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83 『現代生命哲学研究』第 1 (2012 3 ):83-107 ハイデガー『存在と時間』における恐れ・不安・不気味さに関す る考察 自らの死の了解という現象を分析する枠組みを得るために 山下史人 * 1.はじめに この論文では、ハイデガー『存在と時間』における恐れ、不安、不気味さの 内容とそれぞれの関係を整理・解釈することを通して、自らの死の了解という 現象を分析する枠組みを得ることを目標としている 1 なぜ、この三つの「情状性(befindlichkeit)」を整理・解釈すれば、自らの死 の了解という現象を分析する枠組みを得る目途がつくと言えるのだろうか。そ れは、それぞれの情状性の内容または関係のうちに、現存在(つまりこの自己) の構造が示されており、その構造の記述を展開すれば、自らの死の了解という 現象を分析することができると考えられるからである。したがって、この論文 は自らの死の了解という現象を分析する準備に当たると言える。 では、その現存在の構造とは具体的にどのようなものだろうか。以下、情状 性の記述に着目して、それを抽出していく。 2.恐れ、不安、不気味さ 恐れは、『存在と時間』の「第 30 節 情状性の一つの様態としての恐れ」に、 不安そして不気味さは、主に「第 40 節 現存在の際立った開示性としての不安 という根本情状性」にまとまって記述されているので、それぞれの節を見てみ よう。 2.1.恐れ * 大阪府立大学大学院人間社会学研究科博士後期課程在学(2012 4 月より) 1 Heidegger, Martin (2006) Sein und Zeit, Max Niemeyer Verlag, Tübingen(原佑・渡邊二郎 (2003) ハイデガー『存在と時間Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』中公クラシックス、中央公論新社)。以下『存 在と時間』の頁数は、参照箇所または引用文末に(SZ 13/Ⅰ36)の形で示す。SZ Sein und Zeit の略称、 SZ 右隣の数字は原著の頁数、スラッシュ(/)右隣は邦訳書の巻数と頁数である。 凡例は邦訳書に従う。たとえば原典のイタリックの強調部分には、邦訳書では傍点が付され、原 典の符号》《は邦訳書では「 」で表されている。なお【 】内は論者(山下)の補足である。 引用箇所については語句などを適宜改めた。

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『現代生命哲学研究』第 1 号 (2012 年 3 月):83-107

ハイデガー『存在と時間』における恐れ・不安・不気味さに関する考察 自らの死の了解という現象を分析する枠組みを得るために

山下史人*

1.はじめに

この論文では、ハイデガー『存在と時間』における恐れ、不安、不気味さの

内容とそれぞれの関係を整理・解釈することを通して、自らの死の了解という

現象を分析する枠組みを得ることを目標としている1。 なぜ、この三つの「情状性(befindlichkeit)」を整理・解釈すれば、自らの死

の了解という現象を分析する枠組みを得る目途がつくと言えるのだろうか。そ

れは、それぞれの情状性の内容または関係のうちに、現存在(つまりこの自己)

の構造が示されており、その構造の記述を展開すれば、自らの死の了解という

現象を分析することができると考えられるからである。したがって、この論文

は自らの死の了解という現象を分析する準備に当たると言える。 では、その現存在の構造とは具体的にどのようなものだろうか。以下、情状

性の記述に着目して、それを抽出していく。

2.恐れ、不安、不気味さ

恐れは、『存在と時間』の「第 30 節 情状性の一つの様態としての恐れ」に、

不安そして不気味さは、主に「第 40 節 現存在の際立った開示性としての不安

という根本情状性」にまとまって記述されているので、それぞれの節を見てみ

よう。

2.1.恐れ

* 大阪府立大学大学院人間社会学研究科博士後期課程在学(2012 年 4 月より) 1 Heidegger, Martin (2006) Sein und Zeit, Max Niemeyer Verlag, Tübingen(原佑・渡邊二郎

訳 (2003) ハイデガー『存在と時間Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』中公クラシックス、中央公論新社)。以下『存

在と時間』の頁数は、参照箇所または引用文末に(SZ 13/Ⅰ36)の形で示す。SZ は Sein und Zeit の略称、SZ 右隣の数字は原著の頁数、スラッシュ(/)右隣は邦訳書の巻数と頁数である。

凡例は邦訳書に従う。たとえば原典のイタリックの強調部分には、邦訳書では傍点が付され、原

典の符号》《は邦訳書では「 」で表されている。なお【 】内は論者(山下)の補足である。

引用箇所については語句などを適宜改めた。

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まずは恐れからである。第 30 節を分析していく。 恐れという現象は三つの観点から考察できる。①恐れの対象(恐ろしいもの)、

②恐れることそのもの、③恐れの理由である。

2.1.1.恐れの対象

恐れの対象には、脅かすという性格があり、そこには六つの条件が挙げられ

ている。①恐れの対象は有害性という適所性を持っていること、②この有害性

は被害者の特定の範囲を狙う明確なものとして、一定の方面からやってくるこ

と、③その方面そのものと、そこからやって来るものは、安心できないものと

して知られていること、④その有害なものは、処置できる近さに来ていないが、

刻々接近してくること、また、接近によって有害性が増すこと、⑤有害なもの

でも遠くにあるならば、恐ろしさは隠されていること、また、接近によって被

害をこうむる心配が増してくること、⑥有害なものが接近してきたにもかかわ

らず、被害をこうむらないこともあるが、このことは恐れをかえって増すこと

(なぜなら恐れの対象は存在したままだから)、である(SZ 140-141/Ⅱ27-28)2。 では、この六つの条件から何を読み取ればいいのか。不安との比較において

重要なのは、

①恐れには明確な対象があり、、、、、、、、、、、、

、その対象は空間のどこかに位置づけられてい、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

ること、、、

そして、

②被害の実現可能性に距離の遠近という表象が用いられていること、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、そして、

有害なものでも遠ければ被害は実現しないのだから、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、恐ろしさが隠蔽されて、、、、、、、、、、

実存論的には、、、、、、

(可能性としては、、、、、、、

)恐ろしい、、、、

と言える、、、、

のだが、、、

、実存的には、、、、、

(実際、、

には、、

)恐ろしくないと感じること、、、、、、、、、、、、

、場合によってはそ、、、、、、、、

もそも被害が実現しない、、、、、、、、、、、

と考えられるようになること、、、、、、、、、、、、、

である。

2.1.2.恐れることそのもの

次に、恐れることそのものである。恐れることとは、恐れの対象を認識した

2 この条件がわかりづらかったら、向こう(例えば北北東)100 キロ先から時速 100 キロ以上で

近づいてくる自動車を思い浮かべれば、わかりやすくなるかもしれない。

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上で、恐れることではなく、恐れがはじめからその対象を恐ろしいものとして

発見することである。つまり、抽象的で客体的な対象(いわゆる眼前存在者)

に恐れという印象を加えるのではなく、そもそもその対象は恐ろしいものとし

て出会われているのである。なぜそのようなことが可能なのかと言えば、(現存

在の体制である)世界内存在にはすでに可能性としての恐れがあるから、つま

り、恐ろしいものごとが起こりうる(またはそれに出会いうる)ように、世界

が開示されているからである(SZ 141/Ⅱ28)。

2.1.3.恐れの理由

最後に、恐れの理由である。恐れの理由は現存在にある。なぜなら現存在の

みが、その存在様態が実存であるがゆえに、恐れを抱きうるからである。現存

在は自己とは無関係に恐れることはできない(自己とは無関係に恐れている状

態を想像することすらできない)。現存在はそもそも自己関係的な存在であるか

らこそ恐れることができるのである。恐れることは、その存在者(である現存

在)を、そのように恐れている状態において、開示するわけである(SZ 141/Ⅱ29)。

以上で、恐れという現象を三つの観点から見てきた。この三つの考察をまと

めてハイデガーは以下のように述べる。

なんらかの対象を恐ろしがることとしての、何かの理由での恐れること

は――欠性的にであれ積極的にであれ――脅かしつつある内世界的存在

者と、脅かされているということに関する内存在とを、つねに等根源的に

開示する。恐れは情状性の一つの様態なのである。 (SZ 141/Ⅱ29)

2.2.不安

次に、不安である。 まず第 40 節の初めのほうでは、日常的には、現存在はおのれの本来性から逃

避し、世人、、

(das Man)に融けこんでいる非本来的な在り方を(つまり頽落)

していることが示される。だが、現存在が非本来的な在り方をしているからと

いって、本来性自体が失われたわけではない。なぜなら、非本来性とは本来性

の欠如にすぎないからである。現存在が存在論的には本来的であるからこそ、

それを忘却し、非本来的にいられることもできるのである。つまり、本来性と

非本来性には根源と欠如という関連があるのだから、現存在が非本来的であっ

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ても、本来性を開示できないことはないということである(SZ 184/Ⅱ133)。 ここで、前節の恐れの分析にならって、不安という現象も三つの観点から考

察することができる。①不安の対象(不安がらせるもの)、②不安がること、③

不安の理由である。

2.2.1.不安の対象

まずは不安の対象から考えてみよう。 まず、(当然のことながら)現存在は不安を感じることがあること、またそも

そも現存在は世界内存在として根本的に構成されていること、を確認しよう。

そして結論を先に言えば、恐れの対象は内世界的存在者(道具的存在者・眼前

存在者)であったが、「不安、、

の対象は世界内存在そのものなのである、、、、、、、、、、、、、、、、、、

」(SZ 186

/Ⅱ136、傍点訳書)、ということになる。したがって、不安の対象の特徴は、

恐れの対象である内世界的存在者の特徴とは違ったものとなり、対象そのもの

の特徴は恐れのものとは逆となる。それは次のようにまとめられる(SZ 186-187/Ⅱ136-138)。

まず、不安の対象の根本テーゼとでも呼ぶべきものは、

①不安には明確な対象はなく、、、、、、、、、、、、

、その対象は完全に無規定的であること、、、、、、、、、、、、、、、、、

である。ここで、①の前半部(不安には明確な対象はないということ)を敷衍

すると、

②不安には明確な対象がないということは、その対象がどこにもない、、、、、、

という

ことであって、対象そのものがないわけではないこと(なぜなら不安を感じ

るのだから)、つまり、不安の対象とは、空間内に位置付けられるものではな

く、方域そのもの(世界そのもの)であること、言い換えれば、不安の対象、、、、、

とは、、

、世界内部的には、、、、、、、

、無であって、、、、、

、どこにもないということ、、、、、、、、、、、

、にもかかわ、、、、、

らず、、

、対象があるということは、、、、、、、、、、、

、その対象とは、、、、、、

、内世界的存在者ではなく、、、、、、、、、、、

世界そのものであるということ、、、、、、、、、、、、、、

になり、そして、①の後半部(不安の対象は完全に無規定的であること)を敷

衍すると、 ③この無規定性においては、内世界的存在者は重要でなくなり、内世界的存在

者を内世界的存在者ならしめる(たとえば、ある物質のかたまりをハンマーと

いう意味(機能)を持った道具とし、その道具を用いた目的ある行為を可能に

する)適所全体性は崩壊する、つまり(適所全体性という特徴を持つ、、、、、、、、、、、、、

)世界は、、、

完全な無意義性を持つということ、、、、、、、、、、、、、、、

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という結果が得られるわけである。

そして②③という結果から、④「内世界的存在者のこうした無意義性、、、、

を根拠

にして、世界がその世界性においてひたすらなおも押しつけがましく迫ってく

る」(SZ 187/Ⅱ138、傍点訳書)ということになる。だが、これはどういうこ

とを意味しているのだろうか。世界の無意義性と内世界的存在者の無意義性と

はどういう関係にあるのだろうか、そして、内世界的存在者の無意義性を根拠

にして世界がその世界性において押しつけがましく迫ってくるとはどういうこ

とか。この疑問はあと(本稿4.)で解くが、解決の手がかりを得るために、③

をもう少し考えてみよう。 そもそも内世界的存在者には、道具的存在者と眼前存在者とがあるのだが、

根源的なのは、道具的存在にもとづいた道具的存在者のほうである。日常的に

は、現存在は、その道具的存在者に没入している、つまり、道具の使用に没頭

しつつ日常生活を送っている。たとえば、眼鏡という道具を使用しているひと

が、いちいち眼鏡そのものを気にしていたら、何かを見ながらその他の何かを

すること、つまり日常生活を送ることはできない。しかし、不安は、この道具

的存在者を無意義なものとする。なぜなら、不安の対象は、道具を道具ならし

める現存在の行為を可能にする、適所全体性を崩壊させるからである。では、

不安の対象とは何か。それは、「道具的存在者一般の可能性、、、

、言いかえれば、世

界自身」(SZ 187/Ⅱ138、傍点訳書)である。つまり、③を言い換えると、次

のようになる。 ⑤世界が完全に無意義になることは、適所全体性を崩壊させ、内世界的存在者

も無意義にするということ、つまりこのことは、ある道具的存在者の特定の可、、、、、、、、、、、、、

能性を破壊し、、、、、、

、道具的存在者一般の可能性を露呈させるということ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、言い換え

れば、現存在はこの道具 A を X として使用していたが、道具 A を X として使

用することを規定している、ある世界(たとえば世界 A)が、世界自身(その

もの)によって無意義となれば、現存在はその道具 A を X として使用できな

くなること、つまり現存在は目的ある行為ができなくなること、そしてそのこ

とが目的や意味ある行為を欲するという現存在の一般的な規定を露わにする

こと、 である。 そして、世界とは、世界内存在としての現存在の存在(実存)に属している

(つまり現存在の体制とは世界内存在である)。しかるに、①③より不安の対象

は世界そのもの(完全な無意義性を持つ世界)であった。つまり、

⑥「不安がそれに対して不安がる対象は世界内存在自身である、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

ということ」

(SZ 187/Ⅱ138、傍点訳書)、

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になるのである。

2.2.2.不安がること

次に、不安がることを考えてみよう。 これは、恐れることそのものと仕組みは同じである。ただし、何を開示する

かが異なる。 不安がることとは、現存在が反省し内世界的存在者をないものと見なした上

で、世界を思考し、その後におもむろに、この世界を不安がることではなく、

情状性の様態として「根源的に、また直接的に、世界を世界として開示する」(SZ 187/Ⅱ138)ことである。恐れることでは、開示されたのは、恐ろしいものご

とが起こりうる(またはそれに出会いうる)ような世界であったが、不安がる、、、、

ことでは、、、、

、開示されたのは世界そのもの、、、、、、、、、、、、、

である。

2.2.3.不安の理由

最後に、不安の理由を考えてみよう。 不安の理由と不安の対象は同じもの(自同性)であるとされる(この自同性

は、不安がることにも及ぶ)(SZ 188/Ⅱ140)。では両者はどのように同じ性質

であるのか。

不安の対象は世界内存在自身、、

であった。この対象は無規定的であるから、現

存在のある特定の、、、

存在様式や可能性を開示するわけではない。たとえば、不安

が開示するのは、A さんが現在は実業団のサッカー選手だが将来はプロのサッ

カー選手になろうとするという特定の可能性のことではない。この場合(実業

団のサッカー選手がプロのサッカー選手になろうとする場合)では、現在の状

態と将来の状態に違いがあり、現在の状態は将来の状態から相対化され、場合

によっては否定される(たとえば「実業団のままじゃいられない」と選手が思

うこと)とはいえ、現在と将来は同じサッカー選手という点で連続性を保って

いるし、A さんはサッカー選手という可能性を公共的に与えられ、それを選択

できる状態にあると言える。だが、「不安は、「世界」と公共的な被解釈性とに

もとづいて頽落しつつおのれを了解する可能性を、現存在から奪ってしまう」

(SZ 187/Ⅱ139)。そして、

不安は、最も固有な存在しうることへとかかわる存在、、、、、、、、

を、言いかえれば、

おのれ自身を選択し把捉する自由に向かって自由であること、、、、、、、、、、、

を現存在にお

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いてあらわにする。不安は、現存在が何かに向かって自由であること、、、、、、、、、、、

(何カ

ヘノ傾キ)に、つまり、現存在がつねにすでにそれである可能性としての現

存在の存在の本来性に、現存在を当面させる。 (SZ 188/Ⅱ140)

つまり、不安は、現存在の存在を、その本来性において、可能性そのものと

いう自由な存在として、開示するのである。この最も固有で本来的な存在とは、

「公共的な被解釈性にもとづいた」ある特定の可能性ではなく、(特定の可能性

にはなり得ない)可能性そのもののことであり、これがなぜ自由なのかといえ

ば、この本来的な存在が、特定の、、、

可能性ではなく、可能性そのものだからであ

る。このように、現存在が可能性そのものとしての自由に開かれていることが、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

不安の理由である、、、、、、、、

と言えよう。以上より、不安の対象が世界内存在自身である

ことと、不安の理由が可能性そのものであることは、ともに無規定的であると

いう自同性を持つことが証明された。

2.2.4.根本情状性である理由

また、不安が根本情状性である理由も確認しておこう。不安が根本情状性と

される理由は、不安が現存在そのものを単純かつ広範囲かつ根源的に開示し、

現存在の存在(つまり実存)の構造全体性を明らかにするからである(SZ 182/Ⅱ128)。これは具体的にどういうことを意味しているのだろうか。直前の引

用文に続けて、不安によって本来性を開示した現存在は、次のようにも言われ

ている。

だが、この【本来性を開示した現存在の】存在は、同時に、現存在が世界内

存在としてそれに委ねられている当のものなのでもある。 (SZ 188/Ⅱ140、【 】内補足引用者)

この引用文では、本来性を開示した現存在の存在とは、現存在の体制である

世界内存在であることが述べられている。現存在が世界内存在として構成され

ていることは、繰り返し確認していることである。だが、なぜ現存在は自己が

世界内存在として構成されていることに気づけるのだろうか。それは、不安が、

現存在をある特定の、、、

内世界的存在者に直面させるのではなく、可能性そのもの

に直面させ、現存在を単独者として開示することで、「世界内存在としてのおの

れ自身に当面させる」(SZ 188/Ⅱ141)からである。つまり、不安は、、、

、現存在、、、

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が世界、、、

内存在であることを現存在に気づかせてくれるからこそ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、根本情状性、、、、、

のである。こういうわけで、現存在が不安がることによって、現存在の不安の

対象、現存在の不安の理由はともに、世界内存在そのものであることが判明す

ること、また、(現存在が)不安がることもまた情状性としての世界内存在の根

本様式であること(なぜなら不安がるのは、世界内存在そのものである現存在

自身だから)、がわかる。

2.2.5.不安のまとめ

以上を簡潔にまとめると次のようになる。それは、

不安には明確な対象はなく、、、、、、、、、、、、

、その対象は完全に無規定的であること、、、、、、、、、、、、、、、、、

、これは、、、

不安の対象が世界内存在そのものであり、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、また可能性そのものであることも意、、、、、、、、、、、、、、、、

味すること、、、、、

、また、、

、現存在が可能性そのものとしての自由に開かれているがゆ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

えに現存在が不安がるということ、、、、、、、、、、、、、、、

、そしてそこにおいて不安がる現存在は、、、、、、、、、、、、、、、、、

、本、

来性を開示していること、、、、、、、、、、、

、これは、、、

、現存在が自己のことを世界内存在であるこ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

とに気づくことを意味すること、、、、、、、、、、、、、、

、である。

2.3.恐れと不安との関係

では次に、不安と恐れとを比較してみよう。

まずハイデガーは「不安はそれ自身としては恐れをはじめて可能ならしめる、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

(SZ 186/Ⅱ136、傍点訳書)と述べている。つまり、不安は恐れを可能にする

のだが、これはどうしてだろうか。まずは、不安の対象は世界内存在そのもの

であり、恐れの対象は内世界的存在者(つまり世界内に位置付けられる特定の

存在者)であることを確認しよう。この両者を可能性の観点から考えれば、世

界内存在そのものとは可能性そのもののことであり、内世界的存在者とは特定

の存在者の可能性のことである。つまり、可能性そのものは可能性そのもので

あるがゆえに、特定の存在者の可能性(つまり特定の存在者が別でもありうる

こと)を可能にすると言える。特定の存在者の可能性は、可能性そのものに基

づかなければならない。また可能性そのものは可能性そのものであるがゆえに、

決して特定の存在者の可能性になることがない。以上より、以下のことが帰結

する。

不安が潜在的に世界内存在をつねにすでに規定しているゆえにのみ、この世

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界内存在は、「世界」のもとでの配慮的に憂慮しつつある情状的存在として、

恐ろしがることができるのである。恐れは、「世界」に頽落した非本来的な

不安であり、しかも恐れ自身にはそうしたものとしては秘匿されている不安

なのである。 (SZ 189/Ⅱ143-144)

つまり、恐れとは、、、、

非本来的な不安である、、、、、、、、、、

と定義できる。さらに、不安(つま

り本来的な情状性)から導き出された本来性は、、、、

、自覚されようとされまいと、、、、、、、、、、、、

(潜、

在的に、、、

)機能しており、、、、、、

、その対象は可能性そのもの、、、、、、、、、、、、

なのだが、恐れ(つまり非

本来的な情状性)から導き出された非本来性は、、、、、

、本来性または非本来性という、、、、、、、、、、、、、

区別をそもそも自覚することができないように機能しており、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、その対象は特定、、、、、、、

の存在者の可能性、、、、、、、、

なのである。

では、以上の考察に即して、恐れと不安の特徴を対比しながらまとめた表を、

以下に掲示する。

恐れ 不安

内世界的存在者 世界内存在そのもの明確で規定できる 不明確で規定できない(無規定)

対象の方向 特定の方向 方域そのもの(四方八方→無方向)世界の内部に位置付けられる(どこかにある) 位置付けられない(どこにもない)

現存在の世界は対象を含む 対象に呑み込まれる(含まれる)対象の表象 距離の遠近(数直線・先後) 表象できない

対象の実現可能性 やがて(いつか)/どこか 今/ここ対象の意義 有意義性 無意義性

対象への現存在の対応 目的ある(方向性のある)行為ができる 目的ある(方向性のある)行為ができない対象の可能性 特定の存在者の可能性 可能性そのもの(自由)

恐れと不安の関係 不安によって可能になる 恐れを可能にする現存在が開示するもの 非本来性 本来性

対象

現存在と対象の関係

表1.恐れと不安の特徴の一覧表

2.4.不気味さ

次に不気味さについて考えてみよう。 不気味さは以下のように記述されている。

不安においてはひとは「不気味、、、

」なのである。このことのうちで差しあたっ

て表立ってくるのは、現存在がそのもとで不安という情状のうちにある当の

ものの特定の無規定性なのである、すなわち、無であってどこにもないこと

なのである。だが、不気味さは、この場合には同時に、居心地のわるさをも

指している。 (SZ 188/Ⅱ141、傍点訳書)

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これ【内存在の実存論的な様態の一つである「居心地のよさ」】に反して不

安は、現存在が「世界」のうちに頽落しつつ没入していることから現存在を

連れもどす。日常的な親密さはくずれ落ちるのである。現存在は単独化され

てはいるけれども、それは世界内存在として、、、

なのである。内存在は、居心地、、、

のわるさ、、、、

という実存論的な「様態」をとるにいたる。「不気味さ」という言

い方も、これ【居心地のわるさ】と別のことを指しているわけではない。 (SZ 189/Ⅱ141-142、傍点訳書、【 】内補足引用者)

この二つの引用文から、不安はひとが不気味であることを可能にすること、

そのために不安と不気味さは多くの点で共通しているが、他方、不安とは区別

される不気味さ独自の性質があり、それは居心地のわるさであること、これら

のことが読み取れる。 ではここで、不気味さを不気味たらしめる「居心地のわるさ」について考え

てみよう。不安、恐れとの違いを明確にするためである。 「居心地のわるさ」は「居心地のよさ」との対比で考えられている。両者に

共通することは「居心地」であるが、居心地がそもそも問題になるのは、現存

在が「何かの居心地」を問題にできる状態にあるからである。しかるに、不安

は特定の対象を持たないがゆえに、「居心地」を問題にできる状態にない。した

がって、不安になくて不気味さにあるもの、それは、特定の対象である。では、

それはどのような対象なのだろうか。このことを、不気味さに対する現存在の

態度を考えることで明らかにしていこう。

2.4.1.不気味さに直面することとそこから逃避すること

まずは、第40節におけるハイデガーの分析の出発点を確認しておく。それは、

本来性から逃避し、平均的で日常的な公共性のうちに頽落している非本来的な

現存在から分析を出発するというものである。そしてその頽落においては、現

存在は世人に融けこんでいること、そしてその世人は安らぎを得た自信や自明

な居心地のよさを、日常性に提供すること、とされる(SZ 184/Ⅱ132)。では、

逃避という形で頽落している現存在は何に直面してそこから日常性へと逃避す

るのだろうか。

それは、現存在が「公共性の居心地のよさのうちへと、、、、

頽落しつつ逃避するこ

とは、居心地のわるさ、言いかえれば、不気味さに直面してそこから、、、、、、、、、

逃避する

こと」なのであり、「このような不気味さは、おのれの存在においておのれ自身

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に委ねられている被投された世界内存在としての現存在のうちに、ひそんでい

るのである」(SZ 189/Ⅱ142)と説明されている。つまり、現存在は不気味さ

(つまり居心地のわるさ)に直面してそこから居心地のよい日常性へと逃避し

ているのである。また同時に、現存在を日常性に逃避せしめる不気味さにおい

て、現存在は被投された(つまり特定の)世界内存在を開示していることも述

べられている。 このように不気味さが特定の世界内存在を開示していること、また現存在は

そこから逃避することは、何を帰結するだろうか。それは、逃避としての頽落

において現存在は、特定の世界内存在を開示する不気味さに直面してそこから

逃避するのだから、「内世界的存在者に直面してそこから、、、、、、、、、

逃避するのではなく、

まさしく内世界的存在者へと、、

逃避する」(SZ 189/Ⅱ142、傍点訳書)ことを帰

結するのである。そして「内世界的存在者こそ、配慮的な気遣い【つまり現存

在】が、世人のうちへと【本来性を】喪失してしまって、安らぎをえた親密さ

を保ちつつそのもとに引きとどまることのできる存在者」(SZ 189/Ⅱ142、【 】

内補足引用者)とされる。つまり、不気味さのもとで、被投された特定の世界

内存在に直面し、脅かされ居心地の悪さを感じる現存在は、その居心地の悪さ

を嫌うがゆえに、居心地のよい内世界的存在者へと逃避し、頽落するのである。

2.4.2.不気味さから考えられる二つの頽落

ここで、世界内存在と内世界的存在者とが対比されていることに注目してほ

しい。これまでの記述によれば、不安の対象は世界内存在そのもの、恐れの対

象は内世界的存在者であった。しかるに、不気味さの対象は世界内存在そのも、、、

の、ではなく、特定の

、、、世界内存在である。そして特定の世界内存在という対象は

特定であるがゆえにそのなかに日常性を含む。つまり、不気味さに直面してい

る渦中にあっては、現存在は日常性に頽落しているにもかかわらず、内世界的

存在者へと逃避しているのではなく、(日常性における)特定の世界内存在に直

面しているわけである。これはどういうことだろうか。 なぜこれが疑問になるかと言えば、これまでの分析によれば、頽落とは日常

性へと頽落していることを意味し、頽落している現存在は非本来的であること

を意味し、それがゆえに非本来的な現存在が見出す対象は(たとえば恐れの事

例を根拠として)内世界的存在者であると考えられたからである。つまり、日

常性に頽落しているのならば、その現存在が見出す対象は、内世界的存在者に

限られるのではないか、だが不気味さにおいては、その現存在は、日常性に頽

落しているにもかかわらず、(日常性における特定の)世界内存在、、、、、

を開示してい

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る、これは矛盾ではないのか、という疑問が思い浮かぶわけである。 このことが意味しているのは、これまで、頽落とは、日常的な世人に融けこ

んでいることともっぱら考えられていたが、それだけではなく、内世界的存在

者へと逃避していること(つまり内世界存在者だけ、、

を見出していること)もあ

ること、また、この二つの頽落は別々に考えなければならないこと、そして、

日常的な世人への頽落は頽落の必要十分条件であるが、内世界的存在者への頽

落は必要不可欠ではないこと、つまり、頽落するからといって、必ずしも現存

在が内世界的存在者だけを見出すわけではないこと、である。ここで、日常的

な世人に融けこんでいることを「日常性への頽落」、現存在が内世界存在者だけ、、

しか、、

見出せないことを「内世界的存在者への頽落」と呼ぶことにする3。

2.4.3.不気味さと恐れの関係

では、以上の頽落の記述に従って、不気味さと恐れの関係を考えてみよう。

そこで指摘されていたのは、不気味さにおいても恐れにおいても現存在は頽落

していたということである。ただし、不気味さにおいては日常性への頽落だけ

であるが、恐れにおいては、それに加えて内世界的存在者への頽落もしている

という違いがある。しかし、恐れと同じように、不気味さにおいても現存在は

非本来的であることに変わりはない。恐れとは頽落の仕方が違うとはいえ、頽

落していることには違いないからである。

2.4.4.不安と不気味さの関係

最後に、不安と不気味さの関係を考えてみよう。 先ほど、不安は不気味さを可能にしていると簡単に定義しておいた。さらに、

不気味さの対象は、(日常性における、つまり)ある特定の世界内存在であり、

不安の対象は世界内存在そのものであった。また、不安と恐れとの比較におい

て、不安(における現存在)は本来的であることが判明し、不気味さと恐れと

の比較において、不気味さは非本来的であることが判明した。しかし、恐れと

不気味さはともに頽落しているとはいえ、不気味さのほうは日常性への頽落だ

けであり、内世界的存在者への頽落はしていなかった。このように不気味さに

3 このように頽落を区別することは、仲原 (2008) の示唆による。仲原 (2008) によれば、頽落

には、没入的頽落と執着的頽落とがあり、執着的頽落には、眼前存在への頽落と眼前存在者への

頽落とがある。この論文での論者(山下)の頽落の区別と仲原の区別はどのように対応している

かを考えると、日常性への頽落は没入的頽落に対応し、内世界的存在者への頽落は眼前存在者へ

の頽落に対応していると言えるだろう。

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おいて現存在が内世界的存在者への頽落をしていないということを、どのよう

に評価すればいいだろうか。 世界内存在つまり現存在と内世界的存在者とは全く異なる存在者である。そ

して現存在の存在には、実存という存在様態が属しているのだが、内世界的存

在者の存在には、それは属していない。つまり、内世界的存在者への頽落(内

世界的存在者だけを見出すこと)は実存という存在様態を見落とすことになる

のである。しかるに、不気味さにおいて現存在は内世界的存在者への頽落をし

ていない。したがって、不気味さにおいては、実存という存在様態が隠蔽され

てはいないわけである。これは、不気味さの対象が、特定の、とはいえ世界内

存在ということからも裏づけられる。他方、不安の対象は世界内存在そのもの

であるから、そこにおいては、現存在の存在である実存が完全に見出される。

つまり、不安と不気味さにおいては、、、、、、、、、、、、

、実存、、

という存在様態が開示されているか、、、、、、、、、、、、、、、、

は同じだが、、、、、

、それがどのように開示されているのか、、、、、、、、、、、、、、、、、

、つまり開示の度合いは違、、、、、、、、、、、

う、のである。

そして、このことは、次のことを帰結する。それは、不気味さにおいて現存、、、、、、、、、、

在は非本来的であるが、、、、、、、、、、

、実存という存在様態を、、、、、、、、、、

開示しつつあること、、、、、、、、、

、そして、、、

実存という存在様態を、、、、、、、、、、

開示しつつあること、、、、、、、、、

は、、不安との接続において可能にな

、、、、、、、、、、、、、、

っていること、、、、、、

(不安は根本情状性だから、、、、、、、、、、、

)、である。

以上で、三つの情状性のそれぞれの関係を明らかにしたと思われる。

3.三つの情状性の比較検討

ここまで、三つの情状性を二者間(不安と不気味さ、不安と恐れ、不気味さ

と恐れ)において比較してきた。ここでは、三つの情状性を一度に比較してみ

たい。それを行うには、三者に共通する何らかの観点が必要である。そこで、

まずは「可能性」という観点、そしてその観点から得られた知見を下敷きにし

たうえでの「本来性/非本来性」という観点、これら二つの観点からこれらの

情状性を比較してみよう。

3.1.可能性という観点から捉えられた三つの情状性

まずは、三つの情状性を可能性という観点から考え直してみる。 世界内存在そのものは可能性そのもののこと、内世界的存在者は特定の存在

者の可能性のことであった。では、この観点からみれば、日常的な特定の世界

内存在は何だと言えるのか。それは、特定の存在者の可能性ではなく、可能性

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そのものでもない可能性、つまり特定の世界内存在の可能性である。特定の存

在者の可能性とは、内世界的存在者のことであるのだから、それはある特定の

世界内存在を相対化することはない。それに対して可能性そのものとは、世界

内存在そのものなのだから、あらゆる世界内存在を相対化する。そして特定の

世界内存在の可能性とは、もう一つの世界内存在のことだから、ある特定の(異

なる)世界内存在を相対化する。以上のように三つの情状性を考えられる。

3.2.本来性/非本来性という観点から捉えられた三つの情状性

この知見を下敷きにしつつ、次に、三つの情状性を本来性/非本来性という

観点から考えてみよう。 以前に、不安と恐れとが比較されたところを引用し、そして次のように結論

づけた。

不安が潜在的に世界内存在をつねにすでに規定しているゆえにのみ、この世

界内存在は、「世界」のもとでの配慮的に憂慮しつつある情状的存在として、

恐ろしがることができるのである。恐れは、「世界」に頽落した非本来的な

不安であり、しかも恐れ自身にはそうしたものとしては秘匿されている不安

なのである。 (SZ 189/Ⅱ143-144)

恐れとは非本来的な不安である、、、、、、、、、、、、、、

と定義できる。さらに、不安(つまり本来的

な情状性)から導き出された本来性は、、、、

、自覚されようとされまいと、、、、、、、、、、、、

(潜在的、、、

に、)機能しており

、、、、、、、その対象は可能性そのもの

、、、、、、、、、、、、なのだが、恐れ(つまり非本

来的な情状性)から導き出された非本来性は、、、、、

、本来性または非本来性という、、、、、、、、、、、、、

区別をそもそも自覚することができないように機能しており、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、その対象は特、、、、、、

定の存在者の可能性、、、、、、、、、

なのである。

(本稿2.3.より引用)

ここでは、本来性とは、現存在に自覚されようとされまいと潜在的に機能し

ている可能性そのものであり、非本来性とは、本来性または非本来性という区

別がそもそもできないように機能している特定の存在者の可能性である。そし

て不安は本来性であり、恐れは非本来性であるとされた。このことは次のよう

にも説明されている。

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なるほどあらゆる情状性の本質には、完全な世界内存在をすべてその構成

的な諸契機(世界、内存在、自己)にしたがってそのつど開示することが、

属してはいる。しかしながら、不安のうちには、際立って開示する可能性が

ひそんでいる。というのは、不安は単独化するからである。この単独化は、

現存在をその頽落から連れもどして、本来性と非本来性とを現存在の存在の

二つの可能性として現存在にあらわならしめる。そのつど私のものである現

存在のこの二つの根本可能性は、不安においておのれを示すのである、しか

も、それら二つの根本可能性自身に即して、つまり、現存在が差しあたって

たいていはそれにしがみついている内世界的存在者によって偽られずにお

のれを示すのである。 (SZ 190-191/Ⅱ145)

ここでは、この三つの引用をもとに議論を展開していく。便宜上、三つの引

用文を順番に第一の引用文、第二の引用文、第三の引用文としておく。

3.2.1.本来性/非本来性という観点から捉えられた恐れ

まず、第二の引用文を見てみよう。そこにおいて、恐れは、非本来的な不安

であり、本来性または非本来性という区別をそもそも自覚することができない

ように機能しており、その対象は特定の存在者の可能性だとされた。

つまり、本来性/非本来性という観点から見た、恐れとは、、、、

、「非本来性、、、、

(その、、

もの、、

)」であること、、、、、

、つまり本来性または非本来性という区別を自覚できない状、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

態であること、、、、、、

、そして、、、

、その、、

対象は特定の存在者の可能性であること、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、を意味

する。

3.2.2.本来性/非本来性という観点から捉えられた不気味さ

次に、第二の引用文と第三の引用文を比較してみよう。この二つを比べてみ

ると、両者において、本来性について一見矛盾しているかのような説明がなさ

れていることがわかる。第二の引用文においては、本来性とは、可能性そのも

のとされ、第三の引用文においては、本来性とは、「この二つの根本可能性」と

いうように、非本来性と比較された特定の可能性とされているからである。で

は、第二の引用文と第三の引用文において本来性の定義は矛盾している、そう

考えられるだろうか。そうではない(矛盾していないと考えられる)。可能性そ

のものである本来性も、非本来性と比較されたうえでの特定の可能性である本

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来性も、本来性であることに変わりはないからである。つまり、本来性には、、、、、

「可、

能性そのものとしての本来性、、、、、、、、、、、、、

(そのもの、、、、

)」と、「特定の可能性としての本来性

、、、、、、、、、、、、、」

とがある、、、、

ことになる。

しかし、この二つの本来性は、矛盾していないからといって、全く同じ意味

というわけではないだろう。この違いはどのように説明されるのだろうか。 可能性そのものとしての本来性とは、潜在的に機能していて、世界内存在を

つねにすでに規定しているとされるのだが、それ自体は、規定されることがな

い(そうでなければ可能性そのものとは言えない)。それに対して、特定の可能

性としての本来性とは、「特定」なのだから何らかの規定を受けているものと考

えられる。そして、何らかの規定を受けているということは、特定の可能性と

しての本来性は「特定の世界内存在としての可能性」もしくは「特定の存在者

としての可能性」ということになる。 だが、この二つの可能性はそれぞれ不気味さもしくは恐れに該当し、そして

この二つの情状性はともに非本来性とされたのであった。つまり、特定の可能

性としての本来性とは、非本来性ということになる。これは矛盾ではないのか。

だがこれもまたそうではない(矛盾していない)。たしかに、両者は、言葉のう

えでは矛盾しているのだが、内容のうえでは矛盾していないのである。なぜな

ら、特定の可能性としての本来性とは、この場合は(特定の存在者としての可

能性ではなく)特定の世界内存在としての可能性のことであり、日常性に頽落

しているという点では非本来的であるのだが、内世界的存在者へと頽落してい

るわけではなく、(現存在の存在様態が実存であり)本来性と接続しているとい

いうる点で本来的だからである。言いかえれば、特定の可能性としての本来性

とは、可能性そのものとして本来性から見れば、本来性と非本来性の区別を明

確に自覚していないという点で非本来的なのだが、内世界的存在者へと頽落し

ている非本来性(そのもの)から見れば、それは、特定の、という条件付きで

はあるが、世界内存在の可能性を示すがゆえに、つまりこのことで本来性と非

本来性の区別を自覚しかけている、、、、、、

がゆえに、本来的なのである。そして本来性

と非本来性の区別を自覚しかけているのは、非本来的である不気味さが、両者

を区別している不安において可能になっているからであった。

つまり、本来性/非本来性という観点から見た、不気味さとは、、、、、、

、「本来性、、、

/非、

本来性という区別をあまり自覚していない非本来性、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

(特定の、、、

(世界内存在の、、、、、、

可能性としての非本来性、、、、、、、、、、、

)」であるのだが、、、、、、

、「本来性、、、

/非本来性という区別を自、、、、、、、、、、、

覚しかけている本来性、、、、、、、、、、

(特定の可能性としての本来性、、、、、、、、、、、、、

)」でもある、、、、

。そして不気、、

味さの対象は、、、、、、

、特定の世界内存在としての可能性のこと、、、、、、、、、、、、、、、、、、

である。

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3.2.3.本来性/非本来性という観点から捉えられた不安

さらに、第三の引用文によれば、不安は現存在を単独化し、「この単独化は、

現存在をその頽落から連れもどして、本来性と非本来性とを現存在の存在の二、、、、、、、、、、、、、、、、、、

つの可能性として現存在にあらわならしめる、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

」(傍点引用者)とされている。こ

れは、不安とは、特定の世界内存在の可能性としての本来性と特定の内世界的

存在者の可能性としての非本来性とを、ともに可能であるとする、「可能性その

ものとしての本来性」であることを意味する。なぜ本来性と非本来性がともに

特定の可能性であるとするのかと言えば、この引用文では本来性と非本来性と

は「二つの根本可能性」として並列させられているから、またそもそも本来性

(そのもの)とは可能性そのもののことであり、これは非本来性と並列させら

れることはないからである。 では、この「可能性そのものとしての本来性」とは、どのようなものである

だろうか。ここでは不安がもたらす単独化は「現存在をその頽落から連れもど」

すとされている。だが、この頽落は「日常性への頽落」であるのか、それとも

「内世界的存在者への頽落」であるのかは定かではない。だが、頽落と言えば、

現存在は必ず「日常性への頽落」をしているのだから、まずは、その頽落の意

味で考えてみよう。 そこでまず、ともに頽落をしている不気味さの場合と恐れの場合を振り返っ

てみよう。 特定の世界内存在としての可能性(つまり不気味さ)の場合と特定の存在者

の可能性(つまり恐れ)の場合においては、現存在はともに日常性に頽落して

いるのであった(ただ、その頽落の仕方が違った)。では、現存在が頽落すると

ころのこの日常性とはどのようなものだろうか。 そもそも日常性に頽落しているということは、ある特定の生活をしていると

いうことである。ところで、特定の生活をしない現存在というものが考えられ

るだろうか。考えられないと言える。なぜなら、第一に、現存在とは生きてい

る限り特定の行為をせざるを得ないからである。また第二に、その現存在の行

為があまりにもでたらめ(たとえばよくわからない踊りのような動きなど)だ

としても、行為である以上は実際に起こっているのだからそもそも(現実的に)

日常的であるし、今は特定の行為とみなされなくとも、またこれから特定の行

為とみなされる(つまり意味づけられる)可能性は残されているからである。

つまり、現存在は生きている現存在である以上、そもそも日常的に頽落してい

るのである。 そして、先ほどの、現存在は特定の生活をすることを証明するために示した

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(第二における)二つの根拠に従えば、日常性にも二つの意味があることがわ

かる。一つは、例えば天災(地震など)・人災(戦争など)・意味不明な行為な

どの非日常と対比される日常性、もう一つは、天災・人災・意味不明な行為も

実際に起こっているという点に着目した、現実性という意味での日常性である。 これらは以前述べた「日常性への頽落」、「内世界的存在者への頽落」、この二

つの頽落を別の角度から説明したものであることがわかる。なぜなら、内世界

的存在者への頽落とは、特定の世界内存在や世界内存在そのものを考慮しない

こと(つまり他の可能性を除外すること)であるがゆえに、「非日常性と対比さ

れる日常性のこと」であり、日常性への頽落とは、現存在は必ず特定の生活を

送ることであるがゆえに、「現実性という意味での日常性のこと」であると考え

られるからである。 そして、この現実性という意味での日常性と対比され、またそれを相対化す

るのが、可能性そのものであり、つまりは、不安なのである。なぜなら、不安

は現存在を単独化し、「この単独化は、現存在をその頽落から連れもど」す(つ

まり「現実性という意味での日常性」をも相対化する)からである。とはいえ、

このことは、現存在が現実性という意味での日常性を失うことを意味しない。

現存在は生きている以上、特定の生活を送り続けるからである。ただ可能性そ

のものは、現存在がどのような生活を送るのかを日々変化させるのである。 だから、不安(による単独化)が「【特定の可能性としての】本来性と非本来

性とを現存在の存在の二つの可能性として現存在にあらわならしめる」(【 】

内補足引用者)、つまり不安がどちらの可能性をも示すことは、現実的には、あ

り得ないことである。なぜなら、現存在が特定の生活を送る以上は、現実的に

は、現存在は特定の(どちらか一方の)可能性を選択せざるをえないからであ

る。一方、そのことは、可能性としては、あり得ることである。なぜなら、可

能性としては、現存在は、どちらの可能性もあることを自覚できる(つまり自

己に関係あるものとして知ることができる)からである。

以上より、本来性/非本来性という観点から見た、不安とは、、、、

、「可能性そのも、、、、、、

のとしての本来性、、、、、、、、

(そのもの、、、、

)」のことであり、、、、、、

、その対象は、、、、、

、可能性そのもので、、、、、、、、

あること、、、、

、また、、

、可能性そのものという言葉が示すとおり、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、現実的にはその、、、、、、、

「本、

来性そのもの、、、、、、

」を経験することはできないが、、、、、、、、、、、、、

、可能性としては、、、、、、、

、自覚している、、、、、、

ということになる。

4.この論文で示された疑問の確認とそれへの回答

4.1.疑問の提示

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最後に、この論文において示された疑問に回答したい。その疑問は次のよう

なものであった。 疑問 Q:世界の無意義性と内世界的存在者の無意義性とはどういう関係にある

のか、そして、内世界的存在者の無意義性を根拠にして世界がその世界性にお

いて押しつけがましく迫ってくるとはどういうことか(本稿2.2.1より)。

4.2.疑問 Q への回答

では疑問 Q を考えよう。まずは語句の意味を確認する。 まず、「世界」には、「世界内存在そのもの」(の世界)と「特定の世界内存在」

(の世界)とがあったことを確認しよう。ここでの「世界」はどの意味だろう

か。だがここでは「世界」の意味を確定させずに記述を進めていく。なぜなら、

世界内存在という体制を持つ現存在が本来的か非本来的かで、扱うべき「世界」

の範囲も変わってくるからである。そこでまずは「世界の無意義性」と「内世

界的存在者の無意義性」の記述をそれぞれ確認していこう。 以前の記述に従えば、「世界の無意義性」とは、世界の特徴である適所全体性

(つまり道具を道具ならしめる現存在の行為を可能にするもの)が崩壊した状

態のことであった。そこで現存在は、その道具(たとえばハンマー)を用いて

行為することができなくなる。なぜなら、現存在はそもそもその道具を道具と

して(たとえばハンマーをハンマーとして)みなすことができなくなるからで

ある。

また「内世界的存在者の無意義性」とは、現存在が特定の、、、

内世界的存在者(た

とえばこの、、

ハンマー)を意味あるものとして見なせなくなることである。たと

えば、現存在がいま使っているハンマーが壊れてしまって使えない状態のこと

である。だが、このハンマーを交換してしまえば、現存在は行為を再開できる

わけである。つまり、世界の無意義性とはそもそも内世界的存在者が何である

かが決められなくなることであり、内世界的存在者の無意義性とは、特定の内

世界的存在者がその機能を失うことである。

したがって、以下のことが帰結する。それは、世界が無意義になれば、、、、、、、、、、

、内世、、

界的存在者もまた無意義になるが、、、、、、、、、、、、、、、

、内世界的存在者が無意義になったからとい、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

って世界もまた無意義になるとは限らない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、ということである。 では次に、「世界」について考えよう。「世界」には「世界内存在そのもの」

と「特定の世界内存在」とがあった。では「世界内存在そのもの」と「特定の

世界内存在」との関係はどのようになっているだろうか。

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両者を可能性の観点から考えれば、世界内存在そのものは可能性そのものの

ことであり、特定の世界内存在は特定の世界内存在の可能性のことである。可

能性そのものは特定の世界内存在を相対化し続けるが、それは可能性そのもの

なのだから実体がない、つまりは概念であると言える4。そして世界内存在その

ものは可能性そのものであるがゆえに無意義性でしかない。 一方、特定の世界内存在は現存在の行為を可能にする適所全体性を特徴とす

るのだから、有意義性を持つ。だが、この有意義性は可能性そのものにさらさ

れたときには、相対化され無意義性となることがある。再び有意義性を取り戻

すには、その特定の世界内存在は、これまでとは別の特定の世界内存在になら

なければならない。 とはいえ、特定の世界内存在はあくまで日常性であり、有意義性を保持する

ものであるから、それは可能性そのものにさらされているからといって、すぐ

に無意義になるわけではない。特定の世界内存在には恒常性維持という機能も

ある、と考えられるのである。そう考えなければ、われわれは日々、滅茶苦茶

な行為をしていることになるからである。 そして最後に、扱うべき「世界」の範囲を決める、現存在について考えよう。 現存在の体制は世界内存在であった。そして本来的な現存在は世界内存在そ

のものを開示しているのに対して、非本来的な現存在は開示していなかった。

つまり本来的な現存在において世界を考える場合には、特定の世界内存在だけ

でなく、世界内存在そのものも考えることができるが、非本来的な現存在にお

いては、特定の世界内存在だけしか考えられないことになる。 では、本来的な現存在にとっては、世界の無意義性と内世界的存在者の無意

義性とはどのような関係にあるだろうか。それは、 「世界内存在そのものの無意義性にさらされている特定の世界内存在はす

ぐに有意義性を失うわけではないが、やがてそれを失う。そしてその特定の

世界内存在が無意義になるときには、内世界的存在者もまた無意義になる」、 というものである。そして、本来的な現存在は、

4 ただし、正確に言えば、可能性そのものとは、概念にならないものを無理やり概念化したもの、

と言える。なぜなら、可能性そのものとはそれ自体では、よくわからないもの(つまり無規定)

であるからである。だがここで、次のような批判が考えられるかもしれない。「可能性そのもの

は無規定だというが、それを「何かよくわからないもの(つまり無規定)」として規定してしま

っているではないか。可能性そのものはその無規定という規定をも裏切るのではないか」。この

批判は一面において正しいと思われる。なぜ一面において正しいのかといえば、たしかに、可能

性そのものは規定できないにもかかわらず、それに無規定という規定がなされてしまっているか

らである。またなぜ完全には正しくないのかといえば、そもそも、可能性そのものは無規定であ

るという定義は、内世界的存在者と可能性そのものとの比較においてなされたものであるからで

ある。つまり可能性そのものは直接的に定義することはできないが、内世界的存在者との比較に

おいて間接的に定義することはできるのである。

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「内世界的存在者が無意義になったからといって、そのために特定の世界内

存在もまた無意義になるということにはならない」、 ということを自覚することができる。なぜなら、本来的な現存在は世界内存在

そのものを開示しているのだから、その現存在は、特定の世界内存在が無意義

になったのは、世界内存在そのものの無意義性が原因という場合もある(また、

内世界的存在者が無意義になったのは内世界的存在者そのものに原因がある)、

と考えることができるからである。つまり、本来的な現存在は特定の世界内存

在が無意義になったのは、「なるべくしてなった」というようにも考えられるわ

けである。 一方、非本来的な現存在の場合はどうだろうか。非本来的な現存在は、世界

内存在そのものを開示していないのであった。したがって、非本来的な現存在

は、「内世界的存在者が無意義になったからといって、そのために特定の世界内

存在もまた無意義になるということにはならない」ことを自覚することはでき

ない。なぜなら、非本来的な現存在は、特定の世界内存在を無意義にする原因

を内世界的存在者にしか求められないからである。つまり、非本来的な現存在

は特定の世界内存在が無意義になったことに必ず特定の原因を求めるわけであ

る。だから、非本来的な現存在は、特定の世界内存在が無意義になったことに

対して「なるべくしてなった」という態度ではなく、「(無意義に)ならずにも

いられるのになってしまった」という態度を取ると言えるのである。なぜなら、

非本来的な現存在は、必ず特定の原因を求めるがゆえに、その原因を自らの努

力で事前(もしくは事後)に排除すれば、無意義に陥ることはないと考えるか

らである。 したがって、「世界の無意義性と内世界的存在者の無意義性とはどういう関係

にあるのか」という疑問には次のように答えられる。それは、本来的な現存在、、、、、、、

にとっては、、、、、

、内世界的存在者の無意義性がただちに世界の無意義性を帰結する、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

わけではないが、、、、、、、

、非本来的な現存在にとっては、、、、、、、、、、、、、

、そのことがただちに帰結する、、、、、、、、、、、、、

というものである。そして、このことは、内世界的存在者が無意義性になった

ときにおいては、両者の行動に差異が生まれることを意味する。それは、本来、、

的な現存在は、、、、、、

、内世界的存在者が無意義になったからといって、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、その無意義性、、、、、、

の原因を探査し排除するような行為に出ることはあるかもしれないが、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、その行、、、

為に出たとしても、、、、、、、、

、その原因と推定したものを排除しない可能性を保持した上、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

であるのに対し、、、、、、、

、非本来的な現存在は、、、、、、、、、

、そのような場合には、、、、、、、、、

、ただちにその原、、、、、、、

因を探査し排除するような行為に出る、、、、、、、、、、、、、、、、、

。なぜなら、本来的な現存在は、、、、、、、、、、、、、

、可能性、、、

そのものという排除できない別の原因を知っているのに対し、非本来的な現存、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

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在は、、

、それを知らないからである、、、、、、、、、、、、

、というものである。

では次に、「内世界的存在者の無意義性を根拠にして世界がその世界性におい

て押しつけがましく迫ってくるとはどういうことか」について考えてみよう。 まず「世界がその世界性において押しつけがましく迫ってくる」とは、現存

在が世界の無意義性に強制的に開かれることを意味する。では、なぜそのこと

は「内世界的存在者の無意義性を根拠にして」行われるのか。 そもそも「内世界的存在者の無意義性を根拠にして世界がその世界性におい

て押しつけがましく迫ってくる」のは、現存在が不安を開示するときのことで

あった。そして、不安を開示する以前においては、現存在は非本来的であり、

非本来的な現存在は、世界内存在そのものを開示していないのであった。この

ことは、非本来的な現存在は、世界の無意義性について、まだ自覚しているわ

けではないことを意味する。したがって、非本来的な現存在は、内世界的存在

者の無意義性を通してしか、世界の無意義性を開示することができないと考え

られるのである。 だが、本来的な現存在においては「内世界的存在者の無意義性を根拠にして」

世界がその世界性において押しつけがましく迫ってくるとは必ずしも言えない。

なぜなら、本来的な現存在は、すでに世界(内存在そのもの)の無意義性を自

覚しているのだから、内世界的存在者が無意義性の場合だけではなく、特定の

世界内存在の無意義性の場合でも、世界(内存在そのもの)の無意義性が押し

つけがましく迫ってくることがわかるからである。 つまり、「内世界的存在者の無意義性を根拠にして世界がその世界性において

押しつけがましく迫ってくるとはどういうことか」という疑問には次のように

答えられる。それは、非本来的な現存在は、、、、、、、、、

、内世界的存在者の無意義性の場合、、、、、、、、、、、、、、、

においてのみ、、、、、、

、世界の無意義性が開示されると見なすが、、、、、、、、、、、、、、、、、、

、本来的な現存在は、、、、、、、、

内世界的存在者の無、、、、、、、、、

意義性の場合だけではなく、、、、、、、、、、、、

、特定の世界内存在の無意義性、、、、、、、、、、、、、

の場合においても、、、、、、、、

、世界の無意義性が開示されると見なす、、、、、、、、、、、、、、、、、

、ということである。

そしてこれは、世界の無意義性が迫ってきたときに、、、、、、、、、、、、、、、、

、非本来的な現存在は、、、、、、、、、

、そ、

れが特定の世界内存在の無意義性であるのか世界内存在そのものの無意義性で、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

あるのかを区別できないのに対し、、、、、、、、、、、、、、、

、本来的な現存在は、、、、、、、、

、それを区別することが、、、、、、、、、、

できる、、、

、ということを意味する。

以上より、疑問 Q において問題になっていたのは、本来的な現存在と非本来、、、、、、、、、、、

的な現存在とのあいだには、、、、、、、、、、、、

、認識や視野の非対称性とでも呼ぶべきものがある、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

こと、、

、だったことがわかる。本来的な現存在のほうが、、、、、、、、、、、

、非本来的な現存在より、、、、、、、、、、

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も、、行為のタイミングや行為そのものの選択肢が多いという意味で視野が広い

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

のである。 以上で疑問 Q に対して、一定の結論は出せたかと思われる。

5.おわりに

これまでは、恐れ、不気味さ、不安といった情状性の内容または関係を比較

することで、現存在の構造(の一端)を示してきた。では、この論文で示され

た構造は、自らの死の了解という現象を理解するうえで、どのように貢献する

のだろうか。このことを(示唆にとどめるが)簡潔に示して、本稿の結びとす

る。 ハイデガーによれば、現存在(この自己)にとっての死とは、現存在が生き

ている以上、実際におこる他人の死とは違って、可能性としてのみ捉えられる

ことと考えられている(SZ 250/Ⅱ289)。 だが、現存在は死の可能性をいつも同じように捉えているのだろうか。現存

在には、本来的な現存在と非本来的な現存在とがあった。したがって現存在が

本来的か非本来的かで、この死の可能性のとらえ方も違ってくると考えられる。

しかるに、本来的であるのか非本来的であるのかは、ある対象に対して、その

現存在の情状性が不安であるのか恐れであるのかで決まってくるのであった。

ある対象に対して、現存在の情状性が不安であれば、その現存在は本来的であ

り、現存在の情状性が恐れであるならば、その現存在は非本来的なのである。 では、ハイデガーは不安や恐れという観点から死を語っているのだろうか。

語っているのである。ではどのように語っているのだろうか。たとえば、以下

のように語っている。

死のうちへの被投性が現存在に、いっそう根源的に、またいっそう切実に

露呈するのは、不安という情状性においてなのである。死に対する不安は、

最も固有な、没交渉的な、追い越しえない存在しうることに「直面する」と

きの不安にほかならない。こうして不安の対象は、世界内存在自身なのであ

る。こうした不安の理由は、落命に対する恐怖と混同されてはならない。死

に対する不安は、個々人にあらわれる気ままな偶然的な「弱々しい」気分で

はなく、それは現存在の根本情状性なのだから、現存在がおのれの終わりへ

とかかわる被投的な存在として実存していること、このことの開示性なので

ある。 (SZ 251/Ⅱ289-290)

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死に対する不安において現存在は、追い越しえない可能性に委ねられてい

るものとしてのおのれ自身に当面させられる。世人は、こうした不安を、到

来しつつある一つの事件に対する恐れに逆転させようと、配慮的に憂慮する

のである。 (SZ 254/Ⅱ297)

この論文で示した現存在の構造に即しつつ、『存在と時間』における死につい

てのこの記述(やその他の記述)を解釈することで、自らの死の了解について、

より網羅的、より根源的に考えることができるのではないだろうか。このこと

を具体的に示すのは今後の課題としたい。

文献一覧

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