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Hitotsubashi University Repository
Title 戦後インドネシアの土地問題 : ジャワを中心に
Author(s) 宮本, 謙介
Citation 一橋研究, 3(1): 1-16
Issue Date 1978-06-30
Type Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL http://doi.org/10.15057/6436
Right
戦後インドネツアの土地問題
一ジャワを中心に一
宮 本 謙 介
<はじめに〉
インドネシアで1965年9月30日のクーデターが起こってすでに10年以上が経
過した。この事件は内外の研究者の間で様々な反響を呼んだにもかかわらず・
インドネシア現代史に対する科学的分析,とりわけこの事件に直接的に連係す
るスカルノ体制についての本格的研究は・やっとその緒についたぱかりという
現状にある。いわゆる「9・30事件」の歴史的性格の分析は,単にこの事件の
経緯のみを迫るのではなく,戦後インドネシア社会の特質とそれを自ら変革の
対象とした民衆運動の発展段階およびその質を明らかにすることによって,さ
らにはそれが民族国家の階級的性格をいかに規定したかを問題にすることによ
って,はじめてその全面的解明が可能となると考えられ乱
小論では,紙幅の制約もあるので,上の課題を解明する第一歩として,戦後
インドネシアの土地問題に論点を絞り検討する。オランダ植民地支配下に創出
=歪曲された,プランテーシ目ソ体制を基軸とするモノカルチャー型産業構造
と半封建的生産関係の変革は,民族国家の自立化にとって焦眉の課題であっ
た。以下の本論では,戦後段階における農民運動の歴史的性格が,ナシ目ナリ
ストに主導された共和国政府の土地政策とその実施にどのような影響を与えた
かを念頭において,共和国政府の土地改革の性格を検討する。尚,資料的制約
からジャワを中心に言及する。
I プランテーシ目ンをめぐる土地問題
1945年8月17日の「独立宣言」によって発足した共和国政府は,植民地支配
体制とレて機能した各地方レベルの旧官僚支配体制を根本的な変革の対象とせ
1
一橋研究 第3巻第1号
す,その支配の支柱として戦後段階まで持ちこんだ。同年8月30日,スカルノ
は全ジャワ,マドゥラの旧植民地官僚(Pangreh Praja)を集め,「彼らにふさ
わしい地位を与える」ため,国民委員会地方組織(Komite Nasiona1Daerah
IndoneSia)への旧支配機構の編入を決定している。ωすなわち,官僚層の地位
の保障を条件に,その代償としてスカルノ支持をとりつけたのである。こうし
て,共和国政府は,スカ.ルノら民族主義者を指導者としつつ,インドネシア人
旧植民地官僚を支柱として構成された。
45年革命=独立戦争期ω(1945年8月~1950年8月)においても,国内の
諸勢力の対立を抑えながら「民族独立」の挙国体制を築き,外交交渉によって
「独立」を達成しようとするスカルノ路線が1949年11月のハーグ…円卓協定
(Hague Konperensi Meja Bundar)という結果を生むのは当然の帰結であ
った。この協定は,オランダから連邦共和国への=r主権移譲」一の見返りとし
て,オランダ人の財政上,経済上の特権的地位を保障し,銀行,工場,鉱山,
プランテーションだとの基幹産業部門に関する外国人の特殊権益を回復するこ
とを内容としていた。したがって,オランダ植民地支配の基軸であったプラン
テーション体制についても,1950年代半ばに至るまで,共和国政府にとって何
ら変革の対象とならず,外国費本の支配するプランテーションが独立後もほぼ
そのままの形で持ちこまれた。
やや歴史的に逆上ると,植民地インドネシアヘのプランテーション体制の本
格的導入は1870年の農業二法(Agrar1sche Wet,Agrar1sche Beslu1t)によ
って開始されている。これは,農民の占有権が明薩でない土地に対しては,プ
ランテーション企業が政庁と租借契約を結んでコーヒー,ゴム,タバコたどを
栽培し(主に西部ジャワと外島),すでに農民の占有する土地に対しては企業
が農民と「個別契約」(実際には村落単位で一括契約)を結んで水田に適する
甘藤栽培(主に中,東部ジャワ)を可能にしたもので,事実上,すべての土地
をブラソテ∵シ宮ソの借地対象地とすることを意味していた。しかも,プラン
テーションの経営が農村の半封建的生産関係を巧みに利用したことに注目して
おきたい。すたわち,農民の米作やその他の作物栽培が企業の作成する農業計
2
戦後インドネシアの土地間題
画によって調整されるとともに,村落支配層はプランナーショソヘの労働力の
調達や水田租借に便宜をはかり,プランテーションの支配下に入った。1つの
企業が一定地域の農村経済を支配するのである。とりわけ中・東部ジャワの甘
薦栽培は,オランダ植民地経営の中心的位置(1920年代まで全農産物輸出の7
割近くは砂糖)を占め,ここでは村落支配層の占有する比較的大規模な職田
(後述)の地主経営を基軸とする半封建的生産関係の展開がプランテーシ目ソ経
営の拡大と軌を一にし,企業はかかる土地関係の温存=利用によって適合的に
存立しえた。㈹プランテーションの最盛期といわれる1920年代には,インドネ
シア全土でその総数2,200(ジャワとマドゥラで1,200),その用地面積264万
ha(ジャワでは全耕地面積898万haの11%を占めた),作付面積120万haω
(輪作方式のプランテーションが多いため,その用地と実際の作付面積に差が
生じる。)に達していた。日本軍政期と独立戦争期にはほとんどのプランテーシ
ョンが機能麻痺状態に陥っていたが,r主権移譲」後,共和国政府の外国資産
擁護政策の下で,1953年にはプランテーシ目ン数1458,用地面積233万ha,作
付面積85万haにまで回復している。㈹
政府の妥協的交渉路線による「民族独立」に対して,反プランテーシ冒ン闘
争=反植民地主義闘争によって,経済的にも完全独立をめざしたのは農民や農
業労働者自身であった。
特別区㈹(旧土侯領,ジ目グジャカルタとスラカルタ)では,独立宣言後,
インドネシア農民戦線(BarisanTani Indonesia,以下BTIと略記)の地方
支部が組織され,1946年8月以降,甘薦プランテーシ目ソ用地の占拠とその自
主管理の運動を進めるとともに,1948年には,スルタン(領主)との契約によ
って借入した外国人所有プランテーシ冒ン用地を農民に返還させる運動=転換
権(hakcoversie)廃止運動を展開し,同年4月には,政府規定第13号によっ
て企業への転換権を廃止させるとともに,プランテーシ目ン用地は農民占有地
として返還された。ω
特別区以外の地方でも,1949年12月のr主権移譲」によってプランテーショ
ンの旧経営者への返還が保障されると,独立戦争期からのプランテーション用
3
一橋研究 第3誉第1号
地占拠闘争はさらに拡大し,1954年6月の政府推定によれば,ジャワのみで8
万haを農民が占拠している。㈹
東スマトラのタバコプランテーションでは,第2次大戦中,日本軍によって
食糧ρ強制供出のためにプランテーション用地に米,トウモロコシ,野菜など
の植付が命じられていた。独立戦争の間もプランテーション近隣の村落在住農
民によってその用地が畑地として利用され,農民の自主管理が続いていた。〔9〕
ここでは,BTIが連動を指導し,農民へのプランテーション用地の分配を行
い,反プランテーシ目ン闘争のキャンペーンを展開した。‘”)一方・政府は占
拠農民に対して1950年代初頭に至るも何ら具体策を提示しえなかった。東スマ
トラでは,r主権移譲」後の占拠闘争の高揚によって1951年に旧経営者は13万
hゴを共和国政府に返還することを余饒なくされ,その見返りに12万5千haの
30年間借用を政府に約東させた。政府は占拠農民の登録と返還地への定住を条
件に解決をはかったが,農民側はすべてのプランテーシ目ソ用地の返還を要求
してこれを拒否した。占拠された土地は・東スマトラだけでも1954年の8万
haから1957年には11万5千haに拡大し,農民数にして約50万人に達してい
た。{m
以上のような農民運動の高揚を背景として・1957年末に実施された全オラン
ダ資本系プランテーションの接収=「国有化」は,それまでのブランデージ目
ソと農民経営の矛盾を止揚しえたかに見えた。しかし,接収プランテーシ目ン
の経営=管理は各地方レベルの軍部=官僚によって担われることとなった。57
12年月には,ナスティオソ(陸軍参謀長)指令によって接収されたオランダ資
本系プランテーションが軍の支配下に入り,59年にはスカルノが,軍部による
50年代の一連の地方反乱一掃の代償に,地方自治体の首長を任命制にして多く
の軍人をその地位につけた。この軍部と地方官僚機構の一体化は国営農園公社
の経営を独占することとなった。東部ジャワのジェンコル事件(1961年11月)
にみられるように,軍部が占拠農民を一方的に追放し,しかも華僑資本と結ん
で農産物価格・を統制するに至り,‘12〕農民経営とりわけ占拠農民は,国営プラ
ンテージョ:/との新たな矛盾を深めていった。
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戦後インドネシアの土地問題
こうして,農民の反プランテーシ目ン闘争の高揚は軍部による国営プランテ
ーション経営に結果したのであるが,これは基本的にはこの時期の農民運動の
質に規定されているように思われる。50年代の農民運動を総括することとたっ
た1959年インドネシア共産党(Partai Komunis Indonesia,以下PKIと略
記)全国農民会議で,主報告を行ったPKI第1書記ニョト(Nyoto)はこの時
期の農民運動が反プランテーション闘争などで多くの成果を勝ちとったとしな
がらも,その組織面における質的脆弱性にふれてrPKI幹部やBTI指導者が
村長や役人の地位につぎ,自ら好んで地主的利害に安住している」(I4〕と批判
するとともに,地主・富農主導型の運動の克服を提起している。このことは,
PKIやBTIの組織的浸透のあり方が,典型的には村落の上層部分から共同体
的な結合原理を利用して進められたであろうことを想起させる。たとすれば,
それが反プランテーション闘争において有効でありえても,逆にいえば反プラ
ンテーション闘争に一面化していったがために・オランダ植民地支配によって
温存=利用されてきた農村の前近代的諸関係を根本的な変革の対象としえず,
むしろ共同体的結合が村落における地主支配の道具として存続したであろうこ
とは想像に難くたい。こうして,60年代の農民運動は反軍部官僚闘争と反地主
闘争を主要な課題としなければならなかった。
皿 農地基本法の制定
農地基本法は,共和国政府が初めてその体系的な土地政策として提起したも
のであった。本節では,1960年9月24日に発布された「農地の基本に関する
1960年法律第5号」(一般にはこれを農地基本法と呼んでいる)を中心に,それ
に関連する一連の農地法を一括して検討し,その基本点を明らかにする。尚,
ここで言う一連の農地法とは次のものを指すが,小論ではこれらを総称して農
地基本法と呼ぶ。
①1960年9月24日「農地の基本に関する1960年法律第5号」(Undang-
undang No5tahun1960tentang Peraturan Dasar Pokok-pokok
Agraria,以下UUPAと略記)
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一橋研究 第3巻第1号
② 1960年10月10日「農地基本法の1部規定実施に関する農業大臣令1960年第
2号」(Peraturan Menteri Agraria No.21960tentang Pelaksanaan
beberapa ketentuan UUPA,以下PMAと略記)
③1960年12月29日r農地面積決定に関する法律に代る政令1960年第56号」
(Peraturan Pemer1ntah Penggantl Undang-undang tentang Penetapan
Luas Pertanian No.561960,以下UU No,56.1960と略記)
④1961年4月15日「1961年大統領決定No.131」(KeputusanPresiden
No.131tahun1961,以下KP No.131.1961と略記)
⑤ 1961年9月19日「土地分配実施とその保障についての1961年No.224政府
規定」(Peraturan Pemerintah N0224Tahm1961tentang Pelaksanaan
Pembagian Tamh dan Pemberian GantiKerugian,以下PP No.224.
1961と略記)
まず,農地基本法制定の意義については,UUPA前文において次のように
述べている。「現在まで存在していた農地法は,植民地政府に奉仕する目的お
よび原則を基礎に作られたもので,また部分的にその影響を受けてぎたので,
国民的革命と一般的発展の現段階では,人民および国家の要求に反しているこ
と,・・…・帝国主義者により作られた現行農地法は,現住民に対しては毛はや法
律的妥当・性をもたないこと。」ωすなわち,植民地的土地法とその影響をうけ
た土地関係の変革をめざすことを明らかにしているわけである。それではこの
ような目的を持つ農地基本法は,個々の諸問題にどのように具体的に対応して
いるであろうか。
上に示した農地に関する諸法律は,きわめて多様な内容から成り立ってお
り,量的にもそれぞれがかなり膨大であるので,ここでは重要と考えられる問
題を項目別に整理した。その項目とは,①土地所有権,②所有面積規模,③政
府による土地買上げ方法,④農民が土地を入手する方法,⑤職田,以上5項目
である。次にこれらの各項目について,関連する法律の内容を示しながら検討
することにする。
(1)土地所有権
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戦後インドネシアの土地問題
農民の土地所有権に関しては次のように規定している。
la〕「法律発効時に現存する土地所有権は引き続き所有権とたる」05〕(UUPA
第2部第ユ草)
lb〕「永久的性格を有し,かつ本法実施時に現にあるゴコール,(Gogo1),ペ
グレン(Pekulen),サソガン(Sanggan)地の諸権利は・…・・所有権とな
る」㈹(同上,第2部第7条第1項)
lc〕「村落の自律的な土地分配,割替はすべて禁止し,第2級自治体(県)
の土地委員会がこれを処理する」u7)(KP No.131.1961,第6条第3項)
一般にオランダ植民地時代から農民の土地占有は「村落処分権」 (desabe
scbikkingsrecht)の土地に対する強弱によって「共同的占有地」(cOmmmaal
grondbezit)とr個人的占有地」(individueel:9rondbezit)に区別されてき
た。土地のr個人的占有」とは,売買,質入などの土地権の移動にあたって,
一定の共同体規制をうけるのみで,用益権,相続権が農民の手にある土地占有
を言う。これに対して「共同的占有」とは,村落から農民に割りあてられる土
地で,農民は用益のみを認められ,土地の処分,相続は許されない。ここでは
土地に対する共同体規制が強く働き,定期的割替によって耕作機会の均等化が
はかられていた。同じr共同的占有」でも割替が行なわれず,占有地を固定し
てその用益を認めるケースがあり,これは「個人的占有」と割替による「共同
的占有」の中間形態として位置づけられる。以上のような土地占有の諸形態が
歴史的にどのような推移をたどったかを示したのが第1表である。これを見て
も,19世紀末から20世紀にかけては「共同的占有」から「個人的占有」への移
行期にあり,共同体規制の一定の弛緩が読みとれる。しかし,オランダ植民地
主義の慣習法温存政策は村落共同体を容易に解体することなく,村落行政の統
合・整理によって共同体を擬制化させつつ存続させ,半封建的生産関係を生み
たすとともに上記の土地占有関係は戦後段階まで再生産された。
農民の土地占有の諸形態に対して,農地基本法はこれを土地所有権として認
める方向を打ち出している。lb)ではゴコール地のような「共同的占有地」を土
地所有として認め,さらにlC〕によって村長や村落会議の土地処分に関する慣習
7
一橋研究 第3巻第1号
法的麿限をなくし,農民の土地権に介入することを法的に禁止している。この
ように,農民に土地所有権を付与し,農民的土地所有権を確立する方向を示し
ていることは注目される。
(2)所有面積規模
1農家に対する農地の制限面積は,その上限,下限を次のように定めてい
る。
r当該地方の人口,面磧,その他の要因を考慮した後,面積の最大限度
を次のように決定する。㈹
水田 畑地
11人丁度:1二二;。r単位)1:㍗1㎞
:1練~400人 ;511」
(UlJNo.56.1960,第1条第2項)
「家族の人員が7名をこえる場合は,制限面積は超過人員1名につぎ,
10%を加えるものとする。ただし,この追加分は50%をこえてはなら
たい。また,水田,畑地を間わず全支配面積が20haをこえてはならな
い。」㈹(同上第2条第1項)
「政府はすべての農家が最小限度2haの土地を所有できるよう施策を
すすめる。」例〕(同上第8条)
以上の決定によれば,ジャワのような人口過密地方でも1農家が2ha以上,
5ha以下の土地所有が可能と考えられているようである。しかし,第2表か
らもわかるように,圧倒的多数のジャワ農民の土地占有視漢はO,5ha以下で
あり,ジャワではすでに1940年段階で1農家平均耕作画蹟がO・2haに満たた
いこと側〕からしても,上記の如き政策が容易に実現されるものとは考えられ
ない。
(3)政府による土地の買上げ方法
上述の農地制限面積を上回る土地を所有する農家に対しては,政府が上限
8
戦後インドネシアの土地問題
超過分を次のような方法で買取ることにしている。
「上限面積をこえる土地の処分は,当該地方の第2級自治体(県)の土
地改革委員会が決定する。すなわち過去5年平均の収穫量によってその価
格を決定する。
(a〕5haまでは1年の収穫量の10倍
(b〕5ha~10haまでは1年の収穫の9倍
(c〕それ以上は1年の収穫量の7倍」工酬(PP No.224.1961,第6条)
政府が買上げようとする土地は,前掲第2表からもわかるように,その大部
分は地主や富農の土地であろう。地主の土地集積を防止しようとしているよう
であるが,それはあくまで土地の有償没収によってである。
政府は,土地買上げと貧農への分配計画を第1段階(ジャワ,マドゥラ)と
第2段階(それ以外の諸島)に分け,第1段階の余剰地は337,仏5ha第2段
階の余剰地は152,502haであると発表した。〔洲また,農業相の報告によれ
ば,第1段階の地域において土地買上げの対象となる者は55,910人となってい
る。伽〕
(4)農民が土地を入手する方法
2ha以下の土地しか所有しない農民が,政府から土地分配を受ける場合
は,次のような条件が課せられている。
r土地を得る農民は,最大限2年間,政府に収穫物の2分の1か,現金
たらば相当価格の3分の1を支払うことによって,その土地所有権を得
る」(舳(PP No.224.1961,第14条第1項)
r(所有権を得た後)農民は旧所有者に対し,政府支払い価格分を政府に
代って支払わなければたらたい。その支払いは現金一括払いか,年3%利
息の15年分割払いで行なう。」㈹(PP N6,224.1961,第15条)
このように政府から土地の分配を受ける農民は,その土地を政府と地主から
買取る形とたる。貧農や農業労働者に対する無償分配ではない。ただし,農民
が土地分配を受ける場合には「制限面積をこえる所有地で農業労働者があるい
は小作人として働いていた者,またO.5ha以下の土地しか所有していない農
9
一橋研究 第3巻第1号
民」に優先権があるとしている。伽〕(PP No.224.1961,第8条)また,「質地の
回復」については「7か年以上を経過する質地に基づき農地を支配する者は,
現存する作物の収穫を終った1か月以内にその土地を所有者に返還しなければ
ならない。」ω(UU No.56第7条)と定め,質地地主の防止と質地の旧占有者
への返還を義務づけている。
(5)職 田
地主所有地に対しては,政府が有償没収することによってその土地集積を
防止する方向をうち出しているが,村長や村役人の職田についてはどうであ
ろうか。
「一時的かっ制限的権利,その他の権利に基づいて支配される土地は面
積制限規定の適用を受けない。」‘洲(UU No.56.1961,第1条第4項)
すなわち,村落の職田は面積制限規定の対象外となっているのである。
ジャワでは,伝統的に村落レベルの役人層には上級機関からの俸給がない
ため・その代償に職田が割りあてられていれ職田はその性格上・相続・処分
は許されないが,役職に任期がないため数十年にわたって占有することがあり,
村落支配層の経済的基盤を成してきた。農民の平均占有規模が1バウ(=O.71
ha)に満たないのに対して,村長の職田は10~20ハウを占めるといった村落が
しばしばあり,職田規模は村落内における権限の強さのあらわれでもあった。
㈹職田経営については,古くは村落内の耕地占有者全員に課せられた村落賦
役義務(desad1enstp11chtlgheld),とくに村長に対する無償労働奉仕を義務づ
けた賦役=パンチェンディーソスト(pancend1enst)によってまかなわれた
が,1882年にバンチェソデイーソストの人頭税への切りかえ措置が講じられる
とともに,職田経営は特定の小作人による地主経営となった。こうして,経済
外強制に基づく職田地主は,インドネシア地主制の主要た1形態となったので
あるが,戦後段階では一部の地方で農民運動の高揚による職田削減がみられ
た岨Dものの,基本的には農地基本法制定時点まで存続した。
小論ではジャワの地主制について言及するだけの十分な準備はないが,その
地方的特質を大ざっぱに述べるならぱ,中・東部ジャワでは比較的大規模な職
ユO
戦後インドネシアの土地間題
田地主を中心にそれ以外の中・小地主の存在が考えられるのに比して,西部ジ
ャワでは職田規模が小さく歴史的に早くから土地のr個人的占有」権が確立し
ていることもあって(第1表参照)職田占有以外の大地主の存在が著しい。第
2表からもわかるように,20ha以上の土地占有者はその6割強が西部ジャワ
に集中している。したがって農地基本法が実施されれば西部ジャワを中心とす
る大地主,中・小地主には打撃になったであろうことは疑いないが,職田が面
積制限の対象外となっていたことから,中・東部ジャワの職田地主には手がつ
けられず,地主の土地集積を防止せんとする施策も限定されているといわざる
を得ない。
以上,農地基本法の内容を小論との関連で重要と考えられる点に即して検討
した。農民的土地所有を確立する方向を明らかにしているものの,地主所有地
は有償没収であることや,貧農への土地分配は農民が土地を買取る方法で行な
われること,さらには職田が面積制限規定の対象外となり,この点では地主制
が容認されていること等,総じて政府が示した土地政策は,植民地的土地関係
=半封建的土地占有関係の根本的止揚をめざすものではなく,農村における地
主支配に対して妥協的性格のものであるように思われる。かかる土地改革の不
徹底性はスカルノ体制の階級的基盤の反映とみるぺぎであろう。
一方,BTIは,農地基本法が地主の土地独占を完全に禁止したものではな
く,一定の制限を加えたものにすぎないとしながらも,「農地基本法が完全に
実施されれば,それは改良的施策として有益である」ω〕という評価の下に,ス
カルノ体制の基盤の民主主義的確立をめざす方向をとった。BTI rは土地改革
実施の最大の障害が地主=地方役人,あるいは地主と血縁関係にある役人の
『抵抗』である」㈹として,農地基本法の内実を作る運動を農民自身が展開す
ることによって,反地主闘争と反軍部官僚闘争に一定の有効性を持たせうると
判断したのである。また,1960年1月に政府が地主と小作人の取分を最小限
5:5の比率にすべきことを立法化した小作法(収穫物分配協定法)について
も,BTIはこれをさらにすすめて4:6にする小作率修正運動を反地主闘争の
一遇とすべきことを決定している。㈹こうして,50年代の地主・富農主導型と
11
一橋研究 第3巻第1号
いう農民運動の質的脆弱性の克服を課題とする反地主闘争は,63年末から65年
前半にかけて,農地基本法の実施を実力で地主にせまる「一方的行動」(aksi
sepihak)へと進んでいった。
すでに与えられた紙幅もつぎるので,反地主闘争や反軍部官僚闘争の具体的
内容は割愛せざるを得ない。以下では1965年までの運動の到達点についてのみ
言及する。
まず,小作法に基づく小作契約については,64年11月の政府発表では成立し
た小作契約は25,345件となっている。㈹また,農地基本法については,1965年
初頭に政府は上述の土地買上げと分配計画の第1段階が完了したと発表した
が,これに対してPKIはr64年1月に第1段階の地域で19万haが分配され,
これは政府計画の57%にあたるが,その大部分は地主による親族への土地の名
義変更という形式的分配であり,これを除くと実際には計画の9~1O%程度が
完了したにすぎない」㈹と批判している。土地の名義変更などによって上限面
積をこえる土地買上げを免れようとする地主や,地主的利害と緒びついた軍部
=官僚層の妨害で実際には政府の土地分配計画が形式的なものに留まっていた
であろうことは想隊に難くない。1954年に80万であったBTI組合員は1964年
には約9倍の710万人を擁するに至り,中部ジャワのクラトン地方を中心とす
る「一方的行動」が一定の成果を獲得していたとしても,=3τ〕全国的に見ればそ
の反地主闘争は65年に至る過程でやっとその緒についたぱかりであったといえ
よう。
資料上,紙幅上の制約から論証不足の点も多いが今後の課題とするしかな
い。最後にスカルノ体制の評価に関して付言するならば,最近ではこれを諸勢
力の「階級協調」路線とする理解㈱や,スカルノ体制成立時にすでに人民的
性格を持っていたとする見解㈹もあらわれているが,筆者には,1965年に至
る過程でスカルノ個人がいかにPKIとの同盟を強め,いかに反帝国主義の姿
勢を強化したとしても,一そのこと自体は労農運動高揚の反映であることは
言うまでもないが一軍部および軍部と一体化した官僚機構に依拠せざるを得
12
戦後インドネシアの土地問題
なかったというスカルノ体制の階級的基盤に規定された社会経済構造の後進性
は致命的であったように思われる。スカルノ体制論もかかる視角からの再検討
が必要であろう。
第1表ジャワ地方別土地占有形態推移(櫟ウ蝋温)
年
1共同的占有個人的占有L L」L皿⊥II
@ 1持分固定1定期割替職 田 △口 計
1882 642 131 23 50 846
西部ジャワ1932 1854 99
一35 1987
■ ■
i882 。。。1460 310 1931 1483
中部ジャワ1932 1360 333 45 146 1884
1882 658 I59 457 97 1371
東部ジャワ1932 2247 165 251 187 2781
(出典)J.W.de Steppelar,“De aard van het Inlandsch Bezetr㏄ht op Java
en Madoera,”Ko’o〃m’〃〃∫c〃柳,1937,blz.399.
第2表 土地占有規槙別農民数 (1960年)
O.5ha
ネ下O.6~1 1.1~2.O 2.1~5.O 5.1~1O 10.1~20
20ha
ネ上
西部ジャワ 1395,307 359,424 156,2I6 56I283 3,153
■1.449 363 ≡
中部ジャワ 1388,352 405,067: 115,304 25,787 3,265
■905 111
@一
東部ジヤワ 933,615一 464,532・ 167,565 40,954 4,369. 577 93
合 計 3717,274 1229,023 439,085 123,024, 1O,787≡ 2,931 567
(出典) Utr㏄ht Fmst、“Land Reform Indo皿esia,”Bm〃2肋oグ∫〃θme55伽
亙cono刎た∫〃〃e∫V,No.3.1969,p.76.
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一橋研究 第3巻第1号
別表
調査村落名1調査年1人1 村長の耕地面積 職 田
西部ソヤワ 一 隼
①スカブミ県 !1943
チマヒ村
中部ジャワ,
②パティ県 ≡1929
ンガブラック村
中部ジャワ
③プルワルジャ県
クニル村
1923
中部ジャワ
④パティ県
プルンガン村
中部ジャワ,ショi
⑤グジャカルタ土侯
領ツームット村
1956
東部ジャワ
⑥マラン県
タシマンド村
1943
1943
4330
人1
!個人的占有地 352
1織 田 9
ha
不
ha
明
耕地占有者11人当たりrの占有規模一
ha!
O.69
2608
1個人的占有地1・・1
共同的占有地 19
職 田・・「
1578 一
18
個人的占有地 13β
1I■
一9
O,96
職 田 21
0.71
1792
1個人的占有地…
1719
1766
共同的占有地 43
職 E目 31
個人的占有地 87
職 E日 20
3.2
個人的占有地 61
共同的占有地 138
職 田 12
4.4
O.48
O.5
O.59
(1主)
(1) Benedict Andrso皿,∫mα伽αηm2θア五mθ〃〃。n,j944-46,U皿iv.1972,
P.l13.
(2)45年革命については・木村宏恒「インドネシア革命論の一視角」r政治研究』第
21号参照。
(3) この点についての実証的検討は別稿で行う。
(4) 00〃〃7ασ’ κσnチ00プ〃θθプae ∫’”κ∫κ色々ノ”a’sc此 γe7∫’σξ エ93フーI,Jakarta,
Landsdrukke1・ij.b1z.258_261.
(5) インドネシア中央農園局統計,月刊『インドネシア』No.130,日本インドネシ
14
戦後インドネシアの土地問題
ア協会,P.40.
(6)植民地時代に最後までスルタン(領主)の在地における支配権が温存された中
部ジャワの旧土侯領。とくにジョクジャカルタはジャワでも有数の水田地帯で,
1918年の土侯領借地法制定以降,戦後まで27の甘蕨プランテーション企業が2万
2千haの水田(ジョクジャカルタ水田の35%)をスルタンとの契約で借入し
ていた。KemeIlterian penerangan、灰e〃〃泌∫〃θm∫伽,Dmm此∫∫2伽刎”
γo鮒α尾α肋,Jakarta,1953,h.501、
(7) Selosoemarja皿.5oc〃0地n8e∫加γo〃励〃物,Ithaca,N,Y.,1962,p.369,
Kementerian Pe皿erangan,Re〃舳后∫naom∫わ,Pm伽舳{ルm棚 Tm8〃,
Jakarta,1953,h.102.
(8)長田秋男『インドネシアの農業経済』農林生産業生産向上会議,1958年,p・
240.
(9) Kementerian Penerangan,Reψ〃〃肋∫maone5{”,一P70φ’〃∫{∫m〃m〃”σ’”7α.
Jakarta,1953,h,536一一543.
(lO) Karl.J.Pelzer,“The Agrar三a皿 Conf1ict in Fast Sumatra”,P掘。mc
λ〃。か∫XXX No.3,p.154.
(11)ibid.,P,152.
(ユ2) Barisan Tani Indonesia,σ〃〃D¢mo后m35,τm励pm〃尾5‘a伽〃わn
B””α’,Jakarta,1962,h.49.
(13)B〃mξMem〃、Maret,1959,h.135.
(14)rインドネシア資料集』下巻,日本国際間題研究所インドネシア部会編p・l1O.
(15) 同上・p.122.
(16) 同上,レ124.
(17) Asm凹,M”5〃励一m刎〃〃工m〃ψ〃m,Jakarta,1964,11.23.
(18) Boedi正Iarsono,ひ〃6αmg-mm6”me-Pθ尾θ尾ノ18”α〆α,Jakarta,1961,11,142.
(19)前掲『インドネシア資料集』下巻,p.143、
(20) 同上,p.144、
(21)深沢八郎「インドネシアの土地問題」r農業総合研究』1950年10月号p.一65・
(22) Asmu,6.d.,b.1O.
(23) Utrocht1≡:mst,“Land Refor㎜in Indonesia”,B”〃e〃〃 θゾ∫〃θm5{例
S切棚ω,VNo.3.1969,p,77.
(24)〃払,P.78.
(25) As㎜u,〆.d.,h.11.
(26) δ.6.,h,11.
(27) d.4.,h113.
(28)〆.6.,h.τ
15
一橋研究 第3巻第1号
(29)前掲『インドネシア資料集』下巻,p.143.
(30)本文で言及した土地占有の諸形態や職田占有に関しては,戦前,戦後の個別農
村実態調査を利用したが,その中のいくつかの村落について,その土地占有規
模,職田規模などを示すと別表の如くである。
①⑤⑥は「西ジャワにおける小作制度」アジア経済研究所所蔵・岸幸一資料
集,マイクロフィルムNo.K31,②はD.H.Bu㎎er,“De desa Ngablak
(regentschapPati)in1869en1929,”KoJθ〃m’S切”m,Vol.17.1933.③
はC.L.van Doorn,∫cゐ〃5砂σn aeεco〃。m’3c此召。励m扱浩e〃椛8ae7σグ6m〃m8
Poemαm肋.WeItemden,G.Ko1ff,1926.④はBachtior Rifia,石井淑音訳
「インドネシアの土地所有形態と農民階層の実証的研究」『国際食糧農業』第9巻
第4号。
(31)中部ジャワ・パティ県のプルンガン村(desaBulungan)とングルンシテ4村
(desa Ngure皿siti)を調査したBachtior Rifiaによれば,当該地方では「独
立後職田の一部を小作農に分配すべしという農民運動にあい,削減された例が多
い」という。前掲論文p.31.
(32) Asmu,d.d.,h.5.
(33) BTI,6.δ.,h.59.
(34) Rex Mortimer,∫maom5’酬Com刎吻必刎mma〃∫ω肋mo,Comell Univ.,.
1974,p.288.
(35)伽”,P.290.
(36)捌∂。,P.290.
(37) ∬〃’mκα伽〃,Apri130.1964.
(38)桐山昇「インドネシア・ナショナリズムと国家建設」r苦悩するアジアの民族』
時事通信社,p.117.
(39)木村宏一郎「スカルノ体制についての一考察」r研究と評論』N0・18,p・18.
〈追 記〉
1965年のいわゆる「9・30事件」の約2か月後,同年12月10日に時の農業相からス
カルノ時代に分配された上地を1日地主に返還するとともに,「9・30事件」に「貢献」
した軍人に分配する指令が出された。1966年から67年にかけて,約15万haが旧地主
に返還され,また軍人に分配されている。こうして…地主制の全面復活と軍人の農村
支配(1971年現在で村長の約50%は軍人)はスハルト現体制の農村における階級的基
盤を形成した。
(筆者の住所1東京都小金井市本町6丁目9-18-103)
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