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アンドロポフ書記長÷1983年、クレムリンで。 (提供/AP・AFLO) 用’ 菊的押詰 、㍉磨上 46 【グラフ1】原油価格の変動(1975-2017年) [WTI,US$/b ※1975-79年はArabian-Light] 出典:iMF,iFS. 120 100 80 60 40 20 0 1975年1980年1985年1990年1995年2000年2005年2010年 2017年 週刊金曜日 2017.11.24(1162号) 1986年 ソ連崩壊を早め ユーリー・アンドロポフ 1967年以来のアンドロポ フ(1914〜鎚)KGB長官 は、政治局の一員として、同組 織の影響力を大幅に拡張した。 国防相のウスチノフ元帥も74年 以来「集団指導制」の参加者だ った。 ブレジネフは病気で、00年コ スイキン、82年スースロフ、82 年ブレジネフの死後に書記長と なったのがイデオロギーに忠実 で禁欲的な知識人の共産主義者 アンドロポフである。々フレジネ フ派〝トップはこの時期までに ひどく腐敗していた。党と国家 の機構内の腐敗との対決を政策 の基本においたアンドロポフの 人気は高かったが、腎疾患を患 う彼は84年2月に亡くなった。 後任コンスタンチン・チェルネ ンコ (1911〜85)も病気が ちで僅か1年しか政権に在任し なかった。党と国家のエリート はより若い政治局員のなかから 指導者を選ぶことを最優先し、 ミハイル・ゴルバチョフ(19 31〜)を新書記長に選んだ。 ミハイル・ゴルバチョフ ゴルバチョフの下で「ペレス トロイカ=立て直し」や「グラス ノスチ=情報公開」の概念が 治の語彙に仲間入りしたが、新 指導者の経済政策はブレジネフ 時代に決めた路線に支配された ままだった。70年代以降続く石 油と天然ガスの輸出からの超過 収入を、世界経済における恒久 要素と見なしていた。原子力発 電の開発強化も経済繁栄の保証 と認識していた。かくてソ連で は石油・ガスの掘削と輸出を増 やす長期計画と、原子力発電施 設および都市部の暖房用原発施 設を建設する長期計画が実施さ れていた。新世紀の初めには原 発が全電力の5〜6割を、石油 と天然ガスの輸出が国庫収入の 5割を占めるものと期待された。 86年4月のチェルノブイリ事 故は右の長期計画とわが国経済 に甚大な被害をもたらした。ほ ほ00基の原発施設が建設中止と なり、数十万人の有能な人材が 仕事を失った。放射能に汚染さ れた地域に住む住民約100万 が移住を強いられた。主に軍人 たちの「除染作業員」数十万人 が放射線に苦しめられた。 86年には過剰生産から原油価 格が3分のl暴落し(グラフl 参照)、ソ連の輸出利益の大半 を奪い、輸入の支払い外資から の借款と金準備の取崩しを逆ら れた。88年のアルメニア大地震 は死傷者数万人と00%の家屋倒 壊、原発2基の停止など、人道 上および経済上の問題を引き起 こした。ゴルバチョフは個人と して、彼が85年に始めた反アル コールキャンペーンの失政を答 められても致し方ない。 危機的状況に直面したゴルバ チョフは88年、1917年2月 革命以来の最も急進的な政治改 革を実施し、わが国を民主化し た。88年までソ連には法を制定 するための信頼に足る仕粗みが なかった。法の制定に効力を有 していたのは党中央委員会とソ 連閣僚会議の共同決定である。 最高会議はただの装飾にすぎ ず、情況次第でどうにでも変わ る予算を承認するのに1年間で たった数日間だけしか招集され なかった。 77年憲法(ブレジネフ憲法) を改定し、選択制原理の小選挙 区で選ばれる最高議会(ソヴィ ブレジネフ派の ・老齢化、縁故主義 り、身内の醜聞も絶え 命中、腐敗を握り潰したが となり庇い切れなかった。こ 短命化、犯罪や交通事故の増大が ブレジネフ期に決めた路線◆ソ連は高 を、西側外貨の獲得手段とする一方、東欧 な「友好価格」で束ねるため、その国内「浪 まなかった。浪費抑制の鍵が以下の原発の価値 る。①化石燃料は西シベリア産。輸送費からも欧州部 では都市近接の原発建設が格安。②チェルノブイリ型 RBMK原子炉は兵器級に転用可能なプルトニウム を生成でき、核開発の対米巻き返しに有利。③将来 の資源枯渇に対処可能。④化石燃料以外でも、ソ連 製原発とウラン燃料の提供を通じ、資源の乏しい東 欧衛星諸国を結束させる武器となる。 原油価格の暴落◆【グラフ1】の原油価格WTI推移 を参照。ブレジネフ期の対米軍拡競争も産油国=ソ 連が油価高騰の恒久化を織り込んだ結果である。

Transcript of A Í ð Ì µ ½ B ~ n C E S o ` t w ± Ò ð I Ô ± Æ ð Å D æ µ A...

アンドロポフ書記長÷1983年、クレムリンで。

(提供/AP・AFLO)

用’

菊的押詰

、㍉磨上

46

【グラフ1】原油価格の変動(1975-2017年)

[WTI,US$/b ※1975-79年はArabian-Light] 出典:iMF,iFS.

120

100

80

60

40

20

0

1975年1980年1985年1990年1995年2000年2005年2010年  2017年

週刊金曜日 2017.11.24(1162号)

1986年に起きたチェルノブイリ原発の大事故は、

ソ連崩壊を早めた。釧年12月、遂にソ連は解体した。

ユーリー・アンドロポフ

1967年以来のアンドロポ

フ(1914~鎚)KGB長官

は、政治局の一員として、同組

織の影響力を大幅に拡張した。

国防相のウスチノフ元帥も74年

以来「集団指導制」の参加者だ

った。ブレジネフは病気で、00年コ

スイキン、82年スースロフ、82

年ブレジネフの死後に書記長と

なったのがイデオロギーに忠実

で禁欲的な知識人の共産主義者

アンドロポフである。々フレジネ

フ派〝トップはこの時期までに

ひどく腐敗していた。党と国家

の機構内の腐敗との対決を政策

の基本においたアンドロポフの

人気は高かったが、腎疾患を患

う彼は84年2月に亡くなった。

後任コンスタンチン・チェルネ

ンコ (1911~85)も病気が

ちで僅か1年しか政権に在任し

なかった。党と国家のエリート

はより若い政治局員のなかから

指導者を選ぶことを最優先し、

ミハイル・ゴルバチョフ(19

31~)を新書記長に選んだ。

ミハイル・ゴルバチョフ

ゴルバチョフの下で「ペレス

トロイカ=立て直し」や「グラス

ノスチ=情報公開」の概念が政

治の語彙に仲間入りしたが、新

指導者の経済政策はブレジネフ

時代に決めた路線に支配された

ままだった。70年代以降続く石

油と天然ガスの輸出からの超過

収入を、世界経済における恒久

要素と見なしていた。原子力発

電の開発強化も経済繁栄の保証

と認識していた。かくてソ連で

は石油・ガスの掘削と輸出を増

やす長期計画と、原子力発電施

設および都市部の暖房用原発施

設を建設する長期計画が実施さ

れていた。新世紀の初めには原

発が全電力の5~6割を、石油

と天然ガスの輸出が国庫収入の

5割を占めるものと期待された。

86年4月のチェルノブイリ事

故は右の長期計画とわが国経済

に甚大な被害をもたらした。ほ

ほ00基の原発施設が建設中止と

なり、数十万人の有能な人材が

仕事を失った。放射能に汚染さ

れた地域に住む住民約100万

が移住を強いられた。主に軍人

たちの「除染作業員」数十万人

が放射線に苦しめられた。

86年には過剰生産から原油価

格が3分のl暴落し(グラフl

参照)、ソ連の輸出利益の大半

を奪い、輸入の支払い外資から

の借款と金準備の取崩しを逆ら

れた。88年のアルメニア大地震

は死傷者数万人と00%の家屋倒

壊、原発2基の停止など、人道

上および経済上の問題を引き起

こした。ゴルバチョフは個人と

して、彼が85年に始めた反アル

コールキャンペーンの失政を答

められても致し方ない。

危機的状況に直面したゴルバ

チョフは88年、1917年2月

革命以来の最も急進的な政治改

革を実施し、わが国を民主化し

た。88年までソ連には法を制定

するための信頼に足る仕粗みが

なかった。法の制定に効力を有

していたのは党中央委員会とソ

連閣僚会議の共同決定である。

最高会議はただの装飾にすぎ

ず、情況次第でどうにでも変わ

る予算を承認するのに1年間で

たった数日間だけしか招集され

なかった。

77年憲法(ブレジネフ憲法)

を改定し、選択制原理の小選挙

区で選ばれる最高議会(ソヴィ

ブレジネフ派の腐敗◆政権長期化で指導層が固定化

・老齢化、縁故主義も蔓延。本人の趣味が豪書きわま

り、身内の醜聞も絶えなかった。側近スースロフが存

命中、腐敗を握り潰したが、後継書記がアンドロポフ

となり庇い切れなかった。この間、家庭崩壊、寿命の

短命化、犯罪や交通事故の増大が進行した。

ブレジネフ期に決めた路線◆ソ連は高価な化石燃料

を、西側外貨の獲得手段とする一方、東欧諸国を割安

な「友好価格」で束ねるため、その国内「浪費」を望

まなかった。浪費抑制の鍵が以下の原発の価値であ

る。①化石燃料は西シベリア産。輸送費からも欧州部

では都市近接の原発建設が格安。②チェルノブイリ型

RBMK原子炉は兵器級に転用可能なプルトニウム

を生成でき、核開発の対米巻き返しに有利。③将来

の資源枯渇に対処可能。④化石燃料以外でも、ソ連

製原発とウラン燃料の提供を通じ、資源の乏しい東

欧衛星諸国を結束させる武器となる。

原油価格の暴落◆【グラフ1】の原油価格WTI推移

を参照。ブレジネフ期の対米軍拡競争も産油国=ソ

連が油価高騰の恒久化を織り込んだ結果である。

署 翻醍謙一、

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畢 ○○

週刊金曜日 2017.11.24(1162号)

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エト連邦の国権の最高機関とし

ての議会)である「人民代議員

大会」を創設した。人民代議員

たちの互選により組織される常

設議会としての「ソ連最高会議」

が、立法上の全権を獲得し、政

府の構成員を承認することにな

った。人民代議員の選挙は19

89年春に2回にわたり行なわ

れた。ロイ・メドヴュージェフ

は、人民代議員大会とソ連最高

会議の議員のひとりとして選出

された。

ソ連はエチオピアやアンゴ

ラ、ベトナム、キューバ、そし

て東欧諸国の社会主義・共産主

義体制への補助金支出を止め

た。これが冷戦を終わらせた。

ソ連軍がアフガンから撤退した。

東欧のビロード革命が、コメコ

ン (ソ連・東欧圏等の経済相互

援助会議CMEA)廃止および

東西両独の統一につながった。

00年に「ソ連大統領」職が創

設され、その地位に人民代議員

大会がゴルバチョフを選出した。

新しい改革は、広範な国民大

衆の政治活動を刺激した。ソ連

共産党は権力の独占を失った。

ソ連の市民権が、以前、わが国

から追放された「反体制派」に遭

遇された。ジョレス・メドヴュ

ージェフもそのひとりである。

新しい法律が制定され、個人

企業の活動、生産やサービスや

貿易の協同組合(コーベラティ

ヴ) の創設を可能にした。

国の統治の分権化と、鮒年に

連邦共和国と自治共和国のすべ

てが民主的方法により常設の最

高会議を創建したことが、幾つ

もの共和国において分離主義的

大事故を起こしたチェルノブイリ原発。

1986年4月。下はソビエトの最後の

最高指導者、ゴルバチョフ大統領。

(提供/AP・AFLO)

な傾向を出現させた。ロシア共

和国の人民代議員大会議長に選

ばれたボリス・エリツィン (1

931~2007)が、00年6

月12日に「ロシア共和国の主権

国家宣一卓が採択される引き金

を引いた。この「宣言」が、ソ

連邦崩壊に向けたプロセスの合

図となった。

飢年7月エリツィンはロシア

共和国大統領に選ばれた。同年

12月、エリツィンはソ連を解体

し、「独立国家共同体」(CIS)

を創設する密約の首唱者となっ

た。CISは旧連邦15共和国の

うち12カ国を含んでいた。リト

アニア、ラトビア、エストニア

3回は完全独立を選んだ。ソ連

分解後、約2500万人のロシ

ア人が歴史的故国の外部に取り

残された。

ボリス・エリツィン

ソ連崩壊後のロシア連邦とそ

の他のCIS諸国で92年早々、

中心問題になったのか財政金融

問題だった。レーニンの肖像入

りの「ソヴィエト」ルーブルの

廃止と新しい銀行券の導入は、

新生「ロシア」におけるインフ

レ進行が極端だったため、ロシ

追放されたソ連市民の市民権回復◆国外追放された

ジョレスやソルジェニーツィンが対象(国家機密の流

出を恐れ、国内流刑とした「水爆の父」=サハロフが

モスクワ帰還を許された)。ジョレスは00年にソ連市

民権を回復。滞在先の英国はジョレスに国立医学研

究所の研究職を提供したうえ、同国市民権も与えて

いた。協同組合◆88年新法により組合が増加。改革派は民

需やサービスの選択の余地拡大を評価したが、多くが

国営企業の基幹労働者の副業にすぎず、資材調達や財

務に犯罪要素が絡んでいるとの批判もあった。

歴史的故国◆ソ連解体で、居住地域が「外国」となった

人びとが、自らの父祖の国と考えるロシア連邦のこと。

調月政変◆大統領は9月超法規的に憲法を停止、人

民代議員大会と最高会議解散の大統領令発布、10月

4日に議会派が立てこもる最高会議ビル占拠を命

じ、代議員たちを拘束。政府推計で死者187人負

傷者431人。

バウチャー(様式引換券)=民営化小切手◆企業民営

化の第一段階。バウチャーとは民営化を予定する全

国営企業の帳簿評価額の3分のlに当たるl・5兆ル

ーブルを総人口1人当たり1万ルーブルと算定、この

額の株式引換券を無償で

国民に配布するもの。使途

は、民営化企業の株式との

交換、投資基金への出資、

現金化(売却)であったが、

配布時点で国内に株式会

社はほとんど存在せず、バ

ウチャーが無記名で売買可

能とされたため、市場経済

化に伴う混乱の中で、大量

のバウチャーが金融業者、

企業幹部、投機的資産家な

どへ売却された。

融資担保の競売◆企業民営化の第二段階(94~97

年)。政府は財政赤字の補填目的で銀行や企業から融

資を受ける際、国営企業の政府保有株式を担保に提

供する。返済しない場合、担保は競売=オークション

に掛けられ、落札者が融資と引き換えにその株式を

取得。結局、国有財産が、有力銀行とその関連企業へ

「払い下げ」された。

新憲法国民投票◆連邦全体の絶対賛成率は低く31

%、殊にタタールスタン的%、ダゲスタン13%。連邦 47

政府は独立志向の強い共和国の懐柔策に出た。

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ン �いらフ“テンまで ���i 下は1993年の10竺 ��ロシア最初の選挙で大統領となったエiルイン氏。 改変時のロシア連邦政府庁舎。(提供^P・AFLO)8

__ 臆∴ 8 � ? �出場 �閣五・圃惹 ���  蒜Ei 嬰麹菌Ⅷ �一一一「隷一〇、1、計\能楽 �����、弼 ヽ:

富諜三 轢 アIジそ 金ベフの 鵜 を駆オ �枯通起97. 鰯 �票にジ徴投よる償短 繍鰯 ��聯 �資企占が長権の前96r i に口 、シ 20ア 世の �千十 書∴ �捕、織’《綾部t細 i//鱈 概\(■止ま∴一 �∴′i∴ ∴ �� �、雄へ、 _し,ヽ_・ 小 ��

し聾刺す間策 �法雲0 �一 ° ��� ����

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48週刊金曜日 2017.11.24(1162号)

アとその他共和国の諸国民がそ

れまでに蓄えであった全預貯金

を奪ってしまった。

主権国家となったロシア連邦

で92~93年に人民代議員大会=

議会と大統領の間に権力闘争が

あった。93年同月政変の戦車を

用いた人民代議員大会と最高会

議の不法な鎮圧と解散は、彩し

い数の犠牲者を伴い、エリツィ

ンを一時期独裁者とした。

わが国における「市場経済」

の創出、「バウチャー(株式引換

券=図1)」という民営化小切

手と「融資担保のオークション

=競売」を通じた天然資源およ

び工業企業の民営化、土地の私

有化、コルホーズ(集団農場)

とソフホーズ(国営農場) の解

体、その他多くの「ショック療

法」の布告はどれもボリス・エ

リツィンの「大統領令」に基づ

いて行なわれた。

旦堅同会議を国家院(下院)と

連邦院(上院)に置き換え、ま

た、大統領の権威と権力を強め

るロシア連邦の新憲法が、さし

たる議論もなされないまま、93

年12月の国民投票で採択され

た。エリツィンは91年に、当時、

ソ連邦の一部だったロシア共和

国の大統領に選出されたのであ

るが、今や主権を行使する新国

家で、再選挙なしに、新たな全権

委任状を獲得した。新憲法が想

定している大統領選挙は、エリ

ツィンの評価がめでたくないた

め先送りされ続け、96年6月に

ょうやく実施された。初回の投

票で彼の得票率は35%だった。

初回と2回目の投票期日のあい

だ、エリツィンは心臓発作の結

果、長らく自分で仕事をする能

力を失った。この事実は国民に

は伏せられており、テレビで幾

度も放映されたエリツィンの「登

場」は改巌によるものだった。

在任中の95~98年に大統領と

彼の「チーム」は急遽、代価も

払わず国有財産を買い受けた百

万長者や億万長者や銀行家たち

からなる新しい支配階級を形成

しょうとした。人々は彼らを「オ

リガルビ=寡頭政商」と定義し

始めた。ベレゾフスキーやアブ

ラモヴィツチ、グシンスキー、

ポクーニン、ホドルコフスキー、

スモレンスキー、ネヴズリン、

アヴエン、その他に代表される

00年代末のロシア寡頭政商資本

主義は17年以前のロシア資本主

義とは全く共通性がない。革命

前の当時、デミドフやプチロフ、

モロゾフ、リヤブシンスキー、

その他の大富豪たちは、本当に

ロシアで様々な新しい産業を立

ち上げた企業家王朝の代表者だ

った。国庫に現金収入を蔚きないバ

ウチャー(株式引換券)と担保

競売による国有財産の民営化

は、財政赤字を招いた。

ロシア経済の約6割はオリガ

ルヒの支配下となり、利益の相