美術史研究の視点 - 大阪大学okada/files/bun.pdf美術史研究の視点 ~ベラスケス《ラス・メニーナス》を例に~ 文学部共通概説 西洋美術史・岡田裕成
図版 Ⅰ 熊岡美彦《台南の農家》1938年-103 - 近 代 美 術 の 寄 港 地 ・...
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図版Ⅰ熊岡美彦《台南の農家》1938年
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図版Ⅱ 津田巌《台湾風景》 1930年代
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近代美術の寄港地・台湾への憧憬―熊岡美彦の美術作品を中心に
岡 部 昌 幸
我が史学科と美麗国・台湾の橋渡しをしてくれた蔡易達先生、石田憲司先生に捧ぐ
目次
カラー図版
一、台湾と日本近代美術―寄港地と日本主義
二、『台湾美術』と芸術触媒としての台湾
三、熊岡美彦の海外体験
四、熊岡美彦の台湾作品
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一、台湾と日本近代美術―寄港地と日本主義
私が台湾と日本近代美術の関係について関心を持ち始めてから二十五年以上になる。その出会いは、建築史な
どで台湾から日本に留学していた何人かの研究者との直接的な交遊という幸運からでもあったが、長い間、直接
ではなく間接的な接触の仕方であった。それは日本近代美術史の研究を進めるうちに、自然と台湾が魅力あるテ
ーマとしていわば心に刷り込まれていったのである。
何故か。自らが直接に台湾を訪れ、その事物や風景を体験し、感激するのではない。ただ、日本近代美術には
数多くの台湾テーマがある。しかも、そのいくつかは美術史上重要な画家の画家たちが描いた作品である。たと
えば、日本画では橋本雅邦の愛弟子で東京美術学校の助教授でもあった西郷孤月(一八七三―一九一二)の《台
湾風景》(山種美術館蔵)は、この薄幸の鬼才の晩年の代表作であるばかりでなく、近代日本画の歴史を語るう
えで避けては通れない岡倉天心と日本美術院の美術運動の時代のなかで、その代表的作例として取り上げられる
こともある。
さらに、注意深くその《台湾風景》を見ていけば、西郷孤月が日本美術院を離れ放浪の末に一九一二(明治四
十五年)たどり着いた台湾の台北で発病し、同年東京に戻り亡くなる年の、悲運の人生と惜しまれる才能が潜ん
でいる。それだけではない。そこには歴史も描かれている。熱帯樹の生い茂る緑の濃い田園風景には近代的な精
糖工場が描かれているのがわかる。つまり、日本近代美術史を丹念に辿っていくと描かれた台湾を見ることにな
る。そして、台湾の歴史も見ることになる。
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私たちは、美術を辿ることで、台湾とその人びとを見ているのである。しかし、あくまでも直接的な関係では
ない。美術作品として鑑賞をする間接的な関係である。この間接的関係を生むものこそ、作家の感動であり、創
造力なのである。間接的であるということは、時代状況における美術作家の体験と精神の粋と高まりがそこに注
入されていることでもある。逆にいえば、日本近代美術における台湾とは、芸術作品として結実している「台湾
とその近代」なのである。さらにそれが日本近代の芸術家の理想像つまり「夢」や「憧憬」であったことの一例
を本稿で示そうと思う。それは、昭和初年から十年代に日本画壇、特に洋画壇で繰り返し論じ、提唱されていた
「日本主義」(註1)
の夢とも重なっていたと考えられる。
日本近代美術家が描いた台湾とその人びとの作品、台湾に関係する主題、題材、美学を「台湾テーマ」と呼び
たい。梅原龍三郎の《台湾風景》(一九三三年)(図1)がその典型である。梅原龍三郎は藤島武二とともに台
湾府美術展覧会(台展)の審査員として台湾を訪れたが、台湾での見聞、体験とその後訪れた南九州、鹿児島で
の取材は、この日本近代洋画を代表する在野の画家の発展の大きなターニングポイントとなった。
ここで、民間航空機が発達する前の戦前期においては台湾への交通経路は船便のみで、その交通経路と同じく、
当時の日本と台湾との関係は、首都東京からは、行きも帰りも九州(特に南九州)、琉球列島を間に挟むもので
あったことを強調しておきたい。南九州、琉球列島は、麗し(ファルモワーサ)の国・台湾へと通じるエキゾチ
ックな寄港地であったのである。(註2)
台湾で梅原龍三郎が藤島武二と同席したことが、この画壇のアカデミスム巨匠との確執とそれに対する強い対
決姿勢を生む。藤島武二は最晩年になっていたが、彼もこの台湾への旅程から大きな芸術的収穫を得ていた。画
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図1 梅原龍三郎《台湾風景》 1933年
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壇の両横綱(片方はまだ大関であったかも知れない)の対決が台湾で起こされたのである。梅原龍三郎がこの旅
程で獲得した「日本主義」的画題とそれが生み出した自信は、戦いの場所を日本の中央に移し、一世代前の旧ア
カデミスムの巨匠・藤島武二との世代間闘争と画壇再編を引き起こす。狙いは政権交代であった。
一九九二年私は、こうした台湾をめぐる日本の洋画壇の動乱をテーマに台湾と韓国の近代洋画を加えて紹介す
る展覧会を企画した。それが、「洋画の動乱―帝展改組と洋画壇、昭和一〇年 韓国・台湾・日本」展(註3)
で、
公立の美術館としては、台湾の近代洋画に眼を向けた最初の展覧会でもあった。
そして、私は引き続き、台湾の近代美術と、日本近代美術のなかの台湾という双方向で研究を進めてきた。台
湾では、一九九〇年代は白雪蘭氏などの研究(註4)、近年では、『台湾の美術教育』など優れた研究も発表されて
きた。(註5)
私が調査した日本近代美術作品の総論は別稿に譲りたいが、台湾との関係が興味深い画家のなかで特に指摘し
ておきたいのは、創作版画の画家たちのことである。一九一四年(大正四)十八歳のとき両親とともに台湾に移
住した山口源は、療養先の関仔嶺温泉に滞在中、恩地孝四郎の友人の藤森静雄が台湾の親戚に身を寄せていたと
ころに偶然に出会い、創作を勧めることになる。(註6)
日本創作版画協会第一回展開催の五年前のことである。
『台湾文学』などで、川上澄生などが挿絵を手がけているが、その源流としてこうした背景があるであろう。
また、台湾と創作版画の接点として、文学者の西川満(一九〇八―一九九九)の存在も指摘したい。西川満は
会津若松の生まれであるが、台湾で昭和炭鉱を起こした父に伴い三歳で台湾に渡った。そして、台北一中から早
稲田大学仏文科に学び、恩師吉江喬松の「地方文学に一生をささげろ」と教えを受け台湾に戻り、台湾日日新報
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社の学芸欄編集の社員のほか台湾文化出版社の経営および編集にあたった。そのかたわら自らも詩、小説を精力
的に発表。そのほとんどが、台湾に題材とテーマをもったものだったが、台湾の歴史と文化にふんだんに取材し
ながらも単なるリアリズムではなく、耽美的なロマンティシズムに仕上げることが特徴であった。
その特質がよく表われたのが、自ら起こした日孝山房(媽租書房)から出版した小部数限定の著作である。た
とえば、『詩集 華麗島頌歌』(一九四〇年九月)では、装本は西川満自身、装画は立石鉄臣が描いている。西川
満の台湾時代、初期に挿絵を依頼した画家は宮田弥太朗であったが、後期は主に立石鉄臣に協力を求めるように
なった。(図2、3)(註7)
立石鉄臣(一九〇五―一九八〇)は台北帝国大学の教員で、国画会会員。西川満との
共作は詩画集『林本源庭園賦』ほか多数に及ぶ。西川満が挿画を依頼した画家はそのほか、絵入り小説『十二娘』
の大瀬紗香慧などをあげられる。その「画家との共著もの」、美術的な装丁への愛好は、優れた画家の発表の場
を提供することでもあったといえる。さらにそれは、西川満本人の造本デザインへの傾倒を深め、自らが絵筆を
とることもあった。
それが、自ら企画編集した『愛書』第一〇輯、台湾特輯号に寄稿した「華麗島の「燈座」について」の挿画で
ある。西川満は、細かな台湾文化の研究・発掘にも熱心であった。燈座とは、「主として一月九日の玉皇上帝誕
生祭、同月十五日の天官大帝誕生祭、十月十五日の永官大帝祭の折、神に感謝の意を表すために作つて焼くもの」
であり、「めでたい赤紙を用ゐて円筒を作り、中に数々の金紙・紙銭の類を収め、筒の表面は種々の版画で」飾
る。台湾すなわち「華麗島の風習が生む、最もうつくしいものの一つ」で、「これぞ、四時に花咲く島にふさわ
しい優婉なる民藝品であり、その浪漫的な香気、絢爛たる色彩の美は、正に台湾版芸術の極致と称してよい」と
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いう。その燈座の版画を西川満は八図選び、模写している。(図4)
手慣れたタッチで、素朴な版画の持ち味がよく出ているが、たとえば交友のあった板祐生のような創作版画の
画家たちともよく似ている。この作風を考えると、『延平郡王の歌』(一九四三年九月)にある挿絵(図5)は、
著書西川満本人のものと考えられないであろうか。西川満のいままでほとんど論じられていない側面が、ここに
見られる。創作版画と台湾との関連は、西川満の存在でより深いものとなる。西川満にとって台湾は美術の寄港
地の役目を果たしたと同時に、台湾は郷土的な美の真髄を探るものであった。そこから、独自の「日本主義」が
生まれたといえる。西川満は「華麗島の「燈座」について」の脚注で、慵齋の著『霧社』の装丁・装画に触れ、
「装本者梅原龍三郎氏が台湾に来遊せる折、採集したものに基づいたのであろう。」と言及しているが、これは梅
原龍三郎の日本的作風への転換を考えるうえで大変示唆に富む指摘である。
台湾に訪れ、あるいは在住した画家たち。彼らにとって台湾は麗しき寄港地であった。そして、それに刺激さ
れて新たな「日本主義」が生まれた。それは単なるエキゾチシズムではない。圧倒的な西洋文化の影響のなかで、
西洋芸術と一定の距離を置きながら、近代芸術を模索していく途上で出会った啓示である。そして模索の旅の途
上すなわち「寄港地」で出会った刺激は、郷土への探索、自分自身の根源的なものを想起させた。それが「日本
主義」を生み出した。
私はこうしたテーマで資料、作品を収集してきたが、本稿ではそのなかで私の所有する作品を二点紹介したい。
その一点が熊岡美彦の《台南の農家》(一九三七年、カンヴァス・油彩)であるが、これについては後に論じ
る。(カラー図版1)
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図4 西川満 《台湾郷土絵図(五)》 多色刷機械版
図5 西川満(推定) 『延平郡王の歌』装画 多色刷木版
図2 立石鉄臣 『詩集 華麗島頌歌』装画 多色刷木版
図3 立石鉄臣 『詩集 華麗島頌歌』装画 多色刷木版
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そして二点目が津田巌の《台湾風景》(油彩・カンヴァス)(カラー図版2)である。これも気持ちの良い作
品である。津田巌(一八九二―一九六一、本名佐太郎)は熊岡美彦と同時代の洋画家である。明治大学を卒業し、
中央美術展に出品した。さらに一九三四年から三六年まで旺玄社展に出品した。旺玄社は熊岡美彦も会員であっ
た槐樹社が解散したとき、その一部と牧野虎雄とその門下生で結成された。いっぽう、一九三〇年創立の独立美
術協会には一九三五年より出品し、一九四一年独立賞を受賞し、一九四八年に同会会員となる。港町を描くが、
高雄ではないだろうか。当時の洋画壇で熊岡美彦らが唱えた新しい写実とその作風があればこそ、こうした台湾
の貴重な風景、風俗が記録されたことを指摘したい。
研究上こうした作品の掘り起こしが、重要であると考える。
註1、『美術』の一九三七年に、特集や単独記事でしばしば登場する。
2、台湾の古名。昭和戦前期に台湾に在住し、活発に文芸活動をした詩人・小説家、西川満の命名によれば
「美麗国」。
3、「洋画の動乱―帝展改組と洋画壇、昭和一〇年 韓国・台湾・日本」展、東京都庭園美術館、一九九二年
八月。同展覧会図録中論文、拙稿「洋画壇再編」参照。
4、白雪蘭、「一九二〇年代―一九三〇年代における海外留学生の興隆と台湾の洋画壇の情況」、「洋画の動乱
―帝展改組と洋画壇、昭和一〇年 韓国・台湾・日本」展図録、二四―二五頁。白氏は、一九八〇年代末
に台湾からの留学生とその師承関係をテーマに台湾で展覧会を実現した。
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5、『台湾の美術教育』、一九九七年。また、田中志津枝『はじめに映画があった―植民地台湾と日本』、中央
公論新社、二〇〇〇年七月。も優れた研究である。
6、『山口源版画集』、山口源顕彰会、一九八三年三月。
6、『藤森静雄版画展図録』、福岡市美術館、一九八二年一月。同図録所収の関野準一郎「台湾と右手の拇指
藤森静雄寸描」に山口源と藤森静雄が台湾で出会った経緯が記されている。四頁。
7、立石鉄臣は、戦後の日本で挿絵画家として活躍。細密画で知られ、美学校などで教えた。台湾での活動は、
劉峰松他編『立石鉄臣 台湾書冊』、台北県政府、一九九七年六月にまとめられている。
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二、『台湾美術』と芸術触媒としての台湾
戦前期の台湾での台湾と日本の画家たちの動向を知る良い資料がある。以下にその全文を転載したい。(図6、
7参照)
「
本島畫壇の作家達
日 向 田 温
大東亞共榮圏南進基地としての臺灣の文化は將來益々ゆるがせに出来ないものの一つである。今や蘭印諸島、
マレイ、ビルマ、ヒリツピン、東印度などなど各地民族の繁榮と向上を保償するの責任を持たされこれら南方
地域の文化建設の指導的役割を果たさなければならぬの時、わが總ての文化注入の主要基地としての臺灣文化
の重要性は倍加され從來の様に單なる植民地文化、地方文化の程度にとどまるを許されず現在より數歩を飛躍
して中央文化の最高の水準にまで引擧げるの要あるは疑を持たぬところである。從つて現在臺灣に於ける美術
文化の面に活躍しつつある作家達を展望してこれを一般の記憶に印してこれら作家の將來を見守らしめること
も徒勞でないことと思ふ。
臺灣の畫壇が東洋畫壇(日本畫)西洋畫壇の二つに區別されることは中央美術界のそれと變りがなく唯、彫
刻及び美術工藝の部門に人なき現状を如何ともなし得ない實倩にある次第であるが最近島内に於ける生活工藝
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図6 『台湾美術』創刊号目次ページ 1943年10月
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の振興運動が積極化されつつあるので將來美術工藝の面は幾分よき作家の輩出が期待されると思はれるのである。
本島の洋畫壇は東洋畫壇に比して水準も秀れ從つて有力な作家の數も多いが總ての作家が總督府美術展をそ
の根據として中央の二科、獨立、國展、春陽會、その他の展覧會至乃團體等の流れを汲んで研鑽に暇なき状態
であるが作家としての獨立の生活を營む者の數は僅かである。本島洋畫壇の大御所鹽月桃甫氏は東洋畫の木下
靜涯氏と共に在臺二十餘年に及び共に臺灣畫壇育成への功勞者として大をなす作家で
育會主催の臺展の開設
から現在の府展への發展等に盡力し作家を指導し來つた功績は甚大であつた。鹽月氏は現に府展常任審査員で
あると共に臺灣美術奉公會理事長の重責にあり、臺大、臺高等の講師として後進指導の第一線に立つてゐる。
この他國展の會員である立石鐵臣氏、春陽會々友の楊佐三郎氏等を始め洋畫壇の有力として松ヶ崎亞旗、藍蔭
鼎、佐伯久、飯田實雄、院田繁、中野洋、陳登波、李石焦、李梅樹、顏水龍、松本光治、西尾積善、張萬福氏
等の緒氏がある。これら作家はいづれも本島洋畫壇の先輩として自らの精進をはげむと共に後進を指導してい
く重責を果せられてゐる作家である。
東洋畫では府展常任審査員である大御所木下靜涯氏を始めとして宮田彌太郎、高梨勝靜、秋山秋水、陳進、
陳水森、村上無羅、野村泉月、石原紫山、丸山
太、中村敬輝、林玉山、郭雪湖、黄水文、盧雲生、高森雲巖、
長谷徳和氏等が有力な作家で目下府展を中心に縦横に腕を振つて島内東洋畫向上のため奮闘を續け後進の導き
にも萬全の力を盡しつつあるのである。
元來臺灣の美術は洋畫東洋畫共に何等の傳統も持たずその發生も洋畫にあつては西洋の影響により東洋畫に
あつては中央及び支那の影響によつて近々に因るので勉強の對象としての施設的にも亦環境的にも不遇で從つ
福祿
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図7 藍蔭鼎 「台湾画集」(『台湾美術』創刊号)
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て精神の度合も中央のそれに比し稍々遲緩を如何ともなし難い様である。特に東洋畫の場合この觀は深い様で
ある。毎年の府展の折中央畫壇から各二名づつ一流作家を鑑審査のため招聘するのであるが、折角の招聘も單
なる審査のみに終止せしめて終つて島内作家の指導面への何らの機會も方法も構ぜらずに終ることは實に殘念
な事であつたと思はれるのである。
島内美術發展のためには古今のよき作品に接するの機會を與へるための方法と施設、よき指導者の招聘と研
究機關の設置などの要を觀ぜられるが幸にも古今の名畫に接しせむる一方法として各二名づつの作家を中央に
派遣する事が今年から實施された事は意を強ふするものがある。
尚、これらのみに止まらず各作家の出品制作も府展は勿論の事機會ある毎にまた事情のゆるす限り中央の諸
展覧會にも出品して練磨することも實力を培養するためのよき方法として奬勵に價するものがあると思はれる。
古今より藝術の興隆は國力の進展に比例すると言はれて居り、今や大東亞戰爭の進展に伴つて国運の前途洋々
たるの觀深きとき一國内の藝術再建のみに終始を許さず東亞十億民衆の藝術建設の指導の重責を持たさるる吾
等美術人、特に南方發展の基地として將來重きを加へるわが臺灣の美術人にとつて臺灣の美術文化こそ早急に
高度に引き擧げられなければならない緊要事であり臺灣文化の擴充こそ國偉宣揚の一點鐘でもあるのである。」
ここに、台湾における近代美術の発展と同時代の状況が、よくまとめられている。そして、こうした美術界の
把握がこの時期に必要とされたこと、一九四〇年代になって、これらの運動が起きていることに注目したい。(註1)
台湾の日本統治はすでに五〇年近くになっていたが、昭和一〇年代になって画壇が整備され始めた。一九二七年
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に始まった台湾美術展覧会(台展)とその後身の台湾総督府展覧会(府展)は、徐々に成熟した画壇を醸成して
いく過程にあった。そうした台湾の画壇・美術界を振り返る余裕が、このとき初めて表われたともいえる。
一九四三年に創刊された『台湾美術』は台北にある南方美術社が、いままで刊行していた美術雑誌『南方美術』
を「発展的解消」したものである。編輯後記にあるように「台湾美術は大東亜戦を契機として地理的に重要性を
認識されて来た台湾の美術文化の発展向上に資する事を第一目的」としている(註2)
時局がらみで、戦争や南進の
中継地、兵站地としての国策を強調されているが、出版が統制下にあった一九四三年当時では、日本国内の出版
物の語調、文体も大同小異であったろう。
しかし、そうした時局性までも、画壇と美術ジャーナリズムの発展に利用しようとした、関係者が美術界整備
を果敢に試みた状況が見て取れる。引用文中で特筆された「本島洋画壇の大御所塩月桃甫」と「東洋画の木下静
涯」は「在台二十余年」で、台展・府展の審査員として現地側の最高責任者を委ねられていた。この二人の大家
の立場からすれば、ようやく画壇の確立が目に見えてきた段階にあったのである。(註3)
創刊号の発刊は一〇月であり、第六回の府展が月末(一〇月二六日―十一月四日)から開催予定であったこと
を考えると、美術の話題が一番盛り上げる時期に発刊されたことがわかる。台展には、日本本土から洋画家、日
本画家それぞれの画壇の巨匠が審査員として招かれた。台湾の画壇の成長ぶりを中央画壇の重鎮に理解して認め
てもらう機会が、この台展・府展であった。
日向田温が台湾画壇の主要画家に挙げている画家は、洋画家の楊三郎、藍蔭鼎、陳澄波、李石樵、李梅樹、顔
水龍の六人、東洋画(日本画)の陳進、陳水森、郭雪湖、黄水文、盧雲生の五名余りである。このなかで、前述
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の「洋画の動乱―帝展改組と洋画壇、昭和一〇年 韓国・台湾・日本」展に出品した台湾の洋画家六名で、上記
に言及されているのは陳澄波(一八九五―一九四七)と李梅樹(一九〇二―一九八三)、楊三郎(一九〇七―)、
李石樵(一九〇八―一九九五)の四名、触れられていない画家は劉啓祥(一九一〇―)、洪瑞麟(一九一二―一
九九六)の二名である。(註4)
陳進は、日本統治時代の美術界が生み出した典型的画家であり、今日台湾・日本双方でもっとも再評価されて
いる画家といえる。台北第三高等女学校の美術教師であった郷原古統の門下で、台湾最初の女子美術留学生であ
った。(註5)
女子美術学校を卒業し台湾の女性として初めて高雄州立屏東高等女学校の教師となり、その後日本本
土で暮らしたのち戦後、台湾に帰り、台湾の美術界の発展に貢献した。
日本の近代美術の成熟期において、日本の画家の台湾での経験は「芸術触媒」の役目を果たした。同時に、台
湾に近代日本画の伝統を伝え独自に発展させた陳進のような画家も多い。その場合、台湾の近代美術史において
は日本の画家や近代日本画・洋画の技法自体が逆に、台湾近現代美術の発展に「芸術触媒」として働いたといえ
るのではないかと考えられる。(註6)
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註1、日向田温「本島画壇の作家達」、『台湾美術』創刊号、南方美術社、一九四三年一〇月。総ページは34頁。
本島とは台湾のこと。
2、同、34頁。執筆者は発行兼編輯人であった大島総一郎と考えられる。
3、日本統治時代の台湾美術界の先行研究としては、中村義一氏による二論文「台展、鮮展、帝展」、『京都教
育大学紀要・A 人文・社会』75号、「日本近代美術史における台湾:
石川欽一郎と塩月桃甫」、『石川欽
一郎展:
静岡の美術5』が先駆的なもので、次いで立花義彰「石川欽一郎:
人と作品」『静岡県立美術館
紀要』7号、森美根子「「台湾」を愛した画家たち1〜24」、『A
SIAN
RE
POR
T
(アジア・レポート)』、
二〇〇〇年九月〜二〇〇五年三月。などがあげられる。
4、前掲「洋画の動乱―帝展改組と洋画壇、昭和一〇年 韓国・台湾・日本」展図録、三〇―三六頁。
5、陳進「悠閑静思―陳進仕女之美」展、国立歴史博物館、台北、二〇〇三年。
6、拙稿、「「芸術触媒」としての沖縄―描かれた沖縄と日本近代芸術の成立」、『帝京史学』第二〇号、八七―
一四五頁。
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図8 熊岡美彦自筆戯画
図9 パリの画室にて
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三、熊岡美彦の海外体験
そうした日本統治時代末期の台湾画壇の成熟期に訪れた有力な画家のなかに、特筆すべき人物がいる。官展の
中堅画家で次代を嘱望されるとともに、力強い作風とエネルギッシュな行動で、同世代で飛びぬけていた画家、
熊岡美彦である。
熊岡美彦は一八八九年(明治二十二年)三月九日、茨城県の石岡に生まれた。(図8、9)
地元の素封家で、製糸業で成功した家に育ち、教育を土浦中学まで受けたのち上京。一九〇七(明治四〇)年
に東京美術学校西洋画科予備科に入学する。同学科は一八九六(明治二九)年に創設され、同期生には首席で入
学した萬鉄五郎のほか、片多徳郎、北島浅一、御厨純一、栗原忠二、神津港人、佐藤哲三郎、斎藤素巌など多士
済々な人材を輩出した。熊岡美彦は彼らとともに十三人で、明治四〇年入学にちなみ、「四十年社」を一九二〇
(大正九)年を結成した。
熊岡美彦の世代を考えるうえで、その前年一九一九(大正八)年に結成された新光洋画会は重要である。東京
美術学校の世代の近い先輩後輩たちと作った会であったが、その会員は、安宅安五郎、大久保作次郎、奥瀬英三、
大野隆徳、金沢重治、小寺健吉、清水良雄、鈴木良治、高間惣七、田辺至、牧野虎雄、柚木久太、吉村芳松など
であり、戦前の官展の有力な中堅作家たちが顔を揃えている。彼らは、進歩的作風を求めながらも、一九一四
(大正三)年創設の二科会には参加しなかった東京美術学校系の新進画家たちばかりである。(註1)
この四十年社と新光洋画会に熊岡美彦の世代と仲間、そして人脈が端的に示されているといえるが、四十年社
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が同期生による同窓会的な横のつながりであったのに対し、新光洋画会は同じく世代は固まっているが、画壇の
立場をもはっきりと共有するものであった。これに、萬鉄五郎とヒュウザン会以来の朋友で、京都の浅井忠・鹿
子木孟郎門下で早く(一九〇六年)にパリに留学し、セザンヌやゴーギャンに感化されその日本への紹介者の一
人となった斎藤与里(一八八五―一九五九)、そして後のパリ留学時代の伊原宇三郎(一八九四―一九七六)な
どの人脈が加わり、その熊岡美彦の画壇的背景は完成したといえるであろう。(大久保作次郎とは、パリ留学も
重なっていた。)
熊岡美彦は現在、正当な歴史的評価を受けているとはいいがたく、忘れ去れた存在となりかけている。ただし、
それは一人熊岡美彦だけの現象ではなく、上記の彼の画壇的背景にある人脈のすべての評価が不十分であること
に気がつく。何故なのか。それを、熊岡美彦の三十三回忌にあたる一九七六年に、郷里茨城県立美術博物館で開
催された熊岡美彦回顧展図録で巻頭論文を執筆した美術史家・中村伝三郎は次のように鋭く指摘している。
「戦中から終戦にかけてこの時代に物故した著名な美術家は、かなりの数に上っているが、敗戦直後の社会的
混乱のままに、生存中は画壇的に相当高い評価を得ていたにも拘らず、戦後再評価の機会に恵まれることもな
く放置のままになっている作家が意外に多いのである。加えて、戦後における再評価は、例外もあるがどちら
かというと戦前からの官展系作家に対しては冷淡で敬遠気味なのである。権威主義を笠に着ていたという漠然
とした先入観が反動的に手伝だっているのでもあろう。却って戦後は、まず何等かのドラマチックな要素をそ
なえた作家たち、いうならば、在野系を主とした異色・異端の系列に照明を当てがちとなってきた。従ってこ
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の分野の調査研究に従事している者にとっても、おおむね大正・昭和前期に活躍した、殊に官展系の諸作家に
対する再評価は、まだ今後の研究課題といってよいであろう。その意味では、戦前の帝展の寵児と謳われた熊
岡美彦の場合は、最も恰好な典型例となるわけである。」(註2)
つまり、熊岡美彦の存在を見直すと、そのような評価の偏重が浮かび上がってくる。その典型を熊岡美彦に見
ることができるのである。
熊岡美彦の同期生、すなわち四十年社の仲間のなかでも、もっとも早く画壇に頭角を現したのは片多徳郎(一
八八九―一九三四)であった。在学中の一九〇九(明治四二)年に文展に入選し、翌年には文展で褒状を得、一
九一七(大正六)年、一九一八(大正七)年文展で連続して特選を得ている。片多徳郎は良きライバルであった
かもしれない。同い年生まれで、同期入学。片多徳郎はすでに、郷里大分で絵画を学び、小学校の図画教師を勤
めていた。そして、官展である文展・帝展のなかで着実に地歩を重ねていく片多徳郎を追いかけるようにして行
ったのが熊岡美彦であった。しかし、この片多徳郎でさえ、今日正当な評価を受けているとはいいがたい。彼は
晩年、健康を害し、自殺している。画壇再編のさなか一九三五(昭和一〇)年のことである。
熊岡美彦の画歴を追って行こう。能書家で知られた父源蔵、母ツ祢の次男であった熊岡美彦は、地元の石岡第
一尋常小学校在学中に地元の南画家鬼沢小蘭に学ぶ。県立土浦中学を経て東京美術学校に入学し、黒田清輝、和
田英作に学んだ。在学最終年の一九一三年、第二回光風会展に《花》他を出品し今村奨励賞を受賞。卒業後、同
年の第七回文展に《花屋の店にて》で初入選する。第一回二科展は翌年であるが、この文展に反旗を翻した前衛
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団体の創設時には、熊岡美彦はまだ二五歳で、文展にみごと入選したばかりであり、文展への不満は高まってい
なかった。むしろ、今までの画歴をこれから生かすために文展で地歩を固める状況にあったといえる。東京美術
学校の同期、先輩もほとんどがそうであり、こうして二科展は在野性と非東京美術学校系を強めるばかりになっ
たといえる。
一九一九(大正八)年、第三回帝展の《朝鮮服を着たる女》、一九二一(大正一〇)年、第三回帝展の《抱か
れたる子供》でそれぞれ特選となった。片多徳郎から三年遅れであるが、ほとんどそれに続く出世であった。こ
の遅れは、一九一六(大正五)年の文展に出品した《裸体》が警視庁の干渉により《三味線を持てる女》と差し
替えられ、問答のあげく特別室を設け《裸体》を展示することになった裸体画問題が影響しているに違いない。
熊岡美彦は一九二一年、光風会会員となるが、こうして画家としての地歩を築くとともに、硬骨漢としての片鱗
も見せることになった。
一九二四年斉藤与里らと槐樹社を結成し、一九二五年、第六回帝展に《緑衣》を出品し帝国美術院賞を受ける。
この賞は最高の名誉であり、画壇での地位が磐石になったことを示す。帝国美術院賞の受賞者は一流の画家ばか
りで、他の近い年の受賞者に青山熊治、田辺至、前田寛治、中村研一などがいる。そして帝展の審査委員にも推
薦された。熊岡美彦が実に渡欧を実行に移すのは、官展を代表する画家となったこの一九二六年のことであった。
熊岡美彦はすでに三七歳になっており、成熟した画家として欧州に赴いたのである。「私の今回の欧州旅行は、
全く田舎武士の武者修業の如きものであつた。私は総ての既成知識を忘れて今生まれたまんまの純真な気持ちで
欧州の地を踏みたいと願った」と気搆えを語るのも無理はない。(註3)
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同窓生のうち北島浅一は一九一九年に渡仏。一九一二年、東京美術学校卒業と同時にイギリスに渡り、ロイ
ヤル・アカデミー会員となった栗原忠二が日本に帰国したのが、熊岡美彦が初めてヨーロッパに向かうこの一九
二六年であった。同窓生はすでに留学をとっくに終え、海外での地位を築いて帰国したものもいたのである。し
かし同窓生のうちにはいっぽうで、萬鉄五郎を始め、日本国内にとどまって、独自の画境に達しているものも多
かった。出世頭の片多得郎もそうである。熊岡美彦の海外体験は、彼らの海外体験とはまったく違わざるを得な
い事情が見える。
熊岡美彦は、海外経験がすべてではないとの確信をもっていた。留学ではなく、すでに大家であった彼には、
三年に及ぶ滞在も旅行、「武者修行」でしかなかった。彼はパリを中心としながら、フランス・スペイン・イタ
リア・ドイツ・オランダ・ベルギー・イギリスを巡り、主要美術館や展覧会を見て回る。特定の画家に師事はせ
ずサロンにも出品しない。もっぱら、多くの絵を模写した。そうした模写でマネやルノワールの影響を指摘でき
る。(図10〜16)
パリ留学時代に熊岡美彦が世話し、交友があった鈴木良三の回想によれば、「マネーのオランピアなども本も
のそっくりに出来て、観光客を驚かせたものであった。」(註4)
という。その生活は恵まれていて、パリの住まい
は「平屋建の奇麗な住居で、家具調度もそろっているし、アトリエもついているようだった。小太りの小柄な家
政婦がいて料理もうまいし、沢山の絵のモデルになっていた。われわれの生活とは雲泥の違いで、その勉強ぶり
にも圧倒されたものだ。」と述懐する。
さらに「大阪のある実業家が熊岡氏を評して、実業家になれば大したものだったろうといっていたそうだが、
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巴里に於ける生活も堂々たるものであった。冬になると一家を挙げて南仏カーニュに一軒の別荘を借りきり、昼
間は写生、夜は謡曲、食べものも日本から送られて来る餅や醤油、味噌、日本酒などわれわれをびっくりさせる
ものばかりだった。」と驚きを隠さない。
苦学してパリに留学するものという通念があった時代、こうした豊かな生活は羨望や反発も生む可能性もあっ
たが、そうした生活スタイル、豪快な生き方は、帰国後すぐに実現される熊岡絵画道場と日本の画壇での活躍を
すでに予見させている。パリで熊岡美彦は十二分に思い通りの制作と生活に没頭した。そこで確信を得た自らの
生き方を、帰国後の日本で直ちに実現していったと考えることができる。
当時、「巴里には薩摩次郎八と福島繁太郎の二人の大金持ちがいて、前者は日本人会館を造り、社交界に花を
咲かせるプレーボーイ、後者は、ルオーや、ルッソーやドランなどの作品を盛んに集めていた。前者には藤田嗣
治や柳亮がつき、後者には熊岡、松尾邦之助といったように、自然と二派が出来」あがり、金銭や人間関係をめ
ぐって紛争が絶えなかった。(註5)
熊岡美彦は福島繁太郎側にたって、特に痛烈な藤田嗣治批判で論陣を張った。
「有名である事が人間の勝利であるならば簡単至極なものである。…(中略)…藤田氏の半生は正に此有名病
の中毒である感がする。」「斯程迄暗愚の道へ没落させた責任は、氏自身の有名病中毒によるとは云へ、一面に
は氏の取まきとも称すべき心なき移民画家の巧言令色が、大いにあづかつて力がある。藤田氏を座長とする此
一団こそ、実に巴里における我々日本人の屈辱的存在なのだ。一度巴里を訪問する人は必ず此等同胞のあさま
しき存在に義憤を感ずるであろう。」(註6)
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海外体験で熊岡美彦はいっそう自信を深めた。帰国後ただちに、分厚い一九三〇(昭和五)年三月『熊岡美彦
滞欧作集』を出版。六月には日本橋・三越で滞欧作展を開き、七十八点を展示し日本に凱旋。帝展には一五〇
号の《裸女》の大作を発表。それは欧州での模写研究の集大成であった。一九三一年には熊岡洋画研究所(後の
熊岡絵画道場)を設立し、森田茂や岩下三四、二重作龍夫、正田二郎ら多くの画家を輩出し、そのカリスマ性か
ら「熊岡天皇」とも言われることもあった。(図23〜25)一九三二年には槐樹社が分裂し、斎藤与里らと東光会
を設立、マネ風の静物を出品しているが(図17)、同時に『美術新論』に「革命の画家エドアール・マネー」を
三十二回にわたって連載している。その技巧の根源にマネがあったことは間違いない。
一九三一年、槐樹社解散、熊岡洋画研究所開設し、一九三二年、槐樹社の仲間と東光会を創立した(図18〜22)。
その教え子の回想によれば、
「先生は矢張り郷土特有の気風を愛し、殊に水戸古来の気質を好み、長男爽一君を質実剛健の水戸高等学校に
入学させた程です。西欧から帰朝してから我が国古代の仏像や中国北魏の石仏などを集め、殊に天平飛天や竜
門石窟の巨大な仏頭を愛蔵して東洋の古典に傾倒していた。不空羂索観音、竹林裸婦の大作を発表したのもそ
の頃で、住宅や庭造りにも先生の東洋的趣向が現われました。道場の名も多分に先生の東洋精神から出たもの
と思われるのです。
道場の指導は毎週水、土曜日の二回、先生の多忙な制作中も欠かさず熱心に廻り、先生が教室に来る時は重い
体重の足音が遠くから響いて、道場生は皆緊張して待ったものだ。先生の指導は言葉で教えるよりも寧ろバー
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ミリオンの筆をとって急所を鋭く突く教え方でした。習作勉強の時はパレットナイフで描く僥倖を誡め、道場
生は奮起したり、落胆したり、一喜一憂した思い出は身に沁みて懐かしい。昭和15年の紀元2600年記念の
頃には道場生も在籍800人に達する程でした。帝展、文展への入選者は年毎に増し、遠く名声を聞いて中
国・朝鮮・台湾等からの留学生も相当多かった。又地方の人の為にも道場で夏冬期の講習会を開いて広く美術
の普及に尽くしたので、先生の指導を受けた者は数限りない位です。そう云う指導の時は常に斎藤与里先生が
一緒でした。二人の指導の按配も剛軟誠に妙を得て、生徒には楽しい雰囲気でした。東光会の統率に於ても全
く欠けることの出来ぬ友情の結合でした。」(註7)
こうして、熊岡美彦はヨーロッパから帰国後、一派を構え、自らの確信する道を進んだ。熊岡美彦にとって、
最初の海外体験である欧州旅行は、きたるべき「日本主義」の準備を入念に備えるための仕上げの期間であった
といえる。その海外体験は、精神においても、画業においても、誰に媚びるのでも、影響を受けるのでもない、
まったく独立した画家を誕生させたのである。そうしたときに、登場したのが台湾の存在であったといえよう。
註1、田辺至(一八八六―一九六八)は、二科会の創設には最初関わりがあったが、藤島武二の行動などに準じ
出品せず、すぐに会を退いた。田辺至は東京美術学校の助手を務め、反官展の立場を鮮明にした二科会と
は一線を画さずをえなかった。新光洋画会が結成された年には美術学校の助教授に就任、一九二二年には
官費でパリに留学した。熊岡美彦の二年後輩に当たる。
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2、中村伝三郎「“熊岡美彦”その回顧展の意義」『熊岡美彦回顧展図録』、茨城県立美術博物館、一九七六年
五月。
3、熊岡美彦『熊岡美彦滞欧画集附紀行及雑感』、美術新論社、一九三三年三月、自序。
4、鈴木良三「フランス時代の熊岡氏」、『熊岡美彦回顧展図録』、茨城県立美術博物館、一九七六年五月。
5、柳亮「巴里日本美術協会紛争の責任者として大森啓助君への公開状」、『美術』一九三三年一一月、一一二
―一一四頁。参照。
6、熊岡美彦、前掲書、一〇一―二頁。
7、熊岡正夫「道場の思い出」、前掲『熊岡美彦回顧展図録』。
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図10マネの模写をする熊岡美彦
図11《裸体》1928年
図12ルノワールの模写をする熊岡美彦
図13《海浜の女》1929年
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図14《裸女》1929年
図15《クラマール風景》1929年
図16《バイカル湖畔》1929年
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図17《静物》1933年第1回東光会展
図18東光会主催大阪洋画講習会記念撮影 1933年
図20 『道場』第1号表紙 図19 熊岡絵画道場広告(『第7回東光展図録』)
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図21 発刊の辞(『道場』第1号)
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図22 熊岡絵画道場校章
図25正田二郎《風景》(仮題)
図24 二重作龍夫 《裸婦》(仮題) 図23 岩下三四 《裸婦》(仮題)
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四、熊岡美彦の台湾作品
さて、最後に熊岡美彦の作品について論じてみたい。
《台南の農家》(油彩・カンヴァス)裏に「台南の農家 一九三七年二月 熊岡美彦画」とありその上部にNo.
1009と書かれている。(図27、28)
なぜ、熊岡美彦は一九三七年二月に台湾を訪れたのだろうか。回顧展の年譜には「1月4日〜2月19日 台湾
に写生旅行に出かける。」とある。(註1)
この間の台湾訪問はまったく知られていなかったのではない。だが、な
ぜ台湾行きの理由は今まで論じられたことがなかった。それについて興味深い文献がある。
「東光會を臺灣へ持つて行く話は可成進んで居たので、其の爲大阪の方も手違ひになつた位だつたか、何とな
く氣が進まないので、遂に中止した。若しやる事になつて居たら丁度開會日あたりが地震と一緒になつたかも
知れなかつた。地震を合図に開會するなどは、絵の展覧会としてはハデ過ぎる。
先達熊岡君が來て、『どうも蟲が知らせた様だつた」
と云つていたが、或はさうだつたかも知れない。した見ると熊岡君の體内には、地震博士以上の智能を持つた
蟲が居る訳になるので、其の蟲だけでも熊岡君の存在は大したものだと云ふ事が出来る。」(岩佐新「偏輯室」
『美術』)(註2)
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図29 《法華禪寺》
図28 《台南の農家》画面裏書付け
図26 《王望湖を望む》図27 《台南の農家》のサイン
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つまり、地震にため台湾行きをしばらく見合わせていた熊岡美彦がその一年半後の一九三七年に台湾を訪れた
ことになるが、その背景には東光会の台湾での活動があったといえる。私は熊岡美彦、東光会と台湾との繋がり
については、同会の会員であった画家、長進との関係があるのではないかと推察している。(図32)
さらに、実は本論の第一章で取り上げた、津田巌の《台湾風景》(油彩・カンヴァス)(カラー図版Ⅱ)との
関連も考えられる。前述したように、津田巌は一九三四年から三六年まで旺玄社展に出品したが、旺玄社は熊岡
美彦も会員であった槐樹社から派生した美術団体である。それは、熊岡美彦が台湾を訪れた一九三七年の直前で
あり、旧槐樹社の人脈のなかに台湾との結びつきがあることを思わせる。
また、立石鉄臣との交友も考えられる。立石鉄臣は国画会の会員であったが、東光会系列の雑誌であった『美
術』の一九三五年八月号に、「台湾来遊心得帖」と題した文章を寄せ、画家の台湾訪問への便宜を図っているか
らである。(註3)
ちょうど、そのころ熊岡美彦義彦の台湾訪問計画と東光会の台湾展の模索が始まったと考えられ
る。しかし、それは前述のように地震と相前後して未然に終わった。
この台湾滞在で知られる他の作品に法華禪寺(図29)がある。この作品について、熊岡美彦はこのように述べ
ている。
「法華禪寺
熊岡美彦
臺灣旅行中臺南の御寺の外門を描いたものです、五十號ですが現場で畫架をすゑ約一週間で仕上げたゞけで一
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筆も補筆する事なく全くの寫生畫です。
此種の古建築は年と共に癈滅に期する恐れがあるので愛惜の情去りがたく一點の壁の汚れにも樂しみながら筆
をはこびました。
一、九三七年二月作」
(『美術』第12巻第4号)(註4)
《台南の農家》はまったく同じときのものであったのである。さらに『道場』第一号に掲載されたスケッチ
《王望湖を望む》(図26)には、「2、20、正午」と年記があるが、これも同年の二月二〇日のことと推察さ
れるので、熊岡美彦の同時期の行動がこれらの作品によって理解できる。
しかし、ここで不思議に思われるのは、回顧展の年譜には台湾に差写生旅行に行ったのは「1月4日〜2月19
日」とあることである。このスケッチが描れたのが、二月二〇日であるとすれば、それは台湾から帰った翌日で
ある。日本で正月を向かえたあとに台湾に向かい、台湾で旧正月を過ごしたあとに帰国したのであろう。そして
台湾では、その後しばらく滞在していた。台湾を離れるのは二〇日の翌日以降と考えられる。ただし、東光会展
が四月に控えていたから、その準備もあり、二月末か三月初めには東京に戻らなければならなかったに違いない。
熊岡美彦は、東京に帰ってすぐ、台湾での制作を整理し、東光展の展示に加えた。《法華禪寺》を始め、この
台湾での制作では大きな作品は見当たらず、比較的小品のスケッチ風のものが多い。しかし、それらには「一點
の壁の汚れにも樂しみながら筆をはこびました。」と画家自身が語るように、熊岡美彦が十分に力を込め、手ご
たえを感じた自信作ばかりであった。《台南の農家》もその一点であった。「樂しみながら筆をはこ」んだとい
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う趣きは、その画面にスピード感と勢いのある大きく溌剌なタッチによって感じ取ることができる。(図30、31)
画家は、台湾の風土と、自らの感覚と筆の感触を楽しんでいた。そのなかから、彼の新しい作風の展開も生まれ
た。三月五日から二十一日まで開催された第五回東光展に出品された作品は、《開元禅寺(台南)》、《草上裸
婦》、《農家冬日(台南)》、《早春湖畔(赤城)》、《集まるジャンク(安平)》、《梅香首学の庭(台南孔
子廟)》、《緑陰静閑(法華寺)》、《法華禅寺(台南)》、《梅咲く孔子廟(台南)》の九点であるが、この
うち七点は作品名から推して台湾での制作と考えられる。このうち《農家冬日(台南)》は、《台南の農家》と
画題が類似しており、同一作品の可能性があるかもしれない。
台南での取材が多いのは、立石鉄臣の次の薦めによるものかもしれない。立石鉄臣は、「台湾に来遊する画人
多くなりつゝある時、こゝに来遊心得帖を綴り、以て其の便に資せんとす」とし、神戸から船便に乗り日本から
台湾に来た時は、まず基隆から台北に入り、そこを「足場として四方へ旅行する」ことを薦める、そして、良い
写生地は南部にあるという。
「写生地は南部にを可とす。真の熱帯色は北部にては充分ならず。台南・高雄等最も可ならんか。廃港安平は
台南のはづれにて面白き建築物あり。
高雄港は地勢の変化、色彩の美麗、狂喜すべきものあり。但し重要港なれば、その筋の掣肘ありて自由に彩管
を振るはれざる不便あることを知り置かれたし。生蕃も南部を可とす。種族に依りて衣装等も異なり色々なり。
屏東の奥のサンテイモン蕃社は画家の良く行く所として知られる。身に寸鉄も帯びずとも恐れる必要はなし。
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図31《台南の農家》部分
図32長進《支那服の女》1937年第5回東光会展
図30《台南の農家》部分
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南部は冬季好天気続き写生時季として最も良し。北部はその頃雨多し。北部にても淡水は好写生地なり。」(註5)
その懇切で魅力的な筆致は、フランスの伝統の残るブルターニュ地方にゴーギャンや画家たちを誘致したポ
ン・タヴェン村が作成した案内書のようである。(註6)
台湾に冬季(一月〜二月)訪れたこと。台南を主に描いたこと。安平も訪れていること。台北では湖沼を描い
たこと。そして色彩美を追求していること。熊岡美彦が台湾でとった行動はすべて、立石鉄臣が薦めていること
ばかりである。
いずれにせよ、熊岡美彦にとって、一九三七年、年初の台湾取材旅行は充実したものとなり、その東光展、制
作発表の中心をなし、その後の制作の方向を決定づけるものであった。翌一九三八年、南支従軍の願いを海軍省
に提出した熊岡美彦は、一九三九年一月より半年にも及び従軍画家として中国に渡り、数多くの作品(図36など)
を制作するが、実はそれは台湾での制作とテーマの発展の延長線上にあったと位置づけられる。一九四四年一〇
月一日、脳溢血での療養中、東京淀橋区戸塚町の自宅で急性喘息のため五十五歳で亡くなった熊岡美彦の早すぎ
る死によって潰えてしまったが、熊岡美彦の台湾での制作は、日本洋画にとって、新たな可能性をもっていた。
これらの作品は、熊岡美彦が欧州留学で自問自答し、帰国後日本の洋画壇で活発に論議された日本独自の洋画
の一つの様式であり、「日本主義」の表れと考えられる。
そうした流れは盟友であった斎藤与里や、在野の画家たちの作品を連動して生み出したといえるであろう。
(図33〜36)
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熊岡美彦の台湾テーマは、日本の洋画の傾向の一つである、フォーヴィスムからエコール・ド・パリに展開し
た1920年代のパリ画壇の受容とその日本的発展が到達した一つの到達点であったといえよう。画面には非常
に勢いのあるタッチが見られる。(図30、31)
そして、戦後の台湾における洋画の展開の特徴の一つも、たとえば張炳南のように、日本洋画と方向をともに
しているように思える。それは、台湾の作家たちが受容するか、反発するかはさまざまであったにせよ、確立し
始めた台湾画壇において、日本の洋画家が頻繁に訪れ、自身の最新の作風に取り入れていった1930年代の台
湾テーマの高まりを受け継ぐものでもあった。その中心に熊岡美彦とその仲間たちがあった。そして、その頭領
たる熊岡美彦の骨太で明るい作風に合致した理想像こそ台湾での制作であったといえる。
熊岡美彦は台湾に「夢」と「憧憬」をもち、それがその周辺の画家たちに伝播されたことは間違いない。そし
て、日本統治時代の最後に急逝した熊岡美彦にとっては、台湾テーマとそこで見出された洋画の可能性こそ、最
先端の「夢」と「憧憬」であり、それが熊岡美彦にとっての「日本主義」のヒントとなった。同様な影響を受け
た同時代の数多くの日本の洋画家のなかで特筆すべきは、熊岡美彦はその盛り上がりの最中に歿したため、台湾
は「夢」と「憧憬」のままに残されていることである。
註1、前掲『熊岡美彦回顧展図録』。
2、岩佐新「偏輯室」、『美術』第一〇巻七号、一九三五年七月、一〇六頁。岩佐新は『美術』(『美術新論』改
題)の編集を熊岡美彦より受け継いだ。
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図33斎藤与里《台湾の娘達》1939年第7回東光会展
図36 熊岡美彦《南京鷄鳴寺》1939年第7回東光会展
図35 野口弥太郎《台湾の少女》1937年
図34 斎藤与里《支那服の少女》1940年 第8回東光会展
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3、立石鉄臣、「台湾来遊心得帖」『美術』第一〇巻八号。一九三五年八月、五四―五五頁。
4、熊岡美彦「図版解説」、『美術』第十二巻第四号、一九三七年四月。
5、立石鉄臣、同、五四頁。
6、十九世紀末二〇世紀初頭、ポン・タヴェンに多くの海外からの画家たちが、その風雅な景勝や民族衣装を
身に着けた女性たちを描くために逗留した。ゴーギャンはこの地で新しい作風を始め、多くの追随者が生
まれ、今日二〇世紀の前衛芸術を先駆した彼らはポン・タヴェン派と称される。
なお、熊岡美彦の重要文献としては、前述したものの他に以下の二つを挙げておきたい。『熊岡美彦遺作
展目録』、大洗東光台、茨城県立美術館、一九五四年一〇月、「藝文風土記 剛毅一徹の洋画家 熊岡美彦
と石岡市」、『常陽藝文』九八号、一九九一年七月、一―一〇頁。
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