永遠の真理 2015 / 03

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2015 年 3月 「神聖な律法」 「天にふさわしく」 「キリストの再臨」

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sdarm, eternal truth, daily devotional

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2015 年 3月

Eternal Truth

永遠の真理

  「神聖な律法」 「天にふさわしく」 「キリストの再臨」 

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永遠の真理いま永遠の真理の土台の上に堅く立ちなさい。(3T p.45)

目次

「神聖な律法」聖書の教え

「天にふさわしく」われらの主よ、きたりませ

「キリストの再臨」三重のメッセージ - 第三天使のメッセージ

「豆腐ナゲット」

「一歩いっぽ」

4

9

41

4850

今月の聖書勉強

朝のマナ

現代の真理

力を得るための食事

お話コーナー

教会

【正丸教会】

〒 368-0071 埼玉県秩父郡横瀬町芦ヶ久保 1607-1 電話:0494-22-0465FAX: 0494-26-5059

【高知集会所】

〒 780-8015 高知県高知市百石町 1-17-2 電話:088-831-9535

【沖縄集会所】

〒 905-2261 沖縄県名護市天仁屋 600-21 電話:0980-55-8136

アクセス

ホームページ:http://www.4angels.jpメール:[email protected]

発行日 2015 年 2 月 27 日編集&発行 SDA 改革運動日本ミッション〒 368-0071 秩父郡横瀬町芦ヶ久保 1607-1

Illustrations: Getty Images on front cover; HighRes on pages 8, 52

Printed in Japan

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3永遠の真理 2015 年 3 月

キリストが耐えられた苦悩―より広く深い見解―

はじめに

カルバリーの十字架上に見られる罪の結果は、罪人がその光景を熟考するならば、石の心を砕かずにはいない。罪への憎しみが心のうちに生まれるのは、この熟考によってである。そして、聖霊は同時に、救いの計画を通して希望を吹き込むために働いて下さる。……このお方は世の罪のためにご自分の御子をお与えになった。なぜなら、このお方は罪を憎まれるが、罪人を愛されるからである。(ユース ・ インストラクター 1897 年 12 月 30 日)

体の痛みは、神のいとし子の苦悩の小さな部分に過ぎなかった。世の罪がこのお方の上にあり、また犯された律法の刑罰に苦しんでおられたときご自分の御父の怒りを感じておられた。このお方の聖なる魂を砕いたのはこれらのことであった。絶望をもたらしたのは、ご自分の御父のみ顔がかくされたこと―このお方ご自身の御父がご自分をお捨てになったという自覚であった。罪が生じさせた神と人との分離を、この無罪の苦しむカルバリーの人は、完全に悟り、鋭い痛みをもって感じられた。このお方は闇の力に圧迫されていた。このお方には将来を明るくする光線は一筋もなかった。そしてこのお方はサタンの力と苦闘しておられた。サタンは、キリストが自分の手中にあり、自分には神の御子に勝る力があり、御父はご自分の御子をお捨てになった、だからもはや自分とまったく同様にこのお方は神の恩寵のうちにはおられないと宣言するのであった。……

悪天使たちのレギオンが神の御子のまわりを取り囲んでいたが、聖天使たちは彼らの隊列を破って、あざけりののしる敵との戦いに従事することを禁じられていた。天使たちは神の御子の苦しむ霊に仕えることを許されていなかった。この恐るべき闇の時に、すなわちこのお方の御父の顔がかくされ、悪天使たちのレギオンがこのお方を取り囲み、世の罪がこのお方の上にあったとき、このときに次の言葉がこのお方の唇からよじり出たのであった、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。(教会への証 2 巻 214,215)

人は罪を負う者とされていないので、救い主が負われた罪ののろいの恐怖を、知ることは決してない。(SDA ハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリ [E・G・ ホワイト ・ コメント ]5 巻 1103;マタイ26:36-46 コメンタリ)

殉教者たちの死は、神の御子の耐えられた苦悩とは比較にならない。わたしたちは神のいとし子の命、苦しみ、死について、より広く深い見解を取るべきである。

(教会への証 2 巻 215)

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4 永遠の真理 2015 年 3 月

今月の聖書勉強

聖書は、道徳律、礼典律、またその他の律法について述べています。新約聖書の著者たちは、必ずしも明確に述べているわけではありませんが、彼らがどれを言及しているかは内容から理解することができます。

「神はイスラエルに、特別な規則によって人と自分の同胞に対する人の義務を示して、ご自分の御旨についての明白かつ確かな知識をお与えになった。神に捧げるべき礼拝は、はっきりと定められていた。礼典と儀式の特別な制度が確立され、それが神の民の間で神を覚えさせるのであった。またそれは十誡を犯すことがないように守り、保護する垣根としての役割を果たすのであった。

神にご自分の特別な宝と呼ばれている神の民は、二重の体系をもつ律法の特権にめぐまれていた。それが道徳律と礼典律である。一方は、世界を創造された生ける神を覚えているために、さかのぼって創造を指し示しており、またその要求はすべての時代のあらゆる人々に拘束力を持っていて、いつまでも永遠に存在するのである。もう一方は人が道徳律を違反したために与えられたもので、将来の贖いを指し示した犠牲と捧げ物から成るものへの従順である。各々はっきりと特定された別の物である。創造のときから道徳律は神の聖なるご計画の重要不可欠な部分であり、神ご自身と同様に不変なものである。礼典律は人類の救いのためのキリストのご計画の特別な目的に答えるものであった。犠牲と捧げ物の型となる制度は、それらの奉仕を通して、罪人が大いなる捧げ物キリストを認めることができるように確立されたのであった。しかし、ユダヤ人たちは誇りと罪にあまりにも盲目になっていたために、彼らのうちで、罪のための贖罪として獣の死の向こうを見ることができた人はわずかであった。そしてこれらの捧げ物が予表していたキリストが来られたときに、彼らはこのお方を認識することができなかった。礼典律は栄光に富んだものであった。それはイエス・ キリストによって、御父との会議において、人類の救いにおいて助けとなるために備えられたものであった。型となる制度の取り決め全体は、キリストに基づいていた。アダムはエホバの律法を犯した自分の罪の刑罰に苦しむ罪のない獣のうちにキリストが予表されているのを見た。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1875 年 5 月 6 日)

 3 章 神聖な律法

聖書の教えⅥ

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5永遠の真理 2015 年 3 月

A. 道徳律

神のご品性の表現神の律法―あらゆる義の標準であり、このお方の思い、ご品性、み旨の表現

―は、二つの大原則、すなわちわたしたちの創造主に対する愛と自分の隣人に対する愛の具現化しています(マタイ7:12; 22:36–40; ローマ13:8–10)。これらの二つの原則は十の戒めの中に要約されており、ひいては聖書全体に包含されているあらゆる道徳的おきてや定めの中で詳細化されています(創世記 26:5; 出エジプト記 15:26; 申命記 4:1, 2, 6; ネヘミヤ 9:13, 14)。

「神の律法は、神ご自身と同様に、神聖なものである。それは、神の意志の啓示であり、神の品性の写し、神の愛と知恵の表現である。」(人類のあけぼの上巻 38)

神の統治の諸原則神の統治は、堅固にして善であり、聖なる、完全な、かつ永遠の諸原則、

すなわち神の律法の中にあらわされている真理と義と愛の原則に基づいています。ですから、これらの諸原則に反するものは何であっても罪です(詩篇 89:14; 119:142, 172; 19:7; 111:7, 8; ローマ 7:12, 16; テモテ第一 1:8 (ヤコブ4:17 参照); ヨハネ第一 3:4; ローマ 3:20)。

キリストによって宣言され、記された神の律法(またキリストの律法とも呼ばれる)は、わたしたちの救い主によっ

てシナイ山で宣言され(出エジプト記 20:1–17)、またこのお方ご自身のみ手により、二枚の石板に記されました(出エジプト記 31:18; 使徒行伝 7:38 (イザヤ63:9; マラキ 3:1; コリント第一 10:4, 9; へブル 12:24–26 参照); 申命記 33:2; 出エジプト記 24:12; 申命記 4:2, 12, 13; 5:4–7, 22)。それはごく当初アダムとエバ、また父祖たちに与えられた律法と同じものです(ホセア 6:7 (傍注); 創世記 4:7 (ヨハネ第一 3:4 参照); 創世記 26:5; ローマ 4:15; 5:12)。この律法は、決して礼典律と混同されるべきではなく、そこから引くことも足すこともしてはならないものです。十誡は定めとおきての中で明示され、説明されました。これは神がご自分の民とシナイで結ばれた契約の基礎です(出エジプト記 24:4, 7, 8; へ

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6 永遠の真理 2015 年 3 月

ブル 9:19, 20)。「むかし、雷鳴と炎の中で、シナイ山上から律法を宣告なさったのはキリスト

であった。」(祝福の山 56)

キリストによって擁護されたキリストが地上におられたとき、このお方はご自分の律法を変更したり、廃

したりなさいませんでした (マタイ5:17–20)。その反対に、このお方はそれを大いなるものとし、擁護し、説明し、教え、誉あるものとし、その違反者たちを譴責なさいました(イザヤ42:21; マタイ5:21, 22, 27, 28; 7:12; 15:3; 19:17–19; 22:36–40; 23:2, 3; ルカ10:25, 26; 16:17, 18; ヨハネ 7:19)。

キリストに従う人々の心に記される新しい契約の下で、聖霊はわたしたちをあらゆる真理へと導き入れ、神の律

法(キリストの律法)をわたしたちの心の中に記してくださいます(エゼキエル36:24–29; エレミヤ 31:33 (へブル 8:10); コリント第二 3:3)。

使徒たちによって教えられるイエスのうちにあるがままの(詩篇 40:8)神の道徳律、すなわち十の戒めの

律法は、新しい契約の下で、自己吟味のための鏡として効力を維持しています(使徒行伝 25:8; 24:14; ローマ 2:12–23; 3:19–21, 31; 4:15; 7:7–14, 22; 8:4, 7; コリント第一 7:19; 15:56; テモテ第一 1:9, 10; ヤコブ 1:22–25; 2:8–14; 4:11; ヨハネ第一 2:3–6; 3:4; 5:3; 黙示録 11:19; 22:14)。使徒たちは、それをユダヤ人を通して神から受けた価値ある遺産として教えました(ローマ 2:25–27)。

「天にある神の聖所が開かれたとき、契約の箱が見えた。天の聖所の至聖所の中に、神の律法がたいせつに安置されている。それは、神ご自身がシナイの雷鳴の中で語り、ご自分の手で石の板に書かれた律法であった。

天の聖所にある神の律法は、大いなる実体であって、石の板に刻まれ、モーセによって五書の中に記録された戒めは、その正確な写しである。」(各時代の大争闘下巻 152)

「道徳律は、決して型でも影でもなかった。それは人の創造以前から存在し、神の御座が続く限り存続するのである。」(セレクテッド・ メッセージ1 巻 239, 240)

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7永遠の真理 2015 年 3 月

キリストと律法:不可分キリストはご自分の心のうちに律法を持ってこられると言われました(詩篇

40:8; へブル 10:8, 9)。ですから、わたしたちはキリストなしに律法を受け入れることも、律法なしにキリストを受け入れることもできません。両者は互いに不可分です。律法の目的はわたしたちにその罪を示すことであり(ローマ 3:20; ヤコブ1:22–25)、またわたしたちを罪を負われるイエス・ キリストに導くことです(ローマ10:4; ガラテヤ 3:24)。わたしたちがキリストを受け入れるとき、このお方はご自分の律法、すなわち十誡をわたしたちの心のうちに記し(エレミヤ 31:33; へブル 10:16)、このお方に従うことが自然になります (ヨハネ第一 3:6; 各時代の希望中巻 13)。

「律法は罪人が自分の道徳的品性の欠点を識別することができる大いなる鏡である。」(サインズ・ オブ・ タイムズ1878 年 7 月18 日)

裁きの基準神の律法は、男女の行動、言葉、意図、そして思想を裁く基準である(伝道

の書 12:13, 14; ローマ 2:12, 13; 3:19; ヤコブ 2:12)。「神の律法が、審判の時に人々の品性と生活を吟味する基準である。」(各時

代の大争闘下巻 214)

定めとおきて「主は、ただ十誡の戒めを〔イスラエル〕に与えただけでやめられなかった。

人々は、すぐに誤った方向に惑わされるために、主は、一つでも誘惑の戸をあけておかないようにされた。モーセは、神がお命じになるままにおきてを書き、その要求項目を細かく人々に教えるように命じられた。人間の神と同胞に対する義務、そして、他国人に対する義務に関するこのような教えは、十誡の原則を単に拡大、明細にしたものであって、だれも考えちがいをしないようにするためであった。これらは、石の板に書かれた十の戒めの神聖さを守るためのものであった。」

(人類のあけぼの上巻 431)「人々が十誡の原則を実行していたのであれば、モーセに追加的に指示が与

えられる必要もなかった」(同上 432)

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8 永遠の真理 2015 年 3 月

朝のマナ

B. 礼典律

犠牲制度と年毎の七つの安息日(ユダヤの聖日)を含む礼典律は、救いの計画に含まれている奥義を型としてあらわしていました。その礼典は約束された救い主を指し示していました。キリストの死がそれを無効にしました

(エペソ 2:15; コロサイ2:14–17 (ヨハネ19:30; マタイ27:51 参照); へブル9:8–10; 10:1–6, 8)。人々に道徳律と礼典律を混乱させるため、明らかに後者について言及しているいくつかの聖句を前者に適用することにより、人々を導こうとするのが敵の目的ではありますが、わたしたちはこの二つを区別することができます。

レビの祭司職に関わる律法も廃されました(へブル 7:12–14, 19, 28)。「礼典律は、モーセに与えられたもので、モーセはそれを書物に書いた。しかし、

シナイから語られた十誡の律法は、石の板の上に神ご自身がお書きになったもので、契約の箱の中に大切に保存された。この礼典律のことを言っている聖句を用いて、この二つの制度を織りまぜて考え、道徳律は廃されたということを証明しようとする人々が多くいる。しかし、これは聖書の曲解である。この二つの制度には、実に明瞭な区別がある。」(人類のあけぼの上巻 432)

「クリスチャン世界の多くの人 も々また、自分たちの目と心の前に覆いがかかっている。彼らは廃されたものの終焉を見ない。彼らはキリストの死によって廃されたのは礼典律だけであることがわからない。彼らは道徳律が十字架にくぎづけにされたと主張する。彼らの理解力を暗くする覆いは重い。」(セレクテッド・ メッセージ1巻 239)

「彼らがこれまで重要不可欠なものとして携わってきた礼典と儀式、すなわち福音を受け入れることによってもはや効力を持たないものから彼らを解放することが……キリストの願いであった。これらの礼典を続けることは、エホバに対する侮辱となるのであった。」(SDA ハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリ [E・G・ ホワイト ・ コメント ]5 巻 1139, 1140)。

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9永遠の真理 2015 年 3 月

朝のマナ

われらの主よ、きたりませMaranatha

3 月「天にふさわしく」

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10 永遠の真理 2015 年 3 月

3月1日 天にふさわしく

前方にある危機

「ああ、その日はわざわいだ。主の日は近く、全能者からの滅びのように来るからである。」(ヨエル 1:15)

わたしは有るという偉大な神が、み言葉の中にお与えになった預言は、永遠の過去から永遠の未来に至るまでの諸事件を一つ一つつなぎ合わせて、われわれが今日、時代の推移の中のどこに位置するかを告げ、また将来何が起こるかを示しているのである。預言が、起こると予告したことはすべて、現在まで歴史のページをさかのぼることができるのであるから、これから起こることもすべて、その順序どおりに成就するものと確信してよいのである。

今日、時のしるしは、われわれが重大で厳粛な事件の門口に立っていることを告げている。われわれの世界のすべてのものは動揺している。再臨に先立って起こる出来事に関する救い主の預言が、われわれの眼前で成就している。「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。……民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう」。

現代はすべての人間にとって、圧倒的に興味深い時である。統治者や政治家たち、信頼と権威の座を占める人々、各階層の識者たちは、われわれの周りに起こっている出来事に注意を集中している。彼らは国家間の関係を見守っている。彼らは地上の勢力が緊張度を増しているのを観察する。そして彼らは、重大で決定的な何事かが起ころうとしており、今や世界は、驚くべき危機の瀬戸際に立っているのを認めるのである。

こうした事柄については、聖書、そして聖書だけが、その正しい見解を示しているのである。ここにわれわれの世界の歴史の、大いなる最後の光景が示されている。……接近する音は地を震わせ、人の心を恐怖におののかせている。(国と指導者下巻 144)

今日、人 も々また国 も々、誤られることのない神のみ手の中にあるおもりによって量られているのである。各々は自分自身の選択によって、各自の運命を決定している。そして神はそのすべてを支配して、みこころを達成しておられるのである。(同上 143)

キリスト者は、やがて世界に、圧倒的驚きとして起ころうとしている事件の、準備をしなければならない。そして彼らは、神の言葉を忠実に研究して、その教えに生活を調和させようと努力することによって、この準備をしなければならない。

(同上 226)

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11永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月2日

罪に病んだ魂の癒し

「その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ。これを絞り出すものなく、包むものなく、油をもってやわらげるものもない。」(イザヤ1:5, 6)

罪に病んだ魂のための治療法がある。その治療法はイエスのうちにある。尊い救い主。その恵みは最も弱い者に十分である。そして最も強い者もまたその恵みを得なければならない。さもないと滅んでしまうからである。

わたしはこの恵みがどのようにしたら得られるかを見た。あなたの私室へ行き、そこで、一人で神に嘆願しなさい。「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」と。熱心に心から……ヤコブのように祈りによって格闘しなさい。苦闘しなさい。……あなたは努力しなければならない。……

心を尽くして主を求めなさい。熱心に近づきなさい。そうすればあなたが神の助けなしには滅んでしまうと心から感じるとき、すなわち鹿が谷川の水を慕いあえぐように、あなたが神を慕いあえぐとき、そのときこそ主は、すみやかにあなたを力づけてくださる。そのとき、あなたの平安は理解を超えたものとなる。あなたが救いを望むなら、祈らなければならない。時間をとりなさい。あなたの祈りにおいて、急いだり、不注意であったりはならない。徹底的な改革をあなたのうちに起こしてくださるように神に請い求めなさい。そうすれば御霊の実があなたのうちに宿り、あなたは世の光として輝く。神の働きのために妨げとなったり、のろいとなったりしてはならない。あなたはその助けとなり、祝福となれるのである。サタンはあなたに完全な無償の救いを享受することはできないと言うであろうか。彼を信じてはならない。

神の御霊の深い感動を楽しむのは、すべてのクリスチャンの特権であることを、わたしは見た。快い天来の平安が思いに満ち、あなたは神と天国のことを深く考えるのを愛するようになる。神のみ言葉の栄光のみ約束の饗宴にあずかる。……

もしクリスチャンが世よりもイエスを愛すると公言するなら、彼らは自分の親友であるイエス、自分の最高の愛情が集中するイエスのことを話すことを愛するはずである。彼らが失われた滅び行く自分の状態を感じたとき、イエスは助けに来てくださった。罪にうんざりし、重荷を負うて苦労していたときに、彼らはイエスのほうを向いた。主は彼らの罪と罪悪感という重荷を取り除き……そして彼らの愛情の流れをすべて変えてくださった。彼らはかつて愛したものを今は憎み、かつて憎んだことを今は愛するのである。

この偉大な変化があなたの心に起こっているであろうか。(教会への証 1 巻158 ~ 160)

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12 永遠の真理 2015 年 3 月

3月3日 天にふさわしく

新しいいのち

「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。……あなたがたは新しく生れなければならない。」(ヨハネ3:5 ~ 7)

自分で律法を守る行為によって天国にはいろうとする者は不可能なことを試みているのである。律法的な宗教、敬虔の形だけを持っている者には安全がない。クリスチャンの生活は古いものを修正したり改良したりすることではなくて、性質が生れ変ることである。自我と罪に対する死があり、まったく新しいいのちがある。この変化は聖霊の効果的な働きによってのみ行われる。……

人は自分が信仰にはいった正確な日時と場所を言ったり、入信の過程における事情を始めから終りまで説明したりすることができないかも知れない。だがそのことは、彼が信仰にはいっていないという証拠にはならない。風のように目に見えない力によって、キリストはたえず心に働きかけておられる。すこしずつ、おそらく本人の気がつかないうちに、魂をキリストヘひきよせるのに役立つ印象が与えられているのである。……みたまがもっと直接に訴えるとき、突然にその魂はよろこんでイエスに屈服する。多くの人はこれを突然の改心と呼ぶが、それは神のみたまが長い間その人を説得した結果、すなわち長期間にわたる忍耐強い作用の結果である。

風自体は目に見えないが、風によって生ずる結果は見たり感じたりすることができる。同じように、魂に対するみたまの働きは、その救いの力を感じた人のすべての行為にあらわれる。神のみたまが心を占領されるとき、それは生活を生れ変らせる。罪の思いはしりぞけられ、悪い行為は放棄され、愛と謙遜と平安が、怒りとねたみと争いに入れ代る。よろこびが悲しみに入れ代り、顔には天の光が反映する。だれも重荷を持ちあげる手を見たり、天の宮からくだる光を目に見たりする者はない。祝福は、信仰によって魂が神に屈服するときに与えられる。その時、人間の目で見ることのできない力が、神のかたちにかたどって新しい人間を創造する。

限りある人間の頭脳ではあがないの働きを理解することは不可能である。あがないの奥義は、人間の知識を超越している。それでも、死から生へ移る者は、それが天来の事実であることをみとめる。われわれは、あがないの発端はこの世において個人的な経験を通して知ることができる。しかしその結果は永遠の時代にまで及んでいるのである。 (各時代の希望上巻 201 ~ 203)

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13永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月4日

人生の最優先事項

「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

天の王国、キリストの義―これが第一の重大目標である。達成すべき他の目標は、これに従属する二番目のものになるべきである。

サタンは世的な快楽の道に花を撒き散らす一方で、聖潔の道は困難なものとして提示する。誘惑者は、偽りとへつらいの彩りのうちに、あなたの前に世と世の楽しみを並べ立てる。虚栄は、わたしたちの邪悪な性質のうちでも、最も強い特徴であって、サタンはこれにうまく訴えることができることを知っている。彼は自分の代理人を通してあなたにへつらう。あなたは自分の虚栄を満足させ、自尊心とうぬぼれを助長するような称賛を受けて、そのような利点と魅力があるのに、世から出て、クリスチャンとなることは、自分にとって本当に残念なことだと思うかもしれない。……しかし世の楽しみには終わりがあり、またあなたはまいたものを刈り取らなければならないということをよく考えてみなさい。個人的な魅力や能力や才能は、神に、すなわちあなたの存在の創始者であり、毎瞬間あなたを見守って下さっているお方にささげるには、あまりに価値がありすぎるのであろうか。あなたの資質は神にささげるにはあまりにも貴重なのであろうか。

自分には心を活気づけ、気分を晴らす何かが必要だと、若者は強く主張する。勤勉の中に楽しみがあり、有益な人生を追い求める中に満足があるのを、わたしは見た。ある者はなおも、気苦労やうんざりする労働の中で、気分転換となる慰めや活気づけとなる……何かがなければならないと主張する。クリスチャンの希望こそ、まさに必要とされているものである。宗教は、信者にとって慰めるものであり、真の幸福の源であられるお方へ確実に導くものであることが分かる。若い人は神のみ言葉を研究して、深い瞑想と祈りにひたるべきである。そうすれば空いた時間をこの上なく良く用いることができることが分かるのである。

青年がたよ、あなたがたははたして自分が神の愛のうちにいるかどうか、自分を吟味するために時間を取るべきである。勤めて、あなたの召しと選びを確かなものとしなさい。(教会への証 1 巻 502, 503)

まず神の国と神の義とを求めなさい。これを最初とし、最後としなさい。正しく知ることが永遠の命であるそのお方を、この上なく熱心に求めなさい。キリストとその義が魂の救いである。(クリスチャン教育の基礎 484)

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14 永遠の真理 2015 年 3 月

3月5日 天にふさわしく

天にある傷のない真珠

「また天国は、良い真珠を探してる商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売り払い、そしてこれを買うのである。」(マタイ13:45, 46)

キリストご自身が、高価な真珠である。……キリストの義は、純粋な白真珠のように、しみも傷もない。どんな人間の技術をもってしても、この偉大で尊い神の賜物をそれ以上にすぐれたものにすることはできない。それには、一つとしてきずがない。キリストの中には「知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(コロサイ2:3)。キリストは、「わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」 (コリント第一 1:30)。キリストの中には、現世だけでなく、来世の人間の魂の必要とかわきを満たすものが、すべて備わっているのである。わたしたちのあがない主は、実に高価な真珠である。他のものは全く比較にならないほど価値がないのである。……

たとえでは、真珠を、賜物としてあつかっていない。商人は、持ち物を全部売って、それを買ったのである。キリストは、聖書の中では、賜物であると教えられているから、これは、どうしたことであろうと疑念をいだく人も多いことであろう。キリストは、たしかに賜物であることにちがいないが、それは、キリストに身も心も魂も全くささげるものに対してだけ与えられる賜物である。わたしたちは、自分をキリストにささげ、キリストのすべてのご要求に喜んで従う生活をしなければならない。わたしたちのいっさい、わたしたちの才能も力量もことごとく主のものであるから、それを主のご用にささげなければならない。自分を全く主にささげるときに、キリストは、天のあらゆる宝とともに、ご自身をわたしたちにお与えになる。わたしたちは、高価な真珠を所有するのである。……

神の恵みの支配下にある市場で高価な真珠は、金なく価なくして売買されるものであるといわれている。だれでも、この市場で、天の財宝を手に入れることができる。真理の宝庫は、万人に開かれている。……「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買え」と救い主のみ声は、しきりにやさしく訴えているのである。……どんなに貧しい人でも、どんなに富んでいる人でも同じように、救いを買うことができる。これはどんなに地上の富を積んでも買えるものではない。喜んで神に従い、わたしたちを、キリストご自身があがなわれた所有としてキリストにささげることによって、得られるのである。……

救いは、人間の努力によって得られるものではない。しかし、この世界のいっさいをなげうつほどの熱誠さと忍耐をもって求めなければならないものである。

(キリストの実物教訓 92 ~ 94)

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15永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月6日

唯一の救い主キリスト

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子(の血)によってあがない……を受けているのである。」(コロサイ1:13, 14)

あなたがだれであろうと、あなたの人生が今までどのようであろうと、あなたは神の備えられた方法によってのみ救われることができる。あなたは悔い改めなければならない。あなたは無力なまま岩なるキリスト・イエスの上に落ちなければならない。あなたは医者の必要と、罪に対する唯一の治療法、すなわちキリストの血の必要を感じなければならない。この治療は、神に対する悔い改めとわたしたちの主イエス・キリストに対する信仰によってのみ、自分のものとすることができる。……キリストの血はその清める力の必要を感じる者だけに効力がある。

わたしたちが神のあわれみを求める権利がまったくないときに、キリストがわたしたちの贖いを自ら引き受けてくださったとは、なんと驚くべき愛と謙遜であろうか。しかし、わたしたちの偉大な医者は、すべての魂に、質問しない従順を求めておられる。わたしたちは決して自分の事情に合わせて処方をしてはならないのである。キリストが意志と行動の完全な支配権を持つのでなければならない。……

自分の道徳的品性は正しいので、普通の罪人のように神のみ前に自分をへりくだらせる必要はない……と、うぬぼれるかもしれない。しかし、わたしたちは喜んで罪人のかしらと全く同じ方法で命に入らなければならない。自分の義を放棄し、キリストの義を着せて下さるよう嘆願しなければならない。自分の力としてキリストに完全に頼らなければならない。自己は死ななければならない。自分が持っているものはみな、神の恵みの絶大な富からのものであることを認めなければならない。次をわたしたちの心の言葉としよう、「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただみ名にのみ帰してください」。

真の信仰には愛が続き、愛には従順が続く。改心した人の力と熱情は、すべてキリストの支配のもとに置かれるようになる。キリストの御霊は新たにする力、すなわちそれを受け入れるすべての者を、神のみかたちに変える力である。……

「すべて神から生まれたものは、罪を犯さない」。彼は自分がキリストの血で買い取られたものであり、また、神のものである自分のからだと霊において神に栄光を帰すという最も厳粛な誓いに拘束されていることを感じる。罪への愛着と自己愛は心の中で征服されている。彼は日毎に「わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか」、「主よ、あなたはわたしに何をするよう望んでおられるのですか」と問うのである。(教会への証 5 巻 218 ~ 220)

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3月7日 天にふさわしく

自分で味わいなさい

「主の恵み深きことを味わい知れ、主により頼む人はさいわいである。」(詩篇34:8)

わたしたちは神の恵み深いことと神の愛を、どのようにして自分で知るのであろうか。詩篇記者は、わたしたちに聞いて知りなさい、読んで知りなさい、また信じて知りなさい、とは教えていない。そうではなく、「主の恵み深きことを味わい知れ」と告げている。他人の言葉に頼る代わりに、自分で味わいなさい。

経験とは実験から得られる知識である。経験的な宗教が、今必要とされている。……ある人々―しかり、多数の人々―が、宗教上の真理という理論上の知識をもってはいるが、自分自身の心に神聖な恵みの新しくする力を感じたことがない。……彼らは神の怒りを信じはするが、それを逃れるために熱心に努力しようとはしない。天国を信じてはいるが、それを得るために犠牲を払おうとはしない。……罪のための治療法を知ってはいるが、それを用いないのである。正しいことを知ってはいるが、それに対して何の興味もない。彼らの知識はことごとく、彼らの有罪を増すだけである。彼らは経験によって、主の恵み深いことを味わうことも、学ぶこともないのである。

キリストの弟子になるというのは自己を否定し、良いときばかりでなく、悪い時もイエスに従うことである。……自分の宗教生活を妨げるいとしい放縦はすべて断ちきらなければならない。……わたしたちは到達すべき目標の価値に見合った努力をし、犠牲を払うつもりがあるであろうか。

わたしたちが形成するあらゆる交わりは、どれほど制限されていようとも、わたしたちに何らかの感化力を及ぼす。わたしたちがその感化力にどれほど屈するかは、親しさ、交わりの不変性、また交わる人に対するわたしたちの愛情や尊敬の念の程度によって決まる。このようにして、キリストを知り、交わることによって、わたしたちは完璧な模範であられるお方に似たものとなることができるのである。

キリストとの交わり―それはなんと表現しがたいほど尊いことであろうか。もしわたしたちがその交わりを求め、それを確保するのに、いかなる犠牲でも払うつもりなら、それを楽しむのがわたしたちの特権である。(教会への証 5 巻 221~223)

だから、だれでも自分自身の経験を通して、「神がまことであることを、たしかに認め」ることができる(ヨハネ 3:33)。……「わたしには助けが必要でしたが、その助けは、イエスから与えられました。すべての欠乏は補われ、魂の飢えはみたされました。……イエスはわたしにとっては天よりの救い主であるゆえ、このお方を信じます。わたしが聖書を信ずるかといえば、それは、聖書がわたしの魂にとって神のみ声であることがわかったからです」と証しすることができる。(教会への証 8 巻 321)

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天にふさわしく 3月8日

天の国籍を持つ者

「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍のものであり、神の家族なのである。」(エペソ 2:19)

「見よ、わたしはすぐに来る」とイエスは仰せになる。わたしたちはこの言葉を心のうちに保ち、本当に主の来臨が近く、自分たちが地上では旅人であり寄留者であることを信じている者として行動すべきである。(教会への証 5 巻 266)

神の愛がますます魂のうちに満ちあふれ、「あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのない者となり、義の実に満たされるように」、すべての恵みの富を勤勉に活用すべきである。あなたのクリスチャン生活は活力に満ち、断固としたものでなければならない。あなたは聖書の中であなたの前におかれた高い標準に到達することができるし、またもし、あなたが神の子となりたいのなら、到達しなければならないのである。立ち止まっていることはできない。前進するか後退するかのどちらかである。……

あなたはクリスチャンとしての成長に制限をもうけているだろうか。それとも天の生活へと健全な進歩を遂げているだろうか。霊的な健康があるところには成長がある。神の子はキリストにある男女の満ちみちた徳の高さにまで成長する。その向上に限界はないのである。……

キリストのうちに強くなり、確立されているはずのある人々は、神の御霊の働きの理解も、経験による知識も幼子のようである。数年にわたる経験の後、彼らが理解できるのは、キリストの教えを構成する壮大な信仰と教理の体系のほんの初歩の原則だけである。彼らは「よくやった」とおほめの言葉を受ける品性の完全さについては理解していない。……

わたしたちには得るべき偉大な勝利があり、またもしそれを得なければ失ってしまう天がある。肉の心は十字架につけられなければならない。なぜなら、その傾向は道徳上の破滅をもたらし、その終わりは死だからである。……聖書の力強い活力……が麻痺してしまった魂に電撃のように下り、全神経が新しい命に奮い立ち、存在全体が、死んだ世俗的で好色の状態から、霊的健全さへと回復されるように祈り求めなさい。あなたはこのようにして天の性質にあずかるものとなり、……そして、あなたの魂のうちにあなたを癒してくださるお方のみ姿を反映されるのである。(同上 264 ~ 267)

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3月9日 天にふさわしく

より完全な神の知識

「永遠の命とは唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを信じることであります。」(ヨハネ17:3)

この地上で神を知ることによってのみ、わたしたちは主の来臨の時に主にお会いする準備ができる。……しかしキリストを信じていると公言する多くの者が、神を知らないのである。彼らにはただ表面的な宗教しかない。彼らは神を愛していない。神のご品性を学んでいない。だから、どのように信頼し、見て、生きるのかを知らないのである。彼らは静かな愛が何であるか、信仰によって歩むことが何を意味するのかを知らない。……彼らは、他の人を富ませることができるために受けることが、自分の義務であるということを理解していないのである。

世は、知恵によって、神を知ることはできない。多くの者が神について雄弁に語ってきたが、その理論はだれも神の近くに導かない。なぜなら、語る者自身が神との生きたつながりのうちにいないからである。彼らは自らを賢いものと公言しながら、愚かになっている。神に関する彼らの知識は、不完全である。(レヒ ュ゙ー・ アンド・ ヘラルド1903 年 2 月 3 日)

わたしたちは探し求めることによって神を見出すことはできない。しかし、父の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である御子のうちに、神はご自身を表しておられる。もしわたしたちが神の知識を望むなら、キリストに似た者でなければならない。キリストを自分の個人的な救い主として信じる信仰によって純潔な生活を送るなら、信者はもっと明確で高い神の概念に達する。(彼を知るために1月 3 日)

キリストは神の完全な啓示である。「神を見たものはまだ一人もいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」と主は仰せになる。キリストを知ることによってのみ、わたしたちは神を知ることができる。そしてわたしたちがキリストを眺めるとき、そのみかたちに変えられ、主の来臨の時にお会いする準備ができるのである。……

今はわたしたちが主の来臨に備える時である。主にお目にかかる準備は、一瞬にしてできるものではない。その厳粛な光景の準備のために、熱心に働くと共に、油断なく守り、見張らなければならない。神の子らは、そうすることによって主に栄光を帰すのである。生活の忙しい状況の中で、励ましと希望と信仰の言葉を語っている彼らの声が聞かれる。彼らの持っているものも、また彼らの存在そのものもみな、ご主人の奉仕にささげられる。このようにして、彼らは主にお会いする準備をするのである。そして主が来られるとき、喜びをもって「これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわれわれを救われる……わたしたちはその救いを喜び楽しもう」と言うのである。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1903 年 2 月 3 日)

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天にふさわしく 3月10日

最高の瞑想

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えて見なさい。わたしたちはすでに、神の子なのである。」(ヨハネ第一 3:1)

わたしたちのような罪人であり、国籍のない者を、神の許に連れ帰り、その家族の養子としていただけるとは、なんという愛、なんとはかりしれない愛であろうか。わたしたちは神を、「われらの父」という永遠のみ名をもって呼ぶことができるのである。……

人間の心という通路を通して各世代にわたり、受け継がれてきたすべての父の愛、また人の魂の中に開かれたすべての優しさの泉は、無限にして尽きることのない神の愛と比べると、広大な大洋に対するほんの小川に過ぎない。舌はこれを述べることはできない。筆はこれを描くことはできない。あなたは一生の間毎日これを瞑想することができる。神の愛を理解するために聖書を勤勉に探り求めることができる。天の御父のあわれみと愛を理解しようと努力して、神があなたに与えてくださった力と能力をすべて結集することができる。それでもなお、無限のかなたがあるのである。あなたは長い間その愛を研究することができる。しかし世のためにご自分のひとり子を死に渡される神の愛の長さ、広さ、深さ、高さを完全に理解することは決してできない。永遠そのものでも、この愛を完全に明らかにすることは決してできないのである。それでもなお、わたしたちが聖書を研究し、キリストの生涯と贖いの計画を瞑想するとき、この偉大な主題はわたしたちの理解力にますます明らかにされる。(教会への証 5 巻 739, 740)

キリストは世に対して神をあらわすために、すなわち愛の神、あわれみと優しさと思いやりに満ちた愛の神としてあらわすために来られた。(同上 738, 739)

毎日キリストの生涯を、馬ぶねからカルバリーまで振り返る瞑想の時間をとるのは良いことである。その生涯の一つ一つを取り上げて、想像力によって各場面をとくにその地上生活の最後の場面を生き生きととらえるべきである。キリストの教えと苦しみと、そして人類の贖いのために払われた無限の犠牲をこのように熟考することによって、わたしたちは自分の信仰を強め、愛を燃えたたせることができ、またわたしたちの救い主を支えていた精神をもっと深く吹き込まれることができる。もしわたしたちが最後に救われたいのなら、十字架の足元で悔い改めと信仰の教訓をみな学ばなければならない。……人のうちにあるすべて高尚にして寛容なものが、十字架上のキリストを瞑想するとき、それに反応する。(教会への証 4 巻 374)

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3月11日 天にふさわしく

要求されている白い衣

「王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。」(マタイ22:11, 12)

たとえの中の礼服は、キリストの真の弟子が持つ清くてしみのない品性をあらわしている。教会は、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、」「汚れのない麻布の衣を着る」 のである ( エペソ 5:27、黙示録 19:8)。この麻布の衣は 「聖徒たちの正しい行いである」と聖書にしるされている ( 黙示録 19:8)。主を自分の救い主として受け入れるすべての者に信仰を通して与えられるのは、キリストの義であり、キリストご自身の汚れのないご品性である。

神が人類を最初に聖なるエデンに置かれたとき、彼らが着ていたのは純潔という白い衣であった。……しかし罪が侵入したとき神とのつながりは断たれ、それまで彼らを取り囲んでいた光は消え去った。……人は、失われた純潔という衣の代わりになるものをくふうすることはできない。……キリストご自身の備えてくださった衣だけが、わたしたちを神の臨在の前に立たせてくれるのである。キリストはこのおおい、すなわち主ご自身の義の衣を、悔い改めて信ずる一人一人の魂に着せてくださるのである。……天の織機で織られたこの衣には、人間の創意による糸は一本も含まれていない。キリストは人性をおとりになって完全な品性を形成された。そしてこの品性をわたしたちに分け与えてくださるのである。「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」( イザヤ書 64:6)。わたしたちが自分でなし得ることは、罪で汚れている。しかし神のみ子は「罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない」( ヨハネ第一 3:5)。……

キリストはその全き従順によって、あらゆる人間が神の戒めに従うことができるようになさった。人が自分自身の心をキリストにささげるとき、心はキリストの心と結合し、意志はキリストの意志に没入し、精神はキリストの精神と一つになり、思いはキリストのうちにとらわれて、わたしたちはキリストのいのちを生きる。これがキリストの義の衣を着ることである。そして、主がわたしたちをご覧になるとき、いちじくの葉の衣でも、裸と罪のみにくさでもなく、エホバなる神の律法への完全な従順であるご自分の義の衣をお認めになる。(キリストの実物教訓 290 ~292)

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天にふさわしく 3月12日

従順のうちにある喜び

「主よ、わたしはあなたの救を慕います。あなたのおきてはわたしの喜びです。」( 詩篇 119:174)

真のクリスチャンは決して、キリストのくびきが首を痛めるとつぶやいたりはしない。彼はイエスの奉仕を最も真実な自由だと考える。神の律法は彼の喜びである。神聖な命令を自分の不足にあわせて引きおろそうとする代わりに、絶えずその完全さの標準に到達しようと奮闘する。

もし、神の日に立つ準備をしたいなら、そのような経験がわたしたちのものとならなければならない。猶予の期間が延ばされ、あわれみの声がまだ聞こえている今こそ、わたしたちにとって自分の罪を捨て去る時である。……

わたしたちが神の恵みのうちに完全な者として立ち、何一つ足りないところがなく、主の再臨を待ち望むことができるように、神は十分な備えをしてこられた。あなたは準備ができているであろうか。婚礼の礼服を着ているであろうか。この礼服は決して、欺き、不純、堕落、あるいは偽善を覆うことはない。神の目はあなたに注がれている。……わたしたちは自分の罪を人の目から隠すことはできるが、造り主からは何も隠すことはできない。

神はご自分の御子さえ惜しまないで、わたしたちの罪のために御子を死に渡され、わたしたちの義認のためにふたたびよみがえらされた。キリストを通してわたしたちは自分の嘆願を恵みの御座に差し出すことができる。キリストを通して、わたしたちは無価値な者であるにもかかわらず、すべての霊的祝福を手に入れることができる。わたしたちは命を得るためにこのお方の許へ行くであろうか。(教会への証 5 巻 220, 221)

神のみこころは、神の聖なる律法のうちに表明されている。そして、この律法の原則は天の原則である。神のご意志を知ることは、天使たちの達しうる最高の知識であり、神のみこころを行なうことは、彼らの力を働かせることのできる最高の奉仕である。

しかし、天においては、奉仕は、律法主義の精神で行なわれるようなことはない。サタンがエホバの律法に対して反逆した時、それまで考えもしなかったことにめざめたかのように、天使たちは、律法があったことを考えた。奉仕をするにあたって、天使たちは、しもべとしてでなく、子として奉仕する。……服従は彼らにとって苦役ではない。神に対する愛は、彼らの奉仕を喜びとする。そのように、栄光の望みなるキリストが内住するすべての心のうちに、「わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」というキリストのみことばが反響するのである ( 詩篇 40:8)。(祝福の山 136, 137)

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22 永遠の真理 2015 年 3 月

3月13日 天にふさわしく

神の仕事場で仕上げる

「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」(コリント第一 6:19, 20)

わたしたちは自分自身のものではない。高価な代償、神のみ子の苦しみと死さえも受けて買われたのである。もしわたしたちがこのことを理解し、十分に悟ることができたなら自分を最高の健康状態に保つようにと、自分に委ねられている大いなる責任を自覚し、神に完全な奉仕でお返しするはずである。……

キリストがまもなく来られるということをわたしたちは疑いもなく信じている。……わたしたちが今日しっかり持っている教理は現代の真理であって、自分たちが審判の時に近づいているということに何の疑いもなく、また何年も疑念一つなかった。わたしたちは主にお会いする準備をしている。このお方は忠実な者と義なる者に不死という仕上げの一触を加えるために、聖天使の群れに付き従われ、天の雲に乗ってこられるのである。キリストが来られる時にはわたしたちの罪を清めることはなく、またわたしたちの品性の欠点を取り除くこともせず、わたしたちの気質や性質に潜む弱点を直すこともない。もしわたしたちのためにこの働きがなされるとすれば、来臨の前にすべてがなしとげられるのである。

主が来られるとき、聖なる者は聖なるままである。自分のからだと精神を聖潔のうちに、すなわち聖化と誉のうちに保ってきた人々は、そのときに不死という仕上げの一触を受ける。しかし不正直で、清められておらず、汚れている者は永遠にそのままの状態である。彼らの欠点を取り除き、気高い品性を与える働きが、そのとき彼らのためになされることはない。……このことはすべてこの猶予の期間になされなければならない。この働きがわたしたちのためになしとげられるべき時は今である。……

わたしたちは今神の仕事場にいる。わたしたちの多くは採石場からもってきたばかりのざらざらした石である。しかしわたしたちが神の真理をつかむとき、その影響力がわたしたちに作用する。真理はわたしたちを高めどのような性質の不完全さも罪もわたしたちから取り除く。このようにして麗しい王にお目にかかり、栄光の王国で純潔な人々や、聖天使たちとついには一体になる備えがなされるのである。この働きがわたしたちのために成し遂げられなければならないのはこの地上であり、わたしたちのからだと精神が不死にふさわしくなるべきなのも、この地上である。(教会への証 2 巻 354 ~ 356)

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23永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月14日

身体の健康と気高い思い

「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」(ペテロ第一2:11)

多くの人がこの聖句を不道徳に対する警告とだけみなしているが、もっと幅広い意味がある。すべての有害な食欲と情欲を満たすことを禁止しているのである。誤った食欲の一つ一つが戦う肉の欲となる。食欲は良い目的のために与えられたものである。ゆがめられることによって、死に仕えるものなり、それによって「魂に戦いをいどむ欲」へと陥らせるためではない。ペテロの忠告はあらゆる刺激性のもの、麻酔性のものの使用に対する率直な、説得力のある警告である。この欲にふけることは、道徳上の品性にひどく有害な影響を及ぼす欲の部類に入る。

(クリスチャンの節制と聖書の衛生 54)信心深いと称する人にからだの健康に無関心でいて良いと思わせてはならな

い。また不節制が罪ではなく自分の霊性に影響がないと思わせてはならない。身体的また道徳的性質の間には密接な共鳴関係が存在する。徳の標準は身体の習慣によって上がったり下がったりする。最上の食物を度を越して食べることは、道徳観を不完全な状態にする。そして食物がもっとも健康的なものでないなら、結果はもっと害を与えることになる。体の中で健康を増進しない習慣はどのようなものでも、より気高い高貴な能力を引きおろしてしまう。……食欲の放縦は動物のような性癖を強め、知的な、また霊的な力をこの性癖が、支配するようにさせてしまう。(健康についての勧告 67)

食欲に負けるように誘う誘惑の力は、荒野においてあの長い断食をされたとき、わたしたちの救い主が経験された言いしれぬ苦悶によってのみ測ることができる。主は誤った食欲の放縦が人間の知覚をあまりに麻痺させてしまい、神聖な事物を識別することができなくなることを知っておられた。……放縦な食欲の力がこれほど強く人類に及んでいるので、その勢力を破るために、尊い神の御子が人間の代わりに、六週間近くも断食をなさらなければならなかったとすれば、クリスチャンの前にはなんという大変な仕事があることであろう。しかし、その戦いがどれほど大きくても勝利することができるのである。サタンが考案できる最も恐ろしい誘惑に耐えた神の力の助けによって、人間もまた悪との戦いにおいて完全に成功することができ、最後に神の王国で勝利者の冠をかぶることができる。(食事と食物に関する勧告 153, 154)

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24 永遠の真理 2015 年 3 月

3月15日 天にふさわしく

人生の種蒔きと収穫

「そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人 と々共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。」(テモテ第二2:22)

親愛なる若い友よ。あなたの野生のカラス麦をまくのに費やしたわずかな時間があなたの生涯をみじめにする収穫をもたらすのである。軽率だった一刻、一度誘惑に屈したことがあなたの人生のすべての流れを悪い方向に変えてしまうかもしれない。若い時代は一度しかないのだから、有益なものとしなさい。一度その地点を通りすぎてしまえば自分の過ちを正すために後戻りすることは決してできないのである。……

サタンは……光の天使に変装して、もっともらしい誘惑をたずさえて若い人々のところへやってくる。そして一歩一歩、義務の道から彼らをそらせるのに成功するのである。サタンは告発する者、欺く者、うそつき、悩ます者、殺人者として表現されている。……あなたを誘惑するのはサタンの行為である。しかし屈するのはあなた自身の行為である。誘惑される者に罪を強制的に犯させる力は、サタンの軍団にはない。罪に対する言い訳はないのである。(教会への証4巻 622, 623)

誘惑は罪ではない。イエスは聖であり純潔であられたが、あらゆる点においてわたしたちと同じように誘惑に会われた。どんな人間も誘惑に耐えるためにこれほどの強い力を要求されることはない。ご自分の誘惑に対する抵抗が成功したことにより、イエスは輝かしい模範を残して下さったので、わたしたちはみ足の跡に従うべきである。もしわたしたちが自己に満足し、自己を義としているならば、誘惑の力の下に倒れるままにされるであろう。しかしもしわたしたちがイエスを仰いで、このお方に信頼するなら、戦場で敵に勝利した力を援軍を要請しているのであり、このお方はあらゆる誘惑に対して、逃れの道を備えてくださるのである。サタンが洪水のように入り込んでくるとき、わたしたちは御霊の剣でその誘惑に立ち向かわなければならない。そうすればイエスがわたしたちの助け手となり、わたしたちのためにサタンに反対して旗を掲げて下さる。(教会への証 5 巻 426)

品性の一つの悪い特徴、大事にしている一つの罪深い欲望が福音の力すべてをいつかは無効にする。……義務のつらさと罪の快楽はサタンが人をわなに縛り付ける紐である。悪い事をするよりも死ぬほうがよいと思う者が、忠実であると認められる唯一の人々である。(教会への証 5 巻 53)

若い人々はサタンの最も強力な誘惑も彼らをその献身から引き離したりはしないほど原則を堅く持っていることができる。(教会への証 3 巻 472)

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25永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月16日

天が是認する品性

「あなたは年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ言葉にも行状にも信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」(テモテ第一 4:12)

天の至高者であられるイエスは若者のために模範を残された。日々の糧のためにナザレの仕事場で精をだして働かれたのである。主は両親にとっては仕える者であって、ご自分の時間をとろうとしたり、ご自分の意志通りにしようとはされなかった。安楽な放縦な生活によって、若者は人としてあるいはクリスチャンとして真の美点に到達することは決してできない。神はご自分の奉仕の中に安逸や名誉、また富を約束してはおられない。しかし、すべての必要な祝福は「迫害の時にも」わたしたちのものであり、来るべき世での「永遠に続く命」もわたしたちに保証しておられる。ご自分の奉仕に対する、まったく完全な献身をキリストはお受け入れになる。このことはわたしたちが一人一人学ばなければならない教訓である。……

わたしたちはしっかりした宗教原則を支えている力の実例を見てきた。……口を大きく開けたライオンのいる洞窟はダニエルを日毎の祈りから引き離すことはできなかった。また燃えさかる炉もシャデラクとその仲間にネブカデネザルの建てた偶像にひれ伏すようにと説き伏せることはできなかった。原則に堅く立つ若者は快楽を避け、苦しみを意に介さず、神に不忠実であることを見られるよりはライオンの洞窟や熱して燃えさかる炉をものともしない。ヨセフの品性に注目しなさい。美徳は厳しく試されたが、その勝利は完全なものであった。あらゆる点において、この気高い若者は試練に耐えた。同じ高尚な、確固たる原則があらゆる試練の時に現れた。主が彼と共におられ、そのみ言葉が律法であった。(教会への証 5巻 42, 43)

聖書を研究し、神と相談しキリストにより頼む人々はいつでもどのような状況の下でも賢く行動することができる。良い原則が実際の生活の中で実証される。今の時代のための真理だけを心から受け入れ、それが品性の基本となるようにしなさい。そうすれば不動の目的を生み出すことになり、快楽に対する要求やくるくるかわる習慣、世を愛する者のさげすみ、そしてわがままに対す心の要求が影響力を失う。良心がはじめに啓発されなければならない。そして意志はその支配下に入らなければならない。真理と義に対する愛が魂を治めなければならない。そうすれば天が是認することのできる品性が現れる。(教会への証 5 巻 43)

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26 永遠の真理 2015 年 3 月

3月17日 天にふさわしく

ペテロのはしごをのぼる

「 それだから、あなたがたは、力の限りをつくして、あなたがたの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」(ペテロ第二 1:5-7)

ペテロの八段のはしごを若者に指し示しなさい。そして最上段ではなく、最初の段に足をかけさせ、熱心に懇願して、一番上までのぼるように彼らに強く勧めなさい。

キリストは……はしごである。その一段目はキリストの人性のうちに、地上にしっかりと立っている。その一番上は、主の神性のうちに神の御座にとどいている。キリストの人性は堕落した人類を抱きしめており、同時にその神性は神の御座をしっかりとつかんでいるのである。わたしたちは、はしごを一段一段のぼっていくことによって救われる。キリストを見つめ、キリストにすがりついて、キリストの高さにまで一歩一歩登っていくことによって救われるのである。それは主がわたしたちにとって、知恵と義と清めと贖いとになられるためである。信仰、徳、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛、そして愛はこのはしごの各段である。これらの恵みはすべてクリスチャンの品性のうちに現れるべきものである。そして「もしあなたがこれらのことを行うなら、決してあやまちに陥ることはない。こうして、わたしたちの主、また救い主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みが、あなたがたに豊かに与えられるからである。」(教会への証 6 巻 147)

あなたは一つの恵みを完全なものにするまで、他の恵みを啓発するのを待たなければならないなどと考えるべきではない。そうではない。これらの恵みは共に成長しなければならないのである。……・日々の生活の中で、あなたはキリストの品性の中に完全にあらわされている祝福された特質を完成していくことができるのである。……(SDA ハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリ [E・G・ホワイト ・ コメント ]7 巻 943)

一生のうちにしなくてはならない仕事が山ほどあっても、それに圧倒されてはならない。それだけのことを一度にやることを要求されているわけではないからである。あなたの存在のすべての力を一日一日の仕事に用い、尊い機会の一つ一つを利用し、神が与えてくださる助けを感謝し、進歩のはしごを一歩一歩登っていきなさい。一度に一日しか生きることはできないこと、また神はあなたに一日を与えてくださったのであり、天の記録はあなたがその特権と機会の価値をどのように測ったかを示すのだということを覚えていなさい。どうか、神から与えられた一日一日をよく用いて、最後には主から「良い忠実な僕よ、良くやった」とのみ言葉をあなたが聞くことができるように。(青年への使命 33, 34)

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27永遠の真理 2015 年 3 月

 天にふさわしく 3月18日

魂の呼吸

「絶えず祈りなさい。」(テサロニケ第一 5:17)

祈りは魂の呼吸であり、すべての祝福の通路である。悔い改めた魂が祈りをささげる。……とき、神はその苦闘を見られ、その闘争をごらんになり、その誠実さに注目される。神は祈るものの脈拍にみ手をおき、あらゆる鼓動を記される。気持ちが脈拍を高めるのではなく、感情が興奮させるのでもなく、悲しみが変化させるのでも、罪が汚すのでもなく、思いや目的が動かすのでもない。神はこれらのことによってお知りになるのでもない。この魂は無限の価をもって買われたのであるから、変えることのできない深い愛で愛されているのである。

魂を癒すためになす、偉大な治癒者への祈りは神の祝福をもたらす。祈りはわたしたちを互いに、また神へ結びつける。イエスにわたしたちのそばに来ていただけるようにし、弱った、途方にくれた魂に、新しい力強さと、新鮮な恵みを与えてくれる。……

わたしたちの救い主キリストはわたしたちと同じように、あらゆる点において誘惑を受けられたが、罪のないお方であった。主は人と同じようになられた、主が必要とされるものは人が必要とするものであった。主は肉体を支えるために食物を必要とされた。体の疲れを回復する必要があった。義務と試練に備えて主が元気づけられるのは御父への祈りであった。日ごとに主は一連の義務に従事し、魂の救いに努められた。……そして、誘惑された人のために、一晩中祈りあかされた。……

救い主が山や荒野で夜の間過ごされた祈りの時間は、翌日出会わなければならない試練に不可欠なものであった。主はサタンの誘惑に会う可能性があったので、魂と体の回復と励ましの必要を感じられた。それだから、主の人生を生きようと努力している者も、この同じ必要を感じるのである。……

主はわたしたちに「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と仰せになる。キリストが「わたしは柔和で心のへりくだったものであるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と仰せになるとき、このお方だけがわたしたちに、応じる能力を与えてくださることができるのである。これは日々、自己は否定されなければならないことを意味している。キリストはわたしたちに、気高い決意、すなわち耐え忍び、辛抱強い精力をもって主の戦いを戦う意志を与えることがおできになる。神の恵みに助けられた、最も弱い者も、征服者以上のものになる力強さを持つことができるのである。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1900 年 10 日 30 日)

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28 永遠の真理 2015 年 3 月

3月19日 天にふさわしく

進歩の秘訣

「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎだせ。神はわれらの避けどころである。」(詩篇 62:8)

もしわたしたちが神にささげた生活の中で、向上したいのなら、祈りを多くしなければならない。真理のメッセージが初めに宣言されたとき、わたしたちはどれほどたくさん祈ったことであったか。どれほどしばしば、だれかのために祈る声が私室や納屋、果樹園、また木立の中で聞こえたことであろう。わたしたちはたびたび二、三人が集まって、み約束を求めて熱心な祈りに数時間を費やした。しばしば忍び泣きの声が聞こえ、また感謝の声、讃美の歌が聞こえた。今、神の日はわたしたちがはじめに信じたときよりも近づいている。だからわたしたちは、もっと熱心にもっと熱望して、はじめのころよりも熱烈になるべきである。危機は現在のほうがそのころよりも増しているのである。(教会への証 5 巻 161, 162)

イエスがこの地上の一生において知恵と力をお受けになったのは、ただひとり神に祈られた時であった。われわれもイエスの模範にならって夜明けやたそがれに天父と交わる静かなひと時を持つべきである。そうして一日中、心を神に向けていなければならない。われわれの道の一歩ごとに、神は「あなたの神、主なるわたしはあなたの右の手をとって……恐れてはならない、わたしはあなたを助ける』」と仰せになる ( イザヤ41:13)」。子供たちが人生の朝にこうした教訓を学ぶことができたなら、彼らの人生には何という新鮮さと力、何という喜びと楽しさがもたらされることであろう。(教育 305, 306)

あなたの心が、かわいているように神を慕い、生ける神を慕ってくだかれるようにしよう。キリストの生涯は人間がもし神の性質を持つならば、いったい何ができるかを示した。キリストが神からお受けになったものはみな、わたしたちも持つことができるものである。だから求めて受けることにしよう。ヤコブのような不屈の信仰と、切に求めてやまぬエリヤの精神をもって、神の約束なさったことが全部与えられるように求めなさい。

あなたの心が、栄光に輝く神の考えで満たされるようにしなさい。あなたの生活を、イエスの生涯にしっかりと結びつけなさい。やみの中から光が照りいでよと仰せになった神は、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、あなたの心を照らしてくださる。聖霊は、神に関することを明らかに示し、従順な者に生きた力を与えるのである。キリストは、あなたを無限の神の門口に導いてくださるのである。あなたは、幕のかなたの栄光を見ることができる。そして、いつも生きていて、わたしたちのためにとりなしておられるお方の十分な力を人びとにあらわすことができるのである。(キリストの実物教訓 128, 129)

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29永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月20日

疑わない信仰

「ただ、疑わないで、信仰をもって願いもとめなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」(ヤコブ 1:6)

祈りと信仰は密接な関係をもっており、両方いっしょに研究する必要がある。信仰の祈りには天来の学問がある。人生の活動に成功したいと思えば、だれでもこの学問を理解しなければならない。キリストは「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」と仰せになっている。キリストはわれわれの祈りが神のみ心にかなったものでなければならないことを明らかにしておられる。われわれの神の約束なさったものを求め、そして与えられるものはすべて神のみこころをなすために用いなければならない。この条件が果たされるときに、約束ははっきりしている。

罪のゆるし、聖霊、キリストのような性質、神の働きをなす知恵と能力、その他神の約束されたどんな賜物でも求めることが可能である。つぎに、われわれは与えられることを信じ、そして与えられたことを神に感謝しなければならない。

祝福の外面的な証拠をもとめる必要はない。賜物は約束の中にある。神がお約束になったことは神がなしとげてくださることができるのだという確信と、すでに持っている賜物はそれが最も必要であるときに実現されるという確信をもって働きにたずさわることができる。

このように神のみ言葉によって生活することは、全生活を神に服従させることである。必要感と依頼心がたえず意識させられ、心は神を追いもとめるであろう。祈りは必要であり、欠くことのできないものである。なぜならそれは魂の生命であるからである。家庭の祈り、公の祈りにはそれぞれの立場がある。しかし霊的生命をささえるのは神とのひそかな交わりである。……

世界はかつてみられなかったような緊張につつまれている。娯楽に、金もうけに、権力争いに、生存競争に、心も魂も肉体も恐るべき力にひきずられている。このたけり狂うあらしのさなかに神は静かにお語りになっている。神はわれわれにその中から出て神と交われと仰せになっている。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」と神は仰せになっている。

われわれにとって必要なことは、神のみ前にちょっとひと休みすることではなくてキリストと直接に交わること、座してキリストと交わることである。(教育 304 ~308)

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3月21日 天にふさわしく

心の清さと生命

「こころの清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。」(マタイ5:8)

神の都には汚れたものは何一つはいれない。その住民となるすべてのものは、この地上で心の清いものになっていなくてはならない。イエスに学んでいる者の中には、不注意なふるまいや、不適当な言葉や、下品な思いに対する嫌悪が徐々に強まってくる。キリストが心に住まわれる時、思いと行為が純潔になり、洗練されるのである。

しかしイエスのみ言葉は……もっと深い意味をもっている。単に世が純潔と考える意味での純潔―肉体的なものにとらわれず、情欲に汚れていないことを言うのでなく、心のかくれた目的や動機において真実であり、誇りや利己主義から解放され、謙そんで、無我で、幼な子のような者であることを意味する。

似たもの同志が理解し合えるのである。あなたが自分の生活に主の品性の本質である自己犠牲の愛の原則を受け入れない限り、あなたは神を知ることはできない。……

キリストが栄光のうちに来られる時、悪者は彼を見るに耐えないのである。主を愛するものにとっては命である主の臨在の光が、不敬虔な者にとっては死となる。……主が現われる時、彼らは彼らを贖うために死なれたおかたのみ顔から隠されることを祈るのである。

しかし、聖霊の内住によってきよめられてきた心にとっては、すべてが変わってくる。これらの人々は神を知ることができる。モーセは主の栄光が現わされた時、岩の裂け目にかくれた。わたしたちが神の愛を見るのは、キリストの中にかくれる時である。……

信仰によって今ここでわたしたちは神を見る。日 そ々の経験の中に、神の摂理の現われの中に、わたしたちは主のいつくしみとあわれみをはっきり知る。わたしたちはみ子の品性の中に神を認めるのである。……心の清い者は、自分たちの贖い主として新しい関係をもって神を見る。彼らは主の品性の純潔と美しさを見ると同時に、主のみかたちを反映することを切望する。彼らは悔い改めたむすこを抱きかかえようとひたすら待っている父として神を見る。そして彼らの心は言いあらわせない喜びと輝く栄光に満たされるのである。……

心の清いものは、神が彼らにこの世で生を与えておられる間、神が目の前におられるかのように生活する。そしてアダムがエデンにおいて、神と共に歩み、語ったように、来たるべき不死の状態において、彼らもまた顔と顔をあわせて神を見るのである。(祝福の山 30 ~ 33)

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天にふさわしく 3月22日

聖書で定義づけている聖化

「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみ言は真理であります。」(ヨハネ17:17)

真理によって聖化された者は、その力の生きた信任状であり、彼らのよみがえられた主の代表者である。キリストの宗教は好みを精錬し、判断力を清め、魂を高め、純潔にし、高貴にして、天のみ使いたちの社会にますますふさわしいクリスチャンにする。(彼を知るために 9 月1日)

「また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためにわたし自身を聖別いたします」(ヨハネ17:19)。「あなたがたは、真理に従うことによって、魂をきよめ、偽りのない兄弟愛を抱くにいたったのであるから、互いに心から熱く愛し合いなさい」(ペテロ第一 1:22)。「愛する者たちよ。わたしたちはこのような約束を与えられているのだから、肉と、霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神を恐れて全く清くなろうではないか」(コリント第二 7:1)。……

ここに聖書のいう聖化がある。これは単なる見せかけや、外見的な行為ではない。真理の通路を通して受ける聖化である。心の中に受け入れる真理であり、実際に生活の中で実行されるものである。

真理のある部分を捨てて、無視するものには聖書のいう聖化はない。神のみ言葉の中には光が十分に与えられているので、だれも間違う必要はない。……

人間のひとりになられたイエスは完全であられたが、なお恵みのうちに成長された。「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」(ルカ 2:52)。最も完全なクリスチャンでも神の愛と知識を絶えず増すことができるのである。……聖化は一瞬、一時間、あるいは一日の働きではない。これは恵みのうちに続く成長である。……サタンは生きており、活動している。だからわたしたちは彼に抵抗するために日々助けと力を求めて、神に熱心に叫び求める必要がある。サタンが支配する限り、わたしたちには、抑えるべき自己があり、勝利すべき弱みがあって、とどまる場所はない。わたしたちが完全に到達したと言いきれる段階はないのである。……

クリスチャンの生活はたえず前進している。イエスはご自分の民を精錬するお方、きよめるお方として存在しておられる。イエスのみ姿が、民のうちに完全に反映するとき彼らは完全で聖なるものとなり、移される準備ができるのである。(教会への証 1 巻 338 ~ 340)

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3月23日 天にふさわしく

サタンのたくらみに対して警戒せよ

「身をつつしみ、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように食い尽くすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい信仰に堅くたって、抵抗しなさい。」 (ペテロ第一 5:8, 9)

すべての魂に警戒させなさい。敵はあなたの行く道にいる。何か注意深く、上手に隠したわながあなたを不意に襲いはしないかと油断なく、勤勉に見張っていなさい。盗人が夜来るように、主の日が突然自分の上に臨まないよう、不注意な者、無関心な者に、用心させなさい。多くの者は謙遜の道から迷い出て、キリストのくびきを捨て去り、不案内な道へ歩んでいく。盲目になり、途方にくれて、彼らは神の都への狭い道を離れてしまう。……

勝利者は見張っていなければならい。世的に困難な状況や誤り、迷信をもって、サタンはキリストに従う者をキリストから引き離して勝ちとろうと努力するからである。わたしたちは目立つ危険や危難、また矛盾する行動を避けるだけでは十分でない。キリストの側に近く寄り添い、克己と自己犠牲の道を歩み続けなければならない。わたしたちは敵の領土にいるのである。天国から追放された者が大きな力をたずさえて降りてきた。考えられる限りの策略とたくらみを用いて、彼は魂をとりこにしようと捜し求めている。わたしたちが、たえず警戒していないかぎり、簡単に、彼の数え切れないほどの欺瞞の餌食になってしまう。(教会への証 8 巻 99)

現代の真理を信じるすべての人が悟るべきすべてのことは、厳粛さに覆われている。彼らは神の日に準拠して行動すべきである。神の審判が世にくだろうとしているので、わたしたちはその大いなる日のために準備をする必要がある。

わたしたちの時は貴重である。しかし未来のための、不死の命のために準備する猶予の期間はほとんどない。無計画な動きに費やす時間はないのである。わたしたちは神のみ言葉の表面だけを読み取らないようにすべきである。(教会への証 6 巻 407)

もしあなたの関心がすべて、真理とこの時代のためになす準備の働きにあるなら、あなたは真理を通してきよめられ、不死の資格を得るであろう。……準備の徹底的な働きが、真理を公言するすべての者と、共に進められなければならない。わたしたちが過ち、しみやしわ、またその類のものがなく、神のみ座の前に立つまでこの働きは続けられなければならない。もしあなたが一連のきよめの過程に服するなら、神はあなたをきよめてくださる。(教会への証 2 巻 111)

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33永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月24日

あらゆる誘惑に抵抗する

「自分自身を神に捧げ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは罪に支配されることはないからである。」(ローマ 6:13, 14)

人の心から悪の手を断ち切ることができる力は一つしかなく、それはイエス・キリストの中にある神の力だけである。……キリストの恵みだけが、わたしたちの堕落した人間性が持つ傾向に抵抗し、これを服従させることができる。(ミニストリー・ オブ・ ヒーリング404)

わたしたちの贖いのために要求された犠牲の限りない価値は、罪が恐ろしい悪であるという事実を表している。罪を通して人間の生命体全体が混乱してしまい、精神は邪悪になり、想像力は腐敗してしまった。罪は魂の能力を後退させる。気づかないうちに誘惑は心の琴線にふれ、足はいつの間にか悪に向かう。わたしたちのために犠牲が完全であったので、罪の汚れからの回復も完全なものとなるのである。律法がゆるす不正な行為はない。有罪の判決を逃れる不義はない。キリストの生涯は律法のあらゆる規範を完全に成就した。「わたしは父の戒めを守っている」と主は言われた(ヨハネ15:10)。主の生涯はわたしたちの従順と奉仕の基準である。(教会への証 8 巻 312)

今日サタンはキリストに差し出したのと同じ誘惑、すなわちわたしたちの忠誠に対す報いとして、世の王国を提供する。しかしイエスを信仰の創始者であり完成者としてみなす者に対してサタンの誘惑は力がない。あらゆる点においてわたしたちと同じように誘惑されながら、罪のなかったお方の徳を、信仰によって受け入れる者に、サタンは罪を犯させることはできない。(セレクテット・メッセージ1 巻 224)

罪を追い出すことはその魂自身の行為である。なるほどわれわれは、サタンの支配からわが身を解放する力はない。だが罪から解放されたいと望み、非常な必要を感じて、われわれ以外の、そしてわれわれ以上の力を求めて叫ぶ時、魂の能力には聖霊の天来の力が吹き込まれ、その能力は神のみ心を成就することにおいて意思の命令に従うのである。(各時代の希望中巻 255,256)

神はこの堕落した時代の汚染されたただ中にあって堅く立ち、良い働きに熱心な民を持っておられる。神聖な力をしっかりとつかみ、あらゆる誘惑に抵抗する民がいるであろう。(教会への証 3 巻 472)

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34 永遠の真理 2015 年 3 月

3月25日 天にふさわしく

なぜ猶予の期間が長引くのか

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(ペテロ第二 3:9)

キリストの御姿よりも世に同化しつつある民としてのわたしたちの危険をわたしは示された。わたしたちは今永遠の世界の境界線にいるが、敵の目的は、時の終わりをはるか先の将来のことのように思わせることである。自分たちは戒めを守る神の民であり、自分たちの救い主が力と大いなる栄光をたずさえて、天の雲に乗って再臨されるのを待ち望んでいると公言する人々を、サタンは考えられる限りのあらゆる方法で攻撃するであろう。彼はできる限り多くの人々が、悪の日を延ばし、精神が世のようになり、世の習慣を真似るよう導く。真理に対して高らかに公言している多くの人々の心と思いを世の精神が支配しているのをわたしは見て、わたしは危機感を覚えた。……

時が短いことを考えるとき、民としてわたしたちは見張り、祈っているべきであり、いかなることがあっても自分の前にある大いなる出来事のための備えという厳粛な働きから、そらされてはならない。一見その時は遅延しているように見えるために、多くの人は自分の言動に不注意で無関心になっている。彼らは自分の危険に気づいておらず、将来の不死のための品性を形成できるようにと彼らの猶予期間を延ばしてくださっている神の憐れみを知りもしないし、理解もしない。一瞬一瞬にこの上なく高い価値がある。時が彼らに与えられたのは、それを自分自身の安楽に心を用いて地上の住民となるためではなく、自分の品性のうちにあるすべての欠点を克服し、また模範と個人的な努力によって、他の人々が聖潔の美を見るのを助けるためである。信仰と聖なる希望をもって、すみやかに成就しつつある預言の巻物をたどっている民、また真理に従うことによって自分の魂を清めようとしている民を神は地上に持っておられる。この民はこうすることによって、キリストが来られるとき、婚宴の礼服を着ていることを見ていただけるのである。……

預言の中で予告されているしるしは、わたしたちの周囲で速やかに成就している。このことが、キリストに忠実に従っているすべてのものを熱心な行動へとふるい立たせるべきである。(教会への証 4 巻 306, 307)

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35永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月26日

あなたの判決の時が来る!

「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。」(黙示録 14:7)

1844 年にわたしたちの大いなる大祭司は天の聖所の至聖所へ、調査審判の働きを始めるために入られた。(セレクテット・メッセージ1 巻 125)

審判において、記録の書が開かれるときに、イエスを信じたすべての人の生涯が神の前で調べられる。われわれの助け主であられるイエスは、この地上に最初に生存した人々から始めて、各時代の人々のためにとりなし、現在生きている人々で終わられる。すべての名があげられ、すべての人の事情が詳しく調査される。受け入れられる名もあれば、拒まれる名もある。もしだれかが、罪を悔い改めず、許されないまま、記録の書に残しておくならば、彼らの名は、いのちの書から消されて、彼らの善行の記録も神の覚えの書から消される。……(各時代の大争闘下巻 215)

われわれは、今、大いなる贖罪の日に生存している。型としての儀式においては、大祭司がイスラエルのために贖罪をなしている間、すべての者は、主の前に罪を悔い改め、心を低くすることによって、身を悩まさなければならなかった。もしそうしなければ、彼らは、民の中から絶たれるのであった。それと同様に、自分たちの名がいのちの書にとどめられることを願うものはみな、今、残り少ない恩恵期間のうちに、罪を悲しみ、真に悔い改めて、神の前に身を悩まさなければならない。われわれは、心を深く忠実に探らなければならない。……われわれを打ち負かそうとする悪癖に勝利しようとする者は、みな、はげしく戦わなければならない。準備は、一人一人がしなければならない。われわれは、団体として救われるのではない。一人の者の純潔と献身は、これらの資格を欠く他の人の埋め合わせにはならない。……すべての者が調べられねばならない。そして、しみもしわもそのたぐいのものがいっさいあってはならないのである。(同上 224)

真に罪を悔い改め、キリストの血が自分たちの贖いの犠牲であることを信じたものは、みな、天の書物の彼らの名のところに、罪の許しが書き込まれる。彼らは、キリストの義にあずかる者となり、彼らの品性は、神の律法にかなったものとなったので、彼らの罪は、ぬぐい去られ、彼ら自身は、永遠の生命にあずかるにふさわしいものとされるのである。主は……こう宣言しておられる。「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」( イザヤ書 43:25)。(同上 215, 216)

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36 永遠の真理 2015 年 3 月

3月27日 天にふさわしく

あなたが信頼することのできる基準

「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」(エペソ6:11)

神の働きが復興されるたびに悪の君は奮起していっそう激しく働く。彼は今やキリストとその信徒たちに対する最後の闘争に最大の努力を傾けている。まもなく最後の大いなる欺瞞がわれわれの前に展開されようとしている。反キリストがわれわれの目の前で驚くべき業を行なうのである。偽物があまりにも本物によく似ているために、聖書による以外には両者の見分けは不可能である。すべての言説や奇跡は、聖書のあかしによって吟味されなければならない。……

聖書の真理によって心を堅固にした人たち以外には、だれも最後の大争闘に耐え抜くことはできない。わたしは人に従うより神に従うべきかという鋭い質問が、一人一人に臨むであろう。その決定の時は今目の前に迫っている。われわれの足は、変わることのない神のみ言葉という岩の上に、しっかり立っているだろうか。われわれは、神の戒めとイエスの信仰をとりでとして、堅く立つ用意ができているだろうか。……

聖書から真理を学び、その光に歩み、そして他人にも自分の模範に従うように励ますことは、すべて理性のある者の第一にして最高の義務である。われわれは日々熱心に聖書を研究し、すべての思想を熟考し、聖句と聖句を対照すべきである。われわれは神の前で自分で答えるのであるから、神の助けによって自分で自分の考えを定めなければならない。……

イエスは、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」と弟子たちに約束された ( ヨハネ14:26)。しかし、危機の時に、神のみ霊がわれわれにキリストの教えを思い起こさせてくださるためには、それをあらかじめ心の中にたくわえておかねばならない。……

試みの時が来ると、神のみ言葉を自分の人生の尺度としてきた人たちが、はっきりわかるであろう。……

迫害の火が燃やされるときに、二心の偽善者たちは動揺して信仰を放棄するであろう。しかし真のキリスト者は岩のように堅く立ち、繁栄の日よりも信仰が強くなり、望みはいっそう明るくなるであろう。(各時代の大争闘下巻 358 ~ 370)

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37永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月28日

わたしたちの防壁である聖書

「み使いたちはすべて仕える霊であって、救いを受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。」(ヘブル 1:14)

神の民が神に忠誠を保っている限り、彼らがイエスに対する生きた信仰ですがりついている限り、彼らは天のみ使いたちの保護の下にいるので、サタンは彼らを滅ぼすために悪魔的な手段を用いることをゆるされない。しかし罪によって、自分自身をキリストから引き離すものは大きな危険にさらされている。……

サタンは今までのどの時代よりもはるかに熱心に、魂に対する命のゲームに従事している。そしてわたしたちが絶えず用心していないと、わたしたちの心に自尊心や自己愛、世に対する愛、その他さまざまな邪悪な特徴を植えつける。彼はまた、神とそのみ言葉の真理に対する信仰を不安定にするために、できる限りの策略を用いる。もしわたしたちが神の事柄に深い経験がなければ、また神のみ言葉の完全な知識をもっていないなら、敵の誤りと詭弁によって滅びへと欺かれるであろう。偽りの教理は多くの人の土台を弱める。なぜなら彼らは真理と誤りをはっきりとみわけることを学んだことがないからである。サタンの策略に対する唯一の防壁は勤勉に聖書を学び、自分の信仰の理由を明白に理解し、自分の知ったあらゆる義務を忠実に行うことによる。一つの故意の罪にふけることは弱点と邪悪の原因となり、わたしたちを恐ろしい誘惑にさらすことになる。……

わたしたちは心の扉をイエスに開いているだろか。そしてサタンへの入り口になるあらゆる通路を閉じているだろうか。わたしたちはキリストの義のうちに立つことができるように、日毎によりはっきりとした光を受けてもっと大きな力を得ているだろうか。わたしたちは利己心をすべて心から取り除き、清めて、天から後の雨を受けるための準備をしているだろうか。……

勝利の働きは偉大な働きである。わたしたちは忍耐と活力をもってこれをつかむのだろうか。わたしたちがこれを行うまでは「汚れた衣」がわたしたちから脱がされることはない。この衣が荒 し々くわたしたちから取り除かれると思うには及ばない。まず、この汚れた衣から解放されたいと願わなければならない。キリストの血の功績に頼って、自分から罪を分離しようと努めなければならない。そうすれば敵がわたしたちを圧迫するとき、悩みの時に、わたしたちは天使に囲まれて歩むのである。(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1908 年 11月19 日)

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38 永遠の真理 2015 年 3 月

3月29日 天にふさわしく

安全を保証する神の誓約

「主は、信心深いものを試練の中から救いだし、また、不義なものども……を罰して、さばきの日まで閉じ込めておくべきことを、よくご存じなのである。」(ペテロ第二 2:9)

わたしたちの前途にある試練の時には、神の忍耐の言葉を守ってきた人々に、安全を保証する誓約が果たされる。……神の律法の違反者にとっては怒りと恐怖を語る雲の柱が、神の戒めを守っている者にとっては光と恵みと解放である。反抗する者を罰するために力強い腕は忠実な者を救い出すにも力強いのである。忠実な者はみな確実に集められる。……

この世の歴史が閉じようとしている場面で、あなたはどのような役割を演じるのであろうか。……天と地で行われている備えの壮大な働きにあなたは気づいているだろうか。……だれもこの世におけるあらゆる不幸の源である罪に、関係してはならない。……不確かなことにあなたの魂の運命をあずけてはならない。自分が完全に主の側にいることを知りなさい。まじめな心と震える唇から「だれが立ち得ようか」という質問が出るようにしなさい。この最後の尊い猶予の期間に、あなたは自分の品性を建設するために最上の材料を使ってきただろうか。自分の魂をあらゆるしみから清めてきただろうか。光に従ってきただろうか。自分の信仰の告白に一致する行いをあなたはしているだろうか。

神の恵みの和らげる、感情を抑える影響力があなたに働いているだろうか。……自分の罪のうちに滅びつつある国民を明るく照らすために、あなたの光を輝かせているだろうか。神の戒めを足の下に踏みつけている人々の前で、その戒めを擁護するために立たなければならないことにあなたは気づいているだろうか。

部分的に形式的には信徒でありながら、欠けていることが見出され、永遠の命を失うことは可能である。いくらか聖書の命令を実行し、クリスチャンとして見られながら、クリスチャン品性に不可欠な資質に欠けているがゆえに滅びることは可能である。……恵みの期間が長引いている間に、救い主がとりなしをしてくださっている間に、永遠のために徹底的に働こうではないか。(教会への証 6 巻404, 405)

大いなる危機がわたしたちの前にある。その試練と誘惑に会うこととその義務を行うには辛抱強い信仰が要求される。しかし、わたしたちは立派に勝利することができる。見張り、祈り、信じている魂はだれひとりとして敵に陥れられることはない。(同上)

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39永遠の真理 2015 年 3 月

天にふさわしく 3月30日

深い生きた経験

「わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ」(ヘブル 2:3)

わたしたちが主の来臨を遅らせるべきではないことをわたしは見た。「準備せよ、準備せよ、地上に起ころうとしていることのために。あなたの働きを信仰と一致させよ」と天使は言った。思いは神のもとにとどまらなければならず、わたしたちの影響力は神とその真理を語るべきであるのをわたしは見た。自分が不注意であったり無関心であったりすれば、主をあがめることはできない。……わたしたちは自分自身の魂を守ることと、他の人を救うことに熱心でなければならい。すべて大切なことはこのことに結びつくべきあり、他のあらゆることは二番目となるべきである。

わたしは天国の美しさを見た。イエスに讃美と誉れと栄光を帰している、喜びにあふれた歌を天使たちが歌っているのを聞いた。その時わたしは、神の御子の驚くべき愛に幾分か気づくことができた。主はご自分が天で持っておられた栄光も誉れもみな捨てられた。わたしたちの救いに深く関心をもたれたので、人間がご自分に浴びせることのできたあらゆる恥辱と侮辱を忍耐深く、従順に耐えられた。彼は打たれ、たたかれ苦しめられた。カルバリーの十字架に釘づけられ、死からわたしたちを救うために、もっとも苦しい死を経験された。それによってわたしたちは、自分たちのために用意してくださっている住居で主と共に住むために、御子の血で洗われよみがえることができるのである。光と天の栄光を楽しみ、天使の歌声を聴き、彼らと共に歌うために洗われ、上げられるのである。

全天がわたしたちの救いに関心を持っているのを見た。わたしたちはこのことに無関心なのだろうか。自分が救われるか失われるかが些細なことであるかのように無関心になって良いのだろうか。自分たちのためになされてきた犠牲を軽視するのだろうか。……

この暗黒の世界の危難をくぐりぬけて、天国へとわたしたちの足を導くために、聖書が与えられている。この書は神の憤りをわたしたちがどのように逃れることができるか、またわたしたちのためのキリストの苦しみを述べている。わたしたちが救われて、永遠に神のご臨在を楽しむことができるようにと、この偉大なる犠牲が払われたのである。(教会への証 1 巻 123 ~ 125)

信心の形式はだれも救うことはない。すべてのものが深い、生きた経験を持たなければならない。これだけが悩みの時に彼らを救うのである。その時彼らの働きがどのような種類のものであったかが試される。そして、それが金や銀、尊い宝石であれば、彼らは主の隠れ場のおくに隠されるのである。(同上 125)

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3月31日 天にふさわしく

準備しなさい、準備しなさい 準備しなさい 

「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス 4:12)

今日、キリストが天の雲に乗って現れるはずだと想像してみるなら、だれ……が主にお会いする準備ができているだろうか。自分があるがままの状態で、天の王国に移されねばならないと想像してみなさい。わたしたちは神の聖徒たちと一つになり、王家の家族、天の王の子らと調和して、暮らすために準備をしたのだろうか。あなたは審判のために、どのような準備をしてきたのだろうか。あなたは神と和解しているだろうか。神と一緒に働きをなしているだろうか。あなたは自分の周囲の人々、家族、隣人、そして接触のある人々のうち、神の戒めを守っていない人々を助けようとしているだろうか。……わたしたちは王にお目にかかる準備をしているのだろうか。……もしわたしたちがあるがままの状態で天国に入るのを認められたなら、わたしたちのうち何人が神を見上げることができるだろうか。何人が婚宴の礼服を着ているだろうか。何人がしみやしわ、あるいはその類のものがないだろうか。何人が命の冠を受ける価値があるだろうか。……地位が人を作るのではない。人を命の冠を受けるにふさわしい者とするのは心の中を形づくられるキリストである。そしてそれは消え去ることはない。(世界総会報 1903 年4 月 6 日)

わたしは地上の残りの民を指し示された。天使は彼らに言った。「あなたがたは最後の七つの災いを避けたいと思うだろうか。……もしそうならばあなたがたは生きるために死ななければならない。準備しなさい。準備しなさい。準備しなさい。あなたがたは今までよりもっと準備しなければならない。……すべてを犠牲として神にささげなさい。自分も財産も、すべてを生きた供え物として神の祭壇の上にのせなさい。栄光に入るためにはすべての者が必要である。(初代文集 142)

キリストは、力と大いなる栄光をもって来られる。彼は、ご自分の栄光と父の栄光とをもって来られる。……悪者は、み前からのがれ去るけれども、キリストに従った者は、喜びにあふれる。……キリストに忠実に従った人びとにとって、キリストは日ごとの伴侶、親しい友であった。彼らは、神との密接な接触、絶えざる交わりを保ってきた。彼らの上に、主の栄光がのぼった。……今彼らは荘厳な王の大いなる輝きと栄光に浴して喜ぶのである。彼らは心に天をもっているから、天との交わりに入る準備ができているのである。(キリストの実物教訓 396, 397)

もしあなたが今日、神と正しい関係にあるなら、キリストが今日来られてもあなたは準備ができている。(天国で 227)

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現代の真理

         第三天使のメッセージ        Part 8

キリストの再臨

「聖書に啓示された最も厳粛で、最も輝かしい真理の一つは、キリストが、贖罪の大きな業を完成するためにふたたび来られるという真理である。長い間、

「死の地、死の陰」をたどってきた神の旅人たちにとって、「よみがえりであり、命で」あり、「追放されたものを帰らせ」られる主の出現の約束は、尊く喜びに満ちた希望であった。キリストの再臨という教義は、聖書の基調そのものである。われわれの祖先が、悲しみながらエデンを去った日以来、信仰の子供たちは、約束のみ子が現われて、破壊者の力をこぼち、失われた楽園に彼らをふたたび連れもどすのを待っていた。昔の聖者たちは、メシヤが栄光のうちに来られて、彼らの希望が成就されるのを待ち望んだ。……。

正義の時代の到来を告げるキリストの再臨は、聖書記者たちに、最も崇高で熱烈な言葉を言わせたのである。聖書の詩人や預言者は、天来の火に燃やされて、そのことを語った。……

救い主は、弟子たちから離れていこうとするに当たり、また来るという確証を与えて、彼らの悲しみを慰められた。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。……わたしの父の家には、すまいがたくさんある。……あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」(ヨハネ14:1 ~ 3)。……

彼の再臨には、「神が聖なる預言者たちの口をとおして、昔から預言しておられた万物更新の時」の輝かしい光景が関連している(使徒行伝 3:21)。そのとき、長く続いた悪の支配が砕かれて、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(黙示録 11:15)。……

研究 21

三重のメッセージ

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長く待望してきた平和なメシヤの王国が、全天のもとで建設されるのは、この時である。……

主の再臨は、各時代において、神の真の弟子たちの希望であった。また来るという、オリブ山上での救い主の、離別にあたっての約束は、弟子たちの未来を明るく照らし、彼らの心を喜びと希望で満たし、どんな悲しみも試練もこれを消し去ることはできなかった。苦難と迫害のただ中にあって、「大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現」は、「祝福に満ちた望み」であった。……

聖徒や殉教者たちは、牢獄、火刑柱、処刑台において、真理のあかしを立てたが、彼らの信仰と希望の言葉が、幾世紀後のわれわれに伝えられている。彼らは、「主の復活を確信し、したがって主の再臨の時に彼ら自身も復活することを確信していたので、彼らは死を恐れず、死を超越していた」と、あるキリスト者は言っている。彼らは、「自由の身になって復活する」ために、喜んで墓に下っていった。彼らは、「主が、父の栄光をもち、天の雲に乗って来られ、」「義人たちに王国の時代をもたらされる」のを待望した。ワルド派も同じ信仰を抱いていた。ウィクリフも、贖い主の出現を教会の希望として待望していた。

ルターは次のように言った。「わたしは、今後三百年もすれば必ず、審判の日が来ると確信する。神は、この邪悪な世界を長く忍ぶことはなさらないであろうし、また、おできにならないのである。」「悪虐な王国を打ち砕く大いなる日が近づいている。」

「この古びた世界は、終末から遠くない」とメランヒトンは言った。カルバンは、「キリストの再臨を、あらゆる事件中の最も喜ばしいものとして、ためらわず、熱心に待望するよう」キリスト者に命じ、「忠実なものの家族全員が、その日を待望するように」勧めている。「われわれは、主がみ国の栄光を十分にあらわされる大いなる日の夜明けまで、飢えかわくようにキリストを求め、たずね、瞑想しなければならない」と彼は言っている。

「われわれの主イエスは、われわれの肉体を天にたずさえて行かれたのではなかったか。そして彼は、帰って来られないであろうか。われわれは、彼が帰って来られること、しかもそれが速やかであることを知っている」とスコットランドの改革者ノックスは言った。真理のために生命をささげたリドリとラチマーは、主の再臨を信じて待ち望んだ。「わたしは、この事を信じるから言うのであるが、この世界は疑いもなく終末に近づいている。われわれは、神のしもべヨハネと共に、来てください、主イエスよ、来てくださいと、われわれの救い主キリストに向かって、心の中で叫ぼう」とリドリは書いた。

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「主の再臨を考えることは、わたしには最も楽しく喜ばしいことである」とバクスターは言った。「彼の出現を愛し、祝福された望みを待ち受けることは、信仰のわざであり、聖徒の特質である。」「死が、復活の時に滅ぼされる最後の敵であるならば、この最後の完全な勝利が与えられるキリストの再臨を、信者たちがどんなに熱心に待望し、そのために祈るべきであるかがわかるのである。」「この日こそ、すべて信ずる者の贖罪のすべての働きと、彼らの魂の願望と、努力のすべてが完成されるのであるから、すべての信者は、この日を熱望し、待ちかまえていなければならない。」「主よ、この祝福された日を早めてください。」これが使徒時代の教会の希望であり、「荒野の教会」の希望であり、また改革者たちの希望であった。」(各時代の大争闘上巻 385 ~ 391)

イエスの再臨の目的キリストの再臨の主たる目的は、ご自分の民をご自分と共に新エルサレムに

ある天の住まいへ連れて行くことです(イザヤ 25:9、ヨハネ14:1 ~ 3、マタイ24:31、25:31 ~ 34、テサロニケ第一 4:13 ~ 17、黙示録 22:12 参照)。このお方はそのとき、この世の諸王国に終わりを告げ、悪人に対して裁きを執行され、そして聖徒たちにとこしえに王国をお与えになるのです(ダニエル 2:44、45、7:27、ユダ 15、使徒行伝 17:31、テモテ第二 4:1、テサロニケ第一 4:17 参照)。

救い主の再臨のしるし多くのしるしがキリストの来臨が近いことを指し示していますが、わたしたちは

この偉大な事件の正確な時は知りません(イザヤ 24:4 ~ 6、17 ~ 21、ヨエル1:15 ~ 20、2:30、31、3:9 ~ 16、マタイ24:2 ~ 31、テサロニケ第一 5:1 ~3、テサロニケ第二 2:1 ~ 5 参照)。サタンはキリストの再臨を装おうとしますが、選民を欺くことはできません(マタイ24:23 ~ 26、コリント第二 11:14)。

再臨のための準備キリストが来られるとき、このお方は「用意のできて」いる者だけをお受け入

れになります。そのときに、このお方がわたしたちを欠けたところのない者としてくださるのではありません。このお方が、わたしたちに欠けたところがないことを「見られる」のでなければならないのです。わたしたちは恩恵期間の戸が開かれている間に、責められるところのない者にしていただかなければなりません。そうす

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れば「わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときまで、責められるところのない者として保ってくださる」ことができるのです(テサロニケ第一 5:23 英語訳)(ユダ 24、マタイ25:10、ペテロ第二 3:11、12、14、ヨハネ第一 3:2、3、エペソ5:27、黙示録 21:27 参照)。

イエスの再臨のさまキリストの再臨は、ご本人が来られるのであり、実際的で、目に見えるもの

であり、聞くことができるものであり、また普遍的なものです(ルカ 9:26、マタイ 24:27、30、テトス 2:13、テサロニケ第二 2:8、黙示録 1:7、6:15 ~ 17、19:11 ~ 16 参照)。サタンに模倣され得ないものです(テサロニケ第一 4:16)。

再臨に関連したいくつかの重要な事件恩恵期間の戸は、キリストの再臨の直前に閉じられます(マタイ7:22、23、

25:6 ~ 13、ルカ13:23 ~ 25、黙示録 22:11)。満ち満ちた神の怒りが、最後の七つの災いのうちに地に注がれます。第六番

目の災いが注がれるときに、ハルマゲドンの戦いのために道が備えられます。第七の災いのはじめに、大地震が起こって全地を揺るがします(黙示録 16:1 ~21、各時代の大争闘下巻 415 参照)。キリストが戻られる直前に部分復活が起こります(ダニエル 12:2、マタイ26:64、黙示録 1:7 参照)。

「墓が開かれる。『地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさます……そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう』(ダニエル書 12:2)。第三天使の使命を信じて死んだ者はみな、栄化されて墓から現われ、神がご自分の律法を守った者たちと結ばれる平和の契約を聞くのである。『彼を刺しとおした者たち』(黙示録 1:7)、キリストの死の苦しみをあざ笑った者たち、そして、キリストの真理とその民とに対して最も激しく反対した者たちは、栄光をまとわれたキリストをながめるために、また、忠実で従順な者たちに与えられる誉れを見るために、よみがえらせられる。」(各時代の大争闘下巻 415)

(a) キリストが来られるときに、死んだ義人は不死の体によみがえり、生ける

義人は死すべき体から不死の体に変えられます。彼らは空中で主にお会いし、彼らが神のみ前に立つことになる天へと連れて行かれるのです(ヨ

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ハネ 5:25、28、29、コリント第一 15:50 ~ 54、テサロニケ第一 4:14~ 17、ピリピ 3:20、21、黙示録 7:4、9 ~ 12)。

「生きている義人たちは、『またたく間に、一瞬にして』変えられる。彼らは、神のみ声によって栄化された。今や彼らは不死の者とされて、よみがえった聖徒たちとともに、空中において主に会うために引き上げられる。」(各時代の大争闘下巻 424)

(b) 七つの災いの中を生き残る不義なる者はこのお方の来臨の輝きによって滅ぼされます(イザヤ 24:6、ルカ17:29、30、テサロニケ第二 1:7 ~10、黙示録 6:15 ~ 17(イザヤ 2:19 ~ 21 参照)参照)。彼らに二度目の機会はありません(イザヤ 26:10、エレミヤ 8:20、ルカ13:24 ~ 28、コリント第二 6:2)。

(c) 全地は無人化されます(イザヤ13:6 ~ 13、エレミヤ4:23 ~ 25、ペテロ第二 3:20)。

反キリストの正体マタイ24:23 ~ 25 節をお読みください。

「わたしたちは終わりの時代に〔大欺瞞者〕がしるしと偽りの不思議をもって働くと警告されている。そして彼は自分が闇の使ではなく、光の天使である証拠として指し示すことができるように、恩恵期間が閉じるまでこれらの不思議を続けるのである。」(SDA ハ イ゙フ ル゙ ・ コメンタリ [E・G・ ホワイト ・ コメント ]5 巻 1099)

「サタンはキリストを欺くために、誘惑の荒野に光の天使としてやってきた。そして彼はときどき彼が表されているようなおぞましい姿で人のところに来るのではなく、光の天使として訪れるのである。彼はイエス・ キリストを装い、力強い奇跡を働く。そして人々はイエス・ キリストとして彼の下にひれ伏し拝するようになるのである。わたしたちは世がキリストとして栄光を帰しているこの存在を拝するようにと命じられることになる。わたしたちはどうするであろうか。キリストがわたしたちに、まさにこのような敵、すなわち人間の最悪の敵でありながら神であると主張する者に対して警告してこられたこと、そしてキリストが自ら姿を表されるときは、千々万々の御使たちを従えて、力と大いなる栄光をもって来られるのだということ、そしてこのお方が来られるとき、わたしたちはこのお方のみ声がわかるということを彼らに伝えなさい。」(レヒ ュ゙ー ・ アンド・ ヘラルド1888 年 12 月18 日)

「この時代に反キリストが本物のキリストとして現れるようになり、そのとき神の

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律法はわたしたちの世界の諸国の中で完全に無効にされるのである。神の聖なる律法に対する反逆が完全に熟する。しかしこの反逆の真の指導者は、光の御使を装うサタンである。人々は欺かれ、彼を神の代わりに高め、神としてあがめるようになる。しかし全能者が介入なさり、サタンを高めることにおいて結託する背信の諸教会に次の宣告が下される。「それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである」(黙示録 18:8)。」(牧師への証 62)

真のキリスト「聖書に啓示された最も厳粛で、最も輝かしい真理の一つは、キリストが、贖

罪の大きな業を完成するためにふたたび来られるという真理である。」(各時代の大争闘上巻 385)

「主の再臨は、各時代において、神の真の弟子たちの希望であった。」(同上 389)「さばきの使命の宣布は、キリストの再臨が近いことを知らせている。そして

この宣布は永遠の福音と呼ばれている。このようにしてキリスト再臨のことを説教して、その切迫を告げることが福音使命の本質的部分であることが示されている。」(キリストの実物教訓 207)

「まもなく、東のほうに、人の手の半分くらいの大きさの小さい黒雲が現われる。それは、救い主を囲んでいる雲で、遠くからは、暗黒に包まれているように見える。神の民は、これが人の子のしるしであることを知っている。彼らは、厳粛な沈黙のうちに、その雲が地上に近づくのを見つめる。それは次第に明るさと輝かしさを増し、ついには大きな白い雲となって、下のほうには焼き尽くす火のような栄光が輝き、上のほうには契約のにじがかかっている。イエスは、偉大な勝利者としておいでになる。……生きている雲が、さらに近づくと、すべての目は、いのちの君をながめる。いまはその聖なる頭を傷つけるいばらの冠はなく、その聖なる額には栄光の冠がある。そのみ顔は、真昼の太陽よりもまぶしく輝く。「その着物にも、そのももにも、『王の王、主の主』という名がしるされていた」(黙示録 19:16)。」(各時代の大争闘下巻 419)

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(50 ページの続き)

を加(くわ)え、徳に知識(ちしき)を、知識に節制(せっせい)を、節制に忍耐(にんたい)を、忍耐に信心(しんじん)を、信心に兄弟愛(きょうだいあい)を、兄弟愛に愛を加えなさい」(ペテロ第二1:5 ~7)。みなさんには神様を信じる信仰がありますね?ほら、みなさんがこのお方を信じているから、良い人になりたいという願いがふきこまれるのです。しかし、もし神様からごらんになって何が良いことがわからなければ、どんどん良い人になっていくのはむずかしいことです。つまり、わたしたちは神様と神様の方法についての知識を、ますます聖書から学ぶ必要があるというわけです。わたしたちが、もっと知りさえすれば、それによってますます自制心(じせいしん:自分をおさめる力)があたえられます。わたしたちが自分自身をおさめるとき、問題が生じても忍耐するようになります。わたしたちが忍耐を持つようになると、泣き言を言ったり、赤ちゃんじみたことをしたりすることが少なくなっていき、ますます神様に似た者へ成長していくのです。ですから、わたしたちの品性はますます神様のようになっていき、わがままだったり、自分中心だったりすることはなくなります。わたしたちはまわりにいる人たち―自分の家族や友人たち―にもっと感謝するようになります。そしてもっともっと彼らに対して親切になります。それから、わたしたちが兄弟への親切において成長していくにつれ、他の人々にも親切になっていきます。ときには、生来(せいらい)好きではない人たちもいます。もしかしたら、彼らは無愛想(ぶあいそう)なだけでなく、無礼(ぶれい)かもしれません。しかし、わたしたちはいずれにしても彼らに対して親切になり、何とか彼らを助けてあげられないかと方法をさがすようになります。このように愛せない人を愛することを、愛(Charity:チャリティ)と呼びます。わたしたちはこのはしごを自分自身で上ることはできません。坂道を上ることは―とくに小さいときは―大変なことです。しかし、イエス様はいつもわたしたちの手をとって、力を与えようとしておられます。わたしたちがこのお方を日々心の中にお迎えし、わたしたちと共にいてくださるようにお願いするとき、かたわらにいてくださるのです。一歩いっぽです。

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力を得るための食事

豆腐ナゲット〔材料〕◎ナゲット豆腐    1丁  車麩    ひと袋 (6個いり)にんにく   三かけ塩   少々粉末昆布だし 少々

◎トマトソーストマト缶  150gだし汁    適量醤油    大さじ1はちみつ  適量レモン    大さじ3

〔作り方〕◎ナゲット

豆腐は水を切ってボウルへくずして入れる。11車麩はおろし金でおろして①の中に入れる。21にんにくはすっていれ、①、②の中に入れる。31塩も入れてよく混ぜ、形を丸く作って油の中に入れる。41きつね色になったら出来上がり。51

◎トマトソース熱したフライパンにトマト缶を入れて炒め、出し汁と醤油、レモンはちみつを入れて炒める。

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教会プログラム ( 毎週土曜日)

安息日学校:9:30-10:45(公開放送)

礼拝説教:11:00-12:00(公開放送)

午後の聖書研究:14:00-15:00

【公開放送】http://www.4angels.jp

聖書通信講座

※無料聖書通信講座を用意しております。

□聖所真理

お申込先:〒 350-1391 埼玉県狭山郵便局私書箱 13 号「福音の宝」係

是非お申し込み下さい。

書籍

【永遠の真理】聖書と証の書のみに基づいた毎朝のよみもの。

【安息日聖書教科】は、他のコメントを一切加えず、完全に聖書と証の書のみに基づいた毎日の研究プログラムです。

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50 永遠の真理 2015 年 3 月

 

新学年が始まり、子供たちが話しています。

「わたし高校1年生になりたい!」と小さいスージーがきっぱり言います。「まあ、スージー。そんなことありっこないでしょう?字を読むことをならいはじめたばかりなのに、どうやって高校1年生になれるの?」とお姉さんのモーリーがたしなめます。「そんなのいいのよ。とにかくそこに行きたいんだもの!」「高校1年生になったら、幾何学(きかがく)を勉強しなくちゃいけないのよ、わかる?その前に代数(だいすう)だってそれなりにわからなければならないでしょう。もしかしたら、生物学や化学だって勉強しなくちゃいけないかも。小さい文字がびっしりつまっているこんなに大きくてぶあつい本の中にあるぜんぶの質問にどうやって答えるかわかるの?」たしかにそうです。スージーはまだとても小さいのですから。しかし、遅かれ早かれ、小さいスージーも自分の目標に到達することでしょう。正しい道に向かい始めていることさえわかればいいのです。彼女は、自分のおもちゃのブロックを調べたり、それらを自分の定規(じょうぎ)ではかってみたりしながら、幾何学について学ぶことができるでしょう。また生物学は、植物や小さな生き物を注意ぶかく観察(かんさつ)し、それらの興味(きょうみ)ぶかいことに注目することによって勉強できるでしょう。またベーキングソーダや酢をつかって、ちょっとした化学の実験もできるでしょう。彼女は、一歩一歩、段階(だんかい)をふんでそれらをみな学んでいくのです。聖書では、使徒(しと)ペテロが天の御国(みくに)へ向かう一歩ごとの段階を教えています。わたしたちはよくそれをペテロのはしごと呼びます。「あなたがたは、力の限(かぎ)りをつくして、あなたがたの信仰に徳(とく)

お話コーナー

  

(47 ページに続く)

一歩いっぽ