Post on 08-Jun-2020
Title 我が國の東方學とペリオ敎授
Author(s) 羽田, 亨
Citation 東洋史研究 (1948), 10(3): 186-197
Issue Date 1948-07-15
URL https://doi.org/10.14989/138887
Right
Type Journal Article
Textversion publisher
Kyoto University
186
我が国の東藩学亡。㌻
オ教授
前の世界大戦中及び儀後暫-の問に、欧洲諸尚に於、
て多数の聾者の物故したこと.蛙御承知のせほりであり
\
壷すが、それらの中には直接戦率に参加して庫残し潜
入も凝ると共に、我が国の硯情に似通うた柴養失調の
状態で亡-なった人も少-ない′のであってう、しみじみ
戟尊の惨禍を味はつた次第であります.。この度の戦前
戦後に於てもまた諸国の多-の聾者が同じやかな事情
一
の下に亡-なったやうでありますが'就中フラン一ス.の
I
雲
業
に臥て徳、グ㌃
-∵
マスべlB、アッ功′ン瑠
有名の人々が相つ・いで鬼籍に入つ兜中に、.我が観に多ノ
くの知己友人むもつてゐた偉大なる東方聾者ポール・
ペ.>オ
(PaulPeltiot)教授をも数
へねば患ら駁こ.と
一
は誠に痛恨の室-でありをす。ペ仇オ教授の亡くなっ
た噂は輝年簡博聞してゐましたが、近頃に怒って漸く
′
′
ノ周
個・
/・..
ヽ
rヰ
その確報揮接し喪次第であります。彼が現代フラシ・ス
の生み出し喪東方撃の偉材であ-ハ
璃-フテンスijAI
ヨ÷
ッ.,(とか言等
、港外の態方
単軌の最高峰豊
∵
つてかたことは、単称の等し-認めてゐたとこをで参
\〆
-まlす.尤も
一概に裏方拳と宮つても庚S範囲に亙る
去
稗で'各の中に多-の分野を慣別しなければならな
い課であり奮すが、氏め分野は線束
・.中央亜細亜を食
ノ
めての言語
・歴史
㌧‥考古の諸聾に亙ってゐたのであり
//
ましてtか1る範囲に於てべ
・
サ・オ教授を最高峰の二人
一
に推すのに、何人も異論のないとと1信じますOブラ/{
ンスの地理拳骨切食報A
nn・ualdelaS.ci/6tかfG6ogra・:
一p-hique一九四五年
〟〇月
」一二月紋に.、岡倉長ペサ
J
エ氏のペ、サオ教授に封する追悼の軒が載せられてある
のを、壌京の石田幹之助教授から敵って貰ったのであ
′.~
・一 46叫一一・
187
りますが、その中に'「吾々は彼が畢界及びアラン.スの
室賓として(な呼水-健在することを期待してゐた」
こと'「彼がフラン.ス東方畢界の最も光輝ある代表者で
あっ寵」こと'「マスベロ、グラネ-等がペワオよりも
年著くして然も先立って永眠した」こせな
どを述
べ
て'深い哀悼の意を表し.V居旬ます.これにょつても
如何に彼がフランス東方単界の虜」八着として尊敬せ
\
一
られてゐたかを知るに足ると忠心ます。今日我が財囲
、
瀧人東方単術協牽凝離支部の簡
7回講演食に於で、か
1
る題目の下に一場の講演を試みますことは、か1る
宜匠の永眠を哀悼敦もますと共に'氏が我が東方勢界
Iとの間に誼が深-、絶えずその成績を世界に紹介し'
我が拳鼎をして世界に重きを致さしめた上に寄輿する
ところ甚大であったこJJ,を迫念して、感謝の意を併せ
表し挺Sと思うが篤であります.)
●●●●
先づその略歴を述べますと.、その家些光来ノルアン
ディの満身でありますが).彼自身竺
八七八年即ち甲
●
治十一年にパリで生れ、二十
一歳で印度支部の考苗単
調査員となれ'二
九〇O年埠ハノイのプラツス極東摩
院
1'/Etodie-・FranSairsqd.i:xtr6me・0ri
enlが琴
止せら
ー紅.るとその研究員に怒り、翌年には北京に在って拳匪
事件に遭遇し、公使館寓域の防禦に武勇侍を磯も」そ
の功によっで若年ながらレ・・.imン」・L・ノール十字茸を
受けました・..O小で極東畢院紀要
BulIetindel'hcole
Fran官sed'f:xtram?Ori
entの編韓に参加し'中国の
鮭軒及び署籍の解題に舶する初期時代の述作を緯々畿
表して、中国研究家としての博識を認められることに
患-まLrkが、急に名馨を博す.るやうになった@:墜
中央亜細亜の探検に従事してからのことセあ-
乱
すア
ナ九〇山ハ年六月にパリを出馨し、
ロシャを樫てトルキ
I
スタンに入-、
一九〇七年即ち明治四十年十二月に有
▲t
名雪
敦燈の届
洞晶
査し′て、-
孟
録音針鼠
{
を蟹別選樺も、その幾千巻を獲て引上げたのでありま
す.,今日パ軒の国立周書館やギメ-博物館
に収蔵
し
であるのがそれであ-ます.
1九二
年
Col16ged
e
France一に開かれ夜中楽温紬東の音譜鮭史考古単講座
湊任の教授と怒り、
]九1四」1九一-八年の戦時中に
は、換備士官とし.V初めはダーダ,みルに勤め'つSで北
■.- 47 -
■す
京公使館附き陸軍武官とな軌、本務の傍申開及び蒙古
の研究に精進し、一九二〇年には拳士院合点
Membre
.det'InsIitu-に執げ_ら紅、
完
三
年
に
絃文
萎院
トリAcade官
edestnscripti.netBettes・Lg
tresに迎-へ
られました。薮
へ年五十四歳の若さでこの老僚林の間
に伍することに冴つたのは誠に異数のこと
であfhま
す.
一九三五年に札亜細亜拳骨
taSoci6tSJAsia-iq71e
の食長、.LM
喪地理拳骨副廃長に選ばれ.'別に有名な東
_方勢雑誌返報を
1九三
年臥衆.nルディ
エ氏と共に編'
輯し,・コルディ土.の投撃
九二.五年以降はこれをを宰
▼r
して衆まLk.I(・1九三六年以降はLDuylendak成上
共編)。この間欧米諸閲の大拳や拳骨に招かれAて講蓮華
講演に私事したこ.と'一々列挙し難い程頻索で、今てれ,
ら諸観の東方聾を修めるものは、どこかでその講義を,
聴かなかったもの蛙少Sというても殆んど置ら患いで
/
pJ."~
あらうと恩い草す。我が国には昭和十年
1九三五年に
来遊し、この京都に隻
ハ月二十日から二十五日まで滞
在し、払費昔日の多忙恵時間を繰合せて、骨でパp-.で
交を結んだ内藤博士の一周忌の法葵に象話して追悼の.
・l.ヽ
-I
恵
を表し寧こ藻もありました。
蒜
一九拘成年写
れ
甥のハ/,I(十ド犬単で講義してフランス転蹄つ食後、
こす月廓,D病床に在
って㍉華の十月二十八票
.少で永
眠したとのことで為りますO以上隻糾越のペリ土民の、
∴「‥L追悼の軒に基づいて.私の知るところを働け加ぺJP極め
て簡単にその経鮭を述べ元
のであり豊すO
-一
●●●●
その昔連は非常に多-てこ1にl々枚拳すpq・ことは
由難でありますが'一九二七年までの畢なる述作が山・
■
九三四年の
bibliographyBuddhique・の第四-五暁
に約百位はど載せてあります.その後雑誌通載
・亜細
.■抄
亜拳骨雑誌・極東畢院紀要等
を
始
め
、
内
外
の
東
方
畢
術
雑誌に載せられ挺ものが多数
あ
り
ま
す
が
、
を
の
主
要
の
もの控大概今日別室収陳列し
て
置
き
壷
し
た
か
ら
御
腎
を
願ひます。
一九二七年から一
九
三
二
・
二
年頃
にか
け
て
.鷲-べき勢で論述を教衷心て盾
り
ま
す
.
挺
.Fl
今
次
の
戦
争始まって以後のむ抄は今海は
知
る
便
宜
が
参
り
ま
せ
ぬ。これを通観致しますと著書と
名
づ
ぐ
べ
iuも
の
は
殆
んどな-ー住に樹録のlesGrottesdes
T
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六冊とゴー享かとの共著ソグド語のーe
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針
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ll8・.
4.
yl
メ
18g
ses
etdeseffets
d
ubien!Jet・dumalt(善意因果贋)
の詳述とが
「中東に於けるミッション∴
ペワオ」の.∵
部として的刊されてあるのと、ムール氏と
の共
著
の
膏
rcdpoto,theDescriptionofiheW
orld-の讐
l
附にマルコ・ポ廿の見聞録の註解を兼したものが出る
橡定になって居る-
もう既に出てゐるのかとも思う
が自分はまだ見てゐなS~位のもので'外には格別
まとまった著書はお-殆んどすべてが専門払撃術雑誌
の類に載せた論文であ-ますO.但しとれら,の論文の申
J
にはずいぶん長篇で'優に書物の怪裁を垂
へ得るもの
も少-はあ-ませぬ.a.例
へは
一九
二
年及び
1九」三
年の亜細亜拳骨雑誌に載せたシャヴン・ヌ氏
と
の東
署
●
untrait6
manich6enretrouv6enChineの如き、ま
た
一九二
〇年に通戯誌上に費表した孝子頭惑論の研究\
の如きはそれであります。
●●●●
を
の畢風について少し-述べて見ませう。]慣フラ
・
ンスに、於ける曳国を中心+)した東方単の研究按、他の
欧洲諸因に先立って開かれたのであって'これをペ-
オ教授の奉放し挺有名な
CollかgedeFraTIPe灯ついて
寵
てもへ、をの東研の支部率の講座が閑か≠'/AbelRe・
m
hsatがこれを塘督心たのは一九
一五年
-噂はま,さ・
に儲年
エルバに流され喪ナポレオンが、をの地を除臥
してフラシ
スに鮮り'六月ワルチルローに敗北して汲
蕗の運命に終った年の正月で、・その十六日に就任講演
.
をして居-ます。その後ジュすアン、サンド
一l-、シ
ャブンヌ.'寸.スペJpIと相侍
へて現在墜
ハ代月の教授
軒
甘患って居る次第で腐ります。かく早くから中開研究
の起つ養
ア一rtンスk於て東方撃の修得に精進したペ-
オ氏は、前述のやうに一九二
年明治四十四年にこの
●
畢院に創設せられ
尭
F中央亜細亜の言語勝央考古畢講
座」の捨常者とな-'爾来現時に至る恵でその職に養う
允のでありますホバ
講座の名稀にか~蜂らす・,Vの再開
に関する畢術に於ける見識知識の高く探か
つ養
こ
と
社食とわ経済上か宗教とか選術とか5ふ分衝に濃て縫
ったのでは敦-、庚-それらに亙った文献の考澄単的tr
研究が主たるものであっ瀧と息5億す?ある人絃彼計
「中国と声-、pッパ.・.印度
せイスラムとの交渉史の大
∵ 49.千
190
家であった」′とSかP.またある人は
「中開日録拳の大
家で
.あっ空
と記して居りますが'共に聞達ではない
にしても'こ
うした範囲に彼の拳間を限ることは気の
毒で'もつと廉
い分野に亘る文献撃的研究に大友る成
.果を奉げた人であります。そうしてその特色
とん
て
・は'如何なる研究
に放てもその■知識が茸に該博で且ア
精糖を極め、その上にこの人に慈恵れた特種の才能と▲
もいうべ漕購い音譜の知談を縦横灯駆使して、.前人未
.
。
費の天地を拓き、論述の仕方も廟に峯然たるものであ
一
った鮎などを奉げるべき、でありませう0、由来フランT八
‖‖‖L
の東方単著の研究態度は、レミユザ-以来俸統的に・か
.
1る精糖な考琵革風の特徴を有したもので、彼の師シ
ャブンヌ嘆の如きも、有名な史記の離課長はじめT
幾
多の論文転於てよ-この特色を牽輝して居るのであか
患すが、然も彼の畢間は更にその間に群を披Sたもの.I
であることを、何人も承認せざるを得ないこと・J思い
ヽ
ます。前にも述べた敦燈出土の摩倍数経典機簡の研究
ヽ
の如きはその適例であっ・て、凡そ中国に於ける、摩尼敢
闘速めことは細大とも委曲に亙って姦淫ざるなき有様
,
であ-ます.尤もとの研究路シャぜ
ンヌ氏との合同に
成るもか6,,両氏とも
紅塵尼教に勝しては早-ゎら潜
心研壁を鏡んで居つ■溌ことであり、ノ決
_して教壇教兄の
凍寒を見出んでから'新し-敬足したのせはおいのや
I
め.りますが'も
れに七てもか1
る精粗と該博と正しい
見解漣は、到底常人の企て及ぶとてろ.ではなSとS路
ねはなりませぬ.
ノ†_
●●●●.●●●●●●●
.,我が国の東方車外を重税したこと吋
ま奉告の特徴
の1として奉げなければ怒らぬことであ渦度す.彼の
天才的な語拳の才幹蛙ttS・つの程にか日本文をも読解
I
するやうに怒り、我が国の東方拳の成績をも知悉して
これを重視し'僧に白から参照引用するばかり
で海♂
ぐ、嵐-せ鼎の畢界忙覇介する.こと灯不断鞄労力を凍
ったのであiますバ
尤も我が閥のこの方面の成筏を重
税すること墜
必すLも彼を以て噂欠とするのではな
-ー前世紀末町政笥鳥博士が烏孫考や旬奴研究などを
憩衷心て欧洲の拳界に専管を挙げられたのを横線とん
1
て、蘭Yその注意を象-こ.とにな-'シャブンヌ氏の.L
如きもその漁連中妃度々我が先輩拷筏の所詮を引用し
・
≠
.-舶・-
て居b
ますから、彼は卑-その師の影響を受け潅こと
∴とは思はれますが'然もこの風潮は彼に至って劃期的
に麟著になって、極東単院紀要や特に通報誌
上
に澱
㌔.Jj言へ我が国のこの方面の新著の解説紹介或性批評に勉
めて居ります.有名なコルディエ氏のビブ
リ
オ
l.ア
、-
カ・シ一完
の晩期の巻に蛙、ま兜往々魂が軌の近著を
.L載せてありますが、それは概ねこれらの紹介に惑い寵
ものに外怒らぬの一であ-ます。
.かやうにして我が国の東方単はアデン憲
於で先づ
甚だ尊重せられること.になり、フランスの束方拳者等
I
絃みなこの流を汲んで、例
へはマスペfl・アッカツ
・
進歩豪速に痴困することは官うまでもあ-ませねが、
然も前に逓べたやうに臥米東方拳の牛耳を執ったペ-
オ氏が、か上る敬達老認めて虞-これを世界に紹介す
るに努めたのに依るLJとが爽きいと嘗はねはならぬ攻.
第であります.
義
が東方拳の成績を如何に熱心に彼が注茸して屠り
たかは'私がパリに於でまた日本に於て彼と談論の問
∫
にも常に観取したこ.とで透りますが、今とゝに彼の準
匿宛て凍書翰の中豊
節を引用して、と折紅藤示警
J
ヽ
ませう0こめ署翰竺
九三
年昭聖
バ年十一月3着耳
目附けでパリから敬迭したものPJr明年即ち昭和七年
~ 51-㍗
ドミエヴィル・ガスパルドン諸氏の如きもその連作申
ノ計
の初には月春に来遊し
.て食談が田乗る裸足
であ
づ喪
・に常に本邦聾者の詮を引用することを怠ら夜5のみ忽
-らす、これらの諸氏はみ夜我が国灯来遊してヽ我が同
Ⅰ91
畢諸氏との間に密接な友交を結び'互に研磨砥馬する
に勉めたのでありますo覇-フランスに於でのみなら
~
ず'こ′の傾向はきた贋-欧米の畢界にも及び、フラン
.方に於け計と同様の風潮を生ぜしめることになつ挺の
で熟ります.こんな風になったの拭無論我が東方拳の
が、それを延期し怠ければなら患Y卑ったので、壷
面
一
にょつて依頼する旨を述べ'日本の東方拳関係の畢誌
でその手許に快枕と怒ってある分を細かに書き上げて・
速附を凝4.その束誓
「かやうな面倒をかけて申詳忽f
,′
′
いが、然も臥本の優秀な鞄著を引用し得患いことは、
暴
雀
還
憾与
るとこき
雪
。宕
ゼ孝
町外
計本の潰霊な著述も多-法炊け、例
へは白鳥教授小川
「」
lS貯
教授に鉄ぜちれた記念論文集の如きも一冊も存しない
状態である-」と記して'深甚の遺憾を表して展るの
でもよ-解ること1存じます.をの日本史を読みこな
り
す力は勿論漢文を頚む力に比すべぐもあ-ませぬが、
然もよ-ここまでに議めたも.のと恩はれる
程に正し-一
解表してあ-、その才能と努力とに封して敬服を禁
じ
得ないのであ-ます。かかる次第で我が東方拳界の情,I
祝には遺憾な-通暁してゐ允と見て誤-で夜-、
ナナの
鮎時には我が周内の撃虜を凌ぐもの価あつたと5うJて
もよSかと児絞れる程であります。その結果として、
′
長S間に亙って決しなかづた東方拳の難問の1つ.が'
欧洲に於で絃彼に依って始めて解決せられるこiJにな
った
1つの事例を紹介致しませう。
前世紀の未から今世紀の初期にかけて緯
々として行
路れた東西諸岡の中開領中央亜細亜に於ける探検が、
諸種駕-べき結果を奉げて'単術の進歩に甚矢の寄輿
をしたことは今更申すまでもないことでありますが、
骨てこの地域に行はれ、後に金-滅凝もて不明の状態
となった三種の言語を明らかにするを得るに至ったこ
■',
・と聖
こめ探検の奉げた偉大恵.b牧獲空
っに敦へ準
ければ怒りませぬ.その三種の音譜とSふのは、資料
の畿比後聾者の苦心によって解明するを得
尭
リグ
F.
語
・常方イラ
ン語及びトカラ義絹の三つ・であります。リ
グド語とSふのはその常時の露領トル車
スタン、今の
ウ′ズべク共和観の有名なサマ元カンドを中心にし充
て
帝の地方を首-からリグ下と呼ぶましたが、その埠の
首位民が早-かも東西諸方を股にかけて商壌貿易に従事
し、その間に贋-この地方の諸地に遺留し挺文献雪
●また性この地方に植民した結束残さやN'.ことに夜つ挺
文献に賂ゐられて叡る言語で、十一世紀に路舞に疎ん
ど亡ん雲
量
であり"
東方イラン語とSふの性今の申
開治下の干閲地方に行路れた古語で、・1ルコ族がこと
・虹任bに室TOまでこの地溝に操ったイラン系の民族の
用ひ宣告薬であり漕す。第三のトカラ轟
と5ふの.墜
'
その命名にも聾者の大なる苦心が沸はれたもので、壕
の経緯につSで・iiあまりに複薙なので省略致
し.夢す
がttカラとSふ地名は大鰻今のアフガラガ
タ、ンの
北P.オクサス河の南.1
.ハルクを中心とした地方の名で.
-62~- ~
193
あります。このj・カラ語の文献に低A
・B
の両種
が′
あっ雪
面
者の周にか夜り相違はあ-ながら、去
来何
㌔
遍
語P方言弥相亀に過ぎないと見られで居-ます。、●
その中、まさしく・1カラ語と呼ぼるべきものはそのA
i&
種に嘗り、.資料の出土するの紐、カラシャル即ち苗-
から雷管と呼んだ地方と、ツルフアン即ち苗-から高
島と呼んだ地方の1部やあJCL'そうしてこの語で書S
てあ
るのは併典に限られて居る。然る、にB種のものは
一
雷管
・高昌の外、苗の亀玄即ち今のクチャ
(廃車)也
方から多-出土し▲、梯典以外にも日用の言語として、
例
へば寺院の記録
・通行免状または壁書等にも用いら
れてゐる.こ抄お経の言語を何と名づけとよSか・uS
・ふことが長S間に五つ_P喧し.-、欧洲の単著の軌に諭零
されながら定まらず、この言語の研究の大家として有
各であっ挺フランスのレヰ
-氏やノルウェーのコノフ
寵の如きもこれを何と名づけ亡よSか解らなSとSふ
ヽ
把至ったのであります.尤もレギー氏竺
空
三年に
一度これをクチャ語と名づけたのであつたが、これに
反
封する人があったので'その説を撤回し'生前これ本
に関する最後切論文にも1・通常の名辞は不明であると
述べたので⑬ります。,UれよiTi発WL・ルリンのミニク
\ヽ
ー教授竺
空
式年に.ヰo▲xriundKuigaAy(Ktivsan)
と題した論文を敬表し、ド、イツの中東探検隊の獲た固
讐
ウイグル)語の蟹
の奥書三極を解説を
し4i,.i
i
その第
一の奥膏に喧この経の由来を述
べ宣
tKuisan
(弱tisan)の語から
Ba・r6uq
の語
(・L.ル孟
岬の義)に
詳し整式Q.第二には
AKuisan(Kiisan)
の観に云
●
~ヽ
雪
夢
二に性
KuiBan(K髭an)の語からToxriの藷
に詳しtTdxr+iの静からTarkや語に詳しを茶々と見
えて居ることを述べ、そうしてその
Kuisan(Ktisan)
粥ui;aft
(
Kit;an)(かやうに種欠の議方をしてあるの
隼
ウイグル字では
hiとiiとが同
「形で東み別け難
いので、声特に括弧内の親方を添附したのであり、
づと.
)
・芸
は屡々混同されるが俄も本来少し-字形が輿渇の′
で'それぞれ字形に縫
って一と二で略Sと読み三」で絃幣
)Sと読んだのであるが、三者ともに同一名を記したの
#
で儀ることは疑あ-ませ.a)乾
償書西域像む始め諸
Q
寄に見える大夏の五鯛侯のノつで∵かの迦賦色迦王の
・一・番8・一
194
}
本地t,IJ.ある貴霜
K
uei・似uang即ち沸教との関係に於で
有名な
G
andhar.
aの境域'今のKabutの谷間地方で
草
K
uganと呼んだ地名に常ると忍は灯ると説き、東
西の革界絃これに封して何等の異説をとなへ.るものも
な-十飴年を経過しました。併し仔細に吟味すると、
この論述にはそれ白鯉にある樫慶の矛盾もあ扱、ま準
41別にこの詮を否定すべき謹嬢も出て来たので'私はミ
ユlワ-教授の所詮に反蘭し、昭和五年
(一九三〇年)∵
Lk
兜拳骨の大食で
「大月氏及び選霜に就心こ」と題し
て講演をした時にこの間題に論及し、、更にその詳曹
同年十二旦
桑原博士還暦記念東洋豊
潤叢に畿表し蜜
/
した。その琵嬢の要旨は、京都大挙所蔵のツルフアン
一出土回鴫文麿尼教徒前編文の断簡の中腎
qamn。人某
Sotmi・の人某、
kas酔nの'<某と書き並べ、.これらの人
々の冥助をマJl秤に所願したものがありますが'その
qam.1一・といふのは今の蜂蜜
Ha-iまた
S.hpF叫といふ●
■
一
あ
華
今笠
の名を残して雷
訂
、元代に笠
瀧と
いふ字面で元兜に現ほれてゐLる鞄に相違な7..その位.】
置些冗代の別箕八里
BeS・baI.iq琴いとLJろ雪
今
の辿1
p化を去ること大して遠からぬ地と認められ鳶
これら
両者と共に回鞄の摩尼教徒として記されてあ
が雷san
の天其の生地
kiisan路、
前記ミユニフ-氏の解詮し潅
飾輿の奥書に兄かる
kdsanと同
一でむるが、それが
・ての地方かpら遠-離れ潅ガンダーラ地方の.Kuvsahの
ばヨリ適切に解し得るかとSへは、自分は恰密や唆男
一■ゝ
迷と近接の地で
苗-鞄鼓と呼んだ今の庫事(クチャ')I
即ち十一世紀の
Mahmudat・KaBgariの辞書にクチ、
寸の別名
.漕sanと記され'夏
や親健線審
に曲
卦
k'ti・hsien背光
k'u・hsien等の字面で記されてある地
に常てるべきであ渇と思ふo・な旺且つ回鶴
で苗
の亀
露'今の廃車を
Kasanと呼んでゐたこと按、別に回
r
鴨文の梯典の断簡にょつて明らかに琵接だてられる。
即ち自分の有するツルフア.,t出
土
の悌
典断
片
に
雪
「kiis抑nの園に於て
spvarnap鼓・・'・と名づけた王の時J・
義
.々と見えるが、唐音西城博によるとtl亀玄樹に於で、
唐の太宗と同時代の王の父に蘇伐勃吸
(玄英の西域記
t
.ノ
に金花王と鐸してある)即ち
SuvalP首uSpaとSふ王
、r
・- 54--
5..0)l
があったことが明らか.で、この断簡文恵の玉名はこ転
ヽ
粧嘗る.従って亀鼓は古きトル・コ語である回鴨語では
kiisanと稗せられこたと鳩巣なSoそれ否か.かる知識
′を以て前記のミユラー氏
の解詮した回鴨文俳典の奥書
に封すると'その第
1の
「満nsalrr
Q語から
Bartuq・即
ちトルもの語に詳し」は'「亀玉の轟からトルnの語に
課し」たこと'
夢
二の
「kdsanの語から
T..*lの語
灯課し、Toxriの語から
Tdrkの語に濁し選
は、「亀
鼓の語から.トカラの語に詳しttカラの静からトル・コ
の語,に課した」
とSふことにな-~従って従来トカラ
語のFq軽、即ち・Lカラ語の一方言雪
盲
の鞄姦悪背高
員等
完町の地方に資格語として行揺れたも
のを」何と
¶
名づけてLJSか不明であるとせられたものは、明らかー
メ
に
Kusan語即ち亀玄語と名づけて然るべきであ,ると
l
血
いふのが百分のこれら両種の論文に於七述べた要旨で
あります.
・
私はかかる考を公け1gした時に、この詮は
「欧洲の
東洋聾者の間に勢力あか詮と性展っ潅見解を施したも-
打である∵
・・・-更に詳密た諭詮を加へて七の考を一骨
確賓になし得るか、もしくは調然欧洲聾者の寵に追随
するか、それijも佃は別の見解を加ふべきか、すべて
∫
これを他日に期せねはならぬ」と述べ、まね
「余の轡
~
樺の嘗香は∵固よ-厳正なる拳界
の払評に待たなけ
ゝ
ればならぬ」とも蓮'・t寵きました.然る灯ペ汐.オ民
望
五
三四年の
JournalA.Siatiq
ueに
TokharieDIet/.
K.utchgn
と題した長論文を揚げて、′その坤にこの
沖カラ語B種の名種本っ、S、て髄索の諸説を.1々批
評
㌔し、t
ギー氏やコ′フ氏が近頃の論文に於て
「吾々は
撃
言語B種~即ちクチャ庭
て話され窒
嘉
に野
心て
いの苗名が何と碑せられたかを知らなSLと述べ髭がPJ
それ法被等が私の既に日本語で教表し喪研究、そうし・
一
て今日ではアランス文としても公けにせられでゐる研
El
°
究を見逃した篤であ-'′この静文については」味に)
華
三重
の通報誌上に努
したので遜ると前書きをし
て、以下すべて私のここに略述した所論を重ねて紹介
して肯定し、A方言はト.カラ語であノ-I.打方語墜K
u
ta
(K辞S.a.n)語であることを承認せ.ねはならぬこ!・JJ明瞭
- 5a・-_
であると繰返して述べて居ります。
19 6 -
Y
.I九三四年以後の欧洲聾界で、この間蕗がSかに扱
破れてゐるかは、今
の私の知-待なSところでありま
すが、思ふに多分この論断耽よっ・こ決定を見てゐるこ
とでありませう.果してそうであれば、P.(ワオ氏をL
Jでこの間題に終止符を打たしめることになったのは1
枚が前述のやシに我が拳界を重成して、常にその成績
㌔
に深甚の津意を沸つてみ牽結果に外放らぬと共に:
言
語の関係からt.とかく世界に領脅せら肺難い我が拳界
の成績を贋-世鼎心願介し'しその注意をここに導-に
至らしめ挺功は、書々の氏に向つて感謝せれば怒らぬ
ところ言思仏ます.これ汰騒なるJ例で「、くり麗し・tJ
述べたやうに'我が陶の先輩や同率諸氏の優れた折究
の紹介に不断の努力をしたことは、吾丸の牢記やねは
おちぬところであiiます。その代りあまり出来の薯Y
なic着通に封しては、思払切つ東学嫌汲批評をあぴせ
かけて降らす'よくその儀S性格を牽挿し
て東
川
ま
、軒。私
の初めて彼と面癒しましたのは大正九年九月私の
パリを訪問した時のことであia.ますが[そ臥以前か、ら
文適してゐた関係もあって'最初から萄知の.如き交を
i
結び‥
ハり療養中の平年周、殆んど毎週従来を束ねま..
ヽ
したoその間に於げる彼の友情につ・bて路、醒lい感銘
を覚えて居ります。貴重怒る敦煙文書助如きも」多忙
(
長
時間を割いて自分から間立囲書館に札かけて..I,Sつ
∫
CJも問質り出来る便宜を計って-打たのみ'怒らす、未
塾理で恵乾彼の手許に在ったもの墜
どれでも希望す、
■
メ
るものを貸興して樺ち障ること鹿承知して-れ喪の
亡,
、ありまし・たOかの敦煙遺草に於て初めて原本の富農む
せに侍へ長音超の往五天竺困博の如き臥'かやうにし
・
て倍覚して私自身鳥虞したもので'これに先立って蘇
張三成が北京で一藤島字生に昏させ尭ものが印行され
I
てゐたのでありましたが、嶺島が多-仁操り難い本で
あり、藤田博士の同書の室樺蛙その馬に泉の轟な誤にー
限ってゐる野が少-ないこと蛙、曾て私の指摘し喪と
【ヽ-r56-
ころであ-ます。
前に蓮べたやうに、彼は蔑多すぐれた才能を有して′
居りましたが、その外にも怒性非凡の記憶力と絶倫の
精力とを有してゐ私ことを認めな抄れはな-ませぬeI
197
之痘加ふるにその昔密の有様を見TOと、議過した材料
を精し-カードに取り去
げ'白からこれを幾縮かの.カ
ードケースに丹念に峯頓してゐました。ここに於てか
研究に嘗つて資料の引用等、恰かも掌を指す如きもの
があったのであ-、精細を極めた彼の論述の療
々費表
されたことも、誠に道理であると肯かれる凍第であり
ます。
ノ
]S
・.今次大戦中,隼の泊息漉不断に懸念してめたのであ
一
りましたが、既に恰かも二年の前に鬼籍に入って宴
のであ-かす。.まだ大L
U高蘭fJいふ程では臥-、書
々蜂での俊敏と健巌とに依綴して、急性多-の名山の
葉を期待してゐたので叡-ましたのに、虞に痛恨の至
に堰
へませぬ。今日本食最初の講演倉に常りまして、
彼の単発を東
へ'また我が拳界に城した功
績
を述
べ
て、諸君と共に彼を追想致しますことは'惜しき彼の
永眠に封する私のせめてもの心や-で協ります.■
長ら-清琴
で煉はした.ことを感謝致します.
~
昭和コ十二年十月十九日東方撃術協倉主催
節
一回公開話柄食詰尚内容
文安泰新原
昭和二十三年壁兄都大挙文拳部史単科
東
洋
史
軍
関
係
講
義
題
目
講
義
束洋史概詮
欝
一部(奉冗曙代)
同
解二部(明唐時代)
疎
究
五代の文化と庶民
/一
確正帝とその時代
東洋史上に於ける
.
民族移動
の問題
,{
家族制度膚通じて
叡たる薬代の敵食
中餌宮代散骨史
田 宮 都 即 森
村 .略 波 村 波
数 政 教 教 敦
痩 授 授 授 授
元明時代の西城
清
習
敦煙草見唐宋時代
民間文書の研究
歴代食賃志
(
中国農村社食史の研究
/
清習(地理)
研究(餌史)
清習(囲史)
研究(考潰し
支那地理書の癖究
朝鮮史通論
漢籍倭人侍研究
ノ小ン・ウラ遺物の研究
中国考首撃
宇都宮助
教授
長
塚
講
師
羽
田
詩
師
部
波
数
憤
宮
崎
教
授
田
村
数
改
良
時
教
授
三
品
講
師
宝
島
講
師
梅
原
教
授
水
野
講
師
(其地文撃部束洋史関係論義旗日比次の通りである。)
麦
群
暫
皐
史
-/
講
義
薮都思想史
研
究
船桐鞘糟粕(uJ;月払降の見込)
霊津助教授
二
重津助教授
ニ
ー 57- ′
(以下九〇貫下段に線-)
930
」___-_________-_
(五七貫よb綬-)
清
習
釆教務嘉記
用詩注疏
象牲困琴紀聞
重
薄
助
教
授
Tl
甲
南
詩
伽
三
塞
津
助
敏
授
エ
東
押
詰
奉
安
群
文
革
■J
恭
義
申図日鉄拳
・
中国文撃史
J研
究
中図日錬轡
先人灘劇
IL
.申園小課兇
\
食
石
教
授
一「
書
山川、教
授
ニ
,
演
習
lH力
「中麟普鞘寧」
漢書外停
中開語撃賛習A
・町、C
語
畢
中国語初歩
李太白詩
/
龍平伯
「辞詞偶待」
碍友蘭
「新尿道」
/′
倉.倉書姦陳青倉、小善倉
石石川子川砂石川一川石
教授二敦捜ニ
敬・敦 教 敦 ;辞
授 投 授
一・90---rli