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Page 1: ちょっと変わった経済原論gken.sakura.ne.jp/gken/wp-content/uploads/2013/09/1b2040...2013/09/01  · 33 ちょっと変わった経済原論 で、その経済変化と変容

ちょっと変わった経済原論

ーー変容論的アプローチ

チェンジ

資本主義は変わったか

i

マンブラザーズの劇的な倒産

から

一年がたつた三OO九年九月一五日こんな見出しがメデ

ィアを埋めいろんな人がいろんな現象をあげては変わっ

たといっていた

主語もそして述語も無規定なこんな質

問に答える自信は私にはないが不況対策優先ということでギ

リギリまで引き延ばした衆議院選挙も蓋を開けてみれば民主

三O八議席の圧勝実体が変わっ

たかどうかはわからないが

変革を口にする人が増えともか

ム1

ドが変わったことはた

しかなよつだ

日本の場合は

変わったとい

てもいまのところまだ政権

交代どまりであるが金融危機の震源地アメリカにおけるチェ

ンジは社会変革の運動を内に含んでいた

二OO

七年に入つて

はじまった民主党大統領予備選に若いオパマ上院議員はチエ

とか白人と黒人がいっしょにやれるはずがないと思い込ん

ではいけない我々はシ二シズムにおちいってはならないと

いっ

たことを繰りかえしていることだ

つまり我々は「変わ

る」ことができるということを強調しているのだこのチェ

ンジは自動詞なのだろう

そのあとはじめて医療制度改革

基礎教育の充実低賃金労働からの脱却などに言及し具体的

な状況を「変える」ことができると力強く主張するこちら

はどうも他動詞のようだ

自分たちの考え方を切り替えるこ

とで既存の社会秩序の壁を打破できるのだというメッセー

ジを送っているようだ

立派な左翼じゃないか

自分たちの価

値観を問うことなしにどの政党が得になりそうか投票日に

選ぶ権利を行使すればよいというのとはワケが違う

選挙戦の実態は違うと思うがそれでもこのチェンジは草

の根的なムl

プメントをつくりだす魅力をもっ

ているそこに

鶴田満彦著

グローパル資本主義と日本経済

2008年世界経済恐慌=rlOO 年に一度の危機J をどうみるか 理論的実証的に分析し望ましい経済社会システムを

提起 四六判2400円

北村洋基著

現代社会経済学マルクス『資本論jのエッセン

スをわかりやすくコンパトにかっ大胆に現代化した経済学テキスト A5判 2200円

一井昭著

ボリテイカルエコノミー『資本論j から現代ヘ

小幡道昭

ンジをかかげて立候補した

知名度抜群のヒラリl-

クリ

ント

ン上院議員に対して当初劣勢だったオパマ候補が二

OO

八年

初頭のサウスカロライナ予備選で劇的勝利を収めたとき流れ

は変わった続いて共和党マケイン候補との本選挙に臨むな

かで勃発したリl

マンショ

クとそれに続く経済危機はチェ

ンジをかかげるオパマ候補に不利にはたらくという見方もあっ

たが実際は逆に追い風となった

転機となったサウスカロライナの党大会でオパマ候補は支

持者に対するスピーチをJ12耳目円白ロ岳山口唱という印象的な

フレーズで締めくくったこの簡明なフレーズは米語が苦手

な私にもよく聴きとれた

でもこのチェンジは自動詞なのだ

ろうか他動調なのだろうかなどとつまらないことが妙に気

になってインターネ

トでスピーチの原稿を読んでみたお

もしろか

たのはチェンジという単語を引きだすまえに若

者の無関心にふれ金持ちが貧乏人のことを考えるはずがない

は一九六

0年代末ベトナム反戦を叫び平等な公民権の確

立を掲げエスタブリ

シユメントにプロテストした若者たち

の面影がチラリと顔を覗かせていたそしてだんだん思い出し

てきたこのようなアメリカのニュ

l

レフトは戦後民主主

義の申し子だった私に理屈ぬきにピンときた新左翼的マルク

ス主義者の大学生たちから「そりゃズブズプの民主主義だろ

自己否定できなきゃダメさ」などとお説教されるまで高校時

代の私は自然発生的な反戦運動に自然に馴染んでいたそし

てマルクスの化身のようなことをいうボスがいて上意下達

の規律に縛られる党派では最後までパトスがわかなかった

多少の符余曲折をへて大学で経済学を教えるようになりさす

がにチェンジというシンプルな言葉は使えなかっ

たがこのよ

うなチェンジの意味についてはあれこれず

っと考えてきたの

簡潔体系的な現代マルクス

経済学テキスト

A5判 2400円

ロパートパクストン著

ファシズムの解剖学ファシズムとは何かファシ

ストとは誰かファシズムは

過去形で語ることができるのか 第一人者が答えます

瀬戸岡鉱訳四六判 4500円

tど士t量生 I主価格税別1~7T ヨ 11=ヨ干 113-infin33東京文京区本郷)-5-)7三洋ピルTelO缶詰03-73日 F日 03一回03-η56httplwwwsakura--shotencoml

経済理論学会編

童画経済理論第46巻第3号 (20ω年 10月)特集経済学の数理的方法

と記述的方法藤森頼明守健二大西広塩沢由典Zか 85判 2000円

32 ちょっと変わった経済原論ちょっと変わった経済原論33

変化と変容

でその経済

学ではチェンジという問題に対してどのよ

うな答え方をしてきたのか

私がいちおう「専門」にしている

のはマルクス経済学の原理論で

事実私はこれしか知らな

あま

だからいずれこちらに話は絞るがこの原理論も許多身

内のある「

経済理論」の

一つとい

う顔をしているのでまずこ

の広い意味での経済理論がチェンジをどう捉えているのか考

えてみよう

といってもほとんどの理論家は「そんなことはいまさら

問うま

でもない」というだろ

うというのも

経済理論は商

品価格にせよ地価や株価にせよ雇用にせよ賃金にせよ

その動きを解明することを中心課題にしているからである

済学の理論は変化を説明する「経済法則」が存在すると主張す

ることで人間やその社会を対象とする他の学問に対して社

会科学として

の優位性を誇って

きたか

つて盛んに風潮され

たこのような優越を信じるかどうかはお

としてともかく

ユニークな立場をとってきたのはたしかだ

しかし考えてみれば意識的に行動しているはずの人間の

社会において

自然科学パリ

の法則が支配しているという

のは

奇怪なことだ

たとえば私がいまこの文章を書いているの

も何か私の知らない「法則」に支配されて書いているのだろ

うかあ

なたがいまこの文章を読んでいるのも

法則で予見

るこ

とである

あとのほう

は変化と

区別して変容とよぼ

法則にしたがって現象は「変化」するがその法則を支え

ている状態は「変容」するのである「どんなに現象が変わっ

ても変わらないのが法別である」何だか同義反復の本質論

だがこれで頑張る頑固な理論家もけつこう多いしかしあ

る法則が支配していた状態から別の状態に移るということは

経済事象の常だだから経済学者はしょ

ちゅう「経済学の

危機」を唱える

ほとんど万年危機論だ

なぜ自分たちが同じ危機論を繰り返さなくてはならないの

か奇妙なことに経済

学者がそ

のワケを自覚的に追求してき

たとは思えないそのたびにただ新しいモデルのセットを作

り替えてき

ただけである

「今度こそピツタリのニュ 1

デルだ」というのだがその状態は変容するこれだけたく

さんモデルをつ

ればモンタージュ写真のようなものでど

れかが当たるのはある意味当然だ

かし犯人は次々に

変身する

これでは「七つの顔をもっ男」の正体はわからな

いモデル論が眼前の状態をより精綴にコピーすることに熱中

すればするほどある状態から別の状態へどのように変わるの

かという問題は視野から消える新しい経済学では古

なっ

たモデルはサッサと捨てられ

モデル聞の変換を説明するメタ

モデルの存在などは端から相手にされない

可能なことなのだろうかこれはちょっと夢遊病者的な状況

「私は書こうと思って書いてい

るのだ」というと「そう思

うのは

もっともだがそ

れはあなた

の過去のあの経験が無意識

のなかでかたちを変えて書く

よう促しているのだ」と親切に

分析してくれる人もいる

「余計なお世話だ他人の心理分析

をしたがるあなたの深層心理をまず分析したら」と思わず

言い

たく

なる経済理論はさすがにそこまでナイーブではない

個人の意識的行動を直接

支配する法則があるというのはヘン

しかし経済法則というべきものはたしかにあるという

のも人聞は相手の考えを読んで自分の行動をきめる

分の意志で行動しているというがその決定は相手の意志によ

って左右される

だからかまだちょっと条件が足

りない

これなら政治法則だつでありそうだ肝心なのはこの

「相手」の素性でそれが不特定多数となることが

決定的とな

相手が匿名性を帯びるのは市場の特徴である「マーケ

トが利上げをきらっ

た」などと日本

語だとふつうはチグハグ

な感じを与える物主構文が妙にピ

タリする他者依存の決定

と主体の匿名性といった条件が整うとそこに個人の意志をこ

えた経済法則の支配がみられるようになる

しかし

経済法則で変化を説明し

てきたのだから

チェ

ンジ

l

の問題を事改めて問つには及ばないというならだいぶピント

が外れているとすぐ気づくだろうチェン

ジといっているの

は法則に則った変化ではな

法則を支える基礎条件が変わ

変える力と変わる力

さて「流れを変える」「状況を変える」という意味でのチ

ェンジは変化ではなく変容のことだとするとこの変容とl

いう問題に対して経済理論はどのような答え方をしてきたの

ここ

で話をマルクス経済学の原理論に進め「マルク

ス経済学な

らこの問題に答えられる今こそマルクスだ」と素

直にゆきたいところだがここにはちょ

と屈折した物語があ

「今予」そマルクスだ」という人は状況が変わればすぐに

「マルクスはもう古いこれから

はケイン

ズだシュン

ーだ」という人だ

この種の浮気女に何度も裏切られマルク

ス経済学もずいぶん大人にな

った

この物語を知ることは昨

今の変革ム

ドをみる

につけあなが

ち無駄ではないと思うの

で三幕仕立てで語っ

てみよう

第一幕は出生の場だ

フランス大革命のあと初期の社会主

義者にとっ

て社会変革は焦眉の課題であった彼らは政治革命

に続いて経済改革へと焦

点を移し新しい学問としての経済学

を旺盛に吸収しそこに解答を求めた

市場経済の不備を

きその改革を求めるという方向は彼らの一つの共通基盤で

あっ

たたとえばフランスで支配的であったプル

ドン派の

社会主義者は金属貨幣がさまざまな弊害をもたらすと考え

労働証券に貨幣の機能を担わせる改革を提唱し小生産者の資

本不足を無償信用によって補完する人民銀行を考案した

イギ

35 ちょ っ と変わった経済原論 ちょっと変わった経済原論 34

l

l

リスでも協同組合的な生産組織によって私的競争の弊害を

取り除くべきとする主張が現れ不況対策として紙券発行にメリッ

よる有効需要喚起を早くも唱えるものも登場した

意識的に利用したり部分的に取り替えたりできない「自然法

を改良するとかあるいは不完全な市場を改善して完全競争の

トを活かすとかといった観点は一切な

いその法則は

この状況

ドと一脈通じるものがありそうに恩われ

則」だという

則」の客観的解明こそが『資本論」

彼の眼前に広がる「近代社会の経済的運動法

初期の社会主義者は発展しつつある資本主義の影の部分にている

光をあてそれを取り除くことであるべき社会を理性の力でただその場合

建設できると信じていた

市場経済の仕組みを知ればそれを

な性質のものを含んでいた同じ軌道を巡回する天体運動や

改善し操作できる

人間の社会は人間が意識的に変えること

振幅をくりかえす振り子運動のようなタイプの法則だけではな

ができると「変える力」に強い信頼を寄せていたのだ

彼ら

いむしろマルクスが重視したのは特定の方向に向かて累

は自己の立脚する価値観個人主義的な社会観といったもの積的に発展する傾向法別であったこの発展法則こそ「近代

の普遍性を疑うことはなくそれに合致するように社会をつく社会の経済的運動法則」のコアだった

り変えようとしたのである

モダニズムといわれる所以であ

変わる力を説明する法則があるというのである

ヲ匂

ここから表裏の関係にた

れん

かしこれでは本質

的には何も変わらない

ではないか

る一つは収数説でもう一つは自己崩壊論である収数説と

自分たちの

価値観

を絶対的なものとして変えることも軒ゲに拒

いうのは簡単にい

みただ市場や制度をそれに合わせようとしているだけだから

こうした社会主義者に対してマルクスは後発の批判的社

会主義者として登場したマルクスが強調したのは資本主義

である

いうの

が自ら変容する社会であるという観点であったつまり「変わ

世界に収数説を考えていたかどうかは今日のグロ

る力」のほうに焦点を

てたのである

を考えるうえでおもしろい問題だが

九世紀に生きたマルク

このためマルクスが経済学に求めたものも先行の社会主スの関心は当時のセンターに向けられていた

義者たちとは根本的に異な

ていた

経済法則を利用して社会

では

この収殺するセンターの内部はどんな状態に行きつく

のかそれが自己崩壊論であ

これも決めつけると反論がい

くらでもでるところだが

一言でいえば資本主義は発展する

とともに内部の矛盾対立を深め成り立ちがたい状況に陥

るという主張であるマルクスが若いときにエンゲルスと意

気投合してアウトラインを描いた唯物史観は晩年の『資本

論」のうちにかたちを変えて精綴化されてい

った

現行の

『資本論』は三巻構成だが生前に自ら刊行したのは

ちょっと変わった経済原論

第一巻のみでそれは「商品価値」にはじまり「資本蓄積

」で

終わる

芭蕉の「奥の細道トは連句仕立てで表と袋に分かれ

ているときくが『資本論』第一巻も表と裏からできている

前半は商品の価値通りの交換が労働力商品にも適用される

の課題だとその序文に謡

「自然法則」といってもそれはかなり特異

社会は変わるがその

つ二

つの特徴的な

主張がでてく

ってしま

えば資本主義は発達するにつれ

て単

一の姿に近づいてゆくという主張である

スの現在の状況は遅れて資本主義化したドイ

先行するイギリ

の近未来だと

マルクスが西ヨーロ

ッパという枠をこえて全

と資本のもとに必然的に利

潤が生じるという剰余

ある

これは実は資本の利潤が商品経済のル

主張する社会主義者に対する批判になっている

価値論で

l

ルに惇ると

むしろ

利潤

はルールの帰結だというのである

もちろん利潤の獲得は正

当だとい

ているのではない

それは道徳的に不正だい

や正当だとレ

ベルの問題で

はない

というのである後半で

はこの利潤を資本が専ら蓄積にまわすと生産力が急激に

昇するなかで雇用量が収縮するという窮乏化法則が説かれてい

さらに資本家間でも競争が激化し小資本が打ち負かさ

れ大資本に吸収されるという集中集積論が展開される

極端

にいえば少数の資本家と大量の失業者が面と向き合う世界

でこれで

は世の中流石にもつわけがない

必の

フランス革命の余韻漂う西ヨーロ

ッパ急進社会主義者が己

が理性の閃きに酔いしれさまざまな社会改革の妙案を宣伝す

時代「ちょっと変わった

社会主義者

」が遅れてや

ってきて

臼く

「そんなインテリが頭のなかで練り上げたケチなフラン

で世界は自由に変え

られるものじ

ゃな

資本主義は発展の

税込 4200 円

戦後台湾の言語政策

北京語同化政策と多言語主義

中川仁著

税込 3150 円

4E

中国出版文化の総合情報誌

るけ人骨円

お湖則一梢附

に吋駅静止

尚一

は今日の変革ム

環溺海交易圏の形成と変容

清末民国期華北東北の市場構造

山本進著

税込 4935 円

清末中国の対日政策と日本語認識朝貢と条約のはざまで

閤立著

月刊東方年間購読料税込 1000 円〔見本誌無料贈呈〕

|

バリズム

東方書店東京都千代田区神田神保町 1-3

h甘pIlwwwtoho-shotenco jp

37 ちょっと変わった経済原論

0955-x03-39377-)3infin仏39303-1te

36

放に自壊するその原理斯くの如し」と第一世帯はこんなと

ころだろっか

資本主義の変容

ところが資本主義はマルクスが描いたのとは異なるかたち

で変容した遅れて資本主義化したドイツの現実は

マルクス

が描いた

「資本論」の世界とはズレていた

重化学工業をベー

スにした新興産業でイギリスを凌ぐめざましい発展を遂げなが

タリア革命だ」と世界同時革命を掲げる学生と「いやいや

日本はまだ対米従属の半植民地民主主義も未成熟市民革

命が先でプロレタリア革命はその後だ」と二段階革命を唱え

る学生がガンガンぶつかっていた革命の「カ」の字も言わ

なくな

った後もこれは尾を曳いたことあるごとに欧米と比

べ日本は「遅れている」と嘆いてみせるキザな「近代化」論者

と何かにつけ「日本的」という形容詞をつけて賞賛する論者

はいつまでも残ったここまでくるともう権威主義の二つの

ちょ っ と変わっ た経済原論 38

ら農民層分解は進まず従来型の中小経営も温存される一種あり方というほかない

の二重構造が定着してゆくこのあたりの歴史分析はともか

話を戦前に戻すとこうした論争をクールに眺める「ちょっ

く二面をも

った

現実はいわゆる「修正主義論争」を生むこ

とになる

「資本主義は変わったもはや

『資本論』は使えな

い」とするベルンシユタインたちと「その変化こそ『資本論」

の傾向法則が貫徹した結果だ」というカウツキーたちとの聞の

論争である

似たような論争は日本でも展開された論争の主役の多く

は第一次世界大戦後のドイツに留学経験をもっ少壮のマルク

ス経済学者だったここではそもそも日本は資本主義なのか

否か明治維新はブルジョア革命か天皇制とは何かといっ

た戦前の激しい論争とな

った

「日本資本主義論争」というそ

うだ戦後生まれの私は直接論争の現場をみたわけではない

がその名残がまだ濃厚な時代に育っ

た「この日本を資本玉

義と言わずしてどこに資本主義がある来るべき革命はプロレ

の媒介説である

くて宇野理論

んである宇野が実際におこな

たのは主としてこうした枠

「本当は正しいから異端視されるのだ」などと逆にこれだけ

組みに沿った原理論の構築であったその核心を

で読む価値があるように勘違いもしたがともかく資本主義

でいうのは簡単だがこの方法で中身を持えるのはたいへ

一言でいえ

ば純粋資本主義論ということになる

つまり商品経済的な

から社会主義に移るのではなく資本主義そのものがまずその

姿かたちを変えるのだという変容の問題をクローズアップし

してみせることである

そのため宇野は

『資本論』を批判的

この変容はいかに論じられるべきか意識的に方法論を展開し

関係だけで自立的に運動する純粋な資本主義像を論理的に構成

ちょっと変わった経済原論

た意義は大きい

主張した

『資本論』には理論的に説明できない

一九世紀のイ

輸入したばかりの『資本論』を現実の分析にどう活かすべき

に再検討しそこに含まれる誤りは誤りとして除去すべきだと

んけんごう

ごっ

か気鋭のマルクス

中集積論は原理的に説明できない一九世紀のイギリス資本主

ギリスに特有な要因が混入しておりとりわけ窮乏化法則や集

主義者たちが陪

一喧槙誕の論争を展開してい

た戦前の日本それを端からじっとみていた「ちょっと変わっ

義に特有な歴史的現象であると切って捨てたのである

たマルクス経済学者」がいた彼は戦後になってこんなこと

をいいだした

「資本主

うにひっくり返す結果になる

資本王義はその発展とともに

どう捉えるか方法論からやりなおしだ」と第

これはマルクスの収倣説と自己崩壊論をちょうど鏡像のよ

義といってもそれ自身変わるこれを

二幕はこんな

純粋な姿に近づき

その結果内部の矛盾が激化して崩壊する

感じだろうか

のではない逆に純粋な資

本主義であれば景気循環を通じて

資本主義の多様性

繰り返し矛盾を解決し永続的に発展できるところが現実の

資本主義は

一日はこの状態に接近しながら

一九世紀末には

しかし字野の方法論は原理論のなかから変容の契機を永久

追放するに等しい

結果になった現実の資本主義がどんなに変

その傾向が逆転し商品経済外の不純な要因に強く依存する体

質に変わった純粋な資本主義から誰離するに至ったところ

って

も資本主義である以上変わらぬ本質があるはずだ

に資本主義の歴史的な限界があるというのである

これを純粋に取りだしたものが原理論だということになる

たしかに景気循環のような「変化」は含まれるがそれはあ

正統を尊ぶ精神からみればこれは以ての外「『資本論』に

くまで法則にしたがって繰り返す運動だからであるそして

誤りなどあろうはずもなくすべては読み方が浅いからだ」と

と変わったマルクス経済

学者」がいた字野弘蔵という学者

で私は醤咳に接したことも尊顔を拝したこともない

高校生

の頃に住んでいた早稲田界隈の古本屋にこの先生の本がたく

さん並んでおりそのころから興味本位で読んできたので私

のほうは顔なじみのつもりできたがアカの他人だこの人の説

くところはとどのつまりこの論争には方法論的な限界があ

「資本論』のような資本主義の原理論を

の歴史的現実

に直接適用する方法が誤りのもとだということのようだ

れて資本主義化した国は独自の歴史的特徴を帯びる

日本が

資本主義化したのは資本主義が異なるタイプに分かれて発展

した帝国主義の時代だだから原理論をベ

スに資本主義の

タイプを類型化しこの発展段階論を基準に現状分析に臨むべ

きだというのであるいわば原理論の間接適用説段階論

l

たちまち異端審判が下され「そんなのはマルクス理論ではな

やぬ

だ」と郷撤される

若いころは判官晶展で

39

-っ

てよいし抜まをでカの愛

のを肩像は図になまツたオ

それでも資本主義は変容するとすればそれは純粋資本主

者の目からみればそうなる

義の想定にた

つ原理論で説明できない不純な要因によるものたこの点では同じように第

現実の資本主義は不純な資本主義としてどれもみな混合

渡期だと明言していた

資本主義だというわけである

やけに形式的な二分法でこれ

しかし後知恵に過ぎないが

で変容が説明できるのかと思ってしまうが次のように付言す

パと極東日本の資本主義化に固有の問題と捉えたほうがよい

れば立派に可能になる

ここでは資本主義の成立は国民国家の形成と深く結びついて

資本主義はその発展期においては純粋資本主義にますますいた

その発展は対外的には国家聞の対立とナショナリズムの

接近する傾向を示したところが一九世紀末に後発資本主義

高まりを引きおこす必然性があった

国が重化学工業をべ1

スに資本主義化するなかでこの純化傾ヨーロ

パの資本主義がナショナリズムと帝国主義のくびき

向は逆転したという純化不純化論である詳しい説明は避けを脱することができぬままやがて第一次世界大戦に突入し

るが不純化というのはたとえば保護貿易政策や社会政策と

その結果相対的地位を低下させるなかでその西と東にイン

いった国家による政策的関与や独占体や労働組合など私的競

ターナショナルを建前とする双子の超大国合衆国とソビエ

争の制約などを幅広く

夜つ概念であるこの接近し離れるとい

二O

ト連邦が台頭しこの人工国家が対抗するかたちで

う変容は原理論では扱えない原理論は純粋な資本主義なら世界は支え

られてきたようにみえる両者は大国のメリ

自立的に発展できるということを示すだけで純化不純化と

最大限活かし

国家予算に裏打ちされた巨大技術を開発し大

いう変容は発展段階論で分析されることになる

味な大衆

(人民 )文化のプロパガンダで社会統合をはかり周

このアイデアはドイツの資本主義化を念頭におき先行す辺の第三世界を糾合すべ

るイギリスと異なるタイプの資本主義が台頭することで第

一次

主義列強のように直接戦うことはついになかった

世界大戦にいたるという古典的帝国主義の時代を念頭におい

えば仲の悪い似たもの夫婦のようなものだった

て固められたものだった

そしてこの大戦を契機に史上初めて

純化不純化論は

九世紀末から二

の社会主義国ソビエト連邦が誕生するイギリス資本主義の誕

パの資本主義の変容をベ

生が資本主義の時代の始まりであるとすればたとえ一国

一地

がしかしそれはむしろ冷戦期の資本主義にピ

ッタリする面

域でも世界史的には社会主義の時代に突入したマルクス主義

をも

ちょっと変わっ た経済原論

主義者たらざる学者の宇野もま

一次大戦以降は社会主義への過

二度の世界大戦は西ヨーロ

国民国家と結びついた西

溺を競ったが西ヨーロ

O世紀初頭の西ヨーロ

l

スに考案されたアイデアである

っていた

冷戦構造のもとで合衆国は産軍複合体制を形

ト上での地殻変動であった

新自由主義に変容を迫るものではあってもグロ

ムというプレートを転換するものではない

このプレートの

本主義は

一日

は純粋な資本主義に接近しながらその後百年余

いくつ

かのかたちをとりながらも不純化の道を歩んでい

るというシナリオは終わ

辛うじて段階論のうちに残された純粋資本主義像を基準に

それに近づき離れるといった変容問題は消散し専ら資本主義

の多様化だけが強調されるようになる

れば類型化はでき

これが第三幕の結末ということになる

昨年から今年にかけてのチェンジ

パリズ

l

大転換は純化不純化論に幕を引いた資

った

そして不純化というかたちで

しかし現象を比較す

る純粋資本主義の原理論が出る幕はない

l

O

成し予算規模が拡大し西ヨーロッ

パも雇用維持や農業保護な

どを通じて国家の介入規制がますます顕著となっていった

うした現象をパックに対外投資をめぐる植民地争奪といった

古典的帝国主義をこえて

「国家独占資本主義」「福祉国家体

制」といったかたちでバージョンアップされていったがしか

しそれらはいずれも資本主義の不純化の現れとして概括さ

れすべて帝国主義段階という大きなプレー

ト上の地殻変動と

みなされたのである

ところが二

世紀末にはじまった冷戦体制の崩壊は

プレ

ートそのものの大転換であった

新たなプレートを突き動かす

マグマは冷戦体制のもとで右からも左からも低開発を強いら

れてきた地域国家における資本主義的発展であったこれを

グロ

パリズムとよぶとすると社会主義諸国の崩壊と先進資

本主義国を席捲した新自由主義の台頭はみなこの同じプレー

楽はB

人びとの喜怒哀

図像のなかにあるのです

漢代の画像石消末の画線砕

舎の解説図連環画年菌文

革期のポスタ

ー映画アニメ

などなど

美術会棄には死んでも載ら

ない

虚々実々のヴィジュアル世界を

気ままに訪ねてみませんか

世紀の

ットを

パの帝国

今にして思

I河河文引泣一ユE111叫111ω I1l1II凶II凶llmID1 αIIl川 IIW

大修p

館書店 本町IllI)l

4] ちょっと変わった経涜原論 40

変容論的アプローチ

私はこの三

であるそして

C

-aa--

入ってみよう

と思ったがオパマ大統領の話につられて読

れで「ちょ

ってい

だっ

たが当時から「

を惹かれる質なのだ

目を凝ら

すとどうや

幕ものの長い芝居を観ているうち何か恥な予感

か条件をもちこむことでうまく繕つであるらしいさらに

こうした部分は外部からいくつ

を肌で感じるようになり幕切れ近くにとうとうひどい腰痛に

見舞われる羽目にな

った一九九九年秋のことだ

った利いた

風なことをぬかしてきた私の腰砕けは友人たちにウケた「借す単一資本主義像に合わせ演律的な内部の論理とシ 1

りものの理論を自分の足で支えるってえのは辛かろうぜなど

踏み込んでみると純粋資本主義論がこの外的条件に独自のパ

イスをかけていることが気にな

ってき

純化不純化論が課

につなぐため単一の外的条件に無理に絞り込むかたちになっ

ている資本主義の原理像は現実の資本主義がどのように変

C

A

とからかわれ

一人リハビリに励みながら原理論のあり方に

B

ついて改めて根本から洗いなおすようになった私だけの第四

幕だ

考えてみれば純粋資本主義というのがはじめからどこか

シックリこなかったのだ私は原理論の研究者として厳密な

演縛的推論に徹するように育てられてきた用語を正確に定義

しそう

を規定するなら必ず

ということになる

B

ならば

ならば少なくとも Dということはありえな

い云身といった論理展開で全体像を理論的に構成する方法

をたたき込まれてきた

こうした思考方法にある程度慣れてく

るとたいていは目をつぶっていてもスルスルと進む

うにな

るのだが時としてどうしてもうまくゆかないところがでて

くる行き詰まったときに「一九世紀イギリスの現実はこうだ

から」などと誤魔化さずパカ正直に論理にしがみつくことで

原理論の内部から灰見えてく

開口部であるツ

ルツ

ルに磨か

れた「美しい」理論より昔からアパタやエクボのほうに気資本主義は不変の純粋資本主義と不純な要因の合成である

容し多様化しようとも不動でなければならないという要請に

健気に応えようとしている美人も辛いものだ純粋資本主義

は「変化」を含んではいてもその内部に「変容」の契機があ

ってはならない変容や多様性は原理論の外部に付加される

非市場的要因のせいだという結論からすべては逆算されてい

るのだ

逆に関口部に光を当てて再構成してみると資本主義がどの

ような仕掛けでその姿かたちを変えるのか変容の問題が理

論の内部に半分入ってくる

こうい

う原

理論なら資本主義は

変わった

というときの主語になる資本主義像を構築できるの

ではないかそして「変える力」の加えようももう少しわ

かるかもしれない

関口部をどう埋めるかには暗黙の合意が

社会的に必要となる資本主義はその意味でイデオロギー的な

社会であり政治的説得が重要な意味をもつのである

現実がどんなに変わっても資本主義は変

わらないのだという

硬直的な本質論を乗りこえられるかもしれない

理想の社会主

義もあれば現実にとんでもない社会主義もあったようにひ

どい資本主義もあればましな資本主義もあるそしてこれ

らはある範囲で変えることができるのだ

このことを明らかにするためさらにもう

一歩開口部に立ち

みはじめた人はもう耐え難い睡魔に襲われているころだろ

うここらで切り上げようともかくこうした視点で資本主義

の変わり方の構造に焦点を当てる方法を変容論的アプローチ

とよびこ

では情報化とか温暖化とか少子化とか手広く商っている憎め

ない男だ

で答え

て日く「たしかにお宅はす

っかり変わ

たでも変わり身の

早さは北日とちっとも変わってないな」「お

いおいイヤミか」

「ちょっと違う精確にいえばイヤツカミ

だ」ちょっと白けた笑いがいつまでも続いた

変わるというのはちょっと変わるくらいがちょうどよいの

かもしれないそれをこえれば違うというのだ

私は帰りの

地下鉄のなかで取り留めのない回想にふけりながらテキスト

に次の

一間を追加しようといつしか心にきめていた

「変わ

ると違うはどう違うの

か」

っと変わった経済原論」のテキストを

ってみ

ようと夢見るようになったときなぜか腰痛も癒えて

いた本当は書名に付けたかった「ちょっと変わった」という

のは風変わりなという意味もあるがこれまでとはアプロー

チが変わったという意味でもあるそして何よりも「資本主

義が変わった」という文が成り立つようなというのが真意

一年ほどかけてなんとかこれを書きあげたころたまたま大

学院で同じ釜の飯を食っ

た友人と飲む機会があった

旧交を温

めるべく

やおら鞄のなかから草稿を取りだしてみせると目

次を

懐かしいね昔の原論とちっとも変わ

以酌して朋友日く

おは

若いころはたしか物象化が十八番

のつくものには至って目がなく今

経山 礎基 n玄tEEC d幡本力 済量 i貨済

昭経 原克 習原

三西岡h論講

済8諭

おばたみちあき経済理論

下義

5 A A東京大学出 A

判 5 5 II 半日J

四版h Jyen4z2x

九 Jyen

表 頁 四

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ないじゃないか」と化

ムレス

現実の

)

五七

円 円 円

価込格

ちょっと変わっ た経済原論 4243 ちょ っ と変わった経済原論

税 ーノレ 七

Page 2: ちょっと変わった経済原論gken.sakura.ne.jp/gken/wp-content/uploads/2013/09/1b2040...2013/09/01  · 33 ちょっと変わった経済原論 で、その経済変化と変容

変化と変容

でその経済

学ではチェンジという問題に対してどのよ

うな答え方をしてきたのか

私がいちおう「専門」にしている

のはマルクス経済学の原理論で

事実私はこれしか知らな

あま

だからいずれこちらに話は絞るがこの原理論も許多身

内のある「

経済理論」の

一つとい

う顔をしているのでまずこ

の広い意味での経済理論がチェンジをどう捉えているのか考

えてみよう

といってもほとんどの理論家は「そんなことはいまさら

問うま

でもない」というだろ

うというのも

経済理論は商

品価格にせよ地価や株価にせよ雇用にせよ賃金にせよ

その動きを解明することを中心課題にしているからである

済学の理論は変化を説明する「経済法則」が存在すると主張す

ることで人間やその社会を対象とする他の学問に対して社

会科学として

の優位性を誇って

きたか

つて盛んに風潮され

たこのような優越を信じるかどうかはお

としてともかく

ユニークな立場をとってきたのはたしかだ

しかし考えてみれば意識的に行動しているはずの人間の

社会において

自然科学パリ

の法則が支配しているという

のは

奇怪なことだ

たとえば私がいまこの文章を書いているの

も何か私の知らない「法則」に支配されて書いているのだろ

うかあ

なたがいまこの文章を読んでいるのも

法則で予見

るこ

とである

あとのほう

は変化と

区別して変容とよぼ

法則にしたがって現象は「変化」するがその法則を支え

ている状態は「変容」するのである「どんなに現象が変わっ

ても変わらないのが法別である」何だか同義反復の本質論

だがこれで頑張る頑固な理論家もけつこう多いしかしあ

る法則が支配していた状態から別の状態に移るということは

経済事象の常だだから経済学者はしょ

ちゅう「経済学の

危機」を唱える

ほとんど万年危機論だ

なぜ自分たちが同じ危機論を繰り返さなくてはならないの

か奇妙なことに経済

学者がそ

のワケを自覚的に追求してき

たとは思えないそのたびにただ新しいモデルのセットを作

り替えてき

ただけである

「今度こそピツタリのニュ 1

デルだ」というのだがその状態は変容するこれだけたく

さんモデルをつ

ればモンタージュ写真のようなものでど

れかが当たるのはある意味当然だ

かし犯人は次々に

変身する

これでは「七つの顔をもっ男」の正体はわからな

いモデル論が眼前の状態をより精綴にコピーすることに熱中

すればするほどある状態から別の状態へどのように変わるの

かという問題は視野から消える新しい経済学では古

なっ

たモデルはサッサと捨てられ

モデル聞の変換を説明するメタ

モデルの存在などは端から相手にされない

可能なことなのだろうかこれはちょっと夢遊病者的な状況

「私は書こうと思って書いてい

るのだ」というと「そう思

うのは

もっともだがそ

れはあなた

の過去のあの経験が無意識

のなかでかたちを変えて書く

よう促しているのだ」と親切に

分析してくれる人もいる

「余計なお世話だ他人の心理分析

をしたがるあなたの深層心理をまず分析したら」と思わず

言い

たく

なる経済理論はさすがにそこまでナイーブではない

個人の意識的行動を直接

支配する法則があるというのはヘン

しかし経済法則というべきものはたしかにあるという

のも人聞は相手の考えを読んで自分の行動をきめる

分の意志で行動しているというがその決定は相手の意志によ

って左右される

だからかまだちょっと条件が足

りない

これなら政治法則だつでありそうだ肝心なのはこの

「相手」の素性でそれが不特定多数となることが

決定的とな

相手が匿名性を帯びるのは市場の特徴である「マーケ

トが利上げをきらっ

た」などと日本

語だとふつうはチグハグ

な感じを与える物主構文が妙にピ

タリする他者依存の決定

と主体の匿名性といった条件が整うとそこに個人の意志をこ

えた経済法則の支配がみられるようになる

しかし

経済法則で変化を説明し

てきたのだから

チェ

ンジ

l

の問題を事改めて問つには及ばないというならだいぶピント

が外れているとすぐ気づくだろうチェン

ジといっているの

は法則に則った変化ではな

法則を支える基礎条件が変わ

変える力と変わる力

さて「流れを変える」「状況を変える」という意味でのチ

ェンジは変化ではなく変容のことだとするとこの変容とl

いう問題に対して経済理論はどのような答え方をしてきたの

ここ

で話をマルクス経済学の原理論に進め「マルク

ス経済学な

らこの問題に答えられる今こそマルクスだ」と素

直にゆきたいところだがここにはちょ

と屈折した物語があ

「今予」そマルクスだ」という人は状況が変わればすぐに

「マルクスはもう古いこれから

はケイン

ズだシュン

ーだ」という人だ

この種の浮気女に何度も裏切られマルク

ス経済学もずいぶん大人にな

った

この物語を知ることは昨

今の変革ム

ドをみる

につけあなが

ち無駄ではないと思うの

で三幕仕立てで語っ

てみよう

第一幕は出生の場だ

フランス大革命のあと初期の社会主

義者にとっ

て社会変革は焦眉の課題であった彼らは政治革命

に続いて経済改革へと焦

点を移し新しい学問としての経済学

を旺盛に吸収しそこに解答を求めた

市場経済の不備を

きその改革を求めるという方向は彼らの一つの共通基盤で

あっ

たたとえばフランスで支配的であったプル

ドン派の

社会主義者は金属貨幣がさまざまな弊害をもたらすと考え

労働証券に貨幣の機能を担わせる改革を提唱し小生産者の資

本不足を無償信用によって補完する人民銀行を考案した

イギ

35 ちょ っ と変わった経済原論 ちょっと変わった経済原論 34

l

l

リスでも協同組合的な生産組織によって私的競争の弊害を

取り除くべきとする主張が現れ不況対策として紙券発行にメリッ

よる有効需要喚起を早くも唱えるものも登場した

意識的に利用したり部分的に取り替えたりできない「自然法

を改良するとかあるいは不完全な市場を改善して完全競争の

トを活かすとかといった観点は一切な

いその法則は

この状況

ドと一脈通じるものがありそうに恩われ

則」だという

則」の客観的解明こそが『資本論」

彼の眼前に広がる「近代社会の経済的運動法

初期の社会主義者は発展しつつある資本主義の影の部分にている

光をあてそれを取り除くことであるべき社会を理性の力でただその場合

建設できると信じていた

市場経済の仕組みを知ればそれを

な性質のものを含んでいた同じ軌道を巡回する天体運動や

改善し操作できる

人間の社会は人間が意識的に変えること

振幅をくりかえす振り子運動のようなタイプの法則だけではな

ができると「変える力」に強い信頼を寄せていたのだ

彼ら

いむしろマルクスが重視したのは特定の方向に向かて累

は自己の立脚する価値観個人主義的な社会観といったもの積的に発展する傾向法別であったこの発展法則こそ「近代

の普遍性を疑うことはなくそれに合致するように社会をつく社会の経済的運動法則」のコアだった

り変えようとしたのである

モダニズムといわれる所以であ

変わる力を説明する法則があるというのである

ヲ匂

ここから表裏の関係にた

れん

かしこれでは本質

的には何も変わらない

ではないか

る一つは収数説でもう一つは自己崩壊論である収数説と

自分たちの

価値観

を絶対的なものとして変えることも軒ゲに拒

いうのは簡単にい

みただ市場や制度をそれに合わせようとしているだけだから

こうした社会主義者に対してマルクスは後発の批判的社

会主義者として登場したマルクスが強調したのは資本主義

である

いうの

が自ら変容する社会であるという観点であったつまり「変わ

世界に収数説を考えていたかどうかは今日のグロ

る力」のほうに焦点を

てたのである

を考えるうえでおもしろい問題だが

九世紀に生きたマルク

このためマルクスが経済学に求めたものも先行の社会主スの関心は当時のセンターに向けられていた

義者たちとは根本的に異な

ていた

経済法則を利用して社会

では

この収殺するセンターの内部はどんな状態に行きつく

のかそれが自己崩壊論であ

これも決めつけると反論がい

くらでもでるところだが

一言でいえば資本主義は発展する

とともに内部の矛盾対立を深め成り立ちがたい状況に陥

るという主張であるマルクスが若いときにエンゲルスと意

気投合してアウトラインを描いた唯物史観は晩年の『資本

論」のうちにかたちを変えて精綴化されてい

った

現行の

『資本論』は三巻構成だが生前に自ら刊行したのは

ちょっと変わった経済原論

第一巻のみでそれは「商品価値」にはじまり「資本蓄積

」で

終わる

芭蕉の「奥の細道トは連句仕立てで表と袋に分かれ

ているときくが『資本論』第一巻も表と裏からできている

前半は商品の価値通りの交換が労働力商品にも適用される

の課題だとその序文に謡

「自然法則」といってもそれはかなり特異

社会は変わるがその

つ二

つの特徴的な

主張がでてく

ってしま

えば資本主義は発達するにつれ

て単

一の姿に近づいてゆくという主張である

スの現在の状況は遅れて資本主義化したドイ

先行するイギリ

の近未来だと

マルクスが西ヨーロ

ッパという枠をこえて全

と資本のもとに必然的に利

潤が生じるという剰余

ある

これは実は資本の利潤が商品経済のル

主張する社会主義者に対する批判になっている

価値論で

l

ルに惇ると

むしろ

利潤

はルールの帰結だというのである

もちろん利潤の獲得は正

当だとい

ているのではない

それは道徳的に不正だい

や正当だとレ

ベルの問題で

はない

というのである後半で

はこの利潤を資本が専ら蓄積にまわすと生産力が急激に

昇するなかで雇用量が収縮するという窮乏化法則が説かれてい

さらに資本家間でも競争が激化し小資本が打ち負かさ

れ大資本に吸収されるという集中集積論が展開される

極端

にいえば少数の資本家と大量の失業者が面と向き合う世界

でこれで

は世の中流石にもつわけがない

必の

フランス革命の余韻漂う西ヨーロ

ッパ急進社会主義者が己

が理性の閃きに酔いしれさまざまな社会改革の妙案を宣伝す

時代「ちょっと変わった

社会主義者

」が遅れてや

ってきて

臼く

「そんなインテリが頭のなかで練り上げたケチなフラン

で世界は自由に変え

られるものじ

ゃな

資本主義は発展の

税込 4200 円

戦後台湾の言語政策

北京語同化政策と多言語主義

中川仁著

税込 3150 円

4E

中国出版文化の総合情報誌

るけ人骨円

お湖則一梢附

に吋駅静止

尚一

は今日の変革ム

環溺海交易圏の形成と変容

清末民国期華北東北の市場構造

山本進著

税込 4935 円

清末中国の対日政策と日本語認識朝貢と条約のはざまで

閤立著

月刊東方年間購読料税込 1000 円〔見本誌無料贈呈〕

|

バリズム

東方書店東京都千代田区神田神保町 1-3

h甘pIlwwwtoho-shotenco jp

37 ちょっと変わった経済原論

0955-x03-39377-)3infin仏39303-1te

36

放に自壊するその原理斯くの如し」と第一世帯はこんなと

ころだろっか

資本主義の変容

ところが資本主義はマルクスが描いたのとは異なるかたち

で変容した遅れて資本主義化したドイツの現実は

マルクス

が描いた

「資本論」の世界とはズレていた

重化学工業をベー

スにした新興産業でイギリスを凌ぐめざましい発展を遂げなが

タリア革命だ」と世界同時革命を掲げる学生と「いやいや

日本はまだ対米従属の半植民地民主主義も未成熟市民革

命が先でプロレタリア革命はその後だ」と二段階革命を唱え

る学生がガンガンぶつかっていた革命の「カ」の字も言わ

なくな

った後もこれは尾を曳いたことあるごとに欧米と比

べ日本は「遅れている」と嘆いてみせるキザな「近代化」論者

と何かにつけ「日本的」という形容詞をつけて賞賛する論者

はいつまでも残ったここまでくるともう権威主義の二つの

ちょ っ と変わっ た経済原論 38

ら農民層分解は進まず従来型の中小経営も温存される一種あり方というほかない

の二重構造が定着してゆくこのあたりの歴史分析はともか

話を戦前に戻すとこうした論争をクールに眺める「ちょっ

く二面をも

った

現実はいわゆる「修正主義論争」を生むこ

とになる

「資本主義は変わったもはや

『資本論』は使えな

い」とするベルンシユタインたちと「その変化こそ『資本論」

の傾向法則が貫徹した結果だ」というカウツキーたちとの聞の

論争である

似たような論争は日本でも展開された論争の主役の多く

は第一次世界大戦後のドイツに留学経験をもっ少壮のマルク

ス経済学者だったここではそもそも日本は資本主義なのか

否か明治維新はブルジョア革命か天皇制とは何かといっ

た戦前の激しい論争とな

った

「日本資本主義論争」というそ

うだ戦後生まれの私は直接論争の現場をみたわけではない

がその名残がまだ濃厚な時代に育っ

た「この日本を資本玉

義と言わずしてどこに資本主義がある来るべき革命はプロレ

の媒介説である

くて宇野理論

んである宇野が実際におこな

たのは主としてこうした枠

「本当は正しいから異端視されるのだ」などと逆にこれだけ

組みに沿った原理論の構築であったその核心を

で読む価値があるように勘違いもしたがともかく資本主義

でいうのは簡単だがこの方法で中身を持えるのはたいへ

一言でいえ

ば純粋資本主義論ということになる

つまり商品経済的な

から社会主義に移るのではなく資本主義そのものがまずその

姿かたちを変えるのだという変容の問題をクローズアップし

してみせることである

そのため宇野は

『資本論』を批判的

この変容はいかに論じられるべきか意識的に方法論を展開し

関係だけで自立的に運動する純粋な資本主義像を論理的に構成

ちょっと変わった経済原論

た意義は大きい

主張した

『資本論』には理論的に説明できない

一九世紀のイ

輸入したばかりの『資本論』を現実の分析にどう活かすべき

に再検討しそこに含まれる誤りは誤りとして除去すべきだと

んけんごう

ごっ

か気鋭のマルクス

中集積論は原理的に説明できない一九世紀のイギリス資本主

ギリスに特有な要因が混入しておりとりわけ窮乏化法則や集

主義者たちが陪

一喧槙誕の論争を展開してい

た戦前の日本それを端からじっとみていた「ちょっと変わっ

義に特有な歴史的現象であると切って捨てたのである

たマルクス経済学者」がいた彼は戦後になってこんなこと

をいいだした

「資本主

うにひっくり返す結果になる

資本王義はその発展とともに

どう捉えるか方法論からやりなおしだ」と第

これはマルクスの収倣説と自己崩壊論をちょうど鏡像のよ

義といってもそれ自身変わるこれを

二幕はこんな

純粋な姿に近づき

その結果内部の矛盾が激化して崩壊する

感じだろうか

のではない逆に純粋な資

本主義であれば景気循環を通じて

資本主義の多様性

繰り返し矛盾を解決し永続的に発展できるところが現実の

資本主義は

一日はこの状態に接近しながら

一九世紀末には

しかし字野の方法論は原理論のなかから変容の契機を永久

追放するに等しい

結果になった現実の資本主義がどんなに変

その傾向が逆転し商品経済外の不純な要因に強く依存する体

質に変わった純粋な資本主義から誰離するに至ったところ

って

も資本主義である以上変わらぬ本質があるはずだ

に資本主義の歴史的な限界があるというのである

これを純粋に取りだしたものが原理論だということになる

たしかに景気循環のような「変化」は含まれるがそれはあ

正統を尊ぶ精神からみればこれは以ての外「『資本論』に

くまで法則にしたがって繰り返す運動だからであるそして

誤りなどあろうはずもなくすべては読み方が浅いからだ」と

と変わったマルクス経済

学者」がいた字野弘蔵という学者

で私は醤咳に接したことも尊顔を拝したこともない

高校生

の頃に住んでいた早稲田界隈の古本屋にこの先生の本がたく

さん並んでおりそのころから興味本位で読んできたので私

のほうは顔なじみのつもりできたがアカの他人だこの人の説

くところはとどのつまりこの論争には方法論的な限界があ

「資本論』のような資本主義の原理論を

の歴史的現実

に直接適用する方法が誤りのもとだということのようだ

れて資本主義化した国は独自の歴史的特徴を帯びる

日本が

資本主義化したのは資本主義が異なるタイプに分かれて発展

した帝国主義の時代だだから原理論をベ

スに資本主義の

タイプを類型化しこの発展段階論を基準に現状分析に臨むべ

きだというのであるいわば原理論の間接適用説段階論

l

たちまち異端審判が下され「そんなのはマルクス理論ではな

やぬ

だ」と郷撤される

若いころは判官晶展で

39

-っ

てよいし抜まをでカの愛

のを肩像は図になまツたオ

それでも資本主義は変容するとすればそれは純粋資本主

者の目からみればそうなる

義の想定にた

つ原理論で説明できない不純な要因によるものたこの点では同じように第

現実の資本主義は不純な資本主義としてどれもみな混合

渡期だと明言していた

資本主義だというわけである

やけに形式的な二分法でこれ

しかし後知恵に過ぎないが

で変容が説明できるのかと思ってしまうが次のように付言す

パと極東日本の資本主義化に固有の問題と捉えたほうがよい

れば立派に可能になる

ここでは資本主義の成立は国民国家の形成と深く結びついて

資本主義はその発展期においては純粋資本主義にますますいた

その発展は対外的には国家聞の対立とナショナリズムの

接近する傾向を示したところが一九世紀末に後発資本主義

高まりを引きおこす必然性があった

国が重化学工業をべ1

スに資本主義化するなかでこの純化傾ヨーロ

パの資本主義がナショナリズムと帝国主義のくびき

向は逆転したという純化不純化論である詳しい説明は避けを脱することができぬままやがて第一次世界大戦に突入し

るが不純化というのはたとえば保護貿易政策や社会政策と

その結果相対的地位を低下させるなかでその西と東にイン

いった国家による政策的関与や独占体や労働組合など私的競

ターナショナルを建前とする双子の超大国合衆国とソビエ

争の制約などを幅広く

夜つ概念であるこの接近し離れるとい

二O

ト連邦が台頭しこの人工国家が対抗するかたちで

う変容は原理論では扱えない原理論は純粋な資本主義なら世界は支え

られてきたようにみえる両者は大国のメリ

自立的に発展できるということを示すだけで純化不純化と

最大限活かし

国家予算に裏打ちされた巨大技術を開発し大

いう変容は発展段階論で分析されることになる

味な大衆

(人民 )文化のプロパガンダで社会統合をはかり周

このアイデアはドイツの資本主義化を念頭におき先行す辺の第三世界を糾合すべ

るイギリスと異なるタイプの資本主義が台頭することで第

一次

主義列強のように直接戦うことはついになかった

世界大戦にいたるという古典的帝国主義の時代を念頭におい

えば仲の悪い似たもの夫婦のようなものだった

て固められたものだった

そしてこの大戦を契機に史上初めて

純化不純化論は

九世紀末から二

の社会主義国ソビエト連邦が誕生するイギリス資本主義の誕

パの資本主義の変容をベ

生が資本主義の時代の始まりであるとすればたとえ一国

一地

がしかしそれはむしろ冷戦期の資本主義にピ

ッタリする面

域でも世界史的には社会主義の時代に突入したマルクス主義

をも

ちょっと変わっ た経済原論

主義者たらざる学者の宇野もま

一次大戦以降は社会主義への過

二度の世界大戦は西ヨーロ

国民国家と結びついた西

溺を競ったが西ヨーロ

O世紀初頭の西ヨーロ

l

スに考案されたアイデアである

っていた

冷戦構造のもとで合衆国は産軍複合体制を形

ト上での地殻変動であった

新自由主義に変容を迫るものではあってもグロ

ムというプレートを転換するものではない

このプレートの

本主義は

一日

は純粋な資本主義に接近しながらその後百年余

いくつ

かのかたちをとりながらも不純化の道を歩んでい

るというシナリオは終わ

辛うじて段階論のうちに残された純粋資本主義像を基準に

それに近づき離れるといった変容問題は消散し専ら資本主義

の多様化だけが強調されるようになる

れば類型化はでき

これが第三幕の結末ということになる

昨年から今年にかけてのチェンジ

パリズ

l

大転換は純化不純化論に幕を引いた資

った

そして不純化というかたちで

しかし現象を比較す

る純粋資本主義の原理論が出る幕はない

l

O

成し予算規模が拡大し西ヨーロッ

パも雇用維持や農業保護な

どを通じて国家の介入規制がますます顕著となっていった

うした現象をパックに対外投資をめぐる植民地争奪といった

古典的帝国主義をこえて

「国家独占資本主義」「福祉国家体

制」といったかたちでバージョンアップされていったがしか

しそれらはいずれも資本主義の不純化の現れとして概括さ

れすべて帝国主義段階という大きなプレー

ト上の地殻変動と

みなされたのである

ところが二

世紀末にはじまった冷戦体制の崩壊は

プレ

ートそのものの大転換であった

新たなプレートを突き動かす

マグマは冷戦体制のもとで右からも左からも低開発を強いら

れてきた地域国家における資本主義的発展であったこれを

グロ

パリズムとよぶとすると社会主義諸国の崩壊と先進資

本主義国を席捲した新自由主義の台頭はみなこの同じプレー

楽はB

人びとの喜怒哀

図像のなかにあるのです

漢代の画像石消末の画線砕

舎の解説図連環画年菌文

革期のポスタ

ー映画アニメ

などなど

美術会棄には死んでも載ら

ない

虚々実々のヴィジュアル世界を

気ままに訪ねてみませんか

世紀の

ットを

パの帝国

今にして思

I河河文引泣一ユE111叫111ω I1l1II凶II凶llmID1 αIIl川 IIW

大修p

館書店 本町IllI)l

4] ちょっと変わった経涜原論 40

変容論的アプローチ

私はこの三

であるそして

C

-aa--

入ってみよう

と思ったがオパマ大統領の話につられて読

れで「ちょ

ってい

だっ

たが当時から「

を惹かれる質なのだ

目を凝ら

すとどうや

幕ものの長い芝居を観ているうち何か恥な予感

か条件をもちこむことでうまく繕つであるらしいさらに

こうした部分は外部からいくつ

を肌で感じるようになり幕切れ近くにとうとうひどい腰痛に

見舞われる羽目にな

った一九九九年秋のことだ

った利いた

風なことをぬかしてきた私の腰砕けは友人たちにウケた「借す単一資本主義像に合わせ演律的な内部の論理とシ 1

りものの理論を自分の足で支えるってえのは辛かろうぜなど

踏み込んでみると純粋資本主義論がこの外的条件に独自のパ

イスをかけていることが気にな

ってき

純化不純化論が課

につなぐため単一の外的条件に無理に絞り込むかたちになっ

ている資本主義の原理像は現実の資本主義がどのように変

C

A

とからかわれ

一人リハビリに励みながら原理論のあり方に

B

ついて改めて根本から洗いなおすようになった私だけの第四

幕だ

考えてみれば純粋資本主義というのがはじめからどこか

シックリこなかったのだ私は原理論の研究者として厳密な

演縛的推論に徹するように育てられてきた用語を正確に定義

しそう

を規定するなら必ず

ということになる

B

ならば

ならば少なくとも Dということはありえな

い云身といった論理展開で全体像を理論的に構成する方法

をたたき込まれてきた

こうした思考方法にある程度慣れてく

るとたいていは目をつぶっていてもスルスルと進む

うにな

るのだが時としてどうしてもうまくゆかないところがでて

くる行き詰まったときに「一九世紀イギリスの現実はこうだ

から」などと誤魔化さずパカ正直に論理にしがみつくことで

原理論の内部から灰見えてく

開口部であるツ

ルツ

ルに磨か

れた「美しい」理論より昔からアパタやエクボのほうに気資本主義は不変の純粋資本主義と不純な要因の合成である

容し多様化しようとも不動でなければならないという要請に

健気に応えようとしている美人も辛いものだ純粋資本主義

は「変化」を含んではいてもその内部に「変容」の契機があ

ってはならない変容や多様性は原理論の外部に付加される

非市場的要因のせいだという結論からすべては逆算されてい

るのだ

逆に関口部に光を当てて再構成してみると資本主義がどの

ような仕掛けでその姿かたちを変えるのか変容の問題が理

論の内部に半分入ってくる

こうい

う原

理論なら資本主義は

変わった

というときの主語になる資本主義像を構築できるの

ではないかそして「変える力」の加えようももう少しわ

かるかもしれない

関口部をどう埋めるかには暗黙の合意が

社会的に必要となる資本主義はその意味でイデオロギー的な

社会であり政治的説得が重要な意味をもつのである

現実がどんなに変わっても資本主義は変

わらないのだという

硬直的な本質論を乗りこえられるかもしれない

理想の社会主

義もあれば現実にとんでもない社会主義もあったようにひ

どい資本主義もあればましな資本主義もあるそしてこれ

らはある範囲で変えることができるのだ

このことを明らかにするためさらにもう

一歩開口部に立ち

みはじめた人はもう耐え難い睡魔に襲われているころだろ

うここらで切り上げようともかくこうした視点で資本主義

の変わり方の構造に焦点を当てる方法を変容論的アプローチ

とよびこ

では情報化とか温暖化とか少子化とか手広く商っている憎め

ない男だ

で答え

て日く「たしかにお宅はす

っかり変わ

たでも変わり身の

早さは北日とちっとも変わってないな」「お

いおいイヤミか」

「ちょっと違う精確にいえばイヤツカミ

だ」ちょっと白けた笑いがいつまでも続いた

変わるというのはちょっと変わるくらいがちょうどよいの

かもしれないそれをこえれば違うというのだ

私は帰りの

地下鉄のなかで取り留めのない回想にふけりながらテキスト

に次の

一間を追加しようといつしか心にきめていた

「変わ

ると違うはどう違うの

か」

っと変わった経済原論」のテキストを

ってみ

ようと夢見るようになったときなぜか腰痛も癒えて

いた本当は書名に付けたかった「ちょっと変わった」という

のは風変わりなという意味もあるがこれまでとはアプロー

チが変わったという意味でもあるそして何よりも「資本主

義が変わった」という文が成り立つようなというのが真意

一年ほどかけてなんとかこれを書きあげたころたまたま大

学院で同じ釜の飯を食っ

た友人と飲む機会があった

旧交を温

めるべく

やおら鞄のなかから草稿を取りだしてみせると目

次を

懐かしいね昔の原論とちっとも変わ

以酌して朋友日く

おは

若いころはたしか物象化が十八番

のつくものには至って目がなく今

経山 礎基 n玄tEEC d幡本力 済量 i貨済

昭経 原克 習原

三西岡h論講

済8諭

おばたみちあき経済理論

下義

5 A A東京大学出 A

判 5 5 II 半日J

四版h Jyen4z2x

九 Jyen

表 頁 四

刀て頁 頁

ないじゃないか」と化

ムレス

現実の

)

五七

円 円 円

価込格

ちょっと変わっ た経済原論 4243 ちょ っ と変わった経済原論

税 ーノレ 七

Page 3: ちょっと変わった経済原論gken.sakura.ne.jp/gken/wp-content/uploads/2013/09/1b2040...2013/09/01  · 33 ちょっと変わった経済原論 で、その経済変化と変容

l

リスでも協同組合的な生産組織によって私的競争の弊害を

取り除くべきとする主張が現れ不況対策として紙券発行にメリッ

よる有効需要喚起を早くも唱えるものも登場した

意識的に利用したり部分的に取り替えたりできない「自然法

を改良するとかあるいは不完全な市場を改善して完全競争の

トを活かすとかといった観点は一切な

いその法則は

この状況

ドと一脈通じるものがありそうに恩われ

則」だという

則」の客観的解明こそが『資本論」

彼の眼前に広がる「近代社会の経済的運動法

初期の社会主義者は発展しつつある資本主義の影の部分にている

光をあてそれを取り除くことであるべき社会を理性の力でただその場合

建設できると信じていた

市場経済の仕組みを知ればそれを

な性質のものを含んでいた同じ軌道を巡回する天体運動や

改善し操作できる

人間の社会は人間が意識的に変えること

振幅をくりかえす振り子運動のようなタイプの法則だけではな

ができると「変える力」に強い信頼を寄せていたのだ

彼ら

いむしろマルクスが重視したのは特定の方向に向かて累

は自己の立脚する価値観個人主義的な社会観といったもの積的に発展する傾向法別であったこの発展法則こそ「近代

の普遍性を疑うことはなくそれに合致するように社会をつく社会の経済的運動法則」のコアだった

り変えようとしたのである

モダニズムといわれる所以であ

変わる力を説明する法則があるというのである

ヲ匂

ここから表裏の関係にた

れん

かしこれでは本質

的には何も変わらない

ではないか

る一つは収数説でもう一つは自己崩壊論である収数説と

自分たちの

価値観

を絶対的なものとして変えることも軒ゲに拒

いうのは簡単にい

みただ市場や制度をそれに合わせようとしているだけだから

こうした社会主義者に対してマルクスは後発の批判的社

会主義者として登場したマルクスが強調したのは資本主義

である

いうの

が自ら変容する社会であるという観点であったつまり「変わ

世界に収数説を考えていたかどうかは今日のグロ

る力」のほうに焦点を

てたのである

を考えるうえでおもしろい問題だが

九世紀に生きたマルク

このためマルクスが経済学に求めたものも先行の社会主スの関心は当時のセンターに向けられていた

義者たちとは根本的に異な

ていた

経済法則を利用して社会

では

この収殺するセンターの内部はどんな状態に行きつく

のかそれが自己崩壊論であ

これも決めつけると反論がい

くらでもでるところだが

一言でいえば資本主義は発展する

とともに内部の矛盾対立を深め成り立ちがたい状況に陥

るという主張であるマルクスが若いときにエンゲルスと意

気投合してアウトラインを描いた唯物史観は晩年の『資本

論」のうちにかたちを変えて精綴化されてい

った

現行の

『資本論』は三巻構成だが生前に自ら刊行したのは

ちょっと変わった経済原論

第一巻のみでそれは「商品価値」にはじまり「資本蓄積

」で

終わる

芭蕉の「奥の細道トは連句仕立てで表と袋に分かれ

ているときくが『資本論』第一巻も表と裏からできている

前半は商品の価値通りの交換が労働力商品にも適用される

の課題だとその序文に謡

「自然法則」といってもそれはかなり特異

社会は変わるがその

つ二

つの特徴的な

主張がでてく

ってしま

えば資本主義は発達するにつれ

て単

一の姿に近づいてゆくという主張である

スの現在の状況は遅れて資本主義化したドイ

先行するイギリ

の近未来だと

マルクスが西ヨーロ

ッパという枠をこえて全

と資本のもとに必然的に利

潤が生じるという剰余

ある

これは実は資本の利潤が商品経済のル

主張する社会主義者に対する批判になっている

価値論で

l

ルに惇ると

むしろ

利潤

はルールの帰結だというのである

もちろん利潤の獲得は正

当だとい

ているのではない

それは道徳的に不正だい

や正当だとレ

ベルの問題で

はない

というのである後半で

はこの利潤を資本が専ら蓄積にまわすと生産力が急激に

昇するなかで雇用量が収縮するという窮乏化法則が説かれてい

さらに資本家間でも競争が激化し小資本が打ち負かさ

れ大資本に吸収されるという集中集積論が展開される

極端

にいえば少数の資本家と大量の失業者が面と向き合う世界

でこれで

は世の中流石にもつわけがない

必の

フランス革命の余韻漂う西ヨーロ

ッパ急進社会主義者が己

が理性の閃きに酔いしれさまざまな社会改革の妙案を宣伝す

時代「ちょっと変わった

社会主義者

」が遅れてや

ってきて

臼く

「そんなインテリが頭のなかで練り上げたケチなフラン

で世界は自由に変え

られるものじ

ゃな

資本主義は発展の

税込 4200 円

戦後台湾の言語政策

北京語同化政策と多言語主義

中川仁著

税込 3150 円

4E

中国出版文化の総合情報誌

るけ人骨円

お湖則一梢附

に吋駅静止

尚一

は今日の変革ム

環溺海交易圏の形成と変容

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税込 4935 円

清末中国の対日政策と日本語認識朝貢と条約のはざまで

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月刊東方年間購読料税込 1000 円〔見本誌無料贈呈〕

|

バリズム

東方書店東京都千代田区神田神保町 1-3

h甘pIlwwwtoho-shotenco jp

37 ちょっと変わった経済原論

0955-x03-39377-)3infin仏39303-1te

36

放に自壊するその原理斯くの如し」と第一世帯はこんなと

ころだろっか

資本主義の変容

ところが資本主義はマルクスが描いたのとは異なるかたち

で変容した遅れて資本主義化したドイツの現実は

マルクス

が描いた

「資本論」の世界とはズレていた

重化学工業をベー

スにした新興産業でイギリスを凌ぐめざましい発展を遂げなが

タリア革命だ」と世界同時革命を掲げる学生と「いやいや

日本はまだ対米従属の半植民地民主主義も未成熟市民革

命が先でプロレタリア革命はその後だ」と二段階革命を唱え

る学生がガンガンぶつかっていた革命の「カ」の字も言わ

なくな

った後もこれは尾を曳いたことあるごとに欧米と比

べ日本は「遅れている」と嘆いてみせるキザな「近代化」論者

と何かにつけ「日本的」という形容詞をつけて賞賛する論者

はいつまでも残ったここまでくるともう権威主義の二つの

ちょ っ と変わっ た経済原論 38

ら農民層分解は進まず従来型の中小経営も温存される一種あり方というほかない

の二重構造が定着してゆくこのあたりの歴史分析はともか

話を戦前に戻すとこうした論争をクールに眺める「ちょっ

く二面をも

った

現実はいわゆる「修正主義論争」を生むこ

とになる

「資本主義は変わったもはや

『資本論』は使えな

い」とするベルンシユタインたちと「その変化こそ『資本論」

の傾向法則が貫徹した結果だ」というカウツキーたちとの聞の

論争である

似たような論争は日本でも展開された論争の主役の多く

は第一次世界大戦後のドイツに留学経験をもっ少壮のマルク

ス経済学者だったここではそもそも日本は資本主義なのか

否か明治維新はブルジョア革命か天皇制とは何かといっ

た戦前の激しい論争とな

った

「日本資本主義論争」というそ

うだ戦後生まれの私は直接論争の現場をみたわけではない

がその名残がまだ濃厚な時代に育っ

た「この日本を資本玉

義と言わずしてどこに資本主義がある来るべき革命はプロレ

の媒介説である

くて宇野理論

んである宇野が実際におこな

たのは主としてこうした枠

「本当は正しいから異端視されるのだ」などと逆にこれだけ

組みに沿った原理論の構築であったその核心を

で読む価値があるように勘違いもしたがともかく資本主義

でいうのは簡単だがこの方法で中身を持えるのはたいへ

一言でいえ

ば純粋資本主義論ということになる

つまり商品経済的な

から社会主義に移るのではなく資本主義そのものがまずその

姿かたちを変えるのだという変容の問題をクローズアップし

してみせることである

そのため宇野は

『資本論』を批判的

この変容はいかに論じられるべきか意識的に方法論を展開し

関係だけで自立的に運動する純粋な資本主義像を論理的に構成

ちょっと変わった経済原論

た意義は大きい

主張した

『資本論』には理論的に説明できない

一九世紀のイ

輸入したばかりの『資本論』を現実の分析にどう活かすべき

に再検討しそこに含まれる誤りは誤りとして除去すべきだと

んけんごう

ごっ

か気鋭のマルクス

中集積論は原理的に説明できない一九世紀のイギリス資本主

ギリスに特有な要因が混入しておりとりわけ窮乏化法則や集

主義者たちが陪

一喧槙誕の論争を展開してい

た戦前の日本それを端からじっとみていた「ちょっと変わっ

義に特有な歴史的現象であると切って捨てたのである

たマルクス経済学者」がいた彼は戦後になってこんなこと

をいいだした

「資本主

うにひっくり返す結果になる

資本王義はその発展とともに

どう捉えるか方法論からやりなおしだ」と第

これはマルクスの収倣説と自己崩壊論をちょうど鏡像のよ

義といってもそれ自身変わるこれを

二幕はこんな

純粋な姿に近づき

その結果内部の矛盾が激化して崩壊する

感じだろうか

のではない逆に純粋な資

本主義であれば景気循環を通じて

資本主義の多様性

繰り返し矛盾を解決し永続的に発展できるところが現実の

資本主義は

一日はこの状態に接近しながら

一九世紀末には

しかし字野の方法論は原理論のなかから変容の契機を永久

追放するに等しい

結果になった現実の資本主義がどんなに変

その傾向が逆転し商品経済外の不純な要因に強く依存する体

質に変わった純粋な資本主義から誰離するに至ったところ

って

も資本主義である以上変わらぬ本質があるはずだ

に資本主義の歴史的な限界があるというのである

これを純粋に取りだしたものが原理論だということになる

たしかに景気循環のような「変化」は含まれるがそれはあ

正統を尊ぶ精神からみればこれは以ての外「『資本論』に

くまで法則にしたがって繰り返す運動だからであるそして

誤りなどあろうはずもなくすべては読み方が浅いからだ」と

と変わったマルクス経済

学者」がいた字野弘蔵という学者

で私は醤咳に接したことも尊顔を拝したこともない

高校生

の頃に住んでいた早稲田界隈の古本屋にこの先生の本がたく

さん並んでおりそのころから興味本位で読んできたので私

のほうは顔なじみのつもりできたがアカの他人だこの人の説

くところはとどのつまりこの論争には方法論的な限界があ

「資本論』のような資本主義の原理論を

の歴史的現実

に直接適用する方法が誤りのもとだということのようだ

れて資本主義化した国は独自の歴史的特徴を帯びる

日本が

資本主義化したのは資本主義が異なるタイプに分かれて発展

した帝国主義の時代だだから原理論をベ

スに資本主義の

タイプを類型化しこの発展段階論を基準に現状分析に臨むべ

きだというのであるいわば原理論の間接適用説段階論

l

たちまち異端審判が下され「そんなのはマルクス理論ではな

やぬ

だ」と郷撤される

若いころは判官晶展で

39

-っ

てよいし抜まをでカの愛

のを肩像は図になまツたオ

それでも資本主義は変容するとすればそれは純粋資本主

者の目からみればそうなる

義の想定にた

つ原理論で説明できない不純な要因によるものたこの点では同じように第

現実の資本主義は不純な資本主義としてどれもみな混合

渡期だと明言していた

資本主義だというわけである

やけに形式的な二分法でこれ

しかし後知恵に過ぎないが

で変容が説明できるのかと思ってしまうが次のように付言す

パと極東日本の資本主義化に固有の問題と捉えたほうがよい

れば立派に可能になる

ここでは資本主義の成立は国民国家の形成と深く結びついて

資本主義はその発展期においては純粋資本主義にますますいた

その発展は対外的には国家聞の対立とナショナリズムの

接近する傾向を示したところが一九世紀末に後発資本主義

高まりを引きおこす必然性があった

国が重化学工業をべ1

スに資本主義化するなかでこの純化傾ヨーロ

パの資本主義がナショナリズムと帝国主義のくびき

向は逆転したという純化不純化論である詳しい説明は避けを脱することができぬままやがて第一次世界大戦に突入し

るが不純化というのはたとえば保護貿易政策や社会政策と

その結果相対的地位を低下させるなかでその西と東にイン

いった国家による政策的関与や独占体や労働組合など私的競

ターナショナルを建前とする双子の超大国合衆国とソビエ

争の制約などを幅広く

夜つ概念であるこの接近し離れるとい

二O

ト連邦が台頭しこの人工国家が対抗するかたちで

う変容は原理論では扱えない原理論は純粋な資本主義なら世界は支え

られてきたようにみえる両者は大国のメリ

自立的に発展できるということを示すだけで純化不純化と

最大限活かし

国家予算に裏打ちされた巨大技術を開発し大

いう変容は発展段階論で分析されることになる

味な大衆

(人民 )文化のプロパガンダで社会統合をはかり周

このアイデアはドイツの資本主義化を念頭におき先行す辺の第三世界を糾合すべ

るイギリスと異なるタイプの資本主義が台頭することで第

一次

主義列強のように直接戦うことはついになかった

世界大戦にいたるという古典的帝国主義の時代を念頭におい

えば仲の悪い似たもの夫婦のようなものだった

て固められたものだった

そしてこの大戦を契機に史上初めて

純化不純化論は

九世紀末から二

の社会主義国ソビエト連邦が誕生するイギリス資本主義の誕

パの資本主義の変容をベ

生が資本主義の時代の始まりであるとすればたとえ一国

一地

がしかしそれはむしろ冷戦期の資本主義にピ

ッタリする面

域でも世界史的には社会主義の時代に突入したマルクス主義

をも

ちょっと変わっ た経済原論

主義者たらざる学者の宇野もま

一次大戦以降は社会主義への過

二度の世界大戦は西ヨーロ

国民国家と結びついた西

溺を競ったが西ヨーロ

O世紀初頭の西ヨーロ

l

スに考案されたアイデアである

っていた

冷戦構造のもとで合衆国は産軍複合体制を形

ト上での地殻変動であった

新自由主義に変容を迫るものではあってもグロ

ムというプレートを転換するものではない

このプレートの

本主義は

一日

は純粋な資本主義に接近しながらその後百年余

いくつ

かのかたちをとりながらも不純化の道を歩んでい

るというシナリオは終わ

辛うじて段階論のうちに残された純粋資本主義像を基準に

それに近づき離れるといった変容問題は消散し専ら資本主義

の多様化だけが強調されるようになる

れば類型化はでき

これが第三幕の結末ということになる

昨年から今年にかけてのチェンジ

パリズ

l

大転換は純化不純化論に幕を引いた資

った

そして不純化というかたちで

しかし現象を比較す

る純粋資本主義の原理論が出る幕はない

l

O

成し予算規模が拡大し西ヨーロッ

パも雇用維持や農業保護な

どを通じて国家の介入規制がますます顕著となっていった

うした現象をパックに対外投資をめぐる植民地争奪といった

古典的帝国主義をこえて

「国家独占資本主義」「福祉国家体

制」といったかたちでバージョンアップされていったがしか

しそれらはいずれも資本主義の不純化の現れとして概括さ

れすべて帝国主義段階という大きなプレー

ト上の地殻変動と

みなされたのである

ところが二

世紀末にはじまった冷戦体制の崩壊は

プレ

ートそのものの大転換であった

新たなプレートを突き動かす

マグマは冷戦体制のもとで右からも左からも低開発を強いら

れてきた地域国家における資本主義的発展であったこれを

グロ

パリズムとよぶとすると社会主義諸国の崩壊と先進資

本主義国を席捲した新自由主義の台頭はみなこの同じプレー

楽はB

人びとの喜怒哀

図像のなかにあるのです

漢代の画像石消末の画線砕

舎の解説図連環画年菌文

革期のポスタ

ー映画アニメ

などなど

美術会棄には死んでも載ら

ない

虚々実々のヴィジュアル世界を

気ままに訪ねてみませんか

世紀の

ットを

パの帝国

今にして思

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館書店 本町IllI)l

4] ちょっと変わった経涜原論 40

変容論的アプローチ

私はこの三

であるそして

C

-aa--

入ってみよう

と思ったがオパマ大統領の話につられて読

れで「ちょ

ってい

だっ

たが当時から「

を惹かれる質なのだ

目を凝ら

すとどうや

幕ものの長い芝居を観ているうち何か恥な予感

か条件をもちこむことでうまく繕つであるらしいさらに

こうした部分は外部からいくつ

を肌で感じるようになり幕切れ近くにとうとうひどい腰痛に

見舞われる羽目にな

った一九九九年秋のことだ

った利いた

風なことをぬかしてきた私の腰砕けは友人たちにウケた「借す単一資本主義像に合わせ演律的な内部の論理とシ 1

りものの理論を自分の足で支えるってえのは辛かろうぜなど

踏み込んでみると純粋資本主義論がこの外的条件に独自のパ

イスをかけていることが気にな

ってき

純化不純化論が課

につなぐため単一の外的条件に無理に絞り込むかたちになっ

ている資本主義の原理像は現実の資本主義がどのように変

C

A

とからかわれ

一人リハビリに励みながら原理論のあり方に

B

ついて改めて根本から洗いなおすようになった私だけの第四

幕だ

考えてみれば純粋資本主義というのがはじめからどこか

シックリこなかったのだ私は原理論の研究者として厳密な

演縛的推論に徹するように育てられてきた用語を正確に定義

しそう

を規定するなら必ず

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B

ならば

ならば少なくとも Dということはありえな

い云身といった論理展開で全体像を理論的に構成する方法

をたたき込まれてきた

こうした思考方法にある程度慣れてく

るとたいていは目をつぶっていてもスルスルと進む

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るのだが時としてどうしてもうまくゆかないところがでて

くる行き詰まったときに「一九世紀イギリスの現実はこうだ

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原理論の内部から灰見えてく

開口部であるツ

ルツ

ルに磨か

れた「美しい」理論より昔からアパタやエクボのほうに気資本主義は不変の純粋資本主義と不純な要因の合成である

容し多様化しようとも不動でなければならないという要請に

健気に応えようとしている美人も辛いものだ純粋資本主義

は「変化」を含んではいてもその内部に「変容」の契機があ

ってはならない変容や多様性は原理論の外部に付加される

非市場的要因のせいだという結論からすべては逆算されてい

るのだ

逆に関口部に光を当てて再構成してみると資本主義がどの

ような仕掛けでその姿かたちを変えるのか変容の問題が理

論の内部に半分入ってくる

こうい

う原

理論なら資本主義は

変わった

というときの主語になる資本主義像を構築できるの

ではないかそして「変える力」の加えようももう少しわ

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関口部をどう埋めるかには暗黙の合意が

社会的に必要となる資本主義はその意味でイデオロギー的な

社会であり政治的説得が重要な意味をもつのである

現実がどんなに変わっても資本主義は変

わらないのだという

硬直的な本質論を乗りこえられるかもしれない

理想の社会主

義もあれば現実にとんでもない社会主義もあったようにひ

どい資本主義もあればましな資本主義もあるそしてこれ

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このことを明らかにするためさらにもう

一歩開口部に立ち

みはじめた人はもう耐え難い睡魔に襲われているころだろ

うここらで切り上げようともかくこうした視点で資本主義

の変わり方の構造に焦点を当てる方法を変容論的アプローチ

とよびこ

では情報化とか温暖化とか少子化とか手広く商っている憎め

ない男だ

で答え

て日く「たしかにお宅はす

っかり変わ

たでも変わり身の

早さは北日とちっとも変わってないな」「お

いおいイヤミか」

「ちょっと違う精確にいえばイヤツカミ

だ」ちょっと白けた笑いがいつまでも続いた

変わるというのはちょっと変わるくらいがちょうどよいの

かもしれないそれをこえれば違うというのだ

私は帰りの

地下鉄のなかで取り留めのない回想にふけりながらテキスト

に次の

一間を追加しようといつしか心にきめていた

「変わ

ると違うはどう違うの

か」

っと変わった経済原論」のテキストを

ってみ

ようと夢見るようになったときなぜか腰痛も癒えて

いた本当は書名に付けたかった「ちょっと変わった」という

のは風変わりなという意味もあるがこれまでとはアプロー

チが変わったという意味でもあるそして何よりも「資本主

義が変わった」という文が成り立つようなというのが真意

一年ほどかけてなんとかこれを書きあげたころたまたま大

学院で同じ釜の飯を食っ

た友人と飲む機会があった

旧交を温

めるべく

やおら鞄のなかから草稿を取りだしてみせると目

次を

懐かしいね昔の原論とちっとも変わ

以酌して朋友日く

おは

若いころはたしか物象化が十八番

のつくものには至って目がなく今

経山 礎基 n玄tEEC d幡本力 済量 i貨済

昭経 原克 習原

三西岡h論講

済8諭

おばたみちあき経済理論

下義

5 A A東京大学出 A

判 5 5 II 半日J

四版h Jyen4z2x

九 Jyen

表 頁 四

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ないじゃないか」と化

ムレス

現実の

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五七

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価込格

ちょっと変わっ た経済原論 4243 ちょ っ と変わった経済原論

税 ーノレ 七

Page 4: ちょっと変わった経済原論gken.sakura.ne.jp/gken/wp-content/uploads/2013/09/1b2040...2013/09/01  · 33 ちょっと変わった経済原論 で、その経済変化と変容

放に自壊するその原理斯くの如し」と第一世帯はこんなと

ころだろっか

資本主義の変容

ところが資本主義はマルクスが描いたのとは異なるかたち

で変容した遅れて資本主義化したドイツの現実は

マルクス

が描いた

「資本論」の世界とはズレていた

重化学工業をベー

スにした新興産業でイギリスを凌ぐめざましい発展を遂げなが

タリア革命だ」と世界同時革命を掲げる学生と「いやいや

日本はまだ対米従属の半植民地民主主義も未成熟市民革

命が先でプロレタリア革命はその後だ」と二段階革命を唱え

る学生がガンガンぶつかっていた革命の「カ」の字も言わ

なくな

った後もこれは尾を曳いたことあるごとに欧米と比

べ日本は「遅れている」と嘆いてみせるキザな「近代化」論者

と何かにつけ「日本的」という形容詞をつけて賞賛する論者

はいつまでも残ったここまでくるともう権威主義の二つの

ちょ っ と変わっ た経済原論 38

ら農民層分解は進まず従来型の中小経営も温存される一種あり方というほかない

の二重構造が定着してゆくこのあたりの歴史分析はともか

話を戦前に戻すとこうした論争をクールに眺める「ちょっ

く二面をも

った

現実はいわゆる「修正主義論争」を生むこ

とになる

「資本主義は変わったもはや

『資本論』は使えな

い」とするベルンシユタインたちと「その変化こそ『資本論」

の傾向法則が貫徹した結果だ」というカウツキーたちとの聞の

論争である

似たような論争は日本でも展開された論争の主役の多く

は第一次世界大戦後のドイツに留学経験をもっ少壮のマルク

ス経済学者だったここではそもそも日本は資本主義なのか

否か明治維新はブルジョア革命か天皇制とは何かといっ

た戦前の激しい論争とな

った

「日本資本主義論争」というそ

うだ戦後生まれの私は直接論争の現場をみたわけではない

がその名残がまだ濃厚な時代に育っ

た「この日本を資本玉

義と言わずしてどこに資本主義がある来るべき革命はプロレ

の媒介説である

くて宇野理論

んである宇野が実際におこな

たのは主としてこうした枠

「本当は正しいから異端視されるのだ」などと逆にこれだけ

組みに沿った原理論の構築であったその核心を

で読む価値があるように勘違いもしたがともかく資本主義

でいうのは簡単だがこの方法で中身を持えるのはたいへ

一言でいえ

ば純粋資本主義論ということになる

つまり商品経済的な

から社会主義に移るのではなく資本主義そのものがまずその

姿かたちを変えるのだという変容の問題をクローズアップし

してみせることである

そのため宇野は

『資本論』を批判的

この変容はいかに論じられるべきか意識的に方法論を展開し

関係だけで自立的に運動する純粋な資本主義像を論理的に構成

ちょっと変わった経済原論

た意義は大きい

主張した

『資本論』には理論的に説明できない

一九世紀のイ

輸入したばかりの『資本論』を現実の分析にどう活かすべき

に再検討しそこに含まれる誤りは誤りとして除去すべきだと

んけんごう

ごっ

か気鋭のマルクス

中集積論は原理的に説明できない一九世紀のイギリス資本主

ギリスに特有な要因が混入しておりとりわけ窮乏化法則や集

主義者たちが陪

一喧槙誕の論争を展開してい

た戦前の日本それを端からじっとみていた「ちょっと変わっ

義に特有な歴史的現象であると切って捨てたのである

たマルクス経済学者」がいた彼は戦後になってこんなこと

をいいだした

「資本主

うにひっくり返す結果になる

資本王義はその発展とともに

どう捉えるか方法論からやりなおしだ」と第

これはマルクスの収倣説と自己崩壊論をちょうど鏡像のよ

義といってもそれ自身変わるこれを

二幕はこんな

純粋な姿に近づき

その結果内部の矛盾が激化して崩壊する

感じだろうか

のではない逆に純粋な資

本主義であれば景気循環を通じて

資本主義の多様性

繰り返し矛盾を解決し永続的に発展できるところが現実の

資本主義は

一日はこの状態に接近しながら

一九世紀末には

しかし字野の方法論は原理論のなかから変容の契機を永久

追放するに等しい

結果になった現実の資本主義がどんなに変

その傾向が逆転し商品経済外の不純な要因に強く依存する体

質に変わった純粋な資本主義から誰離するに至ったところ

って

も資本主義である以上変わらぬ本質があるはずだ

に資本主義の歴史的な限界があるというのである

これを純粋に取りだしたものが原理論だということになる

たしかに景気循環のような「変化」は含まれるがそれはあ

正統を尊ぶ精神からみればこれは以ての外「『資本論』に

くまで法則にしたがって繰り返す運動だからであるそして

誤りなどあろうはずもなくすべては読み方が浅いからだ」と

と変わったマルクス経済

学者」がいた字野弘蔵という学者

で私は醤咳に接したことも尊顔を拝したこともない

高校生

の頃に住んでいた早稲田界隈の古本屋にこの先生の本がたく

さん並んでおりそのころから興味本位で読んできたので私

のほうは顔なじみのつもりできたがアカの他人だこの人の説

くところはとどのつまりこの論争には方法論的な限界があ

「資本論』のような資本主義の原理論を

の歴史的現実

に直接適用する方法が誤りのもとだということのようだ

れて資本主義化した国は独自の歴史的特徴を帯びる

日本が

資本主義化したのは資本主義が異なるタイプに分かれて発展

した帝国主義の時代だだから原理論をベ

スに資本主義の

タイプを類型化しこの発展段階論を基準に現状分析に臨むべ

きだというのであるいわば原理論の間接適用説段階論

l

たちまち異端審判が下され「そんなのはマルクス理論ではな

やぬ

だ」と郷撤される

若いころは判官晶展で

39

-っ

てよいし抜まをでカの愛

のを肩像は図になまツたオ

それでも資本主義は変容するとすればそれは純粋資本主

者の目からみればそうなる

義の想定にた

つ原理論で説明できない不純な要因によるものたこの点では同じように第

現実の資本主義は不純な資本主義としてどれもみな混合

渡期だと明言していた

資本主義だというわけである

やけに形式的な二分法でこれ

しかし後知恵に過ぎないが

で変容が説明できるのかと思ってしまうが次のように付言す

パと極東日本の資本主義化に固有の問題と捉えたほうがよい

れば立派に可能になる

ここでは資本主義の成立は国民国家の形成と深く結びついて

資本主義はその発展期においては純粋資本主義にますますいた

その発展は対外的には国家聞の対立とナショナリズムの

接近する傾向を示したところが一九世紀末に後発資本主義

高まりを引きおこす必然性があった

国が重化学工業をべ1

スに資本主義化するなかでこの純化傾ヨーロ

パの資本主義がナショナリズムと帝国主義のくびき

向は逆転したという純化不純化論である詳しい説明は避けを脱することができぬままやがて第一次世界大戦に突入し

るが不純化というのはたとえば保護貿易政策や社会政策と

その結果相対的地位を低下させるなかでその西と東にイン

いった国家による政策的関与や独占体や労働組合など私的競

ターナショナルを建前とする双子の超大国合衆国とソビエ

争の制約などを幅広く

夜つ概念であるこの接近し離れるとい

二O

ト連邦が台頭しこの人工国家が対抗するかたちで

う変容は原理論では扱えない原理論は純粋な資本主義なら世界は支え

られてきたようにみえる両者は大国のメリ

自立的に発展できるということを示すだけで純化不純化と

最大限活かし

国家予算に裏打ちされた巨大技術を開発し大

いう変容は発展段階論で分析されることになる

味な大衆

(人民 )文化のプロパガンダで社会統合をはかり周

このアイデアはドイツの資本主義化を念頭におき先行す辺の第三世界を糾合すべ

るイギリスと異なるタイプの資本主義が台頭することで第

一次

主義列強のように直接戦うことはついになかった

世界大戦にいたるという古典的帝国主義の時代を念頭におい

えば仲の悪い似たもの夫婦のようなものだった

て固められたものだった

そしてこの大戦を契機に史上初めて

純化不純化論は

九世紀末から二

の社会主義国ソビエト連邦が誕生するイギリス資本主義の誕

パの資本主義の変容をベ

生が資本主義の時代の始まりであるとすればたとえ一国

一地

がしかしそれはむしろ冷戦期の資本主義にピ

ッタリする面

域でも世界史的には社会主義の時代に突入したマルクス主義

をも

ちょっと変わっ た経済原論

主義者たらざる学者の宇野もま

一次大戦以降は社会主義への過

二度の世界大戦は西ヨーロ

国民国家と結びついた西

溺を競ったが西ヨーロ

O世紀初頭の西ヨーロ

l

スに考案されたアイデアである

っていた

冷戦構造のもとで合衆国は産軍複合体制を形

ト上での地殻変動であった

新自由主義に変容を迫るものではあってもグロ

ムというプレートを転換するものではない

このプレートの

本主義は

一日

は純粋な資本主義に接近しながらその後百年余

いくつ

かのかたちをとりながらも不純化の道を歩んでい

るというシナリオは終わ

辛うじて段階論のうちに残された純粋資本主義像を基準に

それに近づき離れるといった変容問題は消散し専ら資本主義

の多様化だけが強調されるようになる

れば類型化はでき

これが第三幕の結末ということになる

昨年から今年にかけてのチェンジ

パリズ

l

大転換は純化不純化論に幕を引いた資

った

そして不純化というかたちで

しかし現象を比較す

る純粋資本主義の原理論が出る幕はない

l

O

成し予算規模が拡大し西ヨーロッ

パも雇用維持や農業保護な

どを通じて国家の介入規制がますます顕著となっていった

うした現象をパックに対外投資をめぐる植民地争奪といった

古典的帝国主義をこえて

「国家独占資本主義」「福祉国家体

制」といったかたちでバージョンアップされていったがしか

しそれらはいずれも資本主義の不純化の現れとして概括さ

れすべて帝国主義段階という大きなプレー

ト上の地殻変動と

みなされたのである

ところが二

世紀末にはじまった冷戦体制の崩壊は

プレ

ートそのものの大転換であった

新たなプレートを突き動かす

マグマは冷戦体制のもとで右からも左からも低開発を強いら

れてきた地域国家における資本主義的発展であったこれを

グロ

パリズムとよぶとすると社会主義諸国の崩壊と先進資

本主義国を席捲した新自由主義の台頭はみなこの同じプレー

楽はB

人びとの喜怒哀

図像のなかにあるのです

漢代の画像石消末の画線砕

舎の解説図連環画年菌文

革期のポスタ

ー映画アニメ

などなど

美術会棄には死んでも載ら

ない

虚々実々のヴィジュアル世界を

気ままに訪ねてみませんか

世紀の

ットを

パの帝国

今にして思

I河河文引泣一ユE111叫111ω I1l1II凶II凶llmID1 αIIl川 IIW

大修p

館書店 本町IllI)l

4] ちょっと変わった経涜原論 40

変容論的アプローチ

私はこの三

であるそして

C

-aa--

入ってみよう

と思ったがオパマ大統領の話につられて読

れで「ちょ

ってい

だっ

たが当時から「

を惹かれる質なのだ

目を凝ら

すとどうや

幕ものの長い芝居を観ているうち何か恥な予感

か条件をもちこむことでうまく繕つであるらしいさらに

こうした部分は外部からいくつ

を肌で感じるようになり幕切れ近くにとうとうひどい腰痛に

見舞われる羽目にな

った一九九九年秋のことだ

った利いた

風なことをぬかしてきた私の腰砕けは友人たちにウケた「借す単一資本主義像に合わせ演律的な内部の論理とシ 1

りものの理論を自分の足で支えるってえのは辛かろうぜなど

踏み込んでみると純粋資本主義論がこの外的条件に独自のパ

イスをかけていることが気にな

ってき

純化不純化論が課

につなぐため単一の外的条件に無理に絞り込むかたちになっ

ている資本主義の原理像は現実の資本主義がどのように変

C

A

とからかわれ

一人リハビリに励みながら原理論のあり方に

B

ついて改めて根本から洗いなおすようになった私だけの第四

幕だ

考えてみれば純粋資本主義というのがはじめからどこか

シックリこなかったのだ私は原理論の研究者として厳密な

演縛的推論に徹するように育てられてきた用語を正確に定義

しそう

を規定するなら必ず

ということになる

B

ならば

ならば少なくとも Dということはありえな

い云身といった論理展開で全体像を理論的に構成する方法

をたたき込まれてきた

こうした思考方法にある程度慣れてく

るとたいていは目をつぶっていてもスルスルと進む

うにな

るのだが時としてどうしてもうまくゆかないところがでて

くる行き詰まったときに「一九世紀イギリスの現実はこうだ

から」などと誤魔化さずパカ正直に論理にしがみつくことで

原理論の内部から灰見えてく

開口部であるツ

ルツ

ルに磨か

れた「美しい」理論より昔からアパタやエクボのほうに気資本主義は不変の純粋資本主義と不純な要因の合成である

容し多様化しようとも不動でなければならないという要請に

健気に応えようとしている美人も辛いものだ純粋資本主義

は「変化」を含んではいてもその内部に「変容」の契機があ

ってはならない変容や多様性は原理論の外部に付加される

非市場的要因のせいだという結論からすべては逆算されてい

るのだ

逆に関口部に光を当てて再構成してみると資本主義がどの

ような仕掛けでその姿かたちを変えるのか変容の問題が理

論の内部に半分入ってくる

こうい

う原

理論なら資本主義は

変わった

というときの主語になる資本主義像を構築できるの

ではないかそして「変える力」の加えようももう少しわ

かるかもしれない

関口部をどう埋めるかには暗黙の合意が

社会的に必要となる資本主義はその意味でイデオロギー的な

社会であり政治的説得が重要な意味をもつのである

現実がどんなに変わっても資本主義は変

わらないのだという

硬直的な本質論を乗りこえられるかもしれない

理想の社会主

義もあれば現実にとんでもない社会主義もあったようにひ

どい資本主義もあればましな資本主義もあるそしてこれ

らはある範囲で変えることができるのだ

このことを明らかにするためさらにもう

一歩開口部に立ち

みはじめた人はもう耐え難い睡魔に襲われているころだろ

うここらで切り上げようともかくこうした視点で資本主義

の変わり方の構造に焦点を当てる方法を変容論的アプローチ

とよびこ

では情報化とか温暖化とか少子化とか手広く商っている憎め

ない男だ

で答え

て日く「たしかにお宅はす

っかり変わ

たでも変わり身の

早さは北日とちっとも変わってないな」「お

いおいイヤミか」

「ちょっと違う精確にいえばイヤツカミ

だ」ちょっと白けた笑いがいつまでも続いた

変わるというのはちょっと変わるくらいがちょうどよいの

かもしれないそれをこえれば違うというのだ

私は帰りの

地下鉄のなかで取り留めのない回想にふけりながらテキスト

に次の

一間を追加しようといつしか心にきめていた

「変わ

ると違うはどう違うの

か」

っと変わった経済原論」のテキストを

ってみ

ようと夢見るようになったときなぜか腰痛も癒えて

いた本当は書名に付けたかった「ちょっと変わった」という

のは風変わりなという意味もあるがこれまでとはアプロー

チが変わったという意味でもあるそして何よりも「資本主

義が変わった」という文が成り立つようなというのが真意

一年ほどかけてなんとかこれを書きあげたころたまたま大

学院で同じ釜の飯を食っ

た友人と飲む機会があった

旧交を温

めるべく

やおら鞄のなかから草稿を取りだしてみせると目

次を

懐かしいね昔の原論とちっとも変わ

以酌して朋友日く

おは

若いころはたしか物象化が十八番

のつくものには至って目がなく今

経山 礎基 n玄tEEC d幡本力 済量 i貨済

昭経 原克 習原

三西岡h論講

済8諭

おばたみちあき経済理論

下義

5 A A東京大学出 A

判 5 5 II 半日J

四版h Jyen4z2x

九 Jyen

表 頁 四

刀て頁 頁

ないじゃないか」と化

ムレス

現実の

)

五七

円 円 円

価込格

ちょっと変わっ た経済原論 4243 ちょ っ と変わった経済原論

税 ーノレ 七

Page 5: ちょっと変わった経済原論gken.sakura.ne.jp/gken/wp-content/uploads/2013/09/1b2040...2013/09/01  · 33 ちょっと変わった経済原論 で、その経済変化と変容

-っ

てよいし抜まをでカの愛

のを肩像は図になまツたオ

それでも資本主義は変容するとすればそれは純粋資本主

者の目からみればそうなる

義の想定にた

つ原理論で説明できない不純な要因によるものたこの点では同じように第

現実の資本主義は不純な資本主義としてどれもみな混合

渡期だと明言していた

資本主義だというわけである

やけに形式的な二分法でこれ

しかし後知恵に過ぎないが

で変容が説明できるのかと思ってしまうが次のように付言す

パと極東日本の資本主義化に固有の問題と捉えたほうがよい

れば立派に可能になる

ここでは資本主義の成立は国民国家の形成と深く結びついて

資本主義はその発展期においては純粋資本主義にますますいた

その発展は対外的には国家聞の対立とナショナリズムの

接近する傾向を示したところが一九世紀末に後発資本主義

高まりを引きおこす必然性があった

国が重化学工業をべ1

スに資本主義化するなかでこの純化傾ヨーロ

パの資本主義がナショナリズムと帝国主義のくびき

向は逆転したという純化不純化論である詳しい説明は避けを脱することができぬままやがて第一次世界大戦に突入し

るが不純化というのはたとえば保護貿易政策や社会政策と

その結果相対的地位を低下させるなかでその西と東にイン

いった国家による政策的関与や独占体や労働組合など私的競

ターナショナルを建前とする双子の超大国合衆国とソビエ

争の制約などを幅広く

夜つ概念であるこの接近し離れるとい

二O

ト連邦が台頭しこの人工国家が対抗するかたちで

う変容は原理論では扱えない原理論は純粋な資本主義なら世界は支え

られてきたようにみえる両者は大国のメリ

自立的に発展できるということを示すだけで純化不純化と

最大限活かし

国家予算に裏打ちされた巨大技術を開発し大

いう変容は発展段階論で分析されることになる

味な大衆

(人民 )文化のプロパガンダで社会統合をはかり周

このアイデアはドイツの資本主義化を念頭におき先行す辺の第三世界を糾合すべ

るイギリスと異なるタイプの資本主義が台頭することで第

一次

主義列強のように直接戦うことはついになかった

世界大戦にいたるという古典的帝国主義の時代を念頭におい

えば仲の悪い似たもの夫婦のようなものだった

て固められたものだった

そしてこの大戦を契機に史上初めて

純化不純化論は

九世紀末から二

の社会主義国ソビエト連邦が誕生するイギリス資本主義の誕

パの資本主義の変容をベ

生が資本主義の時代の始まりであるとすればたとえ一国

一地

がしかしそれはむしろ冷戦期の資本主義にピ

ッタリする面

域でも世界史的には社会主義の時代に突入したマルクス主義

をも

ちょっと変わっ た経済原論

主義者たらざる学者の宇野もま

一次大戦以降は社会主義への過

二度の世界大戦は西ヨーロ

国民国家と結びついた西

溺を競ったが西ヨーロ

O世紀初頭の西ヨーロ

l

スに考案されたアイデアである

っていた

冷戦構造のもとで合衆国は産軍複合体制を形

ト上での地殻変動であった

新自由主義に変容を迫るものではあってもグロ

ムというプレートを転換するものではない

このプレートの

本主義は

一日

は純粋な資本主義に接近しながらその後百年余

いくつ

かのかたちをとりながらも不純化の道を歩んでい

るというシナリオは終わ

辛うじて段階論のうちに残された純粋資本主義像を基準に

それに近づき離れるといった変容問題は消散し専ら資本主義

の多様化だけが強調されるようになる

れば類型化はでき

これが第三幕の結末ということになる

昨年から今年にかけてのチェンジ

パリズ

l

大転換は純化不純化論に幕を引いた資

った

そして不純化というかたちで

しかし現象を比較す

る純粋資本主義の原理論が出る幕はない

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O

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パも雇用維持や農業保護な

どを通じて国家の介入規制がますます顕著となっていった

うした現象をパックに対外投資をめぐる植民地争奪といった

古典的帝国主義をこえて

「国家独占資本主義」「福祉国家体

制」といったかたちでバージョンアップされていったがしか

しそれらはいずれも資本主義の不純化の現れとして概括さ

れすべて帝国主義段階という大きなプレー

ト上の地殻変動と

みなされたのである

ところが二

世紀末にはじまった冷戦体制の崩壊は

プレ

ートそのものの大転換であった

新たなプレートを突き動かす

マグマは冷戦体制のもとで右からも左からも低開発を強いら

れてきた地域国家における資本主義的発展であったこれを

グロ

パリズムとよぶとすると社会主義諸国の崩壊と先進資

本主義国を席捲した新自由主義の台頭はみなこの同じプレー

楽はB

人びとの喜怒哀

図像のなかにあるのです

漢代の画像石消末の画線砕

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虚々実々のヴィジュアル世界を

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4] ちょっと変わった経涜原論 40

変容論的アプローチ

私はこの三

であるそして

C

-aa--

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れで「ちょ

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を惹かれる質なのだ

目を凝ら

すとどうや

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か条件をもちこむことでうまく繕つであるらしいさらに

こうした部分は外部からいくつ

を肌で感じるようになり幕切れ近くにとうとうひどい腰痛に

見舞われる羽目にな

った一九九九年秋のことだ

った利いた

風なことをぬかしてきた私の腰砕けは友人たちにウケた「借す単一資本主義像に合わせ演律的な内部の論理とシ 1

りものの理論を自分の足で支えるってえのは辛かろうぜなど

踏み込んでみると純粋資本主義論がこの外的条件に独自のパ

イスをかけていることが気にな

ってき

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につなぐため単一の外的条件に無理に絞り込むかたちになっ

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C

A

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一人リハビリに励みながら原理論のあり方に

B

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考えてみれば純粋資本主義というのがはじめからどこか

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演縛的推論に徹するように育てられてきた用語を正確に定義

しそう

を規定するなら必ず

ということになる

B

ならば

ならば少なくとも Dということはありえな

い云身といった論理展開で全体像を理論的に構成する方法

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うにな

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原理論の内部から灰見えてく

開口部であるツ

ルツ

ルに磨か

れた「美しい」理論より昔からアパタやエクボのほうに気資本主義は不変の純粋資本主義と不純な要因の合成である

容し多様化しようとも不動でなければならないという要請に

健気に応えようとしている美人も辛いものだ純粋資本主義

は「変化」を含んではいてもその内部に「変容」の契機があ

ってはならない変容や多様性は原理論の外部に付加される

非市場的要因のせいだという結論からすべては逆算されてい

るのだ

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ような仕掛けでその姿かたちを変えるのか変容の問題が理

論の内部に半分入ってくる

こうい

う原

理論なら資本主義は

変わった

というときの主語になる資本主義像を構築できるの

ではないかそして「変える力」の加えようももう少しわ

かるかもしれない

関口部をどう埋めるかには暗黙の合意が

社会的に必要となる資本主義はその意味でイデオロギー的な

社会であり政治的説得が重要な意味をもつのである

現実がどんなに変わっても資本主義は変

わらないのだという

硬直的な本質論を乗りこえられるかもしれない

理想の社会主

義もあれば現実にとんでもない社会主義もあったようにひ

どい資本主義もあればましな資本主義もあるそしてこれ

らはある範囲で変えることができるのだ

このことを明らかにするためさらにもう

一歩開口部に立ち

みはじめた人はもう耐え難い睡魔に襲われているころだろ

うここらで切り上げようともかくこうした視点で資本主義

の変わり方の構造に焦点を当てる方法を変容論的アプローチ

とよびこ

では情報化とか温暖化とか少子化とか手広く商っている憎め

ない男だ

で答え

て日く「たしかにお宅はす

っかり変わ

たでも変わり身の

早さは北日とちっとも変わってないな」「お

いおいイヤミか」

「ちょっと違う精確にいえばイヤツカミ

だ」ちょっと白けた笑いがいつまでも続いた

変わるというのはちょっと変わるくらいがちょうどよいの

かもしれないそれをこえれば違うというのだ

私は帰りの

地下鉄のなかで取り留めのない回想にふけりながらテキスト

に次の

一間を追加しようといつしか心にきめていた

「変わ

ると違うはどう違うの

か」

っと変わった経済原論」のテキストを

ってみ

ようと夢見るようになったときなぜか腰痛も癒えて

いた本当は書名に付けたかった「ちょっと変わった」という

のは風変わりなという意味もあるがこれまでとはアプロー

チが変わったという意味でもあるそして何よりも「資本主

義が変わった」という文が成り立つようなというのが真意

一年ほどかけてなんとかこれを書きあげたころたまたま大

学院で同じ釜の飯を食っ

た友人と飲む機会があった

旧交を温

めるべく

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次を

懐かしいね昔の原論とちっとも変わ

以酌して朋友日く

おは

若いころはたしか物象化が十八番

のつくものには至って目がなく今

経山 礎基 n玄tEEC d幡本力 済量 i貨済

昭経 原克 習原

三西岡h論講

済8諭

おばたみちあき経済理論

下義

5 A A東京大学出 A

判 5 5 II 半日J

四版h Jyen4z2x

九 Jyen

表 頁 四

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五七

円 円 円

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ちょっと変わっ た経済原論 4243 ちょ っ と変わった経済原論

税 ーノレ 七

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変容論的アプローチ

私はこの三

であるそして

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入ってみよう

と思ったがオパマ大統領の話につられて読

れで「ちょ

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だっ

たが当時から「

を惹かれる質なのだ

目を凝ら

すとどうや

幕ものの長い芝居を観ているうち何か恥な予感

か条件をもちこむことでうまく繕つであるらしいさらに

こうした部分は外部からいくつ

を肌で感じるようになり幕切れ近くにとうとうひどい腰痛に

見舞われる羽目にな

った一九九九年秋のことだ

った利いた

風なことをぬかしてきた私の腰砕けは友人たちにウケた「借す単一資本主義像に合わせ演律的な内部の論理とシ 1

りものの理論を自分の足で支えるってえのは辛かろうぜなど

踏み込んでみると純粋資本主義論がこの外的条件に独自のパ

イスをかけていることが気にな

ってき

純化不純化論が課

につなぐため単一の外的条件に無理に絞り込むかたちになっ

ている資本主義の原理像は現実の資本主義がどのように変

C

A

とからかわれ

一人リハビリに励みながら原理論のあり方に

B

ついて改めて根本から洗いなおすようになった私だけの第四

幕だ

考えてみれば純粋資本主義というのがはじめからどこか

シックリこなかったのだ私は原理論の研究者として厳密な

演縛的推論に徹するように育てられてきた用語を正確に定義

しそう

を規定するなら必ず

ということになる

B

ならば

ならば少なくとも Dということはありえな

い云身といった論理展開で全体像を理論的に構成する方法

をたたき込まれてきた

こうした思考方法にある程度慣れてく

るとたいていは目をつぶっていてもスルスルと進む

うにな

るのだが時としてどうしてもうまくゆかないところがでて

くる行き詰まったときに「一九世紀イギリスの現実はこうだ

から」などと誤魔化さずパカ正直に論理にしがみつくことで

原理論の内部から灰見えてく

開口部であるツ

ルツ

ルに磨か

れた「美しい」理論より昔からアパタやエクボのほうに気資本主義は不変の純粋資本主義と不純な要因の合成である

容し多様化しようとも不動でなければならないという要請に

健気に応えようとしている美人も辛いものだ純粋資本主義

は「変化」を含んではいてもその内部に「変容」の契機があ

ってはならない変容や多様性は原理論の外部に付加される

非市場的要因のせいだという結論からすべては逆算されてい

るのだ

逆に関口部に光を当てて再構成してみると資本主義がどの

ような仕掛けでその姿かたちを変えるのか変容の問題が理

論の内部に半分入ってくる

こうい

う原

理論なら資本主義は

変わった

というときの主語になる資本主義像を構築できるの

ではないかそして「変える力」の加えようももう少しわ

かるかもしれない

関口部をどう埋めるかには暗黙の合意が

社会的に必要となる資本主義はその意味でイデオロギー的な

社会であり政治的説得が重要な意味をもつのである

現実がどんなに変わっても資本主義は変

わらないのだという

硬直的な本質論を乗りこえられるかもしれない

理想の社会主

義もあれば現実にとんでもない社会主義もあったようにひ

どい資本主義もあればましな資本主義もあるそしてこれ

らはある範囲で変えることができるのだ

このことを明らかにするためさらにもう

一歩開口部に立ち

みはじめた人はもう耐え難い睡魔に襲われているころだろ

うここらで切り上げようともかくこうした視点で資本主義

の変わり方の構造に焦点を当てる方法を変容論的アプローチ

とよびこ

では情報化とか温暖化とか少子化とか手広く商っている憎め

ない男だ

で答え

て日く「たしかにお宅はす

っかり変わ

たでも変わり身の

早さは北日とちっとも変わってないな」「お

いおいイヤミか」

「ちょっと違う精確にいえばイヤツカミ

だ」ちょっと白けた笑いがいつまでも続いた

変わるというのはちょっと変わるくらいがちょうどよいの

かもしれないそれをこえれば違うというのだ

私は帰りの

地下鉄のなかで取り留めのない回想にふけりながらテキスト

に次の

一間を追加しようといつしか心にきめていた

「変わ

ると違うはどう違うの

か」

っと変わった経済原論」のテキストを

ってみ

ようと夢見るようになったときなぜか腰痛も癒えて

いた本当は書名に付けたかった「ちょっと変わった」という

のは風変わりなという意味もあるがこれまでとはアプロー

チが変わったという意味でもあるそして何よりも「資本主

義が変わった」という文が成り立つようなというのが真意

一年ほどかけてなんとかこれを書きあげたころたまたま大

学院で同じ釜の飯を食っ

た友人と飲む機会があった

旧交を温

めるべく

やおら鞄のなかから草稿を取りだしてみせると目

次を

懐かしいね昔の原論とちっとも変わ

以酌して朋友日く

おは

若いころはたしか物象化が十八番

のつくものには至って目がなく今

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おばたみちあき経済理論

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