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終わらない戦争 桜美林大学 国際学部国際学科 4 牧田 東一ゼミ 20527059 尾田 晴香

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終わらない戦争

桜美林大学 国際学部国際学科 4 年

牧田 東一ゼミ 20527059 尾田 晴香

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目次

はじめに 第 1 章「ベトナム戦争の歴史」 第 1 節:ベトナム戦争とは 第 2 節:史上最大規模の反戦運動 第 3 節:不公平な徴兵制度 第 2 章「戦後のベトナム・アメリカ社会」 第 1 節:戦後のベトナム社会 1)ベトナム統一 2)ドイモイ政策 3)枯葉剤が残したもの 第 2 節:戦後のアメリカ社会 1)敗北の衝撃 2)ベトナム症候群 3)アメリカ人の戦争観 第 3 章「帰還兵とこれから」 第 1 節:数字から見たベトナム戦争 第 2 節:帰還兵の実情 第 3 節:帰還兵と PTSD 終章 参考文献 参考 HP

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はじめに 筆者が中学生の頃、ベトナムへ旅行した時のことである。今はもう記憶は定かではない

が、とても印象的だったのが、一日中ガムを売り歩いている小さな子ども。夜になっても

家に帰らない、家のないストリートチルドレン。片方の足を失った老人・・・。 名前は覚えていないが、あるベトナム戦争の博物館へ行く機会があった。そこで筆者は、

戦争の恐ろしさと、なぜあの老人は片方の足がなかったのか、なぜ街で五体不満足の人を

よく目にしたのかがわかった。博物館の中で、今でも鮮明に覚えているのが、ホルマリン

漬けにした状態で瓶に保存されていた胎児である。背と背がくっついた子。頭が異常に大

きい子。手足の指が足りないない子・・・。どれも皆、戦時中にばら撒かれた枯葉剤によ

るものである。その頃の筆者は、ただただ恐くて、かわいそうで、どうしようもない気持

ちに駆られた。 高校2年次にアメリカへ留学。そこで思わぬ出会いをした。筆者のホームステイ先には、

ベトナム帰還兵が一緒に暮らしていたのである。彼は帰還後、結婚と離婚を何度も繰り返

し、仕事も転々として一日中酒を飲み、しまいにはホームレスになってしまった。その彼

を筆者のホストファミリーが助け、居候というかたちで一緒に暮らしていたのだった。筆

者はそんなこと知る由もなかった。彼はアルコール依存症で毎日何缶ものビールを飲み、

暴言を吐いて喚いていた。筆者は何がなんだかわからず、恐くてどうしようもなかった。

しかし、酒を飲んでいない時の彼はまるで別人であった。とても純粋な目をしていて、気

さくでとても優しかった。彼は、筆者にたくさんの話をしてくれた。そのほとんどが、彼

の人生を狂わせた、恐ろしい戦争中の話だった。 彼から聞いた戦争の話は全て本当にあったことであり、筆者がベトナムで目にしたもの

も本当にあったことだ。共通することは、戦争はまだ終わっていないということだった。

また、この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ 6 万人近い戦死者を出し、南

北ベトナム人に至っては 200 万人近い人々が犠牲になったといわれ、戦争が終わった今で

も、大量に空中散布された枯葉剤の後遺症で多くの人々が苦しんでいる。 この論文で筆者は、これらの貴重な体験をもとに、目的すら曖昧だったといわれている

残虐で特異なベトナム戦争について論じていきたいと思っている。特に戦後、アメリカの

帰還兵や戦争後遺症(PTSD=心的外傷後ストレス精神障害)などに苦しむ人々に焦点を当

てながら、彼らを待っていた冷酷なアメリカ社会について、政治・経済的にも考察してい

く。それまでの戦争とは異なる、特異といわれたベトナム戦争とは、どのような戦争であ

ったか。また、このベトナム戦争後から現在に至るまで、ベトナム戦争の教訓とは一体何

だったのかを、さまざまな資料を基に検証していく。

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第 1 章「ベトナム戦争の歴史」

ベトナム戦争の歴史をここで論じようとすれば、一冊の本が出来上がってしまうだろう。

第1章では、さまざまなベトナム戦争に関する参考資料や、筆者のアメリカ留学で得た経

験などをもとに、「アメリカ史の中のベトナム戦争」という視点から、それまでの戦争とは

異なるベトナム戦争とは、どのような戦争であったのか。歴史を振り返りながらベトナム

戦争の特徴を挙げ、論じていきたいと筆者は考える。

第 1 節 ベトナム戦争とは

まず、ベトナム戦争は、アメリカとベトナムの間だけで行なわれたものではなく、ベト

ナム近隣諸国や他国を巻き込み、私たち日本と直結した大規模な戦争であった。日本の降

伏で幕を閉じた第二次世界大戦後、日本はアメリカの占領下に置かれた。1952 年のサンフ

ランシスコ講和条約により日本は独立国となるが、同時に結ばれた日米安全保障条約によ

り、日本各地に米軍基地が置かれるようになった。1964 年、アメリカ軍が本格的にベトナ

ム戦争に関わるようになると、日本にある米軍基地は補給基地として、この戦争に深く関

わっていく。当時、アメリカ施政下にあった沖縄の嘉手納基地からは、爆弾を積んだ B52

機が直接飛び立ち、ベトナムへ大量の爆弾を落としていた[ちひろ美術館 HP 2008,12.10]。 ここでは、ベトナム戦争を 1960 年代初頭から 1975年 4 月 30 日まで、ベトナムの地で繰

り広げられた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突とする。といっても、戦争の実体は

複雑で、南ベトナムを支援したアメリカと、北ベトナムを支援したソ連、中国との政治戦

略的な戦争ともいえる。アメリカは、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと 3 代の大統領が

関与し、1500億ドルの膨大な費用と、戦時中のピーク時には年間54万人もの軍人を派遣し、

国の威信をかけて挑んだ戦争であった。

結果はといえば、北ベトナム側の勝利に終わり、アメリカ軍はベトナムの地から撤退を

余儀なくさせられる。この戦争には、アメリカからの経済援助と引き換えに各国の国策の

もと、韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド及びフィリピンから兵士が送り込

まれた。この戦争の犠牲は大きく、撤退したアメリカ軍でさえ 5 万 8 千人以上の戦死者を

出した。南北ベトナム人民に至っては、200 万近い人が犠牲になったといわれている。そし

て、大量に空中散布された枯葉剤の後遺症(特にダイオキシンの影響)が、今現在でも残

っている。

この戦争の特徴の一つに、戦争の前線が存在しなかったことが上げられる。北緯 17 度線

上に DMZ(DeMilitary Zone)が設定されていたが、戦闘は南ベトナム領内のあちこちで

発生した。北ベトナム側は、米軍およびマスコミがベトコンと呼んだ「南ベトナム解放民

族戦線(NLF)」を中心に、南ベトナム領土内でゲリラ戦を展開していた。敵を待ち伏せ、

短時間の攻撃を仕掛けた後、さっと引き上げるといった戦略である。軍隊同士の正面切っ

た戦いではなく、地の利を活かした小競り合い的な戦闘が多かったのだ。これは、NLF側の

知恵であり、軍備を湯水の如く投入してくるアメリカの近代戦争と真っ向から戦ったので

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は、勝ち目がないことをよく知っていたのである。

このように、いつどこからともなく仕掛けられる戦いに、前線のアメリカ兵は恐れおの

のき、しまいには戦意を喪失して、軍隊の士気の低下を招いた。

もう一つの特徴に、報道が自由になされたことが上げられる。先の湾岸戦争でアメリカ

指導下の多国籍軍は、作戦中の報道関係者を完全にシャットアウトした。これは、ベトナ

ム戦争での教訓といわれている。ベトナム戦争では、カメラマンなどの報道関係者はどこ

へ行くのも自由であった。つまり、ヘリに便乗できたのだ。その結果、大勢のカメラマン

がベトナムを目指した。そこには常に、世界に知らしめる、自分をアピールする写真を撮

るに足る出来事があった。もちろん命を落としたカメラマンもたくさんいた。日本は、派

兵こそしなかったが、沖縄、厚木等の基地がアメリカ軍の後方支援の重要な役割を果たす

など、アメリカ軍の強い味方として存在していたのは事実だ[NMS HP 2007,12.10]。1960

年代の後半には、全世界が注目していた戦争であった。このようにして展開されたのがベ

トナム戦争である。

第 2 節 史上最大規模の反戦運動

1965 年 3 月、北ベトナムの北爆が開始され、以後 3 年間続く。3,500 人の米海兵隊がダ

ナンに上陸。陸軍も次々に投入された。在ベトナム駐留米軍は 20 万人にも増えた。この頃、

アメリカは徴兵制だったため多くの若者がベトナムに送り込まれた。この泥沼の戦いと言

われるベトナム戦争も、始めは「自由のための戦争」、「正義のための戦争」といわれ、大

規模な作戦が次々に実行されていった[ベトナム戦記 HP 2007,12.15]。 圧倒的軍事力の優位の中で、アメリカは勝てると思っていたのだろう。いや、必ず勝て

ると思っていたに違いない。しかし、自分達の国の独立の為に戦うゲリラ戦は、その国の

人々の強い決意の中で犠牲を乗り越えて戦われた。この中で、アメリカ兵の犠牲も当然の

ことながらどんどん増えていった。前述でも述べたように、日本はこの戦場の後方基地と

して機能していた。戦死したアメリカ兵を本国に送り返す中継基地であったし、必要な血

液も日本の血液が送られていたといわれている。日本国内では労働組合の人たちが先導し

て、整然とした大きな反戦デモが行なわれた。特に北爆開始後は、大勢の人たちが反戦の

デモに参加し、警察も機動隊も誰も止めることのできないデモだった。アメリカでも、多

くの若者が死ぬか戦傷者となって送り返されてくる。この戦争は何のための戦争かという

疑問が大きくなって反戦行動は大きなうねりになっていった。 ベトナム戦争は、その戦争中にアメリカ史上最大規模の反戦運動を引き起こした点でも、

それ以前にアメリカが海外で行なった戦争とは明らかに違っていた。しかも、その反戦運

動はアメリカ国内の労働者、市民、学生によるばかりでなく、ベトナム戦場で戦って帰還

した元兵士や軍事基地所属の現役兵士によっても、主体的創造的に取り組まれたものだっ

た。帰還兵による反戦運動は、1971 年初頭の「戦争に反対するベトナム帰還兵の会」(VVAW)

が主催した冬の兵士聴聞会に象徴的であるが、ベトナム戦争の犯罪性をその戦闘体験に基

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づいて証言するというだけではなく、帰還兵自らがその戦争犯罪に関わったことを公に告

白することを出発点としていた。そのため、反戦運動全体に運動の大義と説得性をもたせ

る原動力となったのである[白井 2006:138]。 アメリカ社会の 1970 年代は、社会全体が戦争後遺症に苦しめられ、ベトナム戦争につい

て語ることがタブーとされた、沈黙の時代だったといえる。しかし、そうした一般的な社

会的風潮から一歩分け入ったところでは、戦争をやめさせるための多様な運動がさまざま

な人々によって取り組まれていた。そして帰還兵たちにとって、反戦運動は何よりも自ら

の人間性を取り戻すための戦い、人間の尊厳をかけた戦いを意味していたと筆者は考える。 ところで、ベトナム人と戦争をすることにアメリカ人が最初に反対したのはいつのこと

だろうか。マリリン・ヤングはベトナム戦争の起源を 1945 年におく歴史家のひとりである

が、その根拠として、1945 年、日本の敗戦から 2 ヶ月後、ベトナムの植民地支配復活を狙

ったフランスの 1 万 3 千人の戦闘部隊をサイゴンまで運んだのが、12 隻のアメリカ商船隊

だったことに注目する。ベトナム戦争をアメリカの社会文化史の視座から論ずる H・ブル

ース・フランクリンは、この商船隊の船員たちがフランス軍のベトナムへの輸送命令に抗

議した事実を詳細に紹介している。 商船隊の一隻ペイショー・ビクトリー号の船員 88 名は、ワシントン輸送司令部にフラン

ス軍輸送に抗議する書簡を送った。続いてウィンチェスター・ビクトリー号の船員はトル

ーマン大統領とニューヨーク州選出ロバート・ワグナー上院議員宛に、これらのアメリカ

船は第 2 次世界大戦終結にともないアメリカ兵を本国に帰還させるために用意されたもの

であり、帝国主義的な支配復活を狙う外国の戦闘部隊をその目的地に運ぶためにアメリカ

船を使用することは「強く抗議」すると打電した。船員たちの抗議行動は、植民地主義復

活を目指したフランス軍とそれに抵抗したベトナム人の戦いである第 1 次インドシナ戦争

のそもそもの発端から、フランスのベトナム支配に加担することに反対の意思表示をした

アメリカ人が存在したことを物語っている。 1954 年 5 月、ディエンビエンフーでフランス軍がベトミンに敗北を喫やいなや、アイゼ

ンハワー政権がフランスに代わるベトナム支配の姿勢を打ち出したことに対して、アメリ

カ国内では政府の植民地主義と帝国主義政権を批判する世論が湧き起こった。そこには、

反共主義を揚げた植民地主義や侵略的な他国への干渉を許すならば、その先にあるのは国

全体を破壊に導く戦争でしかない。国の将来を憂えるなら、国民が声をあげ、今立ち上が

ることだ、明日では遅すぎる、とあった。しかしこの警告が出されて 2 週間もしないうち

に、米軍使節団が秘密裏にベトナム派遣され、さらにジュネーブ会議は、インドシナ地域

の将来を自国の利益に従わせようとするアメリカ政府の筋書き通りに運ばれたのだった。 反戦運動の高まりはベトナムへの米軍の本格介入と並行していた。1964 年 8 月のトンキ

ン湾事件後、11 月の大統領選挙を控えて平和主義者を装ったジョンソン大統領はベトナム

への介入拡大否定に奔走し、「アメリカの全ての若者をベトナムに送るようなことは決して

しない」との演説を繰り返した。既に着々と進められていた戦争のアメリカ化政策の真相

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は、1971 年に『秘密報告書』(ペンタゴン・ペーパーズ)で暴露されるまでは国民には知ら

されていなかったが、ベトナムに軍隊を送るなという世論は日に日に高まっていった。 1965 年 2 月、大統領就任式から 3 週間も経ずして、ジョンソンは北ベトナムへの爆撃を

開始した。3 月 8 日に南ベトナムのダナンに最初の米軍地上部隊が送られてから 8 日後の 3月 16 日、デトロイトのウェイン大学構内の路上でクエーカー教徒の平和運動家、婦人国際

平和自由連盟(WILPF)会員でエスペランティストのアリス・ハーズが、ジョンソン政権

のベトナム介入政策に焼身死をもって抗議した。82 歳だった。ハーズの命をかけた抗議の

直後、ミシガン大学の教授 20 名が政府へのベトナム政策に抗議の声を上げ、これに 200 名

の教授が加わった。徹夜で行なわれた討論集会(ティーチ・イン)には 2500 人が参加した

が、これがその後全米各地の大学で開かれることになるベトナム戦争についてのティー

チ・インの出発点となったのだ。 反戦運動の輪は瞬く間に広がった。4 月 17 日には SDS(民主学生連合)の提唱により首

都ワシントンに 2 万 5 千人近くが集まり、米軍の撤退を要求するデモ行進を行なった。こ

れは反戦運動としてはそれまでにない規模のものだった。これ以後、ティーチ・インとデ

モ行進は各地に広がり、同年 10 月にはカルフォルニア州バークレーに 1 万 5 千人、ニュー

ヨーク州マンハッタンに 2 万人、11 月には再びワシントンに 2 万 5 千人が集まった。それ

に伴い、運動の形態も徴兵カード焼却、軍用列車阻止、ハンガーストライキ、新聞への意

見広告、市民不服従行動など、多様性に富んでいた[白井 2006:151-154]。こうした運動が

世界の国々に報道され、日本も含めた世界各地でベトナム侵略反対の運動へとつながって

いったのである。

第 3 節 不公平な徴兵制度 第 2 次世界大戦では、徴兵対象年齢者の少なくとも 7 割が戦場に向かった。しかし、ベ

トナムに行った男性は、戦争最盛期の 10 年間に達した者(統計により異同があるが、ほぼ

260 万~300 万人)のうち 8%、多く見積もっても 10%程度に過ぎない。戦闘に携わった者

になると、6%たらずである。しかも、1 割と 9 割のどちらかに入るかが、非常に不公平な

やり方で決められていた。それは、全米の徴兵事務所にかなりの裁量権を認める選抜徴兵

制が採用されたためである。その結果、優秀な人材はなるべく残し、社会の底辺に位置す

る黒人やヒスパニック、貧しい白人などをベトナムに送り込み、そこで社会人としての訓

練を与えようという作為が働いたのであった。 この「10 万人計画(Project 100,000)」の綱に引っかかった者は 35 万人を超えるという。

その 4 割は黒人であった。また、誰を徴兵するかを決める者のうち黒人は 1.3%に過ぎず、

南部諸州では黒人が一人もいない徴兵事務所も珍しくはなかった。入隊者が全員警察にな

にがしかの世話になった過去を持つ部隊、7 割以上が黒人かヒスパニックという部隊もあっ

た。いいようのない不公平感が触発し、アメリカに精神的荒廃をもたらした[松岡 2003:69]。 ベトナムには、アメリカ社会の姿がそのまま映し出されていた。学歴の高い者や、豊か

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な家庭の子どもほど戦場に行かずにすんだ。例えば全米で最も貧しい州の一つ、ウェスト

バージニアは、10 万人に対して 84.1 人という戦死者を出した。ちなみに全米平均は 58.9人である。学歴は大きな意味を持っており、1964~1973 年に徴兵された者のうち、実際に

ベトナムに送られた者の割合は大卒者でほぼ 4 割、高卒者で 6 割強、そして高校中退者で 7割だった。しかも、大卒者はたいていが後方勤務だった。この戦争が、「ブルーカラーの戦

争」、「アメリカ式カースト制度の反映」などと呼ばれる由縁である。 さらに、人種差別の問題も大きい。1965 年~66 年、全人口の 11%でしかに黒人が入隊者

の 13%、戦闘部隊の 20%、戦死者の 23%を占めた。同じように、ヒスパニックは全米の人

口比で 7%だが、ベトナム戦死者の 20%を占めている。彼らはベトナムに行けば、2 人に 1人は戦闘部隊に入れられ、3 人に 1 人は負傷し、5 人に 1 人は命を失うといわれた。1970年のニューメキシコ州では、人口の 27%、徴兵された者の 69%、戦死者の 44%がヒスパニ

ックだった。貧困と差別の底で苦しむより、戦場のほうがましだとばかり、マイノリティ

の志願者が絶えなかったという事情もある。また、こうしたやり方で能力の低い兵士を量

産したことが、アメリカが負けた理由の一つだったともいう[松岡 2003:69‐71]。 表 1 軍務につく可能性と所得・学歴の関係

(A.D Horne, ed., The Wounded Generation: America After Vietnam, Englewood Cliffs, N.J.: Prentice-Hall, 1981 による) もちろん戦場でも差別問題は存在した。黒人の昇進は白人より遅かったし、かりに昇進し

たとしても、白人の部下との不和に苦しまなくてはならなかった。もっともその背景には、

米軍が第 2 次世界大戦以来尽力してきた白人と非白人の統合があると言える。

軍隊に入る

確立(%) ベトナムに

行 く 確 立

(%)

戦闘任務に

つ く 確 立

(%) 所 得

高所得 中所得 低所得

24 30 40

9 12 19

7 7 15

学 歴

大学卒 高校卒 高校中退

23 45 42

12 21 18

9 17 14

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第 2 章 「戦後のベトナム、アメリカ社会」 1975 年 4 月 30 日、革命軍がサイゴン政権の大統領官邸に突入し、15 年にも及ぶこの宣

戦布告なき戦争は幕を閉じた。インドシナの「主戦場」であった南ベトナムでの力関係の

急激な変化は、カンボジアとラオスにも影響し、カンボジアでは同年 4 月に、ラオスでも

12 月には、共産主義者が指導権を持った政権が全土を手に入れた。ベトナム戦争はアメリ

カの敗北、革命勢力の勝利として終結した。第 2 章では、変わり果てた戦後直後のベトナ

ム社会、及びアメリカ社会の様子を書くとともに、ベトナム戦争がどのような影響を及ぼ

したのかを、筆者が極めて重要だと考えたものを 3 つの項目に分けて考察していく。 第 1 節 戦後のベトナム社会 1、ベトナム統一 1976 年 7 月 2 日、ベトナムは統一された。新国家の国名はベトナム社会主義共和国。ベ

トナム労働党はベトナム共産党に改称し、全土で一党独裁体制を保った。ハノイの指導者

たちは抗米救国戦争の勝利に自信を膨らませていたし、一刻も早い国土復興を焦ってもい

たため、南の社会主義化は力ずくで推し進められていった。私企業は廃止され、銀行は国

有化された。生産も流通も消費も計画経済にもとづくようになった。食糧増産のため南で

も農村には合作社がつくられ、個人農家は肥料や農機具、燃料などを購入できなくなった。

そのため都市住民の一部は「新経済区」と呼ばれた荒地に移され、飢えや病気に苦しみ、

アメリカがせっかく撲滅したマラリアも復活した。 密告、拷問、人民裁判、公開処刑などが日常茶飯事となっていった。旧サイゴン政権関

係者やその家族は再教育のため収容所送りとなり、多くがそこで命を失った。旧体制下の

新聞は発行禁止となり、政府批判は厳しく戒められた。街の風景を写真に撮っただけで公

安警察に引っ張られもした。仏教も土着宗教も弾圧され、抗議の焼身自殺が出た。少数民

族の分離や独立といった約束も無効となり、革命というより占領、統一というより併合だ

った。伝統的な地域対立。欧米の文化的影響の濃淡。20 年以上も異なる社会体制に住み、

血を流しあってきた歴史。そこから生じた経済的・心理的な格差。貧しい北の支援に重荷

を担わされてはたまらないという南の反感・・・[松岡 2001:93-96]。これらを無視した強

引な政策は、やがて強烈なしっぺ返しを食らうことになる。 2、ドイモイ政策 街には失業者が溢れかえった。集団化の失敗、風水害、干ばつ、病虫害などのため農業

生産は停滞した。しかも、戦時中に北ベトナムが生めよ増やせよと人口を増大させた反動

で、全土に深刻な食糧不足が生じた。復興を焦る余り、設備も機械も原材料も輸入に頼っ

て大規模な工業化を優先した結果、粗悪な工業製品しかできなかった。可能なものは何で

も輸出されたから、国内ではモノ不足が生じた。ついに、1977 年 9 月 20 日の国連加盟も

つかの間、中国による援助は打ち切りとなった。カンボジア侵攻にともなう経済制裁がベ

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トナム経済を苦しめていった。1975年には 135億円にのぼる経済援助協定を結んだ日本も、

西側諸国と足並みを揃えて大型援助の凍結に踏み切り、1979 年にはベトナム政府は統計数

字さえ公表できなくなった。 1970 年代後半にベトナムの国民総生産の 2 割を占めていたソ連の援助は、ペレストロイ

カ政策によって 1980 年代末までにほぼ皆無になった。補助金つきで行なわれてきた石油・

機械・肥料などの貿易は現金決済となり、東欧諸国の援助も消えてそれまでの負債の返済

さえ求められた。ベトナムの輸出の 7 割、輸入の 9 割近くがソ連や東欧諸国だったから、

打撃は大きかった。ベトナムが送り出していた数万人規模の労働者も大挙帰国、そのまま

失業者となった。彼らの収入で各国への負債が返済されていったが、それもできなくなっ

た。1986 年にはベトナムの対外債務は 67 億ドルに達した。 しかも、1990 年までに 150 万人ともいわれ人々が周辺諸国に流出、経済に大打撃を与え

た。最初は元官僚や軍人など、社会主義を嫌い弾圧を恐れる人々だったが、1980 年代には

新天地を求める経済難民が増えた。その中で見事に成功し、祖国に多額の送金をしたり、

故郷に綿を飾ったりする者も多く、彼らがベトナム経済発展のカギを握った。 彼らの帰国を促したのがドイモイ政策である。早くも 1970 年代末には、戦時体制から平

和体制への転換、市場原理の導入、西側の技術資本の導入、私企業の容認、国営企業経営

の自由化、配給制度や補助金制度の見直しなどが提唱されていた。ドイモイ政策が公式に

宣言されたのは 1986 年 12 月 15 日。社会主義が否定されたわけではなかったが、少なくと

も社会主義押し付けの中止、集団農業の否定、資本主義的経営や個人経営の容認、社会改

革、民生安定、ソ連圏依存からの脱却などが目標として揚げられた。1987 年のインフレ率

は 700%で、「ハイパー・インフレ」と称された。1988 年には食糧自給が実現し、翌年には

ゴム、コーヒーなどと並んで 24 年ぶりに米が輸出され、世界第 3 位にまでなった。1980年代に 5%程度だった経済成長率は、1990 年代に入ると 8%前後に上がった。高い識字率に

示される質の良い、しかも安価な労働力、7 千万人の巨大な市場、豊富な天然資源などが注

目の的となった[松岡 2001:97-100]。 3、枯葉剤が残したもの 「戦争は最大の環境破壊」といわれるが、人類にとって最初のダイオキシン被害となっ

たベトナムの現実はそれを如実に語っている。ベトナムでは戦争が終結して 30 年余りが経

過したが、伝えられるドイモイ政策による経済成長の陰に隠れて、戦争当時アメリカ軍に

よって撒かれた化学兵器による被害は、根本的な解決のないまま今も拡大し続けている。

使用された化学兵器のひとつ「枯葉剤」に含まれていた化学物質「ダイオキシン」によっ

て、ベトナムの人々の体が、そしてベトナムの自然環境が汚染された。

今も多くの人々がその影響と考えられる、外形的障害、ガン、神経障害、免疫機能障害、

流産、遺伝的な変異など、様々な疾患に苦しめられている。ベトナム赤十字社によれば、

枯葉剤被害者はベトナム全土で 100 万人にのぼり、その内の 15万人は戦後に生まれた子供

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たちとされている。この戦争のあいだに、アメリカは 785 万トンの爆弾(銃弾は含まない)

をベトナムに落とし、7500 万リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む)を南ベトナムの森

林、農村、田畑にばら蒔いた。そもそもの目的は、第一に、解放戦線の隠れ家であるジャ

ングルを絶滅させること。次に、解放区で作られる農産物を汚染し、食料としては使えな

くすることを目的としていた[松岡 2003:70]。

では、ベトナム戦争で使用されたダイオキシンとは何か。ここで詳しく説明しようと思

う。まず、散布された農薬はエージェントと呼ばれた。オレンジ、ホワイト、ブルーの 3種類のエージェントが用いられた。オレンジとホワイトは、成長や代謝を阻害するもので、

2・4-D(ジクロロフェニキシ酸)と、2・4・5-T(トリクロロフェノキシ酢酸)の混合物が

エージェント・オレンジと呼ばれた。ホワイトは、2・4-D と 4-アミノ-3・5・6-トリ

クロロピコリン酸の混合物で、このうち特に大量に使用されたのがオレンジ・エージェン

トであった。また、稲などにはブルーが用いられた。ブルーは、カコジル酸を元にしたも

ので、植物の脱水化をはかるものである。 散布からわずか 24 時間以内で木々の葉は変色を始める。そして、1 ヶ月少しで落葉する。

次々に生まれる新芽を殺すため、除草剤は繰り返し撒かれる必要があった。こうして、通

常の 10 倍もの濃度を持つ除草剤は、密林のあらゆる植物を殺していったのである。作戦全

体に投入された薬剤は 72,300 立方メートル、溶剤以外の有効成分は 55,000 トンに及んだ

といわれている。散布面積の合計は、170 万ヘクタール。南ベトナムのジャングルの 20%、

マングローブ森の 36%に及んだ。これは、日本でいうと四国全体の面積にほぼ匹敵する。

対象の大部分は密林で、水田や耕作地への散布は 14%ほどであった。ちなみに、ダイオキ

シンの毒性はあのサリンの 2 倍、青酸カリの 1,000 倍といわれている。またサリンは、空

気中の水蒸気にさらされると無害になるのだが、ダイオキシン類は 1,300℃の超高温でしか

高速分解しない。 1962~1965 年に使用されたエージェント・オレンジには、総量 170kg と考えられてい

る。枯葉剤の撒かれた地区と、枯葉剤を扱った兵士とのあいだで子供を作ろうとした 1,545人の妻を対象にした、ダイオキシン被害の調査結果を掲げる。

表 1 ベンチェ省の枯葉剤散布地区で行われた先天異常発生調査結果

先天異常 散布前(A) 散布後(B) B/A 流産:ルンフー村 5.22% 12.20% 2.3 倍 ルンファ村 4.31% 11.57% 2.7% タンディエン村 7.18% 16.05% 2.2 倍 奇形児 0.14% 1.78% 12.7 倍

(綿貫礼子 「自然」、1983 による)

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表 2 ベトナム戦争参加アメリカ兵士の妻を対象とした先天異常発生調査結果

先天異常 発生率 B/A 対照群(A) さらされた群(B) 不妊 1.20% 2.80% 2.3 倍 早産 0.61% 2.01% 3.3 倍 流産 9.04% 14.42% 1.6 倍 奇形児 0.21% 3.14% 15.0 倍

(滝沢行雄 「トキシコロジーフォーラム」、1987 による)

この表から、枯葉剤散布地区では、流産が枯葉剤散布前に比べて 2.2~2.7 倍に、奇形児

は約 13 倍になっていることがわかる。また、ダイオキシンに直接さらされなかったアメリ

カ兵士の妻までも影響を受けている。これは、ダイオキシンが精子に影響を与えているた

めである。この他に、ベトナム帰還兵とその家族には、癌から子供の身体障害にいたる疾

病が現われ、原因は枯葉剤に混入していたダイオキシンであると確信されるようになった。

この関係を調査したアメリカ科学アカデミーの 1993 年の報告書は、ダイオキシンに暴露す

ると、軟組織腫、非ホジキンリンパ腫、およびホジキン病の 3 種類の癌になる可能性があ

るとしている[北海道 AALA 連帯委員会 HP 2008,2.20]。 第 2 節 戦後のアメリカ社会 1、敗北の衝撃 アメリカはのべ 450 隻以上の海軍艦艇、のべ 12,000 機以上の航空機などをベトナムに投

入し、第 2 次世界大戦の 3.5 倍もの爆弾をその大地に降らせた。可能な最大限の軍事力がベ

トナム戦争に関わり、アメリカは全力で戦った。しかし、アメリカは負けた。 ベトナム戦争終結直前の 1975 年 3 月に行なわれた世論調査では、アメリカ的生活様式が

他のどの国のものより優れていると、米国民の 80%がまだ信じていた。松岡は「しかしそ

れはむしろ、過去の幻影にすがる気持ちの表れだったのかもしれない[松岡 2003:37]」と推

測する。世界最強の軍事力、それを支える圧倒的な経済力、科学技術水準などへの彼らの

確信が打ち砕かれたからである。自らの力の限界を知り、若々しさや将来への希望を失っ

たアメリカは、ベトナム戦争を境に国家として中年を迎えたのだといわれている。アメリ

カの「活力」は消え去ってしまった。政府の財政赤字は大幅に増大し、インフレも抑えら

れなかった。景気は後退し、輸出は低迷し、失業率は上昇した。労働者の実質所得は減り、

貧富の格差も広がった。 1971 年、貿易赤字の増大とドルの価値低落に直面したニクソン大統領は、ドルと金の兌

換を停止し、輸入品の課徴金をかけた。この一方的処置は世界経済を混乱させ、1970 年代

の 10 年間でアメリカは世界市場の 4 分の 1 を失った。苦境中のアメリカに追い打ちをかけ

るように、第 4 次中東戦争にともなう石油ショックが起こった。それまで安い石油に依存

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し、必要量のほぼ 3 分の 1 を輸入してきたアメリカ産業は大打撃を受け、国際競争力を低

下させた。1974 年には、アメリカ経済は第 2 次世界大戦後初のマイナス成長を記録した。

平均的な収入の男性がごく普通の家を買えなくなり、車を持つことさえ負担になりつつあ

った。更に 1979 年、今度はイラン革命をきっかけに第 2 次石油ショックが訪れた。労使間

の溝は拡大し、労働者の職業倫理も崩壊した。労働力の基礎をなす青少年の分野でも、ア

メリカは自壊の途にあった。高校生の 5 人に 2 人は恐喝、暴力、殺人などの被害に遭って

いた[松岡 2003:38-41]。 2、ベトナム症候群 アメリカはベトナム戦争後も軍事行動を何度も繰り返した。1975 年のマヤゲス号事件、

1982 年のレノバン介入、1989 年のパナマ介入、1991 年の湾岸戦争、1994 年のハイチ介入、

1993 年及び 98 年のイラク空爆、1999 年のコソボ空爆などである。しかしベトナムでの敗

北が生み出した「ネバー・アゲイン」「ノー・モア・ベトナム」という空気は消えなかった。

それは単なる対外介入への歯止めではなく、アメリカ社会そのものの変容を意味していた

からである。ベトナムでの苦境に引き続いて、ベトナム症候群との長い格闘が始まったの

である。 その症状の第 1 が、「ミーイズム」と呼ばれる個人主義の蔓延である。将来を悲観し、社

会改革などはなから諦める。現実を直視せず、皮肉なものの見方をする。何事にも積極的

に参加せず、困難な問題について考えることもしない。脳裏にあるのは個人の権利を主張

することばかり。「ノー・ジェネレーション(拒否の世代)」の登場である。特に青年層は、

良い職にありつき、自らの健康を維持し、家族の生活を守ることばかり追い求めるように

なった。実はすでにベトナム戦争末期、米国民は外交に関心を失い、「平和への復帰」を求

めるようになっていた。アメリカは国際問題より国内問題を優先するべきだとする者は、

1964 年の 55%が米軍のベトナム撤退直後の 1974 年には 77%に上昇し、孤立主義者を自称

する者は増え、国際主義者は減った。 第 2 の症状として、「政治不信」が揚げられる。政府を信頼する者は 1964 年の 78%が 1976年には 35%に、1980 年には 26%に落ち込んだ[松岡 2001:273-275]。この政治不信の高まり

は、いくつかの事件の複合作用だった。その一つが 1971 年、『ニューヨーク・タイムズ』

による『ペンタゴン・ペーパーズ』の暴露報道である。それはベトナム戦争遂行の中心人

物の一人、ロバート・マクナマラ国防長官が極秘裏に作成を命じた、ベトナム政策決定過

程の秘密報告だった。 ニクソン政権はペンタゴン・ペーパーズ報道の差し止めを図ったが、最高裁が言論出版

の自由を優先する判決を下した。介入拡大の詳細な経緯をほとんど初めて知らされた米国

民は、虚偽のうえに虚偽を重ねてきた指導者たちへの不信を募らせた。しかもウォーター

ゲート事件で弾劾騒ぎを 2 年近くも続けたあげく、ニクソン大統領はホワイトハウスを去

った。この事件は、ベトナム戦争と同様に病んだアメリカの象徴とみなされた[松岡

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2003:50-51]。 第 3 の症状は、アメリカ人の「自信と価値観の喪失」である。世界最強の軍事力、群を

抜く科学技術水準。自分たちはフランス人とは違うという楽観。アメリカは全知全能だと

いう神話。民主主義や自由、市場経済などアメリカ的価値観。それを世界に輸出すること

が正しいとする信念。それら全てがもろくも崩れ去ったのである。その背景には、ベトナ

ム戦争と並行して、アメリカ自身が抱える問題が深刻化していったことがある。犯罪の増

加、政治的暗殺、麻薬の蔓延、教育の崩壊、人種間の対立激化や暴動、治安悪化、生活水

準の実質的低下、軍事力の弱体化、世界における指導力の低下などである。ベトナム戦争

はアメリカ自身の病める姿の投影だった。 敗北の衝撃の中で、アメリカの過去も問い直された。西方への膨張に抵抗する先住民を

悪と決めつけたこと。植民地化に反抗するフィリピン人を弾圧したこと。奴隷解放後も黒

人を差別し続けたこと。ヒスパニックやアジア系移民を迫害してきたこと。ベトナムでの

敗北はアメリカ人に、異文化を許容できる謙虚さを教えたようにも見えた [松岡 2001:276-277]。 3、アメリカ人の戦争観 ベトナム症候群の根底には、米国民が抱く特殊な戦争観があると筆者は考える。それは

200 年に及ぶアメリカ自身の過去の中から生まれたものであり、その意味では「アメリカ症

候群」とでも呼ぶべきものだった。彼らの戦争観とは、第 1 に、戦争は必ず勝利とともに

現実の利益をもたらすものだった。独立、西方への発展、繁栄、海外領土、そして「アメ

リカの世紀」の確立などである。第 2 に、正義は常にアメリカの側にあった[松岡 2001:286]。国民に「正しい」戦争と認識されない限り、戦争に突入できなかったのである。米国民は

これまで、植民地支配と専制君主制の否定(独立戦争)、本当の自立と公海における航行の

自由(1812 年戦争)、連邦維持と奴隷解放(南北戦争での北部)、民主主義の擁護(第 1 次・

第 2 次世界大戦)などに燃えてきたのである。 第 3 に、米国民を一丸とさせ、栄光の記憶を彼らの脳裏に刻み込む象徴的存在がいたか、

つくり上げられた。例えば戦争を指揮した政治家や、戦争で名を上げた軍人たち。多くの

伝説を残した勇者たちである。第 4 に、米国民の憎しみを一身に引き受ける適役も存在し

た。(ベトナム戦争)独立戦争で英国王ジョージ 3 世に始まり、第 2 次世界大戦における「ヒ

トラー・ムッソリーニ・ヒロヒト(昭和天皇)」・・・米国民は相容れない民族や外国勢力

をある人物に具現化し、険悪してきたのであった[松岡 2003:62-63]。

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第 3 章 「帰還兵とこれから」 上記の通り、戦争直後のアメリカには、ベトナム戦争という忌まわしい体験など1日も

早く忘れてしまいたいと考え、戦争を総括するとか、責任を追及するとかいった事はせず、

この戦争そのものをテーマとする映画なども一切製作されなかった。しかしその中で、皆

が忘れたいと思っていたベトナム戦争のツケを一身に浴びることになったのがベトナム帰

還兵である。戦後 30 年を経過した今日も、ベトナム戦争はアメリカ、そして、ベトナム国

内、在米ベトナム人の間でもなおきわめて論争的な戦争である。3 章では、南ベトナムと国

家の消滅、アメリカという超大国の敗北、社会/共産主義側の勝利の理由を探り、戦争の惨

い結末をデータと共に明らかにする。また、ベトナム帰還兵に焦点を当て、戦場から帰還

した兵士たちのゆくえを追う。 第 1 節 数字から見たベトナム戦争 1、 戦争の犠牲者

この戦争による直接・間接の死者、負傷者の正確な数字は、今後とも永久に不明のまま

であろう。ここでは 1975 年 5 月、ベトナム戦争直後、フォード大統領が公表した数値を記

す。戦闘による直接死者数は以下のとおりである[三野 1999:244-255]。 南ベトナム政府軍 24 万 1,000 人

同 民間人 41 万 5,000 人 アメリカ軍人、軍属、民間人 5 万 6,555 人 同盟軍(韓国、オーストラリアなど) 6,000 人 北ベトナム、NLF 兵士 100 万人+α 北民間人 3 万 3,000 人 したがって、合計数は少なめに見積もっても 160 万人、全体としては 200 万人に近い。

負傷者はアメリカ人の 33 万人を含めて、400 万人を超えているはずだ。しかし、激戦が何

年にもわたって続いた事実を考えると、この数字がどれだけ正しいかはわからない。 2、 各国の戦費 失われた人命と同列に比較すべきものではないが、この戦争に注ぎ込まれた戦費もまた

巨大である。結局、これらは各国の国民の労働の結果生産されたものであるから、当然記

しておく必要がある。アメリカ国防総省の発表した資料によると、戦争の直後、15 年間に

及ぶ間接の費用は、南・北ベトナムへの援助を含み以下のとおりである[三野 1999:245]。 アメリカ 1390 億ドル 中国 44 億ドル ソ連 90 億ドル

という額にのぼる。中国はこれ以外に、毎年 70~80 万トンの米を北ベトナムに供与してい

た。また、アメリカ人はこの戦争のために子どもから老人まで 1 人当たり 632 ドル(当時 1

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ドル 150 円として約 9 万 5000 円)を費やしたことになる。旧ソ連は、ベトナム戦争終結後

も 1990 年まで、毎年 5~10 億ドルをベトナムに援助していた。 一方、アメリカが南ベトナムに送った援助の年度(会計年度)別の金額は下記の表のと

おりである。ただし資料によって多少の違いが見られる。 表 1 アメリカが南ベトナムへ送った援助額

総額 軍事援助 経済援助 1965 年 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975

1.5 58.1 201.3 265.5 288.0 230.5 147.2 90.8 60.0 10.0 -

1.48 58.07

201.25 265.45 287.95 230.47 147.17

90.78 60.19 15.02 -

0.02 0.0282 0.0424 0.0458 0.0480 0.0320 0.0280 0.0200 0.0111

不明 -

合計 1351.6 1342.83 0.2754

(出典:三野正洋 「わかりやすいベトナム戦争」、1999 による) また、1972 年にアメリカ軍が南から撤退の際、同国政府軍に残してきた重火器、航空機、

弾薬などの 125 億ドル相当の軍需品が、大量にわたった。 3、南ベトナムにおける両軍の兵員数 ベトナム戦争は 1966 年頃まで、南ベトナム政府軍と民族解放戦線軍の戦いであったこと

を思い起こしてみる。しかしその後は、南ベトナム政府軍・アメリカ軍戦闘部隊と解放戦

線・北ベトナム正規軍の戦いとなる。南ベトナムにおける兵員数においては、特に 1968 年

春のケサン攻防戦1などは、完全にアメリカ軍(海兵隊)1 コ連隊対北正規軍 2 コ師団の戦

いであった。南ベトナム軍の約半数を占める民兵、地方軍は、装備のよくなった解放戦線

軍および北正規軍には到底太刀打ちできず、1972 年から急激に減少していく。しかし、1968年頃から支援部隊と戦闘軍の役割がはっきりしだし、解放戦線軍は後に 9 コの正規編成師

団を持つまでに成長した。

1 ベトナム戦争において、1968 年 1 月以降、アメリカ軍と北ベトナム軍が、南北ベトナム

間の非武装地帯(DMZ)から、25 キロ南にアメリカ軍が設営したケサン戦闘基地を巡って繰

り広げた戦い。

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北ベトナムの師団は構成員約 1 万人であり、25 コ師団をそろえている。他にも多くの独

立連隊、旅団を持つ。原則として、北ベトナム軍は正規軍 60 万人、民兵 40 万人という編

成になっていたと考えられる。この正規軍を三分割し、南ベトナム領内で戦闘に従事する

もの、ラオス、カンボジア領内での訓練、輸送、休息、再編成に当たるもの、北ベトナム

国内に予備師団としてそれぞれ 3 分の 1 ずつの割合である。北ベトナムの人口は 2000 万人

弱であるので、女性兵士を含んでも軍人の総数は 100 万名前後との見解に大きな誤差はな

いはずである。したがって、激戦が続いた 1968 年~69 年に南ベトナム内にあった両軍の

兵力は、以下のとおりである。 表 2 南ベトナム内の両軍の兵力

●南政府軍 約 50 万 〇北正規軍 20 万 ●アメリカ軍 50 万 〇NLF 戦闘員 10 万 ●MAF 6 万 〇同支援部隊 10 万 ●“南”民兵 50 万 〇ゲリラ部隊 10 万 計 156 万 計 50 万

(〔三野正洋 1999:pp.241-242〕より筆者作成) これだけ大きな兵力差をもってしても、南とその同盟国陣営が勝利をおさめることがで

きなかった理由は、十分に分析する価値があると筆者は考える。最大時 54 万人を教えたア

メリカ軍の内訳は、14%(7.6 万人)が歩兵、16%(8.6 万人)が砲兵、8%(4.3 万人)が

空軍兵、12%(6.5 万人)が輸送関係、他は指揮・通信・医療・食料関係であり、全体の 45%が歩兵である北側と比べて、地上戦闘員の数は多くなかった[三野 1999:244-250]。 4、ベトナム戦争におけるアメリカ軍の損失

1961 年から 1964 年までは軍事顧問団として、また 64 年 3 月から 73 年 8 月までは顧問

軍として南ベトナムで戦ったアメリカ軍の損失は、以下のように報告されている。 戦死者 4 万 7253 人(含行方不明) 事故死者 1 万 499 人 重症戦傷者 15 万 3312 人 軽傷(要入院)者 15 万 3341 人 直接戦費 約 1500 億ドル 消費爆弾 755 万トン、砲弾 154 万トン 損失航空機 8,546 機

なお戦費 1,500 億ドルは、1970 年の日本の国民総生産(額)に匹敵する巨額である。

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5、南ベトナムの消滅とアメリカの敗北 すでに述べたとおり、ベトナム戦争は 15 年にわたって続いたが、この間の直接の死者は

250 万人、近隣諸国(ラオス、カンボジア)、そして間接の死者を加えると 400 万人近くに

のぼったと考えてよい。ここでは、南ベトナムの消滅と超大国アメリカの敗北の原因を、3つの要因に絞る。 (1)南ベトナム政府、軍の無能 軍の上層部は権力争いに終始し、ゲリラ活動を続ける解放戦線、侵入してくる北ベトナ

ム正規軍との闘いに全力を投入しようとしなかった。そのうえ、仏教徒との対立を解消し、

一致して共産勢力に対抗しようとする努力を怠った。 (2)アメリカ介入の失敗 北ベトナムが南解放の意志に燃えているのに対し、アメリカの南ベトナム援助、そして

軍事介入の度合いはいつも遅すぎた。さらにこの戦争の情報操作の面で、北ベトナムに大

きく差をつけられてしまった。 例えば、 ・アメリカの主張 東南アジアにおける共産勢力の拡大阻止 ・北ベトナムの主張 民族と自由への希求 これらを比較したとき、後者には前者をはるかにうわまわる説得力があった。また、ア

メリカは 1965 年から本格的な軍事介入に踏み切ったが、その後も明確な指針を持たず、こ

のため共産側、特にベトナムに充分な打撃を与えるに至らなかった。これは、 ・北ベトナムのすべての港湾への機雷2封鎖 ・手段を選ばないホー・チ・ミン・ルートの遮断 というふたつの戦略に関しても曖昧さを残し、かつ徹底さを欠くことになる。 (3)旧東側陣営からの援助 戦争の激化にともなって、ソ連、中国からの北ベトナムへの援助は増加の一途をたどっ

た。これは武器、爆弾、大型兵器のみならず、食糧、建設資材の類にまで及んでいる。こ

の流れを切断し得ない限り、戦争はいつまでも続き、アメリカの疲労は徐々にたまってい

く。さらにそれは国内の反戦運動の高まりと、経済の弱体化を招く結果となった。また、

アメリカ軍の首脳は、戦争の始めから終わりまで、共産側の戦力を軽視していた。さらに、

戦争報道とそれに付随する宣伝活動に関して、アメリカは大きな失敗をおかす。自軍のす

べての情報を公開するという極めて民主的な姿勢は、一見理想と見えたが、結局のところ、

2 機械水雷の略。大量の爆薬を入れ、一定の水面下または海底に敷設し、感染が触れまたは

近づいた時爆発して、破壊・沈没させる水雷。

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アメリカ、南ベトナム=悪 解放戦線、北ベトナム=善 といった印象を全世界に与えただけであった。

これにより、日本を含む西側諸国にも反戦運動が広がっていき、それは確実にベトナム

で闘っているアメリカ軍の士気を低下させた。そして、1975 年 4 月 30 日、南ベトナム政

府は侵攻してきた共産勢力に対し無条件降状する。しかしこの降状自体、きわめて曖昧な

ものである。まず降状した相手が誰なのか。 ・ 北ベトナム政府 ・ 南ベトナム民族解放戦線 ・ 南ベトナム臨時革命政府 この 3 つのいずれかのはずだが、この点については現在でも明確にされていない[三野

1999:260-264]。

第 2 節 帰還兵の実情 20 万人・・・。この数字は、ベトナム帰還兵の自殺者数である。ベトナム戦場体験をも

つ元兵士たちは帰還後もさまざまな「戦争」と戦い続けた。まず、戦場からの帰還兵を冷

遇し、平時の社会への受け入れを拒絶する風潮はベトナム戦争に限られたことではなかっ

た。歴史的にも、戦場から帰還した兵士たちは英雄として迎えられたと同時に、社会の平

穏を乱すものとみなされてきた。帰還兵に与えられた厄介者、社会のクズ、のような代名

詞が示すように、負傷して帰還した者も含めた元兵士たちを、アメリカ国民は複雑な思い

で迎えた[白井 2006:138]。そこには帰還兵を犠牲者として同情的に見る目と同時に、残虐

行為の実行者として非難する目があったと筆者は考える。 ベトナムから帰還した兵士たちのアメリカ社会での再適応を最初に阻んだものとして、

いわゆる「365 日戦争」であったことからくる個々バラバラの兵士の帰還方法が挙げられる。

ベトナムでのそれぞれの義務期限を終了した兵士たちは、サンフランシスコに近いトラビ

ス空軍基地まではハイウェイでヒッチハイクするのが普通だった。しかし、アメリカ国内

で戦争への批判が高まるにつれ、このヒッチハイクの段階で赤ん坊殺しと罵られる。唾を

吐きかけられ、犬の糞を贈られるなどの嫌がらせを受けた。罵りと唾の吐きかけは、サン

フランシスコ空港でも繰り広げられた。男性も女性も、白人も黒人も、軍服に身を包みカ

ーキ色の大袋をかついでいると、ベトナム帰りであることは一目瞭然だったことから、さ

まざまな嫌がらせを受けた。 ベトナム戦争がいかに不正義かつ不人気の戦争だったにせよ、兵士にしてみれば自分た

ちは国のために戦ってきたという自負がある。しかも、通常の戦争とは異なるゲリラ戦で

の見えない敵と戦う恐怖、無差別殺戮、ハイテク武器ではなく、地雷や手榴弾、さまざま

な仕掛け爆弾による殺傷、生き残ったことへの罪悪感などに象徴されるベトナム戦争の特

異性は、帰還した兵士が何らかの慰安をともなう出迎えを期待しても当然のことだったろ

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うしかし、第二次世界大戦直後のような大々的な帰還パレードなど望むべくもなかった[白井 2006:138-144]。 そんな中、英雄と呼ばれる人々もいた。そこで着目されたのが、北ベトナムに抑留され

ていた米兵捕虜(POW)である。彼らはアメリカばかりが加害者ではないという事実の生

き証拠人だった。次に、2,000 人以上の行方不明兵(MIA)である。1987 年まで彼らの捜

索について米越間の協議も行われず、米国内には行方不明兵の存在を理由に国交正常化に

反対する声もあった。ベトナム政府の調査に不信感をあらわにし、こちらこそ被害者だと

考えるベトナム側が激怒するという悪循環の中で、米国内ではベトナムへの反感が強まり、

ただでさえ薄い加害者意識はいっそう希薄になった。第 3 に、ベトナム・ベテランズである。

カーター大統領は「平和と自由のために戦った」彼らを賛美した。1975 年 11 月 11 日のベ

テランズデー(復員軍人の日)はとくに彼らに捧げられた。 1981 年 4 月 26 日はベトナム帰還兵再認の日となった。レーガン大統領は彼らを「祖国

の呼びかけに従い、わが国史上どのアメリカ人にも劣らずに勇敢に、よく戦った人々」と

呼んだ[松岡 2003:95-96]。しかし、実はまだ米軍がベトナムにいた頃でさえ、多くの人々

がベトナム・ベテランズの存在など忘れつつあった。まして戦死者にいたっては「埋葬さ

れてしまっただけでなく、この世に全く存在しなかったものとされてしまった」と、ある

帰還兵は慨嘆する。 アメリカに定住したボート・ピープル3も、アメラシアン(米兵とベトナム人女性との混

血児)たちも、アジア系市民への根強い軽蔑と屈辱と反感に加え、彼らがアメリカ外交の

失敗、アメリカの国際的地位低下の象徴と見られた。1970 年代末の世論調査では、ベトナ

ム戦争の影響として難民の上陸を挙げる者が一番多かった[松岡 2003:97-98]。

表 3 ベトナム戦争がアメリカにもたらしたもの 一般市民(%) ベトナム帰還兵(%) ベトナム難民(ボート・ピープル) 68 74 若者の政府への敵意 57 63 アメリカの威信と影響力の喪失 52 70 政府への信頼の喪失 50 60 麻薬の蔓延 48 53 国家の将来に対する確信の喪失 45 57 アルコールの蔓延 28 33 高いインフレ率 26 32 世代間のギャップ 21 26 黒人と白人の間の問題 5 6

3 ベトナム戦争終結後、小型の舟でインドシナ地域から海外へ亡命しようとした難民。

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(松岡完「ベトナム症候群」、2003 による) 社会からほとんど拒絶されていた帰還兵に就職口など見つかるはずはない。戦傷や枯葉

剤の後遺症に苦しみ、罪の意識や精神錯乱になやまされる。アルコール依存症に悩まされ、

自殺者も耐えない。そんな中、1965 年に米軍最初の落下傘部隊の一員として南ベトナムに

派遣され、帰国後も教練担当軍曹を務めたチャック・ディーンは退役後、ベトナム帰還兵

援助のための NPO、ポイントマン・インターナショナルを立ち上げた。ディーンは復員軍

人局や復員障害者協会などの統計をもとに、ベトナム帰還兵が社会復帰に際して直面した

いくつもの難題を調査し、1990 年段階で以下のようにまとめている。 ・ 既婚者の 38%が帰還後 6 ヶ月以内に離婚 ・ 帰還兵全員の離婚率は 90% ・ 帰還兵全員の 40~60%が恒常的な情緒適応障害をもつ ・ 各地域の復員軍人のための社会復帰プログラムを修了した帰還兵の 100人に 2.5人が自

殺、帰還兵の事故死と自殺は年間にして 1 万 4000 人(全米平均を 33%上回る) ・ 5 万 8 千人余りの戦死者に加え、自殺者はおよそ 20 万人 ・ 50 万人のベトナム帰還兵が法的処罰により逮捕投獄され、なお推定 10 万人が監獄で服

役中、20 万人が仮出獄中 ・ 麻薬・アルコール依存症が 50~75% ・ 帰還兵の失業率 40%、25%が年収 7000 ドル以下(政府の定める単身者所得による貧困

水準以下を指す) ディーンの統計には、ホームレスになった者の数字は示されていないが、帰還兵の自殺

理由はさまざまな要因が相乗されていたことが想像できる。名誉勲章受賞者ドゥワイト・

ジョンソンのように、強盗を装い至近距離から打たれて死んだ者や、自滅的な自動車事故

を起こして命をたった若者たちは、珍しくはなかった[白井 2006:149-150]。筆者がアメリ

カ留学で出会った、帰還兵のランディーも、上記の項目にいくつか当てはまる。彼の死を

知らされた時、アルコール依存による病気で亡くなったと聞いていたが、筆者には自殺と

しか考えられなかった。現に、彼は筆者にこんな言葉を残している。「死にたい」。酒を片

手に、彼は毎日のように何度も筆者に訴えかけたのであった。 第 3 節 帰還兵と PTSD 彼らはそれまでの戦争と異なり、いっせいに除隊せずベトナムからバラバラに帰国した。

しかも、数日で日常生活に引き戻された。年齢はせいぜい 19~20 歳だった。つまり、社会

に適応するすべを十分に身につけないまま戦場に送られ、全く変わらぬ状態で社会に復帰

を迫られたのである。祖国のために身命を賭して尽くしながら裏切られたという、彼らの

孤独感や疎外感は消えることはなかった。激しい戦闘経験を持てば持つほど、また戦争の

末期に従軍した者ほど、自分の殻に閉じこもる者が多かった。自分たちが生き延びたこと、

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いま生きていることじたいが罪なのだと考える者も増えた[松岡 2003:99]。その多くは、

PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいた。この PTSD は、ベトナム帰還兵に特徴

的とみられていた。それまでの戦争で生じたものとは異なる、新しいタイプの精神障害と

して、全米精神医学会から正式な診断名として認定されたのは 1980 年のことである。 戦争神経症については、第一次世界大戦では「シェル・ショック」(砲弾ショック)、第

二次世界大戦中の症状に対しては「コンバット・ファティーグ」(戦闘疲労)と名づけられ、

戦闘にともなう神経症精神障害として認知されていた。ベトナム戦争に際しては、これら

を防ぐために戦場での兵役義務を 1 年間(海兵隊のみ 13 ヶ月)と定めた。しかし、帰還後

に直面した社会的無視と冷遇が、ベトナムからの帰還兵の精神的後遺症を一段と深刻なも

のにしたのだった。 最も、「良い戦争」と呼ばれた第二次世界大戦時における戦闘疲労からの精神的後遺症に

ついてさえも、急性ストレス障害に陥った兵士がせいぜい 1 週間程度の休養を経て戦闘部

隊に復帰させられたのちの状態や、復員して家庭に戻ってからの症状に関しての調査など

はなされていなかった。つまり、戦争が終わってしまえば、表立った社会問題とはならな

いかぎり、復員した兵士たちの運命について、軍や政府、精神医学会が特別な関心や注意

を払うことはなかった。しかし、ベトナム帰還兵が陥った戦争神経症は、それ以前の戦争

によるものとは異なり、著しい遅延ストレス反応をともなうものだった。それは帰還後の

社会への適応障害であり、疎外感やうつ、戦場の悪夢、不眠、人間関係を始めとするあら

ゆる状況での忍耐心や集中力の欠如などの症状が、帰還後何年も経てから発現することが

多く、しかもこれらの症状は発現してから更に長期間続いた[白井 2006:140-142]。 また、PTSD の診断や治療はかなり難しいと、多くの研究者は述べている。まず第一点と

して、PTSD に苦しむ人は、心的外傷をもたらした出来事について表明したがらないことが

あげられている。自分のトラウマに対する反応を詳細に報告することは、非常に困難だか

らだ。つまり、比較的長期間の記憶喪失と、記憶の再生に対する防衛機制4が生じるのだ。

また、被害者の中には、聴取しようとする臨床家の動機に対する不信感がみうけられる。

久留は、診断するにあたり重要な点については、「臨床家が PTSD を認知していること(き

づき)が大切であり、その「きづき」の有無によって関わりのありようが異なってくるこ

とを十分に認識しておく必要があります[久留 2003:129]」と述べている。 診断の難しさの第二点に、PTSD は、二次的障害(例えば、アルコール依存症、薬物中毒

など)によって隠されてしまっていることがある。アルコールに依存せざるを得ない、い

たたまれない気持ちからアルコール依存症へと傾いていく。すなわち、「癒し」のための「依

存」が生じることになるのである[久留 2003:130]。帰還兵のランディーも、正にこの二次

的障害であったと筆者は考える。このように、診断が困難であることから誤診が行われる

と、治療方法も不適当にならざるを得なくなる。もし、PTSD を誤診すると、臨床像は、多

4 不安・葛藤の状況や欲求不満に当面したとき、自分を守ろうとして自動的に無意識にとる

適応の仕方。

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くの場合、改善されないか、もしくは悪化すると言われている。被害者の苦悩を受け止め、

理解し、PTSD を正確に把握することは、治療のための必要不可欠の条件である[久留 2003:130]。ベトナムからの帰還兵およそ 300 万人のうち 50 万人~70 万人が、PTSD 症状

を抱えていたといわれている[白井 2006:142]。ものすごい数である。帰還兵のランディー

も、そのうちのひとりであった。 こうした帰還兵たちの抱える精神的な戦争後遺症の問題にいち早く取り組んだのは、

VVAW(戦争に反対するベトナム帰還兵の会)の会員たちだった。心理学者や精神科医、復

員軍病院で働くカウンセラーたちとの協力関係に支えられた活動が、すでに 1970 年はじめ

に開始されている。この人々は、ラップグループと呼ばれる討論グループを組織し、帰還

後、戦争後遺症に苦しむ元兵士たちがベトナムを語ることがタブーとされる社会の中で押

し殺してきた胸の内を、言葉にしてもらうことを治療の第一歩とする活動に取り組んだの

だった。ラップグループに参加し多くの帰還兵の話を聞いた精神科医のひとりハイム・シ

ェタインは、活動を始めてから 2 年後には、彼らに共通した精神的戦争後遺症の症状を以

下のとおりにまとめた。 ・ 生き残りとしての罪悪感とそれに対する事故懲罰。今生きているのはそのことへのツケ

をはらっているようなものという罪の意識から、他人を巻き添えにしない交通事故など

を何度も起こしたりする。 ・ スケープゴート(他人の罪の身代わり)にされ、騙され、利用され、裏切られたという

感情が社会全体にまで向けられる。 ・ 騙され、うまく操られてしまったことへの怒り。帰還後、自分に向けられる他人の不可

解な態度に対して、軍隊で訓練された無差別な対象への暴力的衝動を自己抑制できなく

なる。 ・ 戦闘での残虐性。軍隊で東洋人への憎悪を骨の髄までたたき込まれ、殺人マシンとして

自分が非人間化され、かつ消耗品扱いされたことに除隊するまで気づかなかったこと。 ・ 人間としての感情を奪われたことからくる自己疎外感、他者からの疎外感。 ・ 人を愛せない、信頼できない、愛を受け入れられない苦しみ。憎むことしか学ばなかっ

たことの悲しみ。 軍隊では、人と親しくなること、死を悲しむことは戦闘の士気を削ぐとして否定された。

しかし、シェタインは、「戦闘員も人間である以上、軍隊での非人間的な教育は人の死を悲

しむ感情を押しつぶすことはできてもそれを消し去ることはできない[白井 2006:143]」と

結論づけている。 終章 「戦争の記憶」 本論文では、特異な戦争といわれたベトナム戦争について論じてきた。改めて、戦争の

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矛盾や怒り、悲しみ、恐怖など、いろいろな感情が込み上げる。15 年にも及ぶ長い戦争は、

一体誰の、何のためのものであったのか。また、得たものとは何だったのか。答えはない

と、筆者は考える。失ったものは戻らず、残されたものは深い傷に涙を流す。得たものが

あるとすれば、それはベトナム戦争の教訓だろう。しかし、皮肉にも、ベトナム戦争後も

アメリカは勝利と名誉、そして、権力を得るために、軍事行動を止めることをしなかった。 ここで、アメリカがベトナム戦争後に起こした軍事行動の一つ、イラク戦争に着目する。

2003 年 3 月 19 日、アメリカはイラクに攻撃を開始。わずか 1 年 9 ヶ月には、イラク戦争

の渦中において、早くも米兵の大量の負傷兵・PTSD 問題が大問題になり始める。ゲリラ戦、

市街戦がいかに凄惨かつ過酷であるか、イラク戦争がいかに残虐で大義のない戦争である

かがわかる。イラク(およびアフガニスタン)に派兵された米兵は延べ 100 万人に達し、

戦争開戦以降の米兵死者数が 4000 人に達したと、AP 通信が独自集計をもとに伝えた。一

方、英米系非政府組織(NGO)イラク・ボディー・カウントによると、開戦以降のイラク

民間人死者数は 8 万 2000 人以上に上った[日刊スポーツ HP 2009,11,20]。 イラク戦争から 6 年が経とうとしている今、その規模、その時代背景こそ違え、ベトナ

ム戦争と共通点があると筆者は考える。激烈な市街戦・ゲリラ戦、不正義な戦争、ベトナ

ム症候群とイラク症候群・・・。生かされるべきベトナム戦争の教訓など、何もどこにも

生かされていない。帰還兵は、そして米国社会は、これからベトナムとイラク、この 2 つ

の大きな戦争の後遺症に苦しむことになるだろう。しかしながら、民間人死者数 8 万 2000人には言葉も出ない。攻撃開始後の記者会見で、ブッシュが「市民の犠牲は最小限にとど

めたい」。と言ったのを思い出す。こんなにも死に瀕する人々をつくっておいて、これが最

低限だというのか。イラクの持つ大量破壊兵器の破棄を求めるために、アメリカの持つ大

量破壊兵器を使うということは矛盾してなかったか。 戦争から何が生まれるのだろう。犠牲はいつも「市民」だ。もちろん、この「市民」の

中には、非人間的な洗脳をされ続け、殺人マシンに仕立て上げられたあげく、まるで消耗

品のような散々な扱いを受け、今もなお、PTSD や後遺症に苦しむ兵士を含む。本論文で紹

介したような米軍兵士の苦しみなど、意に返さない戦争指導者の、戦争という悲惨で過酷

なものに対する無知さ、それを知ろうとしない姿勢、いや、知る必要などない特権的支配

エリートの階級的立場というものに怒りが込み上げる。現に、ブッシュ政権であるブッシ

ュ本人も、ラムズフェルドも、チェイニーも、ウォルフォウィッツもネオコンも、誰一人

として戦争の悲惨な現実を体験した者はない。筆者が、帰還兵のランディーからベトナム

戦争体験の話を聞いただけでも、涙が出てくるほどであったのに・・・。是非とも一度、

彼らに戦争を体験してもらいたいものだ。 一方、アメリカの友好国である日本。友好国として相手の国を支持する事も良いが、間

違ったことを行おうとしている相手を止めるのも、友好国としての努めではないだろうか。

最近では、憲法解約派が増えている。日本国民のひとりとして、筆者には理解しがたい事

実である。二度と戻らない悲惨な過去を、二度と繰り返さないために私たちにできること

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は、憲法 9 条を守っていくことだ。と、筆者は主張する。

日本国憲法第 9 条 1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、

武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄

する。 2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、

これを認めない。 最後に、この論文を書くきっかけを与えてくれた、筆者の友人でもあるベトナム帰還兵

のランディーに、感謝したい。

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<参考文献> 久留一朗(2003) 『ポスト・トラウマティック・カウンセリング』駿河台出版社 松岡完(2001) 『ベトナム戦争』中公新書 松岡完(2003) 『ベトナム症候群』中公新書 三野正洋(1999) 『わかりやすいベトナム戦争』光人社 白井洋子(2006) 『ベトナム戦争のアメリカ -もう一つのアメリカ史-』刀水書房 古森義久(1995) 『ベトナムの記憶 -戦争と革命とそして人間-』PHP 研究所 菊池信義・中野亜里=編(2005) 『ベトナム戦争の「戦後」』株式会社めこん 大石芳野 (1988) 『闘った人びと -ベトナム戦争を過ぎて-』講談社

<参考 HP> ちひろ美術館 HP (2008)www.chihiro.jp/peace/vietnam.htm 日刊スポーツ(2009)www.nikkansports.com 北海道 AALA 連帯委員会 HP (2008)http://ha6.seikyou.ne.jp/home/AALA-HOKKAIDO/kareha.htm Department of Veterans Affairs(2009)www.va.gov VVAW(1967)www.vvaw.org