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卒業論文

「 神 戸 学 」

甲南大学 マ ネ ジ メ ン ト 創造学部 マ ネ ジ メ ン ト 創造学科

佐藤卒業研究プ ロ ジ ェ ク ト

10981164  山下遥

目 次

は じ め に

第 1 章 神戸の は じ ま り

第1 節 原始・古代(1) 原始時代の神戸(2) 国際港的役割(3) 平清盛の登場(4) 福原遷都と清盛の死第2 節 中世(1) 大輪田泊から兵庫津へ(2) 争乱の地、神戸第3 節 近世(1) 秀吉の愛した温泉地(2) 兵庫津の繁栄(3) 国際人、高田屋嘉兵衛(4) 灘の酒第4 節 近代(1) 開国(2) 勝海舟と神戸(3) 兵庫開港(4) 新政府初の外交、神戸事件(5) 居留地建設と神戸の街の変化(6) 急成長を遂げる神戸(7) 神戸大空襲第5 節 現代(1) 終戦(2) 国際行事の開催(3) 公共事業への投資(4) 阪神淡路大震災

第 2 章 神戸の い ま

第1 節 数字からみる神戸(1) 国勢調査から読み取る神戸の人口動態(2) 神戸市の地勢的特徴(3) 神戸の交通事情第2 節 神戸の代名詞「神戸港」(1) 世界有数の港である神戸港(2) 震災と神戸港(3) 奪われたハブ港としての役割第3 節 神戸を代表する企業(1) 活躍する神戸の企業① 川崎重工業② ネスレ日本(2) 影から支える神戸の企業① 増田製粉所第4 節 神戸を支える地場産業(1) アパレル(2) 清酒(3) 真珠(4) 洋菓子(5) ケミカルシューズ第5 節 ソトからみた神戸(1) 神戸イメージ調査(2) 住みたい街ランキング(3) 外国人の多い街

第 3 章 神戸の 抱え る 課題

第1 節 人工島の衰退(1) 六甲アイランド(2) ポートアイランド第2 節 相次ぐ撤退(1)P&G(2)第3 節 観光客数減少(1) 神戸観光統計データ(2)

第 4 章 神戸の 未来を 考え る

第1 節 モノを動かす(1) 注目を浴びる灘の清酒(2) (灘の清酒をどのように活かして神戸の未来に役立てるかを書く)第2 節 ヒトを動かす(1) 神戸市観光統計データ(2) (観光をどうすれば盛り上げられるかを書く)(3) 高まる外国人学校の人気

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(4) (外国人学校の多い神戸に、英語を習いたい子供又は習わせたい親を集める)

お わ り に

は じ め に

第 1 章   神 戸 の 歴 史

第1 節 原始・古代(1) 原始時代の神戸 神戸には、原始時代の遺跡がいくつか発見されている。その代表ともいえるのが、弥生時代のものとされる桜ヶ丘遺跡(灘区)だ。1964 年に発見されたこの遺跡は、一度に14 個もの銅鐸と七本の銅戈が出土した珍しい遺跡であり、考古学史上画期的な発見の一つとなった。これらの銅鐸、銅戈はすべて国宝に指定されている。また、神戸にある古墳を代表するものは五色塚古墳(垂水区)である。全長2194 メートル、県内最大の前方後円墳であるこの古墳は、明石川流域を統治していた豪族の墓と考えられている。現在では、文化庁と神戸市によって当時の姿が復元されており、古墳時代の雰囲気を感じ取れるようになっている。

五色塚古墳と明石海峡大橋(2) 国際港的役割 原始時代から飛鳥・奈良時代に入ると、日本全体が律令国家として形を変えていった。645年の大化の改新以降、日本各地で、国・郡・里という地方制度が実施され、現在の神戸は、摂津国菟原(うはら)・雄伴(おとも)・有馬と播磨国明石・美嚢(みのう)の2 つの国に分けられた。摂津国と播磨国は、瀬戸内海に面しているため、海運が盛んに行われ、また五街道のひとつである山陽道で都と結ばれていたため、ヒト・モノ・カネ・情報が集まる重要な場所であった。また、摂津国は、畿内の最西端であったために、京を追放された皇族や貴族たちが左遷される場所でもあった。そんな彼らの手によって、多くの詩歌や文学が生まれた。例えば、源氏物語。右大臣の娘との密会を指摘された光源氏は、天皇の命令で摂津国・須磨に左遷されることになる。須磨の地で、光源氏は質素な生活を送ったとされている。その舞台とされた須磨には、源氏物語にゆかりのある寺が数多く存在し、観光スポットとなっている。この他にも、詩歌では松尾芭蕉や正岡子規など、物語では平家物語など、神戸を舞台にした文学作品が多く残っている。この時代、兵庫の港は大輪田泊と呼ばれ、国内はもちろん、国外においても重要な港であった。

大輪田泊が面している瀬戸内海は、一年を通じてみても比較的温暖な気候で、雨量も少なく、快晴の日が多い。南は紀伊水道・豊後水道を経て太平洋に開け、西は関門海峡から朝鮮半島・中国

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大陸へとつながっている。そのため、瀬戸内海は、古代よりヒト・モノ・カネ・情報を運ぶ上で重要視される海路であった。瀬戸内海に存在する数多くの港の中でも、大輪田泊の役割は大きかった。古代より、国外の使者が京都に行く際の玄関口として活躍していたのだ。大輪田泊で入国した使者は、この地で船を乗り換え、淀川を渡って都を目指すとされていた。それを証明する書物が残っている。それは、905年から927年にかけて編纂された法令集「延喜式」である。これによると、古代朝鮮王朝である新羅国の使いが日本に来た際に、生田神社で航海の無事を祝う酒を楽しんだ後、都に向かったとされており、古代日本における国・際港の内の一つであったことがこれより分かるのではないだろうか。(3) 平清盛の登場 古代の神戸を語る上で、欠かせない人物がいる。それは、武士として初めて太政大臣となった平清盛である。清盛も棟梁を務めた平家一族は、清盛の祖父正盛の時代より西国海域で影響力をもち、父忠盛の時代では、宋との貿易を積極的に行っていた。清盛自身も日宋貿易の拡大に力を注ぎ、日本という国を“ 貿易国家” にすることを夢見ていた。そんな清盛がまず取り組んだのが、港探しである。その上で、重要視した点は大きく分けて、三点あると考えられている。1 点目は、外国船が安心して航海できる航路の開発が可能であること。(もう少し調べる必要あり)2 点目は、大型貿易船がいつでも到着できる水深の深い港であること。3 点目は、都より近くもなく、遠くもない距離感である。これら3 つの条件を満たしたのが、古代より遣唐使などの使者が国外から来る際に日本の玄関口として使われてきた大輪田泊(現在のJR 神戸駅付近)であった。しかし、当時の大輪田泊は、東から南にかけての風や波、潮の流れに対しての備えが弱く、長い間停泊することや入港が難しかった。そこで、清盛は、この問題点を解決すべく、山の土を海に運び、人工島の建設を行うことにした。このように人工島を作ることは前例のないものだったために、工事は困難を極めた。難工事となった人工島建設の完成を願うために“ 人柱の代わりに石に経を書いて沈めた” とされていることから、完成した人工島は“ 経ヶ島” と呼ばれている。(4) 福原遷都と清盛の死 このようなインフラ整備ともいえる作業に取り組む一方で、清盛は後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇を伴って、1180 年に神戸の地、福原に都を移した。しかし、同じ年に源頼朝の挙兵などが起こり、わずか半年で京に都を戻すことになった。また、翌年の1181 年に清盛が急死したこともあり、平家の勢いは急速に衰えることになった。 清盛のいなくなった平家は都においても勢力を弱めていく。その結果、それを好機と捉えて攻めてくる源氏との戦いは激しさを増していった。そして、1184 年に神戸の地で一の谷の合戦が行われた。平家は、生田の森(現中央区)から一の谷(現須磨区)まで、広い範囲で陣を構えた。平家は、様々な人材、手法を用いて源氏を迎え撃ったが、源氏の力には及ばず、大敗を期した。この戦いで有名な源義経の奇襲攻撃“ 坂落とし” の舞台が神戸にある。この場所に関して、二説が議論されている。1 つは、神戸市西区の鵯越説で、もう1 つは、神戸市須磨区の一の谷説である。この説には、様々な議論があり、明確には分かってはいない。源氏と平家、両家の戦いが終わるのが1185 年の壇ノ浦(山口県)の戦い。源氏の勝利という

結果で終わった。大輪田泊を含む、神戸の各地は、それまでの戦いで多くの被害を受けた。清盛が夢見た神戸での新しい国づくり“ 貿易国家” の完成は、実現することなく、平家の滅亡という形で幕を閉じた。

第 2 節 中世 (1) 大輪田泊から兵庫津へ源平の争乱による影響で、いたるところに傷跡が残った神戸であったが、鎌倉時代に入ると、

東大寺大仏を再建した重源によって大輪田泊は改修された。(重源の説明)(文献、ネットで見つからず。調査方法を考える)復活を遂げた大輪田泊を中心に、神戸はさらなる発展を遂げていった。清盛の時代から続く日宋貿易の拠点としてばかりではなく、中国・四国・九州等から京都に向けて、年貢米をはじめとして様々な物資が集まる港になっていった。この地に運ばれたもののほとんどは、小船に積み替え淀川を上って京都に運ばれるか、荷揚げされて陸路で各地に運

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ばれるのかの2 択である。この頃になると、大輪田泊の地名は、付近にあった兵庫村の名をとって、兵庫津と呼ばれるようになった。商人はもちろん、船頭や水手、船大工などの職人、そして輸送されてきた商品の荷受けや荷揚げを請け負う廻船問屋(問丸)が店を構え、港町が形成され、神戸は活気を増していった。 鎌倉時代後期、兵庫津の管理は寺社が行っていた。その資金源は、兵庫津に入港する際に船が支払う関銭である。徴収した関銭から港の維持費を差し引いた余剰額は東大寺の収入になっていたとされている。東大寺は、「( 兵庫津は) 寺社重色第一の料所」としており、兵庫津からの関税収入が東大寺の財政にとって必要不可欠であり、多くの収入を得ることができた。つまり兵庫津が栄えていたことが推測できるのではないだろうか。このほかにも、兵庫津の繁栄を示す資料が発見されている。『兵庫北関入船納帳』は、兵庫津の関所を通関した船の記録台帳である。これによると、年間2000 隻もの船が通関していることが分かる。船は、地元の摂津や播磨以外にも、備前、安芸、周防、長門など瀬戸内一体から入船していたとされており、それと同時に、それらが米や塩などの他に各地の特産品なども兵庫津に運んでいたことも納帳に記されている。この頃の兵庫津は、大消費地である京都に向けて瀬戸内海各地の港から積み出された商品の陸揚げ地として繁栄していたのだ。(2) 争乱の地、神戸鎌倉時代末期、神戸は源平の合戦時同様、戦乱に巻き込まれていた。鎌倉幕府倒幕に燃える播

磨の武将赤松則村が1333 年に挙兵し、摩耶山を拠点に鎌倉幕府の六波羅探題と戦った。この翌年から、後醍醐天皇の建武新政が始まったものの、そのやり方に不満を抱いた足利尊氏が関東で挙兵。尊氏の動きを止めようとした楠木正成や新田義貞であったが、1336 年の湊川の戦いで敗れることとなる。戦いの地、湊川の近くにあり、「楠公さん」の愛称で親しまれる湊川神社は、この戦いで敗れた楠木正成を祀る神社である。 室町時代に入ると、南北朝分離を統一した足利義満が日明貿易(勘合貿易)を始めた。その発着港となったのが、日宋貿易でも活躍した兵庫津であった。兵庫津は、国際港としての役割を再び担うこととなり、港は非常に栄えた。しかし、その繁栄は長く続かず、1467 年に始まる応仁の乱で、兵庫津は焼き討ちに遭い、その後、国際港としての役割は被害の少なかった堺に奪われてしまった。

第 3 節 近世 (1) 秀吉の愛した温泉地応仁の乱が終わった後も、各地で争いは続き、時は戦国時代に移っていった。その戦国時代も

末期になると、中部地方から勢力を広げ、天下統一を目指す織田信長が台頭してくる。信長は、播磨を羽柴秀吉に、摂津を荒木村重に治めさせ、自身は中国地方を掌握していた毛利氏を攻撃し始めた。しかし、東播磨の別所氏や摂津の村重が毛利方に寝返えるという事態が発生する。それらを鎮圧するために、信長は秀吉に東播磨等を攻撃させた。その攻撃は、結果的に兵庫津にも及ぶこととなり、港は壊滅的被害を受けてしまった。 信長が1582 年の本能寺の変で倒れ、秀吉が次の政権を担うことになった。その後、彼は関白・太政大臣に就任し、日本全国の大名を従わせ、天下統一を果たす。そして、一躍天下人となった秀吉は、神戸の有馬温泉を好み、正室のねねと共にたびたび有馬を訪れていた。有馬の人々は、秀吉を暖かく迎え、手厚くもてなし、秀吉を「有馬の恩人」と慕っていたとされている。その理由には、2 つある。1 つ目は、彼が有馬温泉を訪れた際に、茶会を開いたとされていることだ。有馬大茶会として現在にも残っているこの茶会には、当時の権力者が多く招かれ、有馬温泉は大層にぎわったとされている。2 つ目は、秀吉の手厚い支援である。1596 年から1597 年にかけて、近畿地方を中心に、慶長の大地震とその余震が幾度となく街を襲った。その影響で、神戸は、有馬地区でも被害があった。秀吉は、被災した有馬温泉の復活を強く望み、自らの資産を資金として提供し、有馬地区の復興に力を注いだ。(2) 兵庫津の繁栄

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1614 年の大阪夏の陣で豊臣氏が滅びると、秀吉の直轄領であった兵庫津は、尼崎藩に渡されることになる。長い間、国際港としての役割を堺に渡していた兵庫津であったが、尼崎藩の働きで、朝鮮通信使の宿舎などが兵庫津周辺に建設されてからは、再び国際港として息を吹き返し始めた。1607 年を皮切りに、計12 回朝鮮通信使が日本を訪れ、彼らは兵庫津に毎回上陸し、神戸の人々との交流を深めていった。この頃の人口は兵庫津付近で2 万人前後。西は柳原(現在の柳原えびす神社付近)から、東は湊口(現在の湊八幡神社付近)までが特に栄えていた。兵庫津には、各地域からの特産品や年貢米を乗せた船が数多く入港し、仲買人・問屋・造船業者など多くの海運業者が港の近くで暮らし、生計を立てていた。 そして兵庫津の繁栄は、“ 西回り航路” の登場で勢いを増していくことになる。西回り航路とは、東北や北陸地方と” 天下の台所” の大坂を結ぶ海路のことで、東北・北陸から日本海沿いに船を南下させ、長門を経て瀬戸内海を航海する。この海路で航海する船のことを“ 北前船” という。北前船の上り荷は、ほとんどが海産物であり、下り荷は、酒・油・衣料品・塩・紙などの西日本の特産品を運んでいた。北前船では、運賃をもらって物資輸送する従来の形式とは異なり、買い積みとよばれる経営が盛んに行われていた。これは船頭が寄港地で物資を売買しながら航海する方式で、北前船の船頭は航海技術に加え、商いの知識も要求された。(3) 国際人、高田屋嘉兵衛

淡路出身の高田屋嘉兵衛は、兵庫津で修業を積んだ後、北前船の船頭となり、蝦夷地との貿易を行った船乗りとして有名である。彼は、蝦夷地との貿易成功後、幕府の命により択捉島に漁場を設置。1812 年にロシアのゴローニン監禁の報復としてロシア兵に捕えられたが、人質として拘束されている間にゴローニン釈放に力を注ぎ、日露間での衝突回避に一役買った。そんな彼に船頭としてのスタートを切るきっかけを与えた人物がいる。当時の北風家当主、荘右衛門貞幹である。兵庫津随一の豪商と言われていた北風家は、入船する船から積み荷の売却を依頼される問屋であると同時に、北風家自身も船をもつ廻船問屋であった。北風家では、入港した船頭たちを自邸に泊らせ、「船乗りには身分の別なく大事に、気受けよくせよ」という家訓の元、手厚くもてなした。その自邸は、「北風の湯」とよばれる一種のサロンのようなものになり、航海の技術はもちろん、商才にも長けた船頭たちやその情報が集まる重要な場所になっていた。嘉兵衛もたびたびこの家を訪れたとされており、その際に嘉兵衛の船乗りとしての能力と人物を見込んだ荘右衛門貞幹が、嘉兵衛に船を与えたとされている。(4) 灘の酒西回り航路での航海が盛んになるにつれ、兵庫津の経済も活発になってきた。その代表が灘の

生一本や菜種油、素麺などである。その中でも特に灘の生一本は有名で、江戸っ子にもてはやされた。灘で酒造業が盛んになった要因として、六甲山からの水が豊富でカリウムなどを多く含んだ硬水に恵まれたこと、六甲山を下る河川に精米する水車を設けたこと、大きな酒蔵をたてられる浜が多く、江戸へ運ぶ海運に恵まれたこと、樽を作る際に使う杉が身近にあったことなどがあげられる。このような良い環境に恵まれた灘の酒の多くは江戸に運ばれ、1821 年には江戸に全国から運ばれた酒は四斗樽122万4 千樽(約8 千8 百リットル)ほどで、江戸時代で最高を記録。このうち55% の68 万1 千樽が灘目(現在の神戸市東灘区から中央区の間)から運ばれていたとされている。 1769 年、幕府は灘目を含む兵庫津一体を幕府領とするという、いわゆる“ 明和の上知” を行った。兵庫津での繁栄、酒などの特産品等でにぎわう経済力高いこの地域を幕府領とすることで、財政的に苦しかった当時の幕府財政を救済することが目的であった。

第 4 節 近代 (1) 開国

時代は幕末に入り、幕府は国外からの開国要求に頭を悩ませていた。また、国内では尊王攘夷派と開国派との激しい抗争も続いていた。鎖国を続けてきた日本であったが、欧米諸国からの開国を求める要求は強く、1854 年には日米和親条約、1858 年には日米修好通商条約を結ぶに至った(オランダ・ロシア・フランス・イギリス各国とも同様の条約を結んだ)。アメリカは、

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長崎・神奈川・新潟・兵庫・箱館(函館)の開港と江戸・大坂の開市を要求。しかし、長崎・神奈川・新潟・箱館は、翌年の1859 年に開港されたが、京に近い兵庫の開港は外国人をひどく嫌った当時の帝、孝明天皇に認められず、開港に向けての準備が始まらずにいた。それを見かねた幕府は、1862 年に開港の延期を交渉するため、外国奉行の竹内保徳を団長として福沢諭吉を含む総勢38 名の使節団をアメリカに派遣した。その結果、当初の予定から5 年の延期が認められ、兵庫の開港は、1868 年と延期された。しかし、その代わりに関税に関する取り決めで、日本は不利な条件を課されることとなり、日本にとっては痛手を負う結果となった。(2) 勝海舟と神戸 5 年間という猶予が出来たものの、兵庫開港に向けた準備は進まずにいた。孝明天皇が開港を許可しなかったためである。しかし、その間に自国を防衛するための装置建設は進んでいった。幕府は朝廷の要請をうけて、大阪湾に面する各藩に砲台の建設を命じた。対象となる藩はそれぞれ建設を開始し、幕府の直轄領であった兵庫津周辺でも砲台建設が始まった。それを任された奉行の一人が、軍艦奉行並勝麟太郎(のちの勝海舟)である。彼は摂津海岸の和田崎(現在の和田岬近辺)に砲台建設を決め、建設に取り組んだ。その後、海舟は沿岸部での数か所の砲台建設だけでは、外国から攻撃を受けた際に太刀打ちできないと考え、列強に対抗できる海軍増強が必要不可欠であると、当時の将軍家茂に直訴。そして、以前より注目していた神戸の地に海軍操練所の設置を申し出た。なぜ神戸だったのだろうか。理由は3 つあるとされている。1 つ目は、二茶屋村(現在の元町付近)の網屋吉兵衛が1855 年にすでに船たで場を設けていたためである。船たで場とは、船底についた貝殻やフナムシを取り除く施設のことで、現在のドックにあたる。これらの建設には膨大な費用が必要なるため、海舟はすでに存在したこの船たで場を使おうとしたのである。2つ目は、兵庫津より少し離れた場所であるために、土地が余っていたことである。海舟は、海軍兵学校のようなものに加えて、軍港と製鉄所を建設しようと考えていたため、広大な土地が必要だった。そのため兵庫津から少し離れ、比較的人口の少ない神戸村を選択したのである。3 つ目は、神戸浜の方が、兵庫津に比べると水深が深いことである。より大きな船を入港させるために、このような環境が必要であると考えたとされる。将軍家茂から建設の許可が出た海舟はすぐさま準備に取り掛かった。海軍操練所建設(現在の

中央区新港町)にあたり、海舟は弟子を90 名ほど連れてきたとされており、その中には、坂本龍馬もいた。龍馬という人物と才能を評価した海舟は、神戸浜での海軍操練所建設の助手役に抜擢。また、海舟が神戸で運営していた海舟塾の塾頭も龍馬に任せた。これら一連の流れは、龍馬の故郷、土佐に住む姉の乙女に宛てた「エヘンの手紙」にも記されており、海軍操練所建設に向けた龍馬の意気込みが感じ取れる。 海舟が総力を尽くして完成した海軍操練所には、多くの入学希望者が殺到し、その中には、のちに名外相として有名な陸奥宗光もいた。将来の海軍士官を夢みる若者でにぎわう神戸海軍操練所であったが、1865 年に閉鎖されてしまった。生徒の中に、倒幕運動に加担する者がいたのだ。海舟はその責任を負われて失脚。同時に神戸海軍操練所も閉鎖されてしまった。(2) 兵庫(神戸)開港

1868 年の開港に向けて、準備を進めなければならない兵庫での開港であったが、1867 年に入っても朝廷からの許可はおりずにいた。ようやく許可がおりたのは、開港予定日半年前になってからであった。しかし、兵庫開港といいながら実際の開港場はその東側の神戸村であった。その理由としては3 つ考えられている。1 つ目は、1867 年に四カ国連合艦艇(イギリス・フランス・アメリカ・ロシア)が兵庫に来た際に、付近を測量したイギリス公使のパークスが「兵庫津より神戸の入江の方が港に適している」との判断を下したからだ。2 つ目は、神戸村周辺には民家が少なく、居留地を建設しやすかったため。3 点目は、勝海舟の造った海軍操練所の施設が神戸に残っており、その有効活用を考えたためであった。以上の3 点により、当初開港予定であった兵庫津ではなく、神戸の入江が開港場として選ばれ、建設が始まっていった。そして、神奈川(横浜)、長崎、函館、新潟などに遅れること9 年、1868 年1 月1 日に神戸は開港することとなった。これと同じ日に、イギリスは旧海軍操練所の建物に、フランスは生田神社境内に、アメリカは鯉川尻の波止場前に、それぞれ領事館を開設した。

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開港時の神戸港付近

(3) 新政府初の外交、神戸事件開港直後の1868 年2 月4 日に、三宮神社前の西国街道で西宮の警護に向かっていた備前藩士

が、行列を横断した外国人に発砲する「神戸事件」が発生した。一時的に、神戸の街は連合軍により占領され、神戸港内の諸藩の船は拿捕された。これに対し、発足間もない明治新政府は、この事件を収拾するために軍事参謀東久世通禧と政府代表として伊藤俊輔(博文)を神戸に派遣し、イギリス公使パークスとの交渉にあたらせた。東久世と伊藤は、日本側の責任を認めるとともに、外国人の安全を保障し、外国軍隊の撤退を求めた。その結果、備前藩の隊長を切腹させることで、この事件の決着をつけた。この一連の外国との交渉は、明治新政府最初の外交となり、神戸の地で近代日本の外交が始まりを迎えた。この事件の後、伊藤博文は初代兵庫県知事となり、神戸の骨組みをつくっていくこととなる。(4) 居留地の建設と神戸の街の変化

イギリス人土木技師のJ ・W・ハートの設計による居留地が完成し、神戸は様々な国の人々が行き交う国際都市としてスタートを切った。当時の居留地は、現在の神戸市役所の西側から大丸神戸店までの、現在「旧居留地」と呼んでいる一帯のことで、南は海岸通までの約25 万平方メートルに及んでいた。居留地の真ん中には、幅約20 メートルのメイン道路(現在の京町筋)が南北に走り、海岸通りには緑地帯が設けられた。道路は歩行者・車道分離で、街路樹やガス灯が並び、下水道(のちに電線も)は地下に埋められた。また、居留地に住む外国人がスポーツを楽しむためのレクリエーショングラウンド(現在の東遊園地)も作られ、サッカー、ラグビー、テニス、陸上競技、野球、クリケット等が盛んに行われた。

神戸は、横浜などより遅れて開港したために、横浜などで出てきた問題点(もっと具体的に説明を)を神戸では改良することができた。そんな新しく変化を遂げた神戸の街は、“ 東洋一の居留地” として注目を集めることとなった。

居留地内は、居住する外国人に領事裁判権が認められたため、外国の地同様の扱いであった。これらの権利や条約は、日本にとって不平等条約であったが、ノルマントン号事件をきっかけに、条約改正の世論が高まり、1899 年に日本に居留地が返還されて、治外法権が撤廃された。 居留地の建設に伴って、居留地周辺も新しい市街地として生まれ変わりつつあった。東西は生田側から宇治川の間、南北は海岸から山麓まで、居留地を囲む広い範囲にわたって、「雑居地」が設けられた。雑居地とは、神戸独自のもので、日本人が外国人に対して土地あるいは家を貸すこと、外国人が居住すること等が許された土地のことである。港の景色が一望できる山手の方には、多くの欧米人たちが好んで住み、それが今の異人館に繋がっている。また、海側には多くの中国人が住んだ。神戸開港と同時に長崎在住の中国人が神戸に来て、神戸港から中国に海産物等を輸出していた。その後、神戸が栄え始めると、大坂に住んでいた中国人が神戸に移住し、神戸における中国人の活動が活発となっていった。彼らが住んだ土地は、やがて南京町として呼ばれることになり、現在の南京町に繋がっている。

また、生田川と湊川の付け替え工事も行われた。二つの川は、大雨のたびに氾濫し、居留地に住む外国人からの苦情が絶えなかった。生田川の付け替え工事は、加納宗七が請け負うこととな

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る。そのため、旧生田川の河川敷には“ 加納町” として彼の名前が残っている。湊川の付け替え工事は、当時の財界人たちからの共同出資で行われた。この工事では、山にトンネルを通して、湊川と苅藻川を繋げるという方法が採用された。完成したトンネルは“ 会下山トンネル” と呼ばれ、日本で最初の手掘りの河川トンネルであった。湊川の付け替え工事のために埋め立てられた旧河川敷は湊川公園となり、現在の新開地へと姿を変えていく。明治時代後期から戦前まで、新開地は、映画館・飲食店を中心とした歓楽地として栄えていた。

1913 年に東洋一と言われるほどに豪華な聚楽館ができ、これが新開地のシンボルとなった。聚楽館は、東京の帝劇を拠点にしていた歌舞伎役者・七代目松本幸四郎が、所属していた松竹との関係の悪化に伴う一座の移転により出来たものである。館内は、三階建て、一面赤じゅうたん、大理石階段などで成り、完成と同時に注目を集め、多くの人々が訪れることとなった。その後、聚楽館は1978 年に閉館されるまで、多くの人々に愛されることとなった。 (5) 急成長を遂げる神戸明治時代の様々な変化は、神戸に計り知れない影響と変化を与え、神戸を“ 異文化都市” へと

変えていった。そんな急成長を遂げる神戸の街は、明治時代後期に入っても、山陽鉄道と東海道本線の全線開通や日露戦争などでの軍事的需要の高まりなどの影響で、飛躍的な成長を遂げていった。1913 年には第2 位の横浜港を大きく引き離しての、輸出入額全国1 位になった。大正時代に入ると、神戸市内は2つの出来事で騒然となる。1 つ目は、1918 年8 月に起こった米騒動を巡る鈴木商店焼き討ち事件である。市民は、外国米の指定商社になっていた鈴木商店を焼き打ち、その火は筋向いにあった神戸新聞社などにも移った。この鎮圧には軍隊までもが出動し、神戸の街は騒然となった。2 つ目は、鈴木商店焼き打ちから3 年後の1921 年である。労働条件の改善を求めて、川崎造船所・三菱神戸造船所に勤める従業員らがデモを起こした。初めは、二社の従業員のみであったが、次第に神戸製鉄所や台湾製糖、ダンロップなどの事業所を巻き込むまでに広がった。会社側は、工場閉鎖などで対抗。最後は警察までもが出動し、結果は労働者側の敗北で終わった。この時期、日本各地で同様の騒動が起こったが、神戸でのこの騒動は全国でも最大規模の労働騒動であった。時代は昭和に変わっても神戸の勢いは止まらず、東京・大阪に次いで名古屋と並ぶ大都市となった。(6) 神戸大空襲

成長を続ける神戸であったが、その成長は世の中の流れに阻まれることとなる。1930 年代後半から起こっていた第二次世界大戦では、神戸も大きな被害を受けた。“ 神戸大空襲” である。最初の空襲は1942 年で、この空襲により神戸の都市機能は壊滅的被害を受けた。1945 年に入ってからは空襲が激化し、軍の工場が集中する神戸は、重要な攻撃目標とされ、何度も攻撃を受けた。そのうち6 月5 日に起こった空襲が最大規模のもので、474機が空から約3000 トン、大小合わせて60 万個もの焼夷弾を神戸の街に落とし、市街ほぼ全域を焼き尽くした。死者に関しては諸説あるが、一説によると8000 人ほどとされているが、さだかではない。これらの空襲を伝える文学作品がある。野坂昭如の「火垂るの墓」や妹尾河童の「少年H 」である。いずれも自伝的小説である。

第 5 節 現代 (1) 終戦1945 年8 月15 日の終戦とともに、連合国軍が日本に駐在し、神戸にもアメリカ軍が旧居留地や神戸港付近に駐在した。神戸は、神戸港での貿易等のおかげで順調に戦後復興を遂げていった。(2) 国際行事の開催

戦後間もなくの1950 年から神戸の街では3 つの大きな国際行事が開催された。1 つ目が王子公園と湊川公園を会場にした“ 日本貿易産業博覧会(神戸博)” である。戦後復興のシンボルとして開催し、戦後の日本経済の中で神戸港が担っている役割を広くアピールすることが狙いであった。神戸博の名誉総裁には吉田茂首相が就任し、神戸市は力を入れて取り組んだが、この神戸博は2 億円の赤字を出し、結果的に大失敗に終わった。2 つ目が1981 年に完成したポートアイランドのアピールと神戸市のイメージアップを目的とした“ 神戸ポートアイランド博覧会” 。

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当初の目標入場者数は1300 万人であったが、実際には1600 万人を越え、94 億円もの黒字を出す大成功で終わった。その後、この成功を見た各地方が積極的に地方博を行っていくが、この入場者数の記録はいまだに破られてはいない。3 つ目は“ ユニバーシアード神戸大会” である。1985 年に神戸市須磨区の総合運動公園で行われたこの大会は、“ 学生五輪” として呼ばれる大学生の国際総合競技大会のこと。106 カ国、4352 人の国際色豊かな学生が神戸に集まり熱い戦いを繰り広げた。(3) 公共事業・ポートアイランド 1966 年に着工し、1981 年に完成した人口島。コンテナ港と都市機能を兼ね備えた海上都市を目指してつくられた。「山、海へ行く」のフレーズの下、1966 年から六甲山の土が埋め立てられていった。1955 年ごろから始まった高度経済成長で、神戸で活躍していた造船業・鉄鋼業・機械業等も生産ラインの強化を迫られた。各企業は新しい工場建設に伴い、神戸で新しい土地を探したが、すでに多くの土地で開発が進んでおり、土地がなかった。そのため、川崎重工業や川崎製鉄などの神戸に拠点をおいていた企業が相次いで神戸以外に工場を建設。それに焦った神戸市が900億円を投資して建設にあたった。・六甲アイランド ポートアイランド同様、新しい都市機能を持つ新都市づくりとして、1972 年に着工され20年の歳月と約5400 億円の工事費をかけて1992 年に完成した人口島。・明石海峡大橋・神戸空港

(4) 阪神淡路大震災 1995 年1 月17 日午前5 時46 分ごろ、兵庫県の淡路島を震源とするM7.3 の巨大地震が発生した。一瞬にして神戸の街は廃墟となった。死者は6,433 人(うち兵庫県は6,402 人)、行方不明者は3 人。住宅被害は全壊が14,906 棟(186,175世帯)、半壊は144,274棟(274,182世帯)。犠牲者の多くの死因はこれらの住宅の下敷きになったことが原因で、窒息死や圧死であった。犠牲者の多く出た神戸市長田区などでは木造建築の密集地であったために、非常に多くの場所で火災が発生。その状況に断水が重なり、消防が火災現場に駆けつけても水がなく、消火活動を行うことが出来なかった。電気・ガス・水道・鉄道・道路などのライフラインも崩壊し、特に阪神高速での悲惨な被害が全国に伝えられた。このような規模の地震は、関東大震災以来とも言われており、戦後最大の都市地震被害であった。 復旧・復興にあたっては、兵庫県内のみならず全国からボランティアが駆け付け、 1 年で約137万人が神戸の復旧・復興を支えた。そのため、この年は“ ボランティア元年” とも呼ばれた。

第 2 章   神 戸 の い ま

第1 節 数字からみる神戸(1) 国勢調査から読み取る神戸の人口動態

平成23 年10 月現在、神戸市の総人口数は約154万4200 人である。この値は、全20 ある政令指定都市中、横浜市・大阪市・名古屋市・札幌市に次いで5 番目に多い数であることが、表2-1 よりわかる。また表2-2 より、神戸市の人口は、昭和22 (1947 )年の臨時国勢調査以来、市内に多く作られたニュータウン開発などの影響により、増加を続けていることがわかる。しかし、平成7 年(1995 )に発生した阪神淡路大震災の影響で、多くの方が亡くなり、また大量に人が市外へ流れたため、平成7 年の国勢調査では、戦後初めて人口増減数がマイナスを記録した。その後は増加し続け、最新の調査である22 年調査でも前回調査(平成17 年)から1.2 %増を記録している。また、図2-3 で、神戸市の人口増減率を全国と政令指定都市で比較してみる。全国値よりは大きな増加率を示すものの、各政令指定都市の値と比較すると、それほど大きな増加

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公共投資については、今後調査する予定

幅でないことがわかる。

次に「男女別」では、表2-2 より、男性が約73 万人、女性が約81 万人で女性の方が多く、人口性比1 は89.9 であるとわかる。平成17 年国勢調査と比較すると、男性は約6,600 人増加、女性も約12,000 人増加している。神戸市の人口性比は全国的に見ると、どのような値なのだろうか。人口性比の全国値は、94.8 であり、この数字から分かるように、神戸市は4.9 ポイント下回っていることになり、神戸には全国平均よりも多くの女性が住んでいることがわかる。また、図2-4 を使って、年齢5 歳階級別の全国値と神戸市を比較すると、「0~4歳」と「85 歳以上」を除き、すべての階級において全国値を下回っており、特に20~24 歳の値が全国値との間で大きな差がある。これより、神戸市には全国と比べて女性が多く、その中でも特に20 ~24 歳の女性が多い街であるということが分かる。さらに表2-5 から、人口性比を各区でみると、いずれの区も100 を下回っており、その中でも須磨区86.2 、中央区88.2 、長田区88.3 、東灘区88.6 の順に値が低く、女性の数が多いことがわかる。何故このような順になるのであろうか。須磨区や長田区について、この2 つの区は神戸市の中でも高齢化が進んでいるため、女性が多い

1女性 100 人に対する男性の数10

表 2-1  政令指定都市の総人口数

表 2-2  国勢調査による人口の推移

図 2-3  全国・政令指定都市人口増加率

のではないかと考えられる。また、中央区や東灘区では、神戸市の中心部に近いために企業が多くあり、一人暮らしの働く女性が多く暮らしているということや女子大が東灘区を中心に存在するので、一人暮らしの女子大生が多いという2 点の理由から女性が多いのではないかと推測される。

さらに年齢3 区分でみていくと、15 歳未満は約19 万人(前回調査比△2.3% )、16 ~64 歳は約98 万人(△3.4% )、65 歳以上は約35 万人(+16.0% )となる。また、総人口に対する各年齢区分の割合としては、表2-6 より、15 歳未満が12.7 %、15 歳から64 歳までが64.1% 、65 歳以上が23.1% となっている。これらの割合の中で、15 歳未満のみが、全国値を上回り、神戸には平均より多い子供が住んでいることが分かる。また、表2-6 のデータに合わせて、図2-7 も見てみると、各区の総人口に対する各年齢区分の割合が分かる。15 歳未満が最も多いのは、西区で14.6 %、次いで東灘区の14.1% である。これらの二区は、教育の環境が良いとされており、子育てのためにこの地区を選ぶ家族も多い。そのため、他区に比べると15 歳未満が多いのではないであろうか。次に、16 から64 歳であるが、この年齢層はどの区でも60% を越えており、その中でも東灘区や中央区、西区が特に高く65% を越えている。さらに65 歳以上では、長田区が29.5% でトップになり、次いで兵庫区が27.4% 、須磨区が26.1% である。この3 区に関して言えば、4 人に1 人が65 歳以上であり、神戸市の中でも特に高齢化が進んでいる地域であるといえるだろう。この3 区の高齢化が他区と比べて進んだ原因の一つとして、人口の自然増減数の違いがあげられる。図2-8 から分かるように、長田区・兵庫区・須磨区は、ここ数年で常に減少を記録し、一方で東灘区や灘区、西区は増加を記録している。15 歳未満が増えていないことがこの3 区の高齢化を進めているのではないであろうか。

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図 2-4  年齢 (5歳階級 )別人口性比

表 2-5  各区の人口性比

(2) 神戸市の地勢的特徴 「山と海に挟まれた街」というイメージがある神戸。実際に中心部からすぐ近くに、高さ約1000 メートルの六甲山がそびえ立ち、南に下ると神戸港があり、瀬戸内海を望むことができる。このような都市は日本国内でも他に例がないとされている。六甲山と瀬戸内海は神戸を特徴付ける上で、欠かせないものであり、昔から神戸に住む人たちは、これらとともに生活してきた。六甲山から流れる水や六甲おろしと呼ばれる冷たく乾燥した風は、神戸を代表する産業である灘の生一本や神戸スイーツを誕生させることとなった。また、神戸港は、世界各国の人々や物と触れ合える機会を作り上げ、神戸の街に異国情緒あふれる雰囲気をもたらし、ハイカラで新しいもの好きの神戸人を生んだ。2 つの大きな自然が神戸の成長を支えてきたのだ。

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表 2-6  神戸市の年齢 3区分別人口と割合の推移

図 2-8  平成 24年現在の各区の人口構成

図 2-7  各区の年齢 3区分の割合

 しかし、“ 六甲山と瀬戸内海に挟まれた地域” だけが神戸ではない。図2-8 を使って、視点を神戸市全域に切り替えてみると、この地域は、2 神戸市全面積の中で、20 %ほどにしかすぎず、神戸市はこの地域以外の部分で成り立っているといっても過言ではないのである。確かに、神戸市を分けている9 つの区の内、海に面していない区が2 つ(北区と西区)がある。これら2 つの区の面積の合計は、約380㎢となり、この2 区で神戸市の面積の半分以上を占めていることになる。“ こうべ” といえば、“ 六甲山と瀬戸内海に挟まれた地域” をイメージすることが多いが、実際の神戸市は、“ 六甲山と瀬戸内海に挟まれていない地域” の方が多くの面積を占めていることがわかる。

(3) 神戸の交通事情 神戸市内や神戸市と他都市を結ぶ主な交通手段は、「道路」、「鉄道」、「海運」、「航空」である。まず「鉄道」に注目してみる。神戸市に訪れる観光客の約4 割が自動車を使ってやってくる。彼らの多くは、神戸市内を走る3 7 つの国道や4 2 本の高速道路を使って来神する。神戸市内を走る国道で、最も長いものが国道2 号線である。大阪市から北九州市までの628㎞を結ぶ国道2 号線は、日本で3 番目に長く、旧山陽道に沿って作られ、古代から現代に続く重要な交通手段として人々に活用されている。また、神戸にはある記録を持つ国道もある。それは、日本一短い国道である国道174号線だ。国道2 号線と神戸港を繋ぐために作られた国道である。 次に「鉄道」に注目する。図2-9 で分かるように、神戸と大阪を繋ぐ私鉄として、北から「阪急電鉄」「JR」「阪神電鉄」がある。3 本もの私鉄が東西に走る都市は、神戸の他に例がない。

2 2012年現在、神戸市の面積は 552.83㎢。これは、全政令指定都市の中で 9番目に大きい面積を誇り、淡路島の面積とほぼ同じである。北区・西区・東灘区・灘区・中央区・兵庫区・長田区・須磨区・垂水区から成る。3 国道 2号線、28号線、43号線、174号線、175号線、176号線、428号線4 阪神高速(神戸線、湾岸線、北神戸線、神戸山手線)、第 2 神明

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図 2-8  神戸市にある区と位置

図 2-7  兵庫県内での神戸市の位置

明治・大正・昭和にかけて、大阪に会社を興し、自宅は神戸に置くという人のパターンが多く見られた。その結果、通勤で神戸―大阪間を行き来する人が増えたため、3 本の私鉄が生まれたものと考えられる。 次は「海上交通」だ。神戸港から関西空港・高松・松山・大分・那覇・上海等に向かう定期便がある、近年では、クルーズ船も多く神戸港に入港しており、アジア圏内から数多くの観光客が神戸に訪れている。 最後に「旅客機」では、神戸空港がある。新千歳・仙台・羽田・那覇等に向かう国内6 路線がある。しかし、現在搭乗率は約7 割であり、この値は目標を下回っている。観光業の強化を目的に作られた神戸空港であったが、現在の状況をみる限りでは、その役割を果たしているとは思えないのが現状である。

第2 節 神戸の代名詞「神戸港」(1) 世界有数の港としての神戸港 神戸港は、アメリカをはじめ、ヨーロッパ、中南米、中国、韓国、東南アジアの世界130 の国と地域、500 の港と定期航路で結ばれている。貿易船のみならず、世界一周の豪華客船等も入港し、神戸港は様々な国のヒトやモノが運ばれてくる。

神戸港の歴史は古く、大輪田泊や兵庫津と呼ばれた兵庫港に始まり、当時の都があった奈良や京都へヒト・モノを運ぶことはもちろん、アジアを中心とする各国との交流の場として栄えてきた ( 詳細は、第1 章に記載) 。古代より国際港として栄えてきた神戸の港であるが、1868 年の神戸開港をきっかけにさらなる成長を遂げることとなる。「東の横浜」「西の神戸」として日本を代表する港に成長し、外国のヒト・モノ・文化が入ってきた。横浜港は北米航路が、神戸港は欧州航路が主体であったため、神戸には西洋のヒトやモノが多く輸入され、そこから西洋文化を吸収していった。また、神戸港はブラジル移民の出発地でもあった。1908 年に東洋汽船の笠戸丸が781 人を乗せて、神戸港を出港したのが始まりとされる。開港後、神戸港は飛躍的な成長を遂げ、横浜と並ぶ日本の代表港となった。その成長を支えたのが、造船業、鉄鋼業、海運業である。

造船業は、1860 年代後半から外国人の手によって行われ、1870 年頃から日本人の間でも行われるようになってくる。1870 年には、加賀藩士が石川県にあった造船工業の設備を神戸に移設して5 兵庫製鉄所を開設し、1871 年には明治政府によって官営兵庫製鉄所が作られた。これらより、当時の神戸には、政府・旧藩・外資が競い合って造船業に乗り出していたことがわかる。競争に敗れ、経営状態が悪くなった兵庫製鉄所は、1885 年に官営兵庫製鉄所に買収され、のちに6 川崎正蔵に払い下げられることになる( 詳細は、第3 節を参考) 。その後も神戸における造船業は発展をみせ、1905 年には神戸三菱造船所( 現在の三菱重工業神戸造船所) が開設し、さらなる成長を遂げることになる。

5 加賀藩を背景にしていたため、一般的には加州製鉄所を呼ばれていた。6 現在の川崎重工業や神戸新聞社等の創立者。詳細は第 3 節。

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図 2-9  神戸市内鉄道路線図

また、鉄鋼業は、1904 年の日露戦争をきっかけに鋼材の需要が増したことで、一気に広がりをみせた。1917 年に川崎造船所が鉄鋼業を行うために葺合工場( 現在のJFE スチール) を開設した。また、1905 年に開設された小林製鉄所は、開業後わずか一カ月で7 鈴木商店に買収され、神戸製鉄所と名を改めて活躍することになる。そして、造船業や鉄鋼業の拡大が、神戸港での貿易を活発化させ、海運業を育てることになっ

た。1880 年代には、灘の清酒の江戸向け輸送に携わってきた樽廻船系船主を中心に、摂州灘酒家興業(後の新日本汽船)が節室された。さらに、1907 年には8 岡崎藤吉が神戸海上運送火災保険(岡崎汽船の前身)、内田信也が内田汽船、勝田銀次郎が勝田汽船、山下亀三郎が山下汽船をそれぞれ設立して海運業へ乗り出した。内田・勝田・山下の三者は「船成金三羽がらす」と呼ばれ、花隈の料亭で札束をばらまいていた等の話が残っている。この時期の海運業の急速な成長がわかる。その後も神戸港の成長は止まらず、1950 年に戦後最高の輸出額を記録し、日本全体の輸出入

額の42 %を神戸港が占めるまでになった。1967 年に、日本初のコンテナバースを備えた摩耶埠頭が完成したのを皮切りに、神戸市は9 コンテナバースを相次いで完成させていく。それらの一つがポートアイランドのコンテナバースである。水深12 メートルという当時では他港に類をみない水深を誇り、各国からのコンテナ船が神戸港に立ち寄ることとなった。また、神戸市も積極的なコンテナ船の寄港誘致活動を展開し、その結果、外貿コンテナ取扱量は増え、 1973 ~1978 年の間神戸港は外貿コンテナ取扱個数世界一を記録した。特にアジア圏内での国際ハブ港の役割を果たし、1970 年代の神戸港は、アジアの経由地であった。さらに、神戸港は日本における10 ウォーターフロント開発の先駆的役割も果たした。その例が、

1960 年代から行われたポートアイランド(当時は世界最大の人工島)や六甲アイランドの人工島、2000 年代に建設された神戸空港、神戸・ハーバーランドに代表するモザイク周辺の開発である。 このように、世界でもトップクラスの活躍をみせていた神戸港であったが、表2-10 を見るとわかるように、1980 年代後半から始まっていた近隣アジア諸港のコンテナターミナルの急速な拡充に伴い、取扱貨物量をアジア諸港に奪われつつあった。

(2) 震災と神戸港 1995 年1 月、神戸港に悲劇が襲うことになった。阪神・淡路大震災である。震災発生直後、

7 1874年に神戸で設立され、番頭である金子直吉の優れた商才で砂糖からゴム、穀物、木材、石油、海運などと次々に手を広げ、最盛期には、三井物産に匹敵する規模になる。日本における総合商社のルーツとされる。しかし、昭和恐慌の影響で倒産することになる。(第 1 章第 4 節も参考)8 神戸銀行(現在の三井住友銀行)等を設立した岡崎財閥の基礎を築いた人物。山崎豊子著「華麗なる一族」に登場する万表家は岡崎家をモデルにしたとされ、岡崎家の豪華な邸宅跡地は、現在の須磨離宮公園となっている。9 コンテナ専用船を停泊させ、荷役などを行うための港内の所定の場所のこと。10 港湾部を使って、新たな都市開発を行うこと

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表 2-10  世界のコンテナ取扱上位港及び日本の主要港の変遷

神戸港の機能は全て停止し、神戸港の顔であったコンテナバースや港湾部も大きな被害を受けた。世界各国や日本各地から神戸港に来る船の緊急寄港地は、横浜港が最も多く、その他は東京港や大阪港に寄港した。また、ハブ港として神戸港を活用していた船の多くは、近隣の釜山港や上海港に寄港していた。しかし、約2 ヶ月後の3 月20 日に、摩耶埠頭でコンテナの積み下ろし等が再開されると、横浜港等に緊急寄港していた船が徐々に神戸港に戻ってくるようになった。さらに、2 年後の3 月31 日には全面復旧し、5 月19 日に神戸港復興宣言が出され、神戸港は震災前のような活気を取り戻すかのように思えた。しかし、表2-11 とみてもわかるように、神戸港が再び世界のトップ5 位に入ることは、2011 年現在成し遂げられていない。発展とは真逆の衰退の一途をたどっている。このような事態になった要因の一つに、震災があることは間違いない。表2-10 と表2-11 でわかるように、1994 年を機に神戸港の世界的な地位は下落し続けている。しかし、あくまでも震災は、神戸港衰退のきっかけを与えたに過ぎず、他に大きな要因があると考えられる。それが、アジア諸港の成長である。 

(3) 奪われたハブ港としての役割震災で受けた被害は、神戸港の世界的な地位に影響を及ぼしたと同時に、1990 年代初めから

始まっていた、アジア諸港のコンテナターミナルの急速な発展が神戸港のコンテナ取扱量を激減させた。表2-11 でわかるように、震災前まではコンテナ取扱量で世界第3 位の地位を誇っていた神戸港であったが、2011 年の調査では、49 位まで順位を落としている。一方で、中国をはじめとするアジア諸港が著しく発展している。何故、成長を遂げているのであろうか。その理由としてa.コンテナ整備が整っていることb.荷役サービスの時間が長いことc. 港湾使用料金が安いことなどが挙げられる。すべてにおいて神戸港は劣っており、ハブ港としての役割を担えていないのではないかと考えられる。現在、こういった問題を解決すべく、新たな港湾計画が立てられているものの、大きな成果を残しているとは考えられないのが現状である。

第3 節 神戸を代表する企業

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表 2-11  世界のコンテナ取扱上位港及び日本の主要港の変遷

神戸に本社を置く企業は平成18 年現在、大小合わせて16,568 社ある。その中でも、全国的に知名度の高い企業をいくつか紹介していきたい。(1) 活躍する神戸の企業① 川崎重工業株式会社 売上高8175 億円(単体)、1 兆2269 億円(連結)を誇る川崎重工業は、神戸に本社を置いて活動している会社の一つである。何故、神戸に本社を置いているのであろうか。それは、造船業における明治期の神戸の役割が大きく影響したものと考えられる。現在の川崎重工業の前身である、川崎造船所が創業された明治初期の神戸は、「兵庫製鉄所(後の官営兵庫造船所)」が設立されるなど近代造船業の盛んな土地であった。また、神戸の港は“ 深海で大きな船が入りやすい” という特徴を持ち、造船業において、非常に注目された土地であった。そこに目を付けた川崎造船所の創業者、川崎正蔵が1881 年(明治14 年)に川崎兵庫造船所を設立した。これが現在の川崎重工業のはじまりにあたる。また、1886 年(明治19 年)には、政府の方針により、官営兵庫造船所は、川崎正蔵に払い下げられることとなり、川崎兵庫造船所と官営兵庫造船所を合わせて、1889 年に川崎造船所が神戸に誕生した。その後、松方正義の三男である松方幸次郎が川崎正蔵の後を継ぎ、造船業のみならず、鉄道・航空・海運など様々な分野に事業を拡大していった。

現在の神戸本社にあたる当時の神戸工場で、多くの国産初の商品が誕生している。例えば、船舶の製造には欠かせない乾ドックや蒸気機関車、トラック等である。蒸気機関車は、現在では鉄道と形を変え、全国のみならず台湾をはじめとする世界数カ所に輸出されており、さらに、神戸市営地下鉄の全線で川崎重工業の鉄道が使われている。また、1931 年に誕生したトラックは、神戸工場で造られたことから「六甲号」という名称で呼ばれ、高級乗用車として宮家の方々や富豪の人、陸軍の中で使われていた。このようなことから、神戸で造られた鉄道やトラックは、どこか上品で憧れの対象となっていたようである。さらに、さきほど神戸市営地下鉄の車両でもふれたように、川崎重工業は、神戸市の行う公共

事業にも力を注いでいる。その中でも非常に大きなものとして残っているのが、1989 年に完成した明石海峡大橋である。全5 社の共同で行われた設計・建設の主契約会社として活躍し、橋桁などの設計・建設に大きく関わった。この他にも、多くの場面で川崎重工業は神戸市の成長を支え、活躍している。② ネスレ日本 1913 年に創業し、約2400 人の従業員をもつネスレ日本は、神戸に本社を置く外資系企業として最大級を誇る。ネスレ日本の所属するネスレグループは、売上高約7 兆5000 億円、社員数約33 万人の世界最大の食品メーカーである。世界でも名の知れたネスレが、日本の首都である東京等に日本法人を置かず、何故神戸という地を選んでいるのであろうか。その理由を探る上で、簡単にネスレ日本の歴史と神戸との関わりを述べておきたい。 ネスレの日本支店は、1913 年に横浜で開設され、その後1915 年に東京に移ったが、1920年には再び横浜に拠点を移した。現在の支店がある神戸に移ったのは、1922 年である。日本支店開設2 年後の1915 年頃に、日本での乳製品の製造を計画していたネスレは、三井物産を通じて行った極東練乳との提携が失敗に終わり、次なる手を考えていた。同時期、兵庫県知事であった有吉忠一市( 元ネスレ日本会長 有吉義弥の父) は、兵庫県下で優良種の牛の輸入を奨励しており、これにより、拓農家のミルクの生産量が大量に増え、兵庫県内だけでは消化しきれないという問題を抱えていた。そのような状況の中で、有吉氏はネスレが乳製品の国内生産を熱望していることを知り、交渉を持ちかけた。有吉氏は交渉の中で、「支店を神戸に置くこと」を強調し、ネスレもそれに応じた。そして、双方の抱える問題を解決すべく、ネスレと兵庫県との提携が成立した。 また、上記のような歴史的背景に加えて、さらにいくつかの理由があると考えられる。a.神戸は横浜同様、国際貿易港があり、輸出入共に問題がなく、販売網も充実しているb.外国人居留地があるため、街全体が外国文化に慣れており、新たな外国企業を迎えることに抵抗がない

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c. 都市部より比較的安価な生活コストd.海と山の自然が豊かで、ネスレの本社があるスイスのレマン湖畔に似ている以上の理由が加わり、ネスレは神戸に日本法人を置くことを決めたと推測される。(2) 影から支える神戸の企業① 増田製粉所 神戸には明治の開港以降、数多くのスイーツ店が誕生し、現在でも全国的に有名なものから、地元で有名なものまで数多く存在する。(詳細は第4 節)その神戸スイーツと呼ばれる洋菓子を支えるものがある。それが、増田製粉所の作る小麦粉「宝笠」である。神戸発祥の製粉メーカーである増田製粉所の作る「宝笠」は、神戸のスイーツ店をはじめ、全国の洋菓子店が使用する製菓用小麦粉のトップブランドである。神戸のパティシエの中では、「増田製粉所の粉でないと、商品はできない」という者も多く、神戸スイーツの中でこの小麦粉の役割は非常に大きい事が分かる。例えば、有馬名物の炭酸せんべい、伝統と格式のある宝塚ホテルの洋菓子、エーデルワイスが技術提携したベルギー皇室御用達のヴィタメールのフィナンシェ、ケーニヒスクローネのクローネにも増田製粉所の小麦粉が使われている。また、元町ケーキやボックサン、フーケ、アンリシェルパンティエにおいても増田製粉所の粉は使われている。また、神戸発ではないが、「長崎文明堂のカステラ」も同じくこの粉が使われている。このように、神戸のスイーツのみでなく、全国的に有名な洋菓子店で使用されている増田製粉所の宝笠であるが、社名を知っている人は少なく、また神戸を軸に活躍する企業であることも知られていない。第4 節 神戸の地場産業 1868 年の開港以来、神戸には様々な産業が花開き、神戸の成長を後押ししてきた。開港とともに開設された外国人居留地を通じてもたらされた様々な西欧文化に、新しいもの好きの神戸人が刺激を受け、アパレルや洋菓子、家具等の地場産業が誕生した。また、国際貿易港である神戸港が近くにあるため、ジャンルを問わず豊富な原材料の輸入や製品の輸出に有利なことから、ケミカルシューズやコーヒー、真珠加工等の産業が生まれた。これら開港に伴う現象にプラスして、第2 章第2 節で述べたように神戸のもつ素晴らしい自然が組み合わさり、日本一の清酒の産地が生まれた。しかし、現在、これらの神戸ならではの地場産業は、震災の影響やデフレ等の影響で苦戦を強いられている。本節では、神戸市が「神戸の地場産業」と示している「アパレル」「清酒」「真珠」「洋菓子」「ケミカルシューズ」の5 つに産業を絞り、各地場産業を紹介すると共に、各産業のおかれている現状を各種データより分析していく。(1) アパレル 神戸開港後、イギリスから神戸にやってきたイギリス人カペルが居留地16 番で洋服店を開いたのが始まりとされている近代洋服。神戸で始まった事にちなんで、当時は「神戸洋服」と名付けられていた。その後、神戸洋服は、オーダーメイドを得意とする産業に発展した。現在に残る神戸発信のアパレル業界の多くは、戦後になってからのものである。 1973 (昭和48 )年の「ファッション都市宣言」以降、神戸のアパレル業界は急成長を遂げ、現在までの成長に至る。中央図書館で、「神戸ファッション産業規模調査」をみて、産業規模やここ数年の動向をみる(2) 清酒 室町時代頃から始まったとされる灘の酒造り。灘五郷で造られる酒は、灘の生一本と呼ばれ全国的にも高い評価を受けている。最近では、ノーベル賞授賞式後の晩餐会で、灘の清酒である「福寿」が提供されるなど、海外においても注目を集めつつある。(3) 真珠(4) 洋菓子 神戸市には数えきれないほどの洋菓子店が存在する。総店舗数は、表2-13 より2012 年10月末現在で、335店である。神戸市同様に、洋菓子店が多いとされている名古屋市(304 店) や横浜市(298 店)と比較してみても、神戸市における洋菓子店の数が多いことが分かるだろう。表 2-13  洋菓子店舗数の比較

都市名 人口 店舗数

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神戸市 154万人 335店名古屋市 226万人 304店横浜市 369万人 298店

店舗数もさることながら、神戸には全国的に有名な洋菓子店が数多く存在する。それらの多くが神戸で生まれ、現在でも神戸を本店とするものが多い。例えば、バウムクーヘンでおなじみのユーハイムや日本でのバレンタインチョコレートの広告を初めて出したとされる神戸モロゾフ製菓( 現モロゾフ) などである。その他にも、多くの有名洋菓子店が名を連ね、それらを系統別に大きく分けると6 系統に分かれるとされている。(5) ケミカルシューズ第5 節 ソトから見た神戸(1) 神戸イメージ調査 平成14 年に行われたこの調査は、神戸のまちが神戸市以外の人々にどのようなイメージを持たれているのかを把握するために、神戸市が行ったものである。平成14 年の調査は第二回にあたり、第1 回目は、NHK の連続ドラマ「風見鶏」が放映された1977 (昭和52 )年に行われている。第1 回と第2 回の調査で出された結果を元にして、神戸のイメージを見ていきたいと思う。(調査都市・地点、調査日、及びサンプル)

調査地区・地点 調査年月日 サンプル数

東京 上野公園内都立美術館前

平成14 年11 月3 日( 祝)7( 木)8( 金)

300

仙台  JR仙台駅構内 平成14 年11 月3 日( 祝)4( 月 / 休)

300

福岡 西日本鉄道㈱天神駅構内

平成14 年11 月5 日( 火)6( 水)

300

(質問3 )「神戸のイメージ」 表2-14 より、平成14 年調査では、全体として、神戸のイメージは「港」が30.2 %と最も高く、次 いで「異国情緒」28.7 %、 「お洒落なファッション」15.6 %、 「六 甲の山と緑」11.9 %、「グルメ」5.9 %の順であった。これを昭和52 年調査と比較してみると、「異国情緒」が48.0 %から大きく減少し、「お洒落なファッション」が10.0 %から5.6 %上昇した。これにより、国際色豊かであるというイメージから洋服やファッションの街としてのイメージに神戸が変わりつつあることが分かる。この要因としては、2002 (平成14 )年の8 月に開催された第1 回神戸コレクション開催が考えられる。調査日にあたる平成14 年11 月初旬は、神戸コレクションからそれほどの年月は経っておらず、人々の意識の中に残っていたのではないだろうか。表 2-14  神戸のイメージ

グルメS52 H14 S52 H14 S52 H14 S52 H14 S52 H1419.0% 25.0% 51.0% 33.7% 11.0% 12.0% 14.0% 20.3% ― 2.0%42.0% 29.8% 33.0% 35.5% 5.0% 17.4% 13.0% 6.0% ― 6.7%

― 36.1% ― 16.7% ― 17.3% ― 9.2% ― 9.2%

港 異国情緒 お洒落なファッション 六甲の山と緑

※昭和52 年調査時は、福岡で調査をしていない。また、「グルメ」の項目がなかった。

( 質問5)「神戸ブランド」 表2-15 から、平成14 年調査によると、神戸ブランドとして最も認知されているのは、「洋菓子」の35.6 %で、次いで「神戸ビーフ」24.4 %、「ファッション」18.7 %、「灘の

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酒」8.3 %、「神戸ワイン」5.6 %の順であった。これにより、上位3 つの項目で、約8 割を占めていることが分かる。どの地点においても、神戸ブランドの認知度の上位3 項目は、1 位「洋菓子」、2 位「神戸ビーフ」、3 位「ファッション」の順で、この3 つの項目が神戸のイメージを作っているといっても過言ではないであろう。表 2-15  神戸ブランド

ファッション パン ジャズ14.1% 35.6% 22.8% 2.3% 4.4% 13.1% 0.0%17.8% 39.6% 22.1% 0.7% 1.7% 9.1% 1.3%

洋菓子 神戸ビーフ 靴 灘の酒東京仙台以上の質問項目に対する回答より、ここ数十年の間に、「神戸」といって思い浮かべるものは、

「異国情緒」あふれる街というよりも、「ファッション」や「洋菓子」などの産業を思い浮かべるようにシフトしていった事が分かる。それは、数十年前に比べ、「神戸港の成長が伸び悩み、衰退していっていること」で「神戸=港」や「港=海外」といったイメージがうすれてきたことや、「神戸コレクション」や「神戸スイーツ」等の地場産業のブランド化が進んだことが要因の一つとして考えられるのではないであろうか。(2) 住みたい街ランキング株式会社リクルートが運営する不動産、住宅サイト「SUUMO (スーモ)」が行った「住みた

い街ランキング」では、第3 位に神戸、第4 位に三宮、第10 位に岡本がランクインした。(その他の順位は、表2-16 を参照)2012 年11 月19 日の読売新聞の記事で、「住んでみたい街」と「住んで良かった街」ランキングが掲載されていた。これによると、「住んでみたい街」では、第3 位に夙川、第4 位に神戸、第5 位に岡本がランクインし、「住んでよかった街」には、神戸が第2 位であった。(その他の順位は、表2-17 を参照)これらの調査より、神戸・岡本周辺を中心とした神戸市に対する憧れがあるということが分かるのではないだろうか。

(3) 外国人が多い街平成23 年3 月現在、神戸市には総人口の約3% にあたる、129 カ国44,156 人の外国人が登

録されている。その中で最も大きな割合を占めるのが、「韓国・朝鮮」の20,516 人である。次に多いのが「中国」の14,348 人である。(その他の割合は、表2-18 を参照)また、登録者数の多い政令指定都市の上位5 位までを見てみると、神戸市は4 番目に登録者数が多いことになる。さらに、表2-19 で、総人口に対する外国人登録者数の割合では、大阪市、名古屋市に次いで3番目に位置付けている。何故、神戸市に外国人が多く集まり、暮らしているのであろうか。その答えは「暮らしやす

さ」にあると考える。第一に考えられる事は、「神戸市内に多くの外国人学校が存在する」ことだ(表2-20 参照)。現在、6 法人8 校(2012 年11 月現在)が神戸市内に校舎を設け、約2,500 人が学んでいる。また、学校数・生徒数共に、政令指定都市の中では上位を占めており、外国人に対する教育が受けやすい場所であるのではないだろうか。第二に考えられることは、「外国人コミュニティや外国人クラブが多く存在する」ことである。表2-6 が示すように神戸に

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は、外国人を対象にした団体が多く存在する。

図 2-18  神戸市の外国人登録者数内訳

韓国又は朝鮮

46%

中国33%

ベトナム4%米国

3%

フィリピン2%

インド2%

ブラジル1%

英国1% インドネシア

1%タイ1%

その他7%

表 2-19  政令指定都市の外国人登録者数( 上位5 都市)

都市名 総人口 外国人登録者数 人口に対する割合大阪市 2,654,575 人 121,550人 4.58 %横浜市 3,672,985 人 78,061 人 2.13 %

名古屋市 2,258,804 人 67,819 人 3.00 %神戸市 1,544,284 人 44,156 人 2.86 %京都市 1,467,398 人 41,123 人 2.80 %

表 2-20  神戸市内にある外国人学校

表 2-21  政令指定都市別外国人学校数

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では、神戸市に住む外国人たちは、どこに住居を構え、生活しているのであろうか。平成23年度に神戸市市民参画推進局が行った統計調査によると、最も多い区が中央区で、12,192 人で、次いで長田区の7,238 人である。何故この2 区に多くの外国人が住んでいるのだろうか。中央区に多くの外国人が住んでいる理由として考えられることは、「三宮・元町があること」「外国人学校が近くにある(交通機関を使っても通いやすい)」(表 2-20 を参照)「外国人コミュニティ、外国人クラブが多く存在すること」等だ。これらの現状をみると、外国人にとって生活しやすい環境が他の区と比べ、比較的整っているのではないかと考えられる。次に長田区を住まいとする外国人が多い理由である。その前に、まずは長田区に住む外国人の内訳に注目したい。長田区に住む外国人の7,238 人のうち、5,216 人が「韓国又は朝鮮」の人々である。この数は、神戸市全体に住む「韓国又は朝鮮」の人々の約四分の一にあたる。その理由は何だろうか。やはり考えられるのは、朝鮮学校が長田区にあるからではないだろうか。神戸市内にある外国人学校の中で最も歴史があり、そのため、古くから長田に住む韓国人が多く、コリアンタウンが出来上がっているのではないだろうか。

第 3 章 神戸の 抱え る 課題

第1 節 人工島の衰退(1) 六甲アイランド(2) ポートアイランド第2 節 相次ぐ企業の撤退(1) P&G日本本社移転(2)第3 節 観光客数減少

第 6 章 神戸の 目指す 未来

第1 章 ヒトを動かす第2 章 モノを動かす

お わ り に

参考文献

1.神木哲男・崎山昌廣(1996 )『歴史街道のターミナル』神戸新聞総合出版センター2.土居晴夫(2007 )『神戸居留地史話』リーブル出版

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3.神戸新聞総合出版センター編集、崎山昌廣監修(2010 )『神戸学』神戸新聞総合出版センター4.神戸外国人居留地研究会(2005 )『神戸と居留地』神戸新聞総合出版センター5.神戸学検定公式テキスト編集委員会編集、神木哲男監修(2007 )『神戸学検定公式テキスト 神戸学』神戸新聞総合出版センター6.神戸市(2012 )『こうべ主要プロジェクト』神戸新聞総合出版センター7.神戸国際大学経済文化研究所(2002 )『神戸都市学を考える―学術的アプローチ―』ミネルヴァ書房8.神戸市HP (http://www.city.kobe.lg.jp/ )9.神戸新聞ニュース、2012 年7 月9 日(http://www.kobe-np.co.jp/news/keizai/0005241407.shtml)10. 灘五郷酒造組合HP (http://www.nadagogo.ne.jp/ )11. 神戸市文書館HP 、灘の酒造業(http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/syuzo/syuzo.html )12. 神戸税務監督局(1906) 『灘酒沿革史』13. 関西学院大学灘酒経済史史料編纂会(1950) 『灘酒経済史集成上巻』創元社14. 関西学院大学灘酒経済史史料編纂会(1951) 『灘酒経済史集成下巻』創元社15. 公益法人神戸ファッション協会(2012) 『神戸ファッション産業規模調査』16. 三井物産戦略研究室(2008) 『変貌する世界の港湾』17. 国税庁HP18. 国土交通省HP

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