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169 看護における shared decision-making の実践とその責任 ―代理意思決定者としての家族への支援を通して 影山 葉子 はじめに リベラリズムが建国の理念として社会的にも根づいてきたアメリカ合衆国(以 下、アメリカ)に比べ、日本では、個人主義や自己決定、そして自律的(autonomous) /自立的(independent)な主体といった観念は、私たちの日々の生活を決定づ けるほどの強い理念的な役割を果たしているとは言い難い。また、アメリカに特 徴的にみられるリベラリズムは、諸個人にとって所与のはずの身体を自由意思に よって統制されるべき対象としているが、私たちの内臓の動きが意思の統制下に ないように、実際には、身体の働き・動きは自らの意思によって決してコントロー ルできないことから、身体に関して自分自身が最善の判断ができるか否かについ ては議論の余地がある 1 本稿では、看護現場における身体をめぐる判断として、患者本人の代理人とし て意思決定を迫られる家族と、そうした家族を支援する看護師との具体的な決定 プロセスを分析し、アメリカのリベラリズムの影響を受けてきた主体的な意思決 定モデルとは異なる、関係性の中で生まれる応答や責任の具体例を示してみたい。 看護実践における関係性の中での応答や責任が、医療現場という専門分野を超え て、自己決定というかたちで様々な決定を迫り、自らの決定の結果について全て の責任を負わされるような社会において、最終決定を下す者に社会がどう応答す るべきかを考える鍵を与えてくれると考えられるからである。 1980 年代以前の北米において、医療の意思決定は、医師が治療方針を決める パターナリスティック・モデル(paternalistic model)が中心であった。1980 年 代に入り、それぞれ異なる利点と欠点をもった複数の治療法が可能となり、ま た、医師によっても意見が異なるケースが生じるようになったことから、医師が 治療法について詳しく説明した上で患者自身が決定するインフォームド・モデル 1 岡野八代『フェミニズムの政治学-ケアの倫理をグローバル社会へ』(みすず書房、2012年)、第 一部 第一章、第三章を参照。

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看護における shared decision-making の実践とその責任―代理意思決定者としての家族への支援を通して

影山 葉子

はじめに

 リベラリズムが建国の理念として社会的にも根づいてきたアメリカ合衆国(以下、アメリカ)に比べ、日本では、個人主義や自己決定、そして自律的(autonomous)/自立的(independent)な主体といった観念は、私たちの日々の生活を決定づけるほどの強い理念的な役割を果たしているとは言い難い。また、アメリカに特徴的にみられるリベラリズムは、諸個人にとって所与のはずの身体を自由意思によって統制されるべき対象としているが、私たちの内臓の動きが意思の統制下にないように、実際には、身体の働き・動きは自らの意思によって決してコントロールできないことから、身体に関して自分自身が最善の判断ができるか否かについては議論の余地がある 1。 本稿では、看護現場における身体をめぐる判断として、患者本人の代理人として意思決定を迫られる家族と、そうした家族を支援する看護師との具体的な決定プロセスを分析し、アメリカのリベラリズムの影響を受けてきた主体的な意思決定モデルとは異なる、関係性の中で生まれる応答や責任の具体例を示してみたい。看護実践における関係性の中での応答や責任が、医療現場という専門分野を超えて、自己決定というかたちで様々な決定を迫り、自らの決定の結果について全ての責任を負わされるような社会において、最終決定を下す者に社会がどう応答するべきかを考える鍵を与えてくれると考えられるからである。 1980 年代以前の北米において、医療の意思決定は、医師が治療方針を決めるパターナリスティック・モデル(paternalistic model)が中心であった。1980 年代に入り、それぞれ異なる利点と欠点をもった複数の治療法が可能となり、また、医師によっても意見が異なるケースが生じるようになったことから、医師が治療法について詳しく説明した上で患者自身が決定するインフォームド・モデル

1 岡野八代『フェミニズムの政治学-ケアの倫理をグローバル社会へ』(みすず書房、2012 年)、第一部 第一章、第三章を参照。

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(informed model)へと変化した 2。しかし近年では、インフォームド・コンセント(informed consent、以下、IC)では患者が医師から与えられた情報を十分に理解できていないことや、個別具体的な患者の価値観や選好が治療法の選択に反映されにくいことが指摘され、患者と医師が情報交換をしながら共同で意思決定を行っていくシェアード・デシジョンメイキング(shared decision-making、以下、SDM) の概念が広く導入されるようになった 3。日本における医療の意思決定も、北米のこうした流れを受けてきた。 辻恵子は、看護学の文献を中心に SDM の概念分析をする中で、「IC は SDMの明らかな先駆であるものの、医療におけるその焦点は共同参加というよりもむしろ、医師の情報開示であり、積極的に患者が同意を表明することを要求するものであった」と述べている 4。また辻は、概念分析の結果、SDM を「当事者を巻き込みながら、当事者を含む関係者が相互に影響しあう動的な決定のプロセス」と定義している 5。SDM に関するこれまでの研究は、理念的または理論的な文脈で述べられており、SDM のプロセスにおける関係者間の交流、目的や見通し、希望や嗜好、価値観の分かちあい、対話による当事者の巻き込みに関する効果や相互作用要因といった、詳細な経験的な記述が殆どみられないことが指摘されている 6。 IC ではあらゆる患者に自己決定の機会を求めており、選択したこととそれに対する自己責任を強調されるのは非常に酷であるが、このような強制的自己決定という批判を回避することが期待できるとして、SDM を導入する利点を挙げている 7。反面、自己決定の文化土壌が必ずしも十分に定着しているとは言い難い日本では、パターナリスティック・モデルにならないように注意が必要であるという指摘や、アメリカでは SDM が患者の自己決定の実質の確保に効果的なのか、エビデンスが不十分という批判もある 8。 医師を対象にしたある調査では、SDM はパターナリスティック・モデルや IC

2 Cathy Charles, Amiram Gafni, and Tim Whelan, “Decision-making in the Physician-patient Encounter: Revisiting the Shared Treatment Decision-making Model,” Social Science & Medicine 49 (1999): 651-61.

3 Charles, Gafni, and Whelan, “Decision-making in the Physician-patient Encounter,” 651-61; 手嶋豊「医療における意思決定について」『神戸法学雑誌』60 巻 3・4 号(2011 年)、436-54 頁。

4 辻恵子「意思決定プロセスの共有-概念分析」『日本助産学会誌』21 巻 2 号(2007 年)、12-22 頁。5 同上論文、19 頁。6 Cathy Charles, Amiram Gafni, and Tim Whelan, “Self-reported Use of Shared Decision-making

among Breast Cancer Specialists and Perceived Barriers and Facilitators to Implementing This Approach,” Health Expectations 7 (2004): 338-48;辻、19 頁。

7 手嶋、440 頁。8 同上論文、438 頁。

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に比べ、医師にとって使い心地が良いことが述べられている 9。また、この調査の結果、医師が SDM への患者の参加を促進する鍵として挙げたことは、患者の情緒的レディネス(emotional readiness)や医師への信頼であり、患者との情報交換のための十分な時間と、治療の選択肢についての熟慮を提供するケアのプロセ

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の必要性が指摘されていた 10。こうした調査結果から、SDM の実践を通じて考えられることは、意思決定に関わる当事者は自己決定ができる自律的な主体というよりも、関係する人々との相互的な関わりの中で自律的な主体になっていくのではないか、ということである。本稿では、看護における SDM の実践の仕方を具体的な実践事例を用いて記述することを通し、リベラリズムが前提とするような自由意思を基盤とする主体像とは異なる主体のあり方について考察していく。最も親密であるはずの身体や家族が、いかに自由意思による自己決定という想定とは異なる、決定をめぐる複雑な倫理的問題を提起するかについて、詳細に述べていく。

Ⅰ 家族への意思決定支援という看護実践の現状

1.患者の代理意思決定者となる家族 本稿では、患者の代理意思決定者である家族への意思決定支援という看護実践を取り上げる。近年では、認知障害をもつ高齢患者や、医療の高度化により一命は取り留めたが植物状態のように意識障害のある患者など、自ら意思決定をすることが困難な患者が増えている。患者本人による意思決定が困難な場合、家族が代理で意思決定を行っている現状がある。医療の意思決定は、患者の生命に関わる決断を、じっくり考える時間などほとんどない状況で迫られることも多い。そのため、なかなか意思決定ができず、悩む家族も多く、家族にとっては大きな負担となっている。 鈴木和子は、家族は生きてきた時間を共有してきたことで、他者には理解しにくいことも判断できると述べている 11。また、伊勢田暁子と井上智子は、家族は患者の心身の安寧を願い、患者の希望や価値観について最も信頼できる情報を持つ存在であるとして、家族を患者の意思決定の代理人として最適とする先行文献を紹介し、家族の個別性や歴史の中で培われた患者と家族の関係性にこそ、意思決

9 Charles, Gafni, and Whelan, “Self-reported Use of Shared Decision-making,” 338-48.10 Ibid., 347. 傍点は筆者。11 鈴木和子「第一章 家族看護学とは何か」鈴木和子・渡辺裕子『家族看護学 理論と実践』第 4 版(日

本看護協会出版会、2012 年)、23-24 頁。

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定の鍵があると述べている 12。こうしたことが、家族が患者の代理意思決定者となる根拠になっていると考えられる。 果たして、家族は患者の代理意思決定者として本当にふさわしいのだろうか。岡野八代は、「現代の公私二元論において家族的なるものが、取り残されたように議論されないまま、だからこそ

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、しっかりと維持されている」ことを指摘している 13。自ら意思決定をすることが困難な患者は、自律的でない存在として公的領域から排除され、自己責任を負えず自らの自由意思で行動できないために私的領域からも排除され、患者のケアは家族が担うこととなり、家族のもつ親密性や排他性のもと、公的な議論とならないまま保持され続ける。このように考えると、患者の代理意思決定者を家族としていることについては、批判的に再考する必要がある。

2.葛藤を抱える看護師 伊勢田らはまた、意思決定に参加した家族員の多くが、最も重要な役割を担った医療者として看護師の存在を挙げている文献を紹介する一方で、看護師は家族への支援の重要性を深く認識しながらも、具体的な関わりや自らの役割を見出せずに葛藤していることが多くの先行文献で指摘されていることを紹介している 14。吉田千文は自らの体験をもとに、家族に対して看護師としてどの程度まで介入してよいのか、悩み、葛藤を抱えながら退院支援を行っていたことを報告している 15。 ダニエル・チャンブリスは、1979 年から 1990 年にかけてアメリカ国内の病院でフィールドワークを行い、看護師へのインタビューと勤務場面の観察をもとに、看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾を明らかにした 16。チャンブリスは、従来の生命倫理学について、「何をなすべきか」を問う際に、それ以前の問題である「何ができるか」を考えていないことを指摘し、「倫理学の目的は「何をなすべきか」という疑問に答えることであるから、実践への応用を考えれば、それは決定権のある人々のためのものであり、決定権のない実務者のものではない」としている 17。しかし、チャンブリスはフィールドワークを通して実際に看護師の実践を観

12 伊勢田暁子・井上智子「延命治療に関わる家族の意思決定」『家族看護』1 巻 1 号(2003 年)、48-54 頁。13 岡野、138 頁。傍点は原文。14 伊勢田・井上、52-53 頁。15 吉田千文「退院に向けた家族看護における看護師のジレンマ」『家族看護』2 巻 1 号(2004 年)、

22-30 頁。16 ダニエル F. チャンブリス(浅野祐子訳)『ケアの向こう側-看護職が直面する道徳的・倫理的矛

盾』(日本看護協会出版会、2002 年)。17 同上書、8 頁。

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察し、看護における倫理的問題が看護師たちの統制範囲を超えていることを明らかにした。日本においても、看護師の業務は保健師助産師看護師法によって規定されているが、業務の中には医師の判断や医師との共同を要する場合があり、看護師の判断のみで行えないことがあるため、責任の所在が不明瞭となりやすいことが指摘されている 18。また、朝倉京子と籠玲子は、看護師は自律的な判断を行い業務の中核を担っていたり、医師の指示に介入したり医師に助言していることから、現行の法制度で看護師の裁量とされる範囲を超えて臨床判断を行っている可能性を示唆している 19。 看護職が置かれているこうした状況で、葛藤を抱えながら、それでも患者や家族の意思決定支援を行う看護師の倫理を問う場合、今までとは異なる方法での独自の倫理分析が必要となることをチャンブリスは指摘している。つまり、「責任を与えられず、他者からの指示を実行する立場にあり、与えられた制約の中で任務を遂行しようと努める人たちの倫理」である 20。看護師は、医師のように最初から、何をなすべきか一人の人間が決められるという明確な責任があって、それが指令として与えられて実践を行うという自律的意思決定者ではなく、援助を必要としている人々を認識すること自体によって、応答することへと誘われる。看護実践においては、こうした責任= responsibility 概念の見直しが必要で、援助を必要としている人々から招かれ、応答しうる(= responsible)者とするケアの倫理での倫理分析が必要となる 21。 チャンブリスは、看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾は個人的なものではなく、組織的な権力構造によって生み出されることを、組織論研究者として明らかにした。本稿では、チャンブリスのこの功績に依拠しながらも、組織的な権力構造の中でもなお、看護ケアを続ける看護師の実践について、看護師の責任に焦点を当てながら、ケアの倫理の観点から考察をする。今回の研究では、近年の入院期間の短縮化に伴い、患者のスムーズな療養の場の移行(退院)を支援するた

18 白鳥孝子・吉澤千登勢「医療現場におけるインフォームドコンセント-看護師に求められる倫理的責務」『日本看護医療学会雑誌』14 巻 1 号(2012 年)、19-24 頁。

19 朝倉京子・籠玲子「中期キャリアにあるジェネラリスト・ナースの自律的な判断の様相」『日本看護科学会誌』33 巻 4 号(2013 年)、43-52 頁。

20 チャンブリス、116 頁。21 清水哲郎「ケアとしての医療とその倫理」川本隆史編『ケアの社会倫理学-医療・看護・介護・

教育をつなぐ』(有斐閣選書、2005 年)。

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めに配置されるようになった退院調整看護師 22 にインタビューを行い、患者の代理意思決定者としての家族への退院支援について、日頃の実践をなるべく詳細に語ってもらった。現代の公私二元論から取り残され、自ら意思決定をすることが困難な患者を抱えた家族と、患者の医療の意思決定に関して医師とは違い、自律的に関われない看護師は、互いに応答しあい、相互に依存しながら意思決定を行っていた。ケアする者とケアされる者は一般的に非対称な力関係とされるが、決して対等の力関係ではないものの、互いを他者として必要としあう相互依存の関係がある 23。自律的意思決定者ではない看護師にとっても、代理意思決定という大きな負担を背負った家族は、専門職の支援を必要とする脆弱な存在であり、そこには非対称な力関係がある。看護師よりも医師の方が更に、患者・家族との非対称的な力関係が明らかである。しかし、前述した医師を対象にした調査の結果からもわかるように、SDM を実践するにあたり、医師は患者の情緒的レディネスや医師への信頼を必要としていることから、患者に依存していると言える 24。こうした対等の力関係ではない者同志の、互いに応答しあい、相互依存する関係は、SDM の実践の根源的な部分であるとも考えられる。

22 退院調整看護師とは、病院内での患者の退院支援や地域との連携に関わる部門に配属された看護師の呼称で、看護師資格に加えて更に資格取得をする必要や養成課程で学ぶ必要はない。日本政府が 2025 年までに構築を目指している「地域包括ケアシステム」では、医療と介護の機能分化と連携が推進されており、退院調整看護師の誕生はこうした政策に関連している。2008 年からは、退院調整看護師を配置していることが診療報酬加算の条件になり、全国の病院で多くの退院調整看護師が誕生した。2011 年に日本訪問看護振興財団が実施した調査によると、退院調整看護師の看護師としての経験年数の平均は 23.9 年、看護師経験年数 10 年以上が 92.4%を占めていたことから、ほとんどが経験豊富なベテラン看護師であることがわかる。本稿で紹介する 3 名の退院調整看護師たちは全員女性で、この調査結果の看護師経験年数の平均とほぼ同様のキャリアを持っている。

23 岡野、159 頁で M. フリードマンを引用して指摘している箇所を参照。24 Charles, Gafni, and Whelan, “Self-reported Use of Shared Decision-making,” 347.

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Ⅱ 退院調整看護師たちの実践の語り

 SDM に関する先行研究には、詳細な経験的な実践を記述した研究が殆どみられないことが指摘されていたが、患者の代理意思決定者としての家族への退院支援に関する日本国内の先行研究でも、具体的な看護師の実践の仕方が見えづらかった 25。海外の先行研究でも、代理意思決定者としての家族の経験に焦点を当てた研究は多いが、家族に関わる看護師側の実践経験について、看護師がどのように家族を捉え、どのような判断をしながら退院支援を実践しているのか、詳細な記述をした研究はみられなかった 26。その理由として、看護は「言葉にならない技術」によって成り立つ営みであると言われており 27、具体的な実践の仕方を言語化することが難しいことが考えられる。そのため本研究では、一方向的なインタビューではなく対話式インタビューであることを重視し、研究対象者である退院調整看護師の経験を、同じ看護職である筆者が複数回のインタビューを行うことによって、「共同作業 28」のようにして実践の仕方を言語化していった。 ここでは、3 名の退院調整看護師の実践の語りを用いながら、実践の記述を行う。3 名とも患者の代理意思決定者である家族と関わりながら、意思決定を支援する際の責任について触れ、様々な葛藤を抱えながらも、家族と共同的に意思決定を行っていた。

25 影山葉子・浅野みどり「家族への退院支援に関する国内文献レビュー(第 1 報)-退院における家族への意思決定支援に焦点を当てて」『家族看護学研究』20 巻 2 号(2015 年)、93-105 頁;影山葉子・浅野みどり「家族への退院支援に関する国内文献レビュー(第 2 報)-退院調整看護師に関するこれまでの研究と家族への退院支援に関する今後の研究課題」『家族看護学研究』20 巻2 号(2015 年)、106-16 頁。

26 海外の先行研究では、代理意思決定者としての家族の経験として、延命治療に関する差し控え(withhold)や取り下げ(withdraw)について多くの研究がされている。本研究に関連する研究として、Lori L. Popejoy, “Complexity of Family Caregiving and Discharge Planning,” Journal of Family Nursing 17 (2011): 61-81 がある。この研究では、高齢患者とその家族、そして退院調整看護師とソーシャルワーカーを対象に、量的なスケールとインタビューを用いて退院計画の複雑さが明らかにされていたが、退院調整看護師の具体的な実践の仕方は記述されておらず、また、退院調整看護師やソーシャルワーカーと衝突した家族は含まれていなかった。

27 田中美恵子「『実践知』-『暗黙知』-『境界知』」『インターナショナルナーシングレビュー日本版』32 巻 4 号(2009 年)、12 頁。

28 西村ユミ『語りかける身体-看護ケアの現象学』(ゆみる出版、2001 年)、47 頁。西村は現象学を手がかりに、対話式インタビューにて暗黙的、無意識的な看護実践を言語化し、知の存在を浮かび上がらせる研究を行っている。本研究は、こうした西村のインタビュー手法を参考にしている。

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1.A さんの語り-自己決定できるように一緒に考えることが仕事の醍醐味 A さんは、急性期病院を退院した後の患者の療養の場を選択するにあたり、なかなか決められない家族との関わりをもとに、普段の実践の仕方について次のように語った。

A:�(家族は)わからないんだろうね。どっちがいいってね。で、私だったらこっちを選ぶよっ

て。こういう選択肢があって、私だったら、「多分ここの場所、一番○○さんに合うと思うよ。

ご家族にも一番、バスで行けるしいいと思うよ」とかって言う。うん。そうだね。示唆は

するかもしれない。

筆者:�それを言う時っていうのは、「私が言っちゃってもいいのかな?」って、思わないですか?

A:�私ね、あんまり思わない。1つを限定してお勧めすることってしないので。それは絶対しな

いので。(中略)私はやっぱり、ある程度患者さんとかを見てるので。あとはご家族の、多

分、背景?お金の背景とか、いろんなことを見てるので、やっぱり自分的に、「あぁ、ここ

がいいんだろうな」って思うのを持ってたりするので、勧めちゃったりはしますね。(A-3,�

pp.20-21 *アルファベットに続く数字はインタビュー回数、ページ数は逐語録のページ

数を示す)

 A さんは、家族が決められない場合、自分の考えや思いを家族に伝えることを「示唆」や「お勧め」と捉え、自分が言ってよいのかとためらうことなく家族に伝えている。A さんが自分の考えや思いをためらうことなく伝えられる理由として、「1 つを限定してお勧め」しないこと、患者と家族を「見てる」ので「自分的に」お勧めを持っていることを語っている。筆者は、決められない家族にとって、このような A さんの関わりは頼もしいと感じられるのではないかと考え、「決められないから、A さんに決めてもらいたい」と言う家族がいるのではないかと Aさんに尋ねてみた。

A:�(Aさんに決めてもらいたいと言う家族は)いるけど、「まぁ、それは私が決められることじゃ

ないから」って言って。細かく、いろんな情報を紙に書いて、「家族みんなで相談してきて」っ

て言って渡す。そういうところはやっぱり、はっきりしていかないと、「あの人が勧めたから」

とかになっちゃうんで。(A-3,�p.22)

 A さんは家族に複数の選択肢を与えた後、自分が決められることではなく、家族で相談して決めることを「はっきり」と伝えていた。このことは、この後に Aさんが語っているように、「あの人が勧めたから」となることを避けるため、責任の所在を明らかにしておくための A さんの対処策であるとも考えられた。

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 A さんは様々な情報から、「紙に書いて」家族に伝える情報を「セレクト」をしていた。

A:�私が知り得る限りの本人の情報、それと家族の情報の中で、セレクトしてもいいかな。まぁ、

話の中で家族の希望を聞きながらね、考えていくので。それこそ、最初から答えを持って

るわけじゃないので。「どうですかね?」って、キャッチボールしながら。(A-3,�p.23)

 A さんは「最初から答えを持ってるわけ」ではなく、家族との「話の中で」「キャッチボールしながら」希望を聞くことによって、患者本人と家族に関する情報収集をし、収集した情報を基に考えることによって、家族に勧める内容を「セレクト」していた。A さんは、家族との「キャッチボール」を通して患者と家族を「見て」、患者と家族にとって「あぁ、ここがいいんだろうな」と思うものが「自分的に」「セレクト」できていた。 また A さんは、老衰のため経口摂取が困難になった患者に対して、経管による人工栄養の導入について悩んでいる家族と関わった経験を挙げて、次のように語っていた。

A:�やっぱり、どんな状況の中でも最後に選ぶのは、本人であったり家族であることだけは間

違いないので。私は強く、割と何でも「(管は)入れない方が本人のためだと思うよ」とか

言うけど。最後に家族が「でも、入れたいです」って言った場合は、「じゃぁ、入れてもら

おうか」って、なるもんね。(中略)「いくらでも相談、何回も来てもいいよ」って。「一緒

に考えるから」って。一緒になって、やっぱり考える時間は大事だと思うんだよね。いろ

んな医療を決めたり、今後の生活を考えるにあたってね。家族だけで考えて来なさいって

いうのが私たちの仕事じゃないから。一緒に悩んだり、考えたりしていかないと、この調整っ

ていう仕事はできないね。(A-3,�p.28)

 A さんは、最終的な意思決定は本人または家族がすることと捉えているが、ある程度の選択肢を「セレクト」して家族に伝え、あとは「家族だけで考えて来なさい」と家族に決定を委ねるのではなく、「いくらでも相談、何回も来てもいいよ」と「一緒に悩んだり、考えたり」して家族の意思決定過程に寄り添っている。Aさんは自分の思いを、「強く、割と何でも」家族に伝えており、これは一見、パターナリズムのようにも感じられるが、そうではなく、A さんは最終的に自分に決定権がないからこそ、自分の思いをきちんと伝えているとも考えられる。この事例のような人工栄養の導入は、患者の生命予後にも直結する問題であり、導入を反対する A さんの意見は患者の死を早めることにもなりかねない。そのような重大

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な意思決定に関して、A さんが自分の思いをそこまで主張できるのは、A さん自身が述べているように、患者と家族をきちんと「見てる」からこそである。A さんは家族の意思決定に責任をもって関わり、だからこそ自分の思いを「強く、割と何でも」伝えていると考えられる。 以上のような具体的な実践の仕方を語る前に、A さんは、退院調整看護師として患者や家族の意思決定を支援するということについて、次のように語っていた。

A:�本当は一緒に考えるのが仕事じゃんね。で、私たちは答えを、本人が答えを出せるように

導く人ではあるけれど、答えを言う人ではないじゃん。(中略)自己決定できるように促し

ていくのが、これのね、仕事の醍醐味かなと思うんだけど。(A-3,�p.19)

2.E さんの語り-予防線を張りながら関わる E さんは、決められない家族との関わりについて語る中で、入院して間もない、家族が現状さえも受け入れることができていない段階で、将来的なことについての意思決定が求められる状況について語っていた。

E:�(家族と面談をしていると)初めて、「あっ、じゃぁ、私が決めることで、このお父さんの

命を決めちゃうことになるんですね」って、初めてここでわかる人も…いる。「あっ、じゃぁ、

じゃぁ、ちょっと…もう 1回考えます」って言ったり、まぁ、「わかりました」って(言

う人もいる)。でも、それがお金との折り合いもあるかもしれないし。自分たちの介護負担

のことがあるのかもしれなし。でも、ただそれだけじゃなくって、涙を流す人も多いから。

終わりにね、なっちゃうっていうのを、自分たちがね(決めないといけないと知って)…。

(E-2,�p.27)

 患者が入院した後、通常は主治医から家族に現在の病状と今後の見通しについての説明が行われるが、主治医からの説明だけでは現状把握ができない家族も多い。入院期間の短縮化が図られている現在の病院では、患者が入院した早期から退院調整看護師が関わることも多くなっており、退院調整看護師は、医師からの説明を家族にわかりやすい言葉で補いながら再度説明する役割も担っている。高齢やがんによる終末期の患者の場合、今後の見通しとして、人工栄養の導入や積極的な治療をどこまで行うか、急変時の心肺蘇生はどうするかなどの決定が必要となり、その決定の内容によって退院後にどのような施設で療養をするか、または自宅で医療や介護のサービスを利用しながら療養するのか、選択肢も異なってくる。退院調整看護師からの説明を聞き、患者の命を終わりにしてしまうかもしれないような重大な決定をしなくてはならないことに気づいた家族は、「涙を流

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す」ことも多い。E さんは、続けて次のように語っていた。

E:�(家族は)「前は、先生がこうしなさいとかって言ってくれたけど、言ってくれないんです

ね、先生は…」って言う。「どっちがいいのかって、もう、言ってくれないんですね…」っ

て。「全部自分たちで決めなきゃいけないんですね」って言う人はいる。(中略)なんか、ぜー

んぶ家族が背負わなくちゃいけなくて。で、すごい、命の長さを決めるみたいなことになっ

てくる話じゃないですか。だから、重いですよね。それで、明後日までにとか、来週月曜

日には…、「じゃぁ、火曜日ですか?お返事は」とか。(中略)何を決め手に、どう決めて

いいか、わかんない。(E-2,�pp28-29)

 医師が決めるパターナリスティック・モデルの意思決定のあり方が批判され、自己決定を尊重した IC が望ましいとされ、広まったが、患者本人ではない家族が、実際には患者という他者についての決定であるにも関わらず、「全部自分たちで決めなきゃいけない」現状がある。しかも、入院期間が長くなると診療報酬が減ってしまう現在の医療システムのもとでは、病院はいつまでも待ってくれない。短期間に他者の命を左右するような決定をしなくてはならない家族と関わりながら、E さんは、「ぜーんぶ家族が背負わなくちゃいけなくて」「重い」と感じ、

「何を決め手に、どう決めていいか、わかんない」と家族の立場を慮りながら語っている。 A さんの場合、「お勧め」する様子や、経管による人工栄養の導入についての意思決定への関わりで、「強く、割と何でも」と積極的に家族に自分の意思を伝える様子を語っていた。しかし E さんは、決められない家族から意見を求められた時、自分の意思を述べることにためらいを感じていた。

E:�(自分が言っていいのかと思うことが)最初はすっごいありました。そういう話は先生とし

てほしいなって。(家族は)「でも、看護師さんの経験からどうですか?」っていうふうに

聞くんだよね。(中略)看護師って、最終的にそこまで責任負えないって、どこかで思っちゃ

うから。お医者さんだったら、それを言ってあげなくちゃいけないみたいなところも、あ

るから。(中略)だから私、前に医者に、「だから結局、責任取りたくないんでしょ?」っ

て言われたことあるもん。「そういうのは先生が全部言ってください。私から勝手に、看護

師の見解で言えません」って(言ったら)。(中略)(医者が言うことも)一理あるかなって、

ちょっと思っちゃった。

筆者:でも、私たちの責任とかっていうのが、ちょっと曖昧な部分がありますよね。

E:�そう、そう、そう、そう。でもね、私ね、患者さんや家族がほんとに聞きたがっていると

ころって、「あの看護師さんがこう言った」んじゃなくって、本当に経験からとか、もう、

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180 同志社アメリカ研究 第 53 号

「個人的でもいいから意見を教えて」ってね。なんか、言ってくるのって、わかる時がある

んですよね、なんか…最近。そう、前はね、「それはちょっと先生に聞いてもらわないと…。

だって私、この患者さんのね、全ての病状、今まで治療してきたわけでもないし、見込み

がわかるわけでもないんだけど」って、思ったんだけど。でも、「本当に看護師さんだったら、

どう思います?こういう相談、いっぱい受けているでしょ?」とか、「傾向だけでもいいん

です」みたいに言われた時は、「あぁ、そういうことを聞きたいのかなぁ」って、ちょっと

最近思う。で、それで(言ったことで家族に)責められたことはないんですよ。(中略)私

ね、だから、最初は本当に嫌だったし、そんなこと言うのも嫌だったし、聞かれるのも無

理だから、「先生に、先生に…」って言ってたけど、本当にこうやって毎日やっていく中でね、

この人たちが本当に困ってて、本当に意見を聞きたい。もう、率直な意見を聞きたくって、で、

言ってくるんだなって、思うようになったもんだから。もう、話をする時って、割と私は

意見を、最近はちょっと言うようにしてる。もちろん、こういう方向もあるし、こうなる

かもしれない。で、もちろん、予防線を張るよ。必ずしも、そうなるわけじゃないって。で、

「そんなふうなことを、娘さんが一人で決めなきゃいけないの、すごく、辛いですよね。私

も無理だと思う」っていうふうには言うんだけど。でも、「娘さんがこんだけ悩んでね、こ

んだけお父さんのことを思ってそうしたんだから、絶対に、間違ってるってことは私はな

いと思う」って。(中略)なんか、本当にかわいそうじゃないですか、荷が重すぎちゃって。

(E-2,�pp.30-32)

 E さんは、退院調整看護師になって間もない頃は、家族から聞かれても、「そういう話は先生としてほしい」と思っていた。それは、看護師では「最終的にそこまで責任を負えないって、どこかで思っちゃうから」なのだが、この後に E さんは、実際に医師から責任について指摘された経験から「一理あるかな」と感じたことを語っている。E さんは「どこかで思っちゃう」と曖昧に語っているが、明確な責任を持つ医師から「責任取りたくないんでしょ?」と言われ「一理あるかな」と感じたことからは、曖昧なものながらも、E さんは責任を、曖昧なものだけでは済まされないものと認識していると考えられる。それが以降の語りにつながっていく。 筆者は、E さんの責任の話から看護師の責任の曖昧さを改めて感じ、そのことを E さんに問いかけると、E さんも賛同した。しかし、その後の語りからは、Eさんの家族に対する関わりが変わっていったことが語られている。 E さんは、患者や家族が「ほんとに聞きたがっているところ」が、「あの看護師さんがこう言った」ではなく、「個人的でもいいから意見を教えて」ということであると、「わかる時がある」と語っている。患者や家族は、看護師に責任を問うこと以前に、とにかく意見を聞きたがっていることをわかるようになった E

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看護における shared decision-making の実践とその責任 181

さんだったが、退院調整看護師になったばかりの頃は、家族に自分の意見を「言うのも嫌」、「聞かれるのも無理」だった。しかし、日々の実践の中で、家族が「本当に困ってて、本当に意見を聞きたい」と思って自分に聞いてくることがわかるようになっていった。 また、その語りからは、家族が求めていると E さんが思っていたような意見の内容と、同じものを家族は求めているわけではないことに、E さん自身が気づいたことがうかがえる。家族が求めていると E さんが思っていた意見とは、患者の病状や治療を踏まえ、それらを全て理解した医師が述べるような意見であった。しかし、実際に家族が求めている意見は、「個人的」な「経験」、これまでの「傾向」といった「率直な意見」であった。家族は、E さんに医師のような対応を望んでいるわけではなく、家族はとにかく意見が聞きたいのであり、それだけ患者の代わりに意思決定をするということは家族にとって「荷が重」く、家族が「困って」いるということに、E さんは日々の実践を通して気づき、「割と私は意見を、最近はちょっと言うようにしてる」と関わりが変化していく。E さんは家族の思いを汲み取り、「そんなふうなことを、娘さんが一人で決めなきゃいけないの、すごく、辛いですよね。私も無理だと思う」、「娘さんがこんだけ悩んでね、こんだけお父さんのことを思ってそうしたんだから、絶対に、間違ってるってことは私はないと思う」ということも伝えている。 ところが E さんは、自分の意見を言うことに「予防線」を張っていると語っている。「こういう方向もあるし、こうなるかもしれない」ことを伝えたうえで、「必ずしも、そうなるわけじゃない」ことも伝えるという「予防線」である。こうした「予防線」を張る E さんの様子は、次の実践の語りにも関連している。

E:�やっぱりみんな、最終的な責任って、怖いんだよね。だから…楽じゃんね。お医者さんが

そう言うんだからとか、病院の看護師さんがそう言うんだから、それに間違いはない、なかっ

たよねって、どこかでそう思いたいんだと思うんだよね。そう。だから…そう、そう、そう、

そう、そう。だから、本当に迷っているんだと思うんだけど。うん。だから、私もほんと、

重いですよ。言えないけどね。(中略)で、私ね、悩んでもいいと思うんだよ、聞かれた時に。

「難しいよね」って。

筆者:あぁ、一緒に?

E:�「私も迷うよ」って言って。自分の親で、お母さんがね、やっぱりそうなって、いくら老い

だよって言われたって、大事なお母さんだから。そう。「私もわからないです」とかって、言っ

ちゃうときもあるかな。みんながそんなに簡単に決められないことで、で、それを決めるのっ

て厳しいから。(E-2,�pp.37-38)

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 看護師に責任を問うこと以前に、家族はとにかく意見を聞きたがっていることがわかった E さんだったが、ここで再び責任について触れている。E さんは、家族は「本当に迷っている」が、専門家に意見を聞くことで、「それに間違いはない、なかったよねって、どこかでそう思いたい」と思っていると捉えている。ここで最初に、「やっぱりみんな、最終的な責任って、怖いんだよね」と語っている「みんな」とは、家族のことだけではない。E さんは、自分も含めて「みんな」と語っていると考えられる。専門家が言うから間違いはないと思えば「楽」になる家族の気持ちがわかるからこそ、専門家である E さんにとっては「重い」責任が伸しかかってくる。しかし、それは専門家の立場では家族には「言えない」。看護師の責任が曖昧であっても、家族は看護師を頼ってくる。 けれども、E さんは家族から聞かれた時に、「難しいよね」と「悩んでもいい」ことを語っている。ただし、その場合は専門家としてではなく、同じ家族の立場としての語りに変わっている。「私も迷うよ」と家族に話す時、E さんは看護師ではなく、母親の代理意思決定者という立場になって語っている。家族の立場になれば「私もわからないです」と言える。このように、専門家の立場から家族の立場にシフトすることによって、看護師の意見が一個人の意見になる。こうしたシフトが、E さんが看護師として意見を言うことに対する拭いきれないためらいを表しており、これも「予防線」であるとも考えられる。最後に、「みんながそんなに簡単に決められないことで、で、それを決めるのって厳しいから」と E さんが語る「みんな」は、代理意思決定という重い荷を背負った家族だけでなく、自分自身への言葉かけにもなっていると言える。

3.G さんの語り-最後に家族の背中を押す決定打を伝える G さんもまた、決められない家族から自分の意見を聞かれ、ためらう様子を語っていた。G さんは、研修などに参加して学ぶ意思決定支援の仕方が、実際の臨床の場ではなかなかその通りにはいかないことから語り始めた。

G:�意思決定の基本は、意思決定を誘導するようなことは絶対、そういうふうなことはしちゃ

いけないけども、やっぱり、一番本当に、その人たちが一番いい選択ができるように、な

おかつ、本質をみつめたような選択ができるような、そういうふうにもっていく、アドバ

イスできるっていうかな…。そういうのは大事だよっていうのはね、それこそ、研修なん

かに行くと聞くけど、なかなかね…。うーん… それじゃぁと思って、一言言いたくなっ

ちゃう時もある。あるんですけどね。(中略)やっぱり、こうした方がいいですよ、ああし

た方がいいですよって言うのはね、言うのはやっぱり一番いけないのかなぁって。そうす

るとやっぱり、看護師さんに言われた、先生に言われた、っていうふうになっちゃってね。

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看護における shared decision-making の実践とその責任 183

だからやっぱり、どっちを選んでもいいけど、やっぱりおうちの人が「私たちが選んだか

ら」っていうね、ふうにしないといけないなぁとは思うんですけど。結果が悪くなった時に、

結局誰かの責任にしたくなっちゃうもんね。(G-1,�pp.29-30)

 G さんからは、「意思決定を誘導するようなことは絶対」してはいけないけれども、「一言言いたくなっちゃう」現実が語られた。「こうした方がいいですよ、ああした方がいいですよ」と言うことは、「看護師さんに言われた、先生に言われた」という「誘導」になってしまう。G さんは、「私たちが選んだから」と家族が思えるような意思決定にすることが必要で、そうでないと「結果が悪くなった時に、結局誰かの責任にしたくなっちゃう」ことを語った。 G さんは自らの実践の様子を次のように語っている。

G:�おうちの人の意思が決まらなくて、どうしようって、私が配慮してまとめたっていう、まぁ、

過去にはあったのかもしれないけど。結局、どっちかにしなきゃいけないから。結局、情

報提供して、「どうします?」っていうふうに、最終的には情報提供して決めてもらうしか

ないのでね。なので、どちらかに関して、「こっちのほうがいいと思うよ」とは言えないけ

ど、やっぱり私としては、「第三者からみると、こっちのほうがおうちの人のためにも、患

者さんのためにもいいと思うよ」ってことは、言わせてもらうことはあるんですけどね。やっ

ぱり、命の保証のこともあるし、おうちの人の生活のこともあるもんだから、「やっぱり、こっ

ちがいいかな、私はね」って。すごい聞かれるから、「看護師さん、どう思う?」って。(自

分でも)迷う時もあるよね。(G-2,�pp.29-30)

 家族が意思決定できなくても、「結局、どっちかにしなきゃいけない」、「決めてもらうしかない」状況は、「こっちのほうがいいと思うよ」と「誘導」してはいけないと思って言えない G さんであっても、「第三者からみると、こっちのほうがおうちの人のためにも、患者さんのためにもいいと思うよ」、「やっぱり、こっちがいいかな、私はね」と言わせてしまう。G さんは、家族に自分の意見を「すごい聞かれる」状況に迫られ、「迷う時もある」なかで、患者の「命の保証」と家族の「生活のこと」を考え、自分が意思決定を「配慮してまとめた」としても、そのことは「過去にはあったかもしれない

0 0 0 0 0 0

」出来事でしか語れない。 家族から意見を求められることに対して、G さんは E さんほど「嫌」や「無理」ということは語っていなかったが、A さんほど積極的に自分の意思を伝えていることを語っているわけでもなかった。インタビューの別の箇所で G さんは、基本的には家族に聞かれれば答えるが、自分からは言わないというスタンスを語っていたが、そんな中でも自分から意見を言う場合について、次のように語っていた。

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184 同志社アメリカ研究 第 53 号

G:�明らかに、こんな感じでいったら、患者さん、おうちの人の生活が破たんしちゃう、生活

が破たんしたら患者さんの安全が守れないっていうと、基本的には、患者さんの安全が守

れないっていうのはダメかなぁと思うんですよね。他のことだったら、いいと思うんです

けどね。(中略)最低限の安全が守れないような状況とかだと、家族が看たいって言って

も、介護放棄しているわけではないけど、実際できていないとかっていうと、それはちょっ

と無理だよねって話になっちゃうんで。患者さんの安全っていうのは、一番優先されるよ

ね。それで、やっぱりあとは、介護。介護が、楽に介護ができるってことが 2番目ね。(中

略)介護って生活じゃんね。(中略)だから、やっぱり、生活として考えないと。介護だけ

を考えてても、このサービスを入れて何とかできる、何とかできるって言っても、この人

たちの生活全体を考えて、生活の中でうまく流れていかないと、なかなかうまく続かないし。

なかなか難しいですね。(G-2,�pp.35-36)

 G さんは家族の代理意思決定に関わる際、「患者さんの安全」を最優先し、その次に家族が「楽に介護ができる」ことを優先している。この 2 点について疑問に感じる場合は、G さんから家族に対して自ら意見を言っていた。このことは、前述した G さんが「配慮してまとめた」語りでも、「命の保証のこともあるし、おうちの人の生活のこともあるもんだから」と語られている。つまり、G さんが自ら家族に意見を言うのは、家族に対する G さんの「配慮」であると言える。この「配慮」とは、患者を含めた家族の「生活全体を考え」ることである。 また G さんは、患者の退院後の療養の場を自宅にするか施設にするか迷っている家族の事例に関わった経験を踏まえ、家族が G さんに意見を求めることの理由について、「あと誰かの一言があれば決められる」ことを語っていた。

G:�(家族は)迷ってるけど、「ちょっと、背中ひと押ししてもらいたいと思うから、どうした

らいい?」っていうだけの話で。(中略)「んじゃ、そうするよ」って、(家族が)言って決

めたなら、その人の意思だからね。(中略)だからね、やっぱりね、いいことも悪いことも、

きちっと言ってあげるっていうかね。こういうリスクもあるとか、こういう短所もあるって、

いいことだけを伝えるんじゃなくて、やっぱり情報提供はして、不公平がないように言わ

ないと。やっぱり、それこそ意思選択の操作をするようなね、言い方をしちゃいけないと

思うから。ちゃんと言って、その上で迷ってたら、「やっぱりでも、いろいろ考えると、こっ

ちの方がいいよね」とかね。(中略)なんかこう…決定打を言っちゃうとか。でも、やっぱ

りこうだから、こっちの方がいいかもねっていうね。うーん… 迷っている時はね、でも、

そういう最後のひと押しみたいのがね、あるかもしれないですね。(中略)でも、それも支

援なのかなって、私は思うんですよ。で、やっぱり相談に来たってことは、相談して、やっ

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看護における shared decision-making の実践とその責任 185

ぱり、そこで結論、自分で結論が出せるようになるとか、決められるっていうことだから。

操作っていう言い方はちょっと…。アドバイスが、専門職からのアドバイス。だから、看

護師さんに聞いて、「まぁ、看護師さんの言うことだったら、そうだな」とか、「あっ、詳

しくわかったな」とかっていうことで、そのひと押しがあって、決定ができたら。意思決

定をしなきゃいけないわけだから、意思の決定ができないと、支援にならないから。その

一言が、ちょっとしたことが専門職の立場から言ったら、私だったら「今の状況なら、こっ

ちをお勧めかな」って、勧める、勧めたいよっていうことをね、やっぱり言うことはある

けど。それはそれで、決めたとしても、まぁ、それでもいいのかなって。うん。やっぱり、

迷ったままでずっとじゃね。やっぱりね…。(G-2,�pp.42-43)

 G さんはこれまでの語りでは、決められない家族に対して自分の意思を伝えることを、家族から「聞かれれば」、「自分からは言わない」と、消極的で受動的な「専門職からのアドバイス」として語っていたが、インタビューを進めるうちに、家族が「患者さんの安全が守れない」ような意思決定をしようとした場合は、自ら意見を言うこともあることを語った。更にここの語りでは、「専門職からのアドバイス」は、「最後のひと押し」、「決定打」といった、積極的で能動的な語りに変わっている。ただし、「決定打」を言う前には、「いいことも悪いことも、きちっと言ってあげる」、「いいことだけを伝えるんじゃなくて」「リスク」や「短所」も「不公平がないように」伝えている。このことは、E さんが語った「予防線」にも通じるものがある。 G さんは自らが行っている意思決定支援という看護実践を、家族が「自分で結論が出せるようになる」、「意思決定をしなきゃいけないわけだから、意思の決定ができないと、支援にならないから」と捉えている。そのため G さんによれば、「最後のひと押し」や「決定打」は、「意思選択の操作」ではなく、看護師の言うとおりに家族が決定をしたとすれば、それは家族の意思で決定したこととなる。Gさんはここで、A さんと同様の「お勧め」という言葉を用いて、「専門職の立場」で「やっぱり

0 0 0 0

言うことはある」と、振り返るように語っている。

Ⅲ 考察

1.応答する責任 3 名の退院調整看護師たちは、自分たちには決定権がないことを語っていた。決定権がないのであれば、責任を問われることもないのだが、3 名の退院調整看護師たちは自分たちの実践の中で、責任を問われることを気にかけていた。なぜ

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なら、自分たちには決定権がないと思っていても、決められない家族が頼ってくるからである。退院調整看護師の責任とは、家族が意思決定をする過程で家族に招かれ、その招きに応答する責任である 29。 退院調整看護師の家族への意思決定支援は、単に「する」か「しない」かの決定や、選択肢から 1 つを選ぶ決定を目指していない。退院調整看護師は家族と関わりながら、それぞれの患者と家族の個別的な状況を把握し、「こうした方がいいですよ、ああした方がいいですよ」と意思選択の操作をするようなことは言ってはいけないと思っても、内容やタイミングによってははっきりと言っていたり、選択肢や情報について、「こういう方向もあるし、こうなるかもしれない」ことを説明しながらも、「必ずしも、そうなるわけじゃない」とも説明している。そして、時には「私も迷うよ」、「私もわからないです」ということを家族に伝えながら、家族と一緒に悩んだり考えたりしている。現在の病院は、入院期間が長くなると診療報酬が減額するシステムのため、患者が早期にスムーズに退院することが退院調整看護師には期待されている。そのような状況の中でこうした支援の仕方は、要領を得ず、曖昧で、非合理的であるかもしれない。 退院調整看護師の責任とは、一般的な規則、すなわち義務に従う責任ではなく、具体的な状況の中で0 0 0 0 0 0 0 0 0

発せられた他者からの声に応答する責任である 30。チャンブリスは、看護師はそもそも他の人々とともに働く職種であり、看護師の行為の中には仕事の構造ゆえにこそ可能なものがあり、環境がその行為を許していることを指摘している 31。退院調整看護師は、国の政策のもと、臨床での必要性に応じて配置されるようになったが、診療報酬加算に不可欠な存在にはなったものの、明確な責務が付与されたわけではない。法的にも、これまで通りの看護師と変わらない。自律的意思決定者ではない看護師にとって、主体的で、責任を持った自律的な判断ができることとは、初めから決められているものではなく、人々とともに働く実践のなかで浮かび上がり、育まれ、形成されるものであると言える。

2.SDM と責任の分有 退院調整看護師は、家族を患者の意思の代弁者する重要な存在と捉えつつも、患者本人とは別個の他者とも捉えている。A さんは、自分が知り得る限りの患者本人の情報と、家族との会話のキャッチボールの中で、自分なりの患者像を持ちながら、家族に自分の意見を伝えていた。G さんは、家族の意思に患者の安全や

29 脚注 21 の清水「ケアとしての医療とその倫理」の責任の概念を応用。30 岡野、158 頁。傍点は原文。31 チャンブリス、248 頁。

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看護における shared decision-making の実践とその責任 187

家族の生活が考慮されていないと思った場合は、自らの意見を伝えていた。こうしたことは、家族の中の患者個人を浮かび上がらせる。 支援を求めている、代理意思決定という重荷を背負った家族と、その家族の声に応答した退院調整看護師は、その関係性の中で、患者の代わりに意思決定を行う責任を分有していた。最初から責任というものがあってそれを分かちあうというよりも、家族と退院調整看護師という取り替えのきかない他者同士が、コミュニケーションを通して共に意思決定を分かちあう中に、責任が現れる 32。そして、そのことによって、お互いがそれぞれに主体的な存在になる。責任の分有とは、アイリス・マリオン・ヤングが述べているように、個人的に

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負うが、一人で負うものではなく、他の人々と共に担っているという意識をもって負うことである 33。 退院調整看護師の応答する責任は、患者の代わりに意思決定することを家族だけの責任に閉じ込めない。代理意思決定については、次のような見解がある。箕岡真子は、医療に対する同意権はあくまで本人にのみ属するものであり、患者本人の同意権という権利を家族など他の人

0 0 0 0 0

に譲り渡したわけではなく、単に本人に代わって同意しているだけと述べている 34。須永醇は成年後見制度について述べる中で、「推測される本人の意思」の名のもとに、恣意的な決定がされる危険がないとは限らず、また、そうした事態をも回避する点で、代理意思決定は「他者決定」と認めておく方が適切ではないかとしている 35。エリカ・ルーカスト・ストーンストリートは、代理意思決定は患者が希望しただろう決定と同じである必要はなく、代理意思決定者は患者として振る舞うことに焦点を合わせるのではなく、患者中心(patient-centered)のままであることを述べている 36。 自己決定が医療における意思決定の指針となる原則の中心を占めるようになったことによって、患者本人による自己決定ができなくなっても、自己決定ができたらどのような決定をするかにこだわるようになった 37。リベラリズムが根づいているアメリカでは、家族が自分たちの決定を患者本人の決定とすることで代理意

32 ジャン=リュック・ナンシー(西谷修・安原伸一朗訳)『無為の共同体-哲学を問い直す分有の思考』(以文社、2001 年)の分有の概念を参照した。

33 アイリス・マリオン・ヤング(岡野八代・池田直子訳)『正義への責任』(岩波書店、 2014 年)、 163 頁。傍点は原文。

34 箕岡真子『蘇生不要指示のゆくえ-医療者のための DNAR の倫理』(ワールドプランニング、2012 年)、40 頁。傍点は筆者。

35 須永醇『須永醇 民法論集』(酒井書店、2010 年)、253 頁。36 Erica Lucast Stonestreet, “Love as Regulative Ideal in Surrogate Decision Making,” Journal of

Medicine and Philosophy 39 (2014): 523-42.37 Alexia M. Torke, G. Caleb Alexander, and John Lantos, “Substituted Judgment: The Limitations

of Autonomy in Surrogate Decision Making,” Journal of General Internal Medicine 23 (2008): 1514-17.

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思決定者としての苦悩が和らぐ反面、家族の決定に関する根拠の曖昧さが指摘されている 38。日本では、患者本人がどう決定するかよりも、家族の協力や配慮が患者本人の利益にもなるとして家族の決定が優先されやすい 39。自己決定にこだわることで、アメリカにおいても日本においても、患者の代理意思決定者である家族は「患者(の代理人)」であることに重点が置かれてしまうが、家族は、自分のことではない、患者という他者のことを決める「意思決定者(decision maker)」でもある 40。 臨床現場において、患者の代理意思決定は家族にしてもらうことに固執することが起こるのは、岡野が指摘したように、患者のケアを担う家族が公私の領域から取り残されていることを実際に証明している。それに加えて、看護師の実践からは、看護師が固執する理由が看護師という自分の立場からくるものであることも明らかになった。看護師の仕事そのものが自律的な自己決定ができないとされていることから、看護師は家族の意思決定に介入することを躊躇ってしまう。このことが、臨床現場において、患者の代理意思決定は家族にしてもらうことの固執を強化することにもなりかねない。 サラ・フライとメガン-ジェーン・ジョンストンは、「看護師は、人間関係における責任とケアの文脈に配慮しながら伝統的倫理原則を看護実践に活用できなければならない。看護の実践は患者ケアに関する倫理的課題を解決するにあたって両方の方法を用いることでさらに向上する」と述べている 41。看護職が直面する道徳的・倫理的矛盾について、組織的な権力構造によって生み出されることを明らかにしたチャンブリスの研究に依拠しながらも、本研究では、そのような状況のなかでも看護師が成し遂げている実践の仕方を明らかにするため、実践の内実に迫っていった。本研究で共同的な意思決定の実践の仕方を具体的に記述したことによって、一般的な倫理原則から外れるために言いにくかった看護実践をケアの倫理の視点から再検討し、もっと言語化していく必要性が示唆されたと言える。

おわりに

 本稿は、医療現場の全ての意思決定について、SDM のみを推奨するものでは

38 Ibid.39 箕岡、39-40 頁。40 Torke, Alexander, and Lantos, 1514-17.41 サラ T. フライ・メガン-ジェーン・ジョンストン(片田範子・山本あい子訳)『看護実践の倫理』

第 3 版(日本看護協会出版会、2010 年)、44 頁。

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ない。例えば、救命救急の現場では、医師の判断で、何よりもまず患者の命を救うためにあらゆる治療や処置が行われることがある。自分たちで決めたいという思いが強い患者や家族の場合は、主治医が十分な情報提供をしたうえで、患者・家族が決めることもある。このように、患者の病状や、患者や家族の性格や理解度、家族の関係性等の置かれている状況によっては、パターナリスティック・モデルやインフォームド・モデルが優位な状況もあるだろう。しかし、そうだとしても、いずれのモデルの根源には、意思決定に関わる人々の間の「信頼」という相互依存の関係が重要になることを忘れてはならない。 江原由美子は、これまでの知識生産がいかに男性主義的であったかについて述べ、そこに内在する問題として、「学問や専門的知識の生産の場における主題・概念・有意性・問題状況に即して知識生産を行う限り、それらの知識が必然的におびてしまう傾向」を指摘している 42。SDM に関する研究について、理念的または理論的な文脈では述べられているが、経験的な論述が少ないという現状も、江原の指摘するこの問題に関係していると考えられる。医療現場での意思決定は、何かを決めるその一時の出来事ではない。意思決定の仕方をモデルに分けて論じることで、そこから削ぎ落とされてしまう人々との出会いや、人々との日常的な関係性、他者と共にすること(share)の内実に、目を向けていく必要がある。

※ 本稿は、JSPS 科研費 25670939 と財団法人 上廣倫理財団 平成 25 年度研究助成の助成を受けて行った研究成果の一部である。

42 江原由美子『フェミニズムのパラドックス-定着による拡散』(勁草書房、2000 年)、126 頁。

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ABSTRACT

Practice and responsibilities ofshared decision-making in nursing:

Supporting family members actingas surrogate decision-makers

Yoko Kageyama

This study examined specific examples of practical shared decision-making (SDM) as identified from the role-based narratives of nurses responsible for providing support to patient family members acting as surrogate decision-makers. The concept of SDM, whereby patients and healthcare providers make decisions together while exchanging information, has been broadly adopted in recent years. However, the majority of previous studies focused on the principles and theory of SDM, and few studies attempted to describe the experiences and specific narratives of SDM stakeholders. Despite requests for support from family members faced with the heavy burden of surrogate decision-making, the nurses—who, unlike physicians, lack the authority to participate autonomously in decision-making on patient medical issues—described the ambiguity of their personal responsibilities and their hesitation in intervening. Using the ethics of care as a foundation, the present study describes practical narratives on decision-making in which family members, who have been left behind by the dualism of modern liberal theory on the public and private sectors, and nurses, who are unable to participate autonomously in the decision-making process, communicate and rely on each other, and thereby suggests the potential for sharing responsibilities and provides a critical reassessment of autonomous initiatives that enable the self-determination regarded as a general principle in modern society and surrogate decision-making by patient family members.