カ年間、イギリス帝国の財政を引き受けることになる。

チャーチルはサンドハースト陸軍大学の入学試験を三回受けて三回とも失敗した。ようや

くパスしたのは第四回目である。

彼はハロウ・スクールを経てサンドハーストを卒業した。どちらもイギリス一流の名門校

だが、卒業してから彼はようやく気がついたlおれはほとんど何も知ってい旗いぞ.大学

を出てからこれに気がつく人間はいくらもあるものだが、それに気がついたとき彼はすでに

二十二歳、インド駐留軍付きの士官になっていた。よし、ひとつこれから独学で勉強してや

るぞ、と彼は高這な大決心をした。そこでイギリスの母のところへ手紙を出して本を取りよ

せるl地理の本、歴史の本、哲学の本やら経済学の本といろいろだ。そして全身火ぶくれ

になるほど暑い昼すぎ、同僚の将校どもが昼寝している時、プラトンの哲学、ギボンの

『ローマ帝国興亡史』、シェイクスピアと、熱心にむさぼり読んだ。それを何年もつづけて

225ウィンストン・チャーチル

体得した明快かつ鮮烈な文章11歌いながら行進するような文体が、今日、彼の著作と演説

とに流れている。演説の方も、もとは声がわるくて特に苦手だったが、今や迫力ある古今有

数の雄弁家になった。

チャーチルは、毎日十四時間から十七時間仕事をする。七日間ぶつ通しにつづけることも

少なくない。しかも驚くべきエネルギーを発揮して精力旺盛にやるから、七名の秘書は目も

まわるほどだ。今でもそれを続けていける秘訣は、うんと働く一方適度に息ぬきもするし、

疲れないうちに休むからである。朝は十時半になってようやく起き出すが、起き出す前に三

時間は上半身ベッドに起き上って口に葉巻をくわえたまま、電話をかけたり、手紙を口述し

て書き取らせたり、新聞や報告書や海外電報に目を通したりする。それから起き出して旧式

なカミソリで顔を当る。

昼食は午後一時、それから一時間また眠って午後のスケジュールに取りかかる。夕方の五

時になるとまたベッドに入って、三十分間うたた寝する。夕食のあとも夜中の十二時まで仕

事をすることが多い。

チャ‐チルの演説集は「ホワイルオングランド・スレプト』lつまり「イギリスの眠

れるうちに」というタイトルで本になっているが、目前に迫った第二次大戦の脅威も忘れて

大多数の政治家どもが眠りこけていたのに、チャーチルは何年も前からヒットラーは実に危

226

険な人物だと見抜いていた。一九三三年から一九三九年までの六年間、彼は機会あるごとに

叫びつづけたIドイツが再軍備を進めているぞ、イギリス本土を爆薬し、イギリス艦隊を

撃滅し、全世界を征服しようとたくらんでいるぞ。彼はすべてを予見していた。もしその時、

イギリスが彼の予言に耳を貸し、それに立ち向う軍備をしていたならば、第二次世界大戦は

単に気違いの夢想ですんだかもしれない。

〔補注lチャ‐テルは第二次大戦勃発の翌年から一九四五年までイギリス首相として大戦を勝利

にみちびいた。戦後に総選挙の結果、その率いる保守党が労働党に破れて、いったん首相の座を離

れるが、一九五一年に再び首相となり、一九五三年にはノーベル文学賞を受け、一九六五年一月に

死んだ。雪旨§ロ伊8画”aザg§g昌呂崖(旨製ISS)〕

227ウィンストン・チャーチル

もとは女の子の前ではいつもビクビクしていた彼だが、今ではI

およそアメリカ軍に人材多しといえども、クラーク・ゲーブルほどの有名人はまずあるま

い。何しろ映画界第一流の名優のひとりで、中国・インド・アフリカ・ヨーロッパ・南アメ

リカー全世界あらゆるところに無数のファンがいる.アメリカの歴史も知らなければアメ

リカ軍の将軍や提督の名もまるで知らないのに、クラーク・ゲーブルの名を聞くと胸を躍ら

せるファンが全世界に無数にいるのだ。

何年か前、クラーク・ゲーブルが南アメリカへ行ったときは、女性ファンの群衆が彼をつ

かまえて首根っ子にしがみつき、帽子はふんだくる、コートは破る、シャツはめちゃめちゃ

に引き裂いてしまったI記念品として分捕ったのである.

第二次大戦の時、彼は軍隊に志願すると、映画見物や何か人目につくところへは寄りつか

8狸クラーク・ゲーブルQQ寿○Qひ一m

ず、なるべく世間に隠れているようにしていた。だがイギリス駐屯中はファンの大群に追い

つめられて、とうとう教会堂へ逃げこんだことがある。野良仕事の手伝いをしていた女たち

クラーク・ゲーブルが.軍隊に志願したのは一九四二年、彼が四十二歳の時だが、ハリウッ

ドでもごく珍しい有利な契約を破棄して入隊した。週給七千五百ドル、当時のアメリカ合衆

国大統領の俸給一カ年分を、わずか十週間でかせぐわけだ。年間百万ドルの約三分の一に当

る収入を捨てて、軍服プラス月収五十ドルをえらんだことになる。

二、三年前、ぼくはクラーク・ゲーブルにインタビューする光栄をもった。彼は人あたり

のいい、控えめな、気どらない人物で、ぼくはたちまち彼に好意をもった。

これまで何回となく全米ベスト・ドレッサーのベスト・テンにえらばれた男だが、楽屋へ

インタビューに行くと、彼は頚に厚地のタオルを巻いて、コールド・クリームの瓶の蓋を灰

皿に使っていた。

何十本の映画でそれこそドラマティックな役をいろいろ演じた彼だが、彼自身の経歴ほど

ドラマティックな役割はまずなかろう。

十五歳の時オハイオ州アクロン市で、ある晩おそく屋台店へ飛びこんでサンドウィッチと

は半日仕事を放り出

ク・ゲーブルの顔を見たい、というわけである。

して、アメリカ軍基地のあたりに張りこんだ。せめてひと目でもクラー

229クラーク・ゲープル

230

コーヒーをあつらえた。それが彼の生涯をガラリと変えることになる。どうして?その屋

台店でアクロン市へ巡業にきていた劇団の俳優たちに出会って夢中になったのである。つい

二、三カ月前にアクロン市へきて、あるゴム会社の時間記録係に一雇われたのだ。それまでは

ずっと野良仕事をしていた。ウシの乳を搾ったりブタに餌をやったり、乾草を荷馬車に積ん

だりトウモロコシ畑を耕したり、嫌だ嫌だと思いながら汗水垂らしてこき使われた。

その彼が生れて初めて俳優というものに出会ったわけだ、なるほど、これが俳優というも

のか。そう思うと彼は興奮したlよし、おれもひとつ舞台に出てやろうと思ったが、すぐ

さま俳優にはとてもなれない。しかし、とにかく劇団の呼出し係にしてもらった。さあ出番

ですよ、と俳優たちを呼び出す係である。その上、役者たちの使い走りもすれば汚れ物を洗

濯屋へ運びもする。取れたボタンを縫いつけもすれば雑用でも何でもやらされた。

その劇団で呼出し係を二カ年勤めた。その時の給料はいくらだったか?ゼロである。二

カ年働いて手に入ったのはただ経験だけだった。

それならどうして暮したか?夜は舞台裏で寝て毛布の代りに自分のオーバーを使った。

どうして食って行ったかというと、俳優連中に気に入られて、毎日昼食と夕食はおごっても

らった。

その間に朝食ぬきの習慣が身についた。何年もして何百万ドルもかせぐ世界的名優になっ

231

ませんよ・

アクロン市の劇団に二カ月勤めたところで突然、悲劇に見舞われた。継母が死んだのであ

る。そのおかげで父親の家庭は崩壊し、クラーク・ゲーブルの将来の計画も崩れ去った。

父親はいうlおれはこれから畑仕事はやめにする.オクラホマ州へ行って抽田で働く

んだ。おまえもついてこい。父親としては息子に呆れ返っていたのだ。油田へ行って働けば

一日十二ドルになるのに、二年間も無給で呼出し係をするバカがあるものか。いいか、おれ

についてこい。これは命令だ。議論は許さん。口答えをするな。そこでそれから二年間、ク

ラーク・ゲーブルは精油工場に勤めた。一日中頭のてつぺんから足の先まで油にまみれて、

重さ十八ポンドのハンマーを振ったり、高さ六十フィートの油井やぐらの上で据付ブロック

ぼくは質問したlどうです、一日一千ドルかせぐようになると、無給の呼出し係より楽

しいものですか?すると彼はこう答えたlちがいますね。金銭と名声じゃ幸福にはなれ

ンスの世界である。その頃オハイオ州には百万長者がいくらもいたろうが、おそらく呼出し

係クラーク・ゲーブル以上に幸福な人間はいなかったろう。

てからも、彼はやはり朝食ぬきの暮し

朝食ぬきでも彼は何とも思わなかつ

るからだ。夢の世界である。虚構の世

をつづけていた。

た。何しろ弱冠十五歳、自分のしたい仕事をやってい

界である。フットライト、練白粉、拍手と喝采、ロマ

クラーク・ゲープル

EJW2

にグリースを差したりした。

とうとう十九歳になるとキッパリした態度にでた。よし、今度こそあの夢の世界へ、演劇

の世界へ戻るぞ。そこで「ジュエル・プレーヤーズ」という田舎廻りの劇団へ入った。もち

ろん三流どころの小劇団で、カンザス州やネブラスカ州、中西部一帯を町から町へ廻っては、

空地にテントを張って興行する。入場料は五セント・十セント・十五セントの一二段階、演し

物は『アンクル・トムの小屋』だの、そのころ人気の「チャーリーのおばさん』など。

その劇団で給料はいくらでした、と聞くとクラ‐亨ゲ‐ブルは笑ってこういったI給

金など誰ひとりもらうもんですか。劇団はまず経費をいろいろ払いますl払える場合はね。

それで残りがあれば一同に分けるんです.’一度などは、一週間分の収益の分け前として

二ドル七十五セントもらったことがあるそうだ。

とうとう一九一一二年三月二十一日、劇団はモンタナ州ビュート市で進退きわまった。しか

も大吹雪である。現金は一文もない。前途のみこみもなければ一筋の希望もない。あるのは

借金と絶望だけである。

その翌朝、クラーク・ゲーブルは駅のあるところへふらふら出て行った。寒さは寒し腹は

すいている。ズボンは継ぎだらけ、靴は底に穴があいたし、ポケットには十セントの銀貨ひ

とつない。事実、あるのはカッキリ七セントだった。彼は郵便局へ入ると父親あての電文を

で外の吹雪を眺めながら考えたlどうしよ

列車がスネーク・リバーの渓谷へ差しかかったところで、彼は有蓋貨車にひそんでいるの

を制動手に発見された。それが一九二二年のことだ。あと十二年でクラーク・ゲーブルはそ

ろそろ世界一の有名人のひとりになりかける人物だ。だが制動手はそんなことは知らないか

ら、彼を容赦なしに列車から追い出した。仕方がないから材木伐出しの人足になって三カ月

労働して、オレゴン州ポートランド市までの汽車賃をためた。

ポートランド市へ着くと、また田舎廻りの劇団に入った。その劇団がまた行き詰る。彼は

またもや日雇い労働者になって、測量師のチェーンを運んだり、ポップ畑でラバ使いをした

り、道路工事の下働きで薮を刈りこんだり、製材工場で働いたりした。

やがてポートランド市へ舞い戻ったが、どうにも仕事口がみつからない。いい仕事があっ

道だな。

ランダ気

書いた。

ルベニァ・ダッチというオランダ系だった)。書いた電文を千切り捨てると、彼は局から外

へでた。貨物列車に飛び乗ってビュート市をあとにした。まるで宿なしである。

233クラーク・ゲープル

大好きな芝居を捨てて嫌な仕事にもどるべきだろうか?さあ、これがおれの人生の別れ

どう決心するかでおれの一生は大きく変るぞ。とうとう最後に、彼はあの不屈のオ

質を発揮して、現在の仕事を続けようと決心した(父親も母親も、いわゆるペンシ

リョヒオクレバカエル。書いてからどうしようかと迷って考えた。ポカンとした目

フ、この電報、打とうか、打つまいか?

理たぞ、と訪ねて行くといつも誰かに先を越される。そこで頭を使って今度は新聞社の三行広

告欄の係になった。引き受けた広告を分類する仕事だ。だから望み通りの仕事口が新聞に出

る前にいくらもみつかるわけだ。そこで選んだ仕事というのが電話会社の架線工夫、週給十

六ドルである。

この仕事がまた彼の生涯の転機になった。ある日、ポートランド市の劇場「リトル・シア

ター」へ派遣された。故障した電話の修理である。修理にかかっているうち、彼は舞台監督

ジョゼフィン・ディロンという女性と知合いになった。

彼はジョゼフィンから芝居の演技を教わった。やがてジョゼフィンに求婚した。そして結

婚した。それが一九二四年十二月のことだ。しかしそれから何年間となく絶望と戦い苦労を

重ねたあげく、ようやくギャング映画の主役に出演する。それがあの「フリー・ソウル(囚

われざる魂)』だ。そこで大スターの座へ向って歩み出すことになる。

それまでの間、彼はブロードウェイで端役に出たり、ハリウッドをほつつき廻ったりした。

彼は公会堂などへ泊り、場末の食堂で食事をすませ、撮影所の配役係を訪ねては仕事を探し

た。どんな端役でもいいと何カ月も何カ月も続けたが、前途は一向に明るくならない。よう

やく映画に出る口をひとつみつけた。しかも台詞のある役だ。彼は天にも昇った思いだった。

よし、これでハリウッドに足がかりができたぞ。ところが思惑はみごとに外れた。そのあと

また台詞のある役で映画に出るまで、実に六カ年かかったのである。しかも大した反響はな

かった。

前後八ヵ年の間に、彼は一度エキストラで映画のコーラス隊に出たことがある。あの『メ

リー・ウィドウ』が映画化された時だ。その時の給金は一日七ドル五十セント。何年もたっ

て世界的大スターになってからも、一日七ドル五十セントで『メリー・ウィドウ』に出演と

いうそのときの通知書を彼は額に入れて壁にかけていた。通知書の文面を横切って彼の書い

た文字があるl「忘れるな、ゲiブル、いいか、忘れるなよ」

しかしクラーク・ゲーブルはけっして真剣にやり過ぎるような男ではない。そんなバカを

するには健全な良識がありすぎるのだ。現にマイアミ市のアメリカ空軍訓練所に入ったとき

も、全校第一の人気者に投票きれた。人好きがするし、率直だし、物わかりがいいし、お高

くとまらないからだ。

フライング・フオートレス

彼はあの「空飛ぶ要塞」、つまりB調の射撃手として何カ月も訓練を受けた。これは若

い者でも何万人となく脱落する猛訓練だ。だがクラーク・ゲーブルは四十二歳だったが、つ

いに脱落しなかった。

クラーク・ゲーブルはスクリーンの中では世界一流の恋人役を演じる。だが本人の話によ

ると、若い頃は女の子を相手にすると完全な失敗つづきだったという。しかし彼も男だった

235クラーク・ゲーブル

236

からいつも誰かに恋をしていた。だが相手はたいがいそれに気づかない。口に出していう勇

気がないからである。女の子のそばへヅカヅカ寄っては顔ひとつ赤らめもせず話しかける

lそんな連中を見るといつも羨しくてならなかったそうだ.

その頃は女の子が怖かったかもしれないが、今では確実に最高の勇気をもっている。その

勇気があり手腕があればこそ、彼は「ヨーロッパ本土占領地域一一オケル爆撃作戦一一出動スル

コト前後数回、勲功著シキ故ヲモッテ」空軍殊勲章を受けている。勲記の文面によれば「コ

レラノ場合一一発揮サレタルゲーブル大尉ノ勇気ト沈着ト手腕ハ賞讃一一値スルモノナリ」とあ

る。

〔補注l彼は一九○一年の生れ、クローデットョルベールと共演した「ある夜の出来事」(一九

三四年)でアカデミー賞を受けて大スターとなり、『風と共に去りい」(一九三九年)にも主演した。

一九六○年、ハリウッドで死ぬまでスクリーンで活躍した。Q胃斥の騨匡の(岳slごS)〕

これまで前例のない世界一高い出演料を取った歌手は、さあ、誰だろう?エンリコ・カ

ルーソーでもなし、ローレンス・メルキオールでもなし、ローレンス・ティベットでもない。

さあ、当ててみたまえ。世界一の金を取ったその歌手というのは、声楽のレッスンはまるっ

きり受けたことのない男で、自然のいたずらというか、声帯に正常でないところがあるおか

げですばらしい声が出る人物なのだ。

その名はハリ!リリスクロスビ‐Iつまり、あのビングクロスビ‐である.彼は

気楽な呑気者だ。いつも「百万長者じゃないけれど、そんなの根っから平気だよ」などと歌

っているが、百万ドルの四分の三より少し余計にかせいでいる。何しろ一九四三年のかせぎ

高は、アメリカ大統領フランクリン.D・ルーズヴェルトとイギリス首相ウィンストン・チ

ノドの奥の突き出したところに十万ドルの保険をかけている男

ビング・クロスビー、gooの耳

237

ヤーチルの俸給の合計の七倍分。「天の授けたはした金」と歌詞にもあるが、ちよいとした

はした金であることは確かだ。

歌手のことをクルーナーという。クロスビーはそれをもじっておれはグロウナー(うめき

屋)だといったが、このグロウナーの生涯ほど驚くべき成功例は二十世紀にちよいと類が少

ない。生れたのは一九○四年だが、だんだん髪が薄くなってカッラをつけなくてはならない

有様だ。その上、耳は左右にピンと立っているから、映画へ出るにはテープで後へ張りつけ

る。いつもチューインガムは手離さない。ラブ・シーンのときも噛んでいる始末なのに、全

世界幾百万の女性のアイドルだし、男性のファンも幾百万を下るまい。第二次大戦中、マッ

カーサー将軍が日本軍に攻められてフィリピンで立往生したときのことだ。アメリカ軍の士

気を鼓舞するには何がいちばんか、とルーズヴェルト大統領が問い合わせてきた。するとマ

ッカーサ‐は返信したlパターン半島におけるわが軍の将兵はビング・クロスビーを聴き

たがっております。アメリカ軍の将兵は絶体絶命のあの戦陣の中でも、なつかしい「青い夕

きん

暗、昼の黄金色にまじるころ」の歌声にあこがれたのだ。

それだけではない。今から六千年の後、われらの子孫は未来のステレオを囲んで、クロス

ビーの甘い声が遠いむかしを歌うのを聴いているかもしれない。というのは何年か前のこと、

オーグルソープ大学のソーンウェル・ジェイコブ博士はタイム・カプセルに何を入れて埋め

238

ビ ング・クロスビ

るのがいいかと質問されたとき、ビング・クロスビーのレコードも挙げている。何と、八十

一世紀になるまでは開かないタイム・カプセルの中へクロスビーの歌も入れろ、というわけ

だ。漆ぜだろう?およそクロスビ‐の歌憾どよく現代を代表するものはないlこれが博

士の意見なのである。絶えず回転しているこの地球のどこかで、クロスビーの歌が流れてい

ない時間は一日二十四時間のうち、まず一秒もないだろうと思う。

まるで嘘のような話である。しかもこの驚くべきクロスビーの声の秘密は何か?医師の

いうところによると、彼の咽喉の奥にある一連の小さな突起のためだそうだ。ある時、ひと

りの外科医が申し出たlその突き出したもの、ひとつ手術して取ってあげ毒しようか.と

ころがクロスビ‐は辞退したl「それはご免です.これのおかげで雨水受けの桶の中へ歌

いこむような声が出るんですからね」今日へその一連の突起物には十万ドルの保険がかけて

ある。ビ

ング・クロスビーほど物臭で無精な奴はない、奴が成功したのはすべて運がよかったか

らだ.あいつ、ただの一日でも頑張って努力したことなぞあるものかIそんなことをいう

人もある。さあ、果してその通りかどうか、諸君、ひとつ考えてみたまえ、彼は故郷ワシン

トン州スポーキャンで子供だった頃、休暇になると必ずピッケルエ場で働いた。ほかの子供

がみんな遊んでいるときに、である。ピッケルと取り組んでいない時は新聞配達をした。農

239

場へ行って乾草積みをした。木材伐出し小屋の人夫までつとめた。一九三一年、初めて歌手

としてのチャンスをつかんで、ニューヨークのパラマウント劇場へ出たときは、毎日五回出

演という、とても信じられないスケジュールをこなした。その上、夜は合同ラジオのスタジ

オへかけつけて放送を二回もした上、レコードの吹き込みまでやってのけた。だから、たと

え本人が「ぼくは運がよかっただけさ」といっているにしろ、手品でも使うようにあっさり

そんなことのできるはずはない。

あなたの成功にもっとも役立ったのは何ですか、ひとつだけ挙げてくださいlとクロス

ビーに頼めば、大学で履修したスピーキングの科目ですよ、と彼はいうだろう。その科目を

やったおかげで、彼は慧滝鐸をおぼえ毒禦遥嘩をおぼえた。「かりにぼくの歌がだめだとし

ても、一一言葉遣いの方はちゃんと心得ています」と、彼は現にいっている。

ビング・クロスビーはいま世界幾百万の女性のアイドルだが、妻のディクシー・リーに初

めてプロポーズしたときは、即座にピシャリと拒絶された。あの男はただのプレイボーイで

すよ、このアメリカを道楽の舞台と心得て、刑務所入りもちよいと面白いものだ、といって

いますわ、と彼女はいったものだ。それに金遣いもひどく荒くて、「クロスビーと結婚など

したら一生こっちが養ってやることになりますよ」と警告してくれた友達さえある。

ディクシー・リーから肘鉄砲を食らったのが刺激になって、ビング・クロスビーは目を覚

240

24Z

ました。一夜明けると財産の管理はすべて父親と兄弟たちに任せ、自分はカタギの世帯持に

なって毎週欠かさず教会へ通った。今日、クロスビーとディクシー・リーの問には、たくま

しい息子が四人ある。株式会社ビング・クロスビー商会(正にこうした名前である)は八方

手をひろげて、「小型ながらもレッキとした商社」だといわれている。ビング自身の受け取

る手当は毎週二十五ドル、それでチューインガムと煙草を買う。あとの金はすべて会社の収

入となり、父親と兄弟たちの手で不動産やら金鉱やら貸しビルやら油田やら、さまざまの方

面へ投資される。

クロスビーは毎朝七時に起きてスタジオ入りをする。会社へはめったに顔を出さない。入

浴するときだけだ。どうやらクロスビー・ビルディングの一階にはサウナ風呂があるらしい。

競馬の予想表などはサウナの中でゆっくり見ればいい、と彼は発見したらしい。

ワールドロフエアー

彼は水泳が好きだ。ニューヨークに世界博覧会があったときは賭をして五十フィートの高

さからダイビングして、見物に目を丸くきせた。ゴルフも大好きで、どうかすると五時に起

きだして二、三ホール廻る。ビングがもしうんと頑張ったらボビー・ジョウンズくらいにな

るだろうがねIこれは名ゴルファー、ジiンザラズンの話である.

いつも派手なセーターを着こんで無精者らしい顔をしてはいるが、クロスビーにできない

ことはあまりない。彼は小説まで書く。これまでに書いた短篇がたくさんトランクに詰めて

ビング・クロスピー

あって、いつかは大きな雑誌へ出して当ててやろうと思っている。ラジオの台本でも映画の

シナリオでも、よく自分で手を入れて書き直すのだ。

ただし、主演映画が三十本を越す人気スターのクロスビーにもできないことがただひとつ

ある。ある時新聞記者が質問したl「ミスタ!クロスビー、ひとつ聞かせてください。

パラマウント社はあなたのどの映画を見て、これはえらい俳優だと思ったのですか?」する

とビングはニタリと笑ってこう答えたI「その返事には困りますな.何しろぼく、パラマ

ウント社がそう思ったなんて、一度も聞いたことないんです!」

(補注lクロスビ‐はワシントン州タコマ市の生れ、カレッジを出てから歌手に在り、有名な

ポール・ホワイトマン楽団と共演したりして名声をあげる。一九四四年『ゴーイング・マイ・ウェ

イ』でアカデミー賞を受けた。一九五一年には自叙伝『運のいい男』を出版している。国冒函国胃ご

匡房Qom耳(sRls認)〕

242

将来性がないと見られて初恋の女性に逃げられた男その名はI

ジョン.D・ロックフェラーの人生には、驚くべきことが少なくとも三つある。

第一に、彼はおそらく歴史に前例のない巨富を築いた。スタートしたときは一時間四セン

トの給金でカンカン照りのジャガイモ畑を耕した。その頃百万ドルの資産家は全アメリカで

もまず四人か五人きりだったろう。ところが今日、ジョン.D・ロックフェラーの資産は十

億ドル乃至三十億ドルと見られている。

それでいて彼の初恋の女性は彼の求婚を拒絶した。どうして?あんな将来性のない男に

むすめをやるようなことはできません、と母親がいったからである。

第二に驚くべきことはこれだI彼はこれまでの歴史に前例のない巨額の金を各方面へ寄

贈している。その額は実に七億五千万ドル。これはキリスト生誕から現在まで、昼だろうが

》ンヨン。D・ロックフェラー」O言ロ.詞on訂堅の『

243

ところがジョン。D・ロックフェラーは、ウルワースとハリマンとデュークの三人まとめ

ても足もとにも寄れない富を築きながら、何と、九十七歳まで生きてきた。しかも、白人で

九十七歳まで生きるのは、百万人につきわずか三十人である。その上、入れ歯を使わずに九

十七歳まで生きる人は、まず百万人に一人もあるまいが、ジョン.D・ロックフェラーは入

夜だろうが、一分間あたり七十五セントをぶつ通し寄贈してきた計算になる。もうひとつ別

な言い方をすると、三千五百年のむかし、モーゼがイスラエルの民を率いて紅海を渡ってか

ら、今日まで毎日夜が明けるごとに六百ドルずつ寄贈してきたわけだ。

第三に驚くべきことはロックフェラーが九十七歳まで生きてきたことだ。一時は全アメリ

カでももっとも人に憎まれた人物のひとりで、殺してくれるぞという脅迫状が何千通となく

舞いこむから、日も夜もボディ・ガードの警護なしではいられない。心身ともにそれこそ大

へんな緊張だが、それをみごとに乗りきって手びろく事業を開拓して行った。

アメリカの鉄道王エドワード・ヘンリー・ハリマンは過労の結果六十一歳で死んだ。

各国にわたりファイブ.アンド・テン・セント・ストーアの広大な網をひろげたフラン

ク・ウィンフィールド・ウルワースは六十七歳で死んだ。

煙草の製造販売で一億ドルもうけたジェイムズ・ビュキャナン・デュークは六十八歳で死

んだ。

244

245

れ歯一本なしでその歳まで生きてきた。

その長寿の秘訣は何であったか?おそらく長生きの素質を親から受けついでもいただろ

うが、いつも焦らない穏やかな気質がそれを助長した。興奮したり慌てたり、彼は一度もそ

んなことがなかった。

スタンダード・オイル会社の社長時代には、ブロードウェー二十六番にある会社に寝椅子

を置いて、正午から三十分間はどんなことがあっても必ず昼寝した。死ぬまで必ず毎日五回

は軽くうたたれをしたものだ。

彼は一度五十五歳の時病気で倒れた。おそらく医学の歴史上、これほど幸運な事件はなか

ったろう。というのは自分が病気したのに刺激されて、ロックフェラーは医学の研究に数百

万ドル寄付したからである。それ以来、ロックフェラー財団は世界の保健衛生のため、今日

毎年百万ドル近い金を拠出している。

一九三二年、中国のコレラ大流行のとき、ぼくは中国へ行っていたが、あの凄まじい無知

と貧困とコレラの唯中を平気で歩いてペキン市にあるロックフェラー医科大学へ行き、コレ

ラ予防のワクチンを接種してもらった。それで初めて悟ったわけだ、アジアその他の世界の

僻地で悩める民衆のため、どれほど大きくロックフェラーが貢献しているか。ロックフェ

ラー財団は十二指腸虫根絶のため、全世界にわたる努力を続けてきた。マラリアの根絶にも

ジョン.D・ロックフェラ

着々と成果を収めている。恐るべき黄熱病のワクチンもすでに発見した。

ジョン.D・ロックフェラーが生れて初めて金もうけをしたのは、母親が飼っているシチ

メンチョウの世話を手伝ったときだ。だから彼は最後の日まで、面積八千エーカーの邸内に

シチメンチョウを何羽も飼っていた。幼い頃の思い出をいつまでも忘れまい、というわけで

ある。シ

チメンチョウの世話を手伝ってもらった小銭はすべて貯蓄した。こわれたティーカップ

に入れて炉棚にのせて置いたのである。やがて畑仕事に出て一日三十七セントもらうように

なる。その金も残らず貯蓄してようやく五十ドルになった。その五十ドルを年利七パーセン

トで雇王に貸した。一年たつと判明したl何とその利息が十日間労働した賃銭に相当する.

「それで方針がきまりましたよ」と、彼はいう、「よし、金銭の奴隷になるのはもうやめた。

ひとつ、金銭を奴隷に使ってやろうlその時その場でそう決心しました」

ロックフェラーは息子にうんと金を持たせて甘やかすようなことはしない。たとえば、邸

のまわりの垣根に修繕の必要なところができると、杭一本につき一セントの割で息子に金を

払う。十三本直せば十三セント、というわけだ。やがて値上げして一時間十五セントで垣根

の修繕をさせた。一方、母親はヴァイオリンを練習すると、一時間五セントの金をくれたp

ロックフェラーは大学を出ていない。ハイ・スクールを卒業すると、二、三カ月は商業学

2型6

247

校へ行ったが、学校へ通ったのはそれきりで、十六歳からは全く勉強と縁が切れた。それで

いてシカゴ大学へ五千ドル寄付している。

彼は教会にはいつも関心が深くて、若い頃日曜学校の教師をつとめたこともある。ダンス

は絶対にしなかったし、トランプもやらず劇場へも行かず、酒も煙草も口にしなかった。

食事のたびに必ず食前の祈りをした。毎日、誰かにバイブルを読ませて聞いていた。詩集

や祈祷書を読ませることもある。その日その日、気を引きしめるような部分を読ませるので

ある。ロ

ックフェラーの財産は現在なお、一分間百ドルという驚くべき割合で増加しているが、

彼の唯一の希望はみごとに一世紀生きぬくことだ.一九三九年七月八日Iその日に獲ると

彼は百回目の誕生日を迎える。もしその日に生きていられたらポカンティコ・ヒルズの自邸

でおれがバンドの指揮を取るぞ、と彼はいっている。あの「マギ-よ、ぼくもあなたも若か

った頃」の曲を演奏したいのだそうだ。

〔補注lロックフェラーは一九三七年に死んだ.一八三九年の生れだから、百歳まであと二年と

いうとき死んだわけである。一八七九年にはアメリカ製油業の九○乃至九五パーセントを握り、や

がて彼のひきいるスタンダード・オイル会社は独占を禁じるシャーマン法に触れて解体を命じられ

た。世間から憎まれたというのはその問の事情をさす。]◎言己菖の○国詞O鼻①壁一①『(葛患l忌司)〕

ジ ョン。D、ロックフェラ

8鯉ハロルド・ロイドエQ-d-qF-O豆

火事と占星術師とツノブチ眼鏡のおかげで世界一金持の名優になった男

初めてハロルド・ロイドの姿を見たとき、ぼくは実にびっくりした。映画で見る彼とは似

ても似つかないのである。ところが本人に聞いてみると、ふだんのロイドを見かけてちゃん

とわかる入はまずないそうだ。たとえば、ある時ロイドは眼鏡をかけた友人とパーティに出

た。(ロイド自身は映画に出るとき以外は眼鏡をかけない)その友人はロイドに少しも似て

いないのだが、このツノブチ眼鏡の男がハロルド・ロイドだな、と誰も彼も思いこんだ。そ

の友人は「ぼくはハロルド・ロイドじゃありませんよ。ロイドはあいつです」と何べんもい

ったが、みな冗談だと思って本当にしなかったそうだ。

ぼくはいつも、ハロルド・ロイドは物静かな勉強好きのタイプだろうと思っていた。とこ

ろが大ちがい。何時間も話をしていたが、彼は元気いっぱいで絶えず大声で笑ったりはしや

ハロルド・ロイド

いだりしている。人気に甘えての誉ばっているlそん鞍ところは全然ない。至ってまじめ

で大衆的な人物だ。

ロイドはすべて迷信を軽蔑している。無知と中世の暗黒時代を思わせるというのだ。だが

実は彼にも二、三の迷信はある。たとえば、ロサンジェルス市内のあるトンネルは絶対に通

らない。万一通ると、きっと運のわるいことがある、と思いこんでいる。ビルディングから

出るときは、必ず入ったときと同じドアから出る。「開運の札束」と称するものをよく持っ

て歩く。

最近は風景画をかくのに熱中している。手品や奇術やトランプのトリックで人を煙に巻く

のも大好きだ。それにイヌを飼って仔を生ませている。一時グレート・デンを七十頭あまり

飼って、家中ワンワンとび廻らせていた。

十二歳の時ちょっとしたことがありましてね、と話してくれたが、その「ちょっとしたこ

と」が、結局は彼の一生をガラリと変えることになった。

ネブラスカ州オマハ市でのことだ。ある日、学校からフラフラ帰る途中、占星術師がひと

り街角に立っていた。彩色した星座図が何枚も並べてある。星占いで運勢を見てあげます、

というわけだ。少年ハロルドは目を丸くして夢中になってその話を聞いていた。そこへ突然、

消防自動車が飛んできた。ほかの子供はみなそのあとを追って行く。かけ出さないで占星術

249

250

師の話を聞いていたのはハロルドひとりだった。子供にしては少し変っているぞ、と人込み

の中からひとりの男が見てとった.それがジョンレーンョナーlオマハ市の(‐ウッ

ド劇団の主宰者である。コナーはハロルドに声をかけると話しこんだ。そのうち、劇団の者

がひとり下宿を捜しているんだが、どこかいいところはないだろうか、と話がでた。あるど

ころじゃない、願ってもない幸いだ、とばかりハロルドはそのチャンスをつかまえた。実は

何年も前から、いつかは俳優になろうと志を燃やしていたのである。もしボクシングの世界

チャンピオン、ジョン.L・サリヴァンとサーカス王バッファロー・ビルが下宿させてくれ

と舞いこんできても、これほど嬉しくはあるまい、という有様だ。

何しろ前から自宅の地下室へ舞台をこしらえて、入場料三セントで近所の子供に芝居を見

せていたほどだ。そこへ本物の俳優が同居して、毎日三度は食卓ごしに顔を合わせる。なる

ほど嬉しいわけである。

そのとき以来、バーウッド劇団で子役に困ることがあると、コナーの口ききでハロルド・

ロイドに口がかかった。

コナーに世話になった恩をロイドはけっして忘れない。今ではコナーをハリウッドへ呼び

よせて、ファン・メールの始末を一切まかせている。

ハロルドの母親はドレス・メーカーだった。父はミシンのセールスマンをしていた。その

251

父親がある時自動車事故で脊柱を折った。保険会社から舞いこんだ金が三千五百ドル。さあ、

ひと財産できた。そこで一家は家をたたんで中西部を離れ、ほかの土地で運を開こうとした

が、さてどこへ行ったものだろう?西へ向ってカリフォルニア州へ行こうという者もあり、

東へ向ってニューョークヘ出ようという者もあり、どうも意見がまとまらない。そこで父親

がいったl「よし銀貨を投げて占ってきめよう。表が出たらカリフォルニアへ行く.裏な

らニューヨークだ」

結局、表が出て一家はカリフォルニア州サン・ディエゴヘ移った。ハロルドは劇場に出入

りして雑用などをしていたが、やがて映画の端役に出る口をつかんだ。初めての映画である。

インディアンに扮して盆に食物をのせて白人の前へ持って行くだけの役だった。ハロルド自

身も映画などに出ても大したことはあるまい、と思っていた。誰もそう思っていた。だが、

とうとう食いつめてテントに寝起きする有様になった。なけなしの五セントを使い果したら

餓死するより仕方がない。そこで彼は決心したlよし、何とか映画に使ってもらって一定

の金が入るようにしよう。

それから毎日毎日、撮影所の配役事務所に通っては、毎日毎日断られた。もう必死である。

何としてでもドァマンの目をくぐって中へ入らなけりやだめだ。気がつくと毎日正午になる

とユニバーサル映画の撮影所から俳優連中がぞろぞろ出てきて、向うの食堂へ入る。食事が

ハロルド・ロイド

すむと、練白粉を塗った顔でまたぞろぞろ戻ってくるか、ドアマンはさっぱり気をつけて見

てはいない。そこで次の日、ハロルド・ロイドは正午になると立て看板のうしろへ隠れて顔

に練白粉を塗りつけ、食事から戻る連中にまぎれてまんまと中へすべりこんだ。

それから毎日、撮影所の構内へまぎれこんでは俳優連中に近づいていたが、一向に仕事の

口がない。しかし誰からも好かれて、中には楽屋の窓からこっそり入れてくれる者もあった。

この手を使えばドアマンをごま化す面倒がいらない。

その撮影所にハル・ロウチという俳優がいた。いつも端役で映画へ出る男だが、ある日そ

のロウチからロイドに話があったl実は伯母が死んでね、少し遺産がころがりこんだ。そ

の金で独立して映画製作に乗り出す。喜劇をやるのさ。どうだ、君、ひとつ、ぼくのところ

へこないか?

そこでロイドは手始めに一巻物の喜劇に出演した。不格好なズボンをはいてチャーリー・

チャップリンの真似をしたのである。

ある日、ふと名案が浮んだ。ひょっこり頭に浮かんだアイディアだが、これがロイドにと

っては大へんな財産になる。仕事にくたびれてフラリと劇場へ入ると、カンカン帽にツノブ

チ眼鏡という身仕度の男が牧師を演じていた。本人は別に滑稽な役を演じているつもりでは

ないのに、それが何とも滑稽である.よし、これだ、とロイドはその場で決心したlよし.

252

んだね。

だがロィドはやめずに頑張りぬいたI今では世界

ハロルド・ロイド

優じゃないぞ、いつまでたってもとてもだめさ、

ツノブチ眼鏡をおれのトレード・マークにしてやろう。それから演じた役でロイドの名はた

ちまち有名になった。

しかしロィド自身は二十歳になるまで自分の演技が滑稽だとは全く知らなかった。そのこ

と自体がぼくは一ばん滑稽だと思う。それまではいつもシェイクスピアの台詞を朗々と唱え

たりしていたものだ.初めて映画に出たころ、騰督からいわれているl君はとても喜劇俳

にロイドほど金を残した俳優はほかにない。

〔補注lロィドは大スターに旗り資産を築いてから、みずから出資してガンの治療法の研究を推

進するなど、社会事業にも熱心に活動した。ネブラスカ州に生れ十三歳で映画界に入り、のち独立

してプロダクションを経営して成功を収めた。コメディアンとして日本でもおそらくチャップリン

につぐ人気を獲得した。国昌o匡匡。瓦冨翼l】渇邑

253

映画はやめて何かほかの仕事で食って

一金持の名優である。事実、これまで

行く

本書は、昭和五十三年九月創樹社より刊行された『人生のヒント」、

及び昭和五十四年四月同社から刊行された「続・人生のヒント」を、

文庫収録にあたり若干の取捨を加えて一冊本に編集した。

デール・カーネギー(冒一の。色目の骨)

一八八九年’一九五五年。アメリカのウォーレンパー

グ大学を卒業。一九一二年、ニューヨークで話し方誹座

を開いて以来、世界中のいたるところで「話し方コー

ス」「セールス・コース」「管理者・経営者コース」など

を開設。大統領から高校生に至るまで何百万人という人

たちが受講し、社会全体に大きな影響を与えた。主な著

書に「人を動かす」「道は開ける」(以上創元社刊)、

「D・カーネギー自信がつく話し方教室」(知的生きか

た文庫)などがある。

知的生きかた文庫

D・カーネギー人生のヒント

、蕊(た72-7

著者デール・カーネギー

訳者高牧俊之介

発行者押鐘富士雄

発行所株式会社三笠書房

郵便番号一三

東京都文京区後楽一一‐三一一,七

電話。一一一‐一一一〈西‐一一{〈一〈代表〉

振替g一一一一つ人‐一一一一塁〈

印刷誠宏印刷

製本宮田製本

◎吻言目。い巨汀忌訂目底

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定価・発行日はカバー

に表示してあります。

高牧俊之介(たかまき・しゅんのすけ)

茨城県出身。早稲田大学を卒業して、多年イギリス・

アメリカの現代文学を専攻する。著香に「遠い雲、遠い

風』(創樹社)、『この多彩な英誕聖(北星堂)など、訳書

に「ザ・ベスト・オブ・サキーおよびⅡ」(サンリオ)、

『ジョン・コリァ奇談集IおよびⅡ」(サンリオ)など

のほか、オルダス・ハクスレイ、アムプローズ・ピアス、

アルジャノン・プラックウッド、H・E・ベイッ、ウラ

ジミIル・ナポコフ、チャールズ。G・フィニー、リチ

ャード・ウィンダム、エック・マスプラット、オウイ

ン・ラター等の翻訳およそ二十滴がある。この「人生の

ヒント」だけはもともと誰名で発表した。

食べ物のメリット。

デメリット早わかり事典

知的生きかた文庫一垂ユ

霊戦国武将の独り言

臣庸崖うまい文章が書ける本大隈秀夫繍柵離瀧鰹鵬』職懸熟語

川嶋昭司何を食べればどう効くのか、なぜ効くのか?

能宗久美子鰻鵜銅鵠綴畢蕊羅撰簾強

童門冬一一》蝋剃聯騨噸醗聯瀦鰯函

あなたの″心の目“は何を見ている?

不思議な心理学

純どに思う大いし事こよなみ

うこ、もとウでをツ

き見力な逃リいす、心心聞ののき深不運層思いが議§わ。;か自大る分事本でな/は時

土橋治重》鴨》》鮮倒鵬懸撫雑鰯灘》

麺ハーバIド流諏蔑い交渉術講霊一編沖鱗灘繍棚誰緋瀧撫噸

秀吉

昌尋には無限の力があるノ山口令子輔職嚇認識灘鯛蝿掛燃

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定価500円(本体485円)

何しろ、名にしおうデール・力

一ネギーの著書である。模範的

な人物をずらりと並べて読者に

敬服させるようなヤボなことは

しない。一癖も二癖もある人物

がいろいろ出てくる。しかし、

生き方はみなそれぞれ精彩あざ

やかだ。どんな人物にしろ、と

にかく、世の中にはこんな生き

方をした人もあるんだな、と改

めて人生を見直す機会になる。

さて見直してどうするか、その

先は各人の自由である。■■■