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経済理論 () 石. 『私は読者に考えてもらいた @ ナあろ・轟即ち是の立場か・「塁な・ めることのないようにすることである @ @『 ゙生活の経萬側面霧突ならび篇少な資源落 としての経済学は、必然的に、経済学者たちがそ ’. @ ノe序説 、翼の分析に於ては、嚢懸史の見方に二つの方蒙のつた. 或いは、少なくとも不分明で偏つた見解から、明瞭で包括的な理解えの着 は、過去に主張された総ての個々の理論をその時代の諸条件の忠実な表現で ・曜 (註三) 的因果.関、係を理解せんとするものである。』 、(註四) 此の言葉はW・S・スタークの経済学史の文頭の言葉である。スタークは此の書に於い 経済理論の歴史性とその政策的背景(一) (五一

Transcript of @...

 経済理論の歴史性どその政策的背景( )

石.

  \ 『私は読者に考えてもらいたいと思つた。読者を考えさせるために一.番肝心なことは、今まで常に読者の興昧を独占してきた

  

@ 

ナあろ・轟即ち是の立場か・「塁な・るべ・か」ぷうこと、について議論するこ・によつて、読者の盤蓼そ、ル

    めることのないようにすることである。分析こそは独自の仕鴎であり、私はまさにこの仕事に隈定したいと思つた。』, \

                                          ”           (シユソペーター)

        コ           リ

  

@ 

@『゙生活の経萬側面霧突ならび篇少な資源落尽す、財貨や覆の生産、論、隻配する諜塑)讃理の研究

    としての経済学は、必然的に、経済学者たちがその中で生活する社会的環境から、その色調を受取つている』’     」

                                               (G・D。E・コール)

’.

@ ノe序説

、翼の分析に於ては、嚢懸史の見方に二つの方蒙のつた.亮の;は、それを誤謬から真潭の進歩であると、

或いは、少なくとも不分明で偏つた見解から、明瞭で包括的な理解えの着実な進歩であると見徹すものであり、「他の一つ

                                   一     }       “ ー       ・・

は、過去に主張された総ての個々の理論をその時代の諸条件の忠実な表現であり、反映であると解釈し、斯くてそめ歴史

      ・曜           (註三)                     ’     ‘           -

的因果.関、係を理解せんとするものである。』

                 、(註四)    「                           ’

 此の言葉はW・S・スタークの経済学史の文頭の言葉である。スタークは此の書に於いて、経済理論の歴史性、・即ち、

    経済理論の歴史性とその政策的背景(一)                    (五一五) 九三

               、

                                       (五一六) 九四

その歴粟繭意義と歴史的限界性遊簡明に証明しよう乏bている』     ㌧  ゜

 過去に於いて主張βれ売諸々の経済理論をその歴史的条件乃至ば背景に於いて分析し、その相対的真実性を理解すると

まうこと侭、それ自体、思老者が如何なゐ立場を乏るに過よ、その人の現在とつている理論蘭立場、乃至は分析の基礎の

絶対性をも否定せね濾ならなくなるゆその結果、少くとも社会科学に於ては、永遠の真理を云うものの存在を否定すゐ、

即ち現在、伯己の正しとする理論噌も含めrて、」凡ゆる学説は常に蒔代の制約を受けており、且つ時代的特徴を帯びている

ことを承認せねばならぬ。此の立場をとる限りドその科学は絶対的のものには永久に゜なゆ得ぬが、併し常にその進歩の過

程に於いて、人類の福祉に貢献していると信じ、同時にそれで満足せねばならぬのである。此の歴史主義に対立して、所

                      の

調近代経済単に属する人々は、歴史的にもその理論の絶対性を主張する傾向がある。即ち、過去の学説を誤りとし、現在

の自己の理論の絶対性を主張するわけである。別な見方で此の二つの・立場を観察する止、歴史主義の立場からは、諸々の

学説がそれぞれその時代的特質をもつことの結果は、それがその時代の要請に応じているものである限り、必ず積極的消

コ                ト         コ   ロリロ     じ              コ  ロ                                   ら

極的たるどを問わず政策的含意をもつことになる。歴史的にも絶対性を主張ずる立場からは、理論゜はその様な時代の要

請とは絶対に無縁なものであらねばならぬゆ勿論、同じ現象も考え方σ相違で、異つた政策的帰結を生ずることは当然の噛

ことであるコ併レ乍翫、此処で論ぜられるのは、個々の政策に対するものではなく、経済学の歴史に於いて、重要と見倣

      の

される諸理論の政策的背景乃至ば政策的含意である。少ーとも、それ等は、それぞれの時代の要講に応じているもの、或

はその時代の現実の反映であり、且つそれ.を基礎にしての分析である。痴人の言を対象としているのではない。然し此の

点については後にふれることにして」今は対立する二つの立揚の存在を述べるだけで論を逸めよう。

・、

Aてn先づ濡雀初の、γ、ンペーター及びコ弄の引用に見られる如、此の対立して霧をノ  、、噸、

一方が芒ければ必ず他方が問違がつて℃るに違いない処の、対立する概念のいつれを芒とするノ 

醸な

らぬ。そして歴史主義を正しとする限りでのみ、その政策的関連を述べ得る。故に此処でスタークの歴卑、7ξ蒜場を紹゜

介し、それを前提として諸理論の政策的背景の問題を論じよう。省此の論文はえダークの歴史主義の紹介と、それを政策

面に移してみると如何なるものが現われ-るかと去う、或程度胃険的な試論であることを述べておこう。此のスタークの著

 .                                                                                                   ,

書僅か八〇頁の小著にすぎないが「五万頁にても五千頁にても論じ得るもの」を取扱つてお砂特に重商主義と限界効用の

体系に深い関心が払われている卓抜せる書であることも書添えておてう。更にスタークは限界効用の体系の処で、終つてい

るが、政策的背景を考える場合、此の歴史的考察をケンイズの学説にまで延長すれば近代の学説の立場について一暦その

 理解し易きものどなるであろう。  ’   9      、

             ゴ                       ノ

         ⇔ 経済理論の歴史性                     ‘

  此の論丈の初めの引用にある如き対立する二つ,の考え方濾いつれが正当であろうか。近代限界効用理論(ローザン‘郭学

.派、.オーメトリー学派及びケンブリツヂ学派の三っを含む意味でスタ;クは用いている。)の系統の人々はリカう下の弟子

達がその師匠に対してなしたと同様に、その単説の維対性を信bている。自己の学説を真理でないと信ずるものはない。°

問題はそれが歴史的に永遠の真理であり得るかと云う点であ蓄。、そ滋て」リカードの弟子達も、パレトーの弟子達と同様

φ考えを持つをとには変りはない。ただ・カト派の学説と同蓮愈近代理繋碧妄・・馨絶対箕レトあ弟

    経蓬論の歴史性とそめ政籠背景二)  ,.  .   (五モ)九五

                                                      \

                               ’     、 (五一八) 九六

                        ヨ

゜子達は否定するであろう。過去・現在・未来と云う「歴史的進化の全段階に適.用し得る超時代的な一連の真理を信じている

.のである。此の見地かちは、過去に於て主張ざれた生産及び分配の組織を説明しようとす乃総ての試みは間違つた込ので

                                ほ

ならねばならぬと同時に一、’彼等の学説の基本的教義にそれちが近似しでいる限りに於いて、或は浸れを発生せしめるに直

接的な関係を認められ得る限りに於てのみ、価値が認められるのである。併し乍ら、限界効用の原理塀ジエボンズ、メン

                                     .                             ~

・.ガi、」汲びワルラス等の学者によつて殆んど時塑同じうして、而も相互に意見の交換が全然行われずに、発見されたこと

                          ロ                                                        マメ

 それ自体が既に・その歴史性を証明する要因である。、之等の独立の思考者達が伺時に、.人間の精神を経済分析の出発点と

 して選んだと云うことは決して偶然ではない。それは、その根底にその原理を生み出すべき社会経済的現実が存在してい

 たと考えちれるのである。即ちその時代の現実は、哲学、宗教、芸術の領域に於いも、同様な変遷を生ぜしめているもの

 である。カール・メンガ弓の経済学原理の出版された年に、ヘルマシ。ココエンの「カントの経験論」が出版された。シ

 ュモ」ラーの如き経済学者はデューリングの哲学、モンタラン閥ールの棒学、甲エミール・ヅラの実験小説、マネーの絵画

                                   り

 など之同じ様な社会的現実を基礎に心たものであつた。之に対し、ウィル・メンガ‡の個人主義はコーエンの観念論、ト・

 ルス墨イの「吾が繊悔」.に現われた人生哲単、、更にはランボーの詩、・バン。。コツボの絵画などに現われる新しか糟神と共

通の蓋に立つているのである。斯-て、限界効用の原理の発見は孤立的豪ではな-、進化過程の統南部分の;の

                           し                                     ナ ノ

表響して考えられ喝歴史的硯象である.その学説の主唱者、叉は信奉者が、その填理と価値の絶対囎.\姦自由

                                                   如所論

 にして、且つ或る意味では当然であるが、併し同様に、重商主義者も、重農主義者も、それぞれ確信

皇張し参である・そして・之等の学説に対する決定鶉判は・その妻され蒔で・な~\  ざ・

、。(獣間は永久請物をも持続、得ぬのであつて、醤学。萎に関す・嵩で・り、社会の詫異菱化すべきも

のである。』     ㌧     r

併し、此の立場の相違は、そもそも「経済学と精穿や」芸う霧の相違から出警ている・此の点を少し説明する

必要があろ-.篁にス↑・は経済学と経薫想と混同してはいないかと秀反論畠・であろう菱頭の一言葉はその

疑念を深めるに違いない。併し、・ター.クはTカンテ」ズ・をも雪ぐ・…、叉はずテ・カル「・雪ノ^〒・或

いは土コノ、・ック・サ至ンスの中に含めている。では・穿・の経済学の概念を討ねよう。彼はケ・ンズの守委巣

天体の現象に対してなすこと、力学が運動と云う現象に対してなすご止別化学が有機的生命の現象に対してなすこと、と

同様の。毒、ずテ・カル・エコ・、〒は富の現楚対してする。経済学は之等9(富の)紫霜互に共存せしめ・

且つ継績せしめ・驚を提学・・即ち・経済学、は富の豪の法則鉱讐る・』ぎ’箋を承認する鉱に・之に『之等

の体系的譲の諸部門は一見した処でな、相互に独立のものであるが、それら簡お、一っの完全なる秩序繕合する・・

  ヘ                                                             ロ    

そし陀砒の秩序は諸部分のカオスから全体のコスモスを形式する隙れたる法則が普遍的に活動じていると云う仮定に基い

て切み説明され得る、之等の億廃る法則を知覚せんとするのが人間の精神の努力である。その結果が科学を構成する・

之が多・ズの経済学の霧の背後に窪す・基翻難ある』と補足する・そして・経済鋸が人間的法則・響居

見.慧様な蔑の憲単位の中で行碧ている間は、.経済学は塞しない.交換経済と云う象馨にまつて個人の蕪

に奮した。即ち目に見えぬ法則の作用す・処繰済学は塞す・・此の隠れたる法則の発見が経済学の霧な似であ

・.『壁糎見れば惑済学・は近代交逡済に於いて支配磐離の討究と分析をな蒙㌍濡る』と・斯かる箋

   経済狸論の歴史性と曙の政策的背景(一)          冒     ,     (五一九)一九七

               ぬ

     ”            。     ,             (五二〇) 九八

に対し、ローヅンヌ学派の伝統に従う人々、即ち、 『経済学どは、目的ど代替的用途を有する稀少の手段との関係として

の、人間の行為を研究する科学である。』と定義する人々は絶対に反対するであろう。「併し、人間そのものの精神は変化す

る。自然経済の時代には伝統人(『oヨo霞巴憲8巴す)が支配的なタイプであり、トーテムやタブーの支配ルた幾千年の時

代もあつたのである。ロビン〆ソン゜クルーソーは孤島に流された近代社会0合現人ずoヨo冨けδ舜房であつて、本当の孤

立的な未開人ではないのである。従つて、経済単は歴史的に限定され乖ゲo日o冨怠o葛=のの一形態に色すぎないゴoヨooΦ

8旨oヨ窪ωを研究すゐのである。哲ーザンヌの伝統の理論家達の見解それ自体も実は近代人のメンタリテヨの特徴である

敢に経済学は近代交換経済の支配的である秩序をその研究と対象としているのであると。斯くて、スタークの立場に従え

ヘ    ノ

ば、経済学の歴史の研究には、過去葱その学説の功罪を論ずるのでなく、その成果に照して理解し、且っそれを明らかに

            ρ                                                                   、

することが必要となるのである。                . ’    .

 之までの説明でスタークの歴史主義の立場は一応理解せられたことにする。        、

 さて、此処で経済理論と経済政策の問題にふれよう。経済学はそれ自体としては、経済生活の変遷に関心を有するもの、

ではなく、経済交洗の法則を探究レ研究することに成功すれば満足するものなのである。政策は或る目的を以てその為に

経済の現実を変化ぜしめんとするものである。併し前述の如く個々の具体的政策を此の論文で取上げは↓りと云うのではな

い。経済学は馬経済生活に於いて自から科学的経済学の対象となるべくして発生した事象を分析しているのである。そし

てその解釈は経済生活によつて限定されているのである。理念の形成はその時代の絶対的要求に従うものなのである。如

何に自由な考え方が可能の如く見えても、精神は窮局に於いて現実生活によって条件づけられているのである。従つて経

済学の歴史にのみ関係するならば、現実に条件づけられた学問のみが対象であろう。.併し之を幅広く経済の理論が経済の.

歴皮に及ぼした影響をも加味して見るならば、経済の学説と経済の現実は動と反動の過程として見られる。此の過程は時

間を必要とする。例えば、自由放任の学説と、政治家の個人主義は大体産業革命の結果であるが、それは逆に産業に反作

用しているのである。学説の形威と云う点だけをとれば、現実に条件づけられ、歴史、的に見れば、現実に決定されたもの

と去うことになるが、歴史的に問題になる学説は必ずその時代の絶対的要求に従っているものであること、即ち、或る時

代の経済の現実そのものが科学的経済学の対象たるべき問題を発生せしめていることを考えて見れば゜、その反動として経

済の現実に反作用を与えるものであることが理解されよう。之が政策的含意乃至背景である。之に対しローザンヌ的伝統

の人々は又批判するであろう。併し、政策的含意には積極的のものと、消極的のものがあること、及び此処で取扱われて

いるのは個々の政策ではないことに注意されたい。人間の意思と云うものは如何に自由であると仮定しても、現実の許す

説明の可能性の範囲内に於てのみ吾々は選択をなし得るのである。吾々の立場にあつては、時代の要求に相応せぬ学聞と

云うものは存在の意義ないのである。経済理論家と経済政策家とはそれが同一人であつても区別せねばならぬ。併しそれ

は一定の時点に於てとらえられた場合である。人間の選択には必ず一定似方向を示すべぎ向等かの方向の指針を前提とし

ているのである。   .

 之から、スタークに従つて学説の歴史的解釈を行ひ、之に続いて、政策的背景について検討を加えたいと思う、併し、

重商主義の様な政策的色瓢の強いものには寧ろ・逆に理論的解釈の方が必要であろう。.限界効用の学説に対しては・之とは

                                           ’

反対である。更にケインズの学説となると、又別の色彩を帯びて来る。以下歴史的順序に從つて論を進笏よドり。

   経済理論の歴史性とその政策的背景(一)                     (五二一) 九九

(五ご二)一〇〇

        ⇔重商主義ω

                \

   ノ          ド

              ぜ                                                           ノ

      ノ                                                                                     コ

 侮ずスタークの所説を簡単に紹介する。重商主義の精粋をロッシャーに従い、・五つの原理に要約すれば、〇一国の福祉

とその国民経済の健康は、その人口の増加に依存する。⇔同様に、それらはその国の貴金属の量の増加に依存する。日外

国貿易はその差額が順なむば、鉱山のない国に金銀を豊富ならしある手段であるから、可能な限り活澄化せしめらるべき

          へ

である。四商業はヱ業より、工業は農業より重要である。国国家は適切な経緕政策及び軍事政策によつて、国民の福祉を、

促進螂しめる使命を有す。ど云う五項目である。之に対する歴史的解釈は次の如くである。        ’

      

 e一七世紀以来、領域国家の人口は常に不足しへ殊に同世紀前半の戦争によつて一層不足していた。加うるに、人口の

大多数は農村に居佳し.法律的慣習的に士地に結び付けちれていた。故に商業と工業は人口の増大によつてのみ発展が考

えられたのである。            . 、   ’

    し

 ⇔貴金属の重視に対しては、従来特に攻撃が集中した処である。5之に対し、公経済と私経済との混同であるとか、貨幣

の価値尺度としての機能と流通の4段としでの機能と云ラニつの機能の中.9前者のみを重視していた、と云ラ様な批難は

アダム・スミス以来多くの学者によつてなされている。併しマーカンティリス脳が重視したのは更に貨幣ヨの市場叉は流通

上の籠であ拳認引の媒靭としての貨幣が問題であ器である・即ち『藩主響を支配・だものは・騒翻’

                                             くく    へめ

の概念そのものであり。その根底には国民経済の必要性と云うことがあつたのであるゆ………殆んど流通のない自然経済

                                     サ

が特に多くの流通の行われる交換経済に移ろうとじていたのであつた。斯くて、一暦多くの流遍手段が確保されねばなら

ず、之等の流通手段はその使命、即ち物品の流通と云う使命を集さねばならなかつたのである。故に有用なる貨幣量の増γ〆

                                    バ ロ

                          ヤ,(註=・)          、

大は.,航暦高い経済発展の段階への変遷の必要条件なのであつた』,と。・更に、交換の増加に対し貨幣量の増加は必要でな

い、流通速度を増すが、叉は物価の低落が行なわれれば良い,と宏う議論(スミス、国富論四一三頁)もあるが、流通速度の

                   ‘                                  ,               ,

増加と蚤うことは伝統的な妨害を考慮すれば不可能であり、そして、一暦重要な事は、物価の低落は生産の拡大が行われ

        ノ                                  ノ                      の

る時代には好ましから悉理的効果笙ぜレめるもの’であるから、典の批判は正し巻い。コ七世紀告生産を刺撃、

る誉瑠の上景必要とされでいたのであり・韓て・貨漿多藍ば多い蛋かつたの奪髪5麩三榴星

産」の関係が理解されるのである。   、、

⇔その時代に貴震の増架経蕩発展に必要であ歪とが判れば・国内観山をもた畠の虫貝金属馨の方法は当然

外国貿易であ年、就肛貿易差額が強調される所以である。ノ而も一貴金属の量が国際的に限定されていると仮定すれば、「甲

の得は乙の損」と云ジ関僚が生ずる。’斯くて吋重商主義の外国貿易の重視、貿易差額説及び国家の干渉と云うことも歴史 -、

酎にその必然性が理解され得るのであろう。 一                  」       ’

 ㈲自然経済から交換経済えの移行が重商主義時代の基本的事実であり、且つ基本的観念を形成した感のであつたとすれ

ば、経済生活の諸部門に対する評価も、それぞれの発展の度合に応じてなされる。即ち発展の状態に即して評価すれば、

商業は比較的自由であり、随つて最叡高く評価され、工業ぽギルドの統制や細かい規則居どの束縛から脱し始めていたとば

     ノ                                                  げ

云え、省おその様な点から、一般的には商業より多少低く、評価され、更に封建主義や伝統主義に支配されて居た農業は

最も低く評価されたのである。自然経済よめ交換経済えの移行は同縛に、生活資料経済から利潤経済えの移行でもあつた

                          刺

   経済理論の歴史性とその政策的背景(一)                   (五二三)一〇一

(五ご四)一〇二

のである。

 ㊨地理的政治的に見れば、交換経済は自然経済よりも、大きー且つ齊一的な経済領域を必要とする。自然経済は狭い地

                                         ヒ

域でも存立し得るが、.交換経済の成立は中世の政治的不統一の克服の上に可能であつたのである。この事実は、当時の強

国間の拡張政策を説明する。同時に政府は戦争の手段としてのみならず、平和の手段として国民経済に心要なのであつ

     ハ

!た。即ち、一例を挙ぐれば貿易差額を順ならしめ、貴金属の確保め為に、政府は完成晶の輸入を阻止し、その輸出を奨励

                                          ロ

し、原料品の輸趾を阻止し、その輸入に便宜を与うる等の措置を講ずべき任務をもつていたのである。国家の権力的活動

がぞめ時代に要求されていたのである。  . ,

    ロ

 臥上の如く五項目に亘つて、重商主義攣説の歴史的安当性を証明した後で、スタークは『併し乍ら、総て斯かる老え方

は、移行の時代に対すし、てのみ正当であつたの、であつて、国昆経済の発展がその均衡の最初の段階に達するや否や、必然

                                            ’      9

           (註一三)

的に無意味になるのである』と語る。人口が増加して適度人口に逮するや、市場が流通の媒介物の不足かち害を受けるこ

とがなくなるや、紙幣流通の可能性を人々が知る様になるや、此の重商主義の理論は時代後れのものとなるのである。金

のそれ以上の増加が不心要と怨れば、貿易差額の恒久的活動の主張は批判の対象となり、貿易差額の活動の重要性が薄く

なれば、政府の活動も不必要となり、国内市場の成立と共に夜警国家論の出現.をも生じて来る。而うして、経済部門の評

                                            塾

価も亦工業と農業が交換経済に適応し、資本主義的形態をとる様になると変化したのである。

 ゾムバルトが「初期資本主義の経済単」と重商主義のことを呼んだのは、此σ大いに誤解され¥且つ大いに濫用された、

この学説の本質を要約したものであ喝。

 更に、重商主義を構成した諸理論゜は、ヨーロッパの自然経済から、交換経済えの移行の時代の所産である“と云う考え

は、アタリカのケァリー(出窪曼O黛①団)が一九世紀に当時のアメリカ的環境に於いて、.人口の増加、貨幣流通の増加、’

加うるに保護貿易の主張と去う、、重商主義に頚似せる学説の主張の中にも認められる。

        ⑳ 重 商 主 義 囲

  重商主義に対する批判について、スタークと正反対の立場をとると考えられるJ・A。シュ必ペーターすらも、 『マー

カンテイリズム覆の批判が正当でないことは・會既に常識になつてい錘鍔べて居る如く・スミス的批判は會時

          \

                        .            、    (註一五)

代後れになつている。又、私が前に紹介した「重商主義の経済政策の月的は完全雇傭にあつた」となす学説は、余りに超

.近代的である。°              .    .・    ・   .    ・

  併し、いつれにせよ重商主義の学説が経済政策を表面に押出したものであること、或いは経済政策の体系であると云う

・とは、一磐詔められている。スぞ・の云う藝二つの対辛・立場にそれぞれ立つて云えば論この経済政策些体

 系」が動機となつた諸労作が、わが科学の進歩に対して如何な6価値を有するかを問うのであつて、」マーカンテイリズム

                                           (註一六)

 の著作者達の実際的提案がその時代分環境により正当化さ甫るとなす議論はこ~で問題とはならぬと云う考え方と、スタ

 ーウの様に重商主義の学説が経済政策の体系であつたにせよ、社会科学としての経済学は社会の変化と共に変化するもの

 であるから、重商主義の学説も科学導り得ると云う考え方である。’ ,  .     、        .   ・

  前者の立場を此の論丈では始めから亡らぬことにしているかむ、その限りでは問題はない。併し、後者の立場をとるに

    経済理論の歴史性とその政策的背景(一)                    (五二五)一〇三

                                       (五二六)一〇四’

’           -                  ー         (註一七)

 せよ、やはり経済思想と経済学の区別は一応つけねばならぬ。ースタークによれば、エコノミック・ザイエン冬の範囲の中に

含まれ得る暑のもの笑体一三六・年頃に害かれた:τル゜奮⊥の費羅L禁る・建別とし置それに

続くもの億重商主義の始祖であるジ・ヤン・ボノンである。更にば『近代交換経済を相互依存の体制であると見、そして人

                                              (註一九)

民の総ての成員の生産と分配に於け6相互作用を知覚した最初の人』.はエルン肇・窄トウ嘘・・カールであ乃。そ

   ニコノしクス

 して経済学の歴史を四期に分け、.第一期に、ポダンに始法る重商主義を挙げ、第二期には、カール及び九ンティヨンに始

,まりケネーとスミスが決定的な影響を及ぼした所謂古典派経済学を挙げ、第三期には、歴皮学派、第四期には近代の限界

                                                        

 効用の原程を中心とする学派を挙げている。.而して前述した如く、そのいつれに略、エコノミクス、ボリテイカル・エコ

            の                         コリ         ド   コ

巳ノざイ又はエコハミック・サイエンスの語を用いているのである。故に重商主義の諸理論は、・その学問体系に混乱が存在

            め                                                                    コ

 した、否、未だ充分な体系化に到つて居なかつたと衰う攻撃は甘受せねばならぬにせよ、スターグに従えば、・前述の如く、

 隙れたる法則の探究北努力し、且つ、それなりの成果を挙げている限り、経済学の中に包含せら得るものなのである。而

 して、その対象は近代交換経済である。それにも拘らず、スタークと錐も、此の重商主義の学説を「精密科単」の如きも

 のとは決して解釈しない。『ボダンに始まる第一期に於ては隅経済学は法学冒ユ磐登q⑦昌8、特に行政法に密接な関係を有

    (註二〇)    、   ‘

 していた』と。自然経済を克服し、交換経済の生長を促進する為の法的措置が、此の時代の経済学の基本問題であつたぺ,

.行政的立法的政策的な問題が経済学の中心臨テーマであつたのである。 ¶ 冨        、

  斯様になれば、前述の様に、『マーカンテイリズムは学問上の「学派」でもなく………また科学的理論でもない。』(シュ

 ンペーター)と云う見解に於いても、又は、『経済学は依然として、政治理論の、「部にすぎず………また経済学理論の体

系ではなかつた。あるものは経済政策のみであつた。しかbながち・ド:、…・ボダンからマγを通つてペテイにいにる発展を

                    〆 、馳      -    一  ー

辿ると、経済の自律化への欝はますます撃なつて㌘のが見・ん宥。廃済学のの体系はま惹兀全な、事はそ墾けで

                       ロ                                                   ロ   ァ ノ

まとまつたものではなかつたにぴても、一つの体系の大まかな輪郭とか要素之かいうものが、ますますばつきりと見てと

れるようになりはじめていた。これがマーカンテイリズム・の時代、資本主義似第一期、絶対主義の庇護の下にあつπ時期

における総済学の籍であつ錐(痴4三芸う様な好意的暴乳ずれにみつても・蓋覧られむは量商主

                        ノ                                          コ

蒙政笛な学説と云う点である・そしてシ・ンペ去差讐重商妻の学問的出暴は軽視しても、それが国民的経済

圏の創設の実践的手磐しでもつた大いなる意義については充分高い評璽している。科学的な価値は問題で’穿、実践

的価値を認めているのである。

                                              へ

 さて、問題は此の政策的要素が主で、理論的要素が従である去う様な学説、極端に云うならば、当時実践された政策を

  ロ                                  コ

正当化するために生じた理論は、此の論文σ如き主頭の下では、奴何北論ぜらるべきかと云うことである。理論と政策が

始めから結びついているのであるから理論の政萬北且尽は始めから判り切つて居る。従つて、此の婁では余参藷る

必要がない訳で身。併レ、此の場合、導或程度まで真である。即ち、政纂強義面に出て居り、理論粛属的で吻

ると云うならば、寧ろ理論のその政策に対かる活動的正当性を問うことが必要であろう。その時代の現実忙即して、その

       

時代の理論の特質を見ると一云う方法で進めぱ、その理論のその時代に於けろ正当性乃至は必然性を理解し、その合目的性

                   卿      〆     ’                ”      ρ  』’

を見ねばならぬ。近代国家と資本主義との関係について見ても、資本主義経済の前提として①近代民族国家潅働り、近代

                                                  へ      に

         む  む

民族国家の建設にはかねが必要なのである。資本主義経済の.生長はへ封建国家の崩壌、民族国家の成立と崩懐、.そしてブ

   経済理論の歴史性とその政策酌背景(一)                     (五二七)一〇五、 .

                                                  『∬

                                     (五ご八)一〇六

ルジゴァ国家の成立と云う過程を、その政治的面に於いてもっている。°そして、此の近代国家による政治的指導なくして

は資本主義は成立し得なかつたのである。此の過渡期に相応するものとしての重商主義の政策と理論であつた。 『重商主

義の目的は国内政策においても、、対外政策においても、共同社会あるいはその成員の福祉を増進することではなく、主権

者に体現される国家の力を強化することであつた。貿易は国庫に富をもたらすゆえに奨励された。.:∵ゴ…国内的には重商

主義は中世的馨の劃極の下に窪していた経的縄制度、局地的市場、蟄謝嶺を打警国家を経済単位とし、

その全領域を通じ商業と工業とにお刀る国家の不可分的権威を主脹しようとした』………従つて、重商主義の政策は国民

の利誓統治堵の裂を同鏡した時黛ち国家と続治者のものであつた時代の経済華あつ壽じ砦国内岬

外の政策を通じて、近代交換経済は拓かれ、資本主義経済の成立えと導かれたのである。交換経済には一度び動き出越、‘

ば,経済自体の動きと云うものがあ喝。それは人間の始めの意図と必ず一致するものではない。それに必要なものは科学

的認識である。叉、此処で注意薬き実は、主権者は自巳の権力の葵と云う晶で経董見る雀対し、その場A。でも

経済学者は経済の発展を通じて主権者の権威を考えることである。従つて重商主義の単説はそれが如何に主権者に奉仕す

る様な形体を含んでいるにせよ、経済の法則の理解の上に経済の発展を考えているのである。主権者の利益を経済の発展

を通じて考えれば、自然に経済から交換経済えの移行の促進が必要である。之なくしては経済的発展は不可能である。同

時その交換経済えの移行は窮局的には斯様な絶対主義国家の崩壌に導くとしてもそれは問題ではない。スタークの重商主

義に対する見地は隅此の自然経済より、交換経済えの移行と云う事実に立却している。その交換経済えの移行と云う目的

に重商主義の政策は合致していたと云うことは、スミスの如き直後の批判者を別とすれば、今日「般に認められている。

      ア

ではその様な事実を前提として理論を考えばどうであろう。前述の如ぐ、理論を云うものは本来億れたる法則の発見を目

的とせるものであり、政策は現実の変遽を目的とすの脊のであるか略、重商主義の政策と理論に於いても、玄応両者の区

別は必要であり、叉政策を樹立せしめる要素は復雑で仮令経済政策と錐も単に経済的要素からのみ成るものではないこと

は確かである。それこそ世界観の問題と云えるかも知れぬが、併し如何になる観念と錐ポ・、それが歴史的に重要な役割を

果したものと関連する限り必ずその時代の要請を含むものであつて、想像も夢想も或程度自由かも知れぬが、大きく見る

と必ず時代の現実に相応せるものでなければ問題にならない。近代国家は時代の要請に従つて発生したものであつ、その

                       、

                        (註二三) 、

間の経済政策は又その要請を充分に応じたものであつた。筆者が先に紹介したグラムプの去う様な、重商主義の実践と理

・論とば別のものである、即ち麗論家の方は古典派経済学の先駆者達であるのに対し、実践者の方は、全く主権者の利益の.

追究に専念していたとなす考え方は正当ではない。主権者の利益の追究は前述の如く、交換経済の開明を通じてなされた

のである。主権者の銚概の必要と藪うことを、理論家達は経済の発展繁栄と云う過程を通じて充そうとしたのである唯そ

れではその重商主義の理論a理論的安当性を見よう。スター〃の論文は批の点非常に簡潔にすぎる程である。交換経済え

の移行の為の貨幣の必要、又その為の貿易差額説、国民経済の成立の為の倣治的統一、等については問題はない。省貿易

差額説の投資゜に対する関係はすぐ後で述べる。次に貨幣的経済論ど呼ばれているものとの関係について述べよう。スタL

   ノ

クは極く短く、物価の低落は発展的経済に好ましからぬ心理的影響を与えるといつでいるだけであるが、此の点ではケイ

                 へ                                                                                                        ヒ

ンズがその「一般理論」似第六編第二十三章の「重商主義其他についての覚書」で大いに論じている。併し、、既に有名な

処であるから簡単な引用で済まそう。 『けだしわれわれ経済学者件間は、幾世紀もの間実際的治国策の主要降的となして

    経済理論の歴史倥とその政策的背景(一)、                  (五二九)一〇七

                                        (五三〇)一〇八

             圃       (註二四)

いたものをくだらない妄執として取扱うという、潜越な誤謬をなしていた。』………即ち『一国の富がかなり急速瓦増大し

つある場合、自由放任のもとにおいては、この恵まれ事態のr一暦の発展が新投資誘因の不充分なため中絶する可能性があ

る。……発展的掴家の福祉は:…・かかる誘因が十分であるゆ否かに不可欠的に依存する。かかる誘因は国内投資又は対外

投資……の何れかに見出され得るものであつて、それらが相携えて投資総量を構成するのである。投資総量が利潤動機の

みによつて決定される状態のもどにおいては、国内投資の機会は、結局、国内利子率によつて支配され、他方ふ対外投資

                                                       、

量は順調な貿易額の大きさによつて必然的に決定される。かくして公共当局の保護のもとに行はれる直接投資の阿題の存

しない社会においては、政府の当然専念すべき経済目的は国内の利子率と貿易差額である。…・-利子率は、人々の流動性

                                           、

欲求を充たすべき貴金属数量……によつて支配される傾向があるであろう。同時に、巨額の対外貸付と海外にある富の完

                          へ

全な支配とが殆んど不可能な時代においては、貴金属数量の増減は貿易差額,の順逆如何に依存すること極めて大であるβ

かくて偶然にせよ、当局が順調な貿易差額に専念したことは両者の目的に役立つた。そして、しかも、それが両目的達成

の唯サ可能な手段であつた。当局が国内利子率あるいはその他の国内投資誘因に対して直接の支配力をもたなかつた時代

においては、順調な貿易差額の増加を図る方策が対外投資を増加せしめるものとして彼等の採り得る唯一の直接的な手段

であつた。そして、同時に、順調な貿易差額のもたらすべき貴金属流入の効果は、国内利子率を低下せし蹴、それによつ

て国内投資誘因を強化するための彼等の間接的手段であつた。……順調な貿易差額は、それが過度に大なるものでない限

                              、、          (註こ五)

り、極ゆて刺激的なものとなり、他方貿易差額の逆調は忽ち持続的な不況の状態を生むこととなるであろう-……・。』と、

               -(註二六)

利子率、交易条件、雇傭及び近隣窮乏化政策を云う観点からケインズは重商主義の理論的合理性を見ている。文利子率

の低いと去うこ之だけでなく、商品の価格が上昇することむ事業活動の拡張には必要である。投資が増湘して市場に出廻

                 ロ

    の                                                                                          ダ

る財貨の量の増大は交換の増大による流通手段の必要を増加さ」せるので、それだけで貨幣量の増大を必蔓とするが、更に

            ノ

価格の低下が生ずる場合は利潤に影響を与える、即ち損失の危険性を生ぜしめ生産に悪強響を与え苓ので価格下落は発展

する経済にあつては絶対に避ければならぬ処である。逆に軽度のインフレ」ションは帳簿上の利益を生ぜしめて利潤噛確

保するから(再生産に害を与えぬ程度の物価騰貴は必要であるβ.従つてその意味に於いても、貨幣量の増大は必要であつ

 げ                                                                                                                                    ゴ

                             ノ

たのである。最后に重商主義の理論はケインズの説明κ於いて理解される如く、経済の発展に対象があるのであるから、r

商萎本の代弁をなす理璽あるとは一是一馨切れ器ではな炉か。確かにTカンテ・リ・あ中に商業の重視寛ド

られるであろうし・叉当時に於ザる商業の役割は経済の発展に決定的なものがあつたであろう。併し、重商主義の政治面

を強認ルすぎて、商業資本の役割を軽視するのも不当であるが、商業資本の面①みを強調するのも良くない。.斯べなれ

ば、重商主義ど云う竜のの本質に逆戻りして、三百年の間にそれは変質しているから.その中の或る時代の特質濾どう

で、又或る時代の特質慰こうであると云うこ.どにもなるつ叉英国の重商主義と仏国のそれとは異なると云うことにもな

                                                う

る.併し、・・-ルの様に『粟集霧の理論㌢し垂聖馨の轟は、たと蘂調諺盛る名目の下に工夫

された政策という形で間接的は現われたとはいえ、それはいつも商業資本の必要に出ずるものだつだ…・・…・』之する見解

に対して『たしかに4ギリスのマーカンテイリストは他国のマーカテイコストよりも商業的な考え方をしていたかも知れ

ないが、この事実の意を誇大視してはならない。・スペインが自国の需要をみたすために自ら生産するよりも寧ろ外国品を ,

輸入してその鼠宝」を失つたのを非難したのな、実は外ならぬイギリス人マンであつた。そして。…フンスでは、コーべ

  . 経済理論の歴史性とその政策的背景(一)    一     ・      . 隔 (五三一)一〇九

             ‘

、                                       (五三二)一一〇

ールははつきりと産業に重点をおいていた。………マーカンティ膨ズムの丈漱は一つ残らずh産業の問題である賃銀を取

                       \            (註二八)

扱じ、更に労働を節約する技術的方法をすら取扱つて、一様にこれをすすめている。』と孟う見解もあることを見ねばな

ちぬ・私見を云うならば、経済の政治に対する優位、乃至慈済の政治に対する決定的な影響を与える様になつたのは.

此の重商主義の時代ではなく、産業資本の時代ではないかと云うことであ葛。所謂「経済の時代、」 と云うものに重商主

義時代は充分に入つていなかつた。従づて商業資本はその時代に於いて私的資本の存在形式乏しては最も有力なものであ・

つたとしても・政欝\講的に撲定的①ものでマ、資本が肇について決定的な影響叢ぼす以葡であつを考ん、

られる。その場合、商業資本と云うならば、産業資本との対立をも考えねばならず、商業資本の特権性、便に濾発展を抑,

止する性格をも老えて見たならば、発展を大きく、促進する処の単説は必ずしも商業資本の代弁とのみ云い切れぬ。勿

’論、此の時代の資本の支配的形態が商業資本であることは確実・であるし、商業資本の活動が経済の発展に大きな役割を果

したことも事実であろう。経済的観点のみから見れ感商業資本主義の時代であろう。併し、経済の力が政治に決定的な影

響を与える様になつたのはブルジョア国家の成立からである。学説的に議う怨らば、商業資本の代弁の傾何が強いが、政

策的に云うならば政治的要素の方が強かつた。経済の発展と云う場合、生産の増大は専ら商業資本の逐行すべき任務では

,なかつた。原料品の輸入、完成品の輸出と云う、貿易差額説そのものの中に生産の本質的重要視が見られる。ただし仲継

貿易のみの場合は別である。交換経済の開明には流通面の重視があるとしても、結局は生産力の増大に結び付くのであ

る。重商主義に於ける生産力増大の政策及び理論を軽視す昏のは正当と蛍えないであろう。

 よつて、資本が政治を左右する様になつて、国家の政策に重要な役割を果すに至つたのは重商主義より後の時代即ち産

業資本の形成が充分になつた時であると去えようつ勿論、商業資本の政治的政策的影響力を軽視するど云うわけでは決し

                        へ

てない。資本の政治的影響力が未だ充分でなかつたのではないかど云うのである。

                     、        ’・       r’    .   」  ’   L一

 本稿の主題について濾、.重商主義の処でば余り問題はない。塑論の政策的背景を論ずべき処は、°理論が政策と直接の関く

係をもたぬ様になつた時である。此の辺で重商主義を打切り重農主義に取りかかろう。 .         (未完)

                                                         k

 (註一)いω゜ωω言日需件①きO巷一琶ごβω。99。一冨召きαu・目。。鑓受”国①h碧?8N民国象怠。ロ℃°×<°  .一

 一(註二)9U.国゜09ρω。9聾i■酔国8昌。巳。9勺゜昌N°.        ~

           ト              で

 (註三)≦・ω・。。欝長↓冨『伸。・8量。時Φ8コ。巳8”勺」.

 う註・四) 芝゜ω゜ω↓胃貫弓冨ぼω8蔓oh。8口08ざρぎ軸$屋一p・賦o昌件oω09巴自零Φ一〇bヨo艮’巳劇恥転いo巳§.

 (註五) 望碧置ま一傷噛団。.野’..、  ’     ,、「          」     .

                                           ■

 (註六) い国.O胆蹄口Φωuハ『ゴOOぽ餌同動O件①H国昌qドOσq8餌一]≦卑ずO住Oh-℃O嵩江O帥一国OO昌O言団℃、HCO刈μr℃°μ雛9

 (註・七) ω件鷺ぎ旨帥負・℃°09                 ,

 (註八) ω冨鼻り葺凶P炉Oド   」、明

 (註九) U°国oぴ甑昌ρ国ωω餌団o旨、昆oz讐ロ冨蝉旨αω凝乱h8臥昌゜Φoh国゜o臥o目ざω9①poΦ”N昌山oqこHりQ。α矯℃°H9

 、」(註・一〇) 此の点では、円切碧。Pω霞ao昌①。。臣qo一①9嵩㊤刈・”霜・℃①仲な・〉弓お2■江ω①oh↓鋤×Φω・°H①①b。二窯・↓o日包ρb口国ω。。国累

    ξo口爵Φ巴く山poo日〇三〇h仲δqoぎ胃o言口9ド①『ω輸其他を参照のこととしている、細かい点では、ω郎同ぎぎ置b即μρ参照

 (註一.一)ω言降噂凶三げ゜℃°Hド       .°    、

 〈註=一)ω訂時L三ρ℃°μH.  、           、..  .’                ・

 (註一三yのけ舞ぎ皆乙噂用゜ G。9 °    「  °°          .           .

 (註一四)ω。ピ日bΦ器斜国宮窪窪傷興U。σq日魯古巳嵐①窪。畠窪σqΦω。ず凶。巨ρ。買中山、東畑訳ω勺゜㎝ω゜      、  ‘,

 (註一五) ≦崔ぼヨu°O冨ヨ智”日冨り一び魯匿田①ヨ①巳ωぎ国口αq嵩ω3竃雪$艮臣゜。pOロ費帯Hぐ旨oロ讐巴。h国8昌。忌8”zoぴΦ8び①さ

    お認”拙稿、「重商主義研究に於ける一覚書き」朋治大学政経論叢、第二十一巻、第五、六号に紹介ど批判がなされている。

   経済理論の歴史性とその政策的背景(一)       、             (五三三)一一一

F

                                                                                                                                                                                                                                                                                              ゴ

                            ‘                      (五一二四)一一二・      、

                                                                                 ρ

(華六)誓量①二・・.箭ω゜        ..   .馳

(註†七)..ω富時ヒ一三臼世O①゜以下。                     .       ・       ..、

                                                                                     .

                                                                                           」

                                                       ニ                                                                                                     ノ

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

   一八) Z89。O冨ωヨρ.∪①〇二σqぎ。.①け昌9。けロ岳”冒お①け日置富江o口=げω日o口簿胃ロ日・  .. -,・           ,

(註                                             」

                                                                                                                                                   

(註山九)」国ヨ婁白亀三αqo巴一,早巴け①qΦ嘘目喜①ωωΦ.傷Φ甲b門博ロ伽①ω。けqΦ.一①⊆【ωひけ9件ω①砧自①ω白。団①昌ψ■ρぎ豆。ω醤昌凶葺0易b。ロ過

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(註一=)国含舘⊆=鉱日雪P件冨出冨一。蔓。h国。ひ巳日階b。。ε二昌聲..H鴇㎝・、「卜⊃刈弔時。。・

(註二二) 国゜叫゜.O胃さ2帥匡o昌挫冨ヨ帥コρ〉津059凶℃♂・ゲド   ・         . 、 .

                                          ヒ  コ           

        前.掲政経論叢、第ご十一雀、第五.・六号。            .  !

(註二三)

                                      ロ 

(註二四)罫竃゜∵閑Φ矯濫9↓冨O①ロo円巴↓冨o身oh「国ヨ豆o団后①口仲一巳。円Φ降p⊃且ζ。口①ざH葛ρ.℃°ωωO°

                                                                                    へ

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(童八)。Φ.ー記げ5勺..。.μ.・     ・!  ° . . .

                                                                                                1

ρ